本稿前回では、日米間の戦雲が熟する時期に、日本海軍の航空母艦整備状況がどのような段階であったか、それを少し整理してみました。
今回は、それらがどのように使われることになったのか、そういうお話です。
10隻の航空母艦
少しおさらいをしておくと、1941年時点で、日本海軍は以下の10隻の航空母艦を保有していました。
世界初の航空母艦「鳳翔」
多分に実験的な性格を帯びた小型空母でした。
(太平洋戦争初期の「鳳翔」概観 by Trident:アイランド形式の艦橋は撤去され、飛行甲板下の最前部に移動しました。煙突は倒された状態(下段右))
条約型改造大型空母「赤城」
ワシントン条約で建造途中での廃棄が決定されていた巡洋戦艦「赤城」を航空母艦に改造することが認められていました。当初は三層の飛行甲板を有する母艦として完成しましたが、のちに一層全通飛行甲板の本格的空母として改装されました。ja.wikipedia.org
(一段全通甲板形態に大改装された「赤城」の概観:下の写真は竣工時の「赤城」(上段)と改装後の「赤城」の比較。「加賀」同様、中甲板の20センチ連装砲塔が撤去され、小さな艦橋が飛行甲板左舷「加賀」に比べるとやや艦の中央よりに設置されました)
条約型改造大型空母「加賀」
ワシントン条約で建造途中での廃棄が決定されていた巡洋戦艦「天城」を航空母艦に改造することが認められていました。改造工事の途中に発生した関東大震災で被災した「天城」に変わり、急遽やはり廃棄予定だった戦艦「加賀」が航空母艦に改造されることになり、空母として完成しました。当初は「赤城」と同じ三層の飛行甲板を有する母艦として完成しましたが、のちに一層全通飛行甲板の本格的空母として改装されました。
(一段全通甲板形態に大改装された「加賀」の概観:下の写真は三段飛行甲板形態の竣工時(上段)と、全通飛行甲板形態に改装後の比較。中飛行甲板に設置されていた20センチ連装砲塔が撤去され、飛行甲板右舷に小さな艦橋が設置されました)
「加賀」のカタパルト装着計画
日本海軍の空母の課題といえば、カタパルトを装備できなかったことが結構大きいと筆者はかねがね思っているのですが、実は太平洋戦争開戦の直前に装着実験が「加賀」で行われています。
「加賀」は、空母への改造途中で関東大震災で被災し工事を断念せざるを得ない損害を受けた巡洋戦艦出自の「天城」に代えて、こちらも条約で廃棄が決定されていた戦艦「加賀」を、急遽空母として完成させることになった、という経緯で空母として完成されたピンチヒッター的な要素から「天城」のような高速が期待できず、その劣速を補う意味もありカタパルトの装着に至ったという経緯があるように筆者は想像するのですが、せっかくの試みながら、射出実験は射出の際の衝撃の大きさと、再発射までの所要時間の長さから実用に至りませんでした。
この際に検討された射出方式は、火薬式のカタパルトに艦上機を車輪をたたんだ形態で台車に乗せて射出するという悠長な物で、手数の多さから実用に至らなかった、ということのようです。
日本海軍のカタパルトについては本稿下記の回でも、少し詳しくお話ししています。
上記の回ではかなり架空戦記的な要素を含んでいますが、史実でもカタパルトを実用化できず、艦隊空母でも重量の大きな艦上攻撃機「天山」やそれに続く「流星」などを飛行甲板から発進させることが出来ず、補助ロケットを装着し推力を付加せねばならなかったようで、カタパルトの装備はやがて致命的な課題になってゆきます。
条約型小型空母「龍驤」
ワシントン条約の保有制約を免れることを意識して設計された小型空母でした。この時期の日本海軍の設計の傾向として、条約を意識した小型の艦体に対し目一杯の装備を搭載したため、トップヘビーで不安定な仕上がりとなったため、数次の改造が行われました。
