相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日本海軍 空母機動部隊小史 7:艦隊決戦構想の崩壊:ミッドウェー海戦(その2)

ミッドウェー海戦の二回目。いよいよ日米の空母機動部隊が激突します。

 

ちょっとおさらい。

MI作戦の概要

繰り返しになることを恐れずに記すと、この作戦(MI作戦)は、長期の総力戦では勝機を見いだせない日本海軍が、一時的に現出できた数的(多分、質的にも)優位の状況に乗じて艦隊決戦(この場合は空母機動部隊戦)を実施し、米海軍の戦闘力の残された片腕もへし折ってしまい、戦争継続を困難にすることを狙った作戦でした。

ja.wikipedia.org

その主役たる両軍の機動部隊と航空戦力を大雑把に比較しておくと、日本海軍が空母4隻に搭載機263機であるのに対し、米海軍は空母3隻に搭載機235機を搭載し、これにミッドウェー島の基地航空部隊137機をあわせて372機が戦闘海域に展開していました。つまり、もちろん戦闘当事者たちは正確に知る由もなかったのですが、そもそも米海軍の残存兵力(真珠湾で戦艦部隊は動けなくしたので、残るは空母部隊)の一掃を企図して実施された同作戦が日本海軍が実施前提として現出できていると信じていた「局地的(数的・質的)優位」が必ずしも実現できていなかった、ということなのです。

 

さらに言うと、日本の機動部隊は6隻の空母の集中運用(当時、これだけの空母を集中運用できたのは、可能性としては日本海軍と米海軍だけで、運用構想を持っていたのは日本海軍だけでした)による打撃力の確保を目指し編成されたもので、本来は空母2隻を含むもう一つの航空戦隊(第五航空戦隊)が編成に加わっているはずでした。つまり、MI作戦立案時点では空母6隻と搭載機約400機を根幹戦力とする編成の機動部隊が作戦に投入される予定だったわけです。しかし、先行して実施されたMO作戦に第五航空戦隊が派出され、受けた損害でMI作戦への参加が不可能になってしまっていたのでした。

 

日本海軍の作戦の「精緻」さ

この艦隊決戦構想を軸に、しかし日本海軍特有の「精緻」さが、これにいくつも枝葉をつけてしまったように見えています。

MI作戦自体ですら、そもそもが本格的なミッドウェー島攻略が付帯しています。このために南方資源地域の攻略戦を一手に担ってきた歴戦の第二艦隊(近藤中将)が動員され、陸軍の上陸部隊さえ手配されます。

さらに大きな枝葉として、AL作戦(アリューシャン攻略)が付加されます。これは東京空襲の再発を防ぐ、という狙いがあったとされますが、早期講和への道筋をつけるための「艦隊決戦」の「ついで」に実施する作戦だったのかどうか、疑問に思えます。

作戦全体の戦力配置を見ておくと、

1)潜水艦部隊(第六艦隊):米艦隊の行動への索敵線を展開します。

2)MI空母機動部隊(第一航空艦隊:南雲機動部隊):ミッドウェー島への空爆と、それに誘引され反撃に出現するであろう米空母部隊の撃滅に任じます。

3)MI攻略部隊(第二艦隊):陸軍一個連隊基幹のミッドウェー島への上陸部隊の輸送護衛、上陸作戦支援にあたります。

4)AL作戦部隊(第五艦隊、第四航空戦隊基幹の第二機動部隊):ミッドウェー島攻略に伴い、日本の前哨線は大きく前進しますのでその側方線の確保に向けて、北方アリューシャン列島方面でも前線を押し上げる作戦が展開され(陸軍一個連隊基幹)、これを支援することが任務です。

5)連合艦隊本隊(第一艦隊基幹):全作戦を総覧・指揮するために連合艦隊司令部が出撃します。(機動部隊から550キロの後方)

一見、「精緻」で重厚な配置に見えますが、実は作戦主力となるMI機動部隊(南雲機動部隊)を比較的近くから支援できる艦隊はMI攻略部隊(第二艦隊)しかありませんでした。実際に南雲機動部隊が危機に陥った際にも、即応して駆けつけられる部隊はなく、投入された戦力間の連携に対する思慮があったのか疑問です。

 

「精緻」の要件として、上記の作戦地域への艦隊の多方面展開に加え、作戦立案におけるタイムテーブルの「精緻」さ、も見ておくべきかもしれません。

例えばMI作戦の本筋であるミッドウェー島攻略を取り上げても、南雲機動部隊がミッドウェー島への空襲で同島の防御を無力化し、その二日後に同島への上陸作戦が展開されるようなタイムテーブルが組まれ、南雲機動部隊と攻略部隊本隊の距離が割り出されていました。更にこれを支援すべく、連合艦隊本隊(第一艦隊+連合艦隊司令部部隊)が続いて出撃しているのですが、このような精緻な進行計画が有効だったのかどうか、甚だ疑問です。相手が想定通りに行動してくれる、あるいは相手の力量がこちらの思惑を超えていた場合には、この予定表はすぐに齟齬をきたすわけです。

これに関連した例をもう一つ挙げるとすると、連合艦隊の指示で、南雲機動部隊はミッドウェー島空襲部隊を出撃した後、敵機動部隊の出現へに備えて対艦装備(雷装)の第二次攻撃隊を空母に待機させることになっていました。本当にこの指示が必要だったのでしょうか?二日以内のミッドウェー島基地無力化の目標を与えられながら、基地には反復攻撃を出せない状況を、この指示は作り出してしまったわけです。

ミッドウェー島攻撃隊からの「第二次攻撃の要あり」の一報により、南雲機動部隊司令部の対応の迷走が始まるわけですが、その根底には、この一見「艦隊決戦」を主眼とした「精緻」な作戦構想に基づく兵装配備に至るまでの指示があったと言えるでしょう。

史実を知る我々から見れば、この連合艦隊の兵装指示は「正しかった」と見え、一般的にはこの指示を守らなかった南雲機動部隊の指揮の不手際が責められることが多いように見受けますが、その大本がどこにあったのか、考えるべきだと思っています。

二日間という期限を切られた「ミッドウェー基地の無力化」という目標を課せられている以上、南雲機動部隊としては兵装転換を行うしかなかった、と筆者は考えます(対艦装備=魚雷で、陸上施設は攻撃できませんからね。或いは、基地攻撃は一撃だけ、という指示が合わせて出されていれば、とは思いますが、この場合には基地は放置しておくことになり、それはそれで問題がありそうです)。やはりこちらのタイムテーブル通りに敵が出現してくれる都合の良いシナリオに合わせた指示には弊害が多いと言えるでしょうね。

複数の目標を抱き合わせた、場合によっては戦力の分散までも選択肢に含む作戦立案、目標優先度の意図共有の徹底の欠如、これらは本稿でも「レイテ沖海戦」等で見てきた通り、日本海軍が内包していた構造的な、そして致命的な課題であるように考えるのですが。

 

いずれにせよ、作戦立案段階で「艦隊決戦」に向けて本来集中されるべきであった戦力が分散されます。もう少し踏み込むと、本来は作戦目標を絞り込んででも優先目標に集中投下されるべきではないのかと。

 

ミッドウェー海戦の経緯概略ja.wikipedia.orgいつもなら「経緯等は優れた記述にお任せするとして」と始めるのですが、あらあらにでも経緯を見ておいたほうが良いかと。(青字小見出し日本海軍の動き、赤字小見出しは米海軍の動きを示しています)

 

ミッドウェー島攻撃隊発進(現地時間4:30):以後()内は現地時間f:id:fw688i:20211226130903p:image

(MI作戦時の南雲機動部隊の空母群:「赤城」(上段左)「加賀」(上段右)「蒼龍」(下段左)「飛龍」(下段右))

日本時間65日午前130(4:30)、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊(友永丈市大尉指揮:零式艦上戦闘機36機、九九式艦上爆撃機36機、九七式艦上攻撃機36機、合計108機)を発進:攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日の予定で、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪うことが求められていました。

各空母からの発艦機数は、赤城から零戦9機、九九艦爆18機、加賀から零戦9機、九九艦爆18機、蒼龍から零戦9機、艦攻18機(800キロ爆弾装備)、飛龍から零戦9機、艦攻18機。このうち、この時点で四空母に残った戦力は、零戦36(各艦9)、艦爆36(飛龍18、蒼龍18)、艦攻41(赤城17、加賀26)。艦攻には航空機用魚雷、艦爆には250キロの通常爆弾が装着:つまり米機動部隊が出現した際の対応として、対艦攻撃装備で待機していました。これは連合艦隊司令部の作戦指示だったようですね。

上記の攻撃隊発進に前後して米機動部隊に対する索敵機が発進しています(4:35-5:00)

九七式艦攻2機、重巡洋艦、戦艦から水上偵察機計5機が発信する予定でしたが、対潜哨戒機の発進が優先され、索敵機の発進には微妙なズレが生じていました。

 

日本海軍機動部隊発見される(5:15)

米ミッドウェー基地の飛行艇は日本軍索敵機を発見。この索敵機の位置からたどり、5:15に南雲機動部隊を発見しました。「日本空母1、ミッドウェーの320度、150浬」と平文で報告しています。

米軍基地航空隊攻撃隊発進・母艦攻撃隊準備(6:00)

ミッドウェー基地では午前3時(06:00)に迎撃の戦闘機26機(バッファロー20機、ワイルドキャット6機)が出撃し、続いてTBFアベンジャー雷撃機6機、B-26マローダー爆撃機4機、SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機12機、SBDドーントレス急降下爆撃機16機という混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて発進しました。

 

ちょっと航空機のご紹介

(脱線しちゃってすみません。艦船模型のご紹介のブログなんですが、今回のお話では新しい艦船模型が見当たりません。せめて飛行機の模型でも、と、これは言い訳です。例によって紹介する航空機模型はすべて1:144スケールです)

F2A艦上戦闘機

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(直上の写真:筆者の手持ちストックから1:144のF2Aフィンランド空軍仕様。米海軍仕様は持っていません。F-toys ウイング・キット・コレクション Vol.9から。全長55mm 翼端長74mmの可愛いモデルです。太平洋戦争当時には既に旧式とみなされ、海兵隊等で使用されていました。一部は輸出仕様で生産され、特に写真のフィンランド空軍では大活躍)

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フィンランド軍の話はこちらでも。

fw688i.hatenablog.com

 F4F艦上戦闘機

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(F4F艦上戦闘機の概観:1:144スケールのモデルです。全幅:80mm  全長:63mm:太平洋戦争開戦当時の米海軍の主力艦上戦闘機でした。元々は海軍の次期艦上戦闘機の競争試作段階で上掲のF2Aバッファローに敗れた機体でしたが、構造の強靭さと量産性の高さから、開戦時には海軍の主力戦闘機の座に収まっていました。12.7mm機関砲を4門という強力な火力を有していましたが、航続距離と上昇力では零戦21型に大きく及びませんでした)

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(ライバル:零式艦上戦闘機21型とF4Fワイルドキャットの比較:F4Fはずんぐりしたフォルムですので随分小さいなあという印象だったのですが、こうして比較するとほとんど大きさに大差がないことがわかります)。

 

TBF艦上攻撃機

 f:id:fw688i:20211226154155p:image(TBF艦上攻撃機の概観:全幅:113mm  全長:86mm:海軍、海兵隊の太平洋戦争時の主力雷撃機です。実はミッドウェー海戦が実質上の初陣で、わすかですが基地航空隊に配備されていました。大型の燃料タンクを装備し、航続距離を伸ばすとともに、防弾性に優れた機体設計になっています。魚雷は腹部の格納槽に収納する構造でした(右下)。やがて日本海軍にとっては重大な脅威となってゆきます)

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SBD艦上爆撃機

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(SBD艦上爆撃機の概観:全幅:86mm  全長:71mm:海軍、海兵隊の太平洋戦争時の主力艦上爆撃機です。以下の経緯で次第に明らかになりますが、ミッドウェー海戦のMVPです。艦爆としては十分な爆弾積載能力と、良好な運動性能を保有していました)

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SB2U艦上爆撃機

(模型は所有していません。1:144スケールでもレジンキットは出ているようです。日本の安芸製作所というメーカーさんです。二翅プロペラがいい感じの時代感を表していますね。絶版状態?入手できるかな)

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(前出のSBDの先代の米海軍の艦上爆撃機でした。ミッドウェー海戦当時には既に旧式とみなされ、海軍の陸上基地部隊、海兵隊等の装備となっていました。後継機のSBDに比べ、爆弾の搭載量が少なく、航続距離が短い機体でした)

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B-26陸上爆撃機

(模型は所有していません。ミニクラフトから模型が出ていますね。これは比較的入手しやすそうですね。このメーカー、モデルによっては当たり外れがありそうなので、どなたか内容ご存知の方、いらっしゃれば教えてください。作り手の腕次第だろう、って?その通りなのです。だからこそ、うかがっているのですが

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(陸軍が保有した高速双発爆撃機です。高速の反面、操縦は難しく事故が多発したとも言われています。陸軍機としては珍しく胴体下に魚雷を懸架することが可能で、ミッドウェー海戦でも雷撃機として参加しています。日本海軍の一式陸上攻撃機より一回り小さい機体ですが、爆弾の搭載量などでは、約1.5倍の搭載が可能でした)

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同時に、基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は、エンタープライズスプルーアンスに対して攻撃を命令しました。アメリカ海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスエンタープライズとホーネットの攻撃隊発進を午前4時(07:00)と指定しています。

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(米機動部隊は「ヨークタウン級」空母三隻で編成されていました。航空母艦「ヨークタウン」の概観:198mm in 1:1250 by Neptun:「ヨークタウン」は艦番号「5」、「エンタープライズ」は艦番号「6」、一番就役の遅かった「ホーネット」は艦番号「8」が付与されていました)

 

ミッドウェー島空襲(6:30)

午前316分(06:16、ミッドウェー基地上空に舞い上がり日本軍空襲部隊を待ち構えていた米軍戦闘機隊は日本軍攻撃隊(友永隊)107機を発見。このため戦闘は、当初、米軍戦闘機の奇襲で始まり、先頭を飛行中の艦攻多数が被弾しました。攻撃隊護衛の零戦隊が逆襲に転じて戦闘機同士の約15分の空中戦の結果、バッファロー戦闘機20機のうち13機、F4Fワイルドキャット戦闘機6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となり、残存する使用可能機は2機になっていました。

日本軍攻撃隊は午前330分(06:30)から午前410(07:10)にかけて空襲を実施しました。ただし、前述のように基地航空機は全て上空戦闘、あるいは南雲機動部隊攻撃に発進していたため、基地はほぼ空で、基地機能を奪ったという実感は得られませんでした。

このため攻撃隊隊長(友永大尉)は午前4時(07:00)、南雲機動部隊に対し「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電しています。

この空襲で、日本軍攻撃隊は、艦攻5機(水平爆撃)、艦爆1機、零戦2機を失い、隊長機(友永大尉機)を含め艦攻16、艦爆4、戦闘機12(修理不能2)が損傷していました。

 

米軍基地雷撃隊の攻撃(7:05)

一方、午前45(07:05)、ミッドウェー基地から発進したTBFアベンジャー雷撃機6機(フィバリング大尉)と、爆弾の代わりに航空魚雷を抱えたB-26マローダー双発爆撃機4機が南雲機動部隊に襲来します。

直掩の零戦10機が迎撃し、アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜され、生還したのは一機でした。B-26は2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄されています。雷撃による損害はありませんでしたが、戦闘による通信空中線の破損で旗艦「赤城」の通信能力に支障が生じています。

 

爆装への転換指示(7:15)

午前415分(07:15、南雲司令部は第一次攻撃隊隊長の「第二次攻撃の要あり」の報告を受け、各艦で対艦装備で待機中の攻撃隊を基地への第二次攻撃に目標を変更することを決定、爆装への兵装転換を命じました。この魚雷から爆弾への転換には1時間半から2時間かかる見込みでした。あわせて燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われることになりました。

 

米第16任務部隊、攻撃隊発進(7:00)

午前37(06:07)フレッチャー少将はスプルーアンス少将に攻撃命令を出し、これを受けたスプルーアンス少将は午前4時(07:00)過ぎに攻撃隊発進を命令、第16任務部隊は次の117機の攻撃隊を発進させました。

両空母から発進した攻撃隊の詳細は以下のとおりです。

空母エンタープライズ: F4F戦闘機10機(VF-6、指揮官:ジェームズ・グレイ大尉)/ SBD爆撃機33機(指揮官:第6航空群司令クラレンス・マクラスキー少佐、VB-6、指揮官:リチャード・ベスト大尉、VS-6、指揮官:ウィルマー・ギャラハー大尉)/TBD雷撃機14機(VT-6、指揮官:ユージン・リンゼー少佐)

空母ホーネット: F4F戦闘機10機(VF-8、指揮官:サミュエル・ミッチェル少佐)/SBD爆撃機35機(VB-8、指揮官:ロバート・ジョンソン少佐、VS-8、指揮官:ウォルター・ローディ少佐)/TBD雷撃機15機(VT-8、指揮官:ジョン・ウォルドロン少佐)

 

TBD艦上攻撃機

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TBD艦上攻撃機の概観:全幅:106mm  全長:76mm:安芸製作所製のレジンキットです。Mk.13魚雷は、TBFから拝借しています。独特のフォルム、いいですねえ。魚雷の装備角度も独特です(下段)。:海軍、海兵隊の太平洋戦争時の主力艦上爆撃機です。完成当時は世界最高の雷撃機と称賛されていましたが、既に旧式化しており、先述のTBF艦上攻撃機が後継機種として配備され始めていました。特に航続距離が短く(Mk.13魚雷搭載時には700kmしかありませんでした)、かつ速度が遅く(330km)、他機種との連携が難しく、ミッドウェー海戦でも雷撃隊単独での攻撃が行われ、遅い雷撃時の速度(180km程度)も相まって実に被撃墜率83%と言う損害を出しています)

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ちょっと余談:航空魚雷の話

(下の写真は日米の航空魚雷の比較。上は米海軍の代表的なMk.13魚雷(4090mm)。下が日本海軍の91式魚雷(5270mm)。随分、長さが異なります。写真はいずれも1:144スケールのモデルの付属部品ですが、Mk.13はやや縮小し過ぎ、91式はもう少し短くても、と言う感じです。でも、お見せしておきたかったのは、一口に航空魚雷と言っても、随分設計が異なるなあ、と言うところです)

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第17任務部隊、攻撃隊発進(8:30)

さらに第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前530分(8:30)に、次からなる35機の攻撃隊を発進しました。

空母ヨークタウン: F4F戦闘機6機(VF-3、指揮官:ジョン・サッチ少佐)/ SBD爆撃機17機(VB-3、指揮官:マクスウェル・レスリー少佐)/ TBD雷撃機12機(VT-3、指揮官:ランス・マッセイ少佐)

 

索敵機の報告「敵らしき物見ゆ」(7:28)

午前428分(7:28、利根の水上偵察機が南雲機動部隊司令部に対して「敵らしきもの10隻見ゆ、ミッドウェーより方位10度、240浬 (南雲機動部隊から200浬)」と米機動部隊に関する最初の情報を発信しています。

 

米基地航空隊の波状攻撃(7:55-)

午前455分(7:55)、前述の通り6:00にミッドウェー基地を発進したアメリ海兵隊所属のSBD ドーントレス爆撃機16機が南雲機動部隊への攻撃を仕掛けました(指揮官:ヘンダーソン少佐)。母艦上空の警戒に当たっていた直衛戦闘機隊により、隊長機以下8機が撃墜され、日本艦隊に損害はありませんでした。ちなみにこの攻撃隊の指揮官の名前が、2ヶ月後、米軍が上陸占領したガダルカナル島の基地につけられています。

続けて午前510分(8:10、B-17爆撃機17機(スウィニー中佐指揮)による空襲が、そして最後に海兵隊のSB2Uビンディケーター爆撃機11機(ノリス少佐)による空襲が行われました。B-17部隊は高空からの水平爆撃で、爆撃隊に損害はありませんでした。一方、ノリス隊は攻撃時の戦闘で1機を失い、帰途2機が燃料切れで基地に戻れませんでした。

 

南雲機動部隊攻撃隊帰還・米機動部隊発見(8:30)

午前5(08:00)から午前530分(08:30にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲機動部隊上空に戻ってきています。損傷機も多く、燃料切れのおそれのある機体を多く含んでいました。

午前5時20分(08:20)ごろ、「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻(0509発信)」

午前5時30分(08:30)、「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、250浬(発午前5時20分)」

という索敵機からの敵機動部隊に関する二報が相次いでもたらされ、機動部隊司令部は兵装の選択と、攻撃部隊の発進か、帰還部隊の収容かいずれを選択するかの決断に迫られます。南雲司令部が検討すべき条件は以下のとおりでした。

1. 次の攻撃隊のうち第一航空戦隊(赤城・加賀)に待機中だった九七艦攻には、先の陸用爆弾への兵装転換の命令で陸用爆弾への換装を完了した機が少なく、再転換は比較的短時間で終わる見込み。艦船への攻撃は、水平爆撃では効果が期待できず、魚雷攻撃が望ましい。第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)の艦爆の爆装転換は短時間で行える。

2. 上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(空襲から帰還しつつある約100機)の燃料が尽き掛けており、この収容をしない場合、以後の航空作戦で使用できる機体が少なくなる。

3. 敵艦隊攻撃隊を護衛する戦闘機が、相次ぐ空襲への対応で母艦防御のためほとんど発進しており、弾薬。燃料などを攻撃隊発進前に補給する必要がある。

4. 攻撃隊発進を優先した場合、すぐに出せるのは第二航空戦隊の艦爆隊のみで、かつ、3の条件から現時点では護衛につける戦闘機が間に合わない。

それでも、第二航空戦隊司令官山口少将は、一刻を争う状況(既に基地航空隊らしき部隊からの攻撃を受けており、こちらの位置は把握されており、敵機動部隊の攻撃部隊も、間も無く到達すると判断すべき)として、あらゆることを放棄し、現装備の陸用爆弾のままですぐに攻撃隊を発進させるように、南雲長官に進言しましたが、南雲機動部隊司令部は以下の判断を下しました。

 

帰還攻撃隊の収容後、米機動部隊への攻撃隊準備(8:37-)

午前537分(8:37、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始し、午前555(8:55)、「収容後、敵機動部隊を捕捉撃滅する」と下令しています。この間、格納庫甲板では兵装の再転換、飛行甲板では帰還してくる攻撃隊の収容と格納庫甲板への収納、発進予定の攻撃隊護衛戦闘機の補給等を並行して行わねばならないわけです。

午前630分(9:30)までに完了するであろうとされた帰還部隊の収容は、午前650分(9:50)頃までかかっています。その間、第一航空戦隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前730分(10:30)発進可能との報告、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は午前730分から午前8時(11:00)に発進可能との報告が挙げられています。

 

「ホーネット」雷撃隊の来襲と壊滅(9:20)

午前620分(9:20)頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊TBDデヴァステイター雷撃機15が日本の機動部隊上空に到達。南雲機動部隊の直掩機が全機が撃墜しています。

一方、全滅した雷撃隊と一緒に発進した「ホーネット」の戦闘機隊と艦爆隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できず、ミッドウェー基地へ向かいましたが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が着水、残りのドーントレス20機はホーネットに帰艦しました。

エンタープライズ」雷撃隊の襲来(9:50)

午前650分(09:50、ユージン・リンゼー少佐率いるエンタープライズの雷撃隊14が南雲部隊上空に到達。エンタープライズの雷撃隊は「加賀」を目標にしますが9機を失い、帰還中の1機が着水、1機が損傷のため帰還後投棄されて、残存機は2機のみとなってしまいました。

「ヨークタウン」雷撃隊の攻撃(10:10)

10:10ランス・マッセイ少佐指揮のヨークタウン雷撃隊12が南雲部隊上空に到達。TBDデヴァステイター10機が撃墜され、帰還中の残りの2機も燃料切れで不時着水し全機損失してしまいます。

このように雷撃機41機の襲撃が約1時間にわたり五月雨に続きました。34機が直掩の戦闘機、あるいは対空砲火によって撃墜(83%)され、損傷や燃料切れで母艦に帰還できたものはわずか2機という状況でした。(損耗率95%!)

しかしこの五月雨攻撃の間、南雲機動部隊の各母艦は全速で急な回避行動や対空戦闘を行わねばならず、都度、艦の大きな傾斜等に晒され、格納庫甲板では兵装転換等の攻撃隊発進準備、帰還部隊の収容や補給・修理などを落ち着いて行える状況ではなかったであろうと想像できます。

そして何より、母艦直掩の戦闘機部隊や対空砲が、雷撃機の低い襲撃高度での迎撃戦闘に集中し、母艦上空に大きな防御の空白が生まれていました。

 

艦爆隊の攻撃・加賀、蒼龍、赤城被弾(10:24)

こうして機動部隊上空に防御の空白が生み出されつつある時、相次いで、クラレンス・マクラスキー少佐率いるエンタープライズ艦爆隊SBDドーントレス32機マクスウェル・レスリー少佐率いるヨークタウン艦爆隊17機が南雲機動部隊上空に到達し、攻撃に入りました

まず「加賀」がマクラスキー少佐のエンタープライズ艦爆隊の投下した4発目を被弾し、続けて3発が短時間の内に命中しました。そのうちの一発は艦橋付近に命中し、直掩機の補給用の燃料車が爆発して、艦橋にいた艦長以下、艦首脳を全滅させています。

レスリー少佐のヨークタウンの艦爆隊17機もエンタープライズ艦爆隊に続く形で「蒼龍」へ攻撃を開始し、3発の命中弾を与えています。

エンタープライズ艦爆隊のうちベスト大尉率いる一隊は本隊との連携に失敗したため、ベスト大尉とクルーガー中尉とウェバー中尉、3機のみで旗艦「赤城」に攻撃をかけ、1発を命中させました。

この間、約6分間の攻撃で、いずれも被弾数自体は多くはありませんでしたが(「赤城」はわずか1発です)、機動部隊直掩機への補給中の航空機燃料への引火で火災が発生し、あわせて格納庫甲板での爆発により格納庫に多数散在していた換装作業中の爆弾、魚雷の誘爆が引き起こされ、被弾した3空母は短時間でその戦闘能力を奪われました。

(被弾した3空母:「赤城」(上段)「加賀」(中断)「蒼龍」(下段))f:id:fw688i:20211226130900p:image

 

「どこを見れば、運命の五分間、などと言えるのか」

と、ここまでがいわゆる日本海軍側から見た第一ラウンド、と言っていいと思うのですが、ここまで長々と経緯を辿ってわかる事は、結構一方的な戦いだったのだなあ、という事でしょうか?南雲機動部隊は防戦一方と言っていいのではないかと。

珊瑚海海戦では、これは史上初の空母機動部隊同士の戦い、という事で、両軍、錯誤の連続です。不運の色合いが日本の機動部隊の方が少しだけ薄かった、そんな感じの戦いで、それまでの海戦とは異なり、全くお互いの位置の分からないまま、手探り状態での対戦となる為、索敵情報の取得スピードと質がいかに重要か、さらに互いの攻撃隊のスピードが速いので、時間がいかに重要か、その辺りの戦訓を得たはずの戦いでした。

ところがこのMI作戦では「米海軍に残された空母機動部隊という片腕」をへし折って、有効な戦闘能力を奪ってしまう、という「空母機動部隊同士の艦隊決戦」を目指したにも関わらず、自軍の機動部隊に「ミッドウェー島攻略の地ならし」という任務をも与えた為、早々と自軍機動部隊の位置が暴露されてしまい(つまり、米機動部隊は索敵というステップを省略する事ができたわけです)、一方的な攻撃に晒されるという状況に陥ってしまっていたわけです。

そして防戦に奔命する中で生まれた空白を突かれた、そんな戦いの構造が見えてきます。

さらに時間軸を整理すると、後に「運命の五分間」(=「もう少しでこちらも攻撃隊を出せる状態だった。そうなっていれば、誘爆などで部隊を失う事はなかった」的なニュアンスの込められた言葉だと筆者は理解しています)などという「惜しかった」的な感慨が、どこから出てくるんだろうかと思わずにはいられません。これを言い始めたのは、当の機動部隊の参謀長草鹿少将だったらしいのですが、魚雷をかわすために大回頭を繰り返す母艦の格納庫甲板で、換装中の爆弾や魚雷が転げ回らないように必死で押さえていた兵士達の姿を見ていたのかどうか。

加えて上記の米機動部隊雷撃隊の襲撃前の次期攻撃隊発進準備可能時間(11:00)の報告の時間を見ても、この見込みの報告の直後から約1時間、南雲機動部隊は米雷撃隊の五月雨襲撃を受け、母艦は雷撃回避行動をとるわけですから、回避行動の中で作業の手は止められ、攻撃隊の準備時間が早まる事はあり得ないのです。そして米艦爆隊の攻撃が始まったのが10:25頃ですから、とても「ほとんど攻撃隊が発艦寸前だった。あと5分あればなあ」などとは。

 

飛龍攻撃隊の反撃:艦爆隊発進(11:00)

旗艦「赤城」の被弾で、一時的に南雲機動部隊司令部は機能を失います。次席指揮官である第八戦隊司令官阿部少将が指揮をとり、残存兵力での航空攻撃を第二航空戦隊に下命しました。

これを受けて山口第二航空戦隊司令官は残余機で攻撃隊を編成します。

午前8(11:00)第一波攻撃隊として小林道雄大尉(艦爆)指揮する九九艦爆18機、零戦6機の計24が「飛龍」より発艦しました。 

午前820分(11:20飛龍の第一波攻撃隊は、米機動部隊が迎撃に上げたF4F12機により零戦3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみがヨークタウンを攻撃しました。急降下中に艦爆3機が撃墜されましたが、5機が投弾に成功し、うち3発が命中しました。

艦爆13機(小林隊長機を含む)と零戦3機を失い、艦爆5機と零戦1機が「飛龍」に帰還しました。修理後使用可能機は、艦爆2・零戦1でした。

 

艦攻隊発進 (13:30)

午前10時30分(13:30)、飛龍から第二波攻撃隊(艦攻10機、零戦6機)が発進しました。うち、零戦2機(山本、坂東)は飛龍に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機でした。

第二派攻撃隊(友永隊)の発進の直後、午前10時30分(13:45)に帰還した十三試艦爆(近藤機。「蒼龍」搭載)が、母艦(「蒼龍」)が炎上していた為「飛龍」に着艦し、索敵中に三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で発信できなかったことを報告し、第二航空戦隊司令部を驚かせました。

午前11時30分(14:30)友永攻撃は米機動艦隊を発見しました。発見したのは先行した小林隊が攻撃した「ヨークタウン」だったのですが、既に火災が消し止められ損傷部分を復旧していた為「損傷を受けていない別の空母」と判断し、友永隊はこれを攻撃することにしました。友永隊は友永中隊5機と橋本中隊5機の二隊に分かれ左右から挟撃雷撃を行います。「ヨークタウン」は直掩のF4F戦闘機16で迎撃し、友永中隊5機のうち艦攻4機と護衛の零戦2機を撃墜し、続いて艦攻1機を対空砲火で撃墜しました。一方友永隊とは別方向から橋本中隊の艦攻5機が「ヨークタウン」に雷撃を実施、魚雷2本が左舷に命中した。ボイラー室と発電機を破壊されたヨークタウンは航行不能に陥りました。

飛龍第二波攻撃隊は、艦攻5機(友永大尉の第一中隊全機)と零戦3機を失いました。

 

米攻撃隊発進(14:45)

「午前11時30分(14:30)偵察機が「飛龍」を中心に航行中の日本艦隊を発見し、エンタープライズの爆撃隊10機とヨークタウン爆撃隊11機(エンタープライズに退避中)を戦闘機の護衛なしで発進させました。(14:45)

 

「飛龍」全兵力で薄暮攻撃準備

小林隊と友永隊の残存機からの報告で、第二航空戦隊司令部は米機動部隊の2空母を撃破したと判断しています。司令部は米空母は3隻という情報を把握していましたので、これでようやく一対一に持ち込めた、とおそらく意気が上がったのではないでしょうか?

しかし、その時点で「飛龍」に搭載されている使用可能戦力は戦闘機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦偵1機に減少していました。

この戦力ではこれまでと同様の攻撃隊による強襲での戦果を期待する事は難しいとの判断で(搭乗員の疲労への配慮もあったでしょう。生き残って帰ってきた隊員に「もう一回行ってくれ」を言うには、休養も必要でしょう)、薄暮攻撃(これはこれで帰還時間等を考慮すると、困難な作戦ではあるのですが)を準備することになります。

 

艦爆隊の攻撃と「飛龍」の被弾(17:00)

「飛龍」で、薄暮攻撃前の索敵のために13試艦偵に発進命令が出た同時刻、午後2時(17:00)、艦爆のみで編成された米機動部隊の攻撃隊が、「飛龍」上空に到達し攻撃を開始します。直衛の零戦6機の迎撃と「飛龍」の操艦によって最初のエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗しましたが、続くヨークタウン隊、エンタープライズ隊の残余の攻撃で「飛龍」は4発の直撃弾を浴び、炎上しました。

こうして、南雲機動部隊は保有空母全てを失うことになりました。f:id:fw688i:20211017142628j:image

(南雲機動部隊、最後の1艦隣奮戦した航空母艦「飛龍」の概観:182mm in 1:1250 by Neptun)

 

4隻の空母の最後

加賀:午後123分(1623:戦死した艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた天谷孝久飛行長が総員退去を命じました。午後425分(1925、大爆発が2回起き、加賀は艦首と艦尾が水平になりながら沈みました。

蒼龍:被弾からわずか20分後の午前745分(10:45総員退去が発令されました。午後4時13分(19:13)に沈没しました。

赤城:爆弾、魚雷、航空機の燃料へ次々と誘爆を起こし、大火災が発生、その後午前830分(1130、南雲司令部は長良に旗艦を変更し移乗しました。午後425分(19:25)に総員退艦が発令され、66日午前150分(654:50)に味方駆逐艦による処分命令が出されました。

飛龍:午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口少将は南雲司令部に総員退艦させると報告し、飛龍が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分でした。

 

夜戦による作戦継続の検討と中止の決断

4空母を失った後、連合艦隊司令部は残存する巡洋艦・戦艦での夜戦による敵艦隊撃破と、ミッドウェー島攻略の継続を検討しますが、その後、索敵機が新たに4空母の発見等を報じ(誤認でしたが)、作戦は最終的に中止となりました。

第二艦隊第七戦隊の重巡4隻(最上級)は、空母部隊の壊滅後、ミッドウェー島攻略部隊の上陸に先駆けて艦砲射撃を行う命令を新たに受け、先行していましたが、作戦の全面中止を受けて反転、その際に米潜水艦と接触し回避行動中に「最上」と「三隈」が衝突し、両艦は速力低下を起こしました。翌朝、まずミッドウェー島基地の航空部隊から、ついで日本艦隊の夜襲を警戒して一旦東方に退避していた第16任務部隊の「エンタープライズ」「ホーネット」艦載機の攻撃を受け、「三隈」が撃沈されました。

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(直上の写真は、失われた「三隈」の属する「最上級」の概観。163mm in 1:1250 by Neptun)

 

こうして、MI作戦は終了するわけですが、今回の4空母の喪失により、空母の集中投入、つまりは6空母に搭載された雷撃機部隊を主力とし、一時的に現出できていた対米艦隊への優位な状況が崩れ、「航空水雷戦隊」による積極的な漸減戦術での「艦隊決戦構想」が立ち行かなくなってしまいます。

日本海軍が主導する「早期講和」へのシナリオが前途を閉ざされた、と言っても良いでしょう。以降の日本海軍は作戦の主導権を失い、日に日に充実してゆく米海軍の物量的優位の状況で、全く構想をしていなかった「総力戦」「消耗線」に入っていかざるを得なくなってゆくのです。

 

こうしたことに加えて、珊瑚海海戦よミッドウェー海戦の二つの本格的な海空戦を通じて空母機動部隊の運用面での課題もいくつか出てきています。

いくつか挙げておくと。

索敵面での航空機運用:これまでは主に巡洋艦等に搭載した水上偵察機による索敵が中心でしたが、速度の遅い水上機での索敵、その後の長時間の接敵には無理があることがわかってきていました。

護衛戦闘機の運用・直掩戦闘機の運用:戦闘機の役割は、前者の場合には迎撃する敵戦闘機から自軍の攻撃隊を守ことであり、後者の場合には守る対象が母艦等になるわけですが、一様に戦闘機が自身の空中戦に集中し過ぎ、ともすれば帯同する攻撃機部隊や母艦の援護位置を離れ、全体の防御に穴が生じることが多発しています。戦闘機との、あるいは戦闘機間の空中での通信と指揮系統を確立することが急務となります。

戦闘機の適性:日本海軍の艦上戦闘機零式艦上戦闘機で、その主武装である20mm機関砲の携行弾数の少なさは、当初から課題でした。加えて副武装(7.7mm機銃)の非力さも課題でした。長い航続距離がありながら、すぐに弾切れを起こしてしまう、あるいは戦いに有効な打撃力を示せない状況を起こしてしまう場面が多く見られるようになるわけです。これは敵地上空の制空でも、自軍直掩でも同様でした。特に機動部隊直掩の際には弾薬補給のための頻繁な発着艦に結びつき、母艦の飛行甲板運用とも強い関連性が生まれてくることが明らかになってきました。

航空雷撃の限界:雷撃機は雷撃時に目標に対する射線を定める運動をせねばならず、必然的に行動の自由が狭められ、敵の警戒戦闘機、対空砲火による損害が増大しています。そのリスクに見合った命中率を得られるのか、これは日本海軍が着想した「航空水雷戦隊」による漸減作戦(艦隊決戦)を成立させる上では大きな課題となってゆきます。

その他にも母艦の運用とダメージコントロールなど、空母機動部隊を運用してこその課題が現れてきていました。何せ、史上初の取り組みなので、当たり前なのですがね。さてこれらに柔軟に対応できる組織だったかどうかと言うと・・・。

さらにこれも繰り返しになりますが、日本海軍には作戦立案の過程とその実施について、目的の十分な共有や役割の認識の徹底などについて、あまりにも大きな課題が露呈していたように考えています。

それらについて解決できないうちに、あるいは課題認識さえ共有されることなく、「早期講和」による戦争終結の機会が失われていった、そのような意味で、まさにミッドウェー海戦は「転換点」であったと言えるのではないでしょうか。

 

と言うことで、今回はここまで。

今回は新しい艦船模型、全く紹介できませんでした。平にお許しを。

 

2021年はこれが多分最後です。

一年、大変、お世話になりました。「こんの面白いのかなあ」と思いつつ、読者がいてくださっているようなので、それを励みにしつつ、模型紹介の都度、いろいろな情報を取り込み勉強をさせていただいた一年でした。改めて、お礼を申し上げます。

「オミクロン」などと言う聴き慣れない用語が当たり前のように日常で使われるようになり、それに不安や違和感すら感じなくなるような、まだまだ先行き、大変不透明な状況ですが、大袈裟に言うととにかく生きてゆかねばなりません。

来年もまた元気に続けてゆきたいと考えていますので、どうかよろしくお願いします。

良いお正月をお迎えください。そして皆さんにとって良い年が明けますように。

ではまた年明けに。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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日本海軍 空母機動部隊小史 6:艦隊決戦構想の崩壊:ミッドウェー海戦(その1)

ちょっと大層なサブタイトルを付けてしまいましたが、正直に言うと、切り口が明確に見つからないままです。が、取り敢えず模型のサイトだと言う原点に立ち返って始めてみよう、今回はそう言うお話です。今回は日米両軍の参加部隊を空母紹介を中心に。次回以降、海戦の特徴等をご紹介。一応二回で行けるかな、と思っています。

ですので、サブタイトルに準じた本論的なものは、また蒸し返すかも。

 

ミッドウェー作戦(MI作戦)の構想

例によって詳細な作戦経緯等は別の優れた記述にお任せします。

ja.wikipedia.org

この作戦は、乱暴に整理してしまうと、長期の総力戦では勝機を見いだせない日本海軍が、一時的に現出できた数的(多分質的にも)優位の状況に乗じて企図した艦隊決戦だった、と言っていいと思います。

真珠湾攻撃では米太平洋艦隊の主力艦部隊(戦艦部隊)を行動不能に陥れることができたわけですが、そこで期待された米側の戦意喪失とそれに伴う早期講和(まで期待したかどうか?)の兆候は見出すことができず、逆に当面米側に残された唯一の戦闘兵力と言っていい「空母機動部隊(日本のように集中運用はされませんでした。多方面への対応があり、できなかった、と言う方が正しいのかな)」の活動は活発で、真珠湾攻撃の直後にマーシャル諸島等日本の前哨基地への激しい空襲、さらには日本側が全く予期しなかった長い航続距離を持った双発陸用爆撃機を空母から発進させ日本本土を空襲すると言う離れ業(真珠湾攻撃以上の奇襲かもしれません)をやってのけるほど、高い戦意が示されたわけです。いわゆる「ドゥーリットル空襲」ですね。(本稿でもこの映画のような作戦は取り上げています)

fw688i.hatenablog.com

では、その残された腕を奪ってしまえばいい、と言うのがこのミッドウェー作戦の狙いだった、と考えていいと思います。

この作戦の時点で、太平洋に空母機動部隊を中心とした日本海軍の数的・質的優位が一時的に形成されていた事は、おそらく事実でしょうが、もう一つ、主に国力の要因から(南方資源地域は確かに緒戦で確保されましたが、それを国力の充実に反映させるところまでは行っていませんでした。大戦の終了まで、それは実現することができなかった、と考えています。戦争しながら、と言うのは無理だったんでしょうね)日本海軍は開戦以来の半年間をほぼ予備兵力の準備なしでいわば技量抜群最高潮の「一枚看板」で戦ってきました。そう言う意味では質的にもその時点でピークにあったのですが、海軍首脳にはこの状況で持たせられるのは「開戦以降せいぜい半年か一年」と言う危機感があったのではないでしょうか?

