相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

近代戦艦ミニ前史:A=H帝国海軍の場合

「空母機動部隊小史」を、多分「ピカード :シーズン2」が終わるまで(?)お休みします、と言う宣言をして、随分、気が楽になりました。どうも自分自身の好奇心がひとところに集中して止まれない、そういうことなんだなあ、と痛感する日々です(とはいえ、全く行き当たりばったりなので、突如「空母機動部隊小史」の一節を挟むかも。そこは何卒、ご容赦を)。

 

と言うわけで、今回は、以前、本稿でA=H帝国海軍の中央砲郭型装甲艦「テゲトフ」をご紹介した際に、19世紀後半から列強海軍が競って整備した近代戦艦(前弩級戦艦、といった方がわかりやすいでしょうか。明治期の日本海軍の本格的な艦艇整備はこの前弩級戦艦の登場の少し前から始まっています)の成立の前過程について少し触れたのですが、今回は新着モデルのご紹介も兼ねて、おさらいしてみたいと思っています。

本稿で紹介した「テゲトフ」の投稿はこちら。興味があれば(でも今回もほぼ同じことを紹介しますので、もしタイ海軍の小さな海防戦艦の話など興味があれば、まあ、覗いてみてください)

fw688i.hatenablog.com

今回はそう言うお話です。

 

・・・と言うことなのですが、本論のその前に、例によって。

スター・トレック ピカード  シーズン2」Episord 8

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(ネタバレの禁忌は大いに冒してしまったので、もう気にしません。ネタバレ、あります、きっと)

***(ネタバレ嫌な人の自己責任撤退ラインはここ:ネタバレ回避したい人は、次の青い大文字見出しに「engage!」)***

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Star Trek: Picard - Engage! - Episode 3 finale - YouTube

 

「起承転結」のまさに「転」の回、でしたね、と言っておきましょう。サイド・エピソードがどんどん放たれて、どれもがメイン・ストーリーに紐づいていることが明確に示され始めています。あの「Q」のエピソードですら(これは驚きでした。「Q」については、もう一回くらいは大転換がありそうな予感もしますが。このまま終わるはずがない、といつの間にか少し「Q]が好きになってきています。驚きです)。

あと2回で全て回収するとしたら、随分乱暴なことになるんじゃないかな、と心配(かなり)ではあるのですが、エピソード7で垣間見たピカード の内面世界とボーグ・クイーンとの対決を軸に集約されていくのでしょうか。「今回のシリーズでは「時間」が重要」まさにそういう話になってきました。

エレノアもちょっと出てきましたが、登場人物は話の展開の中でどんどん魅力的になっていくのは驚きです。

リオス艦長とテレサの話は切ないなあ。うまくいく方法があるのかな。

アダム・スン博士の葛藤がやがてデータという、スタートレックワールドにとって「軸」となるような登場人物を生み出すのか(実際は時間軸的には逆なのですが、それをわかった上で)と感慨深いものがあります(もうちょっと時間をかけて丁寧に、とも思いますが。これも絶対に大転換があるはず)。

そして何よりもやはりこのシリーズはボーグのお話だということが、改めて明らかに(そんなの最初からそうだったじゃないって?やっと筆者が理解できた、遅い!)。

これはボーグにとって二度目の(ファースト・コンタクトに続く)歴史改変への挑戦なのだ、ということがやっと理解できたり、だからこそ、この話(シーズン)がボーグがピカード を呼び出すところからスタートしているのか、と一人で頷いたり、ピカード はボーグの一員でありながら(あったからこそ?)天敵足りうるんだなあ、と今更ながら、ピカード がボーグに同化された出来事とその後の「ウルフ359の戦い」周辺は人類だけでなくボーグにとっても本当に重要な出来事だったんだなあ、と痛感してたりします。

ボーグ・クイーン(=ジュラティ)の行方を追う中で語られるセブンの記憶と、史上初のボーグ部隊の誕生のシーンを見て、何故、同化後のボーグがインプラントだらけなのかやっと納得がいきました(敵味方を分かりやすくするため(だけ)じゃなかったんですね)。

ラリスもタリン(オーラ・ブラディ)も、今回は出てこなかった(ちょっと残念!)。

などなど、例によって想いはつきませんが、今回はこの辺りで。

金曜日、楽しみ!

