今回は珍しく予告通りレイテ沖海戦当時の「栗田艦隊:第二艦隊(第一遊撃部隊)第一部隊(栗田長官直卒)」のお話です。
第一遊撃部隊
マリアナ沖海戦に際し、日本海軍はその主戦力のほぼ全力を投入して空母機動部隊を中心戦力とした第一機動艦隊を編成し、米空母機動部隊との決戦を想定し出撃しますが、敗北します。この戦いで特に空母戦力はその搭載機部隊に壊滅的な打撃を受け、以降、戦力としての空母機動部隊が再建されることはありませんでした
一方、水上戦闘艦艇部隊には大きな損害はなく健在でした。
マリアナ沖海戦の敗北後、日本はサイパン・テニアン・グアムを失陥し、日本本土と南方資源地域との輸送路の防衛ラインを失います。つまり、マリアナ諸島の失陥は、日本本土を含め資源輸送路が米軍機の攻撃圏内に入ったことを意味した訳です。
そして米軍の次の侵攻は、その目標がどこであれ、輸送路の直接的な喪失を意味し、この対応として、特に日本海軍は、好むと好まざるとに関わらず残存する戦闘力である水上戦闘部隊をどのように使っていくのか、この選択肢一択になってしまっていました。
こうして、それまでの空母機動部隊中心の視点から水上戦闘部隊中心の視点への切り替えが行われ、第一遊撃部隊が設立されました。戦力としては、第一機動艦隊の隷下にある水上戦闘部隊である第二艦隊と第十戦隊がその中核となりました。
第二艦隊
第一遊撃部隊の中核となった第二艦隊について少し振り返っておきましょう。
第二艦隊は、日露戦争以降、長く海軍戦力の中核であった主力艦部隊(戦艦中心の第一艦隊)の前衛部隊として設立された艦隊でした。日露戦争以降、仮想敵を米海軍と定めた後は、太平洋を越えて来航する米艦隊に対し夜戦・魚雷戦等でその戦力を削ぎ取って最終的な主力艦同士の決戦を有利に導く、という漸減戦略の要の部隊として、第二艦隊は高速の巡洋艦・駆逐艦を中心に編成されていました。
太平洋戦争開戦時(1941年)には、米主力艦部隊は空母機動部隊の奇襲で無力化するという前提で、第二艦隊はその機動性を存分に発揮し、第三艦隊(フィリピン侵攻部隊)、南遣艦隊(マレー侵攻部隊)などを隷下に置き、南方資源地帯への侵攻作戦の中核戦力となりました。この役割はミッドウェー海戦でも同様で、第二艦隊はミッドウェー攻略部隊主隊として参加しています。
ミッドウェーの敗戦後、ソロモン諸島方面での戦局が激化すると、この方面での主戦力として投入されますが、多くの場合、ミッドウェー海戦以降編成された新編空母機動部隊である第三艦隊と共に戦場に臨むことが多くなっていました。この状況から、空母機動部隊を中心とした艦隊編成強化の構想が、やがて第一機動艦隊の誕生に結びつきます。
1944年3月に第一機動艦隊が編成されると、前述の戦艦部隊(第一艦隊)が解隊され、第二艦隊は戦艦部隊も統合した水上打撃部隊となります。
マリアナ海戦以降、つまり第一機動艦隊としての出撃と、マリアナ沖海戦の敗戦での第一機動艦隊の決戦空母機動部隊としての機能喪失以降については、既述の通りです。
指揮官は、太平洋戦争開戦以降1943年8月までは近藤信竹中将が務め、以降、栗田健男中将が引き継いでいます。
捷号作戦と第一遊撃部隊、その誤謬
日本は、マリアナ沖海戦の敗北により、次の米軍の侵攻が目標のいずれかに関わらず本土と南方資源地域の連絡路切断を意味する、という判断の上で、捷号作戦を計画します。
捷号作戦は米軍の侵攻地域により1号(フィリピン方面)から4号(北海道方面)まで準備されましたが、その作戦骨子の大きな特徴は、特に海軍に関する部分では、作戦目的をそれまでの「米機動部隊撃滅=艦隊決戦」から「侵攻主戦力撃滅=上陸部隊の撃破」に移したことにあると言っていいと思います。
具体的には、これまでの米軍の侵攻手法から想定される上陸軍の侵攻に先駆けて航空撃滅戦を実施するために来攻するであろう「米機動部隊」に対しては手当て程度の反撃にとどめて戦力を温存し、その後来襲する「侵攻軍=上陸部隊」攻撃に全力を投入する、という方針を陸海軍が共有したことでした。
この作戦方針の元、第一遊撃部隊の攻撃目標も米上陸部隊、ということになりました。
これは、これまで海軍設立以来、「艦隊決戦」での勝利を国防における存在意義としてきた日本海軍にとっては、大変大きな変更でした。
しかし、この作戦方針が、第一遊撃部隊に徹底して伝えられたか、というとやや疑問が残ると言わざるを得ません。
まず、これは海軍首脳にとっても大きな変更でした。しかもマリアナ沖海戦の敗戦後の変更で、部隊運用にどのように具体化するのかなど、咀嚼には時間を要しました。
作戦は本土の連合艦隊司令部、軍令部で建てられる訳ですが、当の水上決戦兵力(空母機動部隊が艦載機を失った時点では、決戦兵力はこの水上打撃兵力しか無くなったのですが)は、燃料が十分に供給できるリンガ泊地(スマトラ島東部:リンガ諸島)にあって、連合艦隊の作戦説明には参加できませんでした(説明は内地に在泊する連合艦隊旗艦「大淀」で行われました)。
後に連合艦隊作戦参謀がフィリピンで第一遊撃部隊(第二艦隊)参謀長と会談し作戦内容を伝えるのですが、この際に第二艦隊参謀長が「上陸軍への攻撃の際には、当然、これを阻止しようとする米空母機動部隊との交戦が予想される。その場合、状況次第で攻撃目標を米機動部隊に変更することは差し支えないか」と質問したのに対し、フィリピンに派遣された連合艦隊作戦参謀は「差し支えない」と回答しています。つまりせっかく作戦主旨を「総力戦目標の実行=上陸軍攻撃=侵攻阻止=南方との資源輸送路確保」とし、実施部隊に大きな目標変革、意識変革(「艦隊決戦から総力戦遂行」へ)を要求したにも関わらず、この回答で従来路線への回帰の可能性(選択肢)を容認してしまった訳です。