実は例えば空母艦載機搭乗員の配置を見ても、新造空母の急速な戦力化のために「一枚看板」であったはずの「機動部隊搭乗員」の新造空母搭載機部隊への派出が始まっており、あわせて損耗による戦力の喪失も考慮すると、「一枚看板」を継続できるのはあとわずか、だと。既にミッドウェー海戦時の南雲機動部隊の搭乗員・指揮官の交代が始まっており、内々には「既に真珠湾の機動部隊ではない」とも言われ始めていたようです。

そうした要因から、この作戦は必然的に行われた、と考えています。

この構想に従い、日本海軍はほぼ全ての戦闘艦艇をこの作戦に投入します。

潜水艦部隊(第六艦隊)が米艦隊の行動への索敵線を展開します。

空母機動部隊(第一航空艦隊:南雲機動部隊)はミッドウェー島への空爆と、それに誘引され反撃に出現するであろう米空母部隊の撃滅に任じます。

ミッドウェー島の攻略部隊(陸軍一個連隊基幹)を第二艦隊が輸送護衛、作戦支援にあたります。

ミッドウェー島攻略に伴い、日本の前哨戦は大きく前進しますのでその側方線の確保に向けて、北方アリューシャン列島方面でも前線を押し上げる作戦が展開され(陸軍一個連隊基幹)、これを北方部隊(第五艦隊)が支援します。

これらを総覧するために(?)、日本海軍の主力艦部隊(第一艦隊)が後方支援として出撃します。

ほぼ、当時の日本海軍の全艦艇がこの作戦に投入された、と言っていいと思います。

 

作戦への空母の配置(日本海軍)

前述の戦闘序列に準じて、作戦に参加した空母を一覧しておきます。

作戦立案時、日本海軍は10隻の艦隊空母を保有していました。しかしMO作戦に伴い発生した珊瑚海海戦で、第五航空戦隊の所属艦のうち「祥鳳」が失われ、さらに「翔鶴」が損傷、「瑞鶴」も母艦自体は無事だったものの搭載機部隊が消耗し、結局MI作戦には参加できない状況で、稼働艦隊空母は7隻となってしまいました。これに5月に就役したばかりの商船改造特設空母「隼鷹」を加え、8隻が作戦に参加しています。

 

新生「第四航空戦隊」:北方部隊に所属し、第二機動部隊を構成

「第四航空戦隊」は開戦以来、空母「龍驤」と潜水母艦改造の補助空母「祥鳳」で編成されていましたが(戦隊として行動したことは、なかったかも)、「祥鳳」が珊瑚海海戦で失われ、代わって新造の中型特設空母「隼鷹」を加え再編成されました。同戦隊は、アリューシャン方面の攻略を担当する北方部隊(第五艦隊)に組み入れられ「第二機動部隊」と呼称され、北方における米軍の海軍拠点であるダッチハーバー空襲等の作戦の実施基幹部隊となりました。

 

まずは新顔の「隼鷹」から。

5月初旬に就役した商船改造空母「隼鷹」

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「隼鷹級」空母は、海軍が戦時に空母に改造をすることを前提に民間の海運会社に支給された補助金で建造されたサンフランシスコ航路向けの大型高速客船「橿原丸」と「出雲丸」をベースとした航空母艦です。対米関係の悪化で結局、建造途中から航空母艦として建造されることとなり、客船としては完成していません。

完成していれば、それまでの商船を遥かに凌ぐ日本最大の客船となる予定でした。

「橿原丸」は「隼鷹」、「出雲丸」は「飛鷹」と命名され、それぞれ1942年5月、1942年7月(ミッドウェー海戦後)に就役しています。

原設計の客船が24ノットの速力を有する設計だったこともあり、特設艦船としては異例の26ノットの高速を発揮することができました。また27000トン級の大型の船体を持ち、「飛龍級」空母に匹敵する船体規模と搭載機数を有していました。

また当初から空母への転用を念頭に置き、商船には異例の防御装甲が配慮された設計となっており、規模と合わせてほぼ「飛龍級」空母に匹敵する戦力となることが期待されていました。

煙突と一体化したアイランド形式の艦橋を日本海軍の空母として初めて採用した艦でもありました。同形式の艦橋は建造途中の「大鳳」、この後空母への転用が決定される「信濃」でも採用されています。

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(特設航空母艦「隼鷹」の概観:175mm in 1:1250 by Neptun: 下段右のカットは、「隼鷹」で導入された煙突と一体化されたアイランド形式の艦橋を持っていました。同級での知見は、後に建造される「大鳳」「信濃」に受け継がれてゆきます。下の写真は、「隼鷹」(奥)と「飛龍」の比較:「隼鷹」は速度を除けば、ほぼ「飛龍」に匹敵する性能を持っていました。商船を母体とするため、全般にゆったりと余裕のある設計だったとか。日本海軍は新鋭空母就役都度、既存空母の航空隊群から抽出した搭載機部隊で新たに新空母搭載機部隊を編成していました。搭載機数の定数割れには目をつぶり稼働空母数を増やすことを優先指定していたわけですね)f:id:fw688i:20211218115513j:image

ミッドウェー海戦時(1942年6月)には、「隼鷹」のみ就役し、珊瑚海海戦で失われた「祥鳳」に代わり第四航空戦隊に組み入れられていました。

 

航空母艦龍驤

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ワシントン条約の空母保有枠を意識して設計された小型航空母艦龍驤」の概観:149mm in 1:1250 by Neptun:s設計途中でロンドン条約が締結され、小型空母も条約の保有制限対象となったため、急遽、格納甲板を一段追加、いかにもトップ・ヘビーな概観となりました)

小さな船体に要求事項を目一杯盛り込んだ過重な装備から、就役直後から復原性に問題があるとされた「龍驤」はバルジの大型化、キール部分へのバラストの追加等、対策が取られましたが、乾舷の減少等、別の課題が発生していました。「第四艦隊事件」では、事故の当事艦の一隻となり、艦橋に大きな損害が発生しています。その後、船首部分を一層追加して乾舷を高める、艦首の前面形状を凌波性を意識した形状に改修するなど、対応が取られました。(モデルはおそらく最終形態です)

 

第一航空艦隊:南雲機動部隊:ミッドウェー攻略戦・支援部隊主力

第一航空戦隊・第二航空戦隊からなる、主力機動部隊で、ミッドウェー島攻略の際の航空支援の主力と、もちろん米機動部隊が出現した際には、海空戦の主力を務める予定でした。

本来は、真珠湾作戦以来の変わらぬ編成で、この二つの航空戦隊に加え新鋭空母の「瑞鶴」と「翔鶴」で構成される第五航空戦隊も加えた6隻の艦隊空母が参加する予定でしたが。先の珊瑚海海戦で「翔鶴」が損傷し修復中、かつ搭載機部隊に大きな損害が出たため、同作戦には第五航空戦隊は参加できませんでした。

 

第一航空戦隊

(下の写真:第一航空戦隊:「赤城」(上段)と「加賀」)

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空母「赤城」

ワシントン条約で建造途中での廃棄が決定されていた巡洋戦艦「赤城」を航空母艦に改造することが認められていました。当初は三層の飛行甲板を有する母艦として完成しましたが、のちに一層全通飛行甲板の本格的空母として改装されました。ja.wikipedia.org

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(一段全通甲板形態に大改装された「赤城」の概観:下の写真は竣工時の「赤城」(上段)と改装後の「赤城」の比較。「加賀」同様、中甲板の20センチ連装砲塔が撤去され、小さな艦橋が飛行甲板左舷「加賀」に比べるとやや艦の中央よりに設置されました)

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空母「加賀」

ワシントン条約で建造途中での廃棄が決定されていた巡洋戦艦「天城」を航空母艦に改造することが認められていました。改造工事の途中に発生した関東大震災で被災した「天城」に変わり、急遽やはり廃棄予定だった戦艦「加賀」が航空母艦に改造されることになり、空母として完成しました。当初は「赤城」と同じ三層の飛行甲板を有する母艦として完成しましたが、のちに一層全通飛行甲板の本格的空母として改装されました。

ja.wikipedia.org

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(一段全通甲板形態に大改装された「加賀」の概観:下の写真は三段飛行甲板形態の竣工時(上段)と、全通飛行甲板形態に改装後の比較。中飛行甲板に設置されていた20センチ連装砲塔が撤去され、飛行甲板右舷に小さな艦橋が設置されました)

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第二航空戦隊

(下の写真:第二航空戦隊の空母「飛龍」(奥)と「蒼龍」)

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(「蒼龍」(手前)と「飛龍」の概観比較:「飛龍」は「蒼龍」の拡大改良型とされていますが、基本は同型で言いきさには大差ありません。艦橋の位置の差異が目立ちますね。「蒼龍」は右舷側、「飛龍」は左舷側ですが、さらにその飛行甲板上の位置も大きな差異が見られます。「蒼龍」の場合には排気路との干渉を避けるために、前よりになっています)

 

空母「飛龍」

ja.wikipedia.org

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航空母艦「飛龍」の概観:182mm in 1:1250 by Neptun)

「飛龍」は、後述の「蒼龍」と共に中型空母として建造されました。しかし、「蒼龍」の起工直後に、日本はワシントン・ロンドン体制からの脱退を決定しており、この為本来二番艦であった「飛龍」は「蒼龍」を原型としながらもやや拡大した設計となりました。

結果20000トン(公試排水量)、エレベータ3基、速力34ノットと性能的にはほぼ「蒼龍」と同等ながら、船体の強度、凌波性の向上等に配慮された船体を持つ空母となりました。(公称は「蒼龍」と同様10000トン)

大きな特徴として、「赤城」と同様に艦橋を左舷中央に設置しています。この狙いとしては、艦首よりに設置された艦橋よりも大型艦上機の発進時(つまり飛行甲板後部から滑走を始めるわけです)に、艦首方向が大きく解放され障害になりにくい、ということが挙げられました。その他にも右舷側に突き出した煙突とのバランス、煙突の排気路を避けた搭乗員通路の設定ができ運用がスムーズになる、格納庫の形状が効率的になる、などの利点がありましたが、一方で左指向性のある(プロペラの回転方向から、左へ流れる傾向がある)レシプロ機では着艦時に障害となるなど、搭乗員側からの評判はあまり良くなく、左舷配置は「「赤城」「飛龍」の二艦に留められました。

搭載機は竣工時には常用57機補用16機計73機で、「蒼龍」と同じでした。(真珠湾作戦時には常用57機搭載)

 

空母「蒼龍」

ja.wikipedia.org

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航空母艦「蒼龍」の概観:180mm in 1:1250 by Neptun)

軍縮条約の制約を「遵守」して建造されたため「蒼龍」は公称10000トン級の小型空母、という印象が特に列強海軍にはあったようです。(ミッドウェーで「蒼龍」に命中弾を与えたパイロットは艦の大きさから「加賀」と誤認していたようです。自分が命中弾を与えたのが「蒼龍」だったと知った際に、「ああ、小型空母を見誤ったのか」と悔しがったとか)

実質は18000トン(公試排水量)の船体を持ち、エレベーター3基を装備、34ノットの高速を発揮する空母として誕生しました。二段式の格納庫を全通飛行甲板下に持ち、搭載機は竣工時には常用57機補用16機計73機とされています。

太平洋戦争開戦時(つまり真珠湾作戦)では、常用57機を運用する空母でした。

日本海軍としては理想的な中型空母と言え、建造費用、サイズ等の観点からも戦時の量産空母の雛形とされ「蒼龍」の基本設計から「雲龍級」空母が量産されています。

 

第二艦隊:ミッドウェー島攻略部隊・本隊上空哨戒

陸軍のミッドウェー島攻略部隊(一木支隊:歩兵一個連隊基幹)の輸送と上陸作戦時の地上戦闘の支援を行う目的で、第二艦隊が輸送船団を護衛していました。

第二艦隊には上空警戒支援艦として空母「瑞鳳」が配置され、上空の哨戒。護衛を努めました

艦隊補助空母「瑞鳳」

「剣崎級」潜水母艦を改造した補助空母で2隻が空母に改造されましたが、同型艦「祥鳳」は先の珊瑚海海戦で失われ、「瑞鳳」のみ第二艦隊に配属されていました。

ja.wikipedia.org

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航空母艦「瑞鳳」の概観:164mm in 1:1250 by Trident)

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(上の写真は、潜水母艦形態と航空母艦形態の比較。エレベーターなどが最初から組み込まれていたことがよく分かります。後部のエレベータ:上の写真では船体後部のグレー塗装部分:は潜水母艦時代には、エレベータは組み込まれたものの、上に蓋がされていたようです。:「剣崎級」潜水母艦は、筆者の知る限り、1:1250スケールでは市販のモデルがありません。上の写真は筆者がセミ・スクラッチしたものです。「瑞鳳」の母体となった「高崎」は前述のように潜水母艦としては完成されないまま航空母艦になりましたので、潜水母艦としての「高崎」は結局存在していません。モデルは「剣崎」の図面(こちらは潜水母艦として完成しています)に従ったもの。後に空母「祥鳳」に改造されています。という次第で、形態はあくまでご参考という事でお願いします)

 

第一艦隊:連合艦隊本隊:上空哨戒

ミッドウェー攻略機動部隊、攻略部隊本隊(第二艦隊)の後方には、作戦総指揮にあたる連合課隊司令部をのせた第一艦隊が後続していました。第一艦隊は戦艦部隊を基幹戦力とする艦隊で、同艦隊の上空警戒艦として、空母「鳳翔」が帯同していました。

空母「鳳翔」

多分に実験的な性格を帯びた小型空母でした。黎明期の空母と言え、太平洋戦争開戦時には既に旧式で、新型の艦上機の運用には必ずしも適性を有していませんでした。ミッドウェー海戦時にも零戦ではなく旧式の96式艦戦を、対潜哨戒機として97式艦攻ではなく複葉の96式艦攻を搭載していたとも言われています。

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(太平洋戦争初期の「鳳翔」概観 by Trident:アイランド形式の艦橋は撤去され、飛行甲板下の最前部に移動しました。煙突は倒された状態(下段右))

 

巧緻(?)な作戦計画と部隊配置

こうして見ると、同作戦に日本海軍は当時の可動航空母艦の全てを投入しています。(当時就役していて参加していないのは特設空母「大鷹」のみですが、同艦は商船改装の低速空母で、当時は南方作戦で拡大した南方戦線への航空機輸送の任務にあたっていました)。もっとも、冒頭にご紹介したようにミッドウェー作戦には空母だけでなくほとんどの可動戦力を投入したのですが、どうも日本海軍の作戦には開戦以来、巧緻な戦力配置が常態化しているような気がています。

開戦時には、限られた戦力で、艦隊決戦の前哨戦とも言える米主力艦隊を対象とした「航空水雷漸減作戦」である真珠湾攻撃と、南方への進出支援の両方を速やかに行わねばならず、巧緻な戦力配置が必要かつ重要でした。

それがそのまま、第二段作戦の緒戦であるMO作戦(ポートモレスビー作戦)前後にも規模を縮小して継続されているような気がしています。例えばポートモレスビー攻略とほぼ同時期にツラギ進出、ナウル占領などに兵力を派出しています。立案には緻密なプランニングを行う高い能力が必要なのですが、一方で最小兵力で最大効果を狙う、と言ういかにも日本的な作戦嗜好が次第に顕著さを増してくるような気もしているのです。ボードゲーム的な面白さ(と言うと少し事柄が単純化されすぎるような気もしますが、敢えて)に、現実が引っ張られている、そんな気がしています。

日本人は「柔道が好き=柔よく剛を制す」とか、「義経」の戦術が好き、「信長」の桶狭間が好き、のような「奇手好み」(ちょっと言い過ぎかな)が色濃く現れるような、「そこが作戦参謀の腕の見せ所でしょう」となかなか「兵力の集中」などの当たり前の正論を言いにくい空気が生まれくるような、そんな気が、本稿を書き始めて改めて強く感じ始めています。

 

一例としては、何故、MI作戦に投入される予定だった第五航空戦隊をMO作戦に派出したのか。

作戦の重要性から言うと、戦争の帰趨を決定することを意図したMI作戦(残存艦隊戦力である米空母機動部隊の排除と早期講和への道の開削)と、新たに手に入れた南方拠点であるラバウル外郭の強化(そもそもラバウル獲得も中部太平洋の拠点であるトラックの外殻強化であったはず)、あわせて米豪遮断の一手であるMO作戦のどちらが重要か、これは明らかだと思います。MI作戦が成功し戦争を終結に導く方向が定まれば、MO作戦の目的は不要になるわけですから。しかも第五航空戦隊はMI作戦でも基幹部隊の重要な一翼を担うはずだったわけで、そもそもMI作戦が勝機の無い総力戦を回避するための日本海軍に訪れた一時的な数的・質的優位に乗じた作戦であることが明らかならば、MO作戦の優先度を下げてでもMI作戦の前提条件を守ことに集中すると言う結論を出すべきだったのではないかと思うのです。

 

さらにはMI作戦等並行して実施されたAL作戦への第二機動部隊(空母「龍驤」「隼鷹」)の派出もあげていいかもしれません。特にMO作戦実施後に第五航空戦隊の作戦参加不可がはっきりした後にも、なぜこの派出が行われたのか。むしろAL作戦の並行実施自体を見送るべきではなかったか。一時的な数的・質的優位へのこだわりがもっとあるべきだったと考えるのです。

 

あわせてさらに疑問なのは、なぜ第一艦隊(当時の連合艦隊主隊、ですよね)が出撃しながらも後方に拘置されているのか。作戦総指揮を執る目的なら、当然、もっと機動部隊に近い方がいいでしょうし、例えば機動部隊に帯同するには機動力不足、なら、そもそも連合艦隊司令部が第一艦隊に座乗しているべきではなかった、と言うことになるのではないか、とも思われます。

 

とまあ、どうしても結果を知るからこその、後知恵作戦批判にはなってしまいます。勝機は本当になかったんだろうか。どうしてもそう考えてしまうのは、日本人だから、なのですかね。

 

米艦隊の対応と空母配置

この日本海軍が始動したMI作戦に対し、米海軍が暗号解読等を通じて実施時期・目的地等をかなり正確に把握していたことは知られています。

しかし一方でほぼ全海軍を動員して出撃してくる日本艦隊に対し、米海軍としては使える戦力が空母部隊しかなく、しかもこの時期に作戦参加が可能だった空母はハルゼーが率いて東京空襲作戦(ドゥーリットル空襲)を実施した直後の「エンタープライズ」と「ホーネット」しかありませんでした。

太平洋艦隊の空母部隊の主力だった「レキシントン 級」空母のうち「レキシントン」は珊瑚海海戦で撃沈され、「サラトガ」は日本海軍の潜水艦の雷撃で損傷し本土で修理を完了した直後で、搭載機部隊のみハワイに駐留していました。

 

残る一隻の空母「ヨークタウン」は、沈没した「レキシントン」 とともに参加した珊瑚海海戦で日本空母艦載機の襲撃で損傷し、真珠湾で修理を始めたばかりでした。

「ヨークタウン」の修理には当初90日以上必要と言われましたが、緊急の状況下で応急修理なら2週間、さらにこれを3日で間に合わせられるところまでで良い、と言う妥協のもとで再出撃可能となりました。珊瑚海海戦で損耗した搭載機部隊は前述のハワイで訓練中の「サラトガ」の艦載機部隊に交代し、こうして都合3隻の「ヨークタウン級」空母を全て投入することとなりました

空母「ヨークタウン」(ヨークタウン級航空母艦) 

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航空母艦「ヨークタウン」の概観:198mm in 1:1250 by Neptun:同艦は「ヨークタウン級」のネームシップで、飛行甲板に表示された「5」は「ヨークタウン」の番号でした)

ワシントン・ロンドン体制下で建造された米海軍初の(と言い切っていいと思います)本格的艦隊空母です。ワシントン・ロンドン両条約の空母保有制限枠から算出された最大枠25000トンの船体を持ち、太平洋戦争開戦時には米艦隊の主力空母群をを構成していました。

ミッドウェー海戦に参加した三隻の米空母「ヨークタウン」「エンタープライズ」そして「ホーネット」は全てこの艦級に属した同型艦でした。

 

この三隻の空母は2群の空母機動部隊に分けられ、「ヨークタウン」は第17任務部隊としてフレッチャー少将が率い、「エンタープライズ」と「ホーネット」は第16任務部隊としてスプルーアンス少将が率いて出撃することになりました。第16任務部隊の指揮官は開戦以来ハルゼー中将で、彼の指揮下でウェーク島空襲を実施、その後、空母ホーネットを基幹戦力として発足した第18任務部隊を指揮下に吸収し「東京空襲」を実施。珊瑚海海戦では、第17任務部隊を吸収して指揮に当たる予定でしたが、戦場へ到着前に海戦が終了して統合指揮はかないませんでした。ハルゼーはミッドウェー海戦直前に皮膚病を発症して入院し、第16任務部隊の護衛部隊(巡洋艦部隊)指揮官であったスプルーアンスが第16任務部隊の指揮を引き継ぐことになりました。

 

両軍の作戦参加兵力

両軍の参加兵力をまとめておきます。

 

日本艦隊

前哨部隊:第六艦隊基幹

軽巡洋艦1隻・潜水艦23隻・潜水母艦5隻

北方作戦部隊(AL作戦部隊):第五艦隊基幹

空母2隻「龍驤」「隼鷹」(搭載機:艦上戦闘機27、艦上爆撃機15、艦上攻撃機21:計63)

重巡洋艦3隻・軽巡洋艦3隻・駆逐艦11隻・潜水艦6隻

ミッドウェー作戦支援機動部隊:第一航空艦隊基幹

空母4隻「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」(搭載機:艦上戦闘機84、艦上爆撃機84、艦上攻撃機93、艦上偵察機2?:計263)

戦艦2隻・重巡洋艦2隻・軽巡洋艦1隻・駆逐艦12隻

ミッドウェー攻略部隊:第二艦隊基幹

空母1隻「瑞鳳」(搭載機:艦上戦闘機15、艦上攻撃機9:計24)

戦艦2隻・重巡洋艦8隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦21隻・水上機母艦2隻

(ミッドウェー島上陸部隊として、海軍陸戦隊・設営隊約3000名と陸軍部隊約2000名を載せた18隻の輸送船を共なっていました)

主力部隊:連合艦隊直卒部隊:第一艦隊基幹

空母1隻「鳳翔」(搭載機:艦上戦闘機9、艦上攻撃機6:計15)

戦艦7隻・軽巡洋艦3隻・駆逐艦18隻・水上機母艦2隻

 

アメリカ艦隊

第16任務部隊

空母2隻「エンタープライズ」「ホーネット」(搭載機:艦上戦闘機54、艦上爆撃機76、艦上攻撃機29:計159)

重巡洋艦5隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻

第17任務部隊

空母1隻「ヨークタウン」(搭載機:艦上戦闘機25、艦上爆撃機37、艦上攻撃機14:76)

重巡洋艦2隻、駆逐艦6隻

ミッドウェー島航空隊

海軍航空隊(飛行艇32、艦上攻撃機6:計38)

海兵隊航空隊(艦上戦闘機27、艦上爆撃機27:計54)

陸軍航空隊(陸上双発攻撃機26、重爆撃機19:計45)

(その他魚雷艇等哨戒用の小艦艇14隻とミッドウェー島守備隊約3000名)

 

こうして参加兵力を比較すると、日本海軍が米海軍を圧倒しているわけですが、前述のように日本海軍の北方作戦部隊(AL作戦部隊)は遠くアリューシャン方面に展開しており、南雲機動部隊に次ぐ航空兵力を持ちながらもミッドウェー作戦には直接関与ができません。あわせて連合艦隊直卒部隊も最大速力で駆けつけても最低1日の行程がかかる後方にいたわけです。

つまり日本海軍の機動部隊のみで米基地部隊と機動部隊を相手にするわけですから、航空機の総数で言うと、日本海軍263機(第二艦隊の「瑞鳳」を加えても287機)+若干の艦載水上偵察機で母艦搭載機235機と基地航空機137機、計370機あまりと対峙せねばならなかったわけです。こうしてみると今回の冒頭で記述したこの作戦の実施に向けての前提であった数的・質的優位が必ずしも実現できていたわけではない、と言うことに改めて気づかされました。

 

と言うことで、今回はここまで。ミッドウェー海戦を理解するための準備段階、と言うような回となりました。次回は海戦の経緯に触れながら、もう少しあれこれと考えてみたいと思います。(うーん、艦船模型は出てこないかも、どうしようかな)

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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日本海軍 空母機動部隊小史 (番外編):空母艦載機の話(その1)

最初にお詫びと言い訳を。

またまた「ミッドウェー海戦」の本論には入りません(入れません、が正確ですね)。どうも切り口が見つからないのです。で、色々と迷っているうちに、艦載機が気になり始め、そちらの情報整理とコレクションの整理を始めてしまった、という訳です。

それで今回は空母機動部隊の太平洋戦争開戦当初の搭載機のご紹介、今回はそういうお話です。

 

と、ちょっとその前に、本稿前回でご紹介した「機雷敷設艦艇」関連でアップデートがありますので、そちらをまずご紹介(今回はこれ以外に艦船模型、出てこないので)。

 

「神島級」敷設艇の制作

本稿前回では「測天級」敷設艇のセミ・スクラッチのお話を紹介しています。

 「測天級」敷設艇(同型15隻:1938-終戦時4隻残存)  f:id:fw688i:20211205144448p:image

(上の写真は「測天級」敷設艇の概観:59mm in 1:1250 by Tremoの水雷艇モデルをベースにしたセミ・スクラッチ:「測天級」は40mm連装機関砲を主兵装としていましたが、同機関砲は特に対潜水艦戦で有効ではなく、6番間以降、8センチ高角砲を主砲として搭載しています。この艦級は「平島級」とされることもありますが、ここでは「測天級」の第二グループとしています)

「測天級」敷設艇には市販モデルがなさそうなので、ではストックしているモデルをベースに作ってみましょう、というお話だったのですが、その最後に、同型の水雷艇のモデルがストックとして残っているので「測天級」の次級である「神島級」敷設艇も作ってみようか、と結んでいました。

「神島級」敷設艇にはOceanic社からモデルが出ている、という情報はあるのですが、これまでお目にかかったことはありません(日本海軍の700トン級の敷設艇ですから、おそらく生産量もごく少数でしょうし、流通もしていない、というのは納得できますね)。

ということで、やはりセミ・スクラッチにトライしました。

 

 「神島級」敷設艇(同型2隻:1945-終戦時に2隻とも残存) 

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(上の写真は「神島級」敷設艇の概観:59mm in 1:1250 by Tremoの水雷艇モデルをベースにしたセミ・スクラッチ:「神島級」はいわゆる戦時急造艦であるため、直線的な艦首形状等、建造工程の簡素化に留意された設計となっています。主兵装は40mm単装機関砲2基でした)

本土防衛のために「測天級」の簡易版として急遽建造された艦級です。計画では9隻の建造が予定されましたが、実際には3隻が着工し、1隻が建造中止、「神島」のみ1945年7月に就役しました。「粟島」は艤装中に終戦を迎え、終戦後に復員輸送船として就役しました。戦時急造艦であったため、海防艦に似た直線的な艦首形状を持ち、機関にも海防艦と共通のディーゼルが採用されています。(766トン、16.5ノット、主兵装:40mm単装機関砲×2・25mm連装機銃×3他)

 

少しだけ制作過程の話

前回ご紹介した「測天級」も今回の「神島級」も、同一の水雷艇のモデルをベースにしています。

ベースに利用したモデルがこちら。f:id:fw688i:20211205140758p:image

全長68mmの水雷艇のモデルです。おそらくアメリカのSuperior社製です。Superior社のモデルはスケールが1:1200とされています。従って1:1250のコレクションに混ぜてしまうと少し寸法が大きく見えてしまいますので要注意です。しかし第二次世界大戦期の艦艇を中心にラインナップが充実しており、特に未成艦・計画艦などのいわゆる「IFモデル」が豊富に揃っています。筆者がクオリティで一押ししているNeptun社などヨーロッパの1:1250モデルのほとんどは彩色済みの完成モデルで供給されているのですが、同社のモデルはダイキャストの地色のまま未彩色のモデルで入手することができ、そういう意味では制作する(と言っても彩色がその中心になりますが)楽しみを味わうことができ、実は筆者もコレクションの初期はSuperior社のモデルからのスタートでした。しかも未彩色である分、安い価格で入手できます。

「Superior派」は一大勢力を形成しています。

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少し話がそれましたが、このSuperior社製の水雷艇をベースに、セミ・スクラッチを行います。

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まず、船体上部構造物を全て撤去(中段)。次に艦首形状の修正(ベースのモデルはダブルカーブドバウ的な船首形状をしているので、直線的な形状に修正しています)。そして全体の長さの調整と艦首楼を短くする加工を行います(中断写真の墨入れラインが艦尾部のものは全体の長さ調整の目標ライン、艦首楼の墨入れラインが艦首楼長の調整目標のラインです)。全体の長さ調整は単に切断し、艦尾形状を若干調整する比較的単純な作業ですが、艦首楼長の調整は、筆者の場合にはひたすら「ヤスリがけ」を行うのみです。船体は正確な名称がわからないのですが、ホワイトメタル的な比較的柔らかい素材ですので、金属用のやすりで容易に整形ができます。上部構造物の撤去も仕上げはやはり「ヤスリがけ」です。作業自体は単純で難しくはないのですが、長さ70ミリ弱、幅10ミリ程度の小さな物を対象とするので、結構指が疲れる作業です。

で、完成したのが下段の写真。これに新たに設定してゆく上部構造物の位置を墨入れしてゆきます(下段写真は墨入れ後の状態)

あとはこの上部構造物に使えそうなパーツをストックから探し、見当たらないものはプラパーツなどで製作し、最後に彩色をして完成です。

注意点:金属片が飛んだり散らばったりするので、作業スペースを大きめの箱などで区切っておいたほうが良いですね。そうしないと・・・。

というような工程で、冒頭の「神島級」敷設艇の完成です。

(下は「測天級」敷設艇と「神島級」敷設艇の『比較:ほぼ同じ大きさの2艦級でしたが、上部構造の配置や艦首の形状が異なっていました。)f:id:fw688i:20211212141044p:image

 

空母艦載機の話

空母機動部隊小史を書いていると、やはり搭載している航空機の話が気になってきます。特に、「珊瑚海海戦」の頃から、未帰還機の数が増え、運用方法、武装などに思いを及ばせる機会が増えると、どうしてもその機体そのものについて情報が欲しくなってきてしまいます。

幸い、筆者は1:144スケールでの航空機の一部にはコレクションを持っているので、少しこちらをご紹介しつつ、空母搭載機の話を。

 

太平洋戦争初期の空母搭載機

太平洋戦争開戦時の空母艦載機の主力は以下の3機種でした。

零式海上戦闘機21型

99式艦上爆撃機

97式艦上攻撃機

これらの他に96式艦上戦闘機、96式艦上爆撃機、96式艦上攻撃機等も使用されてはいましたがごく少数でした。

このうち零式艦上戦闘機については、後継機が実用化できず、太平洋戦争全期を通じて主力艦上戦闘機として使われ続けたため、形式が多岐に渡ります。そこで敢えて21型と形式を記載しています。

 

零式艦上戦闘機(21型)

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正式名称からも明らかなように、太平洋戦争開戦(1941年=昭和16年皇紀2601年)の前年(1940年=昭和15年)に正式採用された戦闘機です。3000キロを超える航続距離を持ち、重武装(20ミリ機関砲)と優れた運動性で、おそらく開戦当時は最優秀の戦闘機の一つと言っても良い存在でした。

21型は、中国戦線で中国空軍を相手に鮮烈なデビューを果たした試作型ともいうべき11型をベースに空母への着艦装備など付帯して、本格的な艦上戦闘機として量産されたものです。空母での運用を考慮して翼端を折り畳めるようになりました。3500機余が生産されました。

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(上の写真は「零式艦上戦闘機」21型の概観:空母搭載を想定し、翼端が折りたためるようになっていました:余談ですが写真はエース坂井三郎氏の愛機を再現したもの:1:144 全幅83mm 全長62mm:ちなみに下の写真は21型のベースとなった11型:空母搭載用の装備は搭載されておらず、中国戦線で活躍しました。64機が生産されました)

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武装と長い航続距離、高い運動性、これを経験豊富なパイロットが操縦して猛威を振るった21型でしたが、課題もいくつか明らかでした。その主機関砲であった20ミリ砲は装弾数が60発(各砲当たり)しかなく、制空任務でも防空任務でも戦闘が激しくなるにつれ十分ではなくなってきていました。この辺り、「ミッドウェー海戦」でも日本海軍の空母運用の難しさの一因になったと考えています。

 

一応、開戦時のライバルもご紹介。

F4F:グラマン・ワイルドキャット

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太平洋戦争海戦当時の米海軍の主力艦上戦闘機でした。元々は海軍の次期艦上戦闘機の競争試作段階でF2Aバッファローに敗れた期待でしたが、構造の強靭さと量産性の高さから、開戦時には海軍の主力戦闘機の座に収まっていました。12.7mm機関砲を4門という強力な火力を有していましたが、航続距離と上昇力では零戦21型に大きく及びませんでした。

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(F4F艦上戦闘機の概観:全幅:80mm  全長:63mm)f:id:fw688i:20211212110756p:image

零式艦上戦闘機21型とF4Fワイルドキャットの比較:F4Fはずんぐりしたフォルムですので随分小さいなあという印象だったのですが、こうして比較するとほとんど大きさに大差がないことがわかります)。

 

99式艦上爆撃機(11型)ja.wikipedia.org

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(上の写真は「99式艦上爆撃機」の概観:この写真では判然としませんが空母搭載を想定し、折りたたみ式の翼を装備していました。:1:144 全幅**97mm 全長72mm)

1939年(昭和14年)正式採用された海軍初の全金属艦上爆撃機で、開戦時の空母機動部隊の主力艦爆でした。真珠湾攻撃からインド洋作戦等にかけて、熟練した搭乗員が充実している時点では大活躍していました。

しかし、米空母との機動部隊戦が始まると、米海軍のSBD(ドーントレス)に比べ速力が遅く(SBDは約30キロ優速)、爆弾搭載量でもおとり(SBDは500キロまで搭載可能:99式は250キロ+60キロ2発(?))、しかもSBDは装甲防御が施されていて攻撃時の対空砲火に対する生存性がかなり異なりました。

既に開発途上の昭和13年には次期艦上爆撃機の試作が始まられていましたが、採用予定の液冷式エンジンの生産性と洋上整備の課題等から生産が遅れ、長く第一線に留まらねばなりませんでした。加えて、後継となった次期艦上爆撃機「彗星」の着艦速度が速く小型空母での運用ができなかったところから、一部では爆装した零式艦上戦闘機艦爆任務を置き換えざるを得ないなどの状況が発生しました(この辺りはまたいずれ「彗星」のご紹介の際にでも)。

初期量産型の11型が476機(「ミッドウェー海戦」当時空母に搭載されていたのはこちらです)、1943年採用の速度向上型の22型が1036機生産されました。

 

97式艦上攻撃機

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(上の写真は「97式艦上攻撃機」の概観:この写真では判然としませんが空母搭載を想定し、折りたたみ式の翼を装備していました。:1:144 全幅104mm 全長72mm)

「海軍初の実用に耐える艦上攻撃機」と言われた96式艦上攻撃機は、まだ複葉機だったのに対し、速くも翌年、日本海軍は97式艦上攻撃機を採用します。同機は海軍初の低翼単葉全金属航空機で、96式艦上攻撃機の速度よりも100キロ以上の有速を発揮することができました。

この機体を開発できたことと、高速での投下に耐えられる91式魚雷の開発、さらに大型の艦隊空母を6隻揃えることができた、いわゆる3点セットの完成が、空母の集中運用、つまり空母機動部隊構想を実現し、ひいては日本海軍に対米戦開戦を決意させた、とも言われています。

それまで日本海軍の艦隊決戦構想は、「潜水艦による攻撃」「水雷戦隊による夜襲」「基地航空機の攻撃」等、いわゆる前哨戦で来攻する米艦隊主力艦部隊を削り取り主力艦決戦での数的劣勢を少しでも補うという「漸減主義」でしたが、この構想の弱点は「敵艦隊の来航を待たねばならない」という点にあり、戦いのイニシアティブは常に敵方にある、という点でした。これに対し、「三点セット」の成立が積極的な「漸減作戦」をとること(来航を待たずこちらから仕掛ける)を可能にしたわけです。

もう一つ注目すべきは、これら「漸減作戦」の成立要素がいずれも「魚雷」による攻撃、出会ったという点でしょう。つまりこの構想においては、「空母機動部隊」は「機動航空水雷戦隊」であった、と言っても良いのではないかと考えるのです。

そしてこの構想は「真珠湾攻撃」として実現するわけです。

97式艦上攻撃機はそれほど運命的な航空機であった、と筆者は考えるのですが、いかがでしょうか?

太平洋戦争開戦後も雷撃機としての優秀さは健在で、例えば「ミッドウエー海戦」では米海軍の開戦時の雷撃機TBD(デバステーター)が180キロ程度の速度で雷撃を行ったのに対し、97式は330キロ以上の速度での雷撃を行い、米海軍を驚かせています。

しかし一方で航空雷撃は速度に関わらず高い損耗率を覚悟せねばならないことが、本稿でも「ミッドウェー海戦」で明らかになるでしょう。

97式艦上攻撃機は大戦中に1500機余が生産され、大戦中期以降は速力が劣ることから主役を「天山」等の後継機に譲りますが、小型空母等からの運用が可能で、輸送船団の周辺哨戒等の任務に使われ続けました。

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日本海軍空母機動部隊の開戦時の艦上機トリオ:左から「零式艦上戦闘機21型」「99式艦上爆撃機」「97式艦上攻撃機」の順。それぞれ課題がありながらも、開戦時から6ヶ月は猛威を奮いました)

 

ということで、ざっと太平洋戦争初期の空母艦載機を見てきました。

 

 

以下、ついでに写真を撮ったので、いくつか航空機(今回は日本海軍機に重点を置いて)のモデルをご紹介しておきましょう。

 

零式艦上戦闘機の諸形式

これらはいずれ「空母機動部隊小史」の中でも改めてご紹介することになると思いますので写真のみ。(詳しくお知りになりたい場合には、下のリンクを)

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零式艦上戦闘機32型

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零戦32型の概観:全幅:78mm 全長:63mm: 左下段は、32型の角形翼端と21型の折りたたみ式翼端の比較)

従来の零戦21型の性能向上を狙い、しかし国内では適当なエンジンが見当たらず、かつ後継機種の開発にも難航していた海軍は、零式艦上戦闘機に搭載されていた「栄12型」エンジンの改良型「栄21型」を搭載し、さらに零戦21型の折りたたみ式翼端を切り詰めて速度向上を狙った機体を開発します。さらに課題であった20ミリ機関砲の装弾数を各銃60発から100発に増加しています。速度と運動性(特に横ロール?)は向上しましたが、翼設計の変更で航続距離が減少し、折からガダルカナル戦等、航続力を必要としていた現地部隊からは不評で、383機しか生産されませんでした。

 

零式艦上戦闘機22型

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零戦22型の概観:翼端は再び折りたたみ式に(右下))

32型の航続距離減少が現地部隊で不評であった為、急遽、翼端の形状を21型に戻した形式が開発されました。さらに後期型(22型甲)では20ミリ機関砲を初速の速い長砲身砲に変更し、弾道性を改善しています。560機が生産されました。

 

零式艦上戦闘機52型

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零戦52型の概観::全幅:78mm 全長:63mm: 再び短縮された翼端は32型の角ばった形状と異なり丸みを帯びています。エンジン周りでは、速度向上を狙った「推進式単排気管」が目立ちます)

ガダルカナル戦闘の終結以降、航続力に対する要求は次第に低くなり、一方で高まる速度、運動性に対する要求に対応する為、再び翼端を短縮した形式の機体が採用されました。一方でエンジンは排気を推進力として活用する「推進式単排気管」が採用され速度向上が図られました。

52型には併せて武装強化が検討され派生系が生産されています。52型甲では20ミリ砲の装弾数が125発(各銃)に増やされ、52型乙では非力が課題となった機首の7.7ミリ機銃の片方を13.2ミリ機銃に換装し、火力が強化されています。52型丙では、7.7ミリ機銃を全廃して、代わりに機首に13.2ミリ機銃一丁、左右各翼内に従来の20ミリ超砲身機関砲に加え13.2ミリ機銃を搭載し、火力を大幅に強化しています。

これらの派生系も含め約6000機が生産されています。

 

零式艦上戦闘機53型・54型系統

(写真なし:いずれはセミ・スクラッチか?)