 

 

さて、ここからが今回のお題です。

近代戦艦誕生前史:A=H 帝国海軍の場合

このお話は「発達史への興味」というよりも、「模型事情」が大きく寄与して発生していると筆者は考えています。

つまりA=H (オーストリアハンガリー)帝国海軍は、みなさんご存知のように帝国自体が第一次世界大戦後解体されてしまったため、第一次世界大戦以降は存在しません。当然、海軍も存在せず、艦艇も然り、です。さらにA=H帝国がアドリア海にわずかな接続海面を持つ基本的に内陸国家であったため、それほど大きな海軍を持ちませんでした。このため模型もそのラインナップが筆者が重点を置いている「日本海軍の成立以降=近代海軍の成立以降」というテーマでは、大変、限定されている、という事情が大きく働いている、そういうことです。

翻ると、A=H帝国海軍に関心を持つ、ということは近代海軍以前に少し手を伸ばさねばならず(「ならない」、なんてことはないんですけどね)、その過程で近代戦艦(前弩級戦艦)以前の主力艦発達についていくつか模型を入手するうちに考える機会を得た、そのまとめを少々。今回はそういうお話です。

 

蒸気機関装甲艦の系譜

すでに本稿でもご紹介したことですが、繰り返しを恐れずに少し列強海軍の装甲艦の型式の発達をまとめておきます。

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(ナポレオン期の軍用帆船:上段が砲戦を主要な任務とする戦列艦:舷側に複数層の砲甲板を装備しています。後にいわゆる「戦艦」に発展します。写真の戦列艦は58mm(バウスプリット:船体の先端から突き出している前方に傾斜し突き出している棒を除いた船体の寸法です・下段は軽快な機動性を持つフリゲートスクーナー(左):後に「巡洋艦」等に発展します。写真のフリゲート(右)は48mm(バウスプリットを除く))

 

蒸気機関の発展に伴い艦艇の機動力が飛躍的に向上します。

風力では不可能だった重砲という重量物を装備して自由に動ける艦艇、という概念が艦艇の発達を飛躍的に加速化する「筋立て」の門を開いた訳です。重砲の搭載で、艦艇の攻撃力が増大します。しかし一方で、原則として破壊力の大きな重い砲弾を飛ばすには、その発砲衝撃に耐えうる重い火砲が必要で、火砲の大型化も加速されてゆく訳です。

艦砲の大型化は艦艇への搭載数に対する制約という新たな課題を生み出します。少数の強大な破壊力を持つ艦砲をどのように搭載するか、という命題が新たに発生するわけです。そしてこれは、強力な火砲から放たれる砲弾をいかにして目標に命中させるのかという射撃法の発達を促し、やがてひとつの答えとして一連の「弩級戦艦」「超弩級戦艦」として結実を迎える訳ですが、その模索の期間が18世紀後半から始まったと考えていいと思います。

一方で、強力な砲弾の打撃力から如何に自艦を守るのか、という防御の思想が芽生え、こちらはこれも蒸気機関の発達により機動力との兼ね合いが可能となったもうひとつの重量物「装甲」を備えた装甲艦という概念となって登場します。

これからご覧いただくのは、破壊力の強大化=搭載砲の大型化、これを如何に有効な兵器として=命中が期待できる兵器として搭載するのか、そして自艦をいかに強大な敵の火力から、あるいは自艦が搭載する砲弾・弾薬の被弾時の誘爆から防御するのか、そのバランスの発達史として見ていただくと面白いのではないかと思うのです。

 

併せて軍艦への蒸気機関の浸透の過程を、簡単にまとめておきます。

世界初の実用蒸気船の誕生:1783年(フランス人:クロード・フランソワ・ドロテ・ジュフロワ・ダバンによる)

当初は外輪推進が主流であったため舷側に砲門を並べるそれまでの軍艦では大型の外輪が砲門設置を妨げるため馴染まず、蒸気機関の普及は商船から始まりました。スクリュー推進が実用化するまで軍艦への応用は進みませんでした。運用側の海軍軍人側にも石炭切れによる推進力の喪失を嫌う傾向があり、蒸気船の普及に対する抵抗が根強くあったとか。