捷号作戦と連合艦隊司令部
では連合艦隊司令部自体が、この大転換とも言うべき変更に適応できていたかと言うと、実はそこに大きな疑問が浮かんできます。
その一端がこのレイテ沖海戦に先んじて実施された「台湾沖航空戦」で露呈しているように思います。
「台湾沖航空戦」は1944年10月12日から16日にかけて、沖縄・台湾に来襲した米機動部隊に対し同地域に展開していた日本の基地航空部隊(1200機規模)が反撃した戦闘です。折りから同地域には台風が発生しており、日本軍(陸海合同の航空部隊)は悪天候下でも出撃できる当時の最精鋭とも言うべき部隊まで投入します。
参加部隊からは大戦果(空母11隻撃沈等)が報告されますが、この戦闘の直後、レイテ島への上陸作戦が実行されていることからも明らかなように、全くの誤認で、一方、せっかくの精鋭部隊はこの戦闘で消耗し、レイテ沖海戦本番では活動できませんでした。
既述のように捷号作戦の基本主旨が、それまでの「米機動部隊撃滅=艦隊決戦」から「侵攻主戦力撃滅=総力戦」に大転換され、来攻する「米機動部隊」に対しては手当て程度の反撃にとどめて戦力を温存し、その後来襲する「侵攻軍=上陸部隊」攻撃に全力を投入する、という方針が立てられたにも関わらず、いざ「米機動部隊」が現れるとこれに全力を投入し消耗してしまったわけです。
さらにこの投入された部隊の中には、マリアナ沖海戦以降、ようやく再建の端緒についたばかりの母艦搭載機部隊(小沢機動部隊搭載機)も含まれていました。母艦航空隊は、狭い母艦への離着艦や高速機動する母艦への帰還航法の習得等、錬成に時間がかかるのです。マリアナ沖海戦では、この母艦航空部隊の約八割を失うと言う壊滅的な損害を空母機動部隊=第三艦隊は出していました。とりあえずは数だけは揃えて、何とか母艦航空隊を再編成しよう、という努力が、第三艦隊を中心に行われていたわけです。その矢先のこの部隊抽出命令だったわけです。
この戦力抽出の連合艦隊司令部からの下令に対し、捷号作戦の主旨説明を受けていた第三艦隊司令部(小沢艦隊司令部)からは、基本方針と異なるのではないか、として強硬な反対があったのですが、「次の海戦では母艦機動部隊は使わない」と連合艦隊は説明し、この反対を退けています。
結局はレイテ沖海戦(=次の海戦)には「小沢艦隊」は、ほぼ搭載機なしの「裸の空母機動部隊=囮部隊」として投入され、壊滅するのです。
どうもこの辺りの連合艦隊司令部の意識のブレに、第一遊撃部隊参謀長の質問に対する「目標変更」まで容認するような回答の背景があったように思われてなりません。
第一遊撃部隊の戦闘序列
このように作戦当初から、いろいろと火種の多いレイテ沖海戦(捷一号作戦)ですが、第一遊撃部隊は最終寄港地であるブルネイに集結し、以下のような戦闘序列で出撃します。
第三部隊(西村艦隊)については本項で既にご紹介しています。今回と次回の二回(予定)で、第一部隊、第二部隊をご紹介し、併せて戦闘経緯をご紹介して行く予定です。
第一部隊
- 指揮官:栗田健男中将(第二艦隊司令長官)直率
第三部隊
第一遊撃部隊 第一部隊の各艦艇
今回は上記のうち、第一部隊の各艦艇をご紹介します。
(直上の写真は、太平洋戦争開戦時の第4戦隊。手前から「愛宕」「高雄」「鳥海」「摩耶」。舷側のバルジの有無と、後檣の位置で判別できます。同級は、その設計時に旗艦設備を組み込んだ大型艦橋をもたされていたため、他の艦隊への派出が相次ぎ、なかなか4隻揃って出撃する、と言う機会がありませんでした。1944年10月のレイテ沖海戦には、第2艦隊の旗艦戦隊として、4隻揃って出撃しましたが、出航翌日、うち3隻が米潜水艦の攻撃で被雷。2隻が沈没し、1隻が戦列を離れてしまいます)
第四戦隊は、太平洋戦争開戦以来、第二艦隊の基幹部隊を務めてきた部隊で、「高雄級」重巡洋艦四隻で構成されていました。
レイテ沖海戦時には第二艦隊司令長官直卒部隊となっており、第四戦隊旗艦である「愛宕」が第二艦隊(第一遊撃部隊)の総旗艦を務めていました。
四隻は同型艦でしたが、改装の時期、度合いによってレイテ沖海戦時には大きな相違が見られました。
少し乱暴に整理すると、「鳥海」はほぼ就役時のまま、対空機関砲と電探装備(レーダー等)の増強を行なった程度でした。「愛宕」と「高雄」は太平洋戦争開戦前に大改装を行い、さらに対空機関砲と電探装備(レーダー等)の増設を行っていました。「摩耶」は「鳥海」同様、就役時の状態で太平洋戦争に臨みましたが、ラバウル空襲で受けた大損害復旧の際に、対空兵装を大幅に増強し、合わせて電探兵器などを追加し、重装備の防空巡洋艦に生まれ変わりました。
「愛宕」「高雄」の太平洋戦争開戦前の大改装
両艦は太平洋戦争開戦前の1939年ごろから数次の改装を受けています。
(直上の写真は、「高雄級」:大改装後の概観。by Konishi )
課題であった艦橋の若干の小型化と大型バルジの装着による復原性(安定性)の改善、航空艤の変更(格納庫を廃止し、基本、搭載機の甲板係留としました。整備甲板を増設し、配置を変更、水上偵察機の搭載定数を2機から3機に増加しています)、魚雷発射管の連装発射管4基から4連装発射管4基への換装、高角砲を正12cm単装砲4基から5インチ連装砲4基8門に強化したことなどが挙げられます。
この最後の高角砲の強化については、竣工時の設計では既述のように新砲塔の採用で主砲に対空射撃能力を付与することによって高角砲の搭載数を前級「妙高級」よりも減じた同級だったのですが、8インチ主砲での対空射撃では射撃間隔が実用に耐えず、結局高角砲を強化せざるを得なかった、という背景がありました。