これまで紹介した形式以外にも、防弾タンク装備の試作型53型、エンジンを長らく出力不足を課題とされていた1000馬力級の「栄」系列から1500馬力級の「金星」に換装した試作型54型/64型等がありました。

この中で最後の量産型と言えるものが、62型/63型で、これは250キロあるいは500キロ爆弾の搭載能力を持った戦闘爆撃機型でした。急降下時に対応する機体強化や対空砲に対する装甲強化等が盛り込まれた機体でした。

前述のように99式艦爆の後継機である「彗星」以降の新型機体が高速化するとともに、海軍が多く保有する小型空母からの運用が不可能となる為、これを補完する意味合いで、早くから量産され残機数が手当てできた21型を用いた爆装零戦による敵艦船への攻撃が行われていましたが、これをさらに本格化した形式と言って良いでしょう。

62型は合計で数百機が生産されたと言われています。

 

ついでに、というわけではないですが、

零式艦上戦闘機の幻の後継機「烈風」

ja.wikipedia.org

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(「烈風」の概観:全幅97mm 全長77mm:(右下)零戦52型との比較:かなり大きな機体であることがわかります)

零式艦上戦闘機後継機については、制式採用の翌年に16試艦上戦闘機、翌々年に17試艦上戦闘機として計画が提示され試作等が検討されていました。用兵側の速度と運動性の両立に対する過度な要求等が障害となり、やや乱暴に整理すると、主として所定の要求を満たすエンジンの手当がつかず開発が遅れ、終戦時にようやく8機の試作機を完成したにとどまり、「幻」となりました。この遅れの影響で零式艦上戦闘機の実働年数が長期にわたる結果となりました。(この辺りはいずれ「空母機動部隊小史」の本編でもまたいずれ)

 

そしておまけ、IFもの(?)

零式艦上戦闘機 液冷エンジン搭載型(41型?)

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(全幅:83mm 全長:68mm)

零式艦上戦闘機に液冷エンジンを搭載したら、という多分、架空の機体です(どこかで計画はあった、という話を耳にしたことがあったような。零式じゃなくて96式艦戦の開発時だったかなあ)。

液冷エンジンは表面積を小さくできるので空気抵抗が少なく高速を期待できます。一方でエンジンへの被弾に弱く、つまりエンジンへの被弾で冷却水が抜けてしまうとすぐにエンジンが焼け付いて止まってしまうので、不時着が可能な陸上ならばまだしも、生存性を要求される洋上での行動を期待される艦上戦闘機にはあまり採用されませんでした。が、まあ、速力不足の零式艦上戦闘機の課題解決の一案として。使える液冷エンジンとしてはダイムラーベンツの「DB601系」をライセンス生産した「アツタ系」のエンジンでしょうね。多分これしかなかったんじゃないでしょうか?機種形状を見ると「晴嵐」の機種の移植のように見えるので(かなり前なので記憶が曖昧)「アツタ32型」かなあ。だとすると1400馬力程度の出力でしょうから、1000馬力級の「栄」よりはかなり強力かと。

あるいは、もしかすると零戦とは別の陸上戦闘機(局地戦闘機というよりも長距離を進出して制空する陸上制空戦闘機?零戦のデビュー時のような)としては、あり得るのかも。いずれにせよ、日本はその当時、満足のいく液冷エンジンを開発できず、何より整備技術も空冷エンジンは中心だったので経験が浅く、ついて行っていませんでしたからね。無理があるんだろうなあ、と思いつつ、ちょっと面白いのでご紹介。

独言:「エンジン」の話を始めると結構深いものがありますよね。


ということで、「ミッドウェー海戦」から少しおかしな方向に今回の話材は向かいましたが、筆者的にはどうしても整理しておきたかった、今回はそういう回でした。次回こそ、いよいよ「ミッドウェー海戦」を。

大戦後期の空母搭載機の話は、またいずれ。「彗星」「天山」「流星」「烈風」「艦載型紫電」と、こちらはこちらで色々とありそうです。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

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新着モデルのご紹介:長らく捜していた・・・機雷敷設艦艇の話

予告通り(?)「ミッドウエー」ちょっと先送りです。切り口が難しい・・・。

一方で、筆者としてはかなり嬉しい出来事があり、今回はその報告です。(究極のマニアック報告、と言ってもいいかも)

 

機雷敷設艦小史」のミッシングリンク

本稿では以前、下記の回で「日本海軍の機雷戦艦艇小史」を展開しました

fw688i.hatenablog.com

その中でいくつか「未入手」としていた艦級があったのですが、それらを入手できたので、ご紹介します。

 

機雷敷設艦

ご紹介の前に、まず日本海軍の機雷敷設艦のおさらいを。

日本海軍はその創設以来、機雷敷設業務には専用艦船を建造せず、旧式の装甲巡洋艦や徴用した商船等を改造し、その役務に配置してきていました。

ようやく八八艦隊計画の時期に、機雷敷設専用艦船の保有に意向を示し、設計を始めました。

そのグループは大まかに以下の3種類に分類されます。

強行機雷敷設艦敷設巡洋艦:想定決戦海面、あるいは敵前で機雷を敷設する大型の強行敷設艦で、これは目的海面までの長い航続能力を持ち、敵前敷設に対応するための強力な砲力、多数の機雷を搭載できる大型の艦型という特徴を備えています。「厳島」「八重山」「沖島」「津軽」がこれに該当します。これらの艦は、太平洋戦争開戦後は、本来の機雷敷設任務以外にも、その大きな搭載能力(機雷庫)を買われ、高速輸送艦としても活躍しています。

急設網艦:主力艦隊に帯同し艦隊の泊地に、第一次世界大戦以来、飛躍的に性能を向上させ水上艦にとって重大な脅威となりつつある潜水艦の侵入、攻撃を防ぐための防潜網(前述のように、多くの場合、この網には機雷が設置されています)を展張する急設網艦のグループで、この艦種は機雷敷設の能力も併せて持っていました。「白鷹」と「初鷹級」の3隻がこのグループに属します。この艦級は、太平洋戦争中盤以降、防潜網の展張装備を対潜兵装に換装し、船団護衛等の任務に活躍しています。

敷設艇小型の基地防御用の敷設艇です。基地周辺の防潜網敷設や、沿海航路保全の機雷敷設などに従事する艦種です。このグループには「燕級」「夏島級」「側天級」「神島級」の4つの艦級が建造されました。この艦種は太平洋戦争末期、日本本土決戦構想が具体化するにつれ、必要性が増した艦種でもありました。

 

これらの艦級のうち強行機雷敷設艦の「八重山」、敷設艇の「側天級」「神島級」がモデル未入手と紹介していたと記憶します。

sammelhafen.de

上のリンクが市販されている1:1250スケール(1:1200スケールも含みます)のリストなのですが、「八重山」にはMidwayとTremoからモデルが出ています。ところがこれがなかなか見つからない。そもそもが誰が欲しがるんだろう、という感じの船ですからね。生産も小ロットでしょう。

このTremo社のモデルが、ようやくEbayで入手できたのです。

この入手経過がなかなかトリッキーでした。下がその際のEbayのリンクなのですが、Yaeyamaの名前はどこにも表示されていません。しかもEscort Vesselと(まあ、「八重山」の大戦中の主要任務は確かにその通りだったのですが)。我ながらよく気がついたものだと、ちょっと感心しています。

www.ebay.co

 

という訳で「八重山」のご紹介。

機雷敷設艦八重山」(1932-1944)

ja.wikipedia.org

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(「八重山」の概観:74mm in 1:1250 by Tremo)

同艦は、「厳島」に続き二番目に設計された機雷敷設艦です。主力艦隊に先行して想定決戦海面での活動を意識して設計された「厳島」に対し、より近海(前進基地周辺)、浅海域での活動を思慮した設計で、小型・浅喫水の設計となっています。ロンドン条約の制約から補助艦艇に認められた最大速力の20ノットを発揮する設計でした。

1100トン級と、やや小型の艦型を持ち、平時の訓練、戦時には哨戒や船団護衛等の汎用的な目的への対応も考慮して設計されています。兵装は当初から盾付きの12cm単装高角砲を2門搭載していました。小さな艦型ながら185個の機雷を搭載する設計でした。

同艦の大きな特徴は、なんと言っても電気溶接による建艦工程が日本で最初に採用された事で、技術的にも用途的にも実験的な試みの軍艦となっています。同艦で使用された電気溶接の技術は、当然の事ながら未熟で、不具合が多発したようです。併せて復原性に課題があり、大規模な改修工事を受けています。f:id:fw688i:20211205135910p:image

(「八重山」の主砲配置:就役時には盾付きの12.5センチ高角砲を艦首。艦尾に配置していましたが、復原性改善工事の際に艦首のみ盾付きに改められています)

太平洋戦争では開戦時に南方攻略戦に帯同し機雷敷設業務に従事していますが、その後は対空兵装、対潜装備を強化し、護衛艦として船団護衛等に活躍しました。

1944年9月、フィリピン中部で米艦載機による攻撃で沈没しています。

 

第十七戦隊の編成

開戦時、「八重山」は機雷敷設艦厳島」特設敷設艦「辰宮丸」と第十七戦隊を編成し、第三艦隊の指揮下でフィリピン海域で機雷敷設任務についていました。

 

機雷敷設艦厳島」(1929-1944)

日本海軍は機雷敷設業務に、旧式の装甲巡洋艦等を当てていましたが、大正期の八八艦隊計画に準じて、初めて本格的な機雷敷設艦の設計に着手しました。それが「厳島」です。
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(直上の写真は、機雷敷設艦厳島」:89mm in 1:1250 by Authenticast)

ja.wikipedia.org

2000トン級の艦型に、主機にはディーゼル機関を採用しています。設計当時の艦隊決戦主戦場と想定されていた南洋諸島方面での機雷敷設任務を想定したため、航続距離と機雷搭載量が重視され、速力は17ノットと少し控えめに設定されています。

日本海軍の常として強行敷設、敵前敷設をも想定したため、2000トンの駆逐艦クラスの艦型の割には比較的強力な砲力をもっています。(14センチ単装砲3基)

2000トンの小ぶりな船体ながら、500個の機雷を上甲板直下の第二甲板の機雷庫に収納する事ができました。上甲板の4条の機雷投下軌条と第二甲板後方の6つの扉を開放する事で、機雷庫から直接機雷敷設ができる仕組みも併せて持っていました。
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(直上の写真:「厳島」主砲配置との特徴的な艦尾形状(下段):艦橋部より後ろの中甲板はほぼ機雷庫になっています。中甲板の機雷庫から直接海面に投下できるよう、投下口を設置した特徴的な艦尾形状になっています)

太平洋戦争開戦時にはフィリピン攻略戦を皮切りに南方作戦に従事し、機雷敷設、船団護衛、上陸支援、物資輸送等に大戦を通じて活躍しています。

1944年10月、スラバヤ方面で、オランダ潜水艦の雷撃で撃沈されました。

 

特設敷設艦「辰宮丸」(1929-1944)

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1941年9月、海軍は民間の12000トン級の貨物船「辰宮丸」を特設敷設艦として徴用しています。同船は1938年に就役した艦齢の若い貨物船で、17ノットの高速を発揮することができました。特設艦船籍に移管後、船倉が機雷庫、居住区に改装され、上甲板には機雷敷設軌条が敷かれました。最大700個の機雷を搭載することが可能で、船尾両舷に投下用の開口部が設けられています。

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(上の写真は特設敷設艦「辰宮丸」の外観と言いたいところですが、流石に「辰宮丸」のモデルまでは市販されていません。従って船体の形状が似ている「東京丸」を「辰宮丸」風に仕立てたものです。実際には水線長が15mmほど長すぎます。下の写真は、「辰宮丸」(風)の主砲配置。12センチ砲4門を主砲として装備していました)
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前述のように1940年9月に第十七戦隊に編入され、開戦時には日本軍の南方作戦展開に対する英東洋艦隊(「プリンス・オブ・ウェールズ」以下の艦隊)の反撃に備え、マレー半島沖での機雷敷設島を実施していました。

その後、特設輸送船へ類別変更され、輸送任務に従事し、1945年舞鶴港で出航準備中に米軍機の空襲で大火災を起こし半没状態で終戦を迎えました。

 

第十七戦隊の概観

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「測天級」敷設艇の製作

機雷戦艦艇のうち、敷設艇については前日のように「燕級」「夏島級」「測天級」「神島級」の4つの艦級が建造されました。このうち「燕級」と「夏島級」についてはOceanic製のモデルを入手していましたが、「測天級」「神島級」についてはモデル未入手のままでした。

 「測天級」敷設艇(同型15隻:1938-終戦時4隻残存)  

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それまでの敷設艇を大型化した艦型で、機関をディーゼルとしてより汎用性を高め、太平洋戦争における敷設艇の主力となりました。前級までの復原性不足を解消し、航洋性に優れ活動範囲は日本近海に留まらず広い戦域に進出し活躍しています。(720トン、20ノット、主兵装:40mm連装機関砲×1・13mm連装機銃×1、機雷120基 /6番艦「平島」以降は主兵装:8cm高角砲×1・13mm連装機銃×1)

 

終戦時に「巨済」「石埼」「濟州」「新井埼」の4隻が残存していました。

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(上の写真は「測天級」敷設艇の概観:59mm in 1:1250 by Tremoの水雷艇モデルをベースにしたセミ・スクラッチ:「測天級」は40mm連装機関砲を主兵装としていましたが、同機関砲は特に対潜水艦戦で有効ではなく、6番間以降、8センチ高角砲を主砲として搭載しています。この艦級は「平島級」とされることもありますが、ここでは「測天級」の第二グループとしています)

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さらに改良型の「網代」級が12隻、建造される予定でしたが、1隻のみの打ち切られ、次級の「神島級」へ計画は移行されました。

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下の写真は、「測天級」のディテイルのクローズアップ。特に写真下段では、敷設艇ならではの艦尾形状に注目)f:id:fw688i:20211205141221p:image

本稿の「機雷敷設艦艇小史」では文中で「測天級」「神島級」については「Oceanic レーベルでモデルあり、未入手」と記載していましたが、実は誤りでどうやら「測天級」にはモデルがないようです。そこで、という訳でもないのですが、「では作ってしまおうか」という訳です。

幸い、前述の「八重山」のモデルを入手した際に、複数のモデルを落札しています。主には送料負担を軽減する目的で、同一出品者の他の出品物を同時落札する事が多いのです。多くはストックモデルとして保管され、部品取りや今回のようなセミクラッチのベースとして利用することを目的にしています(実際には、そんなに計画的ではないし、スキルが低いのでうまくいかず、バラバラにして捨てることが多いのですが)。

今回、ベースに利用したモデルがこちら。f:id:fw688i:20211205140758p:image

全長68mmの水雷艇のモデルのようです(多分、「鴻」級:にしては少し大きい)。なんとこのモデル、実は落札したモデルではなく、筆者が落札したモデルは「駆潜艇」のモデルだったのですが、出品者からのパッケージが届くと中から「ごめんなさい。落札していただいた「駆潜艇」のモデル、なくなって(売り切れ)ました。代わりにこちらで勘弁してください。もし気に入らなかったら返金します」とお手紙に添えて件の「水雷艇」のモデル2隻と中国海軍の砲艦(多分、「永翔」級(いわゆる「中山艦」?)のモデルが、「八重山」のモデルに同梱されていました。ちょっとびっくり。

元々、落札した「駆潜艇」も送料単価軽減の目的で「ストックモデル入り」と考えていたので「このままでいいですよ。代替モデルいいですね」ということにしたのですが、早速、「八重山」を仕上げながら(ちょっと艦橋をもっと別のモデルからのものに差し替えたりしたので)「何に使おうか」などと考えていて、ここで役に立った訳ですね。

上部構造をほぼ全部取り払って、何よりも水線長をうんと短くして(=切り詰めて)、艦尾形状をやすりで整形して、新たにストックパーツとプラ・ロッド等から上部構造(らしきもの)を組み上げて・・・。つまり結構な「セミ・スクラッチ」だったわけです。でも、これでミッシングリンクの一つが埋まったわけですから、筆者としては大満足です。

(ベースにして完成した自称「測天級」とベースの水雷艇の比較がこちら)f:id:fw688i:20211205140754p:image

実はもう一隻、同型の水雷艇のモデルが残っているので、こちらをベースに「神島級」も作ってしまおうかと思っています。(「神島級」は「測天級」の改良型ではあるのですが、戦時急造艦艇らしく直線的で、つまり海防艦的な構造を多用しているので、「測天級」のセミ・スクラッチから、少し制作の方針を変えねばなりません。どうしようかな、と迷っています。と言っても困っている訳ではなく、セミ・スクラッチの醍醐味、といえばそうなのです。つまり、結構楽しんでいる、そういうことです)

 

もう一つ、おまけ。

敷設艦「勝力」(1917−1944)

ja.wikipedia.org

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(上の写真は日本海軍が初めて建造した敷設艦「勝力」の概観: 65mm in 1:1250 by Tremo(?): 下の写真は太平洋戦争時の=測量艦時代の「勝力」の主砲配置。「勝力」は就役時には12センチ砲3基を搭載していました。艦首部に2基搭載された12センチ単装砲は並行に配置されていました。その後、8センチ高角砲に換装されましたが、3基装備説と2基装備説:もしかすると時期によって搭載数が変わるのかもしれません:がありはっきりしません。高角砲を狭い全部甲板に2基並行配置、というのはどうも腹落ちがしないので、ここでは2基説を採用しています)

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日本海軍の機雷敷設艦艇の紹介の冒頭で、「日本海軍はその創設以来、機雷敷設業務には専用艦船を建造せず、旧式の装甲巡洋艦や徴用した商船等を改造し、その役務に配置してきていました」と記載していました。

「勝力」は日本海軍が最初に建造した敷設艦(就役当初は「敷設船」と呼ばれていた?)です。敷設艇を大型化した発展形で、商船的な構造をしていました。老朽化のため1935年に測量艦に艦種変更され、太平洋戦争でも測量任務に従事していました。

 

1944年9月、フィリピン海域で米潜水艦により撃沈されています。

 

ということで、今回は筆者の大好きな機雷戦関係の艦艇の新着モデルのご紹介でした。(これらのモデルは、本稿の「日本海軍 機雷戦艦艇小史(機雷敷設艦と掃海艇(再録))」にも反映されています)

 

次回は「ミッドウェー海戦」を、お届けする予定です。もしかするとできるところまで、ということになるかもしれませんが。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

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脇道探索アップデート:スウェーデン海軍の新着モデルご紹介:第二次大戦期の海防戦艦

本稿では「日本海軍の空母機動部隊小史」をミニ・シリーズにしてこのところお届けしていますが、今回は少し嬉しい(個人的に)ことがあったので、急遽そちらをお届けします。

2021年の2月から3月にかけて、本稿では「脇道探索」と称して、「スウェーデン海軍」の艦艇について集中的にモデルをご紹介したミニ・シリーズを展開していました。その際に同海軍のいわゆる「主力艦」と位置付けられる海防戦艦の最終艦級「スヴァリイェ」級の近代化モデルのお話をしていて、筆者の主要な艦艇モデル調達先であるEbayでも出品頻度が低く、かつ落札金額がかなり高額になり、なりなかなか入手ができない、というような泣き言を記載していました。

fw688i.hatenablog.com

なんと、それが急展開、一気に「揃った」というお話です。そしてこの機会に第二次世界大戦期のスウェーデン海軍の海防戦艦をもう一度おさらいしておこうかと。今回はそういうお題です。

 

まずは今回の主役ともいうべき「スヴァリイェ級」海防戦艦のお話から。

スヴァリイェ級(同型艦3隻:1921年から就役)
ja.wikipedia.org

同級は結果的に、スウェーデン海軍が建造した最後の海防戦艦の艦級となりました。

設計段階で各国海軍の装備は弩級戦艦の時期に達しており、これに準じてそれまでの海防戦艦とは一線を画する設計となりました。船体は前級(4200トン)を大幅に上回る6800トン級となり、これに石炭専焼缶と初めてのタービン機関を組み合わせ22.5ノットの速力を有することが出来ました。主砲には44口径11インチ砲を連装砲塔形式で2基搭載し、副砲として6インチ連装速射砲1基と同単装砲6基、魚雷発射管2基を装備していました。

 

まずは就役時の艦型のご紹介

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海防戦艦「スヴァリイェ級」の概観:96mm in 1:1250 by Navis:ほぼ竣工時の姿を再現しています:下の写真は「スヴェリイェ級」の主砲・服配置の拡大。副砲は連装砲塔1基と単装砲6基の配置でした)

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近代化改装

1920年代にはいり、主として射撃管制関連の改装が行われ、前部マストが三脚化され同時に艦橋が大型化されました。1930年代には主として機関の換装が行われ、全て重油専焼缶と改められました。その際に煙突形状の改装が行われ、「スヴァリィエ」は湾曲煙突、「ドロットニング・ヴィクトリア」は前部煙突にキャップ、「グスタフ5世」は集合煙突に、それぞれ外観が変わりました。

一番艦「スヴァリイェ」

en.wikipedia.org

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海防戦艦「スヴァリイェ級」1番艦「スヴァリイェ」の近代化改装後の概観:湾曲煙突が特徴的。by Argonaut: )

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(他の海防戦艦の近代化改装と同じく、近代改装で概観の変化が大きかった前部艦橋部と後橋部分の拡大:後部艦橋上にも対空火器を増強しています) 

 

二番艦「ドロットニング・ヴィクトリア」

en.wikipedia.org

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海防戦艦「スヴァリイェ級」2番艦「ドロットニング・ヴィクトリア」の近代化改装後の概観:煙突の形状はほぼ原型そのまま。by Argonaut: 下の写真では前部煙突の先端にキャップをつけています。今回落札したモデルではキャップは装着されていませんが、先に紹介した一番艦の「スヴェリイェ」では湾曲煙突が、次に紹介する三番艦の「グスタフ5世」では集合煙突が採用されていますので、おそらく艦橋の大型化に伴い煤煙の逆流等が問題になったんでしょうね。日本海軍の「長門級」でも同じようなことが)

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(下の写真は「ドロットニング・ヴィクトリア」の中央部の拡大。同型艦三隻の中では最も就役時の姿を残す一隻と言えるでしょう)

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英国王ジョージ6世の戴冠記念観艦式に参加する際に、長距離の外洋航行能力を持たない隣国フィンランド海防戦艦「イルマリネン」を曳航したのは、同級の「ドロットニング・ヴィクトリア」でした。

(下の写真は「ドロットニング・ヴィクトリア」(左)とフィンランド海軍海防戦艦「イルマリネン」のツーショット)

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おまけ:フィンランド海軍「イルマリネン級」海防戦艦 

ja.wikipedia.org

 

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(直上の写真は「イルマリネン級」海防戦艦の概観。74mm in 1:1250 by XP Forge:移動式要塞砲台的な感じ?)

同級はオランダの企業によって設計され、フィンランド湾での活動を想定し、幅広の吃水の浅い船体を持ち、かつ冬季の海面凍結から砕氷能力も考慮された船型をしていました。4000トン級の船体を持ち、機関には砕氷時の前進後進の操作性、速力の調整等への配慮から、デーゼル・エレクトリック方式の主機が採用され、16ノットの速力を発揮する事ができました。しかしフィンランド湾沿岸での任務に特化した強力な艦として、外洋への航行は想定から外されて設計されたため、燃料搭載量が極めて少なく航続距離は700海里程度に抑えられていました。

武装としては、主砲には 隣国スウェーデンボフォース社が新設計した46口径25.4センチ連装砲を2基装備し、併せてこれもボフォース社製の新設計の10.5センチ高角砲を連装両用砲塔で4基搭載するという沿岸警備用の海防戦艦としては意欲的な設計でした。

これらの砲装備管制のために高い司令塔を装備したために、明らかにトップ・ヘビーな艦容をしています。とはいえ、その主要任務が活動海域を限定した移動要塞砲台的なものであることを考えると、それほど大きな問題ではないのかもしれません。

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(直上の写真:「イルマリネン」(左)と「ヴァイナモイネン」(右):塗装は例によって筆者オリジナルですので、資料的な価値はありません)

 

三番艦「グスタフ5世」

en.wikipedia.org

第二次世界大戦の勃発時点で、同艦はスェーデン艦隊の旗艦を務めていました。1940年7月にボイラーの爆発事故があり、損傷回復のために旗艦任務を「スヴァリイェ」に引き継いでいます。戦後、「スヴァリイェ」の退役に伴い、再び艦隊旗艦に就役しています。

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(上掲の写真は、同級3番艦の「グスタフ5世」の近代化改装後の概観。集合煙突を搭載しています。by Argonaut:s 下の写真は「グスタフ5世」の中央構造の拡大:集合煙突の採用で、艦容が一段とスマートに見えます(見えません?筆者が集合煙突が好きなだけか?)

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(「スヴェリイェ級」の就役時と改装後の比較:同型艦3隻の外観が異なると言うのは、戦術的に見れば、あまり上策とは言えないような気がします。が、スウェーデン海軍の存立目的である「プレゼンスを示し、戦いを抑止する」と言う視点で見れば、これはこれであり、のようにも思います)

 

その他の第二次世界大戦期のスェーデン海軍の「海防戦艦」を一気にご紹介

スウェーデンは二度の世界大戦を中立の態度で貫いた稀有な国の一つです。従って、長い期間に渡り同海軍は戦闘を経験せず、もちろん戦没艦もありません。(事故等での喪失艦はありますが)

同海軍は第二次世界大戦期に以下の3つの艦級、8隻の海防戦艦保有していました。

アラン級(同型艦4隻:1902年から就役)

オスカー2世(同型艦無し:1907年から就役)

スヴァリイェ級(同型艦3隻:1921年から就役)

総覧するわけですが、その前に少しそもそも「海防戦艦」という艦種について少しおさらいを。

海防戦艦という艦種

海防戦艦」という艦種が概ねどういう艦種なのか、少し触れておきたいと思います。

英語では概ね coastal defence ship と表記されます。直訳すると「沿岸防備艦」というわけで、この文字通りの意味であれば、警備艦艇はほとんどこの領域の任務に就くことになるのですが、この中でも一般的な「戦艦」の定義から見ると比較的小型の船体(沿岸部で行動することを念頭におくと、あまり深い吃水を持たせられない。このために船体の大きさに制限が出てくるのかも)に大口径の主砲を搭載し、かつ一定の装甲を有する艦を特に「海防戦艦」(Coastal defence ship)と呼ぶようです。

保有国には、以下のような大きな二つの地政学的な条件があるように思われます。つまり防備すべき比較的長い海岸線、港湾都市を持つこと。そしてその海岸線が比較的浅い、そして大洋に比べて比較的波の穏やかな内海に面していること。

結果、バルト海、地中海、黒海などに接続海岸を持つ国の占有艦種と言っても良いのではないでしょうか?従って保有国は限定され、バルト海の沿岸諸国として、ロシア帝国、初期のドイツ帝国(彼らは後に大洋海軍を建設します)、スウェーデンデンマークノルウェイフィンランド。地中海ではイタリア(装甲砲艦という艦種で装備されました)、フランス、ギリシアオーストリア=ハンガリー帝国などが同艦種に分類される軍艦を保有しました。(一部、地政学的な条件から見ると例外は南米諸国ですが、これらは新興諸国が海岸線防備のために比較的手軽に装備できる(購入できる)艦種、として整備を競った、という別の歴史的な背景があると、筆者は理解しています)

類似艦種としては沿岸防御の浮き砲台としての「モニター艦」がありますが、これは海防戦艦に比べると、さらに局地的な防御任務に適応しており、航洋性、機動性はより抑えられた設計になっています。

 

さておさらいはこの辺りにして、第二次世界大戦期のスェーデン海軍の海防戦艦を、艦齢の古い順にご紹介します。

 

アラン級(同型艦4隻:1902年から就役)

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「アラン級」海防戦艦は前級「ドリスへティン」の改良型として建造されました。3600トン級にやや前級を拡大した船体を持ち、前級と同じ44口径8.2インチ単装砲を主砲として2基装備していました。副砲も同様に6インチ単装速射砲を6基、魚雷発射管を2基装備していました。

石炭専焼缶とレシプロ主機の組み合わせで、17ノットの速力を出すことが出来ました。

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海防戦艦「アラン級」の概観:70mm in 1:1250 by Brown Water Navy Miniature in Shapeways:竣工時の姿)

 

近代化改装 

1910年ごろから順次、前部マストを3脚化し射撃指揮所を設置したのを皮切りに、機関の重油専焼缶への換装、魚雷発射管の撤去、対空兵装の強化など近代化改装が行われました。改装のレベルは艦によって異なり、外観にも差異が生じました。

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海防戦艦「アラン級」近代化改装後の概観:by Rhenania:下の写真は近代改装で概観の変化が大きかった前部艦橋部と後橋部分の拡大:主砲塔上に対空砲、後部艦橋上にも対空火器を増強しています)

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「アラン級」4番艦「マリンゲーテン」

同級4番艦の「マリンゲーテン」は1941年に艦首をクリッパー型に改装されています。スェーデン海軍の海防戦艦の中で唯一、クリッパー型艦首を持つ艦となりました。

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(「アラン級」4番艦「マリンゲーテン」の近代化改装後の概観:by Rhenania:艦首形状のクリッパー型への変更にと同時にボイラーが新型に換装され、対空会の配置変更等も行われています)

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(下の写真は艦首形状の比較:「マリンゲーテン」(下段)はクリッパー型艦首編変更に伴い、艦の全長が他の同型艦に比べ0,5mほど延長されました)

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(下の写真は「アラン級」の就役時(上段)と改装後の外観の変化を示したもの)

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オスカーII世(同型艦無し:1907年から就役)

ja.wikipedia.org

 前級「アラン級」の武装強化版として1隻だけ建造されました。船体は4200トン級に拡大され、主砲は44口径8.2インチ単装砲塔2基のままですが、副砲が6インチ連装砲塔4基に強化されました。魚雷発射管を2基装備していました。

機関は、石炭専焼缶の搭載数が増やされ、18.5ノットの速力を出すことが出来ました。

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海防戦艦「オスカーII世」の概観:86mm in 1:1250 by Brown Water Navy Miniature in Shapeways:竣工時の姿)

 

近代化改装 

1911年に近代化改装が行われ、前部マストを3脚化し射撃指揮所が設けられ、1937年にボイラーを重油・石炭混焼缶に変更した際に煙突の太さが変更されるなどの外観の変更がありました。兵装面では魚雷発射管の撤去が行われ、一方で対空火器の近代化、増強が行われました。

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海防戦艦「オスカー2世」の近代化改装後の概観:by Mercator:下の写真は近代改装で概観の変化が大きかった前部艦橋部と後橋部分の拡大:主砲塔上に対空砲、後部艦橋上にも対空火器を増強しています)

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(下の写真は「オスカーII世」の就役時(上段)と改装後の外観の比較:改装時にボイラーを就役時の石炭専焼缶から重油・石炭混焼缶に変更し、この換装に伴い煙突が若干太くなっています)

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スェーデン海軍第二次世界大戦期の海防戦艦の一覧

下の写真は第二次世界大戦期の同海軍の海防戦艦を一覧したものです。右から「「アラン」「マリンゲーテ」「オスカーII世」「スヴェリイェ」「ドロットニング・ヴィクトリア」「グスタフ5世」の順です。この他に「アラン級」の「ヴァーサ」と「タッパーレーテン」(いずれも外観は「アラン」とほぼ同じ(?))が就役し、都合8隻が同時期に就役していました。

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上記に紹介した3つの艦級以外にも、スェーデン海軍は、スヴェア級(同型艦3隻:1886年から就役)、オーディン級(同型艦3隻:1897年から就役)、ドリスへティン(同型艦なし:1901年から就役)、以上7隻の海防戦艦を建造していますが、これらは既に老朽化のため1920年代に海防戦艦の艦籍を外れ、「スヴェア」は潜水母艦に、残りは「ハルク」つまり宿泊施設や燃料や弾薬その他物資の収納施設として転用され、1930年台から徐々に解体されてゆきました。

艦齢の最も若い「ドリスへティン」は1927年に水上機母艦に改造され、第二次世界大戦期は水上機母艦として運用されていました。

 

ドリスへティン(海防戦艦として建造、1927年に水上機母艦に改装)

en.wikipedia.org

海防戦艦「ドリスへティン」は1901年に就役した海防戦艦で、同型艦はありません。ほぼ前級である「オーディン級」と同じ規模の3400トンクラスの船体に、主砲を新型の44口径8.2インチ単装砲に変更し2基を搭載しています。副砲に6インチ単装速射砲6基を搭載し、魚雷発射管2基を装備していました。16.5ノットの速力を発揮することが出来ました。

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海防戦艦「ドリスへティン」の概観:72mm in 1:1250 by Brown Water Navy Miniature in Shapeways:竣工時の姿)

水上機母艦への改装(1927年)

1927年に同艦は水上機母艦に改装されました。主砲、副砲等を全て撤去し、主兵装は高角砲、高角機関砲も換装されています。水上機3機の運用能力を有していました。同艦は1947年まで運用されていました。

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(「ドリスへティン」の水上機母艦への改装後の概観:72mm in 1:1250 by C.O.B. Construvts and Miniature in Shapewaysからのセミ・スクラッチ)f:id:fw688i:20210228113324j:image

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(艦首・艦尾の主砲を撤去し、飛行整備甲板を装備し、対空火器を増強しています。)

少し制作の裏話水上機母艦形態の「ドリスへティン」には、Mercator社から、1:1250スケールのモデルが発売されています。しかし、なかなか見かけないし、入手の目処が立たなかったので、「では、ストックしているモデルをベースにセミ・スクラッチしてみようか」と。

実はこのセミ・スクラッチには、Brown Water Navy MiniatureのDristighetenのモデルをベースにはしていません。ベースとなったのは同じくShapewaysに出品されているC.O.B. Construvts and Miniatureのスウェーデン海防戦艦「アラン級」の近代化改装後のモデルです。ほぼ同寸であることと、近代化後の姿ということで、前部艦橋、三脚マストなどが再現されていた、というのが主な理由です。

主砲塔を削り、副砲等部分をマスクして上甲板を制作、というのが大まかな工程ですが、実は飛行整備甲板の形状を少し簡略化し過ぎてしまっているのです。正確な写真も図面も見つけられなかった、という背景はあるものの、「まあ、ベースも違うし、ダメならダメでいいか」といわゆる習作のつもりで作ったので、実はその後、Brown Water Navy MiniatureのDristighetenをベースに再度、トライしています。しかし、どうも上手くいかない。筆者的には上掲でいいのかな、と考えています。とはいえ気にはなっているので、どこかで再度トライするかも。

 

おまけ。同海軍の未成海防戦艦のデザイン・バリエーション・モデルが発売されています。こちらもご紹介。

番外:未成海防戦艦:Project 1934

1933年(34年?)に設計された未成の海防戦艦がありました。

ヴァイキング級(仮称)」と命名される予定だった同級は、それまでの「海防戦艦」と異なり、塔形状の前部マストやコンパクトにまとめられた上部構造など、フィンランド海軍の「イルマリネン級」にやや似た近代的(?)な外観をしています。7500トン級の船体に、武装は10インチ連装砲2基と、4.5インチ両用連装砲4-6基を予定していたようです。速力は22−23ノット程度。

"Viking class" (1934/36): Dimensions: 133m x 19,5m x 6,85m, Displacement: 7.150tons standard, Populsion: 20.000shp, 4 shafts, 22 knots, protected by a belt 254mm thick and 50 mm decks, four 254mm Guns (2x2) and 2x3 120m DP-AA Guns, 4x2 40m AA Guns.

https://naval-encyclopedia.com/ww2/swedish-navy.php

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(直上の写真と直下の写真:未成海防戦艦「Project 1934」の概観:by Anker: 対空砲等を艦の左右舷側に配置し、対空砲を強化したデザインになっています) 

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副砲配置のデザインバリエーションも出ています。

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(未成海防戦艦「Project 1934」の概観:103mm in 1:1250 by Anker:下の写真は両案の比較:上掲の資料が確かだとすると、「Project1934]には「ヴァイキング級」という名前が予定されていたようですね)
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(下の写真は、未成の海防戦艦「Project1934=ヴァイキング」と「グスタフ5世」の外観の比較:主兵装や上部構造の配置から、集中防御等への意識が高い設計であったことが推測されます)

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番外その2:海防戦艦「アンサルド社」提案(未成艦)

Coastal Battleship projects:

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Ansaldo Project 1 (1941): 173 m x 20m x 7m and 17.000 tons standard, propelled by 90.000shp on 4 shafts, and a top speed of 23 knots, protected by a belt of 200 mm, Decks of 120 mm and armed with six (3x2) 280 mm, 4x2 120 DP, 5x2 57 AA, 2x2 40 AA, 6x 20 mm AA Guns. The latter could have been in effect too large and costly for Sweden's needs.
Coastal Battleship projects

出典元:Swedish Navy in WW2

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(海防戦艦「アンサルド社1941年提案」の概観:129mm in 1:1250 by Anker)

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(直上の写真は、11インチ主砲の配置の拡大)

同艦はイタリアのアンサルド社が1941年にスウェーデン海軍に新しい海防戦艦として提案したものです。上述のように17000トンの船体を持ち23ノットの速力を発揮する設計で、11インチ(28センチ)主砲を連装砲塔で3基、さらに12センチ両用連装砲4基搭載する強力な兵装を有する設計でした。スウェーデン海軍の艦船としては大きすぎ、かつ高価すぎるということで採用されなかったようです。f:id:fw688i:20220206101640p:image

(「アンサルド社提案海防戦艦」と実在の海防戦艦「グスタフ5世」との比較:アンサルド社提案がかなり大型であることがわかります)

 

1945年提案デザインもある

アンサルド社は1945年にもこれをややコンパクトにした設計案(13900トン、37ノット、21センチ連装砲塔3基、という設計なので、海防戦艦というよりは巡洋艦ですね)を提案していますが、こちらも採用には至りませんでした。(こちらはモデルを未入手です)

> Ansaldo Project 2 (1945): Displacement of 13.900 tons (unknown dimensions), propelled by 56.000 shp on 2 shafts, top speed of 37 km/h or 20 knots, protected by a 300 mm belt and 120 mm deck. Armed with 2x3 210 mm, 2x2 120mm DP, 6x2 57mm and 16x1 25mm AA Guns.  