スクリュー推進の実用化に伴い、英海軍の帆走74門戦列艦「エイジャックス」が1846年に汽帆走戦列艦に改装されます。これを追う形でフランス海軍も初の蒸気機関搭載の90門戦列艦「ナポレオン」を1850年に就役させ、やがて英海軍も1852年に91門蒸気機関戦列艦アガメムノン」を就役させました。これを皮切りに英仏間を中心に汽帆走軍艦の建艦競走が始まりました。

 

A=H帝国海軍でも同様の経緯から艦船開発が試みられます。そして上記の搭載火砲の大型化と防御としての装甲の装着の兼ね合いから、概ね以下のような経緯を経ることになるのです。

舷側砲門型装甲艦(1850年代-60年代)

中央砲郭型装甲艦(1870年代から80年代)

中央砲塔型装甲艦(1890年代)

そして近代戦艦(前弩級戦艦)の登場(1900年前後から就役)へと続いてゆくわけです。

 

舷側砲門型装甲艦(1850年代-60年代)

各海軍ごとに時期の前後はあるのですが、今回、対象とするA=H帝國海軍を例にとると1850-60年代(ちょっと乱暴に区切ると)に、まず「舷側砲門艦」が建造されます。これは蒸気機関を搭載し(多くは帆装と機関を併用した機帆船でした)帆船と同様に舷側に主砲をずらりと並べた型式でした。

A=H 帝國海軍はこの形式の装甲艦を2艦級5隻建造しています。

 

エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス級装甲艦(1866年就役:同型艦2隻)

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(「エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス級」装甲艦の概観:67mm in 1:1250 by Sextant: 下の写真はマックス級装甲艦(手前)とナポレオン時代のフリゲートの大きさ比較)

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同級はA=H 帝國海軍が建造した舷側砲門型装甲艦の艦級です。5130トン級の船体に、舷側に砲門を有する48ポンド砲(17.8センチ砲)16門を主砲として搭載していました。砲門は全て舷側に向いていたため、その射界は限定的でした。

石炭専焼の機関を搭載し12.5ノットの速力を出すことができました。

就役直後の1866年のリッサ海戦では最新鋭の装甲艦として艦隊旗艦を務め、イタリア艦隊の「レ・ディタリア」を艦首の衝角攻撃で撃沈しました。ja.wikipedia.org

艦砲は未だ発達が始まったばかりで、射程も威力も十分ではなく、何よりも照準が砲側で行うしかなく、つまり射撃術が成立する以前の当時の状況ではかなり近居距離からの射撃でなくては命中が見込めませんでした。このリッサ海戦で列強が得た戦訓は艦首の衝角による攻撃の有効性、というものでした。このためこの時期以降、第一次世界大戦期まで、列強の主力艦は船首に衝角を持つことが標準となります。

 

中央砲郭型装甲艦(1870年代から80年代)

次いで現れたのが「中央砲郭型装甲艦」という形式。艦載砲が大型化し強力になるにつれてその弾薬庫をいかに防護するかも大きな課題になってきます。つまり自艦が搭載する強力な砲弾を被弾時の誘爆から防御する装甲をどのように配置するかとういう課題に対して向き合う必要が出てきた訳です。重厚な装甲で覆えばいい、のですが限られた機関出力との兼ね合いで装甲をどのように貼れば効率良く機動性を確保できるのか、これに対する一つの解答が「中央砲郭」という考え方でした。A=H帝国海軍はこの型式の装甲艦を8隻建造しています。試行錯誤的で決定版の設計を模索したのでしょうか、同型艦を持たない艦級が5つあります。

  • 7,200トン級装甲艦:リッサ(Lissa) - 1隻
  • 7,800トン級装甲艦:クストーザ(Custoza) - 1隻
  • 6,000トン級装甲艦:エルツェルツォーク・アルプレヒト(Erzherzog Albrecht) - 1隻
  • 5,200トン級装甲艦:カイザー(Kaiser) - 1隻
  • 7,500トン級装甲艦:テゲトフ(Tegetthof) - 1隻
  • カイザー・マックス級 - 3隻

 

装甲艦「リッサ」(1871年就役:同型艦なし)

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(中央砲郭型装甲艦「リッサ」の概観:75mm in 1:1250 by Sextant(バウスプリットを除く寸法): 下の写真は装甲艦「リッサ」の中央砲郭の拡大:中央砲郭は上下二層に別れ、下層は舷側方向への限定された射界をもち、上層のみ広い射界がありました)

