相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

レイテ沖海戦:志摩艦隊:第五艦隊(第二遊撃部隊)の話

本稿前回で、「扶桑級」戦艦に関連して「西村艦隊:第二艦隊 第二戦隊基幹の別働部隊(第一遊撃部隊 第三部隊)」についてご紹介した訳ですが、その流れで、今回は「西村艦隊」に後続してレイテ 湾に突入した「志摩艦隊:第二遊撃部隊(第五艦隊)」について触れてみたいと思います。

 

第五艦隊の南方転用と志摩中将

太平洋戦争の開戦直前、「第五艦隊」は、それまでの中国大陸周辺での活動を遣支艦隊に集約し、ヨーロッパでの独ソ戦の開始に伴い、主としてソ連警戒と本土東方警戒を担当とする部隊として、新たに編成されました。

新生第五艦隊の司令長官には細萱中将が就任し、太平洋戦争では、ミッドウェー海戦のサイドメニューともいうべきアリューシャン攻略戦、アッツ島沖海戦などを指揮しています。

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アッツ島沖海戦の不手際で、細萱提督は責任を問われて更迭されますが、変わった河西中将の指揮下で、一転、「奇跡」と言われたキスカ島撤退作戦を成功させます。

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1944年2月に志摩中将が司令長官に就任し、おりから急を告げる戦局に応じ、まずマリアナ沖海戦編投入を計画され、東方警備の任にあたるため、北東方面艦隊に在籍のまま横須賀に進出します。サイパン陥落でマリアナへの投入は見送られますが、大湊に帰投後、今度は空母機動部隊の支援部隊として正式に第一機動艦隊指揮下に入ることが決定され、日本本土内海西部に展開することになりました。この時期、本稿前回でご紹介したように戦艦「山城」「扶桑」で編成される新生第二戦隊を第二遊撃部隊に加えることが検討されていました。

台湾・沖縄に来襲したハルゼー機動部隊(米第三艦隊)と、同地域に展開していた日本陸海軍の基地航空部隊の間に「台湾沖航空戦」が惹起し、基地航空部隊に加えて、マリアナ沖海戦での壊滅的損害からようやく再建の端緒についたばかりのなけなしの母艦航空隊をも投入した航空部隊による米機動部隊撃滅の大戦果が報告されると、連合艦隊司令部は志摩中将麾下の第五艦隊(第二遊撃部隊)に「残敵掃討」を下令し、志摩艦隊はフィリピン東方海域に向け出撃しました。第二遊撃部隊は指定海域への進出途中で戦果誤報に気づき引き返しましたが、台湾海域にとどまるよう命じられ、この時点で北東方面艦隊指揮下から、南西方面艦隊に移籍し、台湾帰投後マニラに移動するよう命じられています。

この時点で連合艦隊も軍令部も、第二遊撃部隊をどのように使うかについては、まだ構想がまとまっておらず、したがって第二遊撃部隊には作戦構想も十分な情報も、あるいは他の部隊との連携についても、何も指示がもたらされませんでした。

 

指揮官となった志摩中将は海軍兵学校39期卒で、この時期の将官としては珍しく通信畑の専門家でした。海兵同期には、テニアンで戦死した第一航空艦隊(基地航空部隊)司令長官の角田中将や、珊瑚海海戦の第五航空戦隊司令官原中将(珊瑚海海戦当時は少将)、さらには新生第二戦隊司令官となった西村中将などがいました。

 

コラム:海軍兵科学校の卒業年次の話

海軍兵学校の卒業年次は、将官のポジションを決める人事配置上で絶対で、例えば卒業年次の後の将官が先輩将官の建成艦隊の上席につき指揮することはあり得ませんでした。例えば大戦末期小沢中将が連合艦隊司令長官に就く際には海兵先輩の将官は、全て予備役に編入されるか、軍事参議官あるいは鎮守府司令官、学校関連の職務に転籍しています。

ちなみに太平洋戦争期の主な将官を一覧しておくと、以下のような感じです。(ちょっと長いですが)

28期:永野修身(開戦時軍令部総長・後元帥)