これらの計画は、いずれも第二次世界大戦の勃発と大戦期中の航空主兵化により計画は中止となり、その後海防戦艦は建造されませんでした。以降、スエーデン海軍は潜水艦と高速艦艇中心の編成に変わっていくことになります。

 

というわけで今回はここまで。

 

次回は「空母機動部隊小史」に戻って、「ミッドウェー海戦」の予定です。・・・が、海戦の詳細は資料が沢山あって、詳細はそれらにもちろんお任せするのですが、どんな切り口にするのか、結構、苦しんでいます。もう一回、新着モデル、挟むかも。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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日本海軍 空母機動部隊開発小史:番外編:ドーリットル東京空襲

開発小史の本編はいよいよ「ミッドウェー海戦」なのですが、ちょっと諸々でお休みです。

今回はスピンアウトというか「真珠湾攻撃」の番外編のお話です。

少し内輪話的なお話をすると、前回「珊瑚海海戦」で米機動部隊についてもご紹介の機会があったわけですが、その中で空母「ヨークタウン」をご紹介した際に、「同型艦「ホーネット」と言えば・・・」と少しご紹介しています。少し興味がそちらに行ってしまった、そういうことです。

(再掲載:抜粋)

ヨークタウン級航空母艦

ja.wikipedia.org

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航空母艦「ヨークタウン」の概観:198mm in 1:1250 by Neptun:同艦は「ヨークタウン級」のネームシップで、飛行甲板に表示された「5」は「ヨークタウン」の番号でした)

ワシントン・ロンドン体制下で建造された米海軍初の(と言い切っていいと思います)本格的艦隊空母です。ワシントン・ロンドン両条約の空母保有制限枠から算出された最大枠25000トンの船体を持ち、太平洋戦争開戦時には米艦隊の主力空母群をを構成していました。

「珊瑚海海戦」に先立ち、ドーリットル中佐の率いる16機の双発陸軍機で、最初の東京空襲が実施されるのですが、この部隊を日本近海まで運び、洋上から発進させたのは、同型艦の「ホーネット」であり、「ホーネット」護衛のためにやはり同型艦の「エンタープライズ」がエスコートしていました)

(抜粋ここまで)

 

というわけで、今回は、時系列的にいうと「珊瑚海海戦」(1942年5月)に先立って4月に実施された米軍の東京空襲(ドーリットル空襲)のお話です。

今回は日本海軍の軍艦は出てきません。ご容赦を。

 

真珠湾攻撃と日本本土空襲計画

既にご紹介の通り、1941年12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃で日米が開戦しました。真珠湾攻撃は、主力艦隊同士の決戦、という視点から見れば大成功の「漸減作戦」と言え、米海軍太平洋艦隊の主力艦(戦艦)群は近々の艦隊決戦の能力を失いました。

日米の厳然たる物量の差から、長期戦での勝機を見出せない海軍首脳としては、できるだけ早期に敵に与えた大きな打撃で戦意を挫き、講和の機会を見出すことも狙いのうちだったわけですが、その意に反して真珠湾での損害艦のサルベージが始まるか始まらないかの1942年1月から、米国首脳は日本本土への爆撃計画に着手しています。とても戦意を挫くどころではなかった、という感じですね。

 

日本本土爆撃にはいくつかの方法論が検討されますが、最終的に採用されたのは、日本近海に進出した空母から発進した陸用爆撃機による低高度進入による東京爆撃、でした。

日本本土への爆撃だけなら通常の空母艦載機による爆撃でも良かった、というか、それが当たり前かと思われるのですが、主力艦部隊に壊滅的な損害を受けたこの時点では、残された艦隊の唯一の有力な攻撃兵力と言っていいであろう空母機動部隊への危険を最小限に留めたかった、という要素も大いに働きました。つまり日本軍の反撃圏外からの空襲を実施し空母を守る必要があった、ということから、長距離の航続力を持った双発陸用爆撃機を空母から放つ、という作戦が採用されたわけです。いわゆる「アウトレンジ」です。「アウトレンジ」というと、日本海軍のマリアナ沖海戦が連想されますが、既に開戦早々、米軍は実行していたわけです。

 

実はこの辺りの経緯については映画「パールハーバー」の後半部分で詳しく描かれています。興味のある方は是非。(資料的な精度はよくわかりませんが、心理的な背景や、作戦立案の経緯などは腹落ちが良いかと思います。何より、映画としてはかなり面白いしね)

ja.wikipedia.org

www.youtube.com

この作戦の企図、発想の経緯を物語るシーンがこちら。

 

作戦準備

B-25の採用と改造

作戦の具体化にあたっては、使用機種の選定が行われます。

艦上機には、着艦の際に機体を制動し飛行甲板上に引き留める装具(着艦フック)が必要となるのですが、陸用双発爆撃機の場合、特に米陸軍航空隊爆撃機の主流であった機首に車輪のある三車輪式では尾部の位置が高く、これが装備できないところから、空母への帰還は計画から捨てざるを得ませんでした。日本近海から発進した爆撃機は日本本土を爆撃した後、中国大陸まで飛翔し、当時米国とともに日本と交戦状態にあった中国軍支配地域に不時着ののち、中国軍に保護される、という基本計画が立てられました。

この計画で機体が満たすべき要件としては、「2000 ポンド(約1000 kg: 250kg ×4発)の爆弾を搭載し、500フィート(150m)以下の滑走距離で発進でき、2000マイル(3200km)飛行できること」というものでした。このうち2番目の滑走距離は作戦に必要な数の爆撃機を空母の飛行甲板に搭載した際に残された発艦時の飛行甲板の距離から算出された条件で、加えて言うなら、この条件には「空母に搭載でき、空母の飛行甲板のサイズに収まること」という条件が、当然含まれているわけです。

これらを満たしうる機体として、まず当時の4発エンジンの爆撃機が条件外とされ、残された双発爆撃機の中からノースアメリカンB-25が選定されました。

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しかし、条件、特に航続距離の条件を満たすにはB-25の燃料搭載量を増やす改造が必要となり、この増設のために機体重量の徹底的な軽減も併せて検討、実施されました。

例えば防御用の機銃数の削減(尾部銃座のリモート式機銃は木製のダミーに換装されましたし、腹部銃座は撤去され燃料タンクに置き換えられています)、高高度爆撃用のノルデン爆撃照準器とこれに連動する自動操縦装置は降ろされ、簡易な照準器に変更されました。隠密作戦であるため無線機も下され、一部の防弾版も外されるなどしています。

その代わりに戦果記録用のカメラ類が搭載されたりしています。

(この辺りも、前述の映画「パールハーバー」で、ほんの少しですが語られています)

改造は24機に対して行われ、うち16機が空襲部隊として残されることになるのですが、この16機の指揮官が、機種選定を始め計画の当初から関わってきたジェイムズ・H・ドーリットル陸軍中佐で、彼が自ら部隊を率いて出撃することになりました。

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空母「ホーネット」

22機の改造B-25はまずカリフォルニア州アラメダ海軍基地で状態の好調な16機に絞り込まれ、近接埠頭まで牽引車で運ばれてクレーンで「ホーネット」に搭載されました。

こうして改造B-25、16機を搭載して、空母「ホーネット」が出撃します。「ホーネット」は前述のように「ヨークタウン」級空母の3番艦で、就役直後の新鋭艦で飛行甲板上に16機のB-25を搭載しても、約450フィート(135m)の発艦距離を確保することができました。

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(ドーリットル空襲部隊を搭載した空母「ホーネット」の概観:実はこのモデル、いつもの1:1250スケールではなく、1:1200スケールのRevell社のプラスティックモデルです。つまり少し大きいのです。海外のモデラーの方がEbayに出品されていたものを「ヨークタウン級」3隻まとめて入手したものに、搭載機位置など少し手を入れています。下の写真は、甲板上に繋止状態で搭載された攻撃隊のB-25:16機並べると結構圧巻です。右下のカットでは発艦スペースとしてどの程度の距離が残されているのか、なんとなくわかるかな、というカットです。史実では前述のように450フィート確保されていた、という記録があるのですが、1:1200スケールのモデルに換算すると、実はこのカットよりも5ミリ程度スペースが確保されていた計算になります。B-25を綺麗に整列させすぎたのかも。双発の16トンもある陸用爆撃機でも(ちなみに開戦時日本海軍の艦上機で最も重かった97式艦上攻撃機は4トン強でした)、空母が全速(25ノット以上)で「風にたて」ば、機体自体の推力との合成風力でこの程度の滑走距離で発艦させられるんだ、とちょっと感動)
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これを重巡「ヴィンセンス」軽巡ナッシュビル駆逐艦4隻が護衛して、空襲実行部隊である第18任務部隊(「ホーネット」艦長マーク・ミッチャー大佐 部隊指揮官兼任?)が編成されました。

「ホーネット」はこの作戦ではB-25を飛行甲板に繋止状態で搭載したため、これを発進させるまでは、他の艦載機は格納庫に押し込められており、ドーリットル隊を発艦させるまでは運用ができませんでした。

 

このためハルゼー中将が指揮する第16任務部隊がこの護衛にあたり、全体をハルゼー中将が指揮することになりました。(第16任務部隊 空母「エンタープライズ重巡ノーザンプトン」「ソルトレイクシティ駆逐艦4隻)

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(空襲作戦部隊の2空母:第16任務部隊の「エンタープライズ」(手前)と第18任務部隊の「ホーネット」:こちらの両空母とも、1:1200スケールのRevell社のキットです。ちなみに「ヨークタウン級」二番艦の「エンタープライズ」は艦番号「6」、三番艦の「ホーネット」は「8」でした。では「7」はというと、条約の制限枠で建造されたやや小ぶりな空母「ワスプ」が持っていました。「ワスプ」には、いずれまた登場してもらいましょう。戦時中に飛行甲板に艦番号が書かれていたかどうかは、甚だ疑問ですが、そこは「模型」ということで)

 

第18任務部隊の2隻の巡洋艦

重巡:ヴィンセンス(ニューオーリンズ重巡洋艦

ja.wikipedia.org

New Orleans-class cruiser - Wikipedia 

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の概観 142mm in 1:1250 by Neptune) 

主砲としては8インチ砲3連装砲塔3基を艦首部に2基、艦尾部に1基搭載するという形式は「ノーザンプトン級」「ポートランド級」に続いて踏襲しています。魚雷兵装は、「ポートランド級」につづき、竣工時から搭載していません。航空艤装の位置を少し後方へ移動して、搭載設備をさらに充実させています。乾舷を低くして艦首楼を延長することで、米重巡洋艦の課題であった復原性を改善し、32.7ノットの速力を発揮することができました。

 

軽巡ナッシュビル(ブルックリン級軽巡洋艦

ja.wikipedia.org

Brooklyn-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:「ブルックリン級」の概観。150mm in 1:1250 by Neptune )

本級は日本海軍の「最上級」同様、ロンドン条約保有に制限のかかった重巡洋艦(カテゴリーA)の補完戦力として設計された大型巡洋艦で、それまでの偵察任務等に重点の置かれた軽快な軽巡洋艦とは異なり条約型重巡洋艦に撃ち負けない砲力と十分な防御力を併せもった設計となっていました。

このため主砲にはカテゴリーB=軽巡洋艦に搭載可能な6インチ砲を3連装砲塔5基、15門搭載していました。同砲はMk16 47口径6インチ砲と呼ばれる新設計の砲で、59kgの砲弾を毎分8−10発発射することができました。

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重防御を施した10000トンを超える船体を持ち、33.6ノットの速力を発揮することができました。

魚雷兵装は搭載しませんでしたが、対空兵装としては5インチ高角砲を単装砲架で8基搭載していました。

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(直上の写真は、速射性の高Mark 16 15.2cm(47口径)速射砲の3連装砲塔を5基搭載しています。対空砲として5インチ両用砲を8門搭載していますが、後期の2隻はこれを連装砲塔形式で搭載していました。このため後期型の2隻を分類して「セントルイス級」と呼ぶこともあります)

 

第16任務部隊の2隻の巡洋艦

重巡ノーザンプトンノーザンプトン重巡洋艦

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune) 

前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」の主砲配置と航空艤装の概観。水上偵察機の格納庫はかなり本格的に見えます(中段)。同級は竣工時には魚雷を搭載していたはずですが、既にこの時点では対空兵装を強化し、魚雷発射管は見当りません) 

 

重巡ソルトレイクシティ(「ペンサコーラ級重巡洋艦

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(直上の写真は、「ペンサコーラ級」重巡洋艦の概観。143mm in 1:1250 by Neptune) 

 「ペンサコーラ級」は米海軍が初めて建造した重巡洋艦です。当初は、日本海軍の「古鷹級」と同様に強化型の軽巡洋艦として設計されましたが、建造途中にロンドン条約により巡洋艦にカテゴリーが生まれそれぞれに制限を課せられたため、「カテゴリーA=重巡洋艦」に類別されたという経緯があり、結果的に条約型重巡洋艦の第一陣となりました。

設計当初は8インチ3連装主砲塔4基を搭載する予定でしたが、艦型の大型化を抑制するために4基のうちの2基を連装主砲塔にあらためて建造されました。雷装としては53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載していました。

やや装甲を抑えめにし9100トンと列強の重巡洋艦としてはやや小ぶりながら、強力な砲兵装を有し、抗堪性に考慮を払い初めて採用された缶室分離方式で配置された主機から32.5ノットの速力を発揮することができました。

強力な兵装配置と、やや変則的な砲塔配置に伴い、トップへービーの傾向があり、復原性に課題があるとされていました。

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(直上の写真は、「ペンサコーラ級」重巡洋艦の特徴的な主砲塔配置。連装砲塔を低い位置に、3連装砲塔を背負い式に高い位置に配置しています。高いマストとも相まって、重心がいかにも高そうに見えます) 

 

日本本土空襲

1942年4月1日にサンフランシスコを出撃した第18任務部隊は、4月13日にハルゼーの第16任務部隊と合流し、18日未明に日本の漁船、小型貨物船を改造した特設哨戒艇数隻と遭遇、これを排除した後、空襲部隊を日本の東方海上の予定より遠方から発進させました。(500マイル地点からの発進予定が800マイルからの発進となったようです)

全ての機が500ポンド(250kg)通常爆弾1発、500ポンド特殊爆弾(破壊力を強化した爆弾)1発、焼夷弾2発を搭載し、16機のうち10機は東京を目標とし、横浜、名古屋には各2機が、横須賀、神戸にそれぞれ1機が向かいました。

目標直前までは超低空(20フィート=6m: 本当かな?)を飛行し、目標直前で1500フィート(450m)まで上昇して爆弾投下を行いました。

東京へ向かった1機が日本軍戦闘機の迎撃を受け爆弾を相模湾上空で投棄した他は、全て爆弾投下を成功させましたが、何機かは当初目標以外の場所を爆撃し、民間人に死傷者を出したりしています。

その後、日本上空をすり抜けて15機が計画通り中国大陸へ抜け、全て不時着、もしくは乗員の空中脱出を行い、1機がソ連領のウラジオストクに不時着しました。

計画通りの中国大陸への脱出だったのですが、発進地点が予定よりも日本本土から遠い地点となったため、不時着地点が、場所によっては日本軍の支配地域に近く、捕虜8名を出しました。(その他不時着時の死亡1名、行方不明2名)

このあたり、前出の映画「パールハーバー」の後半の山場ですね。

www.youtube.com

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(上のリンクでうまく再生できなかったら、Youtubeで "boming away on japan"で検索して見てください。

 

この爆撃では15機の襲撃機(1機は前述のように海上で爆弾を投棄)から30発の爆弾と30発の焼夷弾が投下され、日本側には死者87名、500名弱の負傷者が出ています。170棟近い建物が全壊・半壊等の被害を受けました。また横須賀で空母へ改造中の潜水母艦「大鯨」が命中弾を受け、大火災を発生、改造工期が遅れています。(ああ、日本の軍艦、出てきました!)

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(横須賀で命中弾を受け空母への改造工事の工期がのびた潜水母艦「大鯨」:当初から空母への転用を前提として設計された潜水母艦でした。結構露骨にその意図がわかる艦型をしています。下の写真は潜水母艦形態と空母への改造後の比較カットです)

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しかし攻撃隊は各機がバラバラに高速で低空侵入し奇襲をかけたため、目標の誤認も多く、決して精度の高い攻撃ではありませんでした。一部には民間人に対する射撃なども認められており、真珠湾奇襲(米側では宣戦布告前の騙し討ち、と解釈され憤慨する声も多かったようです)への報復の色合いの濃い襲撃となり、後に日本軍は民間人に対し機銃掃射を行なったとして、捕虜にした搭乗員たちのうち数名を処刑しています。

 

日本海軍は米機動部隊により撃沈された特設哨戒艇からの通報などで米機動部隊の出現を察知していながら、艦上機の襲撃圏外という思い込みが強く、空襲日時を予測できませんでした(襲撃があるとすれば、艦載機の航続力から考えて一日後の発進、と思っていたようです)。

この誤った襲撃予測のもとに迎撃態勢を整え部隊配置をしたため、空襲部隊発進と同時に反転退避した米機動部隊を捕捉できませんでした。

日本陸軍は海軍からの通報を受け警戒警報を出しましたが、高空からの空襲を想定したため低空侵入を察知できませんでした。一部の部隊は低空の襲撃機を視認しながら、低空飛行のため自軍の航空機と誤認して迎撃せず、上空通過を看過してしまったようです。

結局、対空砲も空に上がった迎撃戦闘機も、低空高速の侵入機を捕捉しきれず、一機も撃墜することができませんでした。南方作戦が展開されており、第一線部隊の多くが日本本土を離れていた、という条件も大きく働いていたかも知れません。

いずれにせよ開戦以来、米軍の空襲のおそれは予見されていながらも、準備されていた警戒態勢は全く機能していないことが明らかになり、軍首脳部に大きな衝撃が走ったことは間違いありません。

 

一方、開戦以来、真珠湾での大損害、日本軍の順調な南方進出、その過程でのフィリピン、グアム島ウェーク島の失陥等で沈滞していた米国民の戦意は大きく回復されてゆきます。

「俺たちがやるのは奴らの心臓へのひと突きだ」映画「パールハーバー」の中で日本海軍の真珠湾奇襲の規模と比べて、これで良いのかと首を傾げる隊員に対して指揮官のドーリットルがつぶやくひとことです。映画ではあるのですが、いかにもアメリカ人の言いそうな一言です。

この作戦で捕虜となった8名、戦死した1名、行方不明の2名、ウラジオストクに不時着しソ連に抑留された8番機の6名を除く43名は、中国の友軍と接触し本国に帰還しています。指揮官のドーリットル中佐はこの作戦の功績により7月に准将に昇進し、以後北アフリカ戦線で指揮をとったりしています。

ソ連に抑留された6名は、その後イラクに脱出し1943年にアメリカに帰還しています。

 

「東京奇襲」という書籍

朝日ソノラマ航空戦史文庫から「東京奇襲」という本が出ています。

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(古書での流通ですが、結構値段がこなれていて手に入れやすい本です)

こちらドーリットル隊の7番機の機長であったローソン大尉の手記という体裁で出された本で(著者はローソンとなっていますが、実際にはローソンを取材した記者が編集した本のようです)、戦時中に戦意高揚本として1942年に米国で出版されている本です。冒険小説として読んでも結構面白い。おすすめです。

さらにこの本を下敷きにして「東京上空30秒」という映画が制作せれています(こちらはまだ見ていないので、なんとも)

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(こちらは未見なのでなんとも言えませんが、Youtubeにアップされている下のTrailerを見る限りでは見てみても良いかな、という感じですね。1944年、つまりまだ戦争中にこんな映画を撮っていたんですね。ちょっとびっくり)

www.youtube.com

 

ということで、「ヨークタウン級」空母を発端とする「番外編」はこの辺りで終了です。

次回はいよいよ「ミッドウェー海戦」を。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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日本海軍 空母機動部隊小史 5:史上初、空母機動部隊の激突:珊瑚海海戦

第二段作戦の展開

前々回に記述したように、日本海軍は1942年4月の一連のインド洋作戦で、開戦第一段の一連の作戦を終了し、以降第二段作戦に移行してゆきます。

第二段作戦は、第一段作戦の成功で太平洋戦争のそもそもの目的であった南方資源地域の確保に成功した日本が、資源地域から本土への輸送路の安全を確保するために、日本海軍の拠点、中部太平洋カロリン諸島のトラック環礁の外周地域の拡大と、長期戦を避けるためになんとか短期での艦隊決戦への米海軍の誘引を同時に企図した作戦、と言えると考えます。

既に、トラック環礁の外周拡大については開戦後、ラバウル進出、ギルバート諸島攻略などが進められており、これをさらに進める大きな次の攻勢軸として、米軍の反攻拠点と想定されるオーストラリアの無力化のための米豪遮断作戦が検討されていました。

これはフィジーサモアへの進出がとりあえずの最終目標となるのですが、この初動として、ソロモン諸島の中心的な泊地であるツラギへの進出、ギルバート諸島ソロモン諸島の中間地点であるナウル島、オーシャン島の攻略、そしてニューギニア南西岸のポート・モレスビー攻略が企図されました。

これらは内南洋警備拠点の強化という目的でしたので、内南洋地域の警備艦隊である第四艦隊の指揮下で展開されました。

 

第四艦隊

太平洋戦争開戦当初、日本軍の攻勢主軸が真珠湾作戦と南方攻略であったため、中部太平洋拠点周辺の島嶼部確保を当初の目的とした第四艦隊は固有戦力として大きなものではありませんでした。

新造の練習巡洋艦「鹿島」を旗艦とし、最古参の軽巡洋艦「天龍」「龍田」、軽巡「夕張」を旗艦とする第六水雷戦隊、これに陸戦隊の上陸支援等の目的で敷設艦、根拠地隊の所属小艦艇等が配置されていました。

 

艦隊旗艦「鹿島」

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Katori-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「香取級」の就役時の概観。103mm in 1:1250 by Neptun)

 

第十八戦隊:軽巡洋艦「天龍」「龍田」

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Tenryū-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:天龍級軽巡洋艦:116mm in 1:1250 by Navis)

 

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(直上の写真: 第18戦隊の天龍級軽巡洋艦2隻:天龍と龍田)

 

第六水雷戦隊:軽巡洋艦「夕張」(第六水雷戦隊は同感を旗艦とし、「神風級」「睦月級」駆逐艦8隻で編成されていました)

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」(手前)と5500トン級軽巡洋艦(「長良」)の概観比較。5500トン級よりもひとまわり小さな船体に、航空兵装をのぞきほぼ同等の兵装を搭載し、周囲を驚かせました)

 

「神風級」駆逐艦

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(直上の写真:「神風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces)

 

「睦月級」駆逐艦

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(直上の写真:「睦月級」駆逐艦の概観 83mm in 1:1250 by Neptune) 

 

敷設艦沖島」(第十九戦隊)

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(直上の写真は、上述の機雷敷設艦沖島」の概観:104mm in 1:1250 by semi-scratched based on Neptune)

 

敷設艦津軽」(第十九戦隊)
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(直上の写真は、機雷敷設艦津軽」の概観:104mm in 1:1250 by Neptune)

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(直上の写真は、上述の機雷敷設艦沖島」と津軽」(左上)・「沖島」「津軽」の艦尾部の拡大(左下):機雷は上甲板乗の軌条と艦尾の第二甲板の後方扉からの投下設置が可能でした。・右列は「沖島」(右上)と「津軽」(右下)の主砲比較:右上の「沖島」の主砲は、ストックパーツを加工してして換装しました)

 

MO作戦と第四艦隊

前述のように、これらの部隊を基幹として、第四艦隊は第二段作戦では、ツラギへの進出、ナウル島、オーシャン島の攻略、そしてニューギニア南西岸のポート・モレスビー攻略(MO作戦)を実施することとなるのですが、特にこの中でポート・モレスビーは、オーストラリア軍・米軍の反攻拠点でもあり、攻略側も相当の部隊を投入することが必要と想定されるため、他の侵攻作戦が海軍陸戦隊の小兵力で実施されるのに対し、それまで内南洋防衛域拡大作戦で陸軍側から提供されていた主力部隊である南海支隊(MO作戦当時は歩兵1個連隊・山砲1個大隊基幹)が投入されることとなりました。

ポート・モレスビー攻略には二つのルートが想定されましたが、既に日本軍が進出していたニューギニア北東岸からの陸路の侵攻は、3000メートル級の山が連なるスタンレー山脈を越えねばならず、大きな兵力の補給と特に重装備の搬送に困難が予想され、海路での侵攻が計画されることとなりました。しかし上陸作戦部隊は、珊瑚海に深く進出し上陸作戦を展開せねばならず、当然、妨害が予想されるために、この護衛にあたる第四艦隊所属の艦艇に加えて、臨時編入された空母・重巡洋艦等を加え、MO機動部隊、MO攻略部隊が編成され同作戦にあたることとなったわけです。

 

(MO作戦参加艦艇については、本稿前々回の後半部分を)

fw688i.hatenablog.com

 

ざっと主要艦艇のモデルを再掲載しておくと以下のような感じです。

MO機動部隊

第五航空戦隊:空母「瑞鶴」「翔鶴」

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「翔鶴級」航空母艦の概観:182mm in 1:1250 by Neptun:下の写真は「翔鶴」(奥)と「瑞鶴」。両艦は同型艦でしたので大きな差異は、このスケールでは見られません)

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第五戦隊:重巡妙高」「羽黒」

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の大改装後の概観。166mm in 1:1250 by Neptune) 

これらに第七駆逐隊(駆逐艦2隻)、第二十七駆逐隊(駆逐艦4隻)を加えた機動部隊が編成されました。

 

MO攻略部隊

第六戦隊:重巡「青葉」「衣笠」「古鷹」「加古」

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(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)

 

第十八戦隊(軽巡「天龍」「龍田」

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(直上の写真:天龍級軽巡洋艦:116mm in 1:1250 by Navis)

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(直上の写真: 第18戦隊の天龍級軽巡洋艦2隻:天龍と龍田)

 

第六水雷戦隊:軽巡洋艦「夕張」(第六水雷戦隊は同感を旗艦とし、「神風級」「睦月級」駆逐艦8隻で編成されていました)

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

 

敷設艦津軽

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(直上の写真は、上述の機雷敷設艦津軽」:104mm in 1:1250 by Neptune)  

 

艦隊補助空母「祥鳳」の編入

さらに、この部隊には1隻の補助空母が追加されています。

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(空母「祥鳳」の概観:164mm in 1:1250)

 

第四艦隊司令長官 井上成美中将

これらの部隊を率いて第四艦隊司令長官井上成美中将がラバウルに停泊中の旗艦「鹿島」から第二段作戦の指揮全般をとるのですが、この人はいわゆる「大物」です。米内光政海軍大臣山本五十六海軍次官、と軍務局長時代に三国同盟に反対するなど、いわゆる「非戦派」のリーダーシップ的な存在でした。また早くから「航空主兵」論を展開したことでも知られています。

開戦直前に第四艦隊司令長官に転出するのですが、これは航空本部長の要職からの「非戦派提督」の閑職への左遷であったと言われているようです。経歴的には軍政畑の部署で実績を残してきた人、と言っていいように思います。

が、ここに来てこの「航空主兵」を提唱してきた提督が史上初の空母機動部隊戦の総指揮を取ったというのは、ある種、宿命めいたものを感じます。

 

MO作戦、準備完了の裏で

前述のように艦隊は一応の体裁は取っているものの、寄せ集め、と言っていい部隊で、特に主力であるべき第五航空戦隊は開戦直前に就役した新鋭艦からなる新編成部隊でもあり、他の部隊との連携の経験はほぼ皆無でしたし、加えて最後に編入された空母「祥鳳」は就役したての艦でもありました。

機動部隊の主戦力は言うまでもなく第五航空戦隊の2隻の空母です。これを原忠一少将が指揮しています。原少将は海兵兵学校39期卒で、水雷科です(なぜ空母部隊の指揮官に水雷科が多いのか、本稿でもご紹介しましたが、つまりは艦隊決戦での空母の主力兵器が魚雷だった、ということかと)。

しかしMO機動部隊の現地の先任指揮官は、第五戦隊(重巡妙高」「羽黒」)指揮官の高木武雄中将(海兵39期)で、原少将と同期ながらスラバヤ沖海戦の功績(指揮の消極性はかなり批判を浴びたようですが、まあそれでも完勝だった)で中将に昇進したばかりでした。

まあ、誰が指揮しても空母同士の海戦は史上初でしたから、問題はなかった(問題だらけにきまっていた?)のでしょうが、部隊間のこれまでの連携経験のなさ等を考慮すると、やや不安がある指揮系統ですね。

さらに第五航空戦隊の両空母の母艦搭載機については、前述の「祥鳳」(1941年12月就役)や「隼鷹」(1942年5月就役)等、新規就役艦への既存搭載機部隊からの搭載機抽出が相次いでおり、このMO作戦時には第五航空戦隊の搭載機数は、それぞれ「瑞鶴」艦上戦闘機20機、艦上爆撃機21機、艦上攻撃機19機、計60機、「翔鶴」艦上戦闘機19機、艦上爆撃機21機、艦上攻撃機16機、計56機、と、開戦当初の定数の各艦72機(艦上戦闘機18機、艦上爆撃機27機、艦上攻撃機27機)を大きく欠いた状況となっていました。

5月初旬に就役した商船改造空母「隼鷹」

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(特設航空母艦「隼鷹」の概観:175mm in 1:1250 by Neptun: 下段右のカットは、「隼鷹」で導入された煙突と一体化されたアイランド形式の艦橋を持っていました。同級での知見は、後に建造される「大鳳」「信濃」に受け継がれてゆきます。下の写真は、「隼鷹」(奥)と「飛龍」の比較:「隼鷹」は速度を除けば、ほぼ「飛龍」に匹敵する性能を持っていました。商船を母体とするため、全般にゆったりと余裕のある設計だったとか。日本海軍は新鋭空母就役都度、既存空母の航空隊群から抽出した搭載機部隊で新たに新空母搭載機部隊を編成していました。搭載機数の定数我には目をつぼり稼働空母数を増やすことを優先指定していたわけですね)

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また前々回、既に触れたのですが、空母「祥鳳」の同部隊への編入には、これまでの第一航空艦隊のインド洋作戦までの戦訓から、同機動部隊の搭載艦上戦闘機の数が、機動部隊周辺の警戒と、発進する攻撃隊の護衛の双方を行うには不足していることが挙げられ、同艦を実験的に搭載機を全て艦上戦闘機として機動部隊直掩に専従させる事で攻撃隊の護衛を強化する狙いがあったとされています。

しかし、上陸部隊を供出する陸軍から輸送船団の上空直衛への強い希望があり、第四艦隊司令部もこれを了承したため、結局、同艦はMO攻略部隊に編入され、輸送船団の上空支援に、艦上戦闘機13機(旧式の96式艦上戦闘機4機を含む)と艦上攻撃機6機の機体を搭載してあたることとなりました。

 

米機動部隊

真珠湾で太平洋艦隊所属のほぼ全ての戦艦が行動不能(全壊、着底、損傷等、レベルは色々でしたが)となっていたこの時点では、米艦隊が太平洋で展開できる兵力は5隻の艦隊空母と巡洋艦を中心とした部隊でした。

反攻を目論む米軍としては米豪交通路の遮断は重大な脅威であることは間違いなく、暗号解読により日本軍のポート・モレスビーへの海路侵攻を察知した米海軍は、稼働空母の全てをこれに投入します。

しかし、全てと言っても、空母「エンタープライズ」と「ホーネット」は4月に実施したドーリットル隊による東京空襲作戦からの帰途、補給で真珠湾にあり(補給後、珊瑚海に急行しますが、間に合いませんでした)、「サラトガ」は日本海軍の潜水艦の雷撃の損傷を修復中で、即展開できる空母「レキシントン」と「ヨークタウン」をフレッチャー少将に預けて珊瑚海へ急行させました。

空母「ヨークタウン」(ヨークタウン級航空母艦) 

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航空母艦「ヨークタウン」の概観:198mm in 1:1250 by Neptun:同艦は「ヨークタウン級」のネームシップで、飛行甲板に表示された「5」は「ヨークタウン」の番号でした)

ワシントン・ロンドン体制下で建造された米海軍初の(と言い切っていいと思います)本格的艦隊空母です。ワシントン・ロンドン両条約の空母保有制限枠から算出された最大枠25000トンの船体を持ち、太平洋戦争開戦時には米艦隊の主力空母群をを構成していました。

「珊瑚海海戦」に先立ち、ドーリットル中佐の率いる16機の双発陸軍機で、最初の東京空襲が実施されるのですが、この部隊を日本近海まで運び、洋上から発進させたのは、同型艦の「ホーネット」であり、「ホーネット」護衛のためにやはり同型艦の「エンタープライズ」がエスコートしていました)

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空母「レキシントン」(「レキシントン級航空母艦

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航空母艦レキシントン」の概観:214mm in 1:1250 by Delphin :本艦は「レキシントン級」のネームシップで、同型艦に「サラトガ」があります。「レキシントン」は後述のように珊瑚海海戦で失われますが、「サラトガ」は太平洋戦争を何度か損傷しながらも生き抜きました。下の写真は、同級が就役直後に装備していた8インチ連装主砲塔のアップ。後に「サラトガ」では5インチ両用砲に換装されていますが、「レキシントン」では換装の計画はあったものの、実施されないまま、「珊瑚海海戦」で失われました)

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同級の建造経緯は、本稿でも過去に何度か取り上げており、大変有名な話です。ワシントン条約では航空母艦保有枠にも上限が設けられました。一方でワシントン条約で破棄が決まった「レキシントン級巡洋戦艦ワシントン条約保有枠内で空母へ改造することが認められ、その時点で最も建造の進んでいた「レキシントン」と「サラトガ」が空母として完成されました。

(下の写真は、巡洋戦艦としてのオリジナル設計案をモデル化したもの。巡洋戦艦としては未成艦ですので、実物はありません)

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巡洋戦艦として完成されていたら・・・:デザインのヴァリエーションを一覧してみました。上から原案(7本煙突)、二本煙突就役時、二本煙突近代化改装後、集合煙突就役時、集合煙突近代化改装後)f:id:fw688i:20210627144229j:image

日本海軍の空母「赤城」も同様の経緯で破棄される予定の巡洋戦艦を空母に改造したものですし、「加賀」は「赤城」の同警官で空母への転用が決まっていた「天城」が関東大震災で大損害を受け工事が再開できなくなったため、代わりに空母として完成されたものです。

巡洋戦艦としての巨大な機関から発生される高速と、長大な艦型から生まれる飛行甲板は空母への適性が十分でした。

 

この2隻を1隻のオーストラリア重巡を含む重巡7隻が護衛していました。(キンケード少将・クレース英海軍少将指揮)

重巡ミネアポリスニューオーリンズ・アストリア(ニューオーリンズ重巡洋艦同型艦:7隻)

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の概観 142mm in 1:1250 by Neptune) 

主砲としては8インチ砲3連装砲塔3基を艦首部に2基、艦尾部に1基搭載するという形式は「ノーザンプトン級」「ポートランド級」に続いて踏襲しています。魚雷兵装は、「ポートランド級」につづき、竣工時から搭載していません。航空艤装の位置を少し後方へ移動して、搭載設備をさらに充実させています。乾舷を低くして艦首楼を延長することで、米重巡洋艦の課題であった復原性を改善し、32.7ノットの速力を発揮することができました。

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の特徴を示したもの。艦橋の構造を、前級までの三脚前檣構造から塔状に改めています(上段)。航空艤装の位置を改めて、運用を改善(中段)。この艦級に限ったことではないですが、アメリカの建造物は理詰めで作られているためか、時として非常に無骨に見える時がある、と感じています(下段)。フランスやイタリアでは、こんなデザインは、あり得ないのでは、と思うことも。「機能美」と言うのは非常に便利な言葉です。でも、この無骨さが良いのです)

 

重巡:チェスター・シカゴ(ノーザンプトン重巡洋艦

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Northampton-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune) 

前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」の主砲配置と航空艤装の概観。水上偵察機の格納庫はかなり本格的に見えます(中段)。同級は竣工時には魚雷を搭載していたはずですが、既にこの時点では対空兵装を強化し、魚雷発射管は見当りません) 

 

重巡ポートランドポートランド重巡洋艦

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(直上の写真は、「ポートランド級」重巡洋艦の概観。150mm in 1:1250 by Neptun ) 

同級は、前級「ノーザンプトン級」の拡大改良型で、米海軍としては初めて10000トンを超える艦型を持った重巡洋艦となりました。砲兵装は基本前級「ノーザンプトン級」を継承していますが、復原性を改善するために、建造当初から雷装は廃止されました。しかし一方で対空装備の増強、艦橋の大型化などにより、一見バランスの取れた重厚な艦型に見えますが、実は復原性は悪化した、とされています。

 

重巡:オーストラリア(ケント級重巡洋艦

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(直上の写真は、「ケント級」の概観。152mm in 1:1250 by Neptune )

「ケント級」重巡洋艦は、英海軍が建造した条約型重巡洋艦カウンティ級の第一グループで、条約制限内での建造の条件を満たし、かつ英海軍の巡洋艦本来の通商路保護の主要任務に就く為、防御と速力には目を瞑り火力と航続力に重点を置いた設計としています。10000トンをやや切る船体に8インチ砲8門を装備し、31.5ノットを発揮しました。

 

珊瑚海海戦

いよいよ初の空母機動部隊同士の海戦、「珊瑚海海戦」です。

この海戦は日米双方、初めての空母航空隊を主力とした海戦と言うこともあり、錯誤の連続、と表現できる戦いとなります。

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例によって海戦の経緯、詳細は他の優れた記述にお願いするとして、少し経緯を整理しておきます。「錯誤」がどのようなものだったか、わかるかも。

5月4日:米機動部隊がツラギを空襲します。これに対応して日本側の索敵が始められていますが、米機動部隊発見には至りませんでした。

5月6日:ツラギに進出した飛行艇部隊、水上機部隊等が索敵を継続し、米機動部隊発見の一報が入りますが、その後の続報がなく、戦闘には至りませんでした。結果的に見れば70浬(航空機では20−30分程度の距離)まで接近していたようです。

5月7日:

MO機動部隊の攻撃:機動部隊の放った索敵機が「機動部隊発見」を報じ、これに即応して攻撃隊が発進します(戦闘機18機、艦爆36機、艦攻(雷撃機)24機:計78機)。しかし攻撃隊の発進後に別方面に進出した索敵機からで米機動部隊発見の続報が入り、機動部隊司令部は混乱をきたします。先に発進した攻撃隊が第一目標に到達し、給油艦とその護衛艦の誤認であることを確認、艦爆のみでこの給油艦を撃沈したのち、攻撃隊は母艦に帰投します。この日、艦爆2機、艦攻2機(索敵機)が失われています。

米機動部隊の攻撃:一方、米機動部隊は7日未明に索敵機を発進、同時に一部の巡洋艦部隊を輸送船団攻撃に分派しています。機動部隊の放った索敵機が「空母2隻を含む」日本機動部隊の発見を報じ、「ヨークタウン」「レキシントン」から攻撃隊が発進します(戦闘機18機、艦爆52機、艦攻(雷撃機)22機:計92機)。攻撃隊の発進後、別の索敵機からの報告で、発見目標が機動部隊ではなく輸送船団とその護衛(MO攻略部隊)であることが判明し、攻撃目標はこの攻略部隊に変更され、攻撃が続行されました。

MO攻略部隊は無線傍受等により攻撃隊の接近を探知し、輸送船団を退避させます。「祥鳳」の搭載機(戦闘機13機、艦攻6機)での輸送船団上空護衛は困難との判断があったようです。

結局、米機動部隊攻撃隊はMO攻略部隊(第六戦隊:重巡4隻、空母「祥鳳」、駆逐艦「漣」)を発見してこれを攻撃。攻撃は空母「祥鳳」に集中し、爆弾13発、魚雷7本を受けて「祥鳳」が失われました。

米攻撃隊の損害は戦闘機2機、艦爆3機でした。

日本海軍基地航空隊の攻撃:同日、日本海軍の基地航空隊が、米機動部隊が輸送船団攻撃を目的に分派した上記の巡洋艦部隊を襲撃しています。これは1式陸上攻撃機12機(雷撃)と96式陸上攻撃機20機(爆撃)からなる攻撃隊でしたが、戦艦1隻の撃沈と戦艦・巡洋艦各1隻撃破の戦果を報告しています(実際には部隊は重巡1隻を基幹とする部隊で、重巡1隻が被弾機の体当たりで損傷しています)。攻撃隊は1式陸攻6機を失っています(2機の不時着機を含む)。

MO機動部隊の薄暮攻撃:MO機動部隊は給油艦攻撃を行なった攻撃隊を収容後、再度、機動部隊発見の方を索敵機から受けています。出撃が夕刻で、帰投が夜間となるため、艦爆12機、艦攻(雷撃)15機、計27機の熟練機のみで構成した攻撃隊を出撃させました。一方、米機動部隊はレーダーでこの接近を探知し、戦闘機20機でこれを迎撃します。この戦闘でMO機動部隊の艦攻隊は8機を失い、艦爆隊も結局米機動部隊を発見できず帰還しましたが、夜間着艦となり、無事帰還したのは6機のみでした。(艦爆隊の帰投途中で、米空母を日本の母艦と誤り、着艦態勢にはいってから誤認に気づき危うく脱出、と言う場面もあったとか。それだけ攻撃隊は米機動部隊に迫っていた、と言うことですね)

こうして、お互いに試行錯誤の1日を終えるわけですが、実はこの日、「祥鳳」を失ったMO攻略部隊指揮官の五藤少将(第六戦隊)から第四艦隊司令部に輸送船団北方退避の具申があり、MO上陸作戦は2日延期の決定がなされました。

5月8日:

日米両攻撃隊発進:日米両機動部隊が索敵機を発進し、ほぼ同時刻に双方とも目標とする敵機動部隊を発見、まず米機動部隊が攻撃隊を発進しています(戦闘機15機、艦爆46機、艦攻(雷撃機)21機:計92機)。一方、MO機動部隊も戦闘機18機、艦爆33機、艦攻(雷撃機)18機、計69機からなる攻撃隊を発進し、両攻撃隊は途中で互いに視認しながらすれ違っています。

米機動部隊攻撃隊の戦闘:まずヨークタウン攻撃隊がMO機動部隊を発見し攻撃。「瑞鶴」はスコールの下に逃れたため攻撃は「翔鶴」に集中し、450kg爆弾2発を被弾し、搭載機部隊の運用が不可能となりました。続いてレキシントン隊(途中、悪天候で半数が引き返したため、数が半減していました)が襲来し、さらに450kg爆弾1発を「翔鶴」に命中させています。

MO機動部隊はこれに対し戦闘機(零式)19機を上げて応戦しましたが、2機が戦闘で失われ、3機が母艦(翔鶴)の被弾により燃料切れで不時着水しています。

MO機動部隊攻撃隊の戦闘:約2時間の飛行後に米機動部隊上空に到達(この時、帰還燃料切れを知りながら攻撃隊を誘導した菅野機(索敵機)のエピソードは有名ですね)、まず雷撃隊が両空母を襲撃し「レキシントン 」に魚雷3発を命中させます。次いで艦爆隊が攻撃、「レキシントン」に直撃弾2発、至近弾5発、「ヨークタウン」に1発の直撃弾と至近弾3発を与えました。のちに「レキシントン」は漏れ出したガソリンにより数時間後に大爆発、大火災を起こし、処分されています。海水飛沫等への配慮から密閉型の格納庫を持っていたのですが、これが仇になったようです。「ヨークタウン」でも同様のガソリンもれは起こっていますが、開放型の格納庫のため充満せず、引火・爆発等は避けることができています(本稿でもいずれご紹介しますが、日本海軍が鳴り物入りで戦時中に就役させた「大鳳」も同じような最後を迎えていますね)。

 

この攻撃後、母艦に帰還したのは戦闘機17機(発進18機)、艦爆19機(発進33機)、艦攻10機(発進18機)で、帰還時に上記のように「翔鶴」が飛行甲板に被弾し搭載機運用能力を失っていたため、全て「瑞鶴」に着艦せざるを得ず、飛行甲板整理のため12機が海中に投棄されました。これ以外の未帰還機の中には、真珠湾攻撃隊の艦爆隊長で「翔鶴」攻撃隊隊長、急降下爆撃の権威と言われていた高橋少佐が含まれていました。

攻撃隊帰還の時点での使用可能機数は、戦闘機24機、艦爆9機、艦攻6機、計39機に減少していました。(その後、修理可能機の補修により、翌9日には戦闘機24機、艦爆13機、艦攻8機、計45機まで回復)

一方米機動部隊のこの日の航空部隊の損害は、MO機動部隊攻撃隊が戦闘機8機、艦爆3機、艦攻1機、計12機で、自身の機動部隊防御戦での損失が戦闘機6機、艦爆15機(上空待機させた艦爆で、MO機動部隊の雷撃隊を迎撃させたようです)、計21機でした。

 

この日の海戦で、米機動部隊は空母1隻を失い、もう1隻も戦闘行動ができる状態ではありませんでした。一方、MO機動部隊は空母1隻は運用不能となりましたがもう1隻は損害はありませんでした。しかし搭載機の損耗は激しく、9日午後時点で稼働機は45機にとどまっていました。結局、「戦線整理」(=撤退)を第五航空戦隊指揮官(原少将)が具申し、高木部隊指揮官が作戦中止を決定して戦場より撤退し、MO作戦は延期されることとなりました。

ラバウルに在泊中の第四艦隊司令部(井上中将)は、米空母2隻撃破の戦果報告を受けて(報告では撃沈2隻)、追撃の指示を準備していましたが、前線部隊指揮官(高木中将:MO機動部隊指揮官)からの戦線離脱の一報でこれを断念したと言われています。

その後、連合艦隊司令部からの要求で、追撃命令を下令し再度「瑞鶴」は南下しますが、既に敵影はありませんでした。

一方同様の混乱は米軍側でも発生しており、米軍も戦果報告では空母2隻撃沈とされています。つまり、この時点では双方、相手の空母機動部隊は壊滅できたと考えていたわけです。そのため米艦載機が無傷の「瑞鶴」を発見すると、新手の空母としてカウントされ、傷ついた「ヨークタウン」のみを手元に持つ米機動部隊指揮官のフレッチャーは撤退を決定しています。

 

その後

いずれにせよ、ポート・モレスビー攻略部隊を載せた輸送船団は撤収し、作戦は中止(表現としては延期)されました。日本軍としては、開戦以来初めて作戦目的が達成できなかった戦闘となったわけです。この辺りが「戦闘では勝ったが、戦略で負けた」と爾来言われている所以なのでしょうね。

 

結局、海上からのポート・モレスビー攻略は断念され、南海支隊は歩兵連隊、工兵連隊等の増強を受けたのち、陸路、スタンレー山脈を越えるルートに切り替えて侵攻を行いますが、侵攻は補給不足などの困難に直面しポート・モレスビーの灯火を見るところまで迫りながら達成されることなく、逆に米豪軍の攻撃により撤退に移り、MO作戦と並行して侵攻し確保したツラギへの反撃(ツラギの対岸がガダルカナルです)と併せて、日本の敗勢の発端となってゆくこととなります。

 

また、この海戦に参加した第五航空戦隊は、元々は作戦後、ミッドウェー作戦に参加する予定でした。南雲機動部隊は第五航空戦隊のミッドウェー作戦参加に先立って、新編成の同航空戦隊に戦闘経験を積ませることを目論んで同戦隊をMO作戦に派出したのですが、結果は空母「翔鶴」中破、その後の修復と、何よりも搭載機部隊の消耗がひどく、ミッドウェー作戦への参加は不可能となりました。結局、南雲機動部隊は第五航空戦隊なしで、ミッドウェー作戦を実施することになります。

 

課題は

ちょっと長々と「珊瑚海海戦」の展開を見てきたのですが、史上初の空母機動部隊同士の海戦はいくつかの課題を提示しています。

空母機動部隊同士の海戦は、双方の戦闘距離が従来の海戦の比ではなく、相手を視認できません。このことから索敵の重要性、併せてその精度が重要になってきます。

さらに戦果確認も重要です。実施部隊は航空部隊であり、戦闘中の戦果をどのように整理してゆくのか、これは功績を認める以上に、作戦の修正等にとっても重要になってきます。

戦術的には、この戦いで、母艦上空の防衛が大変難しいことがわかってきたと考えています。当時の日本海軍の戦闘機パイロットの技量は高かったはずで、それでもそれほど大きな損害を相手攻撃隊に与えられていません。(戦果報告は大きいのですが。つまり誤認が大きい)おそらく対空砲も同様でしょう。この辺りを手当てする方法が模索されていれば、ミッドウェーの結果も異なったかも。

さらに重要なのは、攻撃隊の損耗率の高さ、でしょう。特に攻撃隊は攻撃を終えた帰路に撃墜されることが多かったようで、護衛戦闘機の運用など(敵戦闘機が現れると、護衛戦闘機隊は空中戦に入り離れてしまうことが多かったようです。帰路はほとんど帯同しなかった、とも)検討の余地があったのでは。

もしさらに検討進めるならば、損耗を前提とした体制(育成や戦術開発)の検討も行われるべきだったかも。(この辺りは海軍戦略そのものとも関係してきますね。長期消耗戦では勝機が見出せないため、あくまで短期艦隊決戦主義で行くなら、一枚看板主義で行くところまでいく、ということでも良かったのかもしれません。本稿の何処かでも書きましたが、日本海軍の空母機動部隊構想では、潔くこれを貫くべきだったのかも。そこがはっきりしていれば、究極の消耗戦である「特攻」なんて、考えなくても良かった、とも思えます)

 

というわけで、今回はこの辺りで。

次はいよいよ「ミッドウェー海戦」なのですが、大きな流れとしての日本の攻勢の終局点は、この珊瑚海海戦(というよりもMO作戦の挫折)だったのかも、と考えています。MO作戦の二つの攻略目標が、日本の敗勢の発起点となっていました。まだ開戦して半年、なんですがね。(「半年は暴れて見せましょう」って、そこまで見えていたのか?)

と言うことで、次回は「ミッドウェー海戦」をお送りする予定です。(年末が迫り、何かと週末が忙しくなってきました。一回、新着モデル等はさむかもしれません)

 

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

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空母小史:ちょっと一休み:重巡洋艦改造空母の制作:「伊吹」「筑摩」

この週末、ちょっとしたイベントがあって、今回は空母小史をお休みして、いま取り組んでいるモデルのご紹介を、簡単に。

 

日本海軍の重巡洋艦改造空母

これまで「空母小史」で何度か触れているように、日本海軍は有事の際に補助的な役割の空母に比較的短時間で改造転用できるよう設計した、潜水母艦水上機母艦を建造していました。さらに、同様に民間の商船にも、有事の際の同様の空母への転用を条件に補助金を出して優良商船の建造を推奨するなどの施策をとってきました。

これらは実際に太平洋戦争において実行され、特にミッドウェー海戦で主力艦隊空母の多くを失って以降、機動部隊に欠かせね存在となってゆくわけです。まあ、これは「小史」本編で追々と紹介してゆきます。

さらに、改造の対象は既製の軍艦へも広げられてゆくのですが、これも本稿では少し触れる予定で、現在、その準備のための情報収集と、模型製作を並行して行っているところです。

今回はそう言うお話。

 

空母「伊吹」の制作

以前本稿で、日本海軍の巡洋艦開発小史をお届けしましたが、その「番外編」で「改鈴谷級」重巡洋艦のご紹介をしました。

fw688i.hatenablog.com

「改鈴谷級」は(「伊吹級」重巡洋艦と言ったほうがわかりやすいかもしれませんね)、日本海軍が建造に着手した最後の重巡洋艦の艦級なのですが、実際にはミッドウェー海戦での敗北で一気に4隻の艦隊空母を失った日本海軍は、その喪失の穴埋めに建造途中の「伊吹級」重巡洋艦を空母として完成させることにしたのです。

 

空母「伊吹」は、結局、巡洋艦から空母への改造工数の多さと悪化する戦局による資材調達状況で工事は進まず、未完のまま終戦を迎えるのですが、模型の世界では完成形を見ることができるわけです。

ja.wikipedia.org

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(制作途中の空母「伊吹」の概観:「瑞鳳級」や「千代田級」軽空母に比べると、艦型はやや大きく見えます)

空母への改造の母体となったのが「改鈴谷級」の重巡洋艦だけに、速力は空母機動部隊との帯同、艦載機の発着艦に必要な構成風力の合成等、空母としての運用には申し分なく、船体の大きさも200m級ですので、潜水母艦改造や水上機母艦改造の空母よりも空母としての適性は高かったと言っていいでしょう。ただし、大きな機関を搭載した船体に1層の格納甲板を乗せた構造から、搭載機数は本科的な艦隊空母とまではいかず、30機程度に止まっていたであろうと言われています。

 

入手先は、例によってShapeway(製作者:Mini and Beyond)です。

www.shapeways.com

これをほとんど手を入れずに塗装を進めているところです。後は飛行甲板上の白線を入れてゆくだけ。

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(空母「伊吹」と改造母体となった(なる予定だった?)重巡洋艦「伊吹」の艦型比較:少しわかりにくいですが、空母形態の方が艦尾部の幅が広くなっているように感じます)

 

この「ミッドウェー海戦敗北」後の時期、艦隊空母喪失の対応として既に数隻が着工されていた「雲龍級」空母の増産が決定されますが、その整備の中継ぎとして、他にも既成艦の空母への改造が検討されています。その空母改造の検討対象は、「大和級」を除くほぼ全ての戦艦、巡洋艦に及びましたが、結局改造工数の多さと着手した際の本家「雲龍級」の建造への影響から見送られ、実際には砲塔の爆発事故で修復が計画されていた「伊勢級」戦艦が航空機を運用できる航空戦艦へと改造されたに止まりました。(とはいえ「大和級」3番艦の「信濃」は空母として完成されています)

航空戦艦「 伊勢」「日向」

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(直上の写真は伊勢級航空戦艦の概観:172mm in 1:1250 by Delphin)

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(直上の写真は伊勢級航空戦艦2隻:伊勢(奥)、日向) 

ja.wikipedia.org

 

重巡洋艦「筑摩」空母改造案

既成艦の空母改造計画の資料を漁るうちに、重巡洋艦「筑摩」の空母改造の図面に行き当たりました。

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どうやら「南太平洋海戦」で損傷した重巡「筑摩」の損傷回復の際に、一気に空母へ改造しようと検討がなされたようです。(同型艦の「利根」についてはこんな情報は出てきませんね。うまくいけばと言うことだったんでしょうか)

艦首がエンクローズド・バウですね。エレベータが1基しかないのは、何故でしょうかね。

搭載予定の艦載機が「烈風」や「流星」で大型化しているので、「伊吹」でも「筑摩」でも、甲板繋止が当たり前のように予定されていたようです。改造空母では格納庫スペースが十分には取れない、エレベータのスペースもできれば格納スペースに。と言うようなことと関係があるかもしれません。

 

1:1250スケールでは、モデルは流石に出ていません。(1:700スケールではガレージキットが出ていたようです。やっぱり凄いな)

となると、筆者の常として、なんとか形にしてみようと言う想いがむくむくと。手近なところから使えそうなモデルを探し始めるのですが、そういえば「改鈴谷級」と「利根級」は寸法は大きく変わらないので、では空母形態の「伊吹」をベースにトライしてみようかな、と言うことに思い至るわけです。そしてその試みが、下記の写真です。

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(前出の空母「伊吹」のモデルをベースに手を入れてゆきます。艦首部を、プラパーツとエポキシ・パテを用いてエンクローズド・バウ形態に(右下)。そして図面では煙突が右舷側に二本、これを追加(左下))

前出の空母「伊吹」のモデルをベースにして、前部飛行甲板のトラスを撤去。最大の特徴であるエンクローズド・バウをプラパーツとエポキシ・パテで再現します。これが最大の作業(上掲の写真の右下)。図面では右舷に煙突が二本突き出ていますので、これもプラパーツでそれらしく追加(左下)。なんとなくそれらしくなってきたかな。エレベーターが1基と言うのは少し考えものですね。架空艦なので、2基装備でもいいようにも思います。

後は下地処理をして塗装をして完成です。f:id:fw688i:20211106184706j:image

重巡洋艦形態の「筑摩」と空母形態の艦型比較)

「伊吹」も「筑摩」もいずれは完成形を空母小史でご紹介することになるでしょう。

と言うわけで、今回はコンパクトにここまで。

 

次回は「空母小史」に戻って、「珊瑚海海戦」のお話をお届けする予定です。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

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日本海軍 空母機動部隊小史 4:空母機動部隊の活躍と第一段作戦の終了、第二段作戦への移行

空母機動部隊の南方攻略戦支援

1941年12月の「真珠湾攻撃」の後、南雲機動部隊は第二航空戦隊(「飛龍」「蒼龍」)を第四艦隊に分派し、難攻していたウェーク島攻略を支援します。f:id:fw688i:20211031132140j:image

(難攻するウェーク島攻略戦に分派された第二航空戦隊:「飛龍」(上)と「蒼龍」)

その間、機動部隊本隊は本土に帰還、予定されていた南方展開の支援のための補給・整備に入っていました。

1942年1月、第一航空戦隊(「赤城」「加賀」)と第五航空戦隊(「瑞鶴」「翔鶴」)はラバウル攻略支援作戦を実施しましたf:id:fw688i:20211031132144j:image

(ラバルル攻略戦を支援した第一航空戦隊:「赤城」(上)と「加賀(上の写真)と(下の写真)第五航空戦隊(「瑞鶴」(手前)と「翔鶴」)

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2月、オーストラリア北岸のダーウィン空襲、続いてジャワ攻略戦支援を実施します(第一航空戦隊、第二航空戦隊)。

補給地で座礁損傷した「加賀」は内地に引き上げますが、1942年3月、「加賀」以外の5隻でインド洋に進出し、インド洋での作戦を展開します。

 

インド洋作戦と英東洋艦隊の動向

インド洋に進出した機動部隊は、ビルマ攻略戦を支援するために東インド洋の英軍の拠点であったセイロン島のコロンボ、トリンコマリーに空襲を行いました。

当時、英海軍は東洋艦隊を増強していました。

南雲機動部隊のインド洋作戦展開当時、東洋艦隊には戦艦5隻(いずれも第一次大戦型の超弩級戦艦を近代化改装した艦)、空母3隻(中型装甲空母2隻と軽空母1隻)を基幹とする有力な艦隊となっていましたが、元来東洋艦隊の一大拠点であったシンガポールの陥落を受け、艦隊集結地を新拠点候補の一つであるインド洋東方のモルディブ諸島アッドゥ環礁に下げていたため、互いに索敵を実施したものの双方発見に至らず、主力艦隊同士の海戦は発生しませんでした。

英東洋艦隊の主要艦

戦艦「ウォースパイト」(東洋艦隊旗艦)

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「ウォースパイト」は同級の一隻です。同艦は第二次世界大戦を通じて種々の海戦で戦果を上げており、しばしば第二次世界大戦での最優秀戦艦と呼称されるほどの活躍をしていることでも有名です。

同級は初めて15インチ砲を主砲として採用し、砲力の格段の強化と、あわせて速力を25ノットとした「高速戦艦」でした。同級の最終改装では、艦橋構造の変更、副砲の撤去と対空兵装の充実などが行われ、艦容が一変するほどのものでした。装甲重量、重厚な艦橋など、重量の増加に伴い、速力の低下を生じていたようです。

(1942近代化改装後: 32,930t, 23knot, 15in *2*4, 5 ships,154mm in 1:1250)  

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リヴェンジ級戦艦(東洋艦隊所属は「レゾリューション」「ラミリーズ」「ロイヤル・ソブリン」「リヴェンジ」)

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前級「クイーン・エリザベス」級戦艦で成功を見た15インチ砲を搭載した戦艦を安価に量産するために「アイアン・デューク」級戦艦を基本設計として生まれた艦級です

最終改装は「クイーン・エリザベス級」ほど徹底したものではありませんでしたが、防御装甲の強化、舷側へのバルジの追加、対空兵装の強化などが行われ、速力が低下しました。

(下の写真:1942近代化改装後の概観 33,500t, 21.5knot, 15in *2*4, 5 ships, 150mm in 1:1250) 

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イラストリアス級航空母艦(東洋艦隊所属は「インドミタブル」「フォーミダブル」)

ja.wikipedia.org

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(英東洋艦隊に編入された「インドミタブル」と「フォーミダブル」:いずれも「イラストリアス」級の概観:192mm in 1:1250 by ???(メーカ不明です)戦隊のみジャンクパーツで入手したモデルを、それらしく仕上げてあります)

同級は空母の弱点である飛行甲板を装甲化した世界初の重防御空母の艦級です。装甲化によるトップヘビー化対応により、格納甲板が当初1層とされたため、搭載機数が減少しています。

東洋艦隊所属の「フォーミダブル」は第一世代に属し、一層の格納庫を持っていましたが、「インドミタブル」は改良型の第二世代で、格納庫を部分的に二層とし、搭載機数を増やす試みが行われました。それでも装甲甲板を持った代償は大きく、1942年当時の搭載機数として記録されているのは「フォーミダブル」41機、「インドミタブル」45機と、同時期のほぼ同じ大きさの「飛龍」級に比べると、やや控えめな搭載機数でした。

ちなみに空母「インドミタブル」は、当初、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」と共に東洋艦隊に配置される予定でしたが、シンガポールへの回航途中で座礁しその損傷回復に時間を要したためマレー沖海戦に間に合いませんでした。もし間に合っていれば、陸攻・中攻だけの護衛戦闘機なしで行われた日本海軍の両艦襲撃は実施されなかったかもしれません。

 

軽空母「ハーミス」

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(英東洋艦隊に編入された空母「ハーミス」の概観:147mm in 1:1250 by Neptun: 下の写真では、この時期の空母の共通特徴である対艦用の主砲装備のアップ:14センチ単装砲を6門装備していました)

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(Harmis の日本語表記としては「ハーミーズ」「ハーメス」「ハームス」「ハーミズ」等種々ありますが、ここでは「ハーミス」と表記しています)

いわゆる最初から航空母艦として設計された世界で初めての軍艦です。完成が日本海軍の「鳳翔」の方が早かったため日本では「鳳翔」を世界初の航空母艦とする史料が多いようです。

英海軍には既に商船改造の「アーガス」や戦艦改造(建造途中から空母に変更)の「イーグル」など、艦上機を搭載し運用する先行艦があり、これらを参考にはしたものの、実験的な色合いの強い艦でした。

「鳳翔」と同世代の航空母艦の常として、「ハーミス」も対艦用武装として14センチ単装砲6基を装備していました。一層の格納庫を持ち、太平洋戦争開戦時には2基のエレベーターを装備していました(竣工時には1基のみ装備。のちに追加)。艦型が小さく、低速のため航空機の近代化につれ運用可能な機種が少なくなり(「鳳翔」も同様でした)、太平洋戦争開戦当時は、複葉のソードフィッシュ雷撃機)12機を搭載していました。

 

コロンボ空襲、トリンコマリー空襲、そしてセイロン沖海戦

南雲機動部隊はセイロン島における英軍の根拠地であるコロンボ、トリンコマリーを相次いで空襲し、基地施設を破壊しましたが、その際、英東洋艦隊から離れて行動していた重巡洋艦「ドーセットシャー」「コーンウォール」と上記の軽空母「ハーミス」を撃沈しました。

 

撃沈された「コーンウォール」:ケント級重巡洋艦

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(直上の写真は、「ケント級」の概観。152mm in 1:1250 by Neptune )

 

撃沈された「ドーセットシャー」: ノーフォーク重巡洋艦

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(直上の写真は、「ノーフォーク級」の概観。152mm in 1:1250 by Neptune )

撃沈された空母「ハーミス」(再掲)f:id:fw688i:20211031125920j:image

(上述のようにこの時期空母「ハーミス」は艦上戦闘機を搭載していませんでした。低速のため、十分な合成風力が

得られず、発艦させられる艦上戦闘機がなかった、と言うべきでしょうか。セイロン沖で南雲機動部隊と交戦した際にも、「ハーミス」がセイロン島の陸上基地に戦闘機の派遣を要請した無線が記録されているそうです)

 

コラム)珍しい複座艦上戦闘機「フェアリー・フルマー」

上述のように「ハーミス」は艦上戦闘機を運用できませんでしたが、英海軍は艦上戦闘機の分野ではかなり出遅れていました。「フェアリー・フルマー」はそれまで旧式の複葉機しか保有していなかった艦上戦闘機の後継機として設計された単葉複座の艦上戦闘機でした。

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複座とした理由は洋上での運用を考慮した際に航法士が必要、と言うもので、単発エンジンでの戦闘機としては運動性や速度に著しいハンディが生じるのは自明でした。

600機余が生産されましたが、性能は十分ではなく、ハリケーン艦上戦闘機タイプ(シーハリケーン)やスピットファイア艦上機型(シーファイア)、グラマンF4Fの英国向け輸出型(マートレット)に置き換えられました。

翼内に固定武装として7.7mm機銃8挺を搭載していた他、後部の航法士座席に旋回式の7.7mm機銃を搭載したタイプもあったようです。250kg爆弾2発の搭載能力もあったようですが、低速は如何ともし難く、あまり目覚ましい戦闘記録は残っていません。

フェアリー社はフルマーの好景気として、エンジンと武装を強化したやはり複座のファイアフライ艦上戦闘機として製造していますが、空母搭載の夜間戦闘機、対潜哨戒機、強行偵察機、練習機として使用されたようです。

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でも、ちょっと面白い。

 

インド洋作戦の終了と第二段作戦への準備

こうれまでに述べてきたような経緯で、南雲機動部隊は「真珠湾攻撃」からの一連の第一段作戦を終了し、第二段作戦の準備に移行してゆきます。

第二段作戦は、第一段作戦の成功で太平洋戦争のそもそもの目的であった南方資源地域の確保に成功した日本が、資源地域から本土への輸送路の安全を確保するために、中部太平洋の防御施設地域の外周の拡大と、長期戦を避けるためになんとか短期での艦隊決戦への米海軍の誘引を同時に企図した作戦、と言えると考えます。

インド洋作戦を終えた南雲機動部隊について言うと、具体的には、第一航空戦隊、第二航空戦隊は休養、整備、補充のために内地に帰還し、第五航空戦隊は第二段作戦の緒戦と位置付けられるニューギニア島ポートモレスビー攻略の支援を目的として、実施部隊である第四艦隊に編入されます。

 

ポートモレスビー攻略戦(MO作戦)の始動

ポートモレスビーはニュギニア島の南岸に位置する米豪軍の拠点で、これを確保することにより、日本海軍の一大拠点である中部太平洋の要、トラック島(カロリン諸島)の外郭拠点として確保したラバウルの安全性をさらに高めようと言う企図の元に、攻略が検討されました。

ラバウルに近いニューギニア島の北東岸は既に日本軍が確保していましたが、同地からポートモレスビーへの陸上からの侵攻は、中間に高山地帯があり難度が高いため、海上からの侵攻が検討されたのでした。

この作戦は南洋部隊としてラバウル等の攻略を担当した第四艦隊が担当しますが、同艦隊の固有の戦力は根拠地対等、警備部隊であったため、第一段作戦参加部隊からいくつかの中核戦力が引き抜かれ、同作戦にあたることとなりました。

 

MO機動部隊

第五航空戦隊は同作戦の航空支援の中核戦力と目されており、従来の第五航空戦隊(「瑞鶴」「翔鶴」)に加えて、これを支援する護衛部隊として第五戦隊(重巡妙高」「羽黒」)と第七駆逐隊(駆逐艦2隻)、第二十七駆逐隊(駆逐艦4隻)を加えた機動部隊が編成されました。

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「翔鶴級」航空母艦の概観:182mm in 1:1250 by Neptun:下の写真は「翔鶴」(奥)と「瑞鶴」。両艦は同型艦でしたので大きな差異は、このスケールでは見られません)

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の大改装後の概観。166mm in 1:1250 by Neptune) 

 

MO攻略部隊

これとは別に海上から侵攻する上陸部隊の直接支援部隊として第六戦隊(重巡「青葉」「衣笠」「古鷹」「加古」」)と駆逐艦1隻、第十八戦隊(軽巡「天龍」「龍田」)と数隻の特設水上機母艦特設砲艦特設掃海艇、さらに輸送船団の直衛部隊として第六水雷戦隊(軽巡「夕張」、駆逐艦5隻)と敷設艦津軽」が当たることになっていました。

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(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)

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(直上の写真:天龍級軽巡洋艦:116mm in 1:1250 by Navis)

 

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(直上の写真: 第18戦隊の天龍級軽巡洋艦2隻:天龍と龍田)

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

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(直上の写真は、上述の機雷敷設艦津軽」:104mm in 1:1250 by Neptune  4000トンの船体を持ち、条約制限いっぱいの20ノットの速力を有していました。「津軽」は12.5cm 連装対空砲を2基を主砲として搭載していますが、準同型艦の「沖島」は軽巡洋艦と同等の14cm主砲を連装砲塔形式で2基、保有していました。ロンドン海軍軍縮条約で、機雷敷設艦等の補助艦艇には最高速力を20ノット以下とする、という制限がかかりましたが、これは、「夕張」「古鷹級」等のコンパクト重装備艦の登場を警戒した列強が、機雷敷設艦の名目で日本海軍が軽巡洋艦として運用できる強力な敷設巡洋艦を建造することを予防した、と言われています。実際に太平洋戦争では、中部太平洋ソロモン諸島方面で輸送船団の護衛や、自ら輸送・揚陸任務など、高速を必要とする水雷戦隊旗艦島の任務を除けば他の軽巡洋艦と同等に活躍しています)

これらの諸艦については下記のリンクの前後の回でも楽しんでいただければ、と。

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艦隊補助空母「祥鳳」の編入

さらに、この部隊には1隻の補助空母が追加されています。

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(空母「祥鳳」の概観:164mm in 1:1250: 「祥鳳」の特徴としては、飛行甲板がオリジナルのまま延長されなかったところでしょうか?:下の写真では、「祥鳳」の母体となった潜水母艦「剣崎」と「祥鳳」の対比をご紹介しています)

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(上の写真は、潜水母艦形態と航空母艦形態の比較。エレベーターなどが最初から組み込まれていたことがよく分かります。後部のエレベータ:上の写真では船体後部のグレー塗装部分:は潜水母艦時代には、エレベータは組み込まれたものの、上に蓋がされていたようです。:「剣崎級」潜水母艦は、筆者の知る限り、1:1250スケールでは市販のモデルがありません。上の写真は筆者がセミ・スクラッチしたものです。写真の空母は「祥鳳」の姉妹艦「瑞鳳」ものです。「瑞鳳」の母体となった「高崎」は潜水母艦としては完成されないまま航空母艦に改造されましたので、潜水母艦としての「高崎」は結局存在していません。モデルは「剣崎」の図面(こちらは潜水母艦として完成しています)に従ったもの。後に空母「祥鳳」に改造されています。という次第で、形態はあくまでご参考という事でお願いします)

 

「祥鳳」は戦時には短期間での補助空母への改造を計画されていた「剣埼」級潜水母艦ネームシップ「剣埼」を空母に改造して建造された艦隊補助空母です。二番艦「高崎」は潜水母艦形態を経ずに先に太平洋戦争開戦前に空母として完成していましたが、同艦は潜水母艦形態を経てのちに空母の改装されたため、就役は開戦直後の1941年12月22日でした。

その後、第四航空戦隊を「龍驤」と共に編成しますが、既に「龍驤」は南方作戦の支援に出ていたため、行動を共にする機会はありませんでした。就役後は南方への航空機の輸送島の任務等に従事していました。

 

「祥鳳」の同部隊への編入には、これまでの第一航空艦隊のインド洋作戦での戦訓から、同機動部隊の搭載艦上戦闘機の数が、機動部隊周辺の警戒と、発進する攻撃隊の護衛の双方を行うには不足していることが挙げられ、同艦を実験的に搭載機を全て艦上戦闘機として機動部隊直掩に専従させる事で攻撃隊の護衛を強化する狙いがあったとされています。

しかし、上陸部隊を供出する陸軍から輸送船団の上空直衛への強い希望があり、第四艦隊司令部もこれを了承したため、結局、同艦はMO攻略部隊に編入され、輸送船団の上空支援にあたることとなりました。

 

「MO作戦」と言う名称から考えること

本当にこんな作戦名称を使っていたんでしょうか、と言いたくなるような名称です。

民間の商品開発でも、もう少し秘匿性の高い暗号名がつけられますよね。

それとも作戦の発動はあくまで敵の艦隊を誘き出すための餌だったのでしょうか?むしろ予定戦場をほのめかずくらいが丁度いい、とか?

長期消耗戦での勝利は絶対にあり得ないのだから、短期の決戦主義で破れれば、もはや仕方ないのだ、と言っている作戦名のようにも思えてきます(こんな解釈が多分に後知恵であることは自覚しています)。不敗の体勢なんてあり得ないのだと割り切っているようにも思えます。

とりあえず一回戦は完勝だった。駒も大きく失わずに済んだ。これを後2回くらい繰り返せば、少しずつ相手の戦意を挫くことができ、「終わりかた」の話ができるようになるんじゃないのか、そう言うことでしょうか?(野球も7回で「コールド」があることだし、と思ったかどうかは?)

と書いていると、米国の国力を熟知し対米戦争に反対し続けた連合艦隊司令長官が軍人として取り得た一つの道、としてはありかな、とも思えてきました。

総力戦が理解できなかったのではなく、どう転んでも総力戦での勝ちが望めない以上は、解る必要がなく、つまりその路線に寄り添ってはいけないわけで、いけるところまで一枚看板で均衡を求めて決戦主義で行こう、そう言うことだったんでしょうか?

「半年は暴れてみせます」と言う言葉の意味はそう言うことだったんでしょうかね。だから半年以内にもう一回、勝って見せれば、なんとかなるかも、と。或いはそれは日露戦争で日本がなんとかなった(勝った、と言えないまでも、滅びなかった)、と言う戦訓から来ているのかもしれません。

「暴れて見せる」ための切り札が高速空母に足の長い航空機を満載し、航空魚雷で敵艦隊を仕留める空母機動部隊であり、実はこれが多分に「消耗戦」的な要素を持っていた、つまりあっという間に「決戦の一枚看板」が失われなくてはいけなかった、と言うところがなんとも皮肉なような気がします。決戦主義で戦うにしても、「一枚看板」では準備不足だった、そう言うことかも。

「MO作戦」の名称から、あらぬところに想像の羽が飛んでしまいました。

 

と言うことで、次回は「一枚看板」の崩壊の序曲とも言うべき、空母機動部隊同士の初めての戦闘「珊瑚海海戦」をお送りする予定です。(一回、新着モデル等はさむかもしれません)

 

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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日本海軍 空母機動部隊小史 3:空母機動部隊の創設と真珠湾攻撃の意味

本稿前回では、日米間の戦雲が熟する時期に、日本海軍の航空母艦整備状況がどのような段階であったか、それを少し整理してみました。

今回は、それらがどのように使われることになったのか、そういうお話です。

 

10隻の航空母艦

少しおさらいをしておくと、1941年時点で、日本海軍は以下の10隻の航空母艦保有していました。

 

世界初の航空母艦「鳳翔」

多分に実験的な性格を帯びた小型空母でした。

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(太平洋戦争初期の「鳳翔」概観 by Trident:アイランド形式の艦橋は撤去され、飛行甲板下の最前部に移動しました。煙突は倒された状態(下段右))

 

条約型改造大型空母「赤城」

ワシントン条約で建造途中での廃棄が決定されていた巡洋戦艦「赤城」を航空母艦に改造することが認められていました。当初は三層の飛行甲板を有する母艦として完成しましたが、のちに一層全通飛行甲板の本格的空母として改装されました。ja.wikipedia.org

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(一段全通甲板形態に大改装された「赤城」の概観:下の写真は竣工時の「赤城」(上段)と改装後の「赤城」の比較。「加賀」同様、中甲板の20センチ連装砲塔が撤去され、小さな艦橋が飛行甲板左舷「加賀」に比べるとやや艦の中央よりに設置されました)

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条約型改造大型空母「加賀」

ワシントン条約で建造途中での廃棄が決定されていた巡洋戦艦「天城」を航空母艦に改造することが認められていました。改造工事の途中に発生した関東大震災で被災した「天城」に変わり、急遽やはり廃棄予定だった戦艦「加賀」が航空母艦に改造されることになり、空母として完成しました。当初は「赤城」と同じ三層の飛行甲板を有する母艦として完成しましたが、のちに一層全通飛行甲板の本格的空母として改装されました。

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(一段全通甲板形態に大改装された「加賀」の概観:下の写真は三段飛行甲板形態の竣工時(上段)と、全通飛行甲板形態に改装後の比較。中飛行甲板に設置されていた20センチ連装砲塔が撤去され、飛行甲板右舷に小さな艦橋が設置されました)

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「加賀」のカタパルト装着計画

日本海軍の空母の課題といえば、カタパルトを装備できなかったことが結構大きいと筆者はかねがね思っているのですが、実は太平洋戦争開戦の直前に装着実験が「加賀」で行われています。

「加賀」は、空母への改造途中で関東大震災で被災し工事を断念せざるを得ない損害を受けた巡洋戦艦出自の「天城」に代えて、こちらも条約で廃棄が決定されていた戦艦「加賀」を、急遽空母として完成させることになった、という経緯で空母として完成されたピンチヒッター的な要素から「天城」のような高速が期待できず、その劣速を補う意味もありカタパルトの装着に至ったという経緯があるように筆者は想像するのですが、せっかくの試みながら、射出実験は射出の際の衝撃の大きさと、再発射までの所要時間の長さから実用に至りませんでした。

この際に検討された射出方式は、火薬式のカタパルトに艦上機を車輪をたたんだ形態で台車に乗せて射出するという悠長な物で、手数の多さから実用に至らなかった、ということのようです。

日本海軍のカタパルトについては本稿下記の回でも、少し詳しくお話ししています。

fw688i.hatenablog.com

上記の回ではかなり架空戦記的な要素を含んでいますが、史実でもカタパルトを実用化できず、艦隊空母でも重量の大きな艦上攻撃機「天山」やそれに続く「流星」などを飛行甲板から発進させることが出来ず、補助ロケットを装着し推力を付加せねばならなかったようで、カタパルトの装備はやがて致命的な課題になってゆきます。

 

条約型小型空母「龍驤

ワシントン条約保有制約を免れることを意識して設計された小型空母でした。この時期の日本海軍の設計の傾向として、条約を意識した小型の艦体に対し目一杯の装備を搭載したため、トップヘビーで不安定な仕上がりとなったため、数次の改造が行われました。

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ワシントン条約の空母保有枠を意識して設計された小型航空母艦龍驤」の概観:149mm in 1:1250 by Neptun:s設計途中でロンドン条約が締結され、小型空母も条約の保有制限対象となったため、急遽、格納甲板を一段追加、いかにもトップ・ヘビーな概観となりました)

 

条約型中型艦隊空母「蒼龍」

ワシントン・ロンドン条約保有制約を意識して、日本海軍が設計した初めての本格的な艦隊空母です。実態は制約の枠を大きく超えた設計となりましたが、優秀な設計でした。

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航空母艦「蒼龍」の概観:180mm in 1:1250 by Neptun)

 

条約型中型艦隊空母「飛龍」

本来は「蒼龍級」に二番艦となる予定でしたが、設計途上でワシントン・ロンドン条約の破棄がほぼ明白となったため、保有制約を意識しない設計に拡大されました。

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航空母艦「飛龍」の概観:182mm in 1:1250 by Neptun)

同型艦「蒼龍」と「飛龍」

(下の写真は「蒼龍」(手前)と「飛龍」の概観比較:「飛龍」は「蒼龍」の拡大改良型とされていますが、基本は同型で言いきさには大差ありません。艦級の位置の差異が目立ちますね。「蒼龍」は右舷側、「飛龍」は左舷側ですが、さらにその飛行甲板上の位置も大きな差異が見られます。「蒼龍」の場合には排気路との干渉を避けるために、前よりになっています)

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大型艦隊空母「翔鶴級」:「翔鶴」「瑞鶴」

来るべき無条約時代を念頭に「蒼龍級」を拡大した設計の大型航空母艦です。多数の艦上機の運用に適した大型の艦型と長大な飛行甲板を有していました。

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(「翔鶴級」航空母艦の概観:182mm in 1:1250 by Neptun:下の写真は「翔鶴」(奥)と「瑞鶴」。両艦は同型艦でしたので大きな差異は、このスケールでは見られません)

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艦隊補助空母「瑞鳳級」:「瑞鳳」

「剣崎級」潜水母艦を改造した補助空母で2隻が空母に改造されましたが、1941年時点では「瑞鳳」のみ間に合っていました。

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航空母艦「瑞鳳」の概観:164mm in 1:1250 by Trident)

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(上の写真は、潜水母艦形態と航空母艦形態の比較。エレベーターなどが最初から組み込まれていたことがよく分かります。後部のエレベータ:上の写真では船体後部のグレー塗装部分:は潜水母艦時代には、エレベータは組み込まれたものの、上に蓋がされていたようです。:「剣崎級」潜水母艦は、筆者の知る限り、1:1250スケールでは市販のモデルがありません。上の写真は筆者がセミ・スクラッチしたものです。「瑞鳳」の母体となった「高崎」は前述のように潜水母艦としては完成されないまま航空母艦になりましたので、潜水母艦としての「高崎」は結局存在していません。モデルは「剣崎」の図面(こちらは潜水母艦として完成しています)に従ったもの。後に空母「祥鳳」に改造されています。という次第で、形態はあくまでご参考という事でお願いします)

 

商船改造特設補助空母「春日丸」(後に「大鷹」に改名)

日本海軍は有事に短期に空母への改造を条件として、民間の海運会社の新造商船の建造に補助金を提供していました。1941年の段階で5隻の空母改造が決定、あるいは着手されており、そのうち1隻が完成していました。

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(直上の写真は:空母「春日丸」の概観。147mm in 1:1250 by C.O.B. Constructs and Miniatures: 「大鷹級」空母は、商船改造空母のため速力が遅く、かつ飛行甲板の長さも十分でないため、艦隊空母としての運用には難がありました。そのため大戦の中期までは、主として航空機の輸送に使用されていました:商船時代の「春日丸」欲しいけど、なかなか手に入りません)