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の概観比較。舷側の大きなバルジの追加が目立ちます。さらに、航空艤装の構造が変更され、後檣の位置が変わっています)
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の変化をもう少し詳細に見たもの。左列:艦橋が小型化してます。写真ではちょっとわかりにくいのですが、かなり大幅な小型化です。一段低くし、同時に簡素化が行われた、と言う表現がいいでしょうか?時折「最上級」に倣って、と言うような表現も目にしますが、それはちょっと言い過ぎかと。右列:高角砲は連装に変更されています。主砲での対空射撃は、構想としては両用砲的な活用の発想で、意欲的ではありましたが、射撃速度と弾速が航空機の速度を勘案すると実用的ではなかったようです。そのため、高角砲自体を強化する必要があったようです。高角砲甲板の下の魚雷発射管については、配置自体には変更は見られませんが、発射管を連装から4連装に強化しています)
「愛宕」
開戦以来、一貫して第二艦隊旗艦を務め、第一遊撃部隊でも総旗艦となっています。
レイテ沖海戦では、総旗艦として栗田艦隊司令部を乗せて出撃しますが、最終寄港地であるブルネイ出撃の翌日、パラワン水道を航行中、米潜水艦の雷撃を受けて米潜水艦の放った6本の魚雷のうち4発が命中し、沈没してしまいました。
栗田艦隊司令部は、出撃第一日目で旗艦を失い、栗田司令長官以下、艦隊首脳は「大和」に移乗して指揮をとりますが、艦隊通信部員の多くが同行できなくなり、後の指揮に大きな影響が出たと言われています。
「高雄」
「愛宕」と同じレベルの改装を受けて太平洋戦争開戦を迎えています。
ミッドウェー海戦では、僚艦「摩耶」と共に第二機動部隊(北方部隊)に編入され、アリューシャ攻略戦に参加、これを成功させています。
パラワン水道を航行中に旗艦「愛宕」と同様、米潜水艦の攻撃を受けます。第一撃で「愛宕」に命中しなかった残りの2本の魚雷を回避しましたが、同じ潜水の放った魚雷のうち2本が命中して一時期航行不能に陥りました。その後機関を修復して航行が可能になりましたが、艦隊に追随できず、護衛に残された駆逐艦「朝霧」を伴いブルネイ引き返しました。
海戦後、ブルネイからシンガポール回航され、内地での本格修理に向けた修復が試みられますが、修復は断念されシンガポール防衛のため残留が決定し、そのまま同地で終戦を迎えました。シンガポール残留中に同港に小型潜水艦で潜入した英国特殊部隊の時限爆弾で損傷しています。
「摩耶」
「摩耶」は「愛宕」「高雄」と異なり、改装を受けることなく就役時の装備で開戦を迎えました。
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の概観:「摩耶」は太平洋戦争の海戦からマリアナ沖海戦前まで、対空機関砲の増設を除いて、ほぼこの姿でした。 165mm in 1:1250 by Konishi )
緒戦は第四戦隊の「愛宕」「高雄」と行動を共にしましたが、ミッドウェー海戦では、僚艦「高雄」と共に第二機動部隊(北方部隊)に編入され、アリューシャ攻略戦に参加、これを成功させています。
ソロモン方面での活動、再びの北方部隊(第五艦隊)への分派(アッツ島沖海戦)を経て再び南方戦線に復帰しましたが、復帰直後、ラバウル空襲で一時は艦放棄も検討されるほどの損害を受け、内地に回航後修復と共に大規模な対空火器の増強を受け防空巡洋艦となりました。
改装の要目は、単装対空砲の連装砲への換装と、3番主砲塔を撤去して連装対空砲2基を搭載(都合、搭載対空砲は従来の4門から12門に飛躍的に強化されています)、対空機関砲の大幅増強、魚雷発射管の連装から四連装への換装、復原性改善と浮力確保のためのバルジ装着などでした(艦橋のコンパクト化は行われなかったようです)。
(大改装後の「摩耶」by Konishi: 三番砲塔を撤去して対空砲を強化し、本格的な防空巡洋艦に変身しました。安定性と浮力確保のためにバルジが装着されました)
(改装前と改装後(左列)の細部比較:対空砲を3倍に強化しています)
この修復後第二艦隊に復帰し、マリアナ沖海戦には対空砲増強の防空巡洋艦の姿で参加し空襲で至近弾数発を受け若干の損害を出しています。修復後、第一遊撃部隊に合流し出撃しますが、「愛宕」避雷の約30分後、同じくパラワン水道で別の米潜水艦の放った魚雷4本を受けて、被雷後わずか8分ほどで沈んでいます。
「鳥海」
「鳥海」も「摩耶」同様、「愛宕」「高雄」と異なり、改装を受けることなく就役時の装備で開戦を迎えました。
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の概観:「鳥海」は太平洋戦争期間中、対空機関砲の増強を除けば、ほぼこの姿でした。 165mm in 1:1250 by Konishi )
その旗艦設備を重宝され、緒戦では南遣艦隊旗艦として派出され、続いて新設された第八艦隊(外南洋部隊)旗艦として運用されたため、他艦と異なり第四戦隊の隊列にはなかなか復帰できませんでした。
レイテ沖海戦では、第四戦隊の一員として参加。他の三隻がパラワン水道で相次いで雷撃を受け、二隻が沈み、一隻が戦線を離脱する中、第五戦隊(「妙高」「羽黒」)に編入されて航行を続けました。その後「妙高」が空襲の損傷で脱落した後も「羽黒」と第五戦隊を組み、戦闘を継続しました。