29期:米内光政(1940年第37代内閣総理大臣陸相辞任により辞職(在職6ヶ月)・終戦海軍大臣

31期:及川古志郎(1940年日独伊三国同盟定形辻海軍大臣レイテ沖海戦軍令部総長

32期:山本五十六(第26代・27代連合艦隊司令長官嶋田繁太郎(開戦時海軍大臣・1944年2月から7月まで軍令部総長を兼任)、堀悌吉(ロンドン軍縮会議時の海軍軍務局長;条約推進派・山本五十六の盟友として有名。艦隊派推進人事により中将で予備役編入

33期:豊田副武(第29代・30代連合艦隊司令長官・海兵後輩の古賀峯一が連合艦隊司令長官時には横須賀鎮守府市営長官でした)

34期:古賀峯一(第28代連合艦隊司令長官

35期:近藤信武(開戦時第二艦隊司令長官)・高須四郎(開戦時第一艦隊司令長官・古賀連合艦隊司令長官遭難時に、一時期連合艦隊司令長官代行)

36期:塚原二四三(開戦時第十一航空艦隊司令長官)、南雲忠一(開戦時第一航空艦隊司令長官)そのほかこの代にはあ清水光美(第六艦隊)・高橋伊望(第三艦隊)・細萱戊子郎(第五艦隊) 等、開戦時の建成艦隊司令長官が並んでいます

37期:井上成美(開戦時第四艦隊司令長官)、小沢治三郎(開戦時南遣艦隊司令長官・レイテ沖海戦時の第一機動艦隊司令長官)、草鹿任一(開戦時海軍兵学校長・南東方面艦隊聖霊長官)

38期:栗田健男(開戦時第七戦隊司令官・レイテ海戦時第二艦隊(第一遊撃部隊)司令長官)、三川軍一(開戦時第三戦隊司令官・第八艦隊司令長官・レイテ海戦時には南西方面艦隊司令長官)

39期:伊藤整一(開戦時軍令部次長・天一号作戦(「大和」沖縄特攻作戦)時第二艦隊司令長官)、角田覚治(開戦時第三航空戦隊(軽空母部隊)司令官・マリアナ沖海戦時第一航空艦隊司令長官)志摩清英(開戦時第四艦隊第十九戦隊(機雷敷設部隊)司令官・レイテ沖海戦時第五艦隊(第二遊撃部隊)司令長官)西村祥治 (開戦時第四水雷戦隊司令官レイテ沖海戦時第二戦隊(第二遊撃部隊第三部隊)司令官、原忠一 (開戦時第五航空戦隊司令官

40期:宇垣 纏(開戦時連合艦隊参謀長・レイテ沖海戦時第二艦隊(第一遊撃部隊)第一戦隊司令官大西滝治郎(開戦時第十一航空艦隊参謀長・レイテ沖海戦時第一航空艦隊司令長官)、左近允尚正(レイテ沖海戦時第五艦隊(第二遊撃部隊)第十六戦隊司令官)、鈴木義尾(レイテ沖沖海戦時第二艦隊(第一遊撃部隊)第三戦隊および第二部隊司令官)、福留繁(レイテ沖海戦時第二航空艦隊司令長官)山口多聞 (開戦時第二航空戦隊司令官・ミッドウェーで戦死)

41期:木村昌福(キスか撤退作戦指揮官(第一水雷戦隊司令官)・レイテ沖海戦時第五艦隊(第二遊撃部隊)第一水雷戦隊司令官)・草鹿龍之介 (開戦時第一航空艦隊参謀長・レイテ沖海戦連合艦隊参謀長)

42期:小柳冨次(開戦時戦艦金剛艦長・レイテ沖海戦時第二艦隊(第一遊撃部隊)参謀長)、白石万隆(開戦時第二艦隊参謀長・レイテ沖海戦時第二艦隊(第一遊撃部隊・第二部隊)第七戦隊司令官

**斜体字は戦死あるいは自決等、赤字レイテ沖海戦への関与者を示しています

 

