相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第8回 バルティック艦隊回航と海戦

バルティック艦隊の極東回航

「壮図」、という言葉にふさわしい。

バルティック艦隊の本拠リバウ軍港から、旅順、あるいはウラジオストックまでの距離、約18,000浬、30,000キロ。計画の当初40隻を超える艦艇が、この遠征に参加する予定で、最終的には50隻を超えた。最短でも4ヶ月はかかる見込みで、実際には7ヶ月余りの航海になった。距離的にはマゼランの航海には及ばぬものの、その艦隊の規模、戦闘力、さらには、石炭の補給をはじめとする計画的な兵站の確保を考慮すると、まぎれもない「空前の壮挙」であった。

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(第二太平洋艦隊主力の第一戦艦戦隊:最新鋭のボロジノ級戦艦4隻 スヴィーロフ・アレクサンドル3世・ボロジノ・オリョール)

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(第二戦艦戦隊:オスリャービャ(上段)、シソイ・ウォーリキー(下段左)、ナヴァリン(下段右))

 

回航により彼らが得ようとしたもの、その企図は雄大そのものと言わねばならない。

当時、極東には、ほぼ日本海軍に匹敵する規模の太平洋艦隊(第一)が旅順とウラジオストックを基地として展開していた。これに、ほぼ同規模の艦隊(第二)を本国から派遣し、二つの艦隊を合わせて、すなわち日本海軍の二倍の規模で圧倒してしまおう、というものであった。その海軍を撃滅し、制海権を握り補給を断つならば、満州に展開する日本陸軍など、ただ待っているだけでも消滅してしまう。

必勝の図式に裏打ちされた、見事な戦略と言えるであろう。

瑕疵があるとすれば、回航作戦の決定時期そのものの遅さ、およびその後、決定から発動まで、5ヶ月の時間がかかっていることであろう。(決定:5月20日 出港:10月15日)

前稿でも何度か触れたが、これらはこの戦争全般に見られる準備努力の不足、および「開戦時期の決定権はロシアにある」という大国ならではの思い上がりに似た見通しに起因しているように思われる。

 

一方、5月のロシア本国艦隊回航決定の報に触れ、日本は陸海軍をあげて、当初その戦争計画になかった旅順要塞の攻略戦を8月に開始した。両艦隊の合流は、日本の死命を制することは明らかであるために、日本にとって、一転して旅順は国運をかけた戦場となった。

 この結果、旅順は、本国艦隊回航までの間、太平洋艦隊を温存するには安全な地ではなくなり、旅順艦隊はウラジオストックへの移動を企図する。その移動を巡って、同月には、旅順艦隊と日本艦隊の間に黄海海戦が行われた。膠州湾に逃げ込み武装解除された一隻をのぞいて、旅順に戻った5隻の戦艦であったが、海戦で受けた損傷を修復することが旅順ではできず、戦力としての旅順艦隊は消滅した。

冷静に考えれば、巨大な陸軍を陸路満州に送り込む能力を持つロシアにしてみれば、この時点、すなわち既に両艦隊の合流という海軍力による戦争の勝利の見通しの失われた今、本国艦隊の回航を中止する判断があってもよかった。

 

が、その判断は下されず、艦隊は、1904年10月15日に、リバウ軍港を出発した。

出発にあたり、バルティック艦隊は第二太平洋艦隊と名を改めた。司令長官には軍令部長のロジェストヴェンスキィが就任し、中将に昇進した。

彼はその将旗をボロジノ級戦艦、スヴォーロフに掲げた。

 

ボロジノ級戦艦 - WikipediaBorodino-class battleships

ボロジノ(1904-1905)

アレクサンドル3世(1903-1905)

オリョール(1904-1922 :1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「石見」)

スヴォーロフ(1904-1905)

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旅順艦隊所属にして、おそらく最良の戦艦「ツェザレヴィッチ」をタイプシップとして、ロシア国内で設計変更されライセンス生産された。タンブルホーム、連装砲塔式の副砲など、いくつかの特徴を受け継ぎながら、やや大型化している。

最良艦をベースにしているにも関わらず、ロシアでの改設計、併せて建造技術などの問題から、最終的には復元性に課題のある艦となってしまった。

欠陥があるにせよ、旅順艦隊が動けない状況で、ボロジノ級の4隻は、ロシア艦隊最強の戦艦であることに変わりはなく、その主力として、この4隻で最強の第一戦艦戦隊を編成し、ロジェストウェンスキーが直卒した。

(13,500t 17.8knot) (95mm in 1:1250)

 

オスリャービャ (戦艦) - Wikipedia(1901-1905)

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ペレスヴェート級の二番艦。元々は、太平洋艦隊に配属される予定であったが、旅順への回航途中に日露開戦となり、本国に戻った。今回の本国艦隊の極東回航にあたり、第二戦艦戦隊の旗艦を務めた。(フェルケルザム少将座乗)

ロシア級装甲巡洋艦の拡大的要素が強く、航洋性能と速度を重視し、武装と装甲を少し抑えた、後の巡洋戦艦的な性格を持つ。その為、主砲は少し小さめの口径の25.4センチ連装砲を、前後の砲塔に収めている。

(12,674t 18knot) (104mm in 1:1250)

 

今回の極東回航にあたっては、フェルケルザムの率いる第二戦艦戦隊主力は、オスリャービャと以下の紹介する一世代前のバルト海向けに建造された戦艦2隻、加えてやや旧式の装甲巡洋艦で構成された。旗艦オスリャービャは、前述のように言わば強化型の装甲巡洋艦的な性格でその主砲口径が小さく、その他の2戦艦はそもそもがバルト海用の海防戦艦であり、特に航続距離、速度が最新戦艦に劣った。一方で、バルト海向けの海防戦艦であるために喫水が浅く、地中海、スエズ運河経由の航路を選択することができ、オスリャービャを除いて短縮ルートに別働した。

 

シソイ・ヴェリキィー (海防戦艦) - Wikipedia (1896-1905)

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バルト海向けに建造された海防戦艦である。乾舷をやや高くし航洋性を向上させるなど、形式はほぼ近代戦艦の要件を満たしているが、速力が15.6ノットと遅かった。また石炭の積載量も1000tと少なく、一回の給炭での航続距離が短い。(10,499t 15.6knot) (81mm in 1:1259)

 

ナヴァリン (戦艦) - Wikipedia(1895-1905)

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四角に配置された4本の煙突を持つ、極めて特徴的な外観をしている。近代戦艦以前のバルト艦隊向けに開発された装甲砲塔艦的な設計の艦で、極めて低い乾舷を有していた。前掲のシソイ・ヴェリキー同様、航続距離が短い。10.200t 15.8knot) (83mm in 1:1250)

 

航海は難渋を極めた。

それは、給炭と補給地を求める航海であったと言っていい。

元々、航路上の大半は、日英同盟を結ぶイギリス領であり、この港湾に立ち寄ることはもとより計画に入れることはできなかった。もし寄港などすれば、たちまち拘束されてしまうであろう。従って、当初から寄港地は、長年の同盟国であったフランス領に設定された。アフリカの西岸、東岸ともにフランス領は多く、その港湾を飛び石伝いに辿っていけば、十分な補給と休養がえられる筈であった。

ところが、イギリスの老練な外交手腕により、本来は長年の同盟国であったはずのフランスの態度が時を追うにつれ、冷たくなった。

フランスにも事情がある。前述のようにフランスは長年にわたりロシアを同盟国としてきている。この同盟により、フランスはイギリス、加えて殊に長年の潜在的仮想敵国であるドイツとの外交における自国の地位を保ってきている。ところが日露戦争により、ロシアはその強力な陸軍の主力を極東に割かねばならなくなった。ドイツ東方国境にかかっていた重圧が減衰した。相対的に、同盟国であるフランスのヨーロッパにおける地位が弱まった。

さらに、今回の艦隊回航により、ロシアの海上勢力はヨーロッパを空にするように、極東に向けられてしまう。潜在的にドイツを仮想敵国とするフランスとしては、この崩れたバランスを補うために、イギリスに冷淡な態度をとることが難しくなった。

フランスの態度の変化の背景にはそういう事情が働いている。

同盟国の態度の変化はともかく、遠征を行う艦隊にとって、フランス領への寄港、そこでの補給は不可欠で、艦隊は不慣れな外交交渉に苦しみながらも、半ば強引に居座るようにフランス領の港湾を使用せねばならなかった。

 

その本隊の航路を辿ると、リバウ出発後、11月6日前後に、地中海ルートをとるフェルケルザム戦隊を分離、11月16日、アフリカ西岸のダカールに寄港。その約1ヶ月後の12月16日、ドイツ領アンゴラに寄港後、19日に喜望峰沖を通過している。

当時の通信事情で、艦隊は知る由もなかったが、実はこの間、12月5日に旅順要塞外郭の二0三高地が日本陸軍の手に落ち、その高地を観測点にした有名な28センチ榴弾砲の砲撃で、翌12月6日には、旅順艦隊の残存する5隻の戦艦のうち、レトヴィザン、ペレスヴェート、ポペーダ、ポルタワが大破、着底してしまっていた。さらに、1月1日には要塞そのものが日本軍に降伏し、戦艦のうち1隻だけ残っていたセヴァストポリも港外で自沈してしまっていた。

 

航海を続ける艦隊は、12月29日にはマダガスカル周辺に到着し、マダガスカル西岸のノシベに、1月9日に入港。ここでスエズルートを取ったフェルケルザムの別働戦隊と合流した。艦隊はこのノシべで上記の旅順艦隊の消滅を知らされた。

後世のこの遠征の結果を知る我々からみれば、この遠征の目的、遠征の末の勝利の図式が失われた時点で、艦隊の回航中止は、ほぼ唯一の理性的な、あるいは十分に検討価値のある選択肢として映るかもしれない。

しかし、戦争当事者にとっては、戦争がそもそも国家の威信そのものを賭けた政治行為であるとすれば、この段階での遠征中止はありえなかったであろう。この時点で、皇帝個人への敬意はさておき、少なくとも帝国政府・中枢の官僚、ひいては体制への疑問が無視できぬほどくすぶりつつある国内事情をみれば、政権の中心にいる者たちにとっては、この遠征を竜頭蛇尾に終えることは、それが今後の国家維持のためにどれほど懸命な選択であったとしても、出来ない相談であった。それは例えば10年後の政権のためにはなっても、今日の政権の権威にとってはなんら利するところはない。これは皇帝ニコライ2世周辺において、最も濃厚であった。また、艦隊を率いるロジェストヴェンスキィ提督にしても、同様に中止は考慮もしなかったであろう。

栄光あるロシア海軍の軍人として、彼は勝つことのみを考える。そして彼にとって、この状況下で勝利の確率を最も高める最良の方法は、すぐに極東に向けて出発することであったし、実際にそのようにモスクワに上申している。

日本艦隊はようやく旅順警備の重圧から解放されたとはいえ、長期間の洋上待機状態で艦も兵も疲弊しきっているはずである。多くの艦は、多少なりとも戦闘での損傷箇所があり、あるいは不調箇所があるはずであった。おそらく、強力な旅順艦隊に対峙してきた日本艦隊においては、主力艦において、その必要の度合いは高いであろう。これを急いで修理、休養させねばならないが、当時の日本の修理施設には限界があり、短時間での回復は望めない。ロシア艦隊としては、この状況を自軍に有利な材料として利用するには、その整備の整わぬうちに、少しでも早い極東への到着を目指すべきであった。

が、ロジェストヴェンスキィの焦慮をよそに、この後、艦隊はこのノシベに約2ヶ月滞在することになる。すなわち、モスクワは、彼の上申を承認しなかった。

モスクワに懸念は別のところにあった。元々、開戦当初、太平洋艦隊(旅順・ウラジオストック艦隊)には、ロシア海軍における当時の最新最良の艦船、兵員が優先的に配置されていた。これをロシア海軍始まって以来の名将マカロフに指揮させて日本に勝つ、というのがモスクワの描いた構想だった。

今回の遠征艦隊は、開戦以降就役した最新鋭の戦艦を5隻揃えているとは言え、その兵員は旅順の部隊に比べれば未熟であり、このまま戦場に赴かせるのは不安であった。このため、新たに二つの小艦隊を増援として、送り出すので、これを合流して極東を目指せ、と指令した。

