相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

レイテ沖海戦:小沢艦隊(第三艦隊:空母機動部隊)日本海軍、空母機動部隊の終焉(その1)

今回はようやくレイテ沖海戦時の「小沢機動部隊」、つまり日本海軍最後の空母機動部隊のお話です。

この回を初回として、本稿ではこれまであまり触れてこなかった日本海軍の航空母艦の開発史、というか空母機動部隊の変遷を何回かで追いかけてみたいと考えています。

まずはその1回目、そういうお話です。

 

小沢機動部隊の担った「囮」の意味

レイテ沖海戦での日本海軍空母機動部隊の役割はいわゆる「囮」部隊であった、ということは、本稿を訪れていらっしゃるような艦船に興味のある方なら、おそらくご存知だろうと思います。

この「囮」構想が生まれた背景を少し乱暴に整理しておくと、日本軍のフィリピン防衛構想である「捷一号作戦」での日本海軍の主題は、「侵攻軍の撃滅」で、それまでの海軍伝統の「艦隊決戦」構想から大転換を行ったものでした。つまり、日本海軍の主攻撃目標をそれまでの米艦隊から米上陸軍に移し、残存する日本海軍の全力をあげてでこれに打撃を与える、というものだったわけです。

とはいえ、本来なら作戦の主役を担うべき「空母機動部隊」は、特にその搭載機部隊がこれに先立つマリアナ沖海戦で壊滅的な損害を受けて復旧途上にあり、つまりほとんど空の航空母艦部隊だったので、侵攻軍の撃滅は水上艦艇部隊に委ねざるを得ない状況でした。

この水上部隊の攻撃を成功させるためには、フィリピンに来攻するマッカーサー侵攻軍を東方海上から航空支援するハルゼー機動部隊(米第三艦隊)の空からの「傘」を引きはがす必要があるわけで、このため「小沢機動部隊(日本海軍第三艦隊)」を「餌」にハルゼー機動部隊を北方海上へ誘引し、その航空支援の手薄となる隙をついて、水上戦闘艦隊(第一遊撃部隊:栗田艦隊、第二遊撃部隊:志摩艦隊)を上陸地点であるレイテ湾に突入させ、侵攻軍を撃滅するという作戦が立てられたわけです。

何故、日本海軍の「空母機動部隊」がこんな状況に陥ったのか、と言うと。

 

マリアナ沖海戦以降の日本の機動部隊事情

マリアナの敗北:「マリアナ七面鳥撃ち」

少し遡っておくと、日本海軍はマリアナ諸島攻略を目的に来攻した米機動部隊相手に1944年6月、「あ」号作戦の名のもとに、空母機動部隊による決戦を挑み、大敗します。

詳細はこのミニ・シリーズのどこかで触れるとして、概略のみをまとめておくと日本海軍は「あ」号作戦に向けて、日本海軍史上初となる空母を中核戦力に正式に据えた第一機動艦隊という艦隊編成を行い、艦隊空母3隻、商船改造中型空母2隻、補助空母4隻という、当時の日本海軍としてはありったけの空母を投入し、これに500機あまり(諸説あるようですが)の艦載機を満載して決戦を挑み、3隻しかない虎の子の艦隊空母のうち2隻、商船改造中型空母1隻を失い、さらに重大なことは約400機の艦載機とそのパイロットを失ってしまいます。

加えて、「あ」号作戦では空母機動部隊と共に決戦の両輪と目されてマリアナ諸島に展開していた基地航空部隊(第一航空艦隊・第十四航空艦隊)が、この時期までに「見敵必戦」の号令の下、戦力を諸方面に逐次抽出しその都度消耗してしまっており、肝心の「あ」号作戦ではまとまった戦力としては期待できない状況に陥ったまま投入され、そのわずかな残存兵力も壊滅してしまいました。

なぜこのような状況になったかというと、「決戦」構想を立てつつも、その時期、展開地域等については主導権を取れず、つまり来攻する米軍の計画次第、これに対応する、という状況に陥ってしまっていた、ということだと考えています。