もちろん前も後ろもまだまだ続きますが、さらに興味のある方は以下のリンクで。

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レイテ沖海戦と「志摩艦隊」

前述のように、「志摩艦隊」は来るべき「捷号作戦」(いわゆるレイテ沖海戦として具現化します)における使用意図等も決まらないまま、取りえあえずマニラへ移動せよと指示されるわけですが、当時の戦闘序列は以下のようなものでした。

志摩艦隊(第五艦隊:第二遊撃部隊)の戦闘序列

第二十一戦隊(第五艦隊司令長官直率)重巡洋艦 那智、足柄

第一水雷戦隊(司令官:木村昌福少将)軽巡洋艦 阿武隈

   第七駆逐隊 駆逐艦 曙、潮

   第十八駆逐隊 駆逐艦 霞、不知火

   第二十一駆逐隊 駆逐艦 初春、若葉、初霜(主隊に合流できず、レイテ湾突入戦には参加せず)

第十六戦隊 (司令官:左近弁尚正少将)重巡洋艦 青葉、軽巡洋艦 鬼怒、駆逐艦 浦波(第二遊撃部隊主隊合流前に「青葉」が損傷、レイテ湾突入戦には参加せず)

その後、結局、レイテ湾への突入を命じられるわけですが、作戦意図の詳しい説明も、協同すべき他の部隊との連絡も、とる機会があったようには見えません。しかも上述のように、全戦力での突入ができたわけではなく、突入に使えた戦力は結局、重巡洋艦二隻、軽巡洋艦一隻、駆逐艦四隻、計七隻という小さなものでした。(奇しくも先行した「西村艦隊」も計七隻の艦隊でした)

「志摩艦隊」は「西村艦隊」に後続する形でレイテ湾に突入(10/25 3:00am)するのですが、「志摩艦隊」の突入時には先行した「西村艦隊」はほぼ壊滅しており、結局、志摩提督は「西村艦隊」の残存兵力(と言っても大火災を起こした「最上」と駆逐艦「時雨」のに席にすぎませんでしたが)を吸収して、旗艦「那智」が「最上」と衝突損傷したこともあり、そのまま突入を断念し撤退しました。

戦術的には第一遊撃部隊と第二遊撃部隊からなる日本海軍の水上戦闘艦隊は、北方から(というより航路的には東方から、と言ったほうが正確かもしれません)その主力(栗田艦隊)が、南方から支隊(西村艦隊・志摩艦隊)がレイテ湾に侵入する形となり、キンケード提督の率いる第七艦隊の水上戦闘部隊(オルデンドルフ部隊)は南方の支隊に誘引される形となり、陽動的な役割を「西村艦隊」「志摩艦隊」は果たせたことになります。しかしこれには「突入タイミングが、あっていれば」という大きな条件が伴います。

そして史実では、突入主隊である「栗田艦隊」は10/24のシブヤン海での海空戦で大きな損害を出し、一旦北方への欺瞞反転を行ったため、「西村艦隊」「志摩艦隊」の突入時点では未だレイテ島の北方にあるサマール島沖合にあり、間に合いませんでした。さらにこの後、サマール島沖で米第七艦隊の護衛空母群と戦闘を行い、その後いわゆる「謎の反転」を行い、レイテ湾には突入しませんでした。

 

「志摩艦隊」が「西村艦隊」と異なり突入を断念し戦場を離脱した背景には、「栗田艦隊」の苦戦と一時反転の情報を得ており、この突入が主力(栗田艦隊)突入の陽動効果を果たし得ないこと、さらに単独突入となった場合に共同すべき「西村艦隊」が既に壊滅しており、「志摩艦隊」単独では効果を発揮できないこと、などへの考慮があったのではないでしょうか?

いずれにせよ「志摩艦隊」は戦場を離脱してしまうのです。この志摩中将の判断は、欧米の戦史研究では、「同海戦での、日本海軍首脳のほぼ唯一の理性的な判断」と評価が高いようです。一見、華々しい「勇戦」(=同海戦ではこの「勇戦」は艦隊をすり潰すことにほぼ等しいのですが)よりも、戦いの粘り強さ、のようなものを評価視点にするのは、文化的な差異でしょうか?それとも、「合目的性」に対する適合性という視点でしょうか?