一つは快速巡洋艦数隻からなる部隊であり、もう一つは二世代前の旧式戦艦と旧式の装甲巡洋艦バルト海の沿岸警備用の装甲海防艦(小戦艦)3隻を中心とした艦隊で、物々しく、第三太平洋艦隊の名を冠していた。

ロジェストヴェンスキィにすれば、これらの艦は全て、今回の遠征艦隊を編成するにあたって、戦力としては期待できないとして、外した艦ばかりであったから、すぐに反対意見を上申し、一刻も早いノシべ出発を許可するよう懇願したが、モスクワは聞き届けなかった。

彼はこのモスクワの対応に強い苛立ちを覚えつつも、一方で、彼は皇帝ニコライ2世侍従長軍令部長であり、誰よりも皇帝の意思には忠実な自分でなくてはならなかった。

彼が行なった精一杯の反抗は、ネボガトフとは、ノシべではなく、回航途上の仏領カムラン湾で合流する、とモスクワに告げたことだった。こうした経緯の後、ようやく3月16日、艦隊はノシべを出港した。

 

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 (第三太平洋艦隊:戦艦ニコライ1世(上段左)装甲海防艦セニャーウィン(上段右) 同ウシャコフ(下段左) 同アプラクシン(下段右))  

 

 第三太平洋艦隊はネボガトフ少将を指揮官とし、旧式戦艦1、装甲海防艦3、旧式装甲巡洋艦1、これに工作船、補給船、病院船など7隻が付随した。2月16日リバウ軍港を出港、地中海・スエズ航路を経て、仏領カムラン湾での第二太平洋艦隊との合流を目指した。

インペラートル・ニコライ1世 (戦艦・初代) - Wikipedia(1891-1915:1905年以降、日本海軍に在籍 二等戦艦「壱岐」)

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バルト海での運用を想定して設計され、 ロシア海軍として初めて主砲に連装砲塔構造を採用した。その主砲は前部に一基のみ搭載され、やや小型の海防戦艦的な性格の艦である。(9,500t 15.3knot)(84mm in 1:1250)

 

アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦 - Wikipedia

ウシャコフ(1895-1905)

セニャーウィン(1896-1935:1905年以降、日本海軍に在籍 二等海防艦「見島」)

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バルト海沿岸防御用に建造された小型海防戦艦である。小さな船体ながら、25.4センチ砲を連装砲塔2基に収納している。沿岸防御を主任務と想定しているため、浅吃水が条件づけられ、大洋での行動には不向きとされていた。

 

アプラクシン(1899-1922:1905年以降、日本海軍に在籍 二等海防艦沖島」) 

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アプラクシンのみ、後部に単装砲塔を装備し、主砲は3門である。

(4,971t 16knot)(69mm in 1:1250)

 

ノシべを発した第二太平洋艦隊の次の寄港地は、インドシナ半島カムラン湾であった。この間、全てイギリス領であり、洋上給炭などに苦しみながら、艦隊は、航海を続けなくてはならなかった。ロジェストヴェンスキーはシンガポール沖で、ネボガトフの艦隊がジプチに到着したことを通報された。おそらく数週間後には、仏領カムラン湾で会同するであろう。

そして艦隊は、4月上旬、その会同地点、仏領カムラン湾沖に到着する。

到着後、ロジェストヴェンスキィは、全艦隊に給炭の指示を出した。実はこの時点で、彼には、ネボガトフを待たず、カムラン湾を素通りする意思があった。

東郷は、当然、ネボガトフの艦隊の発進を知っている。従ってその現在位置の情報を集め、ロシア艦隊の合流日時、さらには日本近郊到着の日時を予測しているであろう。カムラン湾を素通りし、そのままウラジオストックを目指せば、この予測の裏をかくことが出来、その混乱に乗じて、ウラジオストックへ到着する確率を高めることができる。これがロジェストヴェンスキィの目論見だった。

後発の老朽艦隊の回航情報を囮に使った、見事な作戦と言えるであろう。

が、この目論見は、簡単に崩れてしまう。艦隊主力、ボロジノ級2番艦、これまで艦隊最優秀艦と目されていたアレクサンドル3世が、これまでの給炭量をごまかして報告しており、現在の積載石炭では、ウラジオストックに到達できないことが判明したためであった。給炭量のごまかしの動機は、給炭時間を短く見せることにより最優秀艦の評価を維持するため、という呆れるようなものだった。

積載量を満たすためには、、新たに給炭船を呼び戻さねばならず、これにより彼の計画は実施できなくなった。

 

5月9日、第二、第三、両太平洋艦隊は仏領カムラン湾で合流し、5月14日、ウラジオストックに向けて出発した。

 

海戦、敵前大回頭の意味

いよいよ日本海海戦に至るわけだが、海戦の経緯については非常に多くの資料、優れた書籍に任せるとして、本稿では、有名な敵前大回頭(東郷ターン)について少し触れてみたい。

 

旅順艦隊の消滅によって、日本海軍の背負う主題はかなり軽くなったと言えるのだが、しかしながら、制海権を守るためには必ず勝利を収めねばならないことには変わりはなく、可能な限りその特に主力艦(戦艦)をこの海戦で沈めてしまいたかった。

一方、ロシア艦隊はその主力艦、特に戦艦に区分される艦種において、数で日本艦隊を依然圧倒していた。主力艦の数、すなわち射程の長い巨砲の数、といってもいい。この巨砲群を持って、日本艦隊を撃ち払い、ウラジオストックに逃げ込めれば、その後の戦局に大きな影響力を与えることは間違いない。

或いは、出撃せずともウラジオストックの港内で、その機関のあげる煤煙を高くするだけでも、日本の補給路に緊張を与えることが可能であろう。

 

来攻するロシア艦隊の戦艦は、数だけでいえば8隻に及ぶ。もちろんこれまでに何度か触れたように、その建造年代は多岐に渡り、すなわち旧式に分類される艦も含まれてはいる。これもこれまでに見てきたように、この時期の(あるいは軍事技術というのはいつもそうであるのかも知れないが)数年の差は、実に大きな意味を持つ。そうした意味で言えば、ロシア艦隊の主力を務めるボロジノ級戦艦は、日本艦隊の主力三笠、朝日、敷島の3隻の戦艦よりも新しい。オスリャービャは、ほぼ三笠以下3隻と同年代の戦艦であり、日本の「富士」とロシアの残りの3隻の戦艦は三笠よりも前の世代に属していた。

30センチ級の主砲の数で言えば、日本艦隊が16門であるのに対し、ロシア艦隊は26門、一回り小さな25センチ級の砲は、日本艦隊は1門(春日)であるのに対し、ロシア艦隊は15門(3隻の装甲海防艦を含む)であった。

一方、装甲巡洋艦の数では日本艦隊はロシア艦隊を圧倒していた。日本艦隊8隻に対し、ロシア艦隊3隻、装甲巡洋艦の主砲である20センチ級の砲数は、30対16 であった。また、日本の装甲巡洋艦は全て同年代に艦隊決戦用に作られたいわばミニ戦艦で、全ての砲を砲塔に装備しているのに対し、ロシア艦隊の装甲巡洋艦は全て旧式で、うち2隻は主砲を舷側装備していた。

すなわち、日本艦隊が勝利を収めるためには砲戦の距離を詰める必要があり、一方、ロシア艦隊は長距離での砲戦を維持すればするほど、ウラジオストック到着というその目的を達成する可能性を高めることができた。

 

 

両艦隊が激突する。

ロシア艦隊は本稿の冒頭に示したように、ボロジノ級を中心とした第一戦艦戦隊、オスリャービャを先頭に旧式戦艦2隻、装甲巡洋艦を従えた第二戦艦戦隊、そしてニコライ2世を旗艦とするネボガトフの第三太平洋艦隊の3郡が緩やかな縦陣を組んで北東方向へ進路を取っている。

一方、日本艦隊は三笠以下第一戦隊の戦艦4、装甲巡洋艦2、出雲以下第二戦隊の装甲巡洋艦6隻の順でこちらも単縦陣で南下してきている。

 

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 (第一戦隊:三笠(上段左)、朝日(上段右)、敷島(中段左)、富士(中段右)、装甲巡洋艦春日(下段左)、装甲巡洋艦日進(下段右))

 

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第二戦隊の装甲巡洋艦(八雲(上段左)、吾妻(上段右)、出雲(中段左)、磐手(中段右)、浅間(下段左)、常磐(下段右))

 

遠くロシア艦隊を視認した日本艦隊は、一旦進路を北西にとりロシア艦隊の予定進路を横断し自らの左舷方向に敵艦隊をみる位置どりに移行したのち、再び進路を南西に戻し、反航進路を進んでいく。距離12,000メートルで旗艦三笠には、有名なZ旗が掲げられた。Z旗は「皇国の興廃、この一戦にあり。各員、一層奮励努力せよ」の文字が割り当てられていることで有名であるが、Zはアルファベットの最終文字であることから「もう後がない」を意味してもいた。

 

日本艦隊が勝利を目指すには、以下のいくつかの条件を検討し、艦隊を運動させねばならない。

北上してくるロシア艦隊と待ち受ける日本艦隊の位置どりを考えると、おそらく最初の会合は反航航路の形態を取るであろう。

一方、黄海海戦の苦戦の教訓から、反航戦を継続して行った場合、一度後落するとその距離を詰めるには多くの時間を要する。今回の海戦では、ロシア艦隊主力(特に高速を出しうるボロジノ級を始めとるする数隻)の遁走が最も恐れなくてはならない結果であり、それを防ぐためには、早い時期に同航戦に移行する必要があった。

備砲の差。長距離射程を有する大口径砲においては、ロシア艦隊に圧倒的な優位がある。日本艦隊としては、数的に優位な中口径砲を活用せねばならない。そのためには距離を詰める必要がある。

整備、速度における優位。長距離を回航してくるロシア艦隊は整備が十分ではなく、かつ建造年代にばらつきがあり、艦隊運動を高速で行うことは望めない。一方、日本艦隊は整備が完了しており、かつその主力艦はほぼ同世代であり、これらを考慮すると、海戦は味方の優速で行うことが期待できる。

 

実際には、日本艦隊は距離10,000メートルで艦隊は17ノットに増速しまず敵艦隊に対する優速を確保。ロシア艦隊はこの辺りで発砲を開始する。ロシア艦隊も、自軍の優位性(大口径砲の数)を理解し、その論理に忠実な長距離での戦闘を行おうとした節がある。さらに両艦隊の距離8,000メートルのあたりで、三笠は150度の敵前大回頭(東郷ターン)を行い、ロシア艦隊との距離を一気に詰めるコースに乗った。

一般に大回頭の危うさを問う記述は多い。確かに、回頭地点に砲弾を集中されれば、高い被弾率を覚悟せねばならない。が、それは回頭点とその後の進路が特定された後の、後続艦におけるリスクであり、先頭艦は、回頭後の進路予測が難しく、この時点での被弾はそれほど気にする必要はなかった。併せて、両艦隊ともにかなりの速度で運動中であり、実際には、日本海海戦当時に特定地点に砲弾を送り込み続ける、というのは大きな困難を伴ったであろう。

三笠への砲弾の集中は、先頭艦としての宿命であり、かつ新進路で敵との距離を詰めるコースに乗ったことにより生じたものので、回頭のいかんに関わらず、先頭の旗艦としては、甘んじて受け入れざるを得ない危険であった。

後続艦も逐次、回頭しこの新進路に乗る。この回頭により日本艦隊はロシア艦隊に対し「T字」を切ることが出来た、という表現があるが、どちらかというと「イ」の字に近い進路をとり、その砲戦距離を自軍に有利な中口径砲向きに詰めた同航戦を行った、と解釈する方が実際に近いような気がしている。

加えて、17ノットの優速をもってすれば、常に距離を開く方向へ運動しようとするロシア艦隊の鼻先を抑えるような機動が可能であり得たであろう。

 

こうして海戦は始まり、翌日までに、東郷の艦隊は歴史的な勝利を収めた。艦隊の目的地ウラジオストックにたどり着いたのは、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻にすぎず、戦艦8隻のうち6隻が撃沈され、2隻が日本海軍に捕獲された。

 

一方で、結末は悲惨なものであったが、やはり冒頭に述べたように30,000キロに及ぶこの規模の大艦隊による航海は、やはりそれだけで讃えられるべきものであると考える。種々の悪条件、さらに悪化する極東の戦況の中、大きな事故なく航海を成し遂げた事実は、偉大であり、ロジェストヴェンスキィの統率力は眼を見張るものがある。あるいは、これに付き従ったロシアの兵士たちの忠良さを、なんと賞賛すべきであろうか。