 

空母の集中運用構想:第一航空艦隊の編成

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航空母艦という艦種の成立当時、空母はあくまで主力艦の支援艦艇として、各艦隊に分散配置されていました。そのため初期の空母には艦隊に混じっての砲戦参加などが想定され、主砲が搭載されていました。(「赤城」「加賀」は全通飛行甲板の本格的空母に改装されたのちも、ケースメート方式の20センチ主砲を船体下部に搭載していました。搭載位置が低く、高い仰角での砲撃能力もないため、低空の雷撃機対応程度しか運用できませんでした)

1941年の第一航空艦隊の編成はこれを集中して運用する意図のもとに決定されたものでした。

第一航空艦隊の編成と搭載機構成(1941年の太平洋戦争開戦時)を見ておくと以下の通りでした。(搭載機構成には、資料によって前後があります。目安として考えて下さい。また補用機は基本分解して搭載されており、分解されている場合には戦闘中の補充など急場の運用は難しかっただろうと思われます。しかし機種、時期によっては分解せずに搭載されている場合もああったようで、こちらもご参考に)

第一航空戦隊「赤城」「加賀」:艦上戦闘機36機(補用4機)、艦上爆撃機36機(補用8機)、艦上攻撃機63機(補用14機)、計135機(補用26機)

第二航空戦隊「飛龍」「蒼龍」:艦上戦闘機36機(補用4機)、艦上爆撃機32機(補用6機)、艦上攻撃機36機(補用2機)、計104機(補用12機)

第四航空戦隊「龍驤」:艦上戦闘機12機(補用3機)、艦上攻撃機18機(補用2機)、計30機(補用5機):太平洋戦争開戦時には南方攻略作戦支援のため、第三艦隊、南遣艦隊に分派されていました。

第五航空戦隊「瑞鶴」「翔鶴」:艦上戦闘機36機(補用6機)、艦上爆撃機54機(補用6機)、艦上攻撃機54機(補用6機)、計144機(補用18機)

 

上記で番号の飛んでいる第三航空戦隊「鳳翔」「瑞鳳」:艦上戦闘機26機(補用6機)、艦上攻撃機12機(補用4機)、計38機(補用10機)は、連合艦隊の主力艦部隊(戦艦部隊)である第一艦隊に配置され、戦艦部隊の上空護衛、対潜哨戒という、旧来の空母運用構想の任務に当たっていました。上記のうち「鳳翔」は飛行甲板が短く船体も小さいため、最新鋭の艦載機を搭載できず、旧式の96式艦上戦闘機(8機:補用3機)、複葉の96式艦上攻撃機(6機;補用2機)を搭載していました。

 

また上記編成には商船改造特設空母の「春日丸」が含まれていません。一時期第四航空戦隊に編入されましたが、主として航空機輸送任務に従事していました。計画上の搭載機定数は、艦上戦闘機9機(補用2機)、艦上攻撃機14機(補用2機)、計23機(補用4機)でした。

 

空母集中運用構想:97式艦上攻撃機と91式魚雷の組み合わせ:航空雷撃による主力艦隊漸減作戦構想

日本海軍における空母の運用は、既に日中戦争で実施されていました。日中戦争は大陸での陸軍主体の戦争であり、当時の運用は陸上部隊に対する航空支援が中心でしたので、空母は分散して運用されていることが多かったようです。

一方で、日本海軍は常に艦隊決戦に備えることを求められていたわけですが、この時期の太平洋の主力艦事情は決して楽観視のできない物でした。

日本海軍は6隻(16インチ砲搭載艦2隻、14インチ砲搭載艦4隻)の戦艦を保有していましたが、太平洋における仮想敵である米海軍の太平洋艦隊は戦艦9隻(16インチ砲搭載艦3隻:但し1隻はオーバーホール中で戦闘には加われる状態ではありませんでした、14インチ砲搭載戦艦6隻)を保有しており、更に必要となれば、大西洋から戦艦を5隻回航することができました。日本海軍が保有している巡洋戦艦(14インチ砲搭載高速戦艦)4隻を加えてなんとか互角(しかしこの高速戦艦群は下記の主力艦決戦に先立つ夜戦で水雷戦隊の雷撃突入路を確保するための戦闘に投入される予定)、という状況でした。

一方で日本海軍は新造戦艦4隻(18インチ砲搭載艦でしたが、表向きは16インチ砲艦とされていました。国民が知るのは戦後?)の建造計画を推進していましたが、米海軍は第一期で6隻、第二期でさらに6隻(?)の新造戦艦(全て16インチ砲搭載、第二期は長砲身の新型16インチ砲搭載)の建造計画を公表しており、これが全て太平洋に投入されないまでも、時間が経つにつれ、その戦力差は数的には顕著に広がることが予想されました。

日本海軍は、上記の18インチ砲搭載新造戦艦を建造することで、主力艦決戦での個艦性能の質的な優位を現出し幾分かでも差を縮めようとする一方で、数的な差異を小さくするために漸減戦術を並行することを計画していました。

これは、潜水艦による前衛戦、水雷戦隊による夜戦、さらに多数の長い航続距離を持った陸上攻撃機による航空攻撃を主力艦決戦に先だち実施することによって実現される予定でした。

もうお気づきかと思いますが、この漸減戦術における日本海軍の主力兵器は前衛戦、夜戦、航空攻撃、いずれの場面でも魚雷です。潜水艦、巡洋艦駆逐艦から放たれる長射程、大破壊力、航跡の秘匿性に優れた酸素魚雷(93式魚雷、95式魚雷)と、航空機からの投下に耐える強度を持った91式魚雷が、この戦術の可能性を大きく飛躍させたと言っていいと思います。

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しかしこの戦術は、基本的に永年、日本海軍が範とした日本海海戦同様、来攻する敵艦隊を待ち受けて撃破するという戦術で、いわば受け身の戦略だったと言っていいでしょう。

すなわち、来攻の時期や戦場を決定する戦いのイニシアティブは、常に敵方にあるわけで、例えば敵艦隊が航空基地の攻撃圏(航続距離の範囲)を避けて来航すれば、航空攻撃の矢は放てないなどの課題を抱えていました。特にワシントン・ロンドン体制下では、第一次世界大戦後、日本の委任統治領であった内南洋の島々(マリアナ諸島カロリン諸島)の基地化・要塞化は禁じられており、条約脱退後その整備に着手したとはいえ、規模も数も十分とは言えませんでした。この課題に対しては、96式陸上攻撃機(中攻)やそれに続く1式陸上攻撃機など、長い航続距離を持つ高速航空機の開発などで対応するわけですが、一方で、自ら機動力を持った航空基地である空母の集中運用により、漸減戦のイニシアティブも確保する構想が出てくるわけです。

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これを可能にしたのが、艦隊空母6隻の保有による一時的な太平洋における航空母艦保有数の数的優位の現出と、先に紹介した航空機からの投下に耐える強度を持った91式魚雷、そして空母から発進可能で敵艦船に肉薄できる高速艦上雷撃機である97式艦上攻撃機の所謂「三点セット」でした。

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この「三点セット」が揃った1941年後半、米英の取った対日石油禁輸措置により艦隊の向こう半年の活動しか保証できない国内の石油備蓄の状況と相まって、開戦するならこの時点しかない、という状況に日本は(特に日本海軍は)追い込まれてゆくわけです。

 

こうした視点で、上記の太平洋開戦時の空母艦載機(特に第一航空艦隊の6隻の艦隊空母)の機種構成を見ると、艦上戦闘機108機(補用14機)、艦上爆撃機122機(補用20機)、艦上攻撃機153機(補用22機)という構成も、上記の戦略に沿った艦隊決戦用を想定した雷撃に重点をおいた編成だということが分かると思います。

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(第一航空艦隊の主力空母群:第一航空戦隊:「赤城」(左上:航空艦隊旗艦)「加賀」(左下)、第二航空戦隊:「飛龍」(右上)「蒼龍」(右中)、第五航空戦隊:「瑞鶴」「翔鶴」(右下))

つまり元々の構想では空母機動部隊は、潜水艦、水雷戦隊と並び、魚雷による敵主力艦の漸減攻撃を想定された戦術であり、その指揮官に水雷科の南雲中将が据えられたのも、あながちミスキャストであったとは言えないように思えます。戦後、南雲中将については「空母がわかっていない」と言う類の批評が高まるのですが。そもそも空母集中運用の発案者が、同じく水雷科の小沢中将(当時は少将?)でした。

 

開戦:真珠湾奇襲作戦:米太平洋艦隊への航空雷撃漸減作戦の実行

空母集中運用による米主力艦隊への雷撃作戦が計画されます。

これが「真珠湾奇襲作戦」です。

乱暴にまとめておくと、日本海軍(連合艦隊)は日米開戦の劈頭、米太平洋艦隊の根拠地であるハワイ諸島オアフ島真珠湾基地に空母機動部隊から放たれる航空部隊で攻撃をかけ、停泊する太平洋艦隊の主力艦を沈めてしまおう、という計画を立てました。真珠湾の水深が航空魚雷の投下に対し浅いことが最大の課題とされましたが、91式魚雷の浅深度化改造と雷撃機の訓練でこれを克服し、宣戦布告日の同時攻撃を狙って空母機動部隊(第一航空艦隊基幹の艦隊空母6隻:司令長官南雲中将)が秘匿行動を開始しました。

1941年12月8日未明(日本時間)6隻の空母(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」)から、艦上戦闘機43機、艦上爆撃機51機、艦上攻撃機89機(爆装49機、雷装40機)計183機で編成される第一次攻撃隊がまず発進し、その約1時間後、艦上戦闘機36機、艦上爆撃機81機、艦上攻撃機54機(全て爆装)計171機で編成される第二次攻撃隊が発進しています。

当時、真珠湾には米太平洋艦隊の主力艦8隻全てが在泊中で、この攻撃で戦艦「アリゾナ」「オクラホマ」が完全損失、「ウエスバージニア」「カリフォルニア」が着底沈没(後、引き揚げられて復旧)、さらに「ネバダ」が被弾挫傷、「テネシー」「メリーランド」「ペンシルバニア」が損傷を受けました。つまり太平洋艦隊の主力艦は、日本海軍の狙い通り全て活動できなくなったわけです。

真珠湾で空母機動部隊により攻撃を受けた米戦艦

ネバダ級」戦艦(「ネバダ」「オクラホマ」)

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(「ネバダ級」戦艦の概観:「オクラホマ」は被雷し転覆、完全喪失。「ネバダ」は被雷による沈没を避けるため自ら座礁しました。後1942年修復し、戦線に復帰しています。1943年にさらに近代化改装を受けています)

 

ペンシルバニア級」戦艦(「ペンシルバニア」「アリゾナ」)

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(「ペンシルバニア級」戦艦の概観:「アリゾナ」は弾薬庫に直撃弾を受け爆発沈没し完全喪失しました。「ペンシルバニア」はドックで爆弾を被弾、損傷しましたが、修復し1942年に戦列に復帰しています)

 

テネシー級」戦艦(「テネシー」「カリフォルニア」)

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(「テネシー級」戦艦の概観:「カリフォルニア」は被雷し浸水着底沈没。後に引き上げられ修復、近代化改装も併せて受け、1944年に戦線に復帰します。「テネシー」は爆弾2発を受けますが、1発は不発で軽い損傷を受けています。修復し1942年に戦列復帰、その後再度近代化改修を受けています)

 

コロラド級」戦艦(「ウエスバージニア」「メリーランド」:「コロラド」は1941年夏からオーバーホール中

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(「コロラド級」戦艦の概観:太平洋戦争当時、米海軍の唯一の16インチ砲搭載艦でした。「ウエスバージニア」は被雷し浸水着底沈没。後に引き上げられ修復、近代化改装も併せて行われ、1944年に戦線に復帰します。「メリーランド」は爆弾2発を受け損傷しています。その後修復を受け、1942年に戦列に復帰しています)

 

沈没した4隻の戦艦はいずれも魚雷を2−8本被雷し、浸水により転覆(「オクラホマ」)あるいは着底していて(「ウエスバージニア」「カリフォルニア」)、さらに「ネバダ」は1−2本の航空魚雷を被雷しており、さらに雷撃による損傷の増大、浸水で沈没することを免れるために自ら座礁しています。一方で損傷に留まった3隻は攻撃時に二列縦隊に並んだ戦艦群のうち魚雷による命中弾を受けにくい内側の列、またはドックに入っており、爆弾による損傷でした。

 

開戦のほぼ同時期に、太平洋の反対側のマレー沖でも、陸上攻撃機による航空攻撃で英海軍東洋艦隊の2隻の戦艦も撃沈されており、日本海軍の航空機の集中運用による攻撃の目覚ましい効果が示されていました。

 

この二つの航空戦は航空機による雷撃の効果を世に示したという点では目覚ましい物でしたが、一方で、完全に奇襲となった真珠湾作戦の第一次攻撃で出た9機の喪失機のうち5機が雷撃機であり、停止した艦船に対する攻撃ですら対空砲火で高い損耗率(参加雷撃機40機中5機の喪失:喪失率12.5%)を覚悟せねばならない、更に強襲となった第二次攻撃では参加171機中喪失20機という結果であり(損耗率11.7%)、航空攻撃に伴う搭載機の消耗戦への警鐘も見てとることが出来ました。

 

真珠湾攻撃は不徹底だったのか?;艦隊決戦か総力戦か

上記の戦果を上げた後、南雲中将は「第三次攻撃を」との幕僚の意見具申を退け、作戦を終了しました。

この判断を巡っては作戦後、議論が相次ぎ、例えば、反復攻撃でさらに陸上施設の艦船修理施設や航空基地、燃料補給施設等を破壊しておけば、米軍は有力な反撃拠点を失い、積極的な反攻を大幅に遅らせることが出来たであろう、などとその後に現出した「総力戦」の展開に照らして批判されるのですが、日本海軍の基本戦略がまだこの時期には「艦隊決戦」にあり、上述のようにこの作戦が「積極的な漸減作戦」の一環として実施されたという解釈に立てば、雷撃で主力艦4隻を沈め残りの主力艦にも損害を与え米太平洋艦隊の主力艦を一掃した、ある意味完璧に目的を達成したと言ってもいい戦果と、この場に止まり作戦を継続した場合に予想されるより高い搭載機部隊の損耗、所在不明の敵空母、潜水艦による機動部隊襲撃による艦艇喪失のリスクを考慮すると(一説によると、軍令部の上層部からは、機動部隊を無傷で連れ帰るように、という指示があったとも)、南雲司令長官の反転の判断も理解できるような気がします。

もしそれを押しても止まるべき、ということならば、上級の司令部が明確に反復攻撃の指示を出すべきであったと考えます。(この上級司令部の命令の曖昧さは、本稿の「レイテ沖海戦」の一連の記述の中でも示したように、海軍の終幕まで続いたと考えるのですが)

 

ということで、「空母機動部隊」という空母の集中運用(搭載航空戦力の集中運用、というべきか)は、ある種、大成功の元に始まったのですが、既にその構想の種にあった「艦隊決戦」という「会戦形式」の戦争から「総力戦=消耗戦」へと、戦争自体の位相の変化が始まっていました。

次回は空母機動部隊の栄光と、その影に隠れた「総力戦」への対応の遅れの萌芽のお話を(多分?)。

 

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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日本海軍 空母機動部隊小史 2:艦隊空母の建造

今回は日本海軍、航空母艦開発小史の第二回目。いよいよ日本海軍の本格的な艦隊空母の建造が始まります。

 

少しおさらいをしておくと、日本海軍の空母建造は第一次世界大戦後、急速に加熱した主力艦建艦競争に歯止めをかけたワシントン軍縮条約により、背中を押されたと言っても過言ではないと考えています。

具体的には、軍縮条約により建造が中止された「天城級巡洋戦艦2隻の空母への転用がその始まりと言えます。これは日本海軍にのみ認められた保有ではなく、米海軍、英海軍でも同様の転用が認められるわけですが、それまで航空機の海軍での使用に向けて実験的な取り組みとして建造、保有されていた「航空母艦」という艦種を、一気に戦力として検討する素地が形作られたと言っていいと考えています。

関東大震災により空母変転用計画に充てられていた「天城級巡洋戦艦のうちの一隻「天城」が改造途中で損傷を受けると、これに変えてこれも条約により廃棄予定艦であった戦艦「加賀」が空母への改造に当てられることとなり、こうしてそれまで7500トン、搭載機15機の空母「鳳翔」しか保有していなかった日本海軍は、いきなり30000トンに近く、搭載機60機余りの大型の航空母艦二隻(「赤城」と「加賀」)を保有することになるわけです。

更にワシントン条約では保有制限のかからない10000トン以下の空母建造の可能性にも、日本海軍は着目し小さな船体に40機を超える搭載機を運用できる空母「龍驤」を建造しました。

これらの空母はいずれも空母第一世代ということで、様々な実験的な要素を盛り込んだ設計でした。詳しい設計経緯等は、以下の本稿前回を。

fw688i.hatenablog.com

 

空母第一世代の近代化

上記のご紹介した四隻の空母は、いずれも艦上機の進歩、運用方法の洗練に従い、近代化改造に着手されます。

その最も大きなものは、いずれも建造当初は三段飛行甲板を装備していた「赤城」「加賀」の全通一段飛行甲板形態への改装でした。

その改装要領は両艦ともほぼ同じで、三段飛行甲板を全通一段飛行甲板に変装し、この関連で中飛行甲板に据えられていた20センチ連装砲塔を撤去、更に小さな艦橋が飛行甲板上に設置されました。

 

航空母艦「加賀」の改造(全通一段飛行甲板へ)

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まず改装に着手されたのは「加賀」でした。

前述のように「加賀」は関東大震災で大きな損害を受けた建設途中の「天城」に代わり急遽空母への改造が決定されました。「天城」が高速・長船体の巡洋戦艦をベースとしたのに対し、「加賀」は戦艦を出自としたため、船体が短く、かつ27ノットという、空母としては低速で、飛行甲板への乱気流の影響が課題となった排煙の誘導については、飛行甲板への排煙の影響を最小限にするために意欲的な実験として導入された艦尾舷外排煙方式が、「加賀」の低速ではかえって広範囲に乱気流を起こすなどの弊害が露呈したため、「赤城」に先駆けて1933年から大改装を受け、艦容も三段飛行甲板から一段全通甲板に改められ、不評だった艦尾舷外排煙もこの時に改められました。。

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(一段全通甲板形態に大改装された「加賀」の概観:下の写真は三段飛行甲板形態の竣工時(上段)と、全通飛行甲板形態に改装後の比較。中飛行甲板に設置されていた20センチ連装砲塔が撤去され、飛行甲板右舷に小さな艦橋が設置されました)

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この改装により、飛行甲板の全長が伸びたことはもちろん、その下の格納庫甲板も拡大され、常用69機補用31機計100機の搭載機の運用が可能になったとされています。

その後、航空機が更に進歩し大型化した太平洋戦争開戦時にも、常用72機補用18機計90機の運用が可能でした。

改装により排水量は38000トンにまで拡大、機関も換装され28ノットに向上しました(それでも機動部隊中で最も速度が遅いことは変わりませんでした)。

 

航空母艦「赤城」(「天城級巡洋戦艦改造)

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前述の「加賀」に続いて、当初三段飛行甲板形式であった「赤城」は、1936年から予備艦に移され、先行して大改装を行った「加賀」に変わって一段飛行甲板形式や対空兵装の強化、搭載機数の増大等の改装が行われ、1938年、艦容を一変し艦隊に復帰しています。

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(一段全通甲板形態に大改装された「赤城」の概観:下の写真は竣工時の「赤城」(上段)と改装後の「赤城」の比較。「加賀」同様、中甲板の20センチ連装砲塔が撤去され、小さな艦橋が飛行甲板左舷「加賀」に比べるとやや艦の中央よりに設置されました)

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「加賀」同様、飛行甲板の全長が延長され、新型の艦上機の運用に対応できただけでなく、格納庫も拡張され、常用66機補用25機計91機の運用が可能になりました。

船体は41000トン余りまで大型化しましたが、速力は31ノットをキープしていました。

煙突との位置関係から左舷側に配置された艦橋は、当時のレシプロ艦上機の左方向への指向性からあまり良い評価が得られず、左舷艦橋は「赤城」と後述の「飛龍」にとどまり、後は全て右舷側に設置されました。

 

航空母艦「鳳翔」

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1924年の改装後の「鳳翔」概観 by Trident:アイランド形式の艦橋は撤去され、飛行甲板下の最前部に移動しました。煙突は倒された状態(下段右)。太平洋戦争中には飛行甲板は更に延長されています) 

元来が狭い飛行甲板であるにも関わらずアイランド構造の艦橋をもっていた「鳳翔」でしたが、飛行甲板の運用性への考慮から、1924年にアイランド式の艦橋を撤去して平甲板式の形態となりました。

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(竣工時の「鳳翔」と改装後の「鳳翔」の比較:アイランド型艦橋が撤去されています。可倒式の煙突はそのまま引き継がれました。下の改装後のカットでは煙突は倒されています)

それでも、進歩著しい艦上機には飛行甲板の適応性が低く、太平洋戦争時には最新式の艦上機の運用は不可能となっていました。太平洋戦争中は、当初、運用可能な複葉の96式艦上攻撃機を搭載して第一艦隊(戦艦部隊)の対潜哨戒等の任務についていましたが、その後飛行甲板を延長し、発着艦訓練の練習空母として活動しています。

 

終戦まで直接戦闘に入ることはなく、戦後は復員船として活動しました。

 

航空母艦龍驤

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ワシントン条約の空母保有枠を意識して設計された小型航空母艦龍驤」の概観:149mm in 1:1250 by Neptun:s設計途中でロンドン条約が締結され、小型空母も条約の保有制限対象となったため、急遽、格納甲板を一段追加、いかにもトップ・ヘビーな概観となりました)

小さな船体に要求事項を目一杯盛り込んだ過重な装備から、就役直後から復原性に問題があるとされた「龍驤」はバルジの大型化、キール部分へのバラストの追加等、対策が取られましたが、還元の減少等、別の課題が発生していました。「第四艦隊事件」では、事故の当事艦の一隻となり、環境に大きな損害が発生しています。その後、船首部分を一層追加して還元を高める、艦首の前面形状を凌波せいを意識した形状に改修するなど、対応が取られました。(モデルはおそらく最終形態です)

 

本格的艦隊空母の建造

進歩著しい航空機の戦力化を考慮すると、航空機の集中運用の発想に行き着くことになります。ことにワシントン体制で大型空母を二隻(「赤城」「加賀」)建造すると更にこれを強化するための艦隊空母建造への要望が高まってゆきます。

 

中型艦隊空母構想と模索

前回でも一部記述しましたが、世界初の空母であった「鳳翔」がワシントン・ロンドン両条約での退役可能年限を迎え、つまり代艦の建造が可能となった際に、日本海軍が空母保有枠として想定できた排水量は21000トンでした。これに前述の航空機の集中運用、先行して建造された二隻の大型空母(「赤城」「加賀」)という条件を加えると、二隻の中型空母の保有が検討すべきヴィジョンとして浮上してきました。

この構想から、1934年の第二期建艦計画(丸二計画)で、用兵側から艦政本部に以下のような要求が提出されています。排水量10050トン(ロンドン条約の規定により枠内で2隻の航空母艦を建造する場合の上限値)、速力36ノット、搭載機100機、主砲20センチ砲5門、高角砲20門、対空機関砲40基。

この要求は夢物語の類であるとして、設計側はそれでも排水量10050トン(ロンドン条約の規定による)、搭載機70機、主砲15.5センチ砲5門、高角砲16門という、これも先述の「龍驤」の仕様を考慮すると途方もない設計案で、これに回答しようとしたようです。

これは「蒼龍原案」として記録されています。

 

蒼龍原案

こういう枝葉的なお話は筆者の大好物で、なんとかモデル化できないものか、という試みの種になるわけです。こういう種を見つけ自分なりに形にしてゆくことが、コレクションを続けてゆく原動力の一つになっている事は間違いありません。

と、言い訳を書いた上で、モデル化のお話です。

本稿前回で既にモデル化に着手している、というお話をしたのですが、今回はその完成形を。

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(「蒼龍原案」の概観:未成艦ですので、筆者の想像の産物ですからご注意を)
(模型の制作について)

手順をおさらいしておくと、筆者の手持ちの古いストックモデルの中から候補として使えそうな「蒼龍級」のモデルをピックアップ。「蒼龍級」のモデルとあえて記載したのは、今回は艦橋部の構造を少し変えてみたくて「雲龍」のモデルをストックからピックアップした為です。

一旦、飛行甲板と船体を分離して、「蒼龍原案」の最大の特徴である15.5センチ主砲塔の搭載スペースを、飛行甲板前部の下部甲板に作ります。格納庫甲板を縮小する作業をするわけですね。そこに連装砲塔と三連装砲塔を設置。船体の軸先への重量負担を考慮して、当然、前から軽い順で連装砲塔、三連装砲塔の順だろうと決め付けて設置したのですが、実際は三連装、連装の順だったようです。まあ、元々が飛行甲板下の主砲塔では旋回に限界があるでしょうし、仰角も俯角も制限が大きすぎて、近距離砲戦以外には使い道がなさそうなので、疑問符だらけではあったのですが。

まあ、そこは目を瞑って(結局、三連装、連装の順に修正することも目を瞑ってしまいました。ですのでモデルは連装・三連装の順のままです)、右舷側の煙突を撤去し代わりに直立煙突を設置します。この形態をどうするか、「少し悩みましたが、最終的には比較的ストレートな形の煙突にしてみました。

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(上の写真は最大の特徴である艦首部の主砲塔配置を示したもの。本文で記述の通り、計画では三連装・連装の順だったようですが、今回製作したモデルでは連装・三連装の順で作成してみました)

 

第四艦隊事件と主砲廃止

「蒼龍原案」の設計が進む一方で、「第四艦隊事件」が発生します。

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この事件は、ワシントン・ロンドン体制の制約を背景として、艦型には小型化の圧力がかかります。一方で用兵的には武装強化の傾向が著しく、この両条件から、トップヘビー、あるいは船体に部分的に過度な負荷がかかる等の課題を内在していた日本海軍の艦艇が、荒天下の演習で相次いで損害を出した事件です。この事件と、その以前に発生した「友鶴事件」と併せ、全般的な復原性、船体強度の見直しが行われ、ほぼ全艦艇に何らかの改修が加えられることとなりました。

この一連の動きの中で、「蒼龍原案」についても見直しが行えわれ、結論として航空母艦への主砲搭載が廃止されることとなりました。

こうして、「蒼龍原案」は、空母「蒼龍」として建造されることとなりました。

 

航空母艦「蒼龍」「飛龍」の建造

上記のような経緯で、日本海軍は退役年限を迎える「鳳翔」の代艦枠も併せ20100トンで、中型空母二隻を建造することとなりました。

 

航空母艦「蒼龍」

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航空母艦「蒼龍」の概観:180mm in 1:1250 by Neptun)

上記のような経緯で条約の制約を「遵守」して建造されたため「蒼龍」は公称10000トン級の小型空母、という印象が特に列強海軍にはあったようです。(ミッドウェーで「蒼龍」に命中弾を与えたパイロットは艦の大きさから「加賀」と誤認していたようです。自分が命中弾を与えたのが「蒼龍」だったと知った際に、「ああ、小型空母を見誤ったのか」と悔しがったとか)

実質は18000トン(公試排水量)の船体を持ち、エレベーター3基を装備、34ノットの高速を発揮する中型の本格的空母として誕生しました。二段式の格納庫を全通飛行甲板下に持ち、搭載機は竣工時には常用57機補用16機計73機とされています。

太平洋戦争開戦時(つまり真珠湾作戦)では、常用57機を運用する空母でした。

日本海軍としては理想的な中型空母と言え、建造費用、サイズ等の観点からも戦時の量産空母の雛形とされ「蒼龍」の基本設計から「雲龍級」空母が量産されています。

 

航空母艦「飛龍」

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航空母艦「飛龍」の概観:182mm in 1:1250 by Neptun)

「飛龍」は、前述の「蒼龍」と共に中型空母として建造されました。しかし、「蒼龍」の起工直後に、日本はワシントン・ロンドン体制からの脱退を決定しており、この為本来二番艦であった「飛龍」は「蒼龍」を原型としながらもやや拡大した設計となりました。

結果20000トン(公試排水量)、エレベータ3基、速力34ノットと性能的にはほぼ「蒼龍」と同等ながら、船体の強度、凌波性の向上等に配慮された船体を持つ空母となりました。(公称は「蒼龍」と同様10000トン)

大きな特徴として、「赤城」と同様に艦橋を左舷中央に設置しています。この狙いとしては、艦首よりに設置された艦橋よりも大型艦上機の発進時(つまり飛行甲板後部から滑走を始めるわけです)に、艦首方向への視野が大きく開け障害になりにくい、ということが挙げられました。その他にも右舷側に突き出した煙突とのバランス、煙突の排気路を避けた搭乗員通路の設定ができ運用がスムーズになる、格納庫の形状が効率的のなる、などの利点がありましたが、一方で左指向性のある(プロペラの回転方向から、左へ流れる傾向がある)レシプロ機では着艦時に障害となるなど、搭乗員側からの評判はあまり良くなく、左舷配置は「「赤城」「飛龍」の二艦に留められました。

搭載機数は竣工時には常用57機補用16機計73機で、「蒼龍」と同じでした。(真珠湾作戦時には常用57機搭載)

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(「蒼龍」(手前)と「飛龍」の概観比較:「飛龍」は「蒼龍」の拡大改良型とされていますが、基本は同型で大きさには大差ありません。艦級の位置の差異が目立ちますね。「蒼龍」は右舷側、「飛龍」は左舷側ですが、さらにその飛行甲板上の位置も大きな差異が見られます。「蒼龍」の場合には排気路との干渉を避けるために、前よりになっています)

 

 

大型艦隊空母の建造

中型空母「蒼龍」の建造に着手した時点でワシントン:ロンドン体制からの脱退を決めた日本海軍は、第三期建艦計画に大型艦隊空母の建造を盛り込みます。

 

「翔鶴級」航空母艦(「翔鶴」「瑞鶴」)

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(「翔鶴級」航空母艦の概観:205mm in 1:1250 by Neptun:下の写真は「翔鶴」(奥)と「瑞鶴」。両艦は同型艦でしたので大きな差異は、このスケールでは見られません)

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「翔鶴級」空母は、一定の成果を得たとされる「蒼龍」「飛龍」の設計を拡大されたものでした。上記の「飛龍」での艦橋一から得た教訓から、艦橋は右舷側に設置されています。

発艦への前方障害への配慮から設計された「赤城」「飛龍」の左舷中央の艦橋位置でしたが、実は艦上機の大型化、重量化に従い、発艦よりも着艦時のスペースに重点が置かれるようになり、この為、「蒼龍」等、右舷前方位置に艦橋が置かれる方が運用には有効だったようで、「翔鶴級」空母でもこの方式が踏襲されました。

船体は29000トン(公試排水量)まで拡大され(「飛龍」20000トン)、飛行甲板の全長も242mとなりました(「飛龍」216m)。

速力は34ノットを発揮し、二段式格納庫を有し、常用72機補用12機の搭載機を運用することができました。

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(「飛龍」(手前)と「翔鶴」の概観比較:これが中型空母と大型空母の違い、というカットですね)

本級の完成で、日本海軍は艦隊空母六隻(「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」)の運用が可能となり、これに既成の二隻の空母(「鳳翔」「龍驤」)と以下に紹介する二隻の補助空母(「瑞鳳」「春日丸」)を加え、10隻の体制で太平洋戦争開戦を迎えることになります。

 

艦隊補助空母の建造

「瑞鳳級」航空母艦

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艦隊空母の整備と共に、日本海軍は艦隊補助空母の整備にも力を入れてゆきます。

艦隊補助空母は、既にワシントン・ロンドン体制の空母保有制限下で、戦時に速やかに空母への改装を念頭におき、かつ艦隊に帯同し航空支援や上空警戒を提供できる速力(空母改造時に30ノット程度の速度を有する)を持った補助艦艇の整備が進められていました。

「瑞鳳級」空母はその一例で、高速給油艦「剣崎」「高崎」を戦時には小型空母に改造する計画でした。当初は上部構造を持たない高速給油艦としての建造開始でしたが、のちに空母への改造の簡易化を一層進めて、上部構造を搭載する潜水母艦へと設計が改められました。

 

「剣崎級」潜水母艦 

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結局、「剣崎」は潜水母艦として1939年に就役。その後、1940年から空母へ改造され、1941年12月に空母「祥鳳」として再就役しています。

一方「高崎」は潜水母艦として建造途中から空母へ設計変更され、空母「瑞鳳」として1940年12月に完成し、潜水母艦としては完成されませんでした。

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(「剣崎級」潜水母艦は、筆者の知る限り、1:1250スケールでは市販のモデルがありません。上の写真は筆者がセミ・スクラッチしたものです。「瑞鳳」の母体となった「高崎」は前述のように潜水母艦としては完成されないまま航空母艦になりましたので、潜水母艦としての「高崎」は結局存在していません。モデルは「剣崎」の図面(こちらは潜水母艦として完成しています)に従ったもの。後に空母「祥鳳」に改造されています。という次第で、形態はあくまでご参考という事でお願いします)

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(上の写真は、潜水母艦形態と航空母艦形態の比較。エレベーターなどが最初から組み込まれていたことがよく分かります。後部のエレベータ:上の写真では船体後部のグレー塗装部分:は潜水母艦時代には、エレベータは組み込まれたものの、上に蓋がされていたようです)

 

航空母艦「瑞鳳」

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航空母艦「瑞鳳」の概観:164mm in 1:1250 by Trident)

「瑞鳳」は潜水母艦「高崎」を建造途中から航空母艦へと改造して完成されました。従って「剣崎級」潜水母艦一番艦の「剣崎」が潜水母艦として完成しさらに空母に改造されるという手順を踏んだ為、二番艦の「瑞鳳」が空母としては先に完成し就役しました。

13000トン(公試排水量)の船体を持ち、当初は航続距離を稼ぐことを目的に主機にはディーゼルを搭載していましたが、故障が多く計画出力を出せない為、蒸気タービンに換装されました。この機関換装により、28ノット(計画では31ノットだったのですが、それには至らなかったようです)の速力を出すことができました。180mの飛行甲板を持ち2基のエレベータを装備していました。

二段式の格納庫を持ち常用27機補用3機の搭載機を運用することができました。搭載機の3分の2は艦上戦闘機零戦)に充てられ、飛行甲板の長さから着艦速度の速い艦上爆撃機の運用には向かない為、残り3分の1は艦上攻撃機を搭載し、艦隊上空の直掩と、艦隊周辺の哨戒を主要な任務としていました。

 

 

特設補助空母の建造

日本海軍は前述の補助艦艇を戦時に空母に改造する計画と並行して、一般商船を空母に改造する計画も持っていました。

その為、民間の海運会社に設計(爆弾庫・魚雷庫への転用可能な船倉設置の設計等)の受け入れを条件に補助金を支給していました。

1940年に入り、ヨーロッパでの大戦の激化を受けて、海軍は日本郵船でこの助成金で建造中の空母適格商船三隻を買取り、空母への改造を決定します。

「出雲丸」「橿原丸」「春日丸」がこれで、このうち「出雲丸」「橿原丸」は、幻の東京オリンピック(1940年開催予定)の海外からの集客を当て込んで設計された、当時商船としては破格の27000トンの大きな船体をもち、24ノットの高速を発揮する日本最大の豪華客船として設計された船で、船体の大きさ、速力、いずれも空母への適性が高い船でした。後に「隼鷹」「飛鷹」として完成し、商船改造空母ながら、艦隊空母として大活躍します。

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(特設航空母艦「隼鷹」の概観:175mm in 1:1250 by Neptun: 下段右のカットは、「隼鷹」で導入された煙突と一体化されたアイランド形式の艦橋を持っていました。同級での知見は、後に建造される「大鳳」「信濃」に受け継がれてゆきます。下の写真は、「隼鷹」(奥)と「飛龍」の比較:「隼鷹」は速度を除けば、ほぼ「飛龍」に匹敵する性能を持っていました。商船を母体とするため、全般にゆったりと余裕のある設計だったとか)

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(こちらは、いずれ詳細のご紹介します)

 

空母「春日丸」(後「大鷹」)

もう一隻の「春日丸」はこちらも日本郵船が建造中の欧州航路向けの三隻の貨客船(新田丸級)で、17000トンの船体を持ち、21ノットの速力を発揮することができる優良船でした。

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(直上の写真は:空母「春日丸」の概観。147mm in 1:1250 by C.O.B. Constructs and Miniatures: 「大鷹級」空母は、商船改造空母のため速力が遅く、かつ飛行甲板の長さも十分でないため、艦隊空母としての運用には難がありました。そのため大戦の中期までは、主として航空機の輸送に使用されていました:商船時代の「春日丸」欲しいけど、なかなか手に入りません)

「春日丸」は1940年に進水し、その直後から空母への改造工事に着手し、1941年9月に三隻(「出雲丸」「橿原丸」「春日丸」)のうちでは最も早く空母として完成し、就役しています。就役時には徴傭船であった為「春日丸」の船名での就役でしたが、後に残りの「新田丸級」貨客船改造空母「沖鷹」「雲鷹」と同時に1942年8月に海軍に買い取られ「大鷹」と艦名を改めています。

 

「新田丸級」貨客船は、「新田丸「八幡丸」は一旦商船として就役した後、太平洋戦争の開戦を受けて相次いで空母に改装され、それぞれ空母「沖鷹」「雲鷹」として就役します。

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ということで、今回はここまで。

太平洋戦争開戦時の10隻の空母が揃いました。(「鳳翔」「赤城」「加賀」「龍驤」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」「瑞鳳」「春日丸」)

次回は、これらの空母をどのような構想で編成し、運用しようとしたのか。そしてその緒戦をどのように戦ったのか、その辺りをご紹介しつつ、ライバルの米艦隊の空母もちらほらと登場(するかも)。意外と長いミニ・シリーズになるのかも。

 

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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日本海軍:空母機動部隊小史 1:航空母艦の黎明期

いよいよ日本海軍の「空母」です。

前回、いきなりレイテ沖海戦時の空母機動部隊の紹介、つまり「機動部隊の終焉」から始まった感のあった「航空母艦発達小史」でしたが、このミニ・シリーズは、日本海軍の航空母艦開発小史とともに、空母機動部隊という日本海軍の「発明」品の変遷を追っていければ、と考えています。都度、そのライバルであった米海軍の空母もご紹介できれば。

そんなお話をしばらく、どうかお付き合いください。

その一回目。今回は日本海軍の「航空母艦」こと始め。

 

航空母艦という艦種

航空機が戦力として活用され始めたのは第一次世界大戦に於いてでしたが、わずか数年で航空機は急速な進歩を遂げます。

航空機の特性として、発進時に揚力を得るためにある程度の速度を得ることが必要で、そのために運用には滑走する平面が必要なわけですが、地上で言えば平坦地(野原を整地し一定の距離を確保できた平地)、いわゆる「滑走路」、もしくは穏やかな海面や湖面がこれに適しています。

一方、航空機の役割は、まずはその高速性と自由な機動性、更に高所からの良好な視認性を活用した、いわゆる「偵察」からスタートし、「折角、敵の真上に来ているんだからちょっとなんか落としてやろうか」と「爆撃」(最初はレンガとかそんな物を落っことすところからスタートしたようですが)、更にこれを邪魔する(覗くなよ、落っことすなよ)ための「空中戦闘」へと、それぞれ専用機種の開発へと発展してゆくわけです。

海軍では、穏やかな水面から航空機を発進させ、主として偵察・主砲の着弾観測、補助的に爆撃等に活用し始めます。日本海軍もこの例に漏れず航空機の活用を模索し始めるわけですが、艦隊に随伴して、あるいはその機動性を活用することを考慮すると、これを整備・補給する海上拠点としての「母艦」が必要になってくるわけです。

こうした要請から、まずは水上機の運用拠点として、「母艦」の運用が模索され始めます。水上機母艦の誕生です。

 

最初の「航空母艦

水上機母艦「若宮」

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同艦は、元々は英国籍の貨物船「レシントン」で、日露戦争時(1905年)、ウラジオストックへ向かう同船を日本海軍が拿捕し没収、最初は「沖ノ島丸」と命名し、後に「若宮丸」と正式命名され輸送船として運用されました。

1913年に、おそらく輸送船の艦種分類のまま水上機を搭載して演習に参加、その翌年、水上機母艦任務に適応するよう簡単な改装を受け、日本の第一次世界大戦参戦に伴いドイツ帝国の極東拠点であった青島要塞の攻略戦(1914年)で搭載機を運用しました。これが日本海軍最初の航空作戦となりました。