元々の日本海軍のアメリカを仮想的とした場合の「艦隊決戦構想」が、太平洋を押し渡ってくる米艦隊を決戦海面に達する以前に捉え、これを暫時減殺しながら主力対決で決着をつける、というものだったので、この原則は変わっていないのですが、航空戦力が海軍戦術の中核となった時点で(そうしたのは日本海軍だったはずなのですが)、決戦展開海面の広さ(=索敵海面の広さ)、スピード(=暫時が意味をなすのかどうか)が異なる意味を持ってしまっていました。さらにこれに戦術的な根幹となる航空戦力自体が「消耗戦」的な性質の濃厚な種類の戦力であり、「短期決戦」構想である種「精鋭一枚看板」的に設計されていた日本海軍は否応なく「消耗戦」に対応せざるを得なかったわけです。そうした事態に、戦時に入ってから直面したわけで、どれだけ対処できていたか、ということかと考えています。

 

再建機動部隊の構想

マリアナ沖海戦の敗北後、海軍は直ぐに機動部隊の再建計画に着手します。それは喪失した空母と母艦搭載機部隊の再建だったわけで、以下のような計画が建てられていました。

第一航空戦隊:「雲龍」「天城」(のちに「葛城」が編入されます:第601海軍航空隊294機(再建目標12月:なぜこの計画定数なのか、ちょっと不明です) 

第三航空戦隊:「瑞鶴」「千歳」「千代田」「瑞鳳」:第653海軍航空隊182機(再建目標10月) 

第四航空戦隊:航空戦艦「伊勢」「日向」、空母「隼鷹」「龍鳳」:第634海軍航空隊132機(再建目標8月末)

この計画通りに行けば大型艦隊空母1隻、新造直後の中型艦隊空母3隻、中型商船改造空母1隻、補助空母4隻、航空戦艦2隻、搭載機定数500機あまりで編成されるマリアナ沖海戦前とほぼ同規模の新機動部隊が出来上がるわけですが、6月のマリアナ沖海戦の敗北から再建まで6ヶ月の期間しかなく、空母や搭載機の数合わせはともかく、パイロットの養成は一朝一夕では叶うはずもなく、その技量優秀者を選抜したのでしょうが、多くが発艦がやっと、ということだったと考えられます。

実は1944年6月のマリアナ沖海戦時でも、それに先立つ1943年10月のソロモン諸島を巡る最後の戦闘というべき「ろ号」作戦で、弱体化したラバウル方面の基地航空部隊の補強に母艦航空隊は投入されパイロットの損耗率47%という損害を出しています。

それを8か月かけて再建して第一機動艦隊が編成されたわけですが、この期間ですら速成された搭乗員の技量低下は目を覆うばかりで、「あ号」作戦(マリアナ沖海戦)で小沢機動部隊首脳部により採られた有名な「アウトレンジ戦法」は「艦載機を知らない司令部の無理筋作戦」と、部隊当事者は大反対だった、という話もあるようです。(小沢司令長官は空母の集中投入の提唱者とされ、日本海軍随一の実戦戦術家の呼び声が高く、その代表的な戦術例としてこの「アウトレンジ戦法」が用いられることが多いのですが、一方で「飛行機についての知識がない」という批判があったようです。(「技量未熟な搭乗員が中心を占める艦載機部隊に、長距離の攻撃を実施させるなんて、なんと無謀な」と言う訳ですね)。余談ですが「あ号」作戦当時のマリアナ方面の基地航空部隊指揮官(第一航空艦隊司令長官)であった角田中将についても、勇猛で積極的な作戦指導が評価する声がある一方で、もっとも避けるべき戦力の逐次分散投入を「見敵必線」の号令で行った指揮官、という評価の声もあるようです)

 

台湾沖航空戦への母艦航空隊の投入

さらにレイテ沖海戦の直前(約1週間前)の台湾沖航空戦への母艦搭載機の投入が機動部隊の戦力化を絶望的にしてしまいます。

この投入の指示は軍令部・連合艦隊司令部から下されたもので、小沢機動部隊司令部は「再建途上の艦載機部隊をこの時点で戦闘に投入することは、次期作戦への機動部隊投入を不可能にするが、それでもいいのか」と反論しますが、上級司令部は「次期作戦への機動部隊投入は予定していない」と返答し、この反論を封殺します。