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同艦は7000トン級の船体に9インチ砲を12門、片舷6門ずつ搭載し、12.8ノットの速力を出すことができました。片舷6門の9インチ砲は艦中央の喫水のすぐ上の装甲帯部分に5門が配置されていました。この5門の砲は基本的には舷側方向へ向けての射撃のみが可能でした。残る1門は上甲板部分の張り出しに配置され、大きな射界を有していました。

この辺りの配置から、舷側砲門形式からの移行期、模索期の試作艦的な要素が見て取れるかと。艦名は言うまでもなくA=H帝国海軍栄光の「リッサ海戦」に由来しています。


装甲艦「クストーザ」(1875年就役:同型艦なし)

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(中央砲郭型装甲艦「クストーザ」の概観:78mm in 1:1250 by Sextant(バウスプリットを除く寸法): 下の写真は装甲艦「クストーザ」の中央砲郭の拡大:中央砲郭は上下二層に別れ、両層とも片舷2門ずつの10インチ砲を配置していました。ちょっとわかりにくいですが、下層の後部砲のみ射界が舷側方向に限定されています)

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同艦は「リッサ」よりは少し大きな7600トン級の船体を持ち、より強力な22口径後装式の26センチ砲(10インチ砲)8門を主砲として搭載していました。主砲は全て中央の厚い装甲で覆われた砲郭部分に上下二段配置で片舷4門づつ配置され、砲郭部分の前後に船体に切り込みなどを入れることにより、各砲には大きな射界が与えられていました。

しかし砲の射撃方向の変更は人力での砲の移動を伴う作業が必要で、特に戦闘中の射撃方向の変更等は大変な労力を伴う作業だったことでしょう。

同艦は第一次世界大戦期まで練習艦として使用され、その後宿泊船となりました。第一次世界大戦後はイタリアへの賠償艦として譲渡され解体されました。

 

装甲艦「テゲトフ」(1882年就役:同型艦なし)

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(中央砲郭型装甲艦「テゲトフ」の概観:71mm in 1:1250 by Sextant(バウスプリットを除いた寸法): マスト等を失った船体のみのジャンクモデルとして入手したものを、少し修復しています:下の写真は「テゲトフ」の中央砲郭の拡大:11インチ主砲を船体中央の装甲で防護された砲郭に片舷3門、装備しています。それぞれの砲には大きな射角が与えられる配置になっています。主砲装備甲板は1層となり、弾庫がその下層甲板に配備されました)

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同艦は1882年に就役しています。7400トンの船体を持ち、その中央砲郭には「クストーザ」よりも更に強力な後装式の11インチ(28センチ)砲を主砲として6門搭載し、13ノットの速力を発揮することができました。主砲は全てマウントに搭載されており、射撃方向の変更等は、砲の移動を人力で行わねばならない前級よりは格段に楽でした。従来の砲郭艦が砲を上下二段の甲板に配置していたのに対し、同艦では砲甲板は一層にまとめられており、弾庫が各砲の下に配置され、砲郭の装甲で保護されていました。就役当時はA=H帝国海軍最大級、最強の艦船でしたが、アドリア海での運用が主目的であったため、同時期の他の列強の同種の装甲艦に比較すると小振でした。ちなみに艦名は1866年のA=H帝国海軍の栄光の戦いである「リッサ海戦」でA=H帝国海軍を率いた提督の名に由来しています。

 

就役以降、機関の不具合に悩まされ続けて、活動は十分ではなかったようです。ようやく1893年に機関が信頼性の高いものに換装され、同時に兵装も一新され、同艦は主力艦としての活動が可能になったようです。

その後、1897年には艦種が警備艦に改められ、一線を退いています。さらに1912年に艦名が「マーズ」に改められ、「テゲトフ」の名はA=H帝国海軍最新の弩級戦艦ネームシップに引き継がれました。「マーズ」は港湾警備艦練習船として第一次世界大戦中も使用され、戦後、イタリアへの賠償艦として引き渡され1920年に解体されました。

 