サマール沖で米護衛空母部隊を追撃中に、米護衛空母艦載機の反撃にさらされ被弾し、これによって魚雷が誘爆、戦線を離脱しました。更に数次の空襲で被弾後、大火災を発生し、味方駆逐艦によって雷撃処分されています。
このように、日本海軍最後の一等巡洋艦「高雄級」は、ネームシップの「高雄」を除いて全てレイテ沖海戦で失われました。前級である「妙高級」も併せて、いわゆる諸列強が羨望した条約型重巡洋艦である「妙高級」「高雄級」は、奇しくも両級のネームシップが、シンガポールで、行動不能の状態で残存する、という状況で終戦を迎えることとなりました。
(レイテ沖海戦時の第四戦隊:奥から「高雄」「愛宕」「摩耶」「鳥海」:実際には対空機関砲を増設、電探装置が増設されています)
(「高雄級」の細部比較:艦橋構造の差異や、デリックの位置に差異が見られます)
重巡洋艦の集大成
高雄級重巡洋艦 -Takao class heavy cruiser-(高雄:1932-終戦時残存/愛宕:1932-1944/鳥海:1932-1944/摩耶:1932-1944)
Takao-class cruiser - Wikipedia
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の概観。 165mm in 1:1250 by Konishi )
「高雄級」重巡洋艦は、基本的に前級「妙高級」の改良型として設計されました。しかし設計は平賀譲の手を離れ、その後継者と目される藤本喜久雄(当時造船大佐)によるものでした。前回「妙高級」でも触れましたが、平賀譲は造船家として優れた設計思想をもち、その設計した軽巡洋艦「夕張」、「古鷹級」巡洋艦、「妙高級」重巡洋艦など、海外から大きな脅威として見られたシリーズ(この一連のシリーズに対する脅威から、主力艦に保有制限を設けたワシントン体制から、補助艦艇にも保有制限を設けるロンドン条約が生まれたほどです)を生み出した反面、「不譲=譲らず」の異名をつけられるほど自説に対する自信が強く、時に用兵者の要求も一顧だにせずはねつける、あるいは「完成形」を求めるあまり工数、費用、量産性などを考慮しないなど、毀誉褒貶の激しい人物でした。この為、海軍の造船中枢からは外されてしまいました。
前級との主な差異は、主砲口径を最初から条約制限上限の8インチ(20.3cm)とし、連装主砲砲塔5基の配置形態はそのままにして、前後の配置間隔を詰めることにより集中防御を強化したこと、新砲塔の採用により主砲の仰角をあげ、対空射撃能力を主砲にも持たせ、これにより高角砲の搭載数を減じたこと、そして何より被弾時の誘爆損害が大きな懸案だった船体内に装備された魚雷発射管を上甲板上に装備する配置に変更したことが挙げられるでしょう。
(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の特徴をクローズアップしたもの。巨大な艦橋(下段左)。単装高角砲と、設計時から上甲板上に設置された魚雷発射管:新型砲塔の採用で主砲の仰角を上げることで対空射撃にも対応できる設計として、単装高角砲は前級の6基から4基に減じられています(上段)。拡充された航空艤装:設計当初からカタパルトを2基搭載していました(下段右))
航空艤装も強化され、前級までは1基だったカタパルトを2基装備にすることにより、水上偵察機の運用能力の向上が図られました。
一方で、上記の「平賀はずし」の経緯の反動で、用兵側の要求に対する異論が唱えにくい空気が醸成されたことも事実で、それが戦隊(艦隊)旗艦業務などに対応する為の艦橋の著しい大型化などとなって現れ、高い重心から「妙高級」に対しやや安定性と速力で劣る仕上がりとなりました。
第一遊撃部隊第一戦隊は戦艦「大和」「武蔵」「長門」で構成されていました。
レイテ沖海戦当時の「大和」と「武蔵」
大和級戦艦の改装:「大和」「武藏」の対空兵装改装
大和級戦艦はその新造時の設計では、6インチ三連装副砲塔を4基、上部構造の前後左右に配置した設計でしたが、一連の既存戦艦の近代化改装の方針である対空戦闘能力の向上に則り、両舷の副砲塔を撤去し、対空兵装に換装しました。
「大和」「武藏」は1944年に上記の両舷の副砲塔を撤去し、対空兵装を充実し、電探装備を追加する改装を受けました。その際に「大和」は12.7センチ連装高角砲を従来の6基から12基に増強しましたが、「武藏」は高角砲の砲台までは準備できたのですが、高角砲の準備が間に合わず、代わりに25ミリ3連装対空機関砲を増加搭載して、マリアナ沖海戦に臨むことになりました。
「武藏」は、結局、マリアナ海戦後も連装高角砲の増設を受けることなく、引き続きレイテ沖海戦に向かい出撃しています。
(直下の写真は対空兵装増強後の「大和」。両舷の副砲塔が撤去され、12.7センチ連装高角砲が左右両舷に各3基、増強された。但し、18インチ主砲のブラスト防止用のシールドは下部の砲台にしか装備されていない)
(直下の写真は対空兵装増強後の「武藏」。両舷の副砲塔は撤去され、高角砲台は設置されたが、12.7 センチ連装高角砲が間に合わず、代わりに25mm三連装対空機関砲が設置されている)
(直下の写真は、対空兵装増強後の「大和」「武藏」 のそれぞれの上部構造の拡大。上:「大和」、下:「武藏」。連装高角砲の増設の有無がよくわかる)
「大和」
レイテ沖海戦には第一戦隊旗艦として参加しています。その後、旗艦「愛宕」を失った第一遊撃部隊司令部を移乗させて、艦隊旗艦となっています。