そもそも「捷号作戦」の大前提として「艦隊決戦」から侵攻軍撃滅への目標転換があり、そのために「これまでの米軍の侵攻手法から想定される上陸軍の侵攻に先駆けて航空撃滅戦を実施するために来攻するであろう「米機動部隊」に対しては手当て程度の反撃にとどめて戦力を温存し、その後来襲する「侵攻軍=上陸部隊」攻撃に全力を投入する」、という方針が共有されていたはずなのですが、上級司令部はあっさりとこれを覆し、沖縄・台湾方面に来襲した米機動部隊攻撃に基地航空部隊のみならず、ようやく再建(数だけは)に至った母艦搭載機部隊、第653海軍航空隊(第三航空戦隊所属)と第634海軍航空隊(第四航空戦隊所属)までも投入してしまいます。第601海軍航空隊はさらに錬成不足であり、また第一航空戦隊の空母自体が就役直後で訓練未了であったこともあって投入されませんでした。

このような経緯で、レイテ沖海戦当時、小沢機動部隊は搭載機を持たない空母機動部隊となっていました。

 

小沢機動部隊のレイテ沖海戦投入と「囮」作戦

台湾沖航空戦への艦載機部隊抽出に際して、次期作戦には「空母機動部隊」を投入しないとの海軍上級司令部の言質まで取った小沢機動部隊でしたが、捷一号作戦が日本海軍の最終決戦であることに変わりはなく、結局、出撃することになります。

艦載機は台湾沖航空戦に間に合わなかった第653航空隊と第634航空隊の残余機に第601航空隊(第一航空戦隊所属)のうち空母発着経験のある隊員をかき集め116機を確保、これを第三航空戦隊の空母4隻に分載しました。第四航空戦隊には搭載機が手当てできず、空母「隼鷹」と「龍鳳」は出撃が見合わされ、防空能力が期待できる航空戦艦「日向」「伊勢」のみ搭載機なしの状態で参加が決定されました。

編成上は、この時点ではまだ小沢機動部隊(第三艦隊基幹)は第一機動艦隊の主隊であり、第一遊撃部隊(栗田艦隊と別働隊である西村艦隊)も小沢長官の指揮下にありました。海軍上級司令部は小沢長官が作戦全般の指揮を執ることを期待しましたが、同艦隊の作戦参加主目的が空母機動部隊本来の搭載機部隊による敵機動部隊攻撃よりも、敵機動部隊の牽制と北方海域への誘引(つまり「囮」として敵機動部隊を引き寄せること)であることを考慮すると、攻撃主力である第一遊撃部隊とは遠ざかる機動を行うこと、作戦の役割上、損害担当部隊となることが想定され、かつ遠距離での統一指揮は困難、との小沢長官自身の判断で議論の末、第一遊撃部隊(栗田艦隊)は連合艦隊の指揮下に入ることとなりました。

 

レイテ沖海戦時の小沢機動部隊本隊

(第三艦隊を基幹に連合艦隊直轄の第三十一戦隊を加えて編成)

 

第三航空戦隊-四代(1944.2.1-1944.11.15)小沢司令長官直率

ja.wikipedia.org

マリアナ沖海戦で、主力空母2隻を失った第一航空戦隊から空母「瑞鶴」が第三航空戦隊に移籍して新編成されました。中型の艦隊空母3隻で編成される第一航空戦隊が空母機動部隊の中核を担う予定でしたが、母艦、搭載機部隊ともに錬成未了でレイテ沖海戦への参加が見送られたため、小沢機動部隊(第三艦隊)の主力戦隊として、レイテ沖海戦には参加することとなりました。

艦載機としては、上記の経緯でかき集めた116機を4隻の空母に分載していました。

 

瑞鶴

(旗艦:搭載機:零戦28機、爆装零戦16機、彗星7機、天山14機 計65機)ja.wikipedia.org

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レイテ沖海戦時の「瑞鶴」の概観:迷彩塗装は筆者によるもので、全く参考になりませんのでご注意を。ああ、迷彩塗装していたんだな、程度に:205mm by Konishi)