 

ともあれ、海上の覇権をめぐる争いとしての日露戦争は終わった。

 

次回は、日露戦争以降の日本海軍に訪れた空前の危機、について。

 

模型についての質問はお気軽にどうぞ。あるいは質問をするにせよ、情報が十分でない、「こういう情報が欲しい」などのご意見も、ぜひ、お願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第4.5回 畝傍 ついに日本に回航

幻の防護巡洋艦「畝傍」-Unebi :protected cruiser-

ついに「畝傍」が、本日(2018.10.13)、水雷艇2隻と日本に回航されてきた。

今回は少し息抜き。

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水雷艇「小鷹」「白鷹」とともに、ようやく日本へ到着。

畝傍 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 

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f:id:fw688i:20181013214745j:plainすでに記載したように、日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦を英仏2国に発注した。イギリスに発注された2隻が、浪速級防護巡洋艦「浪速」「高千穂」、一方、フランスに発注された1隻が「畝傍」であった。

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮する艦である。

同時期に発注されたにも関わらず、「浪速」級とは、上の写真のように、全く異なる艦容を示している。「浪速」に同等なスペックを持ち最新式の防護巡洋艦であるはずなのだが、その外観は、流麗でやや古めかしい三檣バーク形式である。その喪失については、未だに謎のままである。

浪速級と比較すると、やや低めの乾舷と、舷側の4箇所の砲座に搭載された24センチの主砲が、ややバランスの悪さを感じさせる。フランス艦には時に復元性能に問題がある場合があり、回航途上に暴風雨などに遭遇しその弱点が瞬時の転覆など、もたらしたかもしれない。

しかしその流麗な艦容で高速を発揮し敵に肉薄する姿など、期待を持たせる外観である。

 

西京丸 に似た船(その2)

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西京丸ではないので、ご注意を。しかし艦首部がもう少し垂直であれば、ほぼ、西京丸。

 

次回は、いよいよ日本海海戦、つまり近代戦艦・装甲巡洋艦の終焉。

模型についてのご質問をお待ちしています。

 

第7回 黄海海戦と蔚山沖海戦;近代戦艦・装甲巡洋艦の時代

黄海海戦 −ロシア旅順艦隊

ウィトゲフトが出撃する。

旗艦ツェザレヴィッチ以下、旅順にいた6隻の戦艦全てを率いている。他には3隻の防護巡洋艦を含み、損傷で動けない艦を除くと、ほぼ旅順の艦隊全てを率いての出撃、と言っていい。

こと戦艦の数だけで言えば、5月に「初瀬」「八島」を触雷で失い4隻しか戦艦を持たない日本艦隊を、圧倒していた。

日本艦隊としては、6隻と、これも数だけで言えば旅順艦隊を圧倒している装甲巡洋艦に期待を寄せたいところだったが、そのうち4隻は、日本海で通商破壊戦に戦果を挙げ、その神出鬼没で日本を悩ませ続けていたロシア・ウラジオストック艦隊(装甲巡洋艦3隻から編成)の対応に奔走させられ、この千載一遇の決戦場には参加できなかった。

が、旅順艦隊の早期の無力化を喫緊の主題とする日本艦隊にすれば、この出撃を看過するわけには行かず、戦艦4隻にウラジオストック艦隊対応に当たらない装甲巡洋艦2隻、これに開戦直前アルゼンチン海軍から購入し、ようやく日本に回航されたばかりの装甲巡洋艦2隻を加えた戦力で、これを迎えた。

一方、ウィトゲフトの主題は、あくまで決戦ではなく、ウラジオストックへの移動であった。

既に前回触れたことだが、本国から強力な新鋭戦艦で構成されたバルティック艦隊が極東に送られてくる。現在の時点ですら、ウィトゲフトの艦隊は戦艦の数で日本艦隊を上回っている。ウィトゲフトとしては、その本国艦隊の到着まで現在の彼の艦隊を保持し、回航される新艦隊に合流する事が課せられた任務であり、それを達成することで、ロシアは勝利を確実にできるはずであった。

しかしながら、これも前稿に触れたように、旅順要塞にはそれに拠って艦隊を維持するには、いくつかの不具合があった。その主なものは、修理施設の不足と、要塞域の不備である。その為、ウィトゲフトが艦隊保持の目的を達成するためには、ウラジオストックへの移動を実施することが必須となった。

この為、1904年8月10日、ウィトゲフトはその艦隊を率いて旅順を発した。

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旗艦はツェザレヴィッチ、これにレトヴィザン、ポペーダ、ペレスウェート、セヴァストポリ、ポルタワの順で6隻の戦艦が出港し、これに太平洋艦隊の3隻の防護巡洋艦が続いた。堂々たる威容である。

 

ツェサレーヴィチ (戦艦) - Wikipedia   battleshipTsesarevich   (1903-1918)

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フランス ラ・セーヌ造船所製。日本の30センチ砲装備戦艦に対抗する目的で、仏・米二国に発注された2隻のうちの1隻。同型艦はない。フランス艦らしく、流麗なタンブルホーム型船体が特徴である。おそらく、ロシアの近代戦艦(前弩級戦艦)の最高峰であろう。続くバルティック艦隊の主力となるボロジノ級の原型となったが、ボロジノ級は種々の装備を付加した為、重量が増加し、かえって復原性などが本艦よりも劣る結果となった。

副砲を連装砲塔6基にまとめるなど、兵装にも新機軸が見られた。

13,100t  18.7ノット (92mm in 1:1250)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/レトヴィザン_(戦艦)  battleship_Retvizan

(1902-1923: 1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「肥前」)

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アメリカ、クランプ造船所製。日本の30センチ砲装備戦艦に対抗する目的で、仏・米二国に発注された2隻のうちの1隻。同型艦はない。アメリカ艦らしい堅牢な設計で、機関部の電化など、新機軸が取り入れられていた。

12,700t 17ノット (92mm in 1:1250)

 

ペレスヴェート級戦艦 - WikipediPeresvet-class_battleshipp 

ペレスヴェート(1901-1916 :1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「相模」)

ポペーダ(1902-1922 :1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「周防」)

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タンブルホーム型の船体など、フランス艦的な要素が色濃く窺えるが、ロシア国産の戦艦である。装甲巡洋艦の拡大的要素が強く、航洋性能と速度を重視し、武装と装甲を少し抑えた、後の巡洋戦艦の性格を持つ。その為、主砲は少し小さめの口径の25.4センチ連装砲を、前後の砲塔に収めている。二番艦オスリャービャは、太平洋艦隊に編入すべく、旅順回航中に日露開戦となったため、本国に引き返し、後にバルティック艦隊の一員として、日本を目指すことになる。(12,674t 18ノット)(104mm in 1:1250)

 

ペトロパブロフスク級戦艦 - Wikipedia Petropavlovsk-class_battleship 

ポルタワ(1900-1916 1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「丹後」)

セヴァストポリ(1900-1905)

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 日本海軍の「富士級」建造に刺激され、本国の造船所で建造され、旅順へ回航された。30センチ砲を連装砲塔に装備する、あるいは副砲を4基の連装砲塔とケースメイトに収めるなど、意欲的な設計であり、ロシアの造船技術の列強各国並みの成熟度を周囲に示した。

10,960t 16ノット (88mm in 1:1250)

3隻の同型艦のうち、ペトロパブロフスクは、名将マカロフの旗艦を務めたが、旅順口をめぐる一連の戦いの中で、触雷してマカロフとともに喪失された。

 

黄海海戦 –日本艦隊

「旅順艦隊動く」の報に接し、日本艦隊も出撃した。

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「初瀬」「八島」の2隻を失ったばかりの第一戦隊「三笠」「朝日」「敷島」「富士」、喪失した2戦艦に変わり編入された装甲巡洋艦「春日」「日進」、加えてウラジオストック艦隊の対応に当たっている第二戦隊から装甲巡洋艦「浅間」「八雲」の計8隻を主力として編成された艦隊を、連合艦隊司令長官東郷が自ら率いていた。ロシア艦隊同様、こちらも現地で展開できる戦力の全てを展開した。

 

三笠 (戦艦) - Wikipedia  battleships_Mikasa (1902-1923)

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イギリス ビッカース社製。敷島級戦艦の四番艦であり、いわゆる六六艦隊計画の最終艦である。日本海軍は六六艦隊計画の実行に当たり、世界に先駆けて搭載砲口径の統一を行った。そのため六六艦隊の戦艦は全て40口径30.5センチ砲、副砲は40口径15.2センチ速射砲で統一されている。「三笠」は、日露戦争を通じ、連合艦隊の旗艦を務めた。(15,140t 18ノット)(99mm in 1:1250)

 

朝日 (戦艦) - Wikipedia battleship Asahi(1900-1942)

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イギリス ジョン・ブラウン社製。敷島級戦艦の二番艦。(15,200t 18ノット)(99mm in 1:1250)

 

敷島 (戦艦) - Wikipedia  battleship Shikishima(1900-1945)

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イギリス テムズ鉄工造船所製。日本海軍で二番目の近代戦艦敷島級のネームシップである。本艦と3番艦の「初瀬」のみ、3本煙突である。日露戦争を通じて、日本主力艦隊の中軸を形成した。竣工当時は、世界最大、と言われた。(敷島級については、本稿の第六回にて既述)(14,850t 18ノット)(99mm in 1:1250)

 

富士 (戦艦) - Wikipedia  battleship Fuji(1897-1945)

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イギリス テムズ鉄工所製。日本最初の近代戦艦、富士級のネームシップである。日本海軍としては、初めて装甲砲塔に主砲を搭載するなど、当時の最新式の装備を満載していた。(富士級については、本稿の第五回にて既述)

(12,533t 18ノット)(96mm in 1:1250)

 

春日 (装甲巡洋艦) - Wikipedia   armored cruiser Kasuga(1904-1945)

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春日級装甲巡洋艦は、六六艦隊計画完成後に、既述のように、開戦直前にアルゼンチンから購入したイタリア製のジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦のうちの2隻である。六六艦隊計画では、搭載砲の口径統一が行われたが、六六艦隊計画間に属さない「春日」のみは、前部主砲に40口径25.4センチ砲を採用している。この砲は、連合艦隊の艦載砲の中で最も射程が長く、旅順要塞の要塞砲の射程外から港内に砲撃が可能であった。日本海軍は旅順沖で機雷により喪失した戦艦「初瀬」「八島」の代わりに、この春日級装甲巡洋艦を第一艦隊、第一戦隊に編入した。(7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250)

 

日進 (装甲巡洋艦) - Wikipediaarmored cruiser Nisshin(1904-1935)

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「春日」同様、開戦直前にアルゼンチンから購入されたイタリア製装甲巡洋艦である。「春日」と異なり、「日進」の主砲は、前・後部共に、45口径20.3センチ連装砲である。「春日」の項に記載した通り、本艦も「春日」と共に、第一戦隊(戦艦戦隊)に編入された。このため、主要な海戦においては敵艦隊の主軸艦からの砲撃を引き受けることになり、第一戦隊の他艦以上の苦労があった。(7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250)

 

浅間 (装甲巡洋艦) - Wikipediaarmored cruiser Asama(1899-1945)

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イギリス アームストロング社製。浅間級装甲巡洋艦ネームシップである。他の設計段階からの発注形式の艦と異なり、既製艦を購入したため、購入時は六六艦隊計画最終期でありながら、就役は最も早い艦となった。

武装は六六艦隊計画の基本通り、統一口径を採用しており、45口径20.3センチ連装砲を前後に、副砲として15.2センチ速射砲を装備している。 (9,700t 21.5ノット)(98mm in 1:1250)

 

八雲 (装甲巡洋艦) - Wikipedia   armored cruiser Jakumo(1900-1945)

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 六六艦隊計画の中で、唯一、ドイツに発注された。砲装備などは、六六艦隊計画に添い、45口径20.3センチ主砲、15.2センチ副砲で統一されているが、同じ3本煙突ながら、イギリス製の出雲級と比べ、やや重厚な艦容であるように思える。

(9,695t 20.5ノット)(99mm in 1:1250)

 

