相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第26回 太平洋戦争の終結と日本周辺の情勢:海上自衛隊の発足(あるいは、スチーム・カタパルト噺)

(最初にお詫び。やはり太平洋戦争終結から今日までを最終回一回で、というのは無謀に過ぎた試みだったようです。従って、最終回は延期、今回は太平洋戦争終結と、その後の日本周辺の情勢まで。ごめんなさい)

 

太平洋戦争の終結と主力艦の動向 

1948年8月、太平洋戦争は終結した。ヨーロッパでの戦争は1946年に終結しており、ようやく世界大戦が終了した。(と、またまた架空戦記風な書き出しになりましたが、本稿は、架空戦記ではないため、以降は最小限のフレーム的な情報のみ)

 

日本は戦争に敗れた。

1943年12月の真珠湾奇襲作戦を成功させ、その後の南方への展開を順調に行った日本であったが、戦争の短期決着を目論んで行なったハワイ沖海空戦では、史上初の空母機動部隊同士の海戦で、双方がその機動部隊に大きな損害を出す結果となり、日本は短期決着の決定打を放てないままに、恐れていた消耗戦に引き込まれてしまった。

その後、中部太平洋での長期戦化準備の態勢整備などが行われた後に、史実とは異なりガダルカナルでの攻防は起こらなかったが、ソロモン諸島は史実と同様に両軍にとって本格的な消耗戦の舞台となった。

1947年にはマリアナ諸島が失われ、次いでフィリピンも米軍の侵攻を受けた。日本海軍はマリアナ沖海戦でようやく再建された空母機動部隊を失い、フィリピンを巡り展開されたレイテ沖海戦で、海軍の残存主力も失われた。以降、日本は南方の資源地帯との海上輸送路を断たれ、マリアナ諸島からの連日の爆撃で日本全土は焦土となった。

史実では、それに続き硫黄島攻略、沖縄侵攻が起こるのだが、この歴史の流れではそれらの戦いは(少なくとも地上戦という形では)起こらず、連日の激しい空襲だけが繰り返された。

その背景には、ドイツ降伏後発生した、主として米英とソ連の間に発生したヨーロッパの戦後占領を巡る主導権争いがあった。一部には武力衝突にまで発展したほどのソ連の強い占領地支配への執着に警戒感を強めた米英、および中国の国民政府は、ソ連の太平洋戦線参戦の意向を許容せず、そのタイミングとなり得る予定されていた硫黄島作戦、沖縄侵攻作戦を発動できないまま時間が過ぎた。

 

日本海軍の主力艦の動向

主力艦の動向に関して概論すると、ハワイ沖海空戦での高速戦艦「信貴」「筑波」喪失を皮切りに、ソロモン攻防の数次の海戦で、高速戦艦「霧島」「比叡」「高千穂」「畝傍」、追加投入された戦艦「陸奥」「近江」が失われた。

マリアナ沖海戦では、喪失した主力艦はなかったが、大破した高速戦艦「劔」はその後退避した香港から動けなくなり、その後発生したビアク島作戦では戦艦「信濃」が米潜水艦の雷撃を受けて喪失、これを救援した高速戦艦「白根」も併せて被雷、大破し、退避先のダバオから動けなくなっていた。

レイテ沖海戦には、連合艦隊は以下のそのほぼ総力を投入した。

戦艦「駿河」「伊予」「播磨」「大和」「武藏」「相模」「尾張」「長門」が、レイテ湾突入主力である第二艦隊に編入され、高速戦艦「富士」「金剛」「榛名」が、残存空母機動部隊の護衛として投入された。

結果、戦艦「播磨」「武藏」「相模」が失われ、「尾張」「伊予」が大破し退避先のシンガポールで動けなくなった。また高速戦艦「金剛」は、本土回航途上に潜水艦から雷撃され沈んだ。

その後、沖縄をめぐる台湾沖海空戦で、戦艦「駿河高速戦艦「富士」が失われた。 

 