どうやらこの重大な戦局に面して、初めて日本海軍首脳部(軍令部、連合艦隊司令部、さらに作戦実施艦隊司令部も)は「総力戦」的な作戦目的(上陸部隊の撃滅)をせっかく設定しながら、やはり「艦隊決戦」の思想から脱しきれなかったように思われます。作戦目的の記述が「撃滅目標」よりも「艦隊をすり潰す」という方法論にどうも重きが置かれているように見えるのですが。日本海軍の根源的な課題が、この辺りに見え隠れするような気がしています。

まあ、このテーマは、多分、本稿のどこか(それ程遠くないいつか)で触れることになるであろうレイテ 海戦での「栗田艦隊」あるいは「小沢機動部隊」あたりで、また記述する機会があるでしょう。

 

 「志摩艦隊」の艦船

第二十一戦隊(重巡那智・足柄)

第二遊撃部隊編成当時の第二十一戦隊は、「妙高級」重巡洋艦那智」「足柄」で編成されていました。

妙高重巡洋艦 -Myoko class heavy cruiser-(妙高:1929-終戦時残存 /那智:1928-1944/足柄:1929-1945/羽黒:1929-1945)   

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第二十一戦隊当時の「那智」「足柄」

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の大改装後の概観。166mm in 1:1250 by Neptune) 

 

就役時の妙高重巡洋艦

妙高級」巡洋艦は、ワシントン体制の制約の中で、日本海軍初の条約型巡洋艦として設計・建造されました。すなわち、補助艦艇の上限枠である基準排水量10000トン、主砲口径8インチと言う制約をいっぱいに使って計画された巡洋艦であったわけです。

設計は平賀譲が主導しました。彼は既に軽巡洋艦「夕張」、強化型偵察巡洋艦「古鷹型」でコンパクトな艦体に重武装を施すと言うコンセプトを具現化してきており、ある意味、本級はその「平賀デザイン」の集大成と言ってもいいでしょう。

後に、1930年のロンドン海軍軍縮条約では、それまで保有上限を設けていなかった補助艦艇にも保有数の制約が設けられました。特に巡洋艦については、艦体上限の基準排水量10000トンについては変更されませんでしたが、主砲口径でクラスが設けられ、8インチ以下6.1インチ以上をカテゴリーA(いわゆる重巡洋艦の定義がこうして生まれたわけです)とし、日本海軍は対米6割の保有上限を課せられました。「妙高級」の竣工が1929年である事を考慮に入れると、「古鷹級」「妙高級」などの登場による日本式コンパクト重装備艦に対する警戒感が背景の一つにあったと言ってもいいでしょう。

これにより、本来は上述のように強化型偵察巡洋艦であった「古鷹級」、その改良型である「青葉級」も、「準主力艦」として建造された「妙高級」も、一括りにカテゴリーA(重巡洋艦)と分類され、その総保有数が制限されることになります。

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の概観。166mm in 1:1250 by Konishi) 

 

設計と建造

妙高級」は、その設計は、前級である「古鷹級」「青葉級」の拡大型と言えるでしょう。

しかし、強化型偵察巡洋艦として、5500トン級軽巡と同様に時として駆逐艦隊を率いて前哨戦を行う可能性のある「古鷹級」「青葉級」と異なり、強力な攻撃力と防御力を併せ持つ準主力艦を目指す本級では、平賀は、用兵側が強く要求した魚雷装備を廃止し、20センチ連装主砲塔5基を搭載する、当時の諸列強の巡洋艦を砲力で圧倒する設計を提案しました。

平賀のこの設計の背景には、竣工当時の魚雷に、上甲板からの投射に耐えるだけの強度がなく、一段低い船内に魚雷発射管を設置せねばならなかったと言う事情が強く働いていたようです。平賀は艦体の設計上、被弾時の魚雷の誘爆に対する懸念から、船内への搭載に強く抵抗し、「妙高級」では用兵側の要求であった20センチ砲8門搭載を10門に増強することにより、雷装を廃止した設計を行い、用兵側の反対を受け入れず押し切ったと言われています。 