 

日本海軍の空母としては開戦以降ずっと第一線にあり、「真珠湾攻撃」に続き「インド洋作戦」にも歴戦。さらに史上初の空母機動部隊同士の海戦である「珊瑚海海戦」の母艦部隊の旗艦でもありました。特にミッドウェー海戦で第一航空艦隊の空母4隻が失われた後は、日本海軍の空母機動部隊の中核として常に第一線にあり続けた空母です。

マリアナ沖海戦では第一航空戦隊を新造空母の「大鳳」と同型艦「翔鶴」と共に構成していましたが、両艦が米海軍の潜水艦の雷撃で相次いで失われ、レイテ沖海戦当時は日本海軍の唯一の大型艦隊空母でした。

 

千代田(搭載機:零戦8機、爆装零戦4機、97艦攻4機 計16機) 

ja.wikipedia.org

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レイテ沖海戦時の「千代田」の概観:迷彩塗装は筆者によるもので、全く参考になりませんのでご注意を。ああ、迷彩塗装していたんだな、程度に:154mm by C.O.B. Constructs & Miniatures: 3D printing model)

 

後述の「千歳」と並び、母体は戦時には短期間での航空母艦への改造を前提に設計された水上機母艦で、開戦当初は水上機母艦として南方作戦等に参加しましたが、1942年6月のミッドウェー海戦での主力4空母喪失を受けて、空母への改造が進められ、1943年年末に「千歳」と共に空母としての改造が終了し就役しました。

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(水上機母艦時代の「千代田級」の概観:by Delphin: 下のカットは、水上機母艦時代と空母改造後の比較:水上機母艦時代の中央部の特設上甲板は、強度試験等の目的だったとか?)
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千歳(搭載機:零戦8機、爆装零戦4機、天山6機 計18機)

ja.wikipedia.org

f:id:fw688i:20210912132735j:imageレイテ沖海戦時の「千歳」の概観:迷彩塗装は筆者によるもので、全く参考になりませんのでご注意を。ああ、迷彩塗装していたんだな、程度に:154mm by C.O.B. Constructs & Miniatures: 3D printing model)

上述の「千代田」とほぼ同じ経緯で1942年末に航空母艦への改装に着手され、1943年末に航空母艦への改造が完了し、再就役しています。

両艦ともに航空母艦としては「マリアナ沖海戦」が初陣で、就役時の搭載機定数は「零式艦上戦闘機」21機、「97式艦上攻撃機」9機で、うち「零戦」7機は甲板上に繋止されていました。

 

爆装零戦:爆戦または戦爆

開戦当初から機動部隊の艦上爆撃機の主力であった99式艦上爆撃機が旧式化し損害が増加したことから、旧形式の零式艦上戦闘機(21型)に250kg爆弾を搭載して艦爆として代用されるようになりました。特に、99式艦爆の後継機の彗星艦爆が持ち前の高速性能から着艦速度が速く小型空母での運用が難しかったため、小型空母では爆装零戦艦爆の代用されることが常となりました。

爆装零戦の名を聞くと「爆弾投下後は戦闘機として活躍」と思ってしまうのですが、搭乗員には艦爆・艦攻の操縦者が充当されたため、空戦能力はあまり高くなかったようです。

また「零戦」の構造的な特性から急降下には難があり、爆撃照準装置も搭載されなかったため、急降下でのピンポイント爆撃よりは目視で緩降下での面爆撃で敵空母の飛行甲板を狙う、という戦法がとられたようです。併せて単座であったため航法士が同乗せず、かつ速成練成では帰還訓練等が行われなかったため母艦への帰還には誘導機が必要で、クルシー誘導器(母艦の誘導電波を捕らえ帰還経路を探す装置)の有効範囲が攻撃距離の半分程度しかなく単機での帰還は相当困難であったとされています。

パイロットが艦爆・艦攻の操縦者で構成されていたこと、緩降下での目視低空爆撃時の対空砲による損害(零戦は軽量化のため防弾への配慮をあえて欠いていました)、母艦への帰還の困難さ等から、マリアナ沖海戦では第三航空戦隊から発進した爆装零戦42機のうち30機が未帰還となっています。