(ワシントン条約の空母保有枠を意識して設計された小型航空母艦「龍驤」の概観:149mm in 1:1250 by Neptun:s設計途中でロンドン条約が締結され、小型空母も条約の保有制限対象となったため、急遽、格納甲板を一段追加、いかにもトップ・ヘビーな概観となりました)
条約型中型艦隊空母「蒼龍」
ワシントン・ロンドン条約の保有制約を意識して、日本海軍が設計した初めての本格的な艦隊空母です。実態は制約の枠を大きく超えた設計となりましたが、優秀な設計でした。
(航空母艦「蒼龍」の概観:180mm in 1:1250 by Neptun)
条約型中型艦隊空母「飛龍」
本来は「蒼龍級」に二番艦となる予定でしたが、設計途上でワシントン・ロンドン条約の破棄がほぼ明白となったため、保有制約を意識しない設計に拡大されました。
(航空母艦「飛龍」の概観:182mm in 1:1250 by Neptun)
準同型艦「蒼龍」と「飛龍」
(下の写真は「蒼龍」(手前)と「飛龍」の概観比較:「飛龍」は「蒼龍」の拡大改良型とされていますが、基本は同型で言いきさには大差ありません。艦級の位置の差異が目立ちますね。「蒼龍」は右舷側、「飛龍」は左舷側ですが、さらにその飛行甲板上の位置も大きな差異が見られます。「蒼龍」の場合には排気路との干渉を避けるために、前よりになっています)
大型艦隊空母「翔鶴級」:「翔鶴」「瑞鶴」
来るべき無条約時代を念頭に「蒼龍級」を拡大した設計の大型航空母艦です。多数の艦上機の運用に適した大型の艦型と長大な飛行甲板を有していました。
(「翔鶴級」航空母艦の概観:182mm in 1:1250 by Neptun:下の写真は「翔鶴」(奥)と「瑞鶴」。両艦は同型艦でしたので大きな差異は、このスケールでは見られません)
艦隊補助空母「瑞鳳級」:「瑞鳳」
「剣崎級」潜水母艦を改造した補助空母で2隻が空母に改造されましたが、1941年時点では「瑞鳳」のみ間に合っていました。
(航空母艦「瑞鳳」の概観:164mm in 1:1250 by Trident)
(上の写真は、潜水母艦形態と航空母艦形態の比較。エレベーターなどが最初から組み込まれていたことがよく分かります。後部のエレベータ:上の写真では船体後部のグレー塗装部分:は潜水母艦時代には、エレベータは組み込まれたものの、上に蓋がされていたようです。:「剣崎級」潜水母艦は、筆者の知る限り、1:1250スケールでは市販のモデルがありません。上の写真は筆者がセミ・スクラッチしたものです。「瑞鳳」の母体となった「高崎」は前述のように潜水母艦としては完成されないまま航空母艦になりましたので、潜水母艦としての「高崎」は結局存在していません。モデルは「剣崎」の図面(こちらは潜水母艦として完成しています)に従ったもの。後に空母「祥鳳」に改造されています。という次第で、形態はあくまでご参考という事でお願いします)
商船改造特設補助空母「春日丸」(後に「大鷹」に改名)
日本海軍は有事に短期に空母への改造を条件として、民間の海運会社の新造商船の建造に補助金を提供していました。1941年の段階で5隻の空母改造が決定、あるいは着手されており、そのうち1隻が完成していました。
(直上の写真は:空母「春日丸」の概観。147mm in 1:1250 by C.O.B. Constructs and Miniatures: 「大鷹級」空母は、商船改造空母のため速力が遅く、かつ飛行甲板の長さも十分でないため、艦隊空母としての運用には難がありました。そのため大戦の中期までは、主として航空機の輸送に使用されていました:商船時代の「春日丸」欲しいけど、なかなか手に入りません)