終戦時の残存主力艦 

敗戦時、日本海軍の主力艦で残存していたのは、以下の通りであった。

戦艦「大和」:台湾沖海空戦で中破、呉軍港に帰還。

戦艦「紀伊」:連合艦隊旗艦として横須賀に停泊。

戦艦「長門」:レイテ沖海戦で小破。横須賀で修理、停泊。

高速戦艦「榛名」:レイテ沖海戦で中破、呉軍港に帰還。その後呉軍港で空襲に遭遇し、大破着底。

戦艦「加賀」「土佐」:西部方面艦隊主力としてシンガポールに在泊。ほぼ無傷。

戦艦「伊予」「尾張」:レイテ沖海戦で大破。回航先のシンガポール港で修理中に敗戦。

高速戦艦「劔」:マリアナ沖海戦で、空母機動部隊直掩艦として参戦。被弾、大破。香港に回航されるが航行不能

高速戦艦「白根」:ビアク島作戦で潜水艦の雷撃を受け大破。ダバオで修復中に爆撃を受け、大破着底。 

都合、戦闘可能状態が戦艦5隻「大和」(呉)「紀伊」(横須賀)「長門」(横須賀)「加賀」「土佐」(以上、シンガポール在泊)

損傷を修理中の状態が戦艦2隻「伊予」「尾張」(シンガポール)

そして、高速戦艦3隻が、行動不能状態で残存していた。「榛名」(呉)「劔」(香港)「白根」(ダバオ)

 

太平洋戦争の総括

敗因は国力の違いに尽きるが、それを見越して当初は短期決戦、その後、通商路保護専任艦隊の編成など、体制を充実させて、ある程度の期間の戦線膠着状態の創出には成功したものの、最終的には国力の差異が勝敗に寄与した、という展開であったと言える。

戦術的、あるいは技術的に敗因を見れば、電波兵器の開発の立ち遅れと、その応用の遅延、大戦後半に訪れた航空機のジェット化への対応の遅れが大きく取り上げられるべきであろう。

 

航空機のジェット化とVT信管

航空戦力のジェット化自体については、そもそも技術的な立ち遅れが顕著であったエンジン開発での技術力の差異が現れたし、電波兵器についても同様に、特にVT信管に代表されるような小型の電波兵器への応用に対し、日本が追いつけなかったことが大きい。

特にVT信管は、ジェット化で航空機が高速化すればするほど、その対空戦闘時に威力を発揮する下地があった。

米海軍は既に40mm機関砲での実用化を成功させていたが、日本海軍は、1945年後半に、ようやく10センチ長高角砲用、並びに一般的な12.7センチ高角砲への砲弾実装にこぎつけた。しかしその初期砲弾は発射時の衝撃に対する耐性が低く、かつその搭載する小型真空管にも不良が多く、その信頼性には大いに疑問が持たれたが、それでも現場からは「格段の威力」と好評であった。特に、艦隊や船団護衛にあたる駆逐艦乗組員からの評価は絶大で、それまでその主砲を対空戦闘の主要兵器としながらも、実際にはほとんど有効弾を発することのできなかった主砲がようやく戦力化の実感を持てたことは、大きな士気向上につながった。

さらに小口径の機関砲への搭載も求められたが、日本海軍には米海軍のような40mm

クラスの機関砲はこの時期には装備されておらず、近接戦闘においては従来型の機関砲弾を使用するしかなかった。

 

艦載機のジェット化とスチームカタパルト

もう一つ、特に大戦後半の日本の退勢を決定的にした事象として、日本海軍が実戦で有効に機能するスチームカタパルトを開発できなかったことが挙げられるであろう。 

航空機は、それまでのレシプロエンジンとは段階の異なる大出力の供給を可能にしたジェットエンジンの搭載により、これまでのレベルとは異なる段階の速度と、武器搭載能力を得た。一方で、その機体は格段に重くならざるを得なかった。このことは従来型の航空母艦でのジェット戦闘機、ジェット攻撃機の運用を事実上不可能にした。

従来、航空母艦は発艦に対しその不十分な飛行甲板の長さを補うために、向かい風と30ノットを超える母艦速度の合成風力を用いて、ようやく艦載機をその限られた長さしか持ち得ない飛行甲板から離艦させてきた。

 

油圧式カタパルト

米海軍はこうした高速性能を持たず、また短い飛行甲板しか持たない商船をベースにした護衛空母からも、重い哨戒機、爆撃機を船団護衛、上陸作戦支援などの目的で運用するために、カタパルトを実装し運用してきた。

こうした護衛空母で用いられたカタパルトは油圧式のものであった。

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(直上の写真は、ボーグ級護衛空母と搭載された油圧式カタパルト:少し判別しにくいが、下段写真のシルバー着色部分。ボーグ級護衛空母は、戦時量産されていたC3型貨物船の船体を流用して量産された。1万トン、140メートルに未たない飛行甲板長、18.5ノットの低速ながら、24機の航空機の運用能力を持ち、対潜哨戒等の船団護衛任務、上陸作戦支援などに活躍した。123mm in 1:1250 by Neptun)