第一遊撃部隊設立時に、第一遊撃部隊司令部は旗艦を従来の「愛宕」から艦隊の中で最も生存性が高く活通信機能の高い「大和」に変更したい旨の希望を海軍上層部に打診しましたが、「第二艦隊は本来前衛部隊で、その旗艦は伝統的に機動性に優れた重巡洋艦であるべき」という不思議な理由で、その希望を却下されています。
僚艦「武蔵」が失われたシブヤン海での海空戦で「大和」も被弾しますが、損害は軽微で、その後、サマール島沖海戦で米護衛空母群に対し初めて主砲での対艦射撃を行なっています。主砲射撃は前部主砲6門を用いた104発で、「正規空母一隻を撃破」と記録されていますが、戦果は定かではないようです(米側記録では、危険回避のために護衛空母が煙幕をはった、とあるようです。この煙幕の黒煙を命中と誤認したかも。さらに、もちろん射撃目標は護衛空母で正規空母ではなかったのですが、32000メートルの遠距離射撃でもあり、誤認はやむを得ないかと。しかしこの誤認が後の判断に大きく影響しているような気もするのですが)
その後、「大和」以下の第一遊撃部隊は有名な「謎の反転」を行い、レイテ湾突入のコースから米機動部隊を求め反転します。結局、米機動部隊発見することはできず、そのまま帰投するのですが、その帰途、複数の空襲を受け、さらに4発の爆弾を被弾しています。
こうしてレイテ沖海戦から生還した「大和」でしたが、本土帰投後、天一号作戦(いわゆる沖縄海上特攻)に投入され、目標の沖縄のはるか手前、鹿児島県坊ノ岬沖で、米艦載機の集中攻撃で撃沈されました。
「武蔵」
レイテ沖海戦には、損害担当艦として、目立つ塗装(明るい銀鼠色)をして臨んだ、と言われていますが、海戦後「大和」も同色に塗り直す計画があったともいわれ、「損害担当艦」塗装であったかどうか定かではありません。シブヤン海で多数の米空母艦載機の約5時間、6回にわたる集中攻撃を受け、そのうち5回の空襲で魚雷20本(?)、爆弾17発、至近弾多数(20発以上?)を被弾して、空襲の都度、被害箇所への対応の注水などにより復旧を試み、かつ最後まで戦闘力を維持しましたが、最初の被弾から約9時間後、転覆し沈みました。
大和級戦艦
同級の計画時にはまだワシントン海軍軍縮条約が有効であったために、その主砲は前級である相模級と同様、新型55口径16インチと公承されていましたが、実は条約の制限を超える18インチ砲でした。
集中防御方式を推進し、艦型そのものは大変コンパクトに仕上げられました。設計の細部には塔式の前檣や、集合式の新設計の通信アンテナ、強烈な主砲爆風対策のための格納式航空兵像、内火艇収納庫、シールド付きの対空砲座など、新機軸が意欲的に多数採用されています。
主砲はこれまでの航洋型の艦船では例のない(一部モニター艦などでは搭載例がありましたが)18インチ砲で、新設計の砲を新設計の三連装砲塔に搭載していました。さらに27ノットの高速で機動性にも優れる戦艦として設計され、高い機動性と強力な砲力で常に相手に対し優位な位置からのアウトレンジを実施し、相手を圧倒することを実現できることが目指されていました。
(1941-: 64,000t, 27 knot, 18in *3*3, 3 ships, 215mm in 1:1250 by Konishi/Neptun)
(大和級の2隻:武蔵(手前)、大和。就役時には、副砲塔を上部構造の前後左右に4基配置した)
「長門」
レイテ沖海戦には第一遊撃部隊、第一戦隊の一員として参加し米艦載機の攻撃を受け少なくとも8発の爆弾を被弾しています。
レイテ沖海戦前に第一遊撃艦隊に第二戦隊が編入された際、軍令部案では「長門」が「山城」に変わり第二戦隊旗艦となる予定でした。結局、第一戦隊司令官(宇垣中将)の反対で、この案は成立しませんでしたが、「長門」が旗艦となった西村艦隊がどのように戦ったのか、みてみたかったような気がします。
(1941 43,500 t, 26.5 knot, 16in *2*4, 2 ships, 182mm in 1:1250 by Neptun:レイテ沖海戦当時には、さらに対空火器が強化されていたはずです)
レイテ沖海戦後は日本本土への航海が最終の行動となりました。深刻な燃料不足でその後は航行機会を得られず終戦を迎え、米軍に接収後、ビキニ環礁での核実験で標的艦とされ、沈没しているのは大変有名です。
扶桑級・伊勢級、ともにその計画は第一次世界大戦前に遡り、一部大戦の戦訓を盛り込んだとはいえ、十分なものではありませんでした。併せて当時、列強は次々にこれらを凌駕する強力な戦艦を建造しており、日本海軍としては、さらにこれを上回る艦の建造が求められていました。
その結果、「長門級」は、列強の諸艦に対しては、世界初の16インチ砲を採用しこれを圧倒することとし、この巨砲群の射撃管制のための巨大な望楼構造の前檣を採用し、その最頂部に大型の測距儀を設置しました。併せてユトランド沖海戦からの戦訓として、防御力の拡充はもちろん、高速力の獲得も目指されました。計画当初は24.5ノットの速力が予定されていましたが、ユトランド沖海戦から、機動性に劣る艦は戦場で敵艦をとらえられず、結果、戦力足り得ない、との知見を得て、26.5ノットの高速戦艦に設計変更されました。
(竣工時の長門級。当初、前部 煙突は直立型であったが、前檣への排煙の流入に悩まされました。煙突頂部にフードをつけるなど工夫がされましたが、1924年から1925年にかけて、下の写真のように前部煙突を湾曲型のものに換装しています)
(1920-, 33,800t, 41cm *2*4, 26.5knot, 2 ships: 176mm in 1:1250 by Hai)
最終改装時(1941年次)の長門級戦艦