空母の集中運用構想:第一航空艦隊の編成
航空母艦という艦種の成立当時、空母はあくまで主力艦の支援艦艇として、各艦隊に分散配置されていました。そのため初期の空母には艦隊に混じっての砲戦参加などが想定され、主砲が搭載されていました。(「赤城」「加賀」は全通飛行甲板の本格的空母に改装されたのちも、ケースメート方式の20センチ主砲を船体下部に搭載していました。搭載位置が低く、高い仰角での砲撃能力もないため、低空の雷撃機対応程度しか運用できませんでした)
1941年の第一航空艦隊の編成はこれを集中して運用する意図のもとに決定されたものでした。
第一航空艦隊の編成と搭載機構成(1941年の太平洋戦争開戦時)を見ておくと以下の通りでした。(搭載機構成には、資料によって前後があります。目安として考えて下さい。また補用機は基本分解して搭載されており、分解されている場合には戦闘中の補充など急場の運用は難しかっただろうと思われます。しかし機種、時期によっては分解せずに搭載されている場合もああったようで、こちらもご参考に)
第一航空戦隊「赤城」「加賀」:艦上戦闘機36機(補用4機)、艦上爆撃機36機(補用8機)、艦上攻撃機63機(補用14機)、計135機(補用26機)
第二航空戦隊「飛龍」「蒼龍」:艦上戦闘機36機(補用4機)、艦上爆撃機32機(補用6機)、艦上攻撃機36機(補用2機)、計104機(補用12機)
第四航空戦隊「龍驤」:艦上戦闘機12機(補用3機)、艦上攻撃機18機(補用2機)、計30機(補用5機):太平洋戦争開戦時には南方攻略作戦支援のため、第三艦隊、南遣艦隊に分派されていました。
第五航空戦隊「瑞鶴」「翔鶴」:艦上戦闘機36機(補用6機)、艦上爆撃機54機(補用6機)、艦上攻撃機54機(補用6機)、計144機(補用18機)
上記で番号の飛んでいる第三航空戦隊「鳳翔」「瑞鳳」:艦上戦闘機26機(補用6機)、艦上攻撃機12機(補用4機)、計38機(補用10機)は、連合艦隊の主力艦部隊(戦艦部隊)である第一艦隊に配置され、戦艦部隊の上空護衛、対潜哨戒という、旧来の空母運用構想の任務に当たっていました。上記のうち「鳳翔」は飛行甲板が短く船体も小さいため、最新鋭の艦載機を搭載できず、旧式の96式艦上戦闘機(8機:補用3機)、複葉の96式艦上攻撃機(6機;補用2機)を搭載していました。
また上記編成には商船改造特設空母の「春日丸」が含まれていません。一時期第四航空戦隊に編入されましたが、主として航空機輸送任務に従事していました。計画上の搭載機定数は、艦上戦闘機9機(補用2機)、艦上攻撃機14機(補用2機)、計23機(補用4機)でした。
空母集中運用構想:97式艦上攻撃機と91式魚雷の組み合わせ:航空雷撃による主力艦隊漸減作戦構想
日本海軍における空母の運用は、既に日中戦争で実施されていました。日中戦争は大陸での陸軍主体の戦争であり、当時の運用は陸上部隊に対する航空支援が中心でしたので、空母は分散して運用されていることが多かったようです。
一方で、日本海軍は常に艦隊決戦に備えることを求められていたわけですが、この時期の太平洋の主力艦事情は決して楽観視のできない物でした。
日本海軍は6隻(16インチ砲搭載艦2隻、14インチ砲搭載艦4隻)の戦艦を保有していましたが、太平洋における仮想敵である米海軍の太平洋艦隊は戦艦9隻(16インチ砲搭載艦3隻:但し1隻はオーバーホール中で戦闘には加われる状態ではありませんでした、14インチ砲搭載戦艦6隻)を保有しており、更に必要となれば、大西洋から戦艦を5隻回航することができました。日本海軍が保有している巡洋戦艦(14インチ砲搭載高速戦艦)4隻を加えてなんとか互角(しかしこの高速戦艦群は下記の主力艦決戦に先立つ夜戦で水雷戦隊の雷撃突入路を確保するための戦闘に投入される予定)、という状況でした。