ボーグ級航空母艦 - Wikipedia

 

油圧式のカタパルトは護衛空母のみならず、ヨークタウン級エセックス級インディペンデンス級などの艦隊空母にも搭載されていたが、油圧の充填にはそれなりの時間を要し、また射出圧力の調整などの融通にも限界があり、多くの搭載機を、連続射出する目的には向かなかった。

これら艦隊空母に搭載された油圧式カタパルトは、上空防空戦闘機のスクランブル発進や、哨戒機の緊急発進などを目的として搭載された。

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(直上の写真は、インディペンデンス級艦隊軽空母。クリーブランド軽巡洋艦の船体を流用し、9隻が量産された。前述のボーグ級護衛空母と異なり、軽巡洋艦を母体とするために、空母機動部隊と行動を共にするに足る31.5ノットの速力を持ち、機動部隊の主として艦隊防空の主戦力となった。最大45機の航空機運用能力があった。飛行甲板前部に1基のカタパルト軌条が見える:同時期の日本が運用した軽空母は、より長い飛行甲板長を持ちながら、30機の航空機運用能力しかなかった。下段の2点の写真は日米軽空母の艦型比較:写真の日本海軍の軽空母は「瑞鳳」。飛行甲板形状にも、形状の差異が見られ、興味深い。 Independensu class:155mm in 1:1250 by ??? / Zuiho: 165mm in 1:1250 by Trident)

インディペンデンス級航空母艦 - Wikipedia

瑞鳳型航空母艦 - Wikipedia

 

火薬式カタパルト

一方、日本海軍のカタパルトは、主として艦載水上機を射出するためのもので、火薬式であった。

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(直上の写真は、伊勢級海防戦艦:航空戦艦と搭載された火薬式カタパルト(下段)。同カタパルトは、海軍航空技術廠開発のもので公式名称を呉式1式2号射出機といい、究極の艦載射出機と言われた。5tまでの重量の機体(参考:彗星艦爆の過荷重重量:4.5t /天山艦攻の過荷重重量:5.5t)を、30秒間隔で射出することが可能とされたが、実用例はない)

 

しかし、この火薬式カタパルトは、瞬間的に爆発的な加速を行うため、機体およびカタパルト本体への負荷が大きく、航空母艦のように多くの搭載機を短時間で発艦させるような連続使用には耐えられなかった。

 

圧縮空気式カタパルト

のちの戦略潜水艦の走りと言われ、水上攻撃機を3機、搭載する伊号400型潜水艦では、その艦首部に長大なカタパルトが搭載されたが、これは構造上圧搾空気を多用する潜水艦ならではの圧縮空気式であった。

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(直上の写真は、晴嵐特殊攻撃機を搭載した伊400型潜水艦と改巡潜甲型:伊13型潜水艦。下段はそれら潜水艦に搭載された圧縮空気式カタパルト:呉式4式1号。射出機全長26メートル、5tの機体を4分間隔で射出することができた。 I-400 class: 98mm in 1:1250 by Neptun / I-13 class: 91mm in 1:1250 by ???)

伊四百型潜水艦 - Wikipedia

伊十三型潜水艦 - Wikipedia

圧縮空気式は推力は十分なものを発生しうるが、都度、コンプレッサなどによる圧縮空気の充填が必要で、短時間での連続射出(上述のように4分間隔)、と言う目的には適性が低いといわざるを得なかった。

*実は圧縮空気型カタパルトには更に「究極」、ともいうべきカタパルトが存在する。呉式2式1号10型という形式で、1942年に実用化され、軽巡大淀に搭載された。軽巡大淀は、本稿で既述のように第7艦隊編入され、就役直後から、通商破壊戦の潜水艦部隊、あるいは指揮下にある巡洋艦の指令艦として、有力な偵察機部隊を運用することを想定して設計された。その搭載機は、長大な航続距離を持ち、戦闘機も振り切ることができる高速の水上偵察機「紫雲」が想定され、この機を大淀艦上から射出するための専用射出機がこの呉式2式1号10型であった。6tまでの機体を40秒間隔で射出することができた。このカタパルトの大きな課題はその実に44メートルの全長にあり、大淀も当初、艦の後部約3分の1を割いて、このカタパルトを巨大なターンテーブルに搭載した。その長大さゆえに、幅広い実運用には至らなかった。