その改装はバルジの装備、装甲の強化、対空兵装の強化などの重量増加に対し、速度低下を招かないような機関換装が行われましたが、結果的にはやや速度が低下しています。
第五戦隊は「妙高」「羽黒」二隻の妙高級重巡洋艦で構成されていました。
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の大改装後の概観。166mm in 1:1250 by Neptune)
「妙高」
レイテ沖海戦には、第2艦隊(栗田艦隊)第5戦隊の旗艦として僚艦「羽黒」を率いて参加しますが、シブヤン海で米機動部隊の空襲で避雷し、艦隊から落伍してしまいました。海戦後、損傷修理のために内地への回航中に米潜水艦の雷撃により、艦尾部を切断、内地回航を諦めシンガポールに曳航され、航行不能状態のまま同地で防空艦として終戦を迎えました。
「羽黒」
レイテ沖海戦では、第一遊撃部隊(第2艦隊主隊:栗田艦隊)に編入され、米艦載機の爆撃で損傷を負いながらサマール沖海戦で米護衛空母艦隊を追撃するなど活躍し、帰投しました。
その後は 南西方面艦隊に所属し、シンガポール方面での輸送任務についていましたが、1945年5月、輸送任務中に英海軍機の攻撃で被弾損傷、その後、英駆逐艦隊と交戦し英駆逐艦の雷撃で沈没しました。
「飢えた狼」と呼ばれた艦級(フネ)
妙高級重巡洋艦 -Myoko class heavy cruiser-(妙高:1929-終戦時残存 /那智:1928-1944/足柄:1929-1945/羽黒:1929-1945)
Myōkō-class cruiser - Wikipedia
「妙高級」巡洋艦は、前述のようにワシントン体制の制約の中で、日本海軍初の条約型巡洋艦として設計・建造されました。すなわち、補助艦艇の上限枠である基準排水量10000トン、主砲口径8インチと言う制約をいっぱいに使って計画された巡洋艦であったわけです。
設計は平賀譲が主導しました。これまで本稿で見てきたように、彼は既に軽巡洋艦「夕張」、強化型偵察巡洋艦「古鷹型」でコンパクトな艦体に重武装を施すと言うコンセプトを具現化してきており、ある意味、本級はその「平賀デザイン」の集大成と言ってもいいでしょう。
後に、1930年のロンドン海軍軍縮条約では、それまで保有上限を設けていなかった補助艦艇にも保有数の制約が設けられました。特に巡洋艦については、艦体上限の基準排水量10000トンについては変更されませんでしたが、主砲口径でクラスが設けられ、8インチ以下6.1インチ以上をカテゴリーA(いわゆる重巡洋艦の定義がこうして生まれたわけです)とし、日本海軍は対米6割の保有上限を課せられました。「妙高級」の竣工が1929年である事を考慮に入れると、「古鷹級」「妙高級」などの登場による日本式コンパクト重装備艦に対する警戒感が背景の一つにあったと言ってもいいでしょう。
これにより、本来は上述のように強化型偵察巡洋艦であった「古鷹級」、その改良型である「青葉級」も、「準主力艦」として建造された「妙高級」も、一括りにカテゴリーA(重巡洋艦)と分類され、その総保有数が制限されることになります。
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の概観。166mm in 1:1250 by Konishi)
設計と建造
「妙高級」は、その設計は、前級である「古鷹級」「青葉級」の拡大型と言えるでしょう。
しかし、強化型偵察巡洋艦として、5500トン級軽巡と同様に時として駆逐艦隊を率いて前哨戦を行う可能性のある「古鷹級」「青葉級」と異なり、強力な攻撃力と防御力を併せ持つ準主力艦を目指す本級では、平賀は、用兵側が強く要求した魚雷装備を廃止し、20センチ連装主砲塔5基を搭載する、当時の諸列強の巡洋艦を砲力で圧倒する設計を提案しました。
平賀のこの設計の背景には、竣工当時の魚雷に、上甲板からの投射に耐えるだけの強度がなく、一段低い船内に魚雷発射管を設置せねばならなかったと言う事情が強く働いていたようです。平賀は艦体の設計上、被弾時の魚雷の誘爆に対する懸念から、船内への搭載に強く抵抗し、「妙高級」では用兵側の要求であった20センチ砲8門搭載を10門に増強することにより、雷装を廃止した設計を行い、用兵側の反対を受け入れず押し切ったと言われています。
平賀にすれば、同級は20センチ砲10門に加えて、12センチ高角砲を単装砲架で6基搭載しており、「水雷戦隊を率いる可能性のある偵察巡洋艦ならまだしも、準主力艦である本級にはすでに十分強力な砲兵装が施されており、誘爆が大損害に直結する船体魚雷発射管の装備は見送るべき」と言うわけですね。
この提案は一旦は承認されましたが、軍令部は平賀の外遊中に留守番の藤本造船官に、魚雷発射管を船体内に装備するよう、設計変更を命じました。この時同時に、「青葉級」の主砲搭載形式でも、軍令部の連装砲塔搭載の要望に対し、船体強度の観点から「古鷹級」で採用した単装砲架形式を主張して譲らない平賀の設計を、やはり軍令部は藤本に命じて設計変更をさせています。用兵当事者から見れば、平賀は自説に固執し議論すらできない、融通の効かない設計官と写っており、この後、平賀は海軍の艦艇設計の中枢を追われることになります。
結局、建造された「妙高級」は、正20センチ主砲を連装砲塔で5基、12センチ高角砲を単装砲架で6基、61センチ3連装魚雷発射管を各舷2基、計4基を搭載する強力な軍艦となりました。
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の主砲配置と単装高角砲の配置。かなり砲兵装に力を入れた装備ですね)