海戦経緯:史上初の近代戦艦同士の海戦

ほぼ同一規模のいずれも近代戦艦を主戦力とした艦隊が、史上初の海戦を行おうとしている。

が、両艦隊の目的は、全くと言っていいほど異なっていた。

繰り返しになるが、ロシア艦隊の旅順出港の目的は、艦隊温存のためのウラジオストックへの移動・脱出であった。

一方、日本艦隊のこの一戦での目的は艦隊決戦しかない。

旅順要塞という厚い甲羅の中で生き続けるだけで、旅順艦隊は日本を敗北させる可能性を、濃厚に持っている。これを封じ込め無力化、あるいは撃滅すべく、水雷夜襲、閉塞作戦、挑発と港外の誘導、と色々と手を繰り出してきたが、いずれも不調であった。一方で、要塞内に艦隊が存在する限り、海軍は満州への兵站確保への責任から警備の艦艇を出さねばならず、兵も艦もやがて疲弊し、来るべき艦隊決戦の際にその力を発揮できないかもしれない。現にウラジオストックのロシア装甲巡洋艦艦隊の出没に、兵站線の一部は脅かされ、第二艦隊はその対応に右往左往の状態であった。

そのような状況の打開に苦慮していた時に、旅順艦隊が自らようやく出てきた。この待ち望んだ機会を大切にし、この一戦で旅順艦隊を撃滅しなければ、戦争全体の敗北が決定するかもしれない、という危機感に基づいて、連合艦隊は行動した。

さらに、自らを上回る強力な戦力を持つロシア艦隊が、自軍同様に決戦を意図しない出撃をするとは、おそらく想像していなかったかもしれない。そのために実は逃走を意図する敵を前に、その旅順への帰途を絶とうとする艦隊運動を行なった。

当然、ロシア艦隊はこれを僥倖として、日本艦隊をかわしウラジオストックへの逃走運動を継続する。

戦場では、強力な戦力を有する艦隊が、劣勢な艦隊から逃げる、という、不思議な現象が生じている。退路を断とうとする艦隊運動のために、日本艦隊は後落し、両艦隊の距離が、一旦、開いてゆく。

日本艦隊にすれば、ようやくその出撃の真意が、ウラジオストックへの逃走にあることに気付いた時に、本当に苦しい戦いが始まったであろう。ウラジオストックにこの艦隊が逃げ込んだ瞬間、おそらく日本の敗北が決定するのである。

 

一方、逃走を目論むウィトゲフトにも事情がある。

6隻の彼の戦艦のうち、ペトロパブロフスク級の2隻、セヴァストポリとポルタワの石炭搭載量が少なく、すなわち航続距離が短いのである。旅順からウラジオストックまでの距離は約1000浬であった。実はロシアは、開戦前からこの二つの海軍拠点の距離を気にしていた節がある。開戦直前の日露間の交渉で、ロシアは朝鮮の北半分の中立化を提案し、ここにもう一つ中継地を作ろうと企図している。一方、上記のぺトロパブロフスク級の両戦艦の航続距離は10ノットの速度で3500浬で、これを14ノットの戦闘速力とした場合には、ウラジオストックに辿り着くのがやっと、という計算になる。そのため複雑な艦隊行動などは取れなかった。

この両艦は、既述のように本国、サンクトペテルブルクの造船所で建造された。航続距離への要求事項と、バルト海の奥に位置する造船所には関係があるように思われる。上記の航続距離は、バルト海をその行動領域と考える場合には、十分なものであろう。

さらに折悪しく、数日前の海軍陸戦重砲隊の砲撃で、二番艦のレトヴィザンの舷側に命中弾があり、応急処置を施した箇所周辺から12ノット以上の速力を出すと浸水が発生した。この事が旅順艦隊の逃走速度を決めた。

逃げる側も、機動と速力の選択の自由が狭められていた。

あるいは、ウィトゲフトは彼が率いる艦隊から上記の3隻を除くべきだったかもしれない。そうすれば、ウラジオストックでの戦力保持は部分的に実現出来た可能性が濃厚である。が、一方で、その場合には、本国艦隊と合流して圧倒的な戦力で決戦を行う、という目的に対し、彼は責任を負わねばならない。ウィトゲフトもまた、苦しい決断を迫られた上での出撃であった。

 

正午ごろに始まった追跡戦は、ようやく日没直前に終わりを告げる。日本艦隊はようやく追いつき、両艦隊は並走し、約6000メートルの距離で砲戦を開始した。いずれも常識として縦列先頭の艦、それぞれの旗艦、ツェザレヴィッチと三笠がねらわれた。

その砲戦で、ツェザレヴィッチの艦橋に2発の砲弾が命中し、ウィトゲフトの命を奪い、かつ旗艦の操舵能力を一時的に奪った。このため旗艦は左へ急回頭し、縦列がそれに続こうとして混乱した。旗艦の異変に気づき、ペレスヴェートに座乗する副将が隊列を立て直そうとしたが、日没が訪れ、ロシア艦隊はウラジオストックへの移動の意図を諦め、旅順へ帰投した。

 

東郷は、自ら率いる主力艦部隊も、多くが敵の砲撃で損傷し、かつ以降は夜戦となるため、不測の事態で主力艦艇にこれ以上の喪失が出ることを恐れた。このため、この帰投阻止を指揮下の水雷艇部隊に委ねたが、帰投を阻むことはできなかった。

結局、6隻の戦艦のうち5隻が旅順に帰投し、旗艦のみ、ドイツ領の膠州湾へ逃げ込み、そこで拘留、武装解除された。

 

結局、一隻の敵艦も撃沈できず、また要塞の修理施設の不備を知るよしもない連合艦隊は、これまで通りの消耗のつづく旅順警備活動を、陸軍による旅順要塞攻略まで、継続せねばならなかった。

 

その後の旅順艦隊

ツェザレヴィッチを除いて5隻の戦艦は、旅順に戻ったものの、その損傷を修復する能力は旅順にはなく、砲と兵員を陸揚げするなどして、要塞攻防戦を戦った。いずれの艦も、再び出撃する機会は訪れなかった。結果、旅順艦隊はこの一戦で、洋上兵力としての存在を失うことになった。

海戦後の、各主力艦のその後は以下の通りである。

ツェザレヴィッチ:黄海海戦後は、損傷のため戦艦の中で唯一旅順に戻れず、ドイツの租借地であった膠州湾に逃げ込み、戦争終結までドイツに拘留され、武装解除された。戦争終結後、ロシアに返還され、バルト艦隊所属となった。

レトヴィザン:海戦後旅順に戻り、陸上からの28センチ榴弾砲により大破着底。要塞降伏後、日本海軍によって引き上げられ、日本海軍に「肥前」として編入された。

ペレスヴェート、ポペーダ:両艦共、レトヴィザンと同様、旅順に戻ったのち日本軍の砲撃で大破着底。要塞陥落後、引き上げられ「相模」「周防」として日本海軍に編入されている。ペレスヴェートのみ、第一次大戦開戦後(1916)、ロシア海軍に買い戻され艦隊に編入された。

ポルタワ:海戦後損傷し旅順に戻った。その後、ポルタワはレトヴィザン等と同様、日本軍の砲撃で大破着底。要塞陥落後、引き上げられ日本海軍に戦艦「丹後」として編入されている。

セヴァストポリセヴァストポリのみは、28センチ榴弾砲の死角にあったため、射撃による損害は免れたものの、遂には水雷攻撃で損傷する。損傷はありながらも旅順艦隊の戦艦の中で最後まで健在で、旅順開城の日に日本軍による接収を避けるために、湾外まで移動して自沈した。

 

黄海海戦の残したもの

期せずして、この戦いは近代戦艦を中心とした艦隊同士の、史上初の海戦となった。

海戦の戦訓は、イギリスで、あの革命的な戦艦を誕生させる基礎となる。

黄海海戦では、距離約 6000メートルでの本格的な砲戦になる前に、すでに10000メートル以上の距離から砲戦が始まっていた。また射撃法の視点でも、日本海軍では六六艦隊計画による同一口径砲の導入と、それまでの独立打ち方から、艦橋から一元的に距離と方位を指示するという「斉射」に近い射撃方法に変更していた。

イギリスでは、砲戦距離のさらなる伸長を予測した場合、多数の同一口径砲が同一のデータを元にした照準で同時に弾丸を発射し、着弾の水柱を見ながら照準を修正してゆく『斉射』の有効性が認識され、この思想が、第一海軍卿に就任したジョン・アーバスノット・フィッシャー提督により、『長距離砲戦に圧倒的に優位な』戦艦「ドレッドノート」として具現化されてゆくことになる。ちなみに黄海海戦は1904年8月10日に起こり、ドレッドノートの起工は1905年10月2日である。

ドレッドノート (戦艦) - Wikipedia  battleship Dreadnought (1906-1919)

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(18,110t  21knot) (126mm in 1:1250)

ドレッドノートについては、また詳述する機会もあるかと思うが、あまりに著名な戦艦であるため、ここでも軽く紹介しておく。(下の写真は、「三笠」との比較/ 三笠:15,140t 18 knot)(99mm in 1:1250)

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蔚山沖海戦

既述の通り、ウラジオストックを拠点とするロシア太平洋艦隊の3隻の装甲巡洋艦は、日本海で通商破壊戦を展開し、大きな成果を収めていた。

この阻止に当たったのが、日本海軍第二艦隊、第二戦隊の六六艦隊計画で揃えられた装甲巡洋艦群であった。しかしながら、第二戦隊は、神出鬼没のウラジオストック艦隊を捕捉できず、翻弄され続け、その損害に、世論は第二戦隊とそれを率いる司令官上村中将を責めた。

蔚山沖海戦は、黄海海戦の旅順戦艦部隊のウラジオストック移動を支援することを目的として出撃したウラジオストック艦隊と、この第二戦隊の間で行われた。

いずれも、装甲巡洋艦を中心とした艦隊であったが、装甲巡洋艦の名称こそ同じながら、その設計目的が異なる系譜に属する 艦隊同士の戦いであった。

上記のように黄海海戦が史上初のほぼ同等の近代戦艦同士の砲戦であったのに対し、ここではやや設計世代と設計思想の異なる装甲巡洋艦同士の戦いが発生した。

 

ロシア・ウラジオストック艦隊

グロモボーイ (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Gromoboi(1900-1922)

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 (12,359t 20ノット)(118mm in 1:1250)

Russian cruiser Rossia - Wikipedia(1896-1922)

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 (12,195t 19ノット)(118mm in 1:1250)

リューリク (装甲巡洋艦・初代) - Wikipedia  armored cruiser Rurik(1895-1904)

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 (11,960t 18ノット)(105mm in 1:1250)

この3隻の登場は、航洋性と重武装・重装甲は両立しないとされてきた常識を覆した、という意味で非常に重要な系譜に属する艦である。前述の繰り返しになるが、巡洋艦の重要な任務に通商破壊がある。このためには航洋性能と、航続距離、速力が必要となるが、この目的には、防護巡洋艦が最適とされ量産された。

防護巡洋艦は艦内に貼られた防護甲板で機関部等重要設備を防護する構造で、舷側装甲を持たない。この防護巡洋艦の系譜に、十分な舷側装甲を持たせるという命題に挑戦した一つの解、がこの系譜であると言って良いであろう。

このシリーズの登場により、特に仏・英では、巡洋艦設計の見直しが行われた。

いずれも、11,000tから12,000tを超える巨体に強力な機関を有し(あるいは、強力な機関を搭載するが故に巨体になった、というべきか)、18から20ノットの速力を出した。20センチ級の主砲4門と、多数の15センチ級の砲を、舷側に装備した。航続距離は10ノットの速力で6500から8000浬に及んだ。

 

日露開戦にあたっては、いずれも太平洋艦隊に所属し、旅順の戦艦部隊とは別に、ウラジオストックを拠点として、緒戦から主として日本海における通商破壊戦を展開し、大きな成果をあげた。

 

1904年8月10日、上記の黄海海戦にあたり、旅順の戦艦部隊のウラジオストックへの移動を支援する任務が、ウラジオストック艦隊に下命され、11日、イェッセン少将指揮のもと3隻の装甲巡洋艦は出撃した。黄海海戦は、すでに10日中には決着がついており、実はこの出撃は本来の目的から見れば既に無意味と言えるのだが、当時の通報事情では、これを知ることはできなかった。

 

日本艦隊との遭遇

 旅順戦艦部隊との会合を求めて、ウラジオストック艦隊は南下を続けた。これに黄海海戦後に旅順に戻らなかったとみられる巡洋艦の捜索を行っていた、上村中将の率いる第二戦隊が遭遇した。