 

蒸気式カタパルト(スチームカタパルト)

一方で、蒸気式カタパルト(スチームカタパルト)は、基本的に艦自身の機関から蒸気を供給されるため、配管途上の充填機材等で圧力の調整が可能で、ジェット機の登場で運用機材の重量の増加した場面でも対応が可能であった。 併せて機関が稼働し蒸気が供給される限り、連続的な運用が可能で、まさに艦隊空母に最適なカタパルトと言えた。

欠点があるとすれば、構造上配管が複雑になることと、カタパルト運用時には艦の主機関の出力が落ちる、すなわち母艦の速力に影響が出る場合があることなどであった。

米海軍は、エセックス級を中心にスチームカタパルトの装備を始め、艦載機のジェット化を推進したが、カタパルトの運用が発艦の主要な方法になると、飛行甲板を広く使用でき、母艦の後半部分を着艦専用の甲板にするなど、空母の運用方法にも新機軸を生み出すことができた。

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(直上の写真は、SBC-215改装後のエセックス級艦隊軽空母。エセックス級空母は23隻が建造され、その就役期間は実に1942年から1991年に渡る。運用機材への対応により数次の改装を受けた。SBC-215はその一つで、蒸気カタパルトの搭載とアングルドデッキの装備が大きな特徴である。この改装は、史実では1955年以降に実施されたが、本稿ではより早く実施されている。建造途上から最後期建造の3隻はこの形式で建造され、更に太平洋戦争中に5隻がこの形式での改装を受け、艦隊空母機動部隊の主力となった。スチームカタパルトの搭載により、当初からこの設計で建造された3隻は別として、改装を受けた5隻はスチームカタパルトの運用時に速度低下に見舞われた Essex class: 220mm in 1:1250 by Trident??? )

エセックス級航空母艦 - Wikipedia

 

空母の搭載機の変化を見ると、艦載機のジェット化は、搭載機の大型化を招き、そのため空母の搭載機数は減少したが、一方で、その主兵装、特に対艦攻撃の兵器が、それまでの爆弾、魚雷から、誘導弾へと変化した。誘導弾は当初、ドイツ空軍が開発し実用化したもので、地中海で、それまでの同盟軍であったイタリア戦艦「ローマ」を一発の誘導弾で沈めるなどの実績があった。米英はドイツ降伏に前後してこの技術を接収し、主兵器化した。

誘導弾はそれ自体が重く、ドイツ空軍では双発の爆撃機を射出プラットホームとしたが、米海軍では艦載型のジェット攻撃機がそのプラットホームとして利用できた。誘導弾は、弾頭に多量の火薬を充填し、それまでの魚雷と異なり、はるかに長い射程を持ち、かつ高速で飛来するために、回避や撃墜が非常に困難で、日本海軍の誇る主力艦のうち、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、台湾沖海空戦での喪失艦はすべてこの誘導弾の集中運用によるものであった。

こうして米海軍はスチームカタパルトと艦載ジェット機により、最強の打撃力を手にすることができた。

 

日本海軍空母機動部隊の無力化

一方、スチームカタパルトの実用化に目処の立たない日本海軍は、ジェット戦闘機、ジェット攻撃機などの開発には成功していたものの、艦載機として運用することができず、大戦後半、その空母機動部隊は、艦隊決戦兵力としてはほぼ無力化されてしまったと言ってよかった。

 

ja.wikipedia.org

日本海軍は、それでも史上発のエンテ翼戦闘機「震電」の艦載機型を採用するなど、その機材の高速化には務めたが、速度の差は埋め難く、両軍の空母機動部隊が投入されたマリアナ沖、レイテ沖両海戦においては、意に反して一方的な戦闘とならざるを得なかった。

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 日本海軍が開発した史上初のエンテ翼戦闘機「震電」。レシプロ機としては、高速を誇り、かつ機首に集中搭載された重火器で、艦載機型は空母機動部隊の主力戦闘機となったが、米海軍の艦載機は既にジェット化されており、実戦では一方的な戦いを強いられた。「震電改」はジェットエンジンを搭載し実用化されており、その速度、運動性ともに米海軍の艦載ジェット戦闘機を凌駕する性能を示したが、日本の空母からは発艦できず、陸上機としての運用に限られざるを得なかった)

 