一方で日本海軍は新造戦艦4隻(18インチ砲搭載艦でしたが、表向きは16インチ砲艦とされていました。国民が知るのは戦後?)の建造計画を推進していましたが、米海軍は第一期で6隻、第二期でさらに6隻(?)の新造戦艦(全て16インチ砲搭載、第二期は長砲身の新型16インチ砲搭載)の建造計画を公表しており、これが全て太平洋に投入されないまでも、時間が経つにつれ、その戦力差は数的には顕著に広がることが予想されました。
日本海軍は、上記の18インチ砲搭載新造戦艦を建造することで、主力艦決戦での個艦性能の質的な優位を現出し幾分かでも差を縮めようとする一方で、数的な差異を小さくするために漸減戦術を並行することを計画していました。
これは、潜水艦による前衛戦、水雷戦隊による夜戦、さらに多数の長い航続距離を持った陸上攻撃機による航空攻撃を主力艦決戦に先だち実施することによって実現される予定でした。
もうお気づきかと思いますが、この漸減戦術における日本海軍の主力兵器は前衛戦、夜戦、航空攻撃、いずれの場面でも魚雷です。潜水艦、巡洋艦、駆逐艦から放たれる長射程、大破壊力、航跡の秘匿性に優れた酸素魚雷(93式魚雷、95式魚雷)と、航空機からの投下に耐える強度を持った91式魚雷が、この戦術の可能性を大きく飛躍させたと言っていいと思います。
しかしこの戦術は、基本的に永年、日本海軍が範とした日本海海戦同様、来攻する敵艦隊を待ち受けて撃破するという戦術で、いわば受け身の戦略だったと言っていいでしょう。
すなわち、来攻の時期や戦場を決定する戦いのイニシアティブは、常に敵方にあるわけで、例えば敵艦隊が航空基地の攻撃圏(航続距離の範囲)を避けて来航すれば、航空攻撃の矢は放てないなどの課題を抱えていました。特にワシントン・ロンドン体制下では、第一次世界大戦後、日本の委任統治領であった内南洋の島々(マリアナ諸島。カロリン諸島)の基地化・要塞化は禁じられており、条約脱退後その整備に着手したとはいえ、規模も数も十分とは言えませんでした。この課題に対しては、96式陸上攻撃機(中攻)やそれに続く1式陸上攻撃機など、長い航続距離を持つ高速航空機の開発などで対応するわけですが、一方で、自ら機動力を持った航空基地である空母の集中運用により、漸減戦のイニシアティブも確保する構想が出てくるわけです。
これを可能にしたのが、艦隊空母6隻の保有による一時的な太平洋における航空母艦保有数の数的優位の現出と、先に紹介した航空機からの投下に耐える強度を持った91式魚雷、そして空母から発進可能で敵艦船に肉薄できる高速艦上雷撃機である97式艦上攻撃機の所謂「三点セット」でした。
この「三点セット」が揃った1941年後半、米英の取った対日石油禁輸措置により艦隊の向こう半年の活動しか保証できない国内の石油備蓄の状況と相まって、開戦するならこの時点しかない、という状況に日本は(特に日本海軍は)追い込まれてゆくわけです。
こうした視点で、上記の太平洋開戦時の空母艦載機(特に第一航空艦隊の6隻の艦隊空母)の機種構成を見ると、艦上戦闘機108機(補用14機)、艦上爆撃機122機(補用20機)、艦上攻撃機153機(補用22機)という構成も、上記の戦略に沿った艦隊決戦を想定した雷撃に重点をおいた編成だということが分かると思います。
(第一航空艦隊の主力空母群:第一航空戦隊:「赤城」(左上:航空艦隊旗艦)「加賀」(左下)、第二航空戦隊:「飛龍」(右上)「蒼龍」(右中)、第五航空戦隊:「瑞鶴」「翔鶴」(右下))