出雲型装甲巡洋艦 - Wikipedia  armored cruiser Izumo class

出雲(1900-1945)

磐手(1901-1945)

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(9,750t 20.3knot)(100mm in 1:1250)

いずれもイギリス アームストロング社製。六六艦隊計画に沿って建造された艦で、この6隻は、全て45口径20.3センチ連装砲を2基を主砲とし、40口径15.2センチ速射砲を副砲としていた。

 

常磐 (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Tokiwa(1899-1945)

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(9,700t 21.5knot)(98mm in 1:1250)

六六艦隊計画に沿って建造された浅間級装甲巡洋艦の二番艦。イギリス アームストロング社製である。兵装等の装備は他艦と同様である。

 

吾妻 (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Azuma(1900-1945)

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 (9,326t 20knot)(106mm in 1:1250)

六六艦隊の中で唯一フランスで生まれた艦である。兵装等は他の装甲巡洋艦と統一されていた。

 

日本艦隊を構成する4隻の装甲巡洋艦は、全て同一の兵装とほぼ同じ速度を持ち、一単位として行動することを前提として設計されていた。いわば、主力戦艦部隊を支援する「ミニ戦艦」として艦隊決戦に参加する事を前提に建造された「戦闘艦艇」であったと言っていい。同一口径で兵装を統一できたが故に、射撃法も遠距離での命中率を高めるような、後の「斉射」に近いような方法が工夫されていた。

以前にも「防護巡洋艦」の説明の際に触れたことがあるが、日本海軍は、列強海軍と異なり、「通商破壊」についての理解が浅い。これはおそらく遠隔地に植民地を持たない、つまり守るべき長大な通商路を持たないことと、そもそもその国家、海軍の成立過程で、外圧の排除に重心が大きく偏っていたことによると思われるが、このことは特に巡洋艦の設計には色濃く影響を与えている。列強が巡洋艦の主要任務として通商破壊、もしくは通商路の確保を大きく取り上げ、したがって、航続力、長期の居住性を含んだ航洋性能を重視するのに対し、日本海軍は、常に艦隊決戦を意識する。

時代が下って、条約型重巡洋艦の時代、日本は「足柄級」を就役させるが、英海軍の同時代の「ケント級」と比較され「飢えた狼」と表現された。日本人はこれを戦闘力への高い評価と受け取ったが、同時に居住性の欠如への揶揄を含んでいたという。これもまた、巡洋艦の設計思想の違いを示す好例であると考える。

 

この海戦は、そのように通商破壊任務を主目的とする航洋型軍艦の発展形として、重防御と重兵装を持たせた「装甲巡洋艦」と、戦艦と同様の艦隊決戦を目的とし、航洋性を兼ね備えた「ミニ戦艦・補助戦艦」としての「装甲巡洋艦」の対決であった。

 

両者は8月14日、ほぼ同時に相手を発見する。

ロシア巡洋艦隊は、通商破壊艦の習いとして、有力な敵からの離脱を一旦試みるが、これまで、この捕捉のために苦杯を舐め続けてきた上村の巡洋艦隊がこの機会に食らいついた。

砲戦は主砲を砲塔に装備した日本艦隊が全主砲を敵に指向できるのに対し、主砲を舷側装備するロシア巡洋艦隊は、その半分しか主砲を日本艦隊に指向できなかった。射撃法の差異もその命中率に現れ、砲戦の結果、リューリクが失われ、ロシアとグロモボイが主にその上部構造を破壊され戦闘に支障をきたし、海戦二日後にウラジオストックに帰還した。

その後、両艦は損傷を修復したが、以後、活発な出撃は行わなかった。

 

以降、いわゆる上記の「ロシア型」の装甲巡洋艦は影を潜めるが、その潜在ニーズがなくなったわけではなく、やがて重巡洋艦軽巡洋艦として、再び姿を表してくる。一方「日本型」の装甲巡洋艦は、戦闘力、すなわち主砲口径の拡大の方向へ 発展を遂げる。そしてこの方向は、ドレッドノートの時代における巡洋戦艦へと結実し、いずれにせよまもなく装甲巡洋艦の時代は終わりを告げる。

 

 黄海海戦蔚山沖海戦を見てきたが、こうして改めて整理すると、特に黄海海戦は、その一見地味な、おそらく作戦当事者としては不本意な戦果とは裏腹に、日露戦争の帰趨を決定した重要な海戦だったと言える。日本海軍は誠に残念ながら気がつくことはなかったが、この海戦の結果、ロシア太平洋艦隊は戦力としては消えてしまった。

この艦隊と合流することを前提に大回航されるバルティック艦隊は、その目的と勝利への論理を失ってしまった。冷静に考えれば、極東への回航そのものを中止すべきであった。

が、彼らはやってくる。

 

併せて、主力艦開発が次の段階に移行したことも、本稿で明確になった。

1894年日清戦争、1904年日露戦争、そして1914年第一次世界大戦開戦。近代戦艦、装甲巡洋艦の時代が終わり、弩級艦、弩級巡洋戦艦の時代が始まろうとしている。

 

次回は日本海海戦を簡単に。

 

模型についての質問はお気軽にどうぞ。あるいは質問をするにせよ、情報が十分でない、「こういう情報が欲しい」などのご意見も、ぜひ、お願いします。

第6回 日露開戦 旅順口を巡る戦い

日露間に戦端が開かれた。

同時に、日本海軍は、旅順にあるロシア太平洋艦隊に対し、攻撃を開始した。

当時の日本海軍は六六艦隊計画を完成させ、すなわち戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹に艦隊を構成していた。

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6隻の戦艦(三笠:左上、朝日:右上、敷島級の2隻:敷島、初瀬 左右中段、富士級の2隻:富士、八島 左右下段)

f:id:fw688i:20180924120229j:plain6隻の装甲巡洋艦(八雲:左上、吾妻:右上、出雲級の2隻:出雲、磐手 左右中段、浅間級の2隻:浅間、常磐 左右下段)

 

一方、ロシア海軍は、旅順、ウラジオストックという二大拠点に、戦艦7隻、装甲巡洋艦4隻を主力として展開し、これを「太平洋艦隊」と呼称した。このうち、戦艦7隻は全て旅順にあった。

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ロシア太平洋艦隊の7隻の戦艦(ツェザレヴィッチ:左上、レトヴィザン:左中、ペトロパブロフスク級:ペトロパブロフスク、セヴァストポリ、ポルタワ 左下、右3段目、右下、ペレスヴェート級:ぺレスヴェート、ポペーダ 右上、右2段目)

f:id:fw688i:20180924122141j:plainウラジオストック艦隊の3隻の装甲巡洋艦(グロモボイ:上段、ロシア:左下、リューリック:右下)

 

水雷夜襲と湾口閉塞

旅順は朝鮮半島の西隣、遼東半島の先端に位置している。日清戦争後の下関条約で、遼東半島は日本に割譲された。が、三国干渉により日本の領有権を放棄させたロシアは、露清密約により、満洲での鉄道敷設とその管理権、さらに遼東半島の租借権を得て、事実上、満洲をその勢力下に置くことに成功した。半島先端の旅順、大連はいずれも、ロシア念願の不凍港であり、ここに巨大な艦隊をおくとともに、それを守るべき近代的な要塞を築いた。

日露開戦に当たり、満州南部を予定戦場と想定する日本にとって、遼東半島への補給線の確保はその兵站上、必須であり、そこにほぼ日本海軍に匹敵する規模の主力艦を有する艦隊が基地を置いていることは、それだけで重大な脅威であった。ただでさえ貧しい兵站に、時間と労力のかかる迂回路を設けなどすれば、満洲に展開する陸軍主力はいずれ干上がってしまう。海軍も、その艦隊の出撃を警戒し、常に洋上にその主力を待機させねばならず、兵員も艦も疲労し、遂には肝心の決戦時に本来の力が発揮できない恐れがあった。

この為、旅順の艦隊への対応は急務であり、日本海軍は開戦劈頭、これに水雷夜襲と湾口閉塞、という二方向の作戦で挑んだ。

 

水雷夜襲は、駆逐艦水雷艇をこの実施に当てた。

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 写真は当時の駆逐艦「白雲 」である。(52mm in 1:1250) 

イギリス、ソニークロフト社製、322トン、7.6センチ砲✖️1、5.7センチ砲✖️5、魚雷発射管✖️2、31ノットという当時としては標準的な装備である。「白雲」は旅順口への第一次攻撃に、第一駆逐隊の司令艦として参加している。

白雲型駆逐艦 - Wikipedia(Shirakumo class: destroyer)

 

 

水雷夜襲には、多くの水雷艇も参加した。水雷艇は、駆逐艦よりも小さく50t-150t程度の艦体を持ち、砲1-3門と魚雷発射管1-3門を装備している。右下段に、戦艦三笠、駆逐艦白雲、水雷艇の大きさを比較した。写真は比較的大型の水雷艇で、多くはもう少し小さい。

この時期の魚雷は、決して信頼性の高い兵器ではなかった。その多くは圧搾空気でスクリューを回す構造で、射程距離は最長でも3000メートル程度だった。戦闘で軍艦を標的に用いるには、300-500メートル程度に接近する必要があった。

水雷夜襲は、駆逐艦水雷艇が、その高速を活かし、夜陰に紛れ、旅順港に飛び込み、停泊中の敵艦に肉迫し魚雷を放つ、というものだったが、初回こそ奇襲となった為、数発の命中を得たが、その後は当然ながら要塞側の警戒も強化され、目立った戦果を挙げる事ができなかった。

 

一方で、湾口の閉塞作戦も並行して進められた。旅順港は外港と内港の間に狭い通路がある。ロシア艦隊は主として内港に停泊した為、この通路を塞ぎ、ロシア艦隊を封じ込めて無力化しよう、というのがこの作戦の狙いであった。この閉塞に当たって、1898年の米西戦争でのサンチャゴ湾封鎖作戦が先例として取り上げられた。

 

閉塞作戦の先例:サンチャゴ湾閉塞作戦(米西戦争:1898)

米西戦争でのサンチャゴ湾封鎖作戦では、要塞に防護されたサンチャゴ湾に入港した装甲巡洋艦4隻を基幹とするスペイン大西洋艦隊を、アメリカ大西洋艦隊が、湾口に古い汽船を沈めて閉じ込めようとした。しかし、この閉塞船の侵入に気づいた要塞からの砲撃で、予定通りの位置には汽船を沈めることができず、結局、閉塞作戦は失敗した。

軍事技術、戦術は戦争の都度、大きく変化、発達する。そのため、どの戦争にも多くの観戦武官が派遣され、技術、戦術を研究した。米西戦争もその例外ではなく、各国は武官を競って戦場に送り込んだ。日本海軍は折からアメリカ留学中の秋山真之ら、数名を派遣した。

 

以降は、本稿からは全くの余談になるが、その後、脱出を試みたスペイン艦隊を、閉鎖警備中のアメリカ艦隊が捕捉し、装甲巡洋艦4隻は全て失われるという海戦が発生する。紹介できる模型もあるので、おそれず少し寄り道をしよう。

サンチャゴ・デ・キューバ海戦 - Wikipedia

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写真は、スペインの装甲巡洋艦「インファンタ・マリア・テレジア」(Armored Croiseur Infanta Maria Teresa class)である。スペイン初の国産装甲巡洋艦で、サンチャゴ湾に入港した大西洋艦隊主力の4隻の装甲巡洋艦のうち3隻が同級であった。28センチを前後に単装露砲塔に装備し、6890t、20ノットを発揮した。(「インファンタ・マリア・テレジア」「ビスカヤ」「アルミランテ・オケンドー」)(84mm in 1:1250)

インファンタ・マリア・テレサ級装甲巡洋艦 - Wikipedia(infanta Maria Teresia class :armored cruiser)

 

 

もう一隻は「クリストバール・コロン(Cristóbal Colón)である。イタリア製の装甲巡洋艦で、ジュゼッペ・ガリバルディ級の1隻を建造中に取得したものである。同じく日本海軍がアルゼンチンから購入した「日進」「春日」とは準同型艦にあたる。

**写真は日本海軍の装甲巡洋艦「春日」である。日本の装甲巡洋艦は20センチ連装砲を艦の前後にその主砲として装備する事を標準としたが、「春日」のみ、前部の主砲を25.4センチ単装砲とした。「クリストバール・コロン」は24センチ単装砲を、その主砲として前後に装備した。(春日:89mm in 1:1250)