さらに、航空艤装としては水上偵察機を2機収納できる格納庫を艦中央部に設置し、当初から射出用のカタパルトを搭載していました。
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の魚雷発射管。「古鷹級」と同様、当時の魚雷の強度を考慮し、船体内に搭載されています。;上段写真/ 下段写真は航空艤装。当初からカタパルトを装備していました。水上偵察機を2機収納できる格納庫はカタパルトの手前の構造物)
数値的には列強の同時期の条約型重巡洋艦よりも厚い装甲を持ち、重油専焼缶12機とタービン4基から35.5ノットの最高速度を発揮する設計でした。
すでにこの時期には平賀は海軍建艦の中枢にはいませんでしたが、ある意味「平賀デザイン」の集大成であり、ロンドン軍縮条約の制約項目まで影響を与えるほど、列強から「コンパクト強武装艦」として警戒感を持って迎えられた「妙高級」ではあったわけですが、やはり実現にはいくつかの点で無理が生じていました。一つは制限の10000トンを大きく超えた排水量となったことであり、設計と建造技術の乖離が顕在化する結果となりました。併せて、連装砲塔5基に搭載した主砲だったわけですが、その散布界(着弾範囲=命中精度)が大きく、主砲を6門、同じ連装砲塔形式で搭載した前級「青葉級」よりも低い命中精度しか得られないと言う結果となりました。さらに、上記の経緯で無理をして魚雷発射管を船体内に搭載したため、居住スペースが縮小され、居住性を劣化させることになりました。
こうしたその強兵装に対する畏怖と、一方で、あらゆる兵装を詰め込んだことから生じる劣悪な居住性などへの疑問(嘲笑)から、同級を訪れた外国海軍将校から「飢えた狼」と言う呼称をもらったことは有名な逸話となっています。
その大改装
1932年からの第一次改装と1938年の第二次改装で、同級は、主砲口径を正20センチから8インチ8(20.3センチ)に拡大しました。これにより、主砲弾重量が110kgから125kgに強化されました。また高角砲を単装砲架6基から連装砲4基へと強化、さらに懸案の魚雷発射管を船内に搭載した3連装発射管4基から、上甲板上に搭載する4連装魚雷発射管4基として、各舷への射線を増やすとともに、より強力な酸素魚雷に対応できるよになりました。
(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時と大改装後の主要な相違点。左列は魚雷発射管の装備位置:大改装後、発射管は上甲板上に装備されました。右列は水上偵察機の搭載位置の変化:大改装後にはカタパルトが2機に増設され、整備甲板が設置されました)
上甲板上の魚雷発射管を覆う形状で水上偵察機の整備甲板を設置し、カタパルトを増設、搭載水上偵察機数も増やしています。
この大改装で、排水量が増加し、速力が33ノットに低下しています。
駆逐艦 島風、早霜、秋霜、 岸波、沖波、朝霜、長波、 浜波、藤波
第二水雷戦隊は、阿賀野級軽巡洋艦「能代」を旗艦とし、重雷装高速駆逐艦「島風」と九隻の夕雲級駆逐艦で構成されていました。
「能代」
レイテ沖海戦に第1遊撃部隊(栗田艦隊)の旗艦として参加。作戦を通じ対空戦闘や米護衛空母部隊の追撃戦(サマール島沖海戦)などに従事しますが、作戦中止後、帰投途上で、米機動部隊の艦載機の攻撃を受け、魚雷1発が命中し航行不能となりました。本隊が退避したため、「能代」は米艦載機の集中攻撃を受け、さらに魚雷1本を受け沈没しました。
(直上の写真は、「阿賀野級」の就役時の概観。138mm in 1:1250 by Neptune)
Agano-class cruiser - Wikipedia
日本海軍では、高速化する駆逐艦と、その搭載する強力な魚雷に大きな期待を寄せ、 水雷戦隊をその中核戦力の一環に組み入れてきました。そしてこの戦隊を統括し指揮する役目を軽巡洋艦に期待してきたわけです。
その趣旨に沿って建造されたのが、一連の「5500トン級」軽巡洋艦でした。この艦級は初期型5隻(1917年から順次就役)、中期型6隻(1922年から順次就役)、後期型3隻(1924年から順次就役)、計14隻が建造されその適応力の高さから種々の改装等を受け適宜近代化に対応してきましたが、1930年代後半に入るとさすがに特に初期型の老朽化は否めず、艦隊の尖兵を構成する部隊の旗艦としては、砲力、索敵能力に課題が見られるようになりました。
「阿賀野級」は、それまでの「5500トン級」とは全く異なる設計で、6650トンの船体に、軽巡洋艦としては初となる15.2cm砲を主砲として採用し連装砲塔を3基搭載していました。この砲自体の設計は古く、名称を「41式15.2cm 50口径速射砲」といい、「金剛級」巡洋戦艦、「扶桑級」戦艦の副砲として採用された砲でした。
同砲は、主砲を単装砲架での搭載を予定していた「5500トン級」軽巡洋艦では人力装填となるため日本人には砲弾が重すぎるとして、少し小さな14cm砲が採用されたという、曰く付きの砲でもあります。しかし。列強の軽巡洋艦は全て6インチ砲を採用しており、明らかに砲戦能力での劣後を避けたい日本海軍は、新造の「阿賀野級」では、この砲を新設計の機装式の連装砲塔で搭載することにしました。
同砲は21000メートルの射程を持ち、砲弾重量45.5kg (14cm砲は射程19000メートル、砲弾重量38kg)。連装砲塔では毎分6発の射撃が可能でした。さらに新設計のこの連装砲塔では主砲仰角が55度まで可能で、一応、対空射撃にも対応できる、とされていました。