つまり元々の構想では空母機動部隊は、潜水艦、水雷戦隊と並び、魚雷による敵主力艦の漸減攻撃を想定された戦術であり、その指揮官に水雷科の南雲中将が据えられたのも、あながちミスキャストであったとは言えないように思えます。戦後、南雲中将については「空母がわかっていない」と言う類の批評が高まるのですが。そもそも空母集中運用の発案者が、同じく水雷科の小沢中将(当時は少将?)でした。
開戦:真珠湾奇襲作戦:米太平洋艦隊への航空雷撃漸減作戦の実行
空母集中運用による米主力艦隊への雷撃作戦が計画されます。
これが「真珠湾奇襲作戦」です。
乱暴にまとめておくと、日本海軍(連合艦隊)は日米開戦の劈頭、米太平洋艦隊の根拠地であるハワイ諸島、オアフ島の真珠湾基地に空母機動部隊から放たれる航空部隊で攻撃をかけ、停泊する太平洋艦隊の主力艦を沈めてしまおう、という計画を立てました。真珠湾の水深が航空魚雷の投下に対し浅いことが最大の課題とされましたが、91式魚雷の浅深度化改造と雷撃機の訓練でこれを克服し、宣戦布告日の同時攻撃を狙って空母機動部隊(第一航空艦隊基幹の艦隊空母6隻:司令長官南雲中将)が秘匿行動を開始しました。
1941年12月8日未明(日本時間)6隻の空母(「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」「瑞鶴」「翔鶴」)から、艦上戦闘機43機、艦上爆撃機51機、艦上攻撃機89機(爆装49機、雷装40機)計183機で編成される第一次攻撃隊がまず発進し、その約1時間後、艦上戦闘機36機、艦上爆撃機81機、艦上攻撃機54機(全て爆装)計171機で編成される第二次攻撃隊が発進しています。
当時、真珠湾には米太平洋艦隊の主力艦8隻全てが在泊中で、この攻撃で戦艦「アリゾナ」「オクラホマ」が完全損失、「ウエストバージニア」「カリフォルニア」が着底沈没(後、引き揚げられて復旧)、さらに「ネバダ」が被弾挫傷、「テネシー」「メリーランド」「ペンシルバニア」が損傷を受けました。つまり太平洋艦隊の主力艦は、日本海軍の狙い通り全て活動できなくなったわけです。
真珠湾で空母機動部隊により攻撃を受けた米戦艦
(「ネバダ級」戦艦の概観:「オクラホマ」は被雷し転覆、完全喪失。「ネバダ」は被雷による沈没を避けるため自ら座礁しました。後1942年修復し、戦線に復帰しています。1943年にさらに近代化改装を受けています)
(「ペンシルバニア級」戦艦の概観:「アリゾナ」は弾薬庫に直撃弾を受け爆発沈没し完全喪失しました。「ペンシルバニア」はドックで爆弾を被弾、損傷しましたが、修復し1942年に戦列に復帰しています)
(「テネシー級」戦艦の概観:「カリフォルニア」は被雷し浸水着底沈没。後に引き上げられ修復、近代化改装も併せて受け、1944年に戦線に復帰します。「テネシー」は爆弾2発を受けますが、1発は不発で軽い損傷を受けています。修復し1942年に戦列復帰、その後再度近代化改修を受けています)
「コロラド級」戦艦(「ウエストバージニア」「メリーランド」:「コロラド」は1941年夏からオーバーホール中)
(「コロラド級」戦艦の概観:太平洋戦争当時、米海軍の唯一の16インチ砲搭載艦でした。「ウエストバージニア」は被雷し浸水着底沈没。後に引き上げられ修復、近代化改装も併せて行われ、1944年に戦線に復帰します。「メリーランド」は爆弾2発を受け損傷しています。その後修復を受け、1942年に戦列に復帰しています)
沈没した4隻の戦艦はいずれも魚雷を2−8本被雷し、浸水により転覆(「オクラホマ」)あるいは着底していて(「ウエストバージニア」「カリフォルニア」)、さらに「ネバダ」は1−2本の航空魚雷を被雷しており、さらに雷撃による損傷の増大、浸水で沈没することを免れるために自ら座礁しています。一方で損傷に留まった3隻は攻撃時に二列縦隊に並んだ戦艦群のうち魚雷による命中弾を受けにくい内側の列、またはドックに入っており、爆弾による損傷でした。