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クリストーバル・コロン (装甲巡洋艦) - Wikipedia

 

これに対するアメリカ海軍は、以下の艦で構成されていた。

テキサス (1892) - Wikipedia

インディアナ級戦艦 - Wikipedia の2隻「インディアナ」「オレゴン」(83mm in 1:1250)

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アメリカ海軍初の近代戦艦。乾舷が低く、外洋での運用には少し難があった。(同型艦3)

アイオワ (BB-4) - Wikipedia (85mm in 1:1250)

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艦首側の乾舷を一段上げ、インディアナ級の外洋での凌波性を改善した。(同型艦はない)

ブルックリン (装甲巡洋艦) - Wikipedia (99mm in 1:1250)

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9000トン、20ノット。20センチ連装砲を4基装備し、片舷に6門の主砲を指向できた。(同型艦はない)

「テキサス」を除けば、比較的艦齢の若い船が多かった。

 

スペイン艦隊は戦力の劣勢は否めないとしながらも、アメリカ艦隊が戦艦中心で、先頭の旗艦「インファンタ・マリア・テレジア」が損害を引き受けている間に、他の艦は優速を利用すれば、追求できる艦は「ブルックリン」のみとなる為、逃げ切る可能性がある、として脱出に踏み切った。

しかし、射撃法も含めた砲力の差は埋めがたく、装甲巡洋艦全艦が失われた。

 

さらに余談を続けると、秋山のこのアメリカ留学の成果として兵棋演習の導入があると言われている。

兵棋演習とは、例えば海軍の場合は、大きな予定戦場を模した海図の上に、それぞれの艦隊、保有艦を並べ、起こるべき戦闘を想定するもので、そこでは実際の軍艦の持つ速力、砲の威力が再現され、演習に参加するものは、それぞれの艦の運動、戦闘を指揮する。

ここで用いられた駒が、今、紹介している艦船模型の原点と言えるであろう。

 

再び、旅順口の攻防

旅順口での戦闘に話を戻す。

旅順口でも、日本海軍はサンチャゴ閉塞作戦に習い、古い汽船を水路に沈めることを目論んだ。これも夜陰に乗じるとはいえ、要塞砲台のいわば真下での作戦であり、数次にわたる試みにも関わらず、結果的には成功しなかった。

1度目の閉塞作戦(1904/2/18)ののち、太平洋艦隊司令長官にマカロフ提督が着任する。(1904/3/6) 

マカロフはその当時、世界的な名将として知られており、彼の着任はロシア艦隊の士気を高めた。以降、旅順口への日本艦隊の攻撃に対し、ロシア艦隊は積極的な反撃運動を行うようになる。時にマカロフ自身が艦隊を率いて、旅順港沖合の日本艦隊を追い払う事もあり、その積極性は、水兵たちに人気があった。

3月27日に実施された第二回閉塞作戦の失敗ののち(広瀬武夫中佐はこの作戦で戦死した)、日本海軍は、この積極的に反応するロシア艦隊の変化を利用する作戦を旅順口作戦に盛り込んだ。秘密裡に湾外に機雷を敷設するとともに、湾外を行動する小艦隊による挑発を実施し、積極反応するようになったロシア艦隊の主力を港外に誘導し、それを日本艦隊主力が捕捉する、という作戦である。

 

そして、ロシア艦隊にとっては運命の4月13日、4隻の防護巡洋艦を基幹に編成された日本の第3戦隊の挑発に、マカロフ自らが旗艦ペトロパブロフスク以下、戦艦2、巡洋艦3を率いて出撃した。出撃後、待ち受ける日本主力艦隊を認めたマカロフは、追撃を中止し、旅順へ戻るコースを取った。

その帰途、数日前から並行して敷設されていた機雷に旗艦「ペトロパブロフスク」、および戦艦「ポペーダ」が触雷、旗艦は轟沈しマカロフも艦と運命を共にした。

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ペトロパブロフスク級戦艦 - Wikipedia

写真はペトロパブロフスク級戦艦。日本海軍が30センチ砲装備の富士級戦艦を建造中との情報に刺激され、3隻がサンクトペテルブルクで建造された。3隻、すべて旅順の太平洋艦隊に配備された。ロシア海軍初のいわゆる近代戦艦で、列強の水準を満たし、ロシアの造船技術の高さを示した。(97mm in 1:1250)

 

マカロフの戦死後、ロシア艦隊は積極的な反撃を行わなくなる。

一方で、マカロフの後任であるウィトゲフト少将も機雷作戦の展開を指示、旅順口の日本の監視艦隊の航路に機雷を敷設する。

 

そして今度は日本海軍にとって、災厄の5 月15日、哨戒任務中の戦艦「初瀬」「八島」の2隻がほぼ同時に触雷、瞬時に日本艦隊はその主力艦の三分の一を失った。

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初瀬 (戦艦) - Wikipedia (Hatsuse: battle ship 1901-1905)

敷島級戦艦の3番艦。イギリス、アームストロング社エルジック造船所で建造された。前級の富士級に比べ、艦型は一回り大きくなり、就役当時は「世界最大の戦艦」と言われた。。敷島級4隻の中でも、本艦と「敷島」のみ、3本煙突である。富士級では、主砲装填には前後それぞれ中心線に砲塔を戻す必要があったが、本級からは、どの位置でも装填が可能な機構が採用され、射撃速度、照準に著しい改善を得た。(100mm in 1:1250)

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八島 (戦艦) - Wikipedia(Yashima: battle ship 1897-1904) (97mm in 1:1250)

富士級戦艦の2番艦。(富士級については第五回を参照されたい)

「初瀬」「八島」喪失の同日、同じく旅順沖を哨戒中の巡洋艦「吉野」が濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没した。まさに「魔の5月15日」であった。

 

開戦以来3ヶ月、日本海軍は旅順艦隊を旅順港外において撃滅する、あるいは旅順港に封じ込め事実上無力化する、という方針の下、作戦行動を行ってきたが、成果が上がらぬまま、日本がその国運を賭けて整備した六六艦隊の一角が崩れ、保有する戦艦は4隻となった。一方、ロシア太平洋艦隊は名将マカロフを失いながら、依然、6隻の戦艦を旅順に保有している。

併せて、陸軍は、当初その作戦構想には旅順要塞の攻略はなく、せいぜい封じ込めの兵力を配置する、という程度の対応が考慮されていた。海軍もその方針に異論はなく、艦隊さえ撃滅できれば、必ずしも要塞攻略は必須ではない、としていた。その背景には、日清戦争時の旅順要塞の攻略がわずか一日で完了した経験があり、もし必要になれば「多少手こずる」程度で攻略が完了する、という認識があったと思われる。が、開戦後、満洲に展開していたロシア陸軍の三分の一に当たる、約45,000の兵が要塞に立て籠もるという状況に、その認識を改めざるを得なくなった。

陸軍主力は、4月以降、満州に展開していたロシア軍と本格的な戦闘に入り、緒戦には予定通りの勝利を収めた。今後、満州を北上し次の会戦に臨むことになるが、その背後に想定以上の大きな兵力が不気味に残置されているのである。

一方、5月20日には、ロシアの本国艦隊(バルチック艦隊)を第二太平洋艦隊として、極東に回航することがほぼ決定された。この艦隊は、少なくとも新式の戦艦を5隻含み、これが旅順艦隊に合流した場合、日本海軍の勝利はおぼつかなくなる。陸軍は補給を脅かされ、満州で立ち枯れざるを得ないであろう。

ここにきて、旅順要塞攻略の必要性が浮上し、これを主任務とする第三軍を編成し、背後の脅威を取り除くことになった。第三軍は乃木希典を軍司令官とし、6月末までには、旅順要塞外縁に展開した。

これに伴い、8月には海軍陸戦重砲隊も旅順港内に向けて砲撃を開始し、停泊中の艦戦に損害を与えた。

以降、旅順要塞は第三軍に対し、それまで日本人が全く経験したことのないような出血を強いるのだが、それは本稿の主題ではない。

 

一方、ロシア側にもいくつかの事情があった。実は、旅順要塞は、いくつかの重大な課題を抱えていた。その多くは戦争への準備不足に起因するが、その背景には、「自分が望まない限り戦争にはならない」という皇帝ニコライ二世の言葉に代表されるような、「開戦への主導権はロシアが握っている」という認識があったと思われる。

その課題とは、まず、海軍基地でありながら、艦船修理施設が十分でなく、戦闘で重大な損傷を受けた場合には、旅順では対応できなかった。

また、上記の海軍重砲隊による射撃で艦船が損傷する、というようなことは、要塞に十分な領域が確保されていないことを意味していると考えざるを得ない。

これらが、要塞構築が未だ途上にあったことによるものか、或いは、兵器の発達への対応の遅れによるものか、定かではないが、いずれも、艦隊を常に完璧な状態で維持する海軍基地、およびそれを防御する硬い殻であるべき要塞としては、致命的な欠陥のように思える。さらに、この状況を認識しつつ、ここに最新式の艦隊をおいたとすれば、ロシアは、本当に戦争になるとは考えていなかったのではないかと思えてくる。平時、ここに強力な艦隊を置き周囲に陸軍を配置し示威すれば、周囲は萎縮しおおかたの要求を通すことができるであろう。足りないものを整備する機会はいくらでもある、そのような見通しの元に、旅順という地は扱われたのではなかろうか。

 

が、戦端は開かれてしまった。本国から強力な艦隊が、もうワンセット送られてくる。これを迎え入れ日本海軍を圧倒するためには、現有艦隊を本国艦隊到着まで温存することが得策であるが、現在の根拠地には、本来備えているべきそれを保証する能力がない。

 

いよいよロシア艦隊は、旅順を出ねばならない。

黄海海戦の戦機が熟そうとしている。

 

次回は黄海海戦

 

模型についての質問はお気軽に、どうぞ。

 

 

 

 

 

第5回 近代戦艦の導入「富士級」建造と六六艦隊計画、その周辺

初の近代的戦艦  富士級:Fuji class :battle ship (富士:1897-1945/八島:1897-1905)

少し時間をさかのぼることになるが、日清開戦が濃厚に予感される時期、当面の仮想敵である清国北洋艦隊は、ドイツ製の定遠級戦艦(甲鉄砲塔艦)2隻をその主力として就役させた。日本海軍は三景艦(松島・厳島・橋立)を建造し、これに対抗しようとしたが、いずれも装甲を持たない防護巡洋艦であり、劣勢は明らかであった。

この為、当時、イギリスで登場した本格的な航洋性を備えた近代戦艦の導入が計画された。しかしこの計画は、その急務であることは理解されながらも、数年の間、予算の問題から実現に至らなかった。ようやく1894年、勅命による宮廷費の削減、公務員の給与一部返納などの非常手段により、建造にこぎつけた。富士級の二隻は、そのようにして建造された。その無理にも関わらず、就役は、日清戦争後の1897年であった。f:id:fw688i:20180924001102j:plain

富士型戦艦 - Wikipedia

 

 富士級戦艦は、前述の通り、イギリスの「近代戦艦の始祖」と言われるロイヤル・ソブリン級戦艦を原型としている

ロイヤル・サブリン級戦艦 - Wikipedia

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ここで言う「近代戦艦」は、以下のような特徴を備えている。高い乾舷による凌波性により、大洋での航海に耐える船体に、30センチ級の主砲を連装砲塔2基に収めている(ロイヤル・ソブリン級では、主砲は30口径34.3センチ、それを連装にして露砲塔に収めていた)。船体は1万トン強、舷側に副砲を並べ、17−18ノットの速力を発揮する。これらを初めて実現したのが、原型となったイギリス戦艦「ロイヤル・ソブリン」(1892年就役)であった。以降、これらの要件はこの時期の「近代戦艦」のスタンダードとなった。1906年ドレッドノートの登場までのこの時期、世界の戦艦はほとんどがこの「近代戦艦」の系譜に属していたと言っていい。

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写真は、富士級とほぼ同時期の、ロイヤル・ソブリン級の改良型、イギリス戦艦マジェスティック級(1895-:15,900トン 17ノット)である。本級から、主砲は富士級と同じ40口径30.5センチ砲を、初めて採用した装甲砲塔に収めていた。(100mm in 1:1250)

マジェスティック級戦艦 - Wikipedia

 