(直上の写真は、「阿賀野級」の細部。主砲として採用された41式15.2cm 50口径速射砲の連装砲塔(上段)。高角砲として搭載した長8cm連装高角砲(左下):この砲は最優秀高角砲の呼び声高い長10cm高角砲のダウンサイズですが、口径が小さいため被害範囲が小さく、あまり評価は良くなかったようです。水上偵察機の整備運用甲板とカタパルト(右下))
対空兵装としては優秀砲の呼び声の高い長10cm高角砲を小型化した新型の長8cm連装高角砲2基搭載していました。
雷装としては61cm四連装魚雷発射管2基、艦中央部に縦列に装備し、両舷方向に8射線を確保する設計でした。
航空偵察能力は「5500トン級」よりも充実し、水上偵察機2機を搭載し射出用のカタパルト1基を装備していました。
最大速力は、水雷戦隊旗艦として駆逐艦と行動を共にできる35ノットを発揮しました。
「島風」
(直上の写真:「島風」の概観。101mm in 1:1250 by Neptune)
「島風」は 水雷戦闘に特化した設計の駆逐艦です。ある意味、来るべき総力戦・航空主導下での戦闘の変化等を認識した新・駆逐艦の設計体系の中にありながら、未だに「主力艦艦隊決戦時での肉薄水雷攻撃」の構想を捨てきれなかった日本海軍の「あだ花」的な存在と言えるのではないでしょうか?
レイテ沖海戦には第二水雷戦隊本部付の駆逐艦として参加しています。
サマール島沖の米護衛空母部隊への追撃戦に参加するものの、結局自慢の魚雷発射の機会はありませんでした。
海戦後は、第二水雷戦隊旗艦として、レイテ島への増援輸送作戦に従事し、第三次輸送部隊の一員としてオルモック湾に輸送船とともに突入しますが、米軍機の集中攻撃を受け、輸送部隊は駆逐艦「朝潮」を除いて護衛艦船、輸送船ともに全滅し、「島風」も失われまし
建造中に太平洋戦争が始まり、そこでの海戦のあり方の変化は明らかで、流石に同艦級の活躍の場を想定することは難しく、当初の計画では16隻が整備さえる予定でしたが、建造は「島風」1隻のみにとどまりました。
2500トンの駆逐艦としては大きな船型を持つ「島風」の特徴は、そのずば抜けた高速性能にあります。計画で39ノット、実際には40ノット超の速力を発揮したと言われています。(「夕雲級」が35.5ノット)更に15射線という重雷装を搭載しており(5連装魚雷発射管3基)、一方で予備魚雷は搭載せず、まさに艦隊決戦での「肉薄一撃」に特化した艦であったと言えると思います。
(直上の写真:「島風」の特徴である高速性を象徴するクリッパー型艦首:上段。5連装魚雷発射管3基。次発装填装置は装備していません:下段)
上記の八隻の駆逐艦は全て「夕雲級」駆逐艦で構成されていました。
(直上の写真:「夕雲級」の概観。95mm in 1:1250 by Neptune)
レイテ沖海戦では「早霜」がサマール島沖海戦(米護衛空母軍への攻撃)で護衛空母の艦載機の空襲で損傷を受け、退避中に再度空襲を受け座礁、放棄されました。
その他の艦は当海戦では失われませんでしたが、レイテ島、ルソン島方面の輸送任務等に投入され、「岸波」「沖波」「長波」「浜波」「秋霜」が失われています。
「夕雲級」駆逐艦(19隻)
ja.wikipedia.or 「夕雲級」駆逐艦は、「陽炎級」の改良型と言えます。就役は1番艦「夕雲」(1941年12月5日就役)を除いて全て太平洋戦争開戦後で、最終艦「清霜」(1944年5月15日就役)まで、19隻が建造されました。
その特徴としては、前級の速力不足を補うために、船体が延長され、やや艦型は大きくなりますが、所定の35ノットを発揮することができました。兵装は「陽炎級」の搭載兵器を基本的には踏襲しますが、対空戦闘能力の必要性から、主砲は再び仰角75度まで対応可能なD型連装砲塔3基となりました。しかし、装填機構は改修されず、依然、射撃速度は毎分4発程度と、実用性を欠いたままの状態でした。
(直上の写真:「陽炎級」(上段)と「夕雲級」(下段)の艦橋の構造比較。やや大型化し、基部が台形形状をしています)
「陽炎級」と同様、就役順に第一線に常に投入されますが、その主要な任務は、設計に力点の置かれた艦隊決戦での雷撃能力ではなく、艦隊護衛、船団護衛や輸送任務であり、その目的のためには対空戦闘能力、対潜戦闘能力ともに十分とは言えず、全て戦没しました。
第一遊撃部隊 第一部隊の捷一号作戦(レイテ沖海戦とその後のフィリピン攻防)での損害状況
以下に第一遊撃部隊 第一部隊の作戦回りでの損害をまとめておきましょう。赤字はレイテ沖海戦(10月20日から28日にかけて)で失われた艦船を、緑字はレイテ沖海戦後のフィリピン攻防に関連して失われた艦を表しています。
第一部隊[編集]
- 指揮官:栗田健男中将直率
黒字表記の艦船のうちでも、「高雄」「妙高」はその後十分な行動能力を復帰できませんでした。
というわけで、今回はここまで。
次回はもちろん「栗田艦隊 第二部隊」をご紹介する予定です。
もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。
模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。
特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。
もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。
お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。
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