 

 瑞鳳(搭載機:零戦8機、爆装零戦4機、天山5機 計17機)

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レイテ沖海戦時の「瑞鳳」の概観:迷彩塗装はモデル購入時に施されていたもので筆者によるものではありません。あてになるのかどうかは不明ですが、かなり精緻なものです:164mm by Trident)

前述の「千代田級」空母と同じく、戦時には短期間での航空母艦への改造を前提に設計された「剣埼級」潜水母艦(元々の設計は高速給油艦)2隻のうち「高崎」を改造して生まれた航空母艦です。

 

「剣崎級」潜水母艦 2番艦「高崎」を改造

1936年に高速給油艦として進水し、その後空母への改造を簡易化するため上部構造を追加した潜水母艦に設計変更されましたが、結局、さらに艤装途中から航空母艦に設計変更され、1940年12月に潜水母艦形態を経ず、航空母艦として完成されました。この設計変更に伴い「瑞鳳」と艦名が改められました。

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(「剣崎級」潜水母艦は、筆者の知る限り、1:1250スケールでは市販のモデルがありません。上の写真は筆者がセミ・スクラッチしたものです。「瑞鳳」の母体となった「高崎」は前述のように潜水母艦としては完成されないまま航空母艦になりましたので、潜水母艦としての「高崎」は結局存在していません。モデルは「剣崎」の図面(こちらは潜水母艦として完成しています)に従ったもの。後に空母「祥鳳」に改造されています。という次第で、形態はあくまでご参考という事でお願いします)

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(上の写真は、潜水母艦形態と航空母艦形態の比較。エレベーターなどが最初から組み込まれていたことがよく分かります。後部のエレベータ:上の写真では船体後部のグレー塗装部分:は潜水母艦時代には、エレベータは組み込まれたものの、上に蓋がされていたようです)
就役後は連合艦隊主力(第一艦隊)の警戒部隊である第三航空戦隊に所属していましたが、ミッドウェー海戦での主力4空母喪失ののち、新生機動部隊である第三艦隊第一航空戦隊に編入され主として機動部隊主力の第一航空戦隊の上空直衛及び周辺の哨戒を担当として、活躍しました。

マリアナ沖海戦では第一機動艦隊第三艦隊の第三航空戦隊に「千代田」「千歳」と共に編入されました(旗艦「千歳」)。

 

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(レイテ海戦当時の小沢機動部隊の基幹戦力、第三航空戦隊の空母:「瑞鶴」(艦隊旗艦:左上)、「瑞鳳」(右上)、「千歳」と「千代田」(下段):迷彩塗装は筆者の妄想と未熟な塗装技術の制約が多いですので鵜呑みにしないでください。「瑞鳳」の迷彩だけは筆者ではなくプロ(?)の手によるもの)

 

第四航空戦隊-三代(1944.5.5-1945.3.1)司令官:松田千秋少将

 

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同航空戦隊は、航空戦艦2隻(「日向」「伊勢」)、中型商船改造空母「隼鷹」、補助空母「龍鳳」で、マリアナ沖海戦後に構成された航空戦隊です。第634航空隊132機を運用する部隊となる予定でした。しかし搭載機部隊を台湾沖航空戦に抽出され、その後転用されたため、艦載機を搭載した航空戦隊としての戦歴は残せませんでした。

レイテ沖海戦には航空戦艦「日向」「伊勢」のみが艦載機なしで、その強化された対空火器に期待を寄せて第三航空戦隊の護衛艦として出撃し、艦載機の手当ての当てのない空母「隼鷹」「龍鳳」の出撃は見合わされました。

 

航空戦艦 伊勢(旗艦)、日向

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(直上の写真は伊勢級航空戦艦の概観:172mm in 1:1250 by Delphin)

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(直上の写真は伊勢級航空戦艦2隻:伊勢(奥)、日向) 