富士級は、このマジェスティック級同様、そのファミリーの初期の一族、といえるだろう。

12,500トン、40口径30.5センチ砲の連装を2基の装甲砲塔に装備し、15.2センチ速射砲10門を副砲として舷側に配置、18ノット強を出すことができた。

但し、その連装砲塔には、装填時に首尾線正位置に戻す必要がある、という装填機構上の課題があった。(97mm in 1:1250)

f:id:fw688i:20180924120007j:image(富士と八島)

富士級2隻のうち、「八島」は、帝国海軍「魔の1904年5月15日」、旅順沖を哨戒中に僚艦戦艦「初瀬」と共に触雷して喪失されたが、「富士」は長命で、海防艦練習艦等を経て、最後は洋上校舎として太平洋戦争終戦の年、空襲で大破するまで現役にあり、戦後解体された。

 

下関講和条約、三国干渉、そして六六艦隊計画へ

日清戦争後の下関講和条約により、日本は遼東半島を得た。

繰り返しになるが、明治政府は、アヘン戦争以降の、清国での列強蚕食の惨状への危機感から成立した。その「惰弱」な清国を依然、宗主国として「無邪気」にその影響下にあり続ける朝鮮国に、隣の半島を委ねることにひりつく様な危うさを覚えた。

日清戦争は、そのように、日本の影響下での朝鮮の独立確保が主命題であったから、遼東半島の領有は、大躍進であると言えた。

にも関わらず、直後の独・仏・露による三国干渉(1895)で、この割譲は反故にされ、あろうことかその遼東半島はロシアの租借地となった。

言うまでもなくロシアは欧州列強の中で唯一、国境を極東に接している。つまり列強の中で即座に極東に陸兵を展開できる、唯一の国、ということである。日本の危機感からすれば、最もその進出を警戒すべき相手であるロシアが、そうした事態の出現を防ぐことが目的だったはずの日清戦争の結果、念願の不凍港と、南下の拠点を、朝鮮のすぐ隣に得ることになった。

当時の日本人は、自分たちの努力の結果現れたこの皮肉な事態に、呆れるばかりであったであろう。

 

上述のようにロシアの租借地遼東半島であったが、たちまち満洲を貫く鉄道を引き、鉄道警備の名目で大量の陸兵を駐屯させ、満洲全土をその影響下においた。同時にその先端の旅順港にヨーロッパ式の本格的な要塞を築きはじめ、ここをロシア太平洋艦隊の拠点とした。

折から、日本海軍は上記の経緯で、初の本格的近代戦艦「富士」「八島」を建造中であり、このことが ロシア太平洋艦隊編成を大いに刺激した。

その意図はどうあれ、負の連鎖が始まる時は、往々にしてこういう事かもしれない。

ロシアは、手始めに3隻のいわゆる「近代戦艦」をサンクトペテルブルクの造船所で就役させ、その全てを太平洋艦隊所属とし旅順に回航した。さらにフランス、アメリカに各1隻の「近代戦艦」を発注し、これを旅順艦隊に編入、さらに艦隊装甲艦と称する一種の「快速戦艦」3隻を本国で建造し、この3隻も太平洋艦隊に配置する予定であった。(「快速戦艦」のうち二番艦「オスリャービャ」は、旅順への回航途中に日露開戦となったため、途中で本国へ引き返している。後にバルティック艦隊の一隻として、極東を目指すことになる)

これら7隻の新式戦艦は、1899年から1903年の間に、旅順で就役することになる。

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ロシア太平洋艦隊の7隻の戦艦(ツェザレヴィッチ:左上、レトヴィザン:左中、ペトロパブロフスク級:ペトロパブロフスク、セヴァストポリ、ポルタワ 左下、右3段目、右下、ペレスヴェート級:ぺレスヴェート、ポペーダ 右上、右2段目)

 

さらにウラジオストックには、3隻の装甲巡洋艦を基幹とする 艦隊がある。

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ウラジオストック艦隊の3隻の装甲巡洋艦(グロモボイ:上段、ロシア:左下、リューリック:右下)

 

このロシアの大建艦計画に対応すべく日本海軍が立案した建艦計画が、「六六艦隊計画」である。

この計画は、それまで数隻の旧式艦を除き、舷側装甲を持たない防護巡洋艦以下の軍艦により編成されてきた海軍が、建造中の「富士」「八島」の2隻を含み、一気に6隻の「近代戦艦」と、それを補助するやはり6隻の「近代装甲巡洋艦」を持とうとするものだった。予算の観点から見れば、これらの艦艇の建造費だけで、1896年からの10年間の歳入の実に10%強を貪ってしまうという、当時の国力からすれば全く無謀と言ってもいい計画だった。

外圧への危機感から成立した明治という時代であるために、元来、軍事費の財政に占める比率は高い(日清開戦以前の10年間の軍事費率は24%)。とはいえ、さらに加えて、この計画も含め、ロシアの南下への備えとして、この時期、日清戦争終結後の1895年から日露開戦前年の1903年までの、歳入に占める軍事費は、実に44%にのぼった。

その是非はさておき、ともかくも、この時代の政府、海軍と国民は、この計画を日露開戦までに成し遂げた。

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6隻の戦艦(三笠:左上、朝日:右上、敷島級の2隻:敷島、初瀬 左右中段、富士級の2隻:富士、八島 左右下段)

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6隻の装甲巡洋艦(八雲:左上、吾妻:右上、出雲級の2隻:出雲、磐手 左右中段、浅間級の2隻:浅間、常磐 左右下段)

 

不幸なことに、いよいよ日露両国間に戦雲が満ちつつある。

ロシアは6個師団という兵力を満洲に展開し、艦隊はその南端の旅順に集結している。

 

次回は、日露開戦。

 

上記で示した歳入と軍事費、あるいは六六艦隊計画の予算に関わる数字は、以下を資料として、手元で概算したものです。あくまでご参考程度に。

明治から平成の歳入、歳出の年間推移

国|書院 統計資料 歴史統計 軍事費(第1期〜昭和20年)

六六艦隊計画 - Wikipedia

 

第4回 連合艦隊結成と黄海海戦(その2)第一遊撃隊、その他

f:id:fw688i:20180917162826j:image引き続き、黄海海戦時の連合艦隊、である。

第一遊撃隊は坪井航三少将を司令官とし、吉野、高千穂、秋津洲、浪速の4隻の防護巡洋艦で編成されていた。いずれも建艦年次の新しい当時の新鋭高速艦で、軽快に機動し、中口径砲の連射、速射砲の薙射で敵艦の上部構造を破壊することが期待された。f:id:fw688i:20180917161354j:imageいずれの艦も、15センチ砲、12センチ速射砲を主要兵装とし、18ノットから23ノットの高速を誇った。(主隊の松島級は16ノット、清国主力艦定遠級は14.5ノット)

 

防護巡洋艦には「始祖」と呼ばれる艦がある。黄海海戦における連合艦隊を主題とする本稿からは少しそれるが、恐れずに寄り道をしよう。

 

最初の防護巡洋艦エスメラルダ」-Esmeralda :protected cruiser: Izumi - (1884-1912: 1894、日本海軍に売却、以降、巡洋艦「和泉」)

前稿でも述べたが、防護巡洋艦とは、舷側装甲を持たず機関等の主要部を艦内に貼られた防護甲板で防御する構造を持つ。そのために艦は軽快で、限られた出力の機関からでも高速力を得ることが出来た。通商破壊、あるいはその防止を主要任務とする各国巡洋艦に最適な構造として、この時期、各国がこぞって採用した。

その嚆矢はチリ海軍の「エスメラルダ」であるとされている。

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和泉 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 「エスメラルダ」はイギリス・アームストロング社製。前述の様にチリ海軍によって発注された。(68mm in 1;:1250)

建造時には、3000トン弱の船体に、主要兵装として25.4センチ単装砲2門を主砲、他に15センチ砲6門を装備し、18ノットの速力を出すことが出来た。日清戦争中の1895年に日本に売却され、艦名を「和泉」とした。日本海軍に移籍後、主砲を15センチ速射砲に、その他を12センチ速射砲に換装するなどして、日露戦には、第三艦隊の序列に加わった。

本艦がアームストロング社エルジック造船所で建造されたところから、以降、同様の設計で建造された防護巡洋艦は、造船所の場所に関わらずエルジック・クルーザーと呼ばれた。日本海軍の防護巡洋艦は、フランスで生まれた松島型・千代田を除いて、すべてこの形式である。

黄海海戦における第一遊撃隊の各艦は、全てこのエルジック・クルーザーの系譜に属している。

 

浪速級防護巡洋艦 -Naniwa class :protected cruiser-(浪速:1886-1912 /高千穂:1886-1914)

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浪速型防護巡洋艦 - Wikipedia

日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦の建造を決定した。

そのうち、イギリスに発注された2隻が、浪速級防護巡洋艦であり、「浪速」「高千穂」と命名された。

設計にあたっては、当時、世界の注目を浴びた優秀艦「エスメラルダ」(前述)をタイプシップとして、防御甲板の増強による防御力の向上、主砲口径の拡大など、若干の改良が盛り込まれた。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する、日本海軍最初の艦である。

上記の改良により船体は大型化し3,700トンとなり、26センチ主砲2門、15センチ砲6門を主要兵装として備え、速力は18ノットを発揮することが出来た。(77mm in 1:1250)

日清開戦時の「浪速」の艦長が東郷平八郎であり、彼と「浪速」は、開戦劈頭の「高陞号事件」で名を挙げた。

日清戦争後、兵装を15.2センチ速射砲に換装し、日露戦争に望んだ。日露戦争では第二艦隊に所属、主力の装甲巡洋艦を補佐した。

 

ちなみに、明治16年の拡張計画の残りの1隻は、フランスに発注され、「畝傍」と命名された。前回「千代田」の項でも触れたが、「畝傍」は日本への回航途上で消息を絶ち、日本にたどり着くことはなかった。

 

秋津洲 Akitsushima :protected cruiser- (1894-1927)

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秋津洲 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 「秋津洲」は、巡洋艦のような大型艦としては、設計から建造まで初めて日本国内で行われた、記念すべき軍艦である。

3,150トン、19ノットの快速を発揮し、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門を装備した。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する。設計当初から巨砲を主砲とせず、当初から速射砲を装備した。他の防護巡洋艦の多くが、就役時に装備した主砲を、その後速射砲に換装していること考えると、まさに慧眼である。本艦以降、日本海軍の防護巡洋艦は、速射砲中心でその兵装を整えて行く。(80mm in 1:1250)

前回に触れたが、「秋津洲」の艦名自体は、エミール・ベルタン設計になる32センチの巨砲搭載艦、松島級巡洋艦の四番艦に予定されていた。しかしながら、松島級の設計の無理に気づいた海軍によって、松島級は三番艦までで打ち切られ、全く新しい設計の防護巡洋艦である本艦に、改めて与えられた。「秋津洲」とは、本来、日本列島の本州の古い呼称であり、「四景艦」に加えられるよりも、初の国産防護巡洋艦の名として、よりふさわしい、と考えるがいかがだろうか。

 

吉野 -Yoshino :protected cruiser - (1893-1905:吉野級防護巡洋艦 同型艦:髙砂/1898-1904)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野型防護巡洋艦

明治24年度計画で、イギリス・アームストロング社に発注された。建造は同社エルジック造船所で行われ、まさに本家のエルジック・クルーザーである。

その特徴は何をおいても23ノットという高速にあり、就役当時は世界最速巡洋艦、と言われた。4,200トンの船体に、「秋津洲」同様に兵装は全て速射砲で揃えた(15.2センチ速射砲4門・12センチ速射砲8門)。 (91mm in 1:1250)

黄海海戦にあたっては、第一遊撃隊の旗艦として、坪井少将が座乗した。

同型艦高砂日清戦争後に発注され、主砲口径を20.3センチにするなど、いくつかの改良点が見られる。

その後、「吉野」は日露戦争には、第3戦隊の一隻として参加したが、「魔の1904年5月15日」、封鎖中の旅順沖を哨戒中に濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没した。同日、機雷で戦艦「初瀬」「八島」を喪失し、日本海軍にとって災厄の1日となった。

同型艦高砂も、同年12月13日にやはり旅順閉鎖作戦中に触雷して失われた。

 

別働隊のこと、あるいは砲艦「赤城」-Akagi :gunboat-

黄海海戦については、前述の連合艦隊の主隊、遊撃隊以外に別働隊があった。

後世からは信じがたいことながら、海軍の全作戦を総覧すべき軍令部長樺山資紀中将が「督戦」と称して、日本郵船所有の「西京丸」(2,900トン 14 ノット)に、速射砲等数門を搭載し、急造の仮装巡洋艦としてこれに自ら乗り込み、戦場に臨んだ。軍令部長を裸で出すわけにもいかず、砲艦「赤城」を護衛としてつけ、小艦隊を編成した。