開戦のほぼ同時期に、太平洋の反対側のマレー沖でも、陸上攻撃機による航空攻撃で英海軍東洋艦隊の2隻の戦艦も撃沈されており、日本海軍の航空機の集中運用による攻撃の目覚ましい効果が示されていました。
この二つの航空戦は航空機による雷撃の効果を世に示したという点では目覚ましい物でしたが、一方で、完全に奇襲となった真珠湾作戦の第一次攻撃で出た9機の喪失機のうち5機が雷撃機であり、停止した艦船に対する攻撃ですら対空砲火で高い損耗率(参加雷撃機40機中5機の喪失:喪失率12.5%)を覚悟せねばならない、更に強襲となった第二次攻撃では参加171機中喪失20機という結果であり(損耗率11.7%)、航空攻撃に伴う搭載機の消耗戦への警鐘も見てとることが出来ました。
真珠湾攻撃は不徹底だったのか?;艦隊決戦か総力戦か
上記の戦果を上げた後、南雲中将は「第三次攻撃を」との幕僚の意見具申を退け、作戦を終了しました。
この判断を巡っては作戦後、議論が相次ぎ、例えば、反復攻撃でさらに陸上施設の艦船修理施設や航空基地、燃料補給施設等を破壊しておけば、米軍は有力な反撃拠点を失い、積極的な反攻を大幅に遅らせることが出来たであろう、などとその後に現出した「総力戦」の展開に照らして批判されるのですが、日本海軍の基本戦略がまだこの時期には「艦隊決戦」にあり、上述のようにこの作戦が「積極的な漸減作戦」の一環として実施されたという解釈に立てば、雷撃で主力艦4隻を沈め残りの主力艦にも損害を与え米太平洋艦隊の主力艦を一掃した、ある意味完璧に目的を達成したと言ってもいい戦果と、この場に止まり作戦を継続した場合に予想されるより高い搭載機部隊の損耗、所在不明の敵空母、潜水艦による機動部隊襲撃による艦艇喪失のリスクを考慮すると、南雲司令長官の反転の判断も理解できるような気がします。
もしそれを押しても止まるべき、ということならば、上級の司令部が明確に反復攻撃の指示を出すべきであったと考えます。(この上級司令部の命令の曖昧さは、本稿の「レイテ沖海戦」の一連の記述の中でも示したように、海軍の終幕まで続いたと考えるのですが。さらに一説によると、軍令部の上層部からは、機動部隊を無傷で連れ帰るように、という指示があり、連合艦隊司令部の意向に盾ついてでもそれを実行できるような「硬派」の提督という意向で南雲中将の第一航空艦隊司令長官人事が行われたとも)
ということで、「空母機動部隊」という空母の集中運用(搭載航空戦力の集中運用、というべきか)は、ある種、大成功の元に始まったのですが、既にその構想の種にあった「艦隊決戦」という「会戦形式」の戦争から「総力戦=消耗戦」へと、戦争自体の位相の変化が始まっていました。
次回は空母機動部隊の栄光と、その影に隠れた「総力戦」への対応の遅れの萌芽のお話を(多分?)。
もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。
模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。
特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。
もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。
お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。
ブログランキングに参加しました。クリック していただけると励みになります。