米海軍の艦上戦闘機

ja.wikipedia.org

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艦上機には定評のあるグラマン社のジェット艦上戦闘機である。初期型は直線翼を有し、既に設計としてはやや古い部類に属するが、それでも920kmの最高速度を発揮し、当時の日本海軍主力の艦上戦闘機震電艦上型」の最高速度750kmを大きく凌駕していた)

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艦上戦闘機の形状比較。大きさ自体にはそれほど大きな差は見られないが、重量が「震電艦上型」が4.3トンであるのに対し、「F9Fパンサー」は6.5トンであった。(参考:零式艦上戦闘機52型 重量:2.7トン、最高速度:565km)

 

大戦終結と日本周辺の情勢

前述のように、大戦終結時には英米ソ連の間の亀裂が顕在化しており、 それが米軍の対日本の次段階作戦であった沖縄侵攻作戦、硫黄島攻略作戦の実施を思いとどまらせる結果となった。

フィリピンでは日本陸軍は持久戦を粘りつよく展開したが、制海権・制空権は米軍が掌握し、南方資源の日本本土への供給は絶たれた。連日の激しい空襲により全土を焦土化され、最後は三発の原子爆弾の投下(広島、長崎、満州国奉天郊外)によって、日本は降伏した。

ソ連は参戦のきっかけを失い、日本の降伏とほぼ同時に満州侵攻、南樺太侵攻などを行なったが、これらの行動は米英、併せて中国国民政府の警戒感を更に強めさせた。

ソ連は東ヨーロッパに引き続きアジアでの影響力を高めるため、中国共産党支援の強化、更に朝鮮共産党による朝鮮政府の樹立などを試み、それらはやがて国共内戦、1949年国民政府の台湾への撤退、そして1950年の朝鮮戦争へと拡大していく。

 

海上自衛隊の発足と自衛艦「やまと」の誕生

降伏に引き続き、日本は戦争放棄と戦力不保持、交戦権の否認を憲法に掲げる国家となった。

しかし上述のような不安定な周辺情勢、殊に日本の共産化を防ぎ、アジア全体の共産化阻止の拠点としたい米英(特に米国)の思惑から、様々は注釈に彩られた憲法解釈が行われ、やがて朝鮮戦争の勃発とともに自衛隊の前身である警察予備隊が発足し(1950年)、日本は再び戦力を保持することとなった。

 

同時期に旧海軍残存部隊は海上警備隊として組織され、1954年自衛隊法施行とともに海上自衛隊と名称変更された。

上述のようにその発足時には国共内戦朝鮮戦争等で、米英とソ連のある種代理戦争が極東地域では展開されていた。これら共産勢力、あるいはソ連自身の日本への侵攻に対する抑止力として、当時、武装解除の上で海外に展開していた旧日本軍の復員輸送の従事していた残存する行動可能な主力艦を、再武装の上で戦力に組み入れてはどうかという議論が主として英米間で行われた。

当時、主力艦で行動可能だったものは、「大和」「紀伊」「加賀」「土佐」「長門」であったが、これらすべてを戦力化することについては強大すぎ旧軍の復活につながるとの懸念があり、抑止力としてのプレゼンス、という視点から「大和」一隻のみを自衛艦「やまと」として再武装し、自衛艦隊に編入することが決定された。

 

(直下の写真は自衛艦「やまと」:降伏と共に武装解除され、復員事業に従事したのち、再武装し、発足間もない自衛艦隊に編入された。再武装にあたっては、主砲は従来のままとし、自衛艦隊の艦隊防空艦としての役割期待が大きいところから、対空火器とレーダー装備が一新された。主要な対空火器としては、旧海軍の長10センチ高角砲を自動化した単装砲を多数搭載している)

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***ということで、今回は、思いっきり「カタパルト噺」に気持ちが持って行かれてしまって、最終回には至りませんでした。

次回は、自衛艦隊に編入された「やまと」がどのような変遷を遂げ、イージス艦「やまと」となるのかを語る、本当の最終回の予定です。

 

***模型についてのお問い合わせ、お待ちしています。或いは、**vs++の比較リクエストなどあれば、是非お知らせください。

 

これまで本稿に登場した各艦の情報を下記に国別にまとめました。(今回紹介した艦船からのアップデートは特にありません。でも、こっそり日本海軍の筑波級巡洋戦艦装甲巡洋艦の写真が変わっていたりするかも)

fw688i.hatenadiary.jp

内容は当ブログの内容と同様ですが、詳しい情報をご覧になりたい時などに、辞書がわりに使っていただければ幸いです。

 


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