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就役時

伊勢級」戦艦は日本海軍の超弩級戦艦の第二陣として、第一次世界大戦中に設計、建造されました。元々は前級である「扶桑級」戦艦の三番艦、四番艦として建造される予定でしたが、「扶桑級」の課題があまりにも多く露呈したため、設計が根本から見直され、主砲配置、甲板防御、水雷防御などが一新し、全く異なる艦型の戦艦となりました。設計の見直しに併せて、主砲装填方式の刷新、方位盤の射撃装置の採用なども行われ、より強力な戦艦となって誕生しましたが。一方で、砲塔の配置転換などにより居住区域が大幅に削減され、居住性は悪化していたようです。

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(1917年就役時の「伊勢級」の概観: 29,900トン: 35.6cm連装砲6基、23ノット)同型艦2隻 (166mm in 1:1250 by Navis)

 

近代化改装

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(近代化改装後の「伊勢級」の概観: 大型バルジを舷側に装着し、水中防御等を強化。一方で艦尾を延長するなどして、排水量の増大にも関わらず、速力を若干向上させています。: 170mm in 1:1250 by Superior?)

太平洋戦争当時には大改装を受け近代化した戦艦として序列されていましたが、航空主兵の戦いが進む中、活躍の場を見出せないまま、長く内海に止まっていました。

 

航空戦艦へ

https://ja.wikipedia.org/wiki/伊勢型戦艦#航空戦艦への大改装

1942年の射撃訓練中の「日向」の5番主砲塔の爆発事故をきっかけに、その後のミッドウェー海戦での主力4空母喪失を受けて、「伊勢級」戦艦の空母改造の議論が起こります。検討の結果、全通甲板を持つ空母への改装は大工事が必要であるとの結論から見送られ、とはいえ航空主兵の状況下での戦力化の方策として、艦上爆撃機の搭載と射出能力を持つ航空戦艦への改造計画がまとまり、爆発事故のあった5番砲塔に加え6番砲塔を撤去し、そこに航空機作業甲板と格納庫を搭載する大改造が行われました。

改造工事は1942年12月に着手され1943年9月に完了し、1944年5月、第四航空戦隊に編入されました。

搭載機は当初カタパルトでの射出に適応する改造を受けた「彗星」艦爆22型22機が予定されました。カタパルト上に2機、甲板繋止11機、格納庫9機の搭載形態を取る予定でした。しかし同級は着艦甲板を持たないため、母艦への帰還のすべがなく、周辺に着水しパイロットのみ回収する方向が検討されていました。

のちに機体の回収も見込める水上爆撃機として設計された「瑞雲」と「彗星」の混載へと編成が変更されましたが、結局、両機体の生産が間に合わず、搭載機未了のまま戦線に復帰、その後、第634航空隊として機材が揃えられましたが、搭載する間も無く台湾沖航空戦に投入されて、そのままフィリピン方面に転用されてしまったため、実戦での航空部隊運用実績は最後までありませんでした。

航空戦艦への改造にあたって、5番・6番主砲塔の撤去に伴いケースメート式で搭載していた副砲を全廃し、対空砲・対空機関砲等を増強しています。

 

小沢機動部隊 艦載機部隊の最後の出撃

レイテ沖海戦では、10月24日に同機動部隊の索敵機が米機動部隊を発見し、これに57機の攻撃隊(「瑞鶴」搭載機24機:零戦10機、爆装零戦11機、天山1機、彗星2機、その他艦載機部隊33機:零戦20機、爆装零戦9機、天山4機、を発進させました。「瑞鶴」隊のみ敵機動部隊を発見して攻撃を行いますが、損害を与える事はできませんでした。この攻撃で零戦2機、爆装零戦5機、天山1機を失いましたが、攻撃後、出撃時の指示通り母艦には戻らず陸上基地に退避しています。一方、「瑞鶴隊」以外の出撃部隊は敵機動部隊を発見できないまま、敵戦闘機部隊と交戦し、零戦6機、爆装零戦1機、天山2機を失って、一部は母艦に帰還、他は陸上基地に退避しました。

こうして日本海軍の空母機動部隊最後の出撃は終了しました。

 

ということで、今回は一旦ここまで。

 

次回は「小沢機動部隊」の他の艦艇のご紹介と、その最後の戦いとなった「エンガノ岬沖海戦」、そしてレイテ沖海戦のまとめを。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

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