平賀にすれば、同級は20センチ砲10門に加えて、12センチ高角砲を単装砲架で6基搭載しており、「水雷戦隊を率いる可能性のある偵察巡洋艦ならまだしも、準主力艦である本級にはすでに十分強力な砲兵装が施されており、誘爆が大損害に直結する船体魚雷発射管の装備は見送るべき」と言うわけですね。

この提案は一旦は承認されましたが、軍令部は平賀の外遊中に留守番の藤本造船官に、魚雷発射管を船体内に装備するよう、設計変更を命じました。この時同時に、「青葉級」の主砲搭載形式でも、軍令部の連装砲塔搭載の要望に対し、船体強度の観点から「古鷹級」で採用した単装砲架形式を主張して譲らない平賀の設計を、やはり軍令部は藤本に命じて設計変更をさせています。用兵当事者から見れば、平賀は自説に固執し議論すらできない、融通の効かない設計官と写っており、この後、平賀は海軍の艦艇設計の中枢を追われることになります。

結局、建造された「妙高級」は、正20センチ主砲を連装砲塔で5基、12センチ高角砲を単装砲架で6基、61センチ3連装魚雷発射管を各舷2基、計4基を搭載する強力な軍艦となりました。

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の主砲配置と単装高角砲の配置。かなり砲兵装に力を入れた装備ですね)

 

さらに、航空艤装としては水上偵察機を2機収納できる格納庫を艦中央部に設置し、当初から射出用のカタパルトを搭載していました。 

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の魚雷発射管。「古鷹級」と同様、当時の魚雷の強度を考慮し、船体内に搭載されています。;上段写真/ 下段写真は航空艤装。当初からカタパルトを装備していました。水上偵察機を2機収納できる格納庫はカタパルトの手前の構造物) 

 

数値的には列強の同時期の条約型重巡洋艦よりも厚い装甲を持ち、重油専焼缶12機とタービン4基から35.5ノットの最高速度を発揮する設計でした。

すでにこの時期には平賀は海軍建艦の中枢にはいませんでしたが、ある意味「平賀デザイン」の集大成であり、ロンドン軍縮条約の制約項目まで影響を与えるほど、列強から「コンパクト強武装艦」として警戒感を持って迎えられた「妙高級」ではあったわけですが、やはり実現にはいくつかの点で無理が生じていました。一つは制限の10000トンを大きく超えた排水量となったことであり、設計と建造技術の乖離が顕在化する結果となりました。併せて、連装砲塔5基に搭載した主砲だったわけですが、その散布界(着弾範囲=命中精度)が大きく、主砲を6門、同じ連装砲塔形式で搭載した前級「青葉級」よりも低い命中精度しか得られないと言う結果となりました。さらに、上記の経緯で無理をして魚雷発射管を船体内に搭載したため、居住スペースが縮小され、居住性を劣化させることになりました。

こうしたその強兵装に対する畏怖と、一方で、あらゆる兵装を詰め込んだことから生じる劣悪な居住性などへの疑問(嘲笑)から、同級を訪れた外国海軍将校から「飢えた狼」と言う呼称をもらったことは有名な逸話となっています。

 

1932年からの第一次改装と1938年の第二次改装で、同級は、主砲口径を正20センチから8インチ8(20.3センチ)に拡大しました。これにより、主砲弾重量が110kgから125kgに強化されました。また高角砲を単装砲架6基から連装砲4基へと強化、さらに懸案の魚雷発射管を船内に搭載した3連装発射管4基から、上甲板上に搭載する4連装魚雷発射管4基として、各舷への射線を増やすとともに、より強力な酸素魚雷に対応できるよになりました。

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時と大改装後の主要な相違点。左列は魚雷発射管の装備位置:大改装後、発射管は上甲板上に装備されました。右列は水上偵察機の搭載位置の変化:大改装後にはカタパルトが2機に増設され、整備甲板が設置されました)

 

上甲板上の魚雷発射管を覆う形状で水上偵察機の整備甲板を設置し、カタパルトを増設、搭載水上偵察機数も増やしています。

この大改装で、排水量が増加し、速力が33ノットに低下しています。

 