1915年に輸送船から二等海防艦、いわゆる「軍艦」に艦種を変更され、改めて「若宮」と命名されました。

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日本海軍初の航空母艦「若宮」の概観:93mm in 1:1250 by Hai: 運送船時代のモデル? 水上機母艦として運用された時期には下の写真の前甲板と後甲板の船倉が、格納庫(分解格納)と整備甲板に割り当てられたようです。簡単なキャンバス製の天蓋が設置されていたらしい。搭載機の発進はそれぞれのデリックで水面におろして行われていました)

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1920年には船上に滑走台を設置して陸用機の運用実験(発艦実験)を行っています。同年、日本海軍に「航空母艦」という艦種が新設され、「若宮」は初めてこの艦種に登録された艦となりました。日本海軍最初の「航空母艦」となったわけです。

1925年まで艦隊に所属し、その後警備艦となり、1931年に除籍、売却されています。

 

「艦載機」と「艦上機

筆者はこれまでこの二つの用語を正確に使い分けてきませんでした。これはひとえに筆者の不明によるもので、そのお詫びも兼ねて、表題の二つを整理しておきたいと考えています。

「艦載機」とは広義には軍艦に搭載される航空機全般を指す言葉ですが、狭義には軍艦に搭載されかつ発進に飛行甲板を使用しないもの、つまり水上飛行機か、ヘリコプターを指すようです。

一方「艦上機」とは発進に飛行甲板を使用する航空機を示しています。つまり航空母艦の搭載機がこの「艦上機」にあたるわけです。

これまで本稿では「米機動部隊の艦載機の攻撃を受け・・・」というような表現を、多分多用していきました。広義ではこれでもいいのでしょうが、狭義では「違うなあ」と思っていた方がいらっしゃるのかも。改めてこれは筆者の不明によるもので、全く他意はないことをお知らせし、お詫びします。

用語は難しいなあ。他にも間違った使い方してるんだろうなあ、と少し怖くなってきました。例えば、正直言って「排水量」なんて、色々とありすぎて。都度、「勉強」ということにはなるんですが、いきとどかず、そこは模型のブログなので、どうかご寛容に、お願いします。

 

世界初の航空母艦

航空母艦「鳳翔」

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「鳳翔」は、世界で初めて、最初から水上機ではなく陸用機を海上で運用することを目的に設計された「軍艦」、いわゆる「l航空母艦」です。

第一次世界大戦期に、既に英海軍などでは、陸用機を洋上の軍艦から運用し始めていました。そしてそれを発展させ、戦艦や巡洋艦などの他艦種に広範囲に発着慣用の飛行甲板を装備したりして、「航空母艦」の実用化を行っていました。

日本海軍はこれに非常に関心を寄せ、英国の技術協力により、同艦を完成させました。

こうして「鳳翔」は1920年に起工、1922年に竣工しています。同時期に英国はこれも最初から航空母艦として設計された「ハーミス」を建造していましたが、起工は「鳳翔」よりも早く1918年でしたが竣工は1924年となり、「鳳翔」が世界初の航空母艦となりました。f:id:fw688i:20211010103520j:image

(世界初、航空母艦として設計された「鳳翔」の概観:136mm in 1:1250 by Trident: 下の写真は、主砲として搭載された14センチ単装砲(上段)と竣工時にアイランド形式の艦橋、可倒式の煙突:起立状態です(下段))

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「鳳翔」は、基本的に5500t級軽巡洋艦を拡大した船体に一段の格納庫を搭載した設計になっています。竣工時には15基の艦上機の運用を行っていましたが、そもそもが複葉艦上機の時代の設計であり、船体が短く、併せて幅も狭いため、数次の飛行甲板の拡張、エレベータ幅の改良等を経ても太平洋戦争期の海軍の主力であった単葉艦上機の運用はかなり困難だったようです。

 

太平洋戦争中は、当初、運用可能な複葉の96式艦上攻撃機を搭載して第一艦隊(戦艦部隊)の対潜哨戒等の任務についていましたが、その後飛行甲板を延長し、発着艦訓練の練習空母として活動しています。

終戦まで直接戦闘に入ることはなく、戦後は復員船として活動しました。

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(太平洋戦争初期の「鳳翔」概観 by Trident:アイランド形式の艦橋は撤去され、飛行甲板下の最前部に移動しました。煙突は倒された状態(下段右))

 

ワシントン条約の落し子

航空母艦「赤城」(「天城級巡洋戦艦改造)

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「赤城」は八八艦隊計画で4隻が建造される予定だった「天城級巡洋戦艦の2番艦でした。列強の主力艦の保有枠を決定したワシントン海軍軍縮条約で、同級の建造が中止となり、1番艦の「天城」と2番艦「赤城」が、当時補助艦艇とされていた「空母」に改造されることとなりました。

「天城」はその後の関東大震災で被災し、その損害が大きかったため、改造工事が中止され、代わりに後述の戦艦「加賀」が空母に改造されることとなりました。

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航空母艦として完成した「赤城」の概観:208mm in 1:1250 by Hai: 下の写真は、同館の竣工時の特徴である三段飛行甲板と中甲板に設置された20センチ連装主砲塔(上段):この時期の航空母艦は対艦戦闘を想定して主砲を装備していました。下段は煙突の装備位置と装備方法)

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(「赤城」はワシントン軍縮条約で廃棄が決定された「天城級巡洋戦艦をベースとしています。上段:巡洋戦艦形態の「赤城」(完成予想)と下段:航空母艦形態で竣工した「赤城」)

 

竣工時の「赤城」は巡洋戦艦時代の長大な船体の上に二段の格納庫を乗せた形で完成(船体内にもう一段格納庫を保有していました)し、最上部の主飛行甲板に加え、各格納庫から直結した飛行甲板を持ち、これからも航空機を発進させるような設計でした。ただし中段の飛行甲板部には、最前部に艦橋があり、かつ20センチ主砲の連装砲塔を2基装備していたため、飛行甲板としては運用されませんでした。

小型機は下段飛行甲板から発艦し、大型機の発着艦と小型機の着艦は最上甲板でおこなわれました。

竣工時(1927年には27000トン(公称:実際には29000トン近かったようです)の排水量を誇る大型航空母艦で、31ノットの速力を発揮し、当時は敵艦隊との砲撃戦でもある程度の役割を果たせるように、中甲板の20センチ連装砲2基に加え、船体後部にケースメート式の単装20センチ砲各舷3基(計6基)を装備していました。

搭載機は三式艦上戦闘機16機、十式艦上爆撃機16機、十三式艦上攻撃機28機、計60機(いずれも複葉)でした。

 

1936年から予備艦に移され、先行して大改装を行った後述の「加賀」に変わって一段飛行甲板形式や対空兵装の強化、搭載機数の増大等の改装が行われ、1938年、艦容を一変し艦隊に復帰しています。

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(一段全通甲板形態に大改装された「赤城」の概観:こちらはいずれ詳しく御紹介します)

 

関東大震災で突如のピンチヒッター指名

航空母艦「加賀」(「土佐級」戦艦改造)

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ワシントン海軍軍縮条約で、日本海軍の大建艦計画(八八艦隊計画)は破棄され、「土佐級」戦艦2隻(「土佐」「加賀」)はすでに両艦ともに進水していたにも関わらず廃棄される予定でした。しかし関東大震災により、空母への改造予定だった「天城」の船体が大きな損傷を受けたため、急遽「天城」の代艦として「加賀」が空母への改装を受けることとなりました。

改造の要領は前出の「赤城」に準じて行われ、「赤城」同様の三段飛行甲板仕様の航空母艦として、1928年に完成しました。搭載機数は「赤城」に準じて同様の60機、20センチ砲も主砲として連装砲塔2基、ケースメート方式の単装砲各舷3基搭載していいました。

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航空母艦として完成した「加賀」の概観:197mm in 1:1250 by XP Forge: 下の写真は、同艦の竣工時の特徴である三段飛行甲板と中甲板に設置された20センチ連装主砲塔(上段):この時期の航空母艦は対艦戦闘を想定して主砲を装備していました。下段は同艦で導入された艦尾舷外排煙方式の煙突。「加賀」はこの煙突を両舷に装備しています:後述しますが意欲的な挑戦でしたが、結果的には失敗でした)

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(「加賀」は、ワシントン条約の制約で空母に改造される予定だった「天城級巡洋戦艦ネームシップ「天城」が関東大震災で被災したため、急遽「天城」に代えて、こちらも条約の制約から廃棄される予定だった戦艦「加賀」を航空母艦に改造したものです。戦艦をベースとしたため、速度が航空母艦としては低速になっていました。上段:戦艦形態の「加賀」(完成予想)と下段:航空母艦形態で竣工した「加賀」)

 

しかし「赤城」が高速・長船体の巡洋戦艦をベースとしたのに対し、「加賀」は戦艦を出自としたため、船体が短く、かつ27ノットという、空母としては低速で、飛行甲板への乱気流の影響が課題となった排煙の誘導については、意欲的な実験的取り組みとして飛行甲板への排煙の影響を最小限にするために意欲的な実験として導入された艦尾舷外排煙方式が、「加賀」の低速ではかえって広範囲に乱気流を起こすなどの弊害が露呈したため、「赤城」に先駆けて1933年から大改装を受け、艦容も三段飛行甲板から一段全通甲板に改められ、不評だった艦尾舷外排煙もこの時に改められました。f:id:fw688i:20211010110021j:image

(一段全通甲板形態に大改装された「加賀」の概観:こちらはいずれ詳しく御紹介します)

 

「赤城」と「加賀」:名コンビの比較

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ワシントン条約の制約で航空母艦として完成された「天城級巡洋戦艦:上と「土佐級」戦艦の完成予想の比較。「天城級巡洋戦艦の方が機関が大きく水線長も長いことがわかります。これらの要件はどちらも航空母艦には重要でした。「土佐級」が急遽の代打的な起用だったことが、ここからも伺えます)

 

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(写真上段:航空母艦形態の「赤城」(手前)と「加賀」の比較:こうして見ると飛行甲板の延長には大差がないように見えますが、下段写真を見ると、「加賀」(下段右)が飛行甲板の全長を稼ぐためにかなり艦尾に張り出した飛行甲板を装備していたことがわかります)

(直下の写真:「加賀」(上段)と「赤城」の排煙方法の比較:「加賀」では排煙の熱による上昇気流の飛行甲板への影響を抑えるために艦尾舷外排煙方式が導入されました。舷側に長大な排煙用の煙突がわかります。「加賀」はこの煙突を両舷に装備していました。非常に意欲的な試みではあったのですが、「加賀」の低速では却って排気熱の影響が広範囲に出てしまったようで、結果的には失敗でした)f:id:fw688i:20211010105023j:image

 

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(直上の写真:一段全通飛行甲板に改装された「加賀」(手前)と「赤城」:艦橋の位置が異なることがよくわかります。両艦は太平洋戦争開戦時、日本の空母機動部隊の中核として第一航空戦隊に編成され、大活躍をした名コンビでした。そちらの詳しい話は、いずれまた)

 

ワシントン体制の空母保有枠対策から生まれた小型空母

航空母艦龍驤

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ワシントン条約の空母保有枠を意識して設計された小型航空母艦龍驤」の概観:149mm in 1:1250 by Neptun:s設計途中でロンドン条約が締結され、小型空母も条約の保有制限対象となったため、急遽、格納甲板を一段追加、いかにもトップ・ヘビーな概観となりました)

ワシントン条約では空母の保有にも制限が設けられましたが、10000トン未満の空母は制限枠外とされたため、「龍驤」は搭載機24機、10000トン未満の空母として当初設計されました。しかしその後締結されたロンドン条約で、10000トン未満の空母も制限枠の対象とされ、10000トンの枠にこだわる理由がなくなったため、再度設計が見直され、最終的に二段の格納庫を持ち36機(+保用12機)の搭載能力を持つ小型空母として、「龍驤」は建造されました。

この搭載機増に繋がる設計変更は、上部構造の大型化をうみ、バルジの装着などの対策が取られましたが、復原性に課題を抱えたまま、1933年に完成しました。

12000トン弱の船体を持ち、速力は29ノット、就役時の搭載機は艦上戦闘機12機(+保用4機)、艦上爆撃機6機(+保用2機)、艦上攻撃機12機(+保用6機)、計30機(+保用12機)(いずれも複葉)でした。

 

復原性の課題については、「龍驤」の就役後に発生した第四艦隊事件つでも見直され、バルジの大型化、バラストキール・艦艇バラストの搭載による重心の低下、高角砲の減載などの対策が取られることになります。

 

龍驤」はその建造の着想がワシントン条約の制限枠外で建造できる空母、という発想でしたが、残念ながら建造途中にロンドン条約の締結により、せっかくのこの制限枠外への設計配慮が無駄になってしまいました。このため、艦隊で運用するには中途半端な大きさの空母となってしまいました。

 

黎明期の航空母艦f:id:fw688i:20211010110617j:image

日本海軍お黎明期の航空母艦の一覧:手前から「鳳翔」「龍驤」「赤城」の順。「鳳翔」があまりに小ぶりであり、「龍驤」の飛行甲板が短いことがよくわかります。高速の単葉機が艦上機の主力となって来ると、「鳳翔」「龍驤」の両艦はこれらの運用に支障が出るようになってゆきます)

 

条約型中型空母構想の萌芽

この後、「鳳翔」が条約での退役可能年限(つまり代艦が建造できる)を迎えるのですが、これにより20000トン枠での新造空母を建造することが可能となります。これを「赤城」「加賀」と合わせて運用するためには複数の空母を建造することが理想とされ、1934年の第二期建艦計画(丸二計画)では、艦政本部に以下のような要求が提出されています。排水量10050トン(ロンドン条約の規定により枠内で2隻の航空母艦を建造する場合の上限値)、速力36ノット、搭載機100機、主砲20センチ砲5門、高角砲20門、対空機関砲40基。

この要求は夢物語の類であるとして、設計側はそれでも排水量10050トン(ロンドン条約の規定による)、搭載機70機、主砲15.5センチ砲5門、高角砲16門という、これも先述の「龍驤」の仕様を考慮すると途方もない設計案を一応の結論として持っていたようです(これは「蒼龍」原案と名付けられているようです)。

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(皆さんもなんとなくお気づきのように、こうした情報に触れるとどうしても形にしたくなる筆者の性がむくむくと鎌首をもたげてきて、ああ、少し手をつけてしまいました。どこまで真剣にやるかは、まだ決心がついていませんが、「蒼龍」原型の飛行甲板下の主砲配置(15.5センチ砲、連装と三連装で5門)です。もう少し配置を後ろ寄りにしても良かったか、という思いもないではないですが、後の「蒼龍級」の前方エレベータの位置を考慮すると、この辺りかと。ストックの古い「雲龍級」(多分?)のモデルをバラして少し加工しています。後いくらか手を入れれば完成させられるかも。しかし、これではどう転んでも基準排水量10050トンには収まらないだろうし、搭載機70機というのも???(複葉機ならいけるのかな?)現実的には「蒼龍」と同じ50機台なんでしょうね。煙突が原案の図面では艦橋後部に直立しているように見えるんですが、この辺りもどうするか、今後の考えどころです。もう少し資料がないかな?)

 

その後、例の第四艦隊事件による海軍艦艇全般の復原性への見直しが行われ、この原案もお蔵入りになりました。

いずれにせよ、設計の焦点は次の中型空母構想へと向かってゆくことになります。そして空母の集中運用の思想が芽生えてくるわけです。

そのお話は、また次回に、ということで今回はここまで。

 

しばらくこんな感じで、日本海軍の航空母艦発達小史を予定しています。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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レイテ沖海戦:小沢艦隊(第三艦隊:空母機動部隊)日本海軍、空母機動部隊の終焉(その2)

今回はレイテ沖海戦時の「小沢機動部隊」の続き。

前回、二つの航空戦隊(第四航空戦隊は搭載機を持たない航空戦隊でしたが)をご紹介しましたので、今回は機動部隊の警戒部隊をご紹介します。そういうお話です。

 

第三十一戦隊:司令官:江戸兵太郎少将

第三十一戦隊は1944年8月にシーレーン防備を目的とした対潜戦闘を主任務に編成された新しい戦隊でした。

ソロモン方面での激戦を生き残った当時既に旧式艦と目されていた「睦月級」駆逐艦の残存艦で構成される第3水雷戦隊を母体として、これに対潜戦闘に特化して設計された「松級」駆逐艦海防艦駆潜艇などを加え軽巡洋艦「五十鈴」(防空巡洋艦に改造されていました)を旗艦として編成されていました。

戦隊と呼称されながら、戦隊としてまとまって行動することはなく、船団護衛に分散して投入されることが多かったようです。

小沢機動部隊本隊の護衛部隊には、元々第二遊撃部隊(第五艦隊基幹、志摩艦隊)が当たる予定でしたが、台湾沖航空戦の残敵掃討任務で出撃してしまったため、数日後に発動した捷一号作戦には間に合わず、急遽、第三十一戦隊が小沢機動部隊の直衛任務に就くことになりました。

足の遅い海防艦駆潜艇などは機動部隊の燃料補給艦の護衛につき、旗艦「五十鈴」と「松級」駆逐艦が機動部隊本隊の護衛に就くこととなりました。この際に軽巡洋艦「大淀」「多摩」、「秋月級」駆逐艦4隻が編入され、旗艦を「大淀」に変更しています。

出撃時の機動部隊本隊の護衛部隊は以下の通りでした。

軽巡洋艦:「大淀」(戦隊旗艦)「五十鈴」「多摩」

駆逐艦:秋月級駆逐艦「初月」「若月」「秋月」「霜月」、松級駆逐艦「槙」「杉」「桐」「桑」

 

軽巡洋艦 大淀(旗艦)

ja.wikipedia.org

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(直上の写真は、「大淀」の概観。就役時ではなく、連合艦隊旗艦への転用以降の姿を現しています。153mm in 1:1250 by Neptune)

同艦は、レイテ沖海戦では第三十一戦隊の旗艦を務め、後に艦隊旗艦「瑞鶴」の沈没後は機動部隊本隊の旗艦を務めました。

 

「大淀」の設計と戦歴

日本海軍は米海軍を仮想敵とし、艦隊決戦には、両者の物量の差をを勘案した場合、太平洋を渡洋してくる米主力艦部隊に対す漸減邀撃作戦を展開し、ある程度その戦力を削いだ上で主力艦同士の決戦に移行する必要があるという構想を立てていました。

潜水艦はその邀撃の重要な担い手で、その潜水艦部隊を指揮、誘導する旗艦として有力な航空索敵能力を持ち強行偵察が可能な偵察巡洋艦の建造を計画していまいした。その構想の元「大淀」は建造されました。

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(直上の写真:「大淀」竣工時の概観。153mm in 1:1250 by Trident /船体の後部三分の一を締める長大なカタパルトを搭載しています)

当初設計案では航空偵察能力に重点がおかれ、主砲も魚雷も搭載しない設計でしたが、その後、強行偵察を考慮し主砲のみ装備することとなりました。主砲には、「最上級」巡洋艦が竣工当初搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔を転用することが決まり、これを2基搭載しました。ja.wikipedia.org

この砲は27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。

75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありました。

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(直上の写真は、「大淀」の主要部。主砲:「最上級より転用された3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔(上段)。高角砲として搭載された長 10cm高角砲(左下)。艦後部の航空艤装:就役時には、高速水上偵察機「紫雲:の射出用に、艦後部の航空艤装甲板に甲板のほぼ全長に匹敵する長大なカタパルトを装備していました(右下))

併せて対空砲として、日本海軍最優秀対空砲として評価の高い長10センチ高角砲を盾付きの連装砲架で4基、巡洋艦として唯一搭載していました。

ja.wikipedia.org

その主装備である航空偵察には、当初、新型の長大な航続距離を持ち、戦闘機も振り切ることができる高速を発揮できる水上偵察機「紫雲」が予定され、その運用のために、「大淀」は艦中央に航空機格納庫を持ち、さらにその後部に呉式2式1号10型という形式の圧縮空気型カタパルトを搭載していました。このカタパルトは6tまでの機体を40秒間隔で射出することができましたが、全長44メートルの巨大なものであり、大淀も当初、艦の後部約3分の1を割いて、このカタパルトを巨大なターンテーブルに搭載していました。

ja.wikipedia.org

しかし1943年の就役時点で、「紫雲」が想定の性能に到達せず、また戦術が航空戦力主導に移行したことから、想定された主力艦部隊同士の決戦とその前段としての潜水艦による漸減邀撃が成立しなくなっており、就役当初は輸送任務、あるいはその支援に従事しました。

その後「大淀」は航空機格納庫を会議室や通信機器の収納スペースに改造、大型カタパルトを通常のカタパルトに変更するなどの手が加えられ、1944年5月から、指揮専用艦として連合艦隊旗艦となりました。

しかし連合艦隊の指揮専用艦としては、司令部施設が狭く、1944年9月、連合艦隊司令部が陸上に移ると、「大淀」は第3艦隊(空母機動部隊:小沢艦隊)に編入され、レイテ沖海戦に参加します。「大淀」は当初、小沢機動部隊の艦隊旗艦を予定されていましたが、小沢長官の「空母機動部隊の指揮は空母で」という希望で旗艦は「瑞鶴」となりました。

米艦載機との交戦で、「大淀」は小型爆弾などを被弾しますが、大きな損害はなく、主砲・高角砲を動員して対空戦闘に持ち前の高い対空戦闘能力を発揮して活躍しました。やがて旗艦「瑞鶴」が被弾傾斜し指揮が困難になると、小沢長官は「大淀」に移乗し、指揮を続けました。

海戦後、奄美大島に帰着し艦隊が解隊された後、「大淀」はフィリピン方面に進出します。途中、砲弾補給などを受けながらリンガ泊地に移動。次いで第2水雷戦隊旗艦となり、ミンドロ島での戦闘支援のための礼号作戦に参加します。この際、米軍機の夜間爆撃で爆弾2発を被弾しますがいずれも不発弾でした。この作戦は第5艦隊(志摩中将)隷下の第2水雷戦隊司令官木村昌福少将(キスカ島撤退作戦に指揮など、最近になって、評価の高い指揮官ですね)の指揮により実施されましたが、木村司令官は作戦直前に旗艦を駆逐艦「霞」に変更しています。水雷戦隊に新加入の「大淀」より水雷戦隊時代から馴染みのある艦を選んだ、と言われていますが、いずれにせよ、投入された部隊は残存艦艇の寄せ集め、でした。「帝国海軍の組織的戦闘における最後の勝利」とも言われますが、実際の戦果はそれほど大きくはなく、さらに既に局地戦での「勝利」が、戦況に大きな影響を与えられる状況ではありませでした。

その後、北号作戦(南西方面に残置された残存稼働艦艇による本土への物資輸送作戦)に参加して内地に帰還しました。

1945年3月から7月までの数次の米艦載機による呉空襲で、当初は対空戦闘を実施したものの、複数弾を被弾し、最後は横転着底した姿で、終戦を迎えています。

 

軽巡洋艦多摩(5500トン級第一世代:球磨級軽巡洋艦

ja.wikipedia.org

Kuma-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:球磨級駆逐艦:119mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs:3D printing modell :写真の姿は太平洋戦争当時の「球磨」。航空機による索敵能力を得るために、後の改装で5番砲塔と6番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)

 

本級は「天龍級」の艦型を5500トンに拡大し、併せて主砲を「天龍級」の14センチ単装砲4門から7門に増強しています。雷装としては、53センチ連装魚雷発射管を各舷に2基、都合4基搭載し、両舷に対し4射線を確保する設計となっています。

速力は、同時期の「峯風級」駆逐艦(39ノット)を率いる高速水雷戦隊の旗艦として、機関を強化し36ノットを有する設計となっています。

主力艦隊の前衛で水雷戦隊を直卒する任務をこなすため、高い索敵能力が必要とされ、その具体的な手段として航空艤装にも設計段階から配慮が払われた最初の艦級となり、水上偵察機を分解して搭載していました。しかしこの方式は運用上有効性が低く、「球磨」と「多摩」では、後日、改装時に後橋の前に射出機(カタパルト)を装備し水上機による索敵能力を向上させることになります。

 

軽巡洋艦五十鈴(5500トン級第二世代:長良級軽巡洋艦

「五十鈴」は5500トン級軽巡洋艦の第二世代の二番艦として建造されました。

開戦時、香港や南方の攻略戦に参加した後、第2水雷戦隊旗艦として南太平洋海戦、第3次ソロモン海戦等に参加しました。その後、米機動部隊の空襲による損傷復旧の際に、全主砲を高角砲に換装するなど、対空兵装を格段に充実・強化した防空巡洋艦に生まれ変わりました。この対空兵装の強化は、既に旧式化した全ての「長良」級巡洋艦に実施される予定でしたが、実現したのは「五十鈴」1艦のみでした。この改装の際に、魚雷発射管の搭載・射出方式を改め、前部連装発射管を撤去、後部発射管を4連装発射管に改め、酸素魚雷の運用能力を持ちました。

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(直上の写真は、「長良級」2番艦「五十鈴」の防空巡洋艦への改装後の概観。本来はこれと同等の改装を、「長良級」の他艦にも実施する予定でした)

(直下の写真は、「五十鈴」の対空兵装の配置を少し詳細に示したもの。すべての主砲を撤去し、艦後部に搭載したカタパルトを撤去し、3基の連装高角砲と多数の対空機銃座を増設しています。この改装の際に、「五十鈴」は前述の魚雷発射管の配置、換装を併せて行いました)

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跳梁する米潜水艦対策として、対潜掃討を主任務とする第三十一戦隊が編成されると、その旗艦となりました。その後、レイテ沖海戦では、第3艦隊(小沢「囮」機動部隊)本隊の警戒任務に就き、海戦に参加しました。海戦では米艦載機の攻撃により損傷。機動部隊の解散後は第三十一戦隊の本来の任務であった輸送護衛任務につき、1945年4月、スンダ列島の陸軍部隊の撤退作戦に従事中、小スンダ列島スンバワ島沖で米潜水艦の雷撃により撃沈されました。

 

以上の軽巡洋艦群については本稿以下の回でも色々と触れています。もし興味があれば。

fw688i.hatenablog.com

fw688i.hatenablog.com

 

駆逐艦  初月、若月、秋月、霜月(秋月級駆逐艦

最初で最後の防空駆逐艦「秋月級」駆逐艦(12隻)

ja.wikipedia.or

第一次世界大戦以降、本格的な兵器として航空機は急速に発展してゆきます。これに対する対抗手段として、強力な対空砲を多数装備し艦隊防空を主要任務として想定し設計された艦級を各国海軍が開発、あるいは旧式巡洋艦を改装するなどして対応を試みます。日本海軍も当初は「天龍級軽巡洋艦、「5500トン級」軽巡洋艦を改装するなどの構想を持ちますが、これらの艦艇に関しては、いまだに艦隊決戦での水雷戦闘能力の補完艦艇としての位置付けを捨てきれず、結局専任艦種の建造計画に落ち着くことになるわけです。そのような経緯から当初設計案では魚雷の搭載を予定せず、艦種名も「直衛艦」とされ、巡洋艦クラスの大型艦となる設計案もありました。

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(直上の写真は、構想のあった「直衛艦」の概観を示したもの。138mm in 1:1250  C.O.B Constructs and Militarys製 素材はSmooth Fine Detail Plastic)

 

しかし紆余曲折の結果、駆逐艦としての機能も併せ持つ「秋月級」駆逐艦が誕生する事となりました。

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(直上の写真:「秋月級」の概観。108mm in 1:1250 by Neptune:艦首が戦時急造のため直線化しているのが、わかるかなあ?)

同級は空母機動部隊等への帯同を想定するために航続距離が必要とされ、艦型は2700トン級の大型艦となり、この船体に、主砲として65口径長10センチ高角砲を連装砲塔で4基搭載し、61cm4連装魚雷発射管1基と予備魚雷4本を自動装填装置付きで装備しました。速力は高速での肉薄雷撃を想定しないため、やや抑えた33ノットとされました。

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(直上の写真:「秋月級」の最大の特徴である65口径長10センチ高角砲の配置と艦橋上部の高射装置)

 

65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)の話

65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)は、日本海軍の最優秀対空砲と言われた高角砲で、18700mの最大射程、13300mの最大射高を持ち、毎分19発の射撃速度を持っていました。これは、戦艦、巡洋艦、空母などの主要な対空兵装であった12.7cm高角砲(八九式十二糎七粍高角砲に比べて射程でも射撃速度でも1.3倍(射撃速度では2倍という数値もあるようです)という高性能で、特に重量が大きく高速機への対応で機動性の不足が顕著になりつつあった12.7cm高角砲の後継として、大きな期待が寄せられていました。

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上記、射撃速度を毎分19発と記述していますが、実は何故か揚弾筒には15発しか搭載できず、従って、15発の連続射撃しかできなかった、ということです。米海軍が、既に1930年台に建造した駆逐艦から、射撃装置まで含めた対空・対艦両用砲を採用していることに比べると、日本海軍の「一点豪華主義」というか「単独スペック主義」というか、運用面が置き去りにされる傾向の一例かと考えています。

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(直上の写真:「秋月級」では、高角機関砲の搭載数が次第に強化されていきます)

同級は全艦が太平洋戦争開戦後に就役し、戦時下での建造も継続されたため、次第に戦時急増艦として仕様の簡素化、工程の簡易化が進められました。結果、12隻が就役し終戦時には6隻が残存していました。

 

駆逐艦 槇、杉、桐、桑

 戦時急造を目指す汎用中型駆逐艦

「松級」駆逐艦(32隻)

ja.wikipedia.org

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(直上の写真:「松級」の概観。79mm in 1:1250 by Neptune)

 「松級」駆逐艦は、日本海軍が1943年から建造した戦時急増量産型駆逐艦です。32隻が建造されていますが、戦時急造の要求に従い急速に建造工程の簡素化、簡易化が進められ、多くのサブグループがあります。

同級の建造の背景として、太平洋戦争開戦後、日本海軍の保有する艦隊駆逐艦は常に第一線に投入されますが、その戦況の悪化に伴い、多くが失われてゆきます。特に、護衛任務・輸送任務等における対空戦闘、対潜戦闘に対する能力不足は顕著で、それらの補完が急務となります。

しかし従来型の駆逐艦級はいずれも建造に手間がかかるため。新たな設計構想と兵装を持った駆逐艦が求められるようになります。

こうして生まれたのが「松級」駆逐艦で、1200トン級の比較的小ぶりな船体に、主砲として40口径12.7cm高角砲(89式)を単装砲と連装砲各1基として対空戦闘能力を高め、併せて対潜戦闘も強化した兵装としました。

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(直上の写真:「松級」の主砲:八九式40口径12.7cm高角砲。艦首部には単装、艦尾部に連装砲が、それぞれ砲架形式で搭載されました(前部は防楯付き)。更に下段の写真では、強化された対潜兵装も。投射基2基と投射軌条2条。爆雷の搭載数は最終的には60個まで増強されました)

一方で雷装は軽めとして4連装魚雷発射管1基を搭載し予備魚雷は搭載していません。搭載艇にも配慮が払われ、「小発」(上陸用舟艇)も2隻搭載可能とされ、輸送任務への対応力も高められました。

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(直上の写真:「松級」の搭載艇について。旧モデル(下段)では後方の搭載艇が「小発」に見えなくもないのですが、上段の新モデルでは・・・)

トピック:爆雷の搭載数

「松級」の爆雷搭載数は当初36発であったものを「不足」として60発まで搭載数が増やされています。大戦後期に登場した船団護衛専任艦種の「海防艦」の爆雷搭載数が120発でしたので、それでも十分と言えたかどうか。

それでも駆逐艦の中では「松級」は最も搭載数が多く、艦隊駆逐艦の完成形と言われた「朝潮級」「陽炎級」では36発でした。これが艦隊直衛を専任とする「秋月級」で54発と大幅に強化され、更に「松級」では充実する事になります。

この爆雷を2基の投射機(左右に飛ばす装置)と艦尾の2条の軌条(ゴロゴロと艦尾から水中に落とす装置)から、水中に投下する仕掛けでした。

 

「松級」に話に戻しますと、機関の選択には量産性が重視され、更に生存性を高めるためにシフト配置が初めて選択されました。一方で速力は28ノットと抑えられました。

建造工数の簡素化については1番艦の「松」が9ヶ月でしたが、最終的には5ヶ月まで短縮されています(参考:夕雲級1番艦「夕雲」は起工から就役まで18ヶ月。同級最終艦「清霜」は起工から就役まで10ヶ月)。また同艦級は、艦隊決戦的な視点に立てば確かに速力など見劣りのする性能と言えるでしょうが、その適応任務は輸送、護衛、支援と、場面を選ばず、ある種「万能」と言えなくもないと考えています。

32隻が建造され、18隻が終戦時に稼働状態で残存しています。

 

上記の駆逐艦の緩急については本稿の下記の回でも触れています。興味のある方は是非。

fw688i.hatenablog.com

 

小沢機動部隊最後の戦闘:エンガノ岬沖海戦

前回ご紹介したように、1944年10月24日、ハルゼー機動部隊の一部を発見した小沢艦隊は艦載機部隊を出撃させます。この出撃は日本海軍空母機動部隊艦載機部隊の最後の出撃となったわけです。

この攻撃はハルゼー機動部隊にはさしたる損害を与えませんでしたが、それでも母艦部隊の存在を知らしめる効果があり、ハルゼーを大いに刺激しました、

その後、25日早朝、米機動部隊の索敵機の接触を受けた小沢機動部隊は、直掩の戦闘機18機を残し、残りの艦載機を全て陸上基地に退避させ、ハルゼー機動部隊を誘引すべく予定の北上行動を行いました。

25日8時ごろには米機動部隊の攻撃第一派が襲来し、この攻撃で「瑞鶴」「瑞鳳」が被弾し、「瑞鳳」は一時的に舵が故障、旗艦「瑞鶴」の通信機能が失われました。この通信機能の喪失は重大で、小沢機動部隊司令部は、米機動部隊攻撃隊の接触を受けたこと(つまり「囮」作戦に成功した可能性があること)を、発信する術を失ってしまいました。更に空母「千歳」は5発の爆弾と至近弾多数を被弾し航行不能になりやがて沈没しました。この攻撃で駆逐艦「秋月」も失われました。軽巡洋艦「多摩」も被雷し一次航行不能となりました。

9時に米艦載機第二派が来襲し、空母「千代田」が被弾。炎上し航行不能となります。小沢長官はこの来襲後、ようやく通信不能の「瑞鶴」から旗艦を「大淀」に移しました。

13時ごろ、第三波が来襲。既に直掩の戦闘機部隊は全て撃墜されたか、燃料切れで着水してしまった(母艦は全て被弾して着艦できなかった)ため、艦隊は上空直掩のない裸の状況でした。「瑞鶴」は7本の魚雷、4発の直撃弾、至近弾多数を受け、大火災を起こし14時過ぎに沈没しました。「瑞鳳」も魚雷2発、直撃弾4発、至近弾多数を受け航行不能となり、15時過ぎに沈没しています。

「千代田」は唯一、残存していましたが、航行不能状態で、軽巡「五十鈴」に曳航が命じられますが空襲等があり思うに任せず、やがて日没以降の処分と生存者救出の命令が出されます。しかし日没を待たずに米巡洋艦隊が来襲し「千代田」を砲撃で沈めてしまいました。

巡洋艦部隊は生存者救助中の駆逐艦「初月」とも遭遇し、これを撃沈しています。

 

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(レイテ海戦当時の小沢機動部隊の基幹戦力、第三航空戦隊の空母:「瑞鶴」(艦隊旗艦:左上)、「瑞鳳」(右上)、「千歳」と「千代田」(下段):上述の通り、全てこの海戦で失われました)

その後、米機動部隊の第四派攻撃隊が来襲し、「伊勢」「日向」は至近弾を多数受けますが、損害は浸水程度に止まりました。

第一次空襲で被雷し一次航行不能に陥っていた軽巡洋艦「多摩」は、再び航行能力を回復し、沖縄に単独で退避していましたが、途中で米潜水艦により撃沈されました。

小沢長官は残存する水上戦闘艦艇を率いて、「千代田」「初月」を撃沈した米水上艦艇部隊との一戦を企て、一転して南下しますが会敵できず、戦線より撤退し、呉、あるいは沖縄に帰港しました。

本作戦での小沢機動部隊の損失艦は以下の通りです。

空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」、軽巡洋艦「多摩」、駆逐艦「秋月」「初月」

 

「囮」作戦は成功したのか?

これは微妙な課題ですね。確かに小沢機動部隊はハルゼー機動部隊を北に誘引することに成功しています。しかし「囮」としての役目を果たすには、まず敵に発見されなければならないわけですが、米艦隊が小沢部隊を発見するタイミングが1日遅かったため、栗田艦隊(第一遊撃部隊)はシブヤン海で米機動部隊の空襲にさらされ戦艦「武蔵」以下を失う大損害を受け、結果、一時北方への退避を欺瞞せねばなりませんでした。この欺瞞機動によって、栗田艦隊と西村艦隊・志摩艦隊の同時レイテ突入に齟齬が生まれてしまい、先に単独で突入した西村艦隊は壊滅、これに続いた志摩艦隊も戦闘らしい戦闘ができないまま撤退せざるをえませんでした。

一方でハルゼー艦隊が小沢機動部隊により北方へ誘引されたことにより、ハルゼー機動部隊の航空援護に大きな空白が生まれ、栗田艦隊はサマール沖海戦で米護衛空母部隊に大損害を与える事ができています。

歴史に「If」は禁物ですが、ではもし(「If」)小沢機動部隊が1日早い24日に米艦隊に襲撃され、「囮」の役目通り北方への誘引を果たしていたとしたら、栗田艦隊は無傷でシブヤン海を抜け予定通りレイテ湾に突入出来ていたのでしょうか?あるいはハルゼーは視野に入れた二つの目標を自部隊を二群に分けてでも、別々にやはり攻撃していたのでしょうか?

ハルゼー艦隊は、ほとんど搭載機を持たない小沢艦隊を撃破するのに約6時間の時間をかけています。この6時間が24日のどの時間帯で使われたのか、この辺りが決め手になってくるのかもしれません。

まあ、考え始まるとキリがない、つまり「If」は禁物、ということかと。

 

「ブルズ・ラン」:ハルゼーの事情

「ブルズ・ラン」、ハルゼーの小沢機動部隊攻撃は、後にそのような呼び方をされるようになります。これは、ハルゼーが侵攻作戦の主戦場であるレイテ湾防備をガラ空きにして、機動部隊の総力(と言っても一群は補給のために東方海域に向かわせていたのですが)を小沢機動部隊の追撃に振り向け侵攻作戦そのものを危機に陥れたとして、冷静な判断を欠いた蛮行を揶揄して、使われます。

以下はちょっとうがった見方ですが、なぜハルゼーは「ブルズ・ラン」を起こしたのか。

レイテ沖海戦までに日米の空母機動部隊は都合5回の大きな海戦を戦っています。

これから本稿で展開しようとしている「機動部隊小史」でそれぞれ紹介することになりますが、順を追って総覧しておくと「珊瑚海海戦」(1942年5月)「ミッドウェー海戦」(1942年6月)「第二次ソロモン海戦」(1942年8月)「南太平洋海戦」(1942年10月)「マリアナ沖海戦」(1944年6月)となるわけです。そしてこのうち米機動部隊が勝利したのは「ミッドウェー海戦」と「マリアナ沖海戦」で、いずれも空母機動部隊を指揮していたのはミッドウェーまでは彼の指揮下で空母機動部隊の警戒部隊の指揮を取っていたスプルーアンスでした。このことはハルゼーのある種「負い目」になっていたかもしれません。

ハルゼーは開戦時から一貫して空母機動部隊の指揮官を務めていました。積極果敢な攻撃精神を発揮して、真珠湾奇襲直後に、沈滞する艦隊首脳を尻目に日本領マーシャル群島の基地を攻撃、その後、陸軍の双発爆撃機で編成されるドゥーリトル隊を空母から発進させるという離れ技を行い、日本本土を空襲し、士気鼓舞に努めます。

しかし空母戦では常に戦術的には良くて痛み分けで、決定的な結果を出していませんでした。レイテ沖海戦の時には、「今度こそ」と思ったかも。

ちょっと穿ち過ぎか?