明治のこの時期、時代はこのような空気の中にある。

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赤城 (砲艦) - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/西京丸

砲艦「赤城」は摩耶級砲艦の4番艦である。造船技術の国内における成長期に当たったため、4隻は同型艦ながら、鉄製、鉄骨木皮、鋼製と、構造は異なっている。「赤城」は鋼製の船体で、660トン、12センチ砲4門搭載し10ノットを発揮する。(1890-1953)

 

この小艦隊は、軍令部長の「戦況視察」と言いながら、戦場の外にはとどまりきれず、一時は敵前孤立状態となった。開戦後の調査で「西京丸」は被弾12発を数え、護衛の「赤城」では戦闘中に、艦長、航海長戦死、というほどの損害を受けた。

 

上掲の写真に写っている「赤城」は別のレジンキットをベースにしたセミクラッチである。(35mm in 1:1250)

汽船の方は「西京丸」ではない。資料の「西京丸」の写真を見る限り似てもいない。今のところ「西京丸」の1:1250スケールのモデルは見当たらず、手持ちに似ている船も見当たらない。現在、1:1500スケールでの3Dモデルを供給しているカリフォルニアのメーカーに、1:1250へのスケールアップ(ダウン?)をリクエスト中であるが、「もうすぐやるから」という、軽いが快い返事をいただいている。

今回は、仕方なく「全長がほぼ同じであること、と、なんとなく、明治期の汽船の雰囲気がありそう」な船を代役として起用した。(残念ながら、Chios という船名のドイツ船、あるいはギリシア船籍の貨物船、という以上の情報が見当たらない。が、何と言っても姿がいいので、ご容赦願いたい)(80mm in 1:1250)

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おまけ:幻の防護巡洋艦「畝傍」-Unebi :protected cruiser-

もう一つ、代役つながりで、明治16年度計画の幻の防護巡洋艦「畝傍」について。

「畝傍」は、前述の様に「浪速」と同時期にフランスに発注された。「浪速」同様、最新式の防護巡洋艦、であるはずなのだが、その外観は、やや古めかしい三檣バーク形式の汽帆併用船である様に見える。

畝傍 (防護巡洋艦) - Wikipedia

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮する艦として、設計されている。ほぼ「浪速」に同等なスペックを持っている。

「畝傍」については、1:1250スケールでモデルが出ているが、残念ながら筆者は入手に至っていない。

http://www.klueser.eu/kit.php?index=3740&language=en

そこで、今回はロシア巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」(1882-1932)に代役を務めていただく。もちろん「畝傍」とは、煙突の数等、いくつかの相違点があるが、艦型等、雰囲気が伝われば幸いである。

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パーミャチ・メルクーリヤ (巡洋艦) - Wikipedia

(80mm in 1:1250)

 

さて、次回からは、いよいよ六六艦隊について話を進めて行こう。

 

***模型についての質問、はお気軽のどうぞ。

合わせて上記のChiosについての情報をお持ちの方は、是非、ご教示いただきたい。

 

 

第3回 連合艦隊結成と黄海海戦(その1)

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明治維新は、そもそもアヘン戦争に敗れた清国が列強の蚕食を受けることを間近にした危機感から始まったと言っていい。

当時の清国は確かに国家としての晩年期を迎えていた。体制は弾力を失い、民心を繫ぎ止めるには宮廷も官僚も、その腐敗が過ぎた。列強はこの支配階級の肥大した我欲に付け入り、「眠れる獅子」などと煽て、あるいは半ば本当に恐れながら、眠りを覚まさぬよう注意深く利益を貪り続けた。

維新により、ともかくも自存を保ち得たと自負する日本は、同様の危機感を持って隣の朝鮮をみた。朝鮮は大陸から日本に向けて南に垂れ下がった半島国家であり、その地続きの大陸は今や列強の草刈り場となろうとしている。そのまま列強の南下が進み、この半島に列強のいずれかが拠点を持てば、即、日本の自存が脅かされる。その、ひりつくような危機感に煽られ、日本は朝鮮に、半ば強引に派兵することによって、保護の手をさしのべた。

その、手前勝手で一方的な「好意」を、永く清国を宗主国と仰ぐ朝鮮王国は、当然のことながら好意としては受け取らず、清国に泣きついた。永く儒教国家として成熟した朝鮮には、同じ文化圏にありながら、全てをかなぐりすてる様にしてまでいち早く欧化を遂げた日本に対して、当然その危機感を理解できず、一種の侮蔑感もあったであろう。

この要請に清国は応え、こうして日清両国は、戦端を開くに至った。

 

日清開戦を迎え、日本海軍はそれまでの「常備艦隊」と「警備艦隊」の建制を改め、水上兵力を一元の指揮の下におく「連合艦隊」を編成した。初代連合艦隊司令長官には、常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将が就任した。

 

黄海海戦時の連合艦隊

日清両海軍の決戦場となった黄海海戦にあたり、前回に少し触れたが、当時アジア最大、最強を誇る「定遠」「鎮遠」の二大堅艦を中央に横陣をはった清国北洋艦隊に対し、日本海軍は「主隊」「遊撃隊」の二つに艦隊を単縦陣にわけて臨んだ。

「主隊」は、連合艦隊司令長官伊東祐亨中将が直卒し、旗艦松島以下、千代田、厳島、橋立、比叡、扶桑の六隻で編成された。

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このうち比叡と扶桑については、前稿で触れた通り明治海軍初期の主力艦であり、この海戦の時点では既に旧式艦であった。

 

千代田 -Chiyoda :protected cruiser-  (1891-1927)

残りの四隻のうち、「千代田」は、フランスに発注されながら、日本への回航途上で消息を絶った巡洋艦「畝傍」の保険金により調達されたといういわく付きの巡洋艦である。イギリスで建造され、舷側水線部に貼られた装甲帯を持つところから「日本海軍初の装甲巡洋艦」ともいわれることもあるが、2,500トン、主砲は持たず12センチ速射砲を舷側に10門装備した、正確には装甲帯巡洋艦、一般的には防護巡洋艦に分類されるであろう。(75mm in 1:1250)

19ノットの当時としては快速でありながら、重厚な連合艦隊主隊に組み込まれたため(おそらく、その装甲帯のため?)、その快速を発揮する機会は、黄海海戦においてはなかった。

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千代田 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 

三景艦:松島級防護巡洋艦 -Matsushima class :protected cruiser- 

(厳島:1891-1925/ 松島:1892-1908/ 橋立:1894-1925 

艦名が日本三景(松島、厳島、橋立)に寄るところから「三景艦」として名高い三艦である。

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フランスの造船家エミール・ベルタンの設計であることはつとに知られている。

清国の当時アジア最強を謳われた定遠級戦艦(砲塔装甲艦)「定遠」、「鎮遠」に対抗する艦として設計された。

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松島型防護巡洋艦 - Wikipedia

 

これらの艦の最大の特徴は、4,000トン強の小さな船体に巨大な38口径32センチ砲を主砲として一門搭載していることで、主砲自体の性能は、射程、口径、弾丸重量ともに、「定遠級」の主砲(20口径30センチ砲)を凌駕することができた。「厳島」と「橋立」はこの主砲を前向きの露砲塔に搭載し、「松島」は後ろ向きに搭載している。「アジア最強の戦艦を上回る強力艦を手に入れた」と国民の少年のような高ぶりが伝わってくるような気がして、ある種微笑ましい。

早速、連合艦隊も「松島」をその旗艦に据えた。(75mm in 1:1250)

 

防護巡洋艦である、と言うこと。あるいはその主砲

三景艦はいずれも舷側装甲を持たない、いわゆる防護巡洋艦である。

防護巡洋艦は、艦内に貼られた防護甲板により、艦の生命線である機関を防御する構造を持ち、舷側装甲を持たないが故に軽快で、限られた出力の機関から高速を得ることができる。また、日本海軍をおそらくほぼ唯一の例外として(日本海軍は、全ての艦種において、常に艦隊決戦をその主任務として意識した)、世界の列強海軍においては、巡洋艦に想定される最も重要な任務は通商破壊、あるいはその防止であり、長い航続距離、商船に対する優速性等を備えていることが期待された。そうした任務に向けては、防護巡洋艦は最適な艦種であったと言え、世界の海軍でこの時期、もてはやされた。

一方、松島級は、舷側装甲こそ持たないが、清国主力艦との決戦を想定し艦型の大きさに対し不相応と言っていい巨砲を搭載する、という宿命を背負って生まれた。そのため速力は16ノットに甘んじた。

それぞれ艦首尾方向に向けて搭載された32センチ主砲は、いずれも左右140度の旋回が可能である。主砲以外には舷側に12センチ速射砲を11-12(松島)門装備している。

この時代、中央で制御された砲撃術は未成立で、砲則照準の独立撃ち方が基本であり、したがって有効射程距離は2000−3000mであった。しかも前稿でも示したように巨砲の発射速度は1時間に2−3発で、従って余程のことがない限り当たらない。松島級の主砲では、発射速度は5分に1発程度と改善されているが、砲撃術が未成立である以上、長距離での命中は期待できないことに変わりはない。

例えば、これも前稿に記載したことの繰り返しになるが、清国主力艦の定遠級の設計思想は、基本全主砲を艦首方向に向け、敵艦に向けて突進し、艦首の衝角での打突と併せてほぼゼロ距離で発射し敵艦の腹部をえぐる、という巨砲によるアウトレンジを意識しない、ある種ボクシングのような戦法であった。

松島級が搭載した32センチ砲は、砲の性能上の射程距離が8,500メートルといわれているが、その距離での命中は、上記の射撃法の未発達の状況では偶然以外にはあり得なかった。松島級の本領は、本来の防護巡洋艦らしく優速を生かした機動性と、舷側の速射砲による敵艦上部構造物と乗組員の破壊にあったと言え、実際にそのように戦い、勝利した。

いま少し、主砲の話を続ける。

上記の通り、防護巡洋艦本来の戦い方として舷側速射砲を有効に機能させるには、同航戦か反航戦、あるいはT字戦を行わねばならない。いずれにせよ舷側を敵に向けねばならならない。その際に、主砲もまた射撃を行うとすれば砲身を舷側方向に向けねばならないが、実は松島級は、予算及び当時の日本の港湾施設の大型艦運用能力の不足からベルタンの提唱よりも小型艦にせざるを得ず、側方射撃の場合、そのこともあり設計時では想定されなかった、主砲の重量と射撃時の反動により、設計以上に艦の傾斜、進行方向、速度等に影響が出るなどの不都合が生じたとされている。

黄海海戦での約5時間の戦闘中、主砲発射数は三艦合計してわずか13発にすぎなかった。

 

筆者は、常々疑問に思っている。「厳島」「橋立」の前向きの主砲は、会敵時のアウトレンジでの発射など、命中は期待せねまでも、敵を牽制し行動を乱させるなど、一定の利用法があると考える。が、「松島」の主砲はどうだろう、と。反航戦でのすれ違い後の追い撃ち、あるいは強力な敵からの「離脱時」だろうか?

 

四景艦

実は松島級は、ベルタンの構想では4隻で1セットだったという。本来は「四景艦」だった。「松島」と同一設計の主砲を後ろ向きに搭載した艦がもう一隻計画されており、艦名は「秋津洲」が予定されてた、という。

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この計画は、主砲運用の課題に気づいた海軍により、三隻で打ち切りになり、これを告げられた際に、国内での3番艦、4番艦の建造に立ち会うために来日していたベルタンが、激怒して帰国してしまう、というおまけがついた。

四景艦として置いてみる。艦首向き主砲艦、艦尾向き主砲艦の組み合わせで、1セットだと言われている。やはり艦尾向きの主砲はどの様に用いるのだろうか。

 

 

それにしても、「三景艦」とは、なんと雅な命名であろうか。

その実効性はさておき、その「主砲」にこめられた無邪気とも言うべき国民の誇り、憧れ、期待もあわせて、その名と共にシルエットは美しい。

そして、この「一点豪華」に対する憧れは、日本の主力艦の系譜に脈々と受け継がれて行くように思うのだが、いかがだろうか?

 

次回は、黄海海戦の「遊撃隊」とその他。