中央砲郭のヴァリエーション

下の写真では中央砲郭の在り方自体が模索された様子が伺えます。上段の「リッサ」では舷側砲門型から中央砲郭への移行期(1871年就役)にあることがわかりますし、中段の「クストーザ」では中央砲郭への主砲の集中搭載が試みられています(1875年就役)。そして下段の「テゲトフ」では主砲配置と弾庫の配置についての工夫が行われています(1882年就役)。

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中央砲郭のヴァリエーションに見られる創意・発展はやがて艦砲の更なる巨大化(長砲身化)に対応して、この後、砲塔形式で主砲を搭載する「中央砲塔艦」の形式(1890年代)を経て「前弩級戦艦」(1900年以降)へと発展してゆきます。

 

中央砲塔型装甲艦(1890年代)

上述のように中央砲郭形式での主砲搭載が洗練されるにつれ、より巨大な砲の運用についての技術も洗練されてゆきます。たとえば重量の大きな砲の方向転換を人力から動力を伴うターンテーブルで行うといった運用法や、各方の弾庫を砲の直下に置くなど、上述の「テゲトフ」ですでに実現されていました。

こうして更に巨大な火砲を砲塔形式で搭載するという試みが行われます。これが「中央砲塔型装甲艦」で、A=H帝國海軍は2隻の同形式の装甲艦を建造しました。

 

装甲艦「クローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ」(1889年就役:同型艦なし)

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(中央砲塔型装甲艦「クローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ」の概観:75mm in 1:1250 by Sextant: 同艦に至り、かなりすっきりとした外観になってきています:下の写真はクローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ」の砲塔の拡大:12インチ主砲を船体中央の両舷に砲塔形式(といっても装甲で覆われた装甲砲塔ではなく弾片防御カバー付きの露砲塔ですが)で2基、艦尾部に1基の合計3基を装備しています。それぞれの砲には大きな射角が与えられる配置になっています。思い砲塔を艦の上部構造物に搭載したため、重心の低減に配慮された設計となっているようです)

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同艦は6800トンの船体に35口径の12インチ砲を単装砲形式で3基搭載し、15.5ノットの速力を発揮することができました。12インチの主砲は、中央砲郭内での砲の方向転換のターンテーブルからの発展型(?)であるバーベットに搭載され、艦の上甲板部に設置されることにより、より大きな射界が与えられました(艦中央のバーベットでは180度、艦尾のバーベットでは270度)。バーベットはそのまま砲の下部にある弾庫の装甲を兼ねていました。各砲はカバーで覆われていましたが、おそらく装甲砲塔には至っておらず、弾片防御程度の所謂露砲塔だったと思われます。

第一次世界大戦期にはカタロ湾の警備等に従事しましたが、1918年に発生した反乱事件等に巻き込まれました。戦後はA=H帝國解体後の新興国の海軍に移籍し改名され沿岸防備艦として就役しましたが、翌年解体されました。

 

艦名は和訳すると「皇太子ルドルフ大公」そんな感じでしょうか?オーストリアも含めドイツ圏の爵位、称号等は度々艦名に用いられますが、これが大変長く難しい。泣かされます。

 

A=H帝国海軍の近代戦艦以前の主力艦形式の総覧

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そして前弩級戦艦の時代へ

この後、砲塔形式で主砲を搭載する「モナルヒ級」海防戦艦(1898年から就役:5800トン、9インチ連装砲塔2基)を経て「ハプスブルグ級」前弩級戦艦(1902年から就役:8200トン、9.4インチ連装砲塔1基、同単装砲塔1基)へと発展してゆきます。

(下の写真はA=H帝国海軍の中央砲塔型装甲艦と近代戦艦の比較:手前から中央砲塔型装甲艦「クローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ」、「モナルヒ級」海防戦艦、「ハプスブルグ級」戦艦の順)

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以降の発展は、本稿の下記の回で。興味のある方は是非。

fw688i.hatenablog.com

 

ということで、今回はA=H 帝國海軍の主力艦を例に引いて、近代戦艦(前弩級戦艦)の成立以前の主力艦形式の模索について、少しまとめてみました。

実はこの模索期は様々な試行錯誤が行われており、艦船模型的な視点に立つと、大変な宝箱なのです。しかし、そのモデル数の多さと、その希少性からなかなかコレクションに加えるのはハードルが高い、という事実もあったりします。

 

ということで、今回はこの辺で。

 

次回は「時事ネタ」かな?

 

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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