 

レイテ沖海戦の終幕

これまで見てきたように、小沢機動部隊はほとんど搭載機を持たない裸の空母部隊でありながらも、「囮」としての役割を果たしレイテ侵攻部隊に航空援護の傘をさしかけていたハルゼー機動部隊を北方へ誘引することに成功し、栗田艦隊にレイテ湾突入への空白を作り出すことに、ある程度、成功します。

しかし、結果的には栗田艦隊は、この段階でその主攻撃目標を「米機動部隊主力」に変更し、これを求めていわゆる「謎の反転」を行います。

これには栗田艦隊が、北方の機動部隊の「囮」作戦の経緯を知ることができず、全般の戦局が不明のまま、砲戦を交わした米護衛空母部隊を、正規機動部隊の一部と誤認したことが大きな要因と思われます。つまり、小沢艦隊を追って米機動部隊が離れていたにも関わらず、米機動部隊が近くにいる、と思い込んでしまったわけです。この背景には両艦隊がほぼ同時刻に、それこそ全力でそれぞれの海戦(サマール沖海戦・エンガノ岬沖海戦)を戦っており、それぞれ戦況の整理が混乱していたこと、小沢機動部隊旗艦の「瑞鶴」が米機動部隊の第一派攻撃で被弾、通信能力を失い、旗艦を変更するまで米機動部隊の誘引に成功した旨を発信できなかったことなどが考えられます。

本来なら上級司令部が情報を整理するべきなのでしょうが(そのために混乱の少ない後方にいるはずなのですが)、それを担うべき連合艦隊司令部はあまりにも遠い日本本土にあって、それを行なった形跡はなさそうです。

更に栗田艦隊はサマール沖海戦で、護衛空母の艦載機の反撃で重巡洋艦3隻を戦列から失うという小さくない損害を出しており、これも敵空母を正規空母部隊と誤認した要因の一つかもしれません。

 

しかしこの「反転」の決断を生み出した最も大きな要因は、日本海軍の伝統的構想であり、その設計の基礎であった「艦隊決戦」から「侵攻軍撃滅」へと大きく作戦目的を変更した(はずの)「捷一号作戦」の説明をするためにフィリピンで栗田艦隊参謀長と会合した連合艦隊参謀が、栗田艦隊参謀長の「上陸軍への攻撃の際には、当然、これを阻止しようとする米空母機動部隊との交戦が予想される。その場合、状況次第で攻撃目標を米機動部隊(敵主力)に変更することは差し支えないか」との質問に対し、「差し支えない」と回答してしてしまったことだと考えます。つまり、せっかく作戦主旨を「総力戦目標の実行=上陸軍攻撃=侵攻阻止=南方との資源輸送路確保」とし、実施部隊に大きな目標変革、意識変革(「艦隊決戦から総力戦遂行」へ)を要求したにも関わらず、この回答で従来路線への回帰の可能性(選択肢)を容認してしまったということなのです。

こうして栗田艦隊は幻の米機動部隊を求めて反転し、レイテ湾突入は行われませんでした。

 

なぜ連合艦隊参謀はこのような選択肢を容認したのか、については、連合艦隊司令部自体が、この戦略の大転換を整理できていなかったということではなかったかと、筆者は推測します。そして、その後の戦局の経緯を見ていくと、ある程度この推測が裏付けられるのではないかと思うのです。

つまり、連合艦隊参謀が来たる「捷一号作戦」で主力部隊となる第一遊撃部隊司令部と作戦主旨説明の会合を持ったのが8月1日なのですが、連合艦隊司令部はその後10月に沖縄・台湾方面に来攻した米機動部隊に対し、「捷号作戦」の骨子であるはずの「侵攻に先駆けて航空撃滅戦を事前展開する米機動部隊に対しては「手当て」程度の反撃にとどめ兵力を温存し、これに続いて来航する上陸軍に全兵力を投じる」という方針を忘れたかのように持てるほぼ全ての基地航空部隊(更に再建途上の機動部隊艦載機部隊までも合わせて1250機あまり)を投入して台湾沖航空戦を展開し、危惧通り、これに続く米軍のレイテ侵攻時には、約1550機の艦載機を展開する米侵攻軍に対し360機足らずの基地航空部隊(第一航空艦隊:30機、第二航空艦隊:約330機)しか投入できないまでに、その航空戦力を消耗しているのです。

連合艦隊司令部自体が(あるいは海軍首脳部が、というべきか)、戦略転換について行けていなかった、ということではないかと思うのですが。

 

では、栗田艦隊がレイテ湾に突入してたらどうなっていたか、と、またもや「If」の禁忌を犯してみたくなるのは人の常なのですが、すぐに上陸軍砲撃とはいかず、まず西村艦隊を壊滅させた第七艦隊(キンケード艦隊)の6隻の戦艦部隊を中心とした水上艦部対(オルデンドルフ部隊:Task Group 77.2)が立ちはだかります。当然、これを第七艦隊のサマール沖海戦で損害を受けなかった他の護衛空母群(T.スプレーグ部隊:Task Group 77.4.1およびTask Group 77.4.2)が航空支援したでしょう。この航空支援だけでも300機近い艦載機を保有していたはずです。6隻の戦艦は第一次世界大戦期あるいはその後のワシントン体制期の設計による旧式艦と言われたりしますが、そういう視点では栗田艦隊の「大和」以外の3戦艦は同時代の設計で、戦力としては同等以上、と言っていいかと思います。同戦艦部隊は陸上支援砲撃と西村艦隊での対応で砲弾不足にあった、あるいは主砲に不具合があり、西村艦隊への砲戦にも参加できなかった艦があるとかいう情報もありますが、どうもはっきりしません。

いずれにせよ、これらと戦闘を繰り広げるうちにハルゼーから補給を切り上げてレイテ湾へ急行するようにと指示された米第三艦隊、第38任務部隊(Task Force 38)の一群(マケイン群:Task Group 38.1: この部隊は正規空母3隻、軽空母2隻の空母を含んでおり、補給のため小沢機動部隊との戦闘には参加していませんでした)の艦載機が東方洋上から栗田艦隊攻撃に参加したことでしょう。

狭いレイテ湾で東西からの攻勢にさらされて栗田艦隊はやがて壊滅するのでしょう。あるいは何隻かはスリガオ 海峡へ逃げ延びることができるかもしれません。が、さて、上陸軍に何太刀か自慢の巨砲を浴びせられたのかどうか。

ここから先は、まさに歴史の禁忌、「If」の世界ですね。

いずれにせよ、日本海軍の艦隊がこの戦いで戦力としての終焉を迎えたことには変わりはなさそうです。

 

ということで今回はここまで。

次回は予告通りであれば「日本海軍の空母機動部隊小史」を、その黎明期に遡ってご紹介するミニ:シリーズの始まりです。結構大きな企画になりそうなので、もしかすると小さなトピックを少し挟むかもしれません。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

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レイテ沖海戦:小沢艦隊(第三艦隊:空母機動部隊)日本海軍、空母機動部隊の終焉(その1)

今回はようやくレイテ沖海戦時の「小沢機動部隊」、つまり日本海軍最後の空母機動部隊のお話です。

この回を初回として、本稿ではこれまであまり触れてこなかった日本海軍の航空母艦の開発史、というか空母機動部隊の変遷を何回かで追いかけてみたいと考えています。

まずはその1回目、そういうお話です。

 

小沢機動部隊の担った「囮」の意味

レイテ沖海戦での日本海軍空母機動部隊の役割はいわゆる「囮」部隊であった、ということは、本稿を訪れていらっしゃるような艦船に興味のある方なら、おそらくご存知だろうと思います。

この「囮」構想が生まれた背景を少し乱暴に整理しておくと、日本軍のフィリピン防衛構想である「捷一号作戦」での日本海軍の主題は、「侵攻軍の撃滅」で、それまでの海軍伝統の「艦隊決戦」構想から大転換を行ったものでした。つまり、日本海軍の主攻撃目標をそれまでの米艦隊から米上陸軍に移し、残存する日本海軍の全力をあげてでこれに打撃を与える、というものだったわけです。

とはいえ、本来なら作戦の主役を担うべき「空母機動部隊」は、特にその搭載機部隊がこれに先立つマリアナ沖海戦で壊滅的な損害を受けて復旧途上にあり、つまりほとんど空の航空母艦部隊だったので、侵攻軍の撃滅は水上艦艇部隊に委ねざるを得ない状況でした。

この水上部隊の攻撃を成功させるためには、フィリピンに来攻するマッカーサー侵攻軍を東方海上から航空支援するハルゼー機動部隊(米第三艦隊)の空からの「傘」を引きはがす必要があるわけで、このため「小沢機動部隊(日本海軍第三艦隊)」を「餌」にハルゼー機動部隊を北方海上へ誘引し、その航空支援の手薄となる隙をついて、水上戦闘艦隊(第一遊撃部隊:栗田艦隊、第二遊撃部隊:志摩艦隊)を上陸地点であるレイテ湾に突入させ、侵攻軍を撃滅するという作戦が立てられたわけです。

何故、日本海軍の「空母機動部隊」がこんな状況に陥ったのか、と言うと。

 

マリアナ沖海戦以降の日本の機動部隊事情

マリアナの敗北:「マリアナ七面鳥撃ち」

少し遡っておくと、日本海軍はマリアナ諸島攻略を目的に来攻した米機動部隊相手に1944年6月、「あ」号作戦の名のもとに、空母機動部隊による決戦を挑み、大敗します。

詳細はこのミニ・シリーズのどこかで触れるとして、概略のみをまとめておくと日本海軍は「あ」号作戦に向けて、日本海軍史上初となる空母を中核戦力に正式に据えた第一機動艦隊という艦隊編成を行い、艦隊空母3隻、商船改造中型空母2隻、補助空母4隻という、当時の日本海軍としてはありったけの空母を投入し、これに500機あまり(諸説あるようですが)の艦載機を満載して決戦を挑み、3隻しかない虎の子の艦隊空母のうち2隻、商船改造中型空母1隻を失い、さらに重大なことは約400機の艦載機とそのパイロットを失ってしまいます。

加えて、「あ」号作戦では空母機動部隊と共に決戦の両輪と目されてマリアナ諸島に展開していた基地航空部隊(第一航空艦隊・第十四航空艦隊)が、この時期までに「見敵必戦」の号令の下、戦力を諸方面に逐次抽出しその都度消耗してしまっており、肝心の「あ」号作戦ではまとまった戦力としては期待できない状況に陥ったまま投入され、そのわずかな残存兵力も壊滅してしまいました。

なぜこのような状況になったかというと、「決戦」構想を立てつつも、その時期、展開地域等については主導権を取れず、つまり来攻する米軍の計画次第、これに対応する、という状況に陥ってしまっていた、ということだと考えています。

元々の日本海軍のアメリカを仮想的とした場合の「艦隊決戦構想」が、太平洋を押し渡ってくる米艦隊を決戦海面に達する以前に捉え、これを暫時減殺しながら主力対決で決着をつける、というものだったので、この原則は変わっていないのですが、航空戦力が海軍戦術の中核となった時点で(そうしたのは日本海軍だったはずなのですが)、決戦展開海面の広さ(=索敵海面の広さ)、スピード(=暫時が意味をなすのかどうか)が異なる意味を持ってしまっていました。さらにこれに戦術的な根幹となる航空戦力自体が「消耗戦」的な性質の濃厚な種類の戦力であり、「短期決戦」構想である種「精鋭一枚看板」的に設計されていた日本海軍は否応なく「消耗戦」に対応せざるを得なかったわけです。そうした事態に、戦時に入ってから直面したわけで、どれだけ対処できていたか、ということかと考えています。

 

再建機動部隊の構想

マリアナ沖海戦の敗北後、海軍は直ぐに機動部隊の再建計画に着手します。それは喪失した空母と母艦搭載機部隊の再建だったわけで、以下のような計画が建てられていました。

第一航空戦隊:「雲龍」「天城」(のちに「葛城」が編入されます:第601海軍航空隊294機(再建目標12月:なぜこの計画定数なのか、ちょっと不明です) 

第三航空戦隊:「瑞鶴」「千歳」「千代田」「瑞鳳」:第653海軍航空隊182機(再建目標10月) 

第四航空戦隊:航空戦艦「伊勢」「日向」、空母「隼鷹」「龍鳳」:第634海軍航空隊132機(再建目標8月末)

この計画通りに行けば大型艦隊空母1隻、新造直後の中型艦隊空母3隻、中型商船改造空母1隻、補助空母4隻、航空戦艦2隻、搭載機定数500機あまりで編成されるマリアナ沖海戦前とほぼ同規模の新機動部隊が出来上がるわけですが、6月のマリアナ沖海戦の敗北から再建まで6ヶ月の期間しかなく、空母や搭載機の数合わせはともかく、パイロットの養成は一朝一夕では叶うはずもなく、その技量優秀者を選抜したのでしょうが、多くが発艦がやっと、ということだったと考えられます。

実は1944年6月のマリアナ沖海戦時でも、それに先立つ1943年10月のソロモン諸島を巡る最後の戦闘というべき「ろ号」作戦で、弱体化したラバウル方面の基地航空部隊の補強に母艦航空隊は投入されパイロットの損耗率47%という損害を出しています。

それを8か月かけて再建して第一機動艦隊が編成されたわけですが、この期間ですら速成された搭乗員の技量低下は目を覆うばかりで、「あ号」作戦(マリアナ沖海戦)で小沢機動部隊首脳部により採られた有名な「アウトレンジ戦法」は「艦載機を知らない司令部の無理筋作戦」と、部隊当事者は大反対だった、という話もあるようです。(小沢司令長官は空母の集中投入の提唱者とされ、日本海軍随一の実戦戦術家の呼び声が高く、その代表的な戦術例としてこの「アウトレンジ戦法」が用いられることが多いのですが、一方で「飛行機についての知識がない」という批判があったようです。(「技量未熟な搭乗員が中心を占める艦載機部隊に、長距離の攻撃を実施させるなんて、なんと無謀な」と言う訳ですね)。余談ですが「あ号」作戦当時のマリアナ方面の基地航空部隊指揮官(第一航空艦隊司令長官)であった角田中将についても、勇猛で積極的な作戦指導が評価する声がある一方で、もっとも避けるべき戦力の逐次分散投入を「見敵必線」の号令で行った指揮官、という評価の声もあるようです)

 

台湾沖航空戦への母艦航空隊の投入

さらにレイテ沖海戦の直前(約1週間前)の台湾沖航空戦への母艦搭載機の投入が機動部隊の戦力化を絶望的にしてしまいます。

この投入の指示は軍令部・連合艦隊司令部から下されたもので、小沢機動部隊司令部は「再建途上の艦載機部隊をこの時点で戦闘に投入することは、次期作戦への機動部隊投入を不可能にするが、それでもいいのか」と反論しますが、上級司令部は「次期作戦への機動部隊投入は予定していない」と返答し、この反論を封殺します。

そもそも「捷号作戦」の大前提として「艦隊決戦」から侵攻軍撃滅への目標転換があり、そのために「これまでの米軍の侵攻手法から想定される上陸軍の侵攻に先駆けて航空撃滅戦を実施するために来攻するであろう「米機動部隊」に対しては手当て程度の反撃にとどめて戦力を温存し、その後来襲する「侵攻軍=上陸部隊」攻撃に全力を投入する」、という方針が共有されていたはずなのですが、上級司令部はあっさりとこれを覆し、沖縄・台湾方面に来襲した米機動部隊攻撃に基地航空部隊のみならず、ようやく再建(数だけは)に至った母艦搭載機部隊、第653海軍航空隊(第三航空戦隊所属)と第634海軍航空隊(第四航空戦隊所属)までも投入してしまいます。第601海軍航空隊はさらに錬成不足であり、また第一航空戦隊の空母自体が就役直後で訓練未了であったこともあって投入されませんでした。

このような経緯で、レイテ沖海戦当時、小沢機動部隊は搭載機を持たない空母機動部隊となっていました。

 

小沢機動部隊のレイテ沖海戦投入と「囮」作戦

台湾沖航空戦への艦載機部隊抽出に際して、次期作戦には「空母機動部隊」を投入しないとの海軍上級司令部の言質まで取った小沢機動部隊でしたが、捷一号作戦が日本海軍の最終決戦であることに変わりはなく、結局、出撃することになります。

艦載機は台湾沖航空戦に間に合わなかった第653航空隊と第634航空隊の残余機に第601航空隊(第一航空戦隊所属)のうち空母発着経験のある隊員をかき集め116機を確保、これを第三航空戦隊の空母4隻に分載しました。第四航空戦隊には搭載機が手当てできず、空母「隼鷹」と「龍鳳」は出撃が見合わされ、防空能力が期待できる航空戦艦「日向」「伊勢」のみ搭載機なしの状態で参加が決定されました。

編成上は、この時点ではまだ小沢機動部隊(第三艦隊基幹)は第一機動艦隊の主隊であり、第一遊撃部隊(栗田艦隊と別働隊である西村艦隊)も小沢長官の指揮下にありました。海軍上級司令部は小沢長官が作戦全般の指揮を執ることを期待しましたが、同艦隊の作戦参加主目的が空母機動部隊本来の搭載機部隊による敵機動部隊攻撃よりも、敵機動部隊の牽制と北方海域への誘引(つまり「囮」として敵機動部隊を引き寄せること)であることを考慮すると、攻撃主力である第一遊撃部隊とは遠ざかる機動を行うこと、作戦の役割上、損害担当部隊となることが想定され、かつ遠距離での統一指揮は困難、との小沢長官自身の判断で議論の末、第一遊撃部隊(栗田艦隊)は連合艦隊の指揮下に入ることとなりました。

 

レイテ沖海戦時の小沢機動部隊本隊

(第三艦隊を基幹に連合艦隊直轄の第三十一戦隊を加えて編成)

 

第三航空戦隊-四代(1944.2.1-1944.11.15)小沢司令長官直率

ja.wikipedia.org

マリアナ沖海戦で、主力空母2隻を失った第一航空戦隊から空母「瑞鶴」が第三航空戦隊に移籍して新編成されました。中型の艦隊空母3隻で編成される第一航空戦隊が空母機動部隊の中核を担う予定でしたが、母艦、搭載機部隊ともに錬成未了でレイテ沖海戦への参加が見送られたため、小沢機動部隊(第三艦隊)の主力戦隊として、レイテ沖海戦には参加することとなりました。

艦載機としては、上記の経緯でかき集めた116機を4隻の空母に分載していました。

 

瑞鶴

(旗艦:搭載機:零戦28機、爆装零戦16機、彗星7機、天山14機 計65機)ja.wikipedia.org

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レイテ沖海戦時の「瑞鶴」の概観:迷彩塗装は筆者によるもので、全く参考になりませんのでご注意を。ああ、迷彩塗装していたんだな、程度に:205mm by Konishi)

 

日本海軍の空母としては開戦以降ずっと第一線にあり、「真珠湾攻撃」に続き「インド洋作戦」にも歴戦。さらに史上初の空母機動部隊同士の海戦である「珊瑚海海戦」の母艦部隊の旗艦でもありました。特にミッドウェー海戦で第一航空艦隊の空母4隻が失われた後は、日本海軍の空母機動部隊の中核として常に第一線にあり続けた空母です。

マリアナ沖海戦では第一航空戦隊を新造空母の「大鳳」と同型艦「翔鶴」と共に構成していましたが、両艦が米海軍の潜水艦の雷撃で相次いで失われ、レイテ沖海戦当時は日本海軍の唯一の大型艦隊空母でした。

 

千代田(搭載機:零戦8機、爆装零戦4機、97艦攻4機 計16機) 

ja.wikipedia.org

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レイテ沖海戦時の「千代田」の概観:迷彩塗装は筆者によるもので、全く参考になりませんのでご注意を。ああ、迷彩塗装していたんだな、程度に:154mm by C.O.B. Constructs & Miniatures: 3D printing model)

 

後述の「千歳」と並び、母体は戦時には短期間での航空母艦への改造を前提に設計された水上機母艦で、開戦当初は水上機母艦として南方作戦等に参加しましたが、1942年6月のミッドウェー海戦での主力4空母喪失を受けて、空母への改造が進められ、1943年年末に「千歳」と共に空母としての改造が終了し就役しました。

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(水上機母艦時代の「千代田級」の概観:by Delphin: 下のカットは、水上機母艦時代と空母改造後の比較:水上機母艦時代の中央部の特設上甲板は、強度試験等の目的だったとか?)
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千歳(搭載機:零戦8機、爆装零戦4機、天山6機 計18機)

ja.wikipedia.org

f:id:fw688i:20210912132735j:imageレイテ沖海戦時の「千歳」の概観:迷彩塗装は筆者によるもので、全く参考になりませんのでご注意を。ああ、迷彩塗装していたんだな、程度に:154mm by C.O.B. Constructs & Miniatures: 3D printing model)

上述の「千代田」とほぼ同じ経緯で1942年末に航空母艦への改装に着手され、1943年末に航空母艦への改造が完了し、再就役しています。

両艦ともに航空母艦としては「マリアナ沖海戦」が初陣で、就役時の搭載機定数は「零式艦上戦闘機」21機、「97式艦上攻撃機」9機で、うち「零戦」7機は甲板上に繋止されていました。

 

爆装零戦:爆戦または戦爆

開戦当初から機動部隊の艦上爆撃機の主力であった99式艦上爆撃機が旧式化し損害が増加したことから、旧形式の零式艦上戦闘機(21型)に250kg爆弾を搭載して艦爆として代用されるようになりました。特に、99式艦爆の後継機の彗星艦爆が持ち前の高速性能から着艦速度が速く小型空母での運用が難しかったため、小型空母では爆装零戦艦爆の代用されることが常となりました。

爆装零戦の名を聞くと「爆弾投下後は戦闘機として活躍」と思ってしまうのですが、搭乗員には艦爆・艦攻の操縦者が充当されたため、空戦能力はあまり高くなかったようです。

また「零戦」の構造的な特性から急降下には難があり、爆撃照準装置も搭載されなかったため、急降下でのピンポイント爆撃よりは目視で緩降下での面爆撃で敵空母の飛行甲板を狙う、という戦法がとられたようです。併せて単座であったため航法士が同乗せず、かつ速成練成では帰還訓練等が行われなかったため母艦への帰還には誘導機が必要で、クルシー誘導器(母艦の誘導電波を捕らえ帰還経路を探す装置)の有効範囲が攻撃距離の半分程度しかなく単機での帰還は相当困難であったとされています。

パイロットが艦爆・艦攻の操縦者で構成されていたこと、緩降下での目視低空爆撃時の対空砲による損害(零戦は軽量化のため防弾への配慮をあえて欠いていました)、母艦への帰還の困難さ等から、マリアナ沖海戦では第三航空戦隊から発進した爆装零戦42機のうち30機が未帰還となっています。

 

 瑞鳳(搭載機:零戦8機、爆装零戦4機、天山5機 計17機)

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レイテ沖海戦時の「瑞鳳」の概観:迷彩塗装はモデル購入時に施されていたもので筆者によるものではありません。あてになるのかどうかは不明ですが、かなり精緻なものです:164mm by Trident)

前述の「千代田級」空母と同じく、戦時には短期間での航空母艦への改造を前提に設計された「剣埼級」潜水母艦(元々の設計は高速給油艦)2隻のうち「高崎」を改造して生まれた航空母艦です。

 

「剣崎級」潜水母艦 2番艦「高崎」を改造

1936年に高速給油艦として進水し、その後空母への改造を簡易化するため上部構造を追加した潜水母艦に設計変更されましたが、結局、さらに艤装途中から航空母艦に設計変更され、1940年12月に潜水母艦形態を経ず、航空母艦として完成されました。この設計変更に伴い「瑞鳳」と艦名が改められました。

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(「剣崎級」潜水母艦は、筆者の知る限り、1:1250スケールでは市販のモデルがありません。上の写真は筆者がセミ・スクラッチしたものです。「瑞鳳」の母体となった「高崎」は前述のように潜水母艦としては完成されないまま航空母艦になりましたので、潜水母艦としての「高崎」は結局存在していません。モデルは「剣崎」の図面(こちらは潜水母艦として完成しています)に従ったもの。後に空母「祥鳳」に改造されています。という次第で、形態はあくまでご参考という事でお願いします)

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(上の写真は、潜水母艦形態と航空母艦形態の比較。エレベーターなどが最初から組み込まれていたことがよく分かります。後部のエレベータ:上の写真では船体後部のグレー塗装部分:は潜水母艦時代には、エレベータは組み込まれたものの、上に蓋がされていたようです)
就役後は連合艦隊主力(第一艦隊)の警戒部隊である第三航空戦隊に所属していましたが、ミッドウェー海戦での主力4空母喪失ののち、新生機動部隊である第三艦隊第一航空戦隊に編入され主として機動部隊主力の第一航空戦隊の上空直衛及び周辺の哨戒を担当として、活躍しました。

マリアナ沖海戦では第一機動艦隊第三艦隊の第三航空戦隊に「千代田」「千歳」と共に編入されました(旗艦「千歳」)。

 

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(レイテ海戦当時の小沢機動部隊の基幹戦力、第三航空戦隊の空母:「瑞鶴」(艦隊旗艦:左上)、「瑞鳳」(右上)、「千歳」と「千代田」(下段):迷彩塗装は筆者の妄想と未熟な塗装技術の制約が多いですので鵜呑みにしないでください。「瑞鳳」の迷彩だけは筆者ではなくプロ(?)の手によるもの)

 

第四航空戦隊-三代(1944.5.5-1945.3.1)司令官:松田千秋少将

 

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同航空戦隊は、航空戦艦2隻(「日向」「伊勢」)、中型商船改造空母「隼鷹」、補助空母「龍鳳」で、マリアナ沖海戦後に構成された航空戦隊です。第634航空隊132機を運用する部隊となる予定でした。しかし搭載機部隊を台湾沖航空戦に抽出され、その後転用されたため、艦載機を搭載した航空戦隊としての戦歴は残せませんでした。

レイテ沖海戦には航空戦艦「日向」「伊勢」のみが艦載機なしで、その強化された対空火器に期待を寄せて第三航空戦隊の護衛艦として出撃し、艦載機の手当ての当てのない空母「隼鷹」「龍鳳」の出撃は見合わされました。

 

航空戦艦 伊勢(旗艦)、日向

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(直上の写真は伊勢級航空戦艦の概観:172mm in 1:1250 by Delphin)

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(直上の写真は伊勢級航空戦艦2隻:伊勢(奥)、日向) 

ja.wikipedia.org

就役時

伊勢級」戦艦は日本海軍の超弩級戦艦の第二陣として、第一次世界大戦中に設計、建造されました。元々は前級である「扶桑級」戦艦の三番艦、四番艦として建造される予定でしたが、「扶桑級」の課題があまりにも多く露呈したため、設計が根本から見直され、主砲配置、甲板防御、水雷防御などが一新し、全く異なる艦型の戦艦となりました。設計の見直しに併せて、主砲装填方式の刷新、方位盤の射撃装置の採用なども行われ、より強力な戦艦となって誕生しましたが。一方で、砲塔の配置転換などにより居住区域が大幅に削減され、居住性は悪化していたようです。

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(1917年就役時の「伊勢級」の概観: 29,900トン: 35.6cm連装砲6基、23ノット)同型艦2隻 (166mm in 1:1250 by Navis)

 

近代化改装

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(近代化改装後の「伊勢級」の概観: 大型バルジを舷側に装着し、水中防御等を強化。一方で艦尾を延長するなどして、排水量の増大にも関わらず、速力を若干向上させています。: 170mm in 1:1250 by Superior?)

太平洋戦争当時には大改装を受け近代化した戦艦として序列されていましたが、航空主兵の戦いが進む中、活躍の場を見出せないまま、長く内海に止まっていました。

 

航空戦艦へ

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊勢型戦艦#航空戦艦への大改装

1942年の射撃訓練中の「日向」の5番主砲塔の爆発事故をきっかけに、その後のミッドウェー海戦での主力4空母喪失を受けて、「伊勢級」戦艦の空母改造の議論が起こります。検討の結果、全通甲板を持つ空母への改装は大工事が必要であるとの結論から見送られ、とはいえ航空主兵の状況下での戦力化の方策として、艦上爆撃機の搭載と射出能力を持つ航空戦艦への改造計画がまとまり、爆発事故のあった5番砲塔に加え6番砲塔を撤去し、そこに航空機作業甲板と格納庫を搭載する大改造が行われました。

改造工事は1942年12月に着手され1943年9月に完了し、1944年5月、第四航空戦隊に編入されました。

搭載機は当初カタパルトでの射出に適応する改造を受けた「彗星」艦爆22型22機が予定されました。カタパルト上に2機、甲板繋止11機、格納庫9機の搭載形態を取る予定でした。しかし同級は着艦甲板を持たないため、母艦への帰還のすべがなく、周辺に着水しパイロットのみ回収する方向が検討されていました。

のちに機体の回収も見込める水上爆撃機として設計された「瑞雲」と「彗星」の混載へと編成が変更されましたが、結局、両機体の生産が間に合わず、搭載機未了のまま戦線に復帰、その後、第634航空隊として機材が揃えられましたが、搭載する間も無く台湾沖航空戦に投入されて、そのままフィリピン方面に転用されてしまったため、実戦での航空部隊運用実績は最後までありませんでした。

航空戦艦への改造にあたって、5番・6番主砲塔の撤去に伴いケースメート式で搭載していた副砲を全廃し、対空砲・対空機関砲等を増強しています。

 

小沢機動部隊 艦載機部隊の最後の出撃

レイテ沖海戦では、10月24日に同機動部隊の索敵機が米機動部隊を発見し、これに57機の攻撃隊(「瑞鶴」搭載機24機:零戦10機、爆装零戦11機、天山1機、彗星2機、その他艦載機部隊33機:零戦20機、爆装零戦9機、天山4機、を発進させました。「瑞鶴」隊のみ敵機動部隊を発見して攻撃を行いますが、損害を与える事はできませんでした。この攻撃で零戦2機、爆装零戦5機、天山1機を失いましたが、攻撃後、出撃時の指示通り母艦には戻らず陸上基地に退避しています。一方、「瑞鶴隊」以外の出撃部隊は敵機動部隊を発見できないまま、敵戦闘機部隊と交戦し、零戦6機、爆装零戦1機、天山2機を失って、一部は母艦に帰還、他は陸上基地に退避しました。

こうして日本海軍の空母機動部隊最後の出撃は終了しました。

 

ということで、今回は一旦ここまで。

 

次回は「小沢機動部隊」の他の艦艇のご紹介と、その最後の戦いとなった「エンガノ岬沖海戦」、そしてレイテ沖海戦のまとめを。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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模型製作Weekにつき:製作中モデル雑感

本当にすみません。

前回、「次はいよいよ「小沢機動部隊」(本当か?)」(一応、こうなる予感があり「か?」とつけてのですが)と予告したのですが、その前にちょっと見つけた「脇道」に入り込んでいます(シルバーウィークで、時間がありそうなので、模型も触りたいなあ、ということなんですが)。

さらに言い訳ですが、予定していた日本海軍の空母機動部隊の終焉である「レイテ沖海戦時の小沢機動部隊」から遡る形で「機動部隊小史」の形で、手付かずの日本海軍の空母の総覧ミニ・シリーズについては、展開する構想が纏まって来つつあります。

 

このミニ・シリーズ、こんな形の章立てかな、と。(タイトルは全て「仮」です)

レイテ沖海戦:小沢艦隊(第三艦隊:空母機動部隊)日本海軍、空母機動部隊の終焉

真珠湾からインド洋作戦:南雲機動部隊:空母機動部隊構想と栄光

珊瑚海海戦とミッドウェー海戦:初の空母機動部隊戦と続いて訪れた挫折

南太平洋の激戦:勝利と課題、そして消耗

護衛戦力としての空母

マリアナ沖海戦:最後の機動部隊

 

初回の現在準備中のこのミニ・シリーズの初回レイテ沖海戦:小沢艦隊(第三艦隊:空母機動部隊)日本海軍、空母機動部隊の終焉」の冒頭を少し紹介しておくと、こんな感じです。

 

(以下、現在書きかけの原稿のママ)

マリアナ沖海戦以降の日本の機動部隊事情

マリアナの敗北:「マリアナ七面鳥撃ち」

日本海軍はマリアナ諸島攻略を目的に来攻した米機動部隊相手に1944年6月、「あ」号作戦の名のもとに、空母機動部隊による決戦を挑み、大敗します。

詳細はこのミニシリーズのどこかで触れるとして、概略のみをまとめておくと日本海軍は「あ」号作戦に向けて、日本海軍史上初となる空母を中核戦力に正式に据えた第一機動艦隊という艦隊編成を行い、艦隊空母3隻、商船改造中型空母2隻、補助空母4隻という、当時の日本海軍としてはありったけの空母を投入し、これに500機あまり(諸説あるようですが)の艦載機を満載して決戦を挑み、艦隊空母2隻、商船改造中型空母1隻を失い、さらに重大なことは約400機の艦載機とそのパイロットを失ってしまいます。

加えて、「あ」号作戦では空母機動部隊と共に決戦の両輪と目されてマリアナ諸島に展開していた基地航空部隊(第一航空艦隊・第十四航空艦隊)は、この時期までに「見敵必戦」の号令の下、戦力を諸方面に逐次抽出しその都度消耗してしまっており、肝心の「あ」号作戦ではまとまった戦力としては期待できない状況に陥ったまま投入され、そのわずかな残存兵力も壊滅してしまいました。

なぜこのような状況になったかというと、「決戦」構想を立てつつも、その時期、展開地域等については主導権を取れず、つまり来攻する米軍の計画次第、これに対応する、という状況に陥ってしまっていた、ということだと考えています。

元々の日本海軍のアメリカを仮想的とした場合の「艦隊決戦構想」が、太平洋を押し渡ってくる米艦隊を決戦海面に達する以前に捉え、これを暫時減殺しながら主力対決で決着をつける、というものだったので、この原則は変わっていないのですが、航空戦力が海軍戦術の中核となった時点で(そうしたのは日本海軍だったはずなのですが)展開海面の広さ(=索敵海面の広さ)、スピード(=暫時が意味をなすのかどうか)が異なる意味を持ってしまっていました。さらにこれに戦術的な根幹となる航空戦力が「消耗」に、異なる意味を持たせてしまっていた、という事にどれだけ対処できていたか、ということかと考えています。

(今回ご紹介するのは、ここまで)

 

まあ、こんなふうに始まり、この後、「機動部隊再建計画」が続きます。

第一航空戦隊:「雲龍」「天城」(やがて同型艦の「葛城」が加わります):第601海軍航空隊294機(再建目標12月:なぜ雲龍級3隻でこの計画定数なのか、ちょっと不明です) 

第三航空戦隊:「瑞鶴」「千歳」「千代田」「瑞鳳」:第653海軍航空隊182機(再建目標10月) 

第四航空戦隊:航空戦艦「伊勢」「日向」・空母「隼鷹」「龍鳳」:第634海軍航空隊132機(再建目標8月末)

 

そしてレイテ沖海戦への小沢機動部隊投入戦力とその作戦行動」に話が移り、本稿の主題である参加艦艇の模型のご紹介に話が移ってゆきます。f:id:fw688i:20210912132742j:image

(レイテ海戦当時の小沢機動部隊の基幹戦力、第三航空戦隊の空母:「瑞鶴」(艦隊旗艦:左上)、「瑞鳳」(右上)、「千歳」と「千代田」(下段):迷彩塗装は筆者の妄想と未熟な塗装技術の制約が多いですので鵜呑みにしないでください)

で、もちろんこの後個別の艦、艦級のご紹介をするわけですが、この上記の4隻を見るだけでも、4隻のうち3隻が改造空母であり、つまりその母型となった艦船を今、鋭意、整理中、そのご紹介が今回のタイトルにつながって来ます。

以上、例によって「脇道」に逸れる長〜い言い訳です。今回はこんなお話、というか中間報告、でご容赦を。

 

製作中あるいは整理中のモデルのご紹介

実は日本海軍の空母には、艦隊空母として最初から設計されたものは、多くはありません。最初の空母である「鳳翔」、中型空母の「飛龍級」、その量産系である「雲龍級」、大型艦隊空母である「翔鶴級」、重装甲空母である「大鳳」くらいです。

そしてそれらを補助する補助空母は、全て他の艦種からの改造艦、もしくは商船改造であるため、やっぱり母型となった艦もちょっと触れてみたい、というわけです。(多分、商船改造、までは手が回らない、かも)

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(母型の概観:上から「千代田級」水上機母艦潜水母艦「大鯨」、「剣崎級」潜水母艦


水上機母艦「千歳」「千代田」

ja.wikipedia.org

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(「千代田級」水上機母艦の概観:by Delphin)

ロンドン軍縮条約では各国海軍に保有空母についても制限がかけられます。

一方で一万トン以下、速力20ノット以下の補助艦艇については制限対象ではなく、日本海軍は戦時に空母への改造を前提とした設計の補助艦艇の整備を進めて行く事になります。

「千代田級」水上機母艦はその構想の元、設計されました。

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(「千代田級」:空母形態(上)by C.O.B. Constructs and Miniatures と水上機母艦形態の比較)

概ね全体の外観は元のモデルのままでいいと考えていますが、もう少し塗装に手を入れましょうかね。

 

潜水母艦「大鯨」

ja.wikipedia.org

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潜水母艦「大鯨」の外観:by Masters of Military)

上掲の「千代田」「千歳」と同様の構想で設計された、戦時の空母への改装を前提とした潜水母艦です。「千歳」「千代田」よりももっと露骨に空母への転用意図が伺える艦型ですね。

モデルはいつもお世話になっているShapewaysで入手したものです。

www.shapeways.com

このモデル、潜水母艦「大鯨」と工作艦「明石」、給兵艦「樫野」の3隻セットという大変マニアックなセレクションです。ちなみに「樫野」は給兵艦と呼称されていましたが、実際には「大和級」戦艦の砲塔運送艦で、「大和級」戦艦の46センチ主砲の砲身や砲塔を運ぶために専用に造られた「重量物運搬艦」でした。「大和級」の主砲は呼称を「九四式四十糎砲」として口径が46センチであることは最高機密扱いでしたので、同趣旨から本艦も機密保持の一環から「給兵艦」と分類され他という裏話があったようです。

「大鯨」に話を戻すと、ほぼモデル原型のまま、マストと武装(主兵装である40口径八九式12.7cm連装高角砲)に少し手を入れ、塗装を施しています。

まあ、ほぼ完成、かな?

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(空母「龍鳳」(上)と母型となった潜水母艦「大鯨』の比較:いずれもMaster of Military製:またの機会に詳しく)

改造後、空母「龍鳳」となるわけですが、こちらも同じくShapewaysで調達したモデルを作成しています。

 

「剣埼級」潜水母艦(高速給油艦

こちらは「瑞鳳」の母体となった艦級です。

ja.wikipedia.org

同級の構想は上記の潜水母艦「大鯨」とほぼ同一設計で、ただし「大鯨」のような空母転用の構想が露わになる上部構造を持つ潜水母艦ではなく、上部構造を持たない高速給油艦として設計されました。しかしその後、建造着手が条約失効後(日本は条約の延長に応じず、破棄を予定していました)となることが明らかとなったため、空母改造への布石を先行させ「大鯨」と同様の上部構造を持つ「潜水母艦」として設計変更され着工しました。

ネームシップの「剣埼」と同型艦の「高崎」が建造されましたが、「剣埼」のみ潜水母艦として完成し、後に空母「祥鳳:へ改造されました。一方「高崎」は潜水母艦として完成を見ることなく建造途中から「空母」へ設計変更され、空母「瑞鳳」として完成されています。

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(「剣崎級」潜水母艦の外観:Delphin製「千代田」級水上機母艦をベースとしたセミ・スクラッチ:製作中)

この艦級(「剣埼級」潜水母艦)は筆者の知る限り市販モデルがなく(手作りの木製モデルがebayに出品されているのを見たことがあります。これまでに見たのはその程度)、結局、筆者のストックモデルから若干の船体延長などサイズ変更などすれば使えそうなDelphin製の水上機母艦「千歳」の船体を流用し(上掲の写真の乾舷中央、艦橋やや後ろの白い部分が船体延長のために挿入されたプラ板です)、上部構造をプラロッドで製作するなどして、セミ・スクラッチの途上です。

実はネット上で外観把握できるような図面が見当たらず、書籍を入手するなど、概要を把握するのに、少し時間がかかってしまいました。

この後、もう少しディテイルを補足したのち、塗装を施して完成です(手順としては、塗装をしたのちに細部の補足、ですね)。

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(「祥鳳級」空母(上)と母型となった「剣埼級」潜水母艦の比較:またの機会に詳しく)

 

というわけで、今回はさくっとここまで。

次回は、いよいよ「小沢機動部隊」(今度こそ本当か?)。

日本海軍の空母機動部隊の終焉、ということで、冒頭に構想を長々書いた「日本海軍の機動部隊小史」としてのミニ・シリーズ、日本海軍の空母の総覧を開始する予定です。

 

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

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特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

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