那智」:太平洋戦争開戦時、第五戦隊の一員としてフィリピン攻略戦に参加。損傷した「妙高」に代わり第五戦隊旗艦となり、その後のジャワ方面の攻略戦に参加します。スラバヤ沖海戦(後述します)で、連合国艦隊(いわゆるABDA艦隊)に勝利したのち、一転して北方部隊に編入され、北方部隊の基幹部隊である第五艦隊旗艦となります。

第五艦隊旗艦としてミッドウェー作戦と並行して実施されたアリューシャン作戦に参加。アッツ沖海戦、キスカ撤退作戦に参加した後、戦局の悪化に伴い、第五艦隊は北方警備から転じて、本州南部の警備に従事し、台湾沖航空戦での残敵掃討(実は米艦隊はほとんど損傷していなかったので幻の「残敵」を追うことになったわけですが)に出撃しますが、もとより残敵に遭遇することなく南西諸島・台湾方面に待機することになりました。

1944年10月のレイテ沖海戦には、第二遊撃部隊(第五艦隊、志摩部隊)旗艦として、第一遊撃部隊別働隊の西村艦隊(第二戦隊基幹)の後を追って、スリガオ海峡に突入します。が、先行した西村艦隊の壊滅時の混乱に巻き込まれ損傷して退避中の西村艦隊の重巡「最上」と衝突、指揮官の志摩中将は突入を断念し、戦場から退避を下令します。

海戦敗北後、同艦はマニラ周辺での輸送任務に従事しますが、1944年11月初旬の米艦載機のマニラ湾空襲で爆弾と魚雷を多数受け、沈没しました。

 

「足柄」:太平洋戦争開戦時には、第五戦隊の序列を離れフィリピン侵攻作戦の主隊である第十六戦隊旗艦となり、同戦隊の所属する第三艦隊の旗艦も併せて務めます。同戦隊はフィリピン攻略戦、ジャワ方面攻略戦に転戦しました。

ついで第二南遣艦隊旗艦となり、シンガポール方面の警備等に従事しました。その後、第五艦隊に所属し北方警備に従事した後、第五艦隊所属のまま、台湾沖航空戦での「残敵掃討」任務(実際には米艦隊にはほとんど損害がなかったため「残敵」などなく、空振りの出撃となりましたが)に出撃し、台湾方面に遊弋中に、志摩艦隊の一員として僚艦「那智」とともにレイテ沖海戦に参加しました。

海戦敗北後、南西方面艦隊所属となり、「日本海軍の最後の組織的戦闘での勝利」と言われる「礼号作戦」に参加した後、南方に分断された艦艇で編成された第十方面艦隊に所属しました。1945年6月、単艦で陸軍部隊の輸送任務中に英潜水艦の雷撃を受け、沈没しました。

 

 第一水雷戦隊

第一水雷戦隊第は、太平洋戦争緒戦、真珠湾作戦に参加、空母機動部隊の護衛を務めました。その後、同機動部隊に帯同してジャワ攻略戦、インド洋作戦に参加した後、北方部隊である第五艦隊に編入され、以降、第五艦隊の基幹部隊となりました。

軽巡洋艦阿武隈」(旗艦)

第一水雷戦隊の旗艦「阿武隈」は、いわゆる5500トン級軽巡洋艦の第二グループ「長良級」の最終艦です。

日本海軍のワークホース! 

長良級軽巡洋艦 -Nagar class light cruiser-(長良:1922-1944 /五十鈴:1923-1945/名取:1923-1944/由良:1923-1942/鬼怒:1922-1944/阿武隈:1925-1944 )  

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Nagara-class cruiser - Wikipedia

軽巡洋艦阿武隈

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(直上の写真は、「長良級」6番艦「阿武隈」の概観。カタパルトを搭載した太平洋戦争開戦時の姿を示しています)

 「阿武隈」:「阿武隈」は「長良級」の他艦とはやや異なる外観を有していました。1930年に衝突事故を起こし、艦首の損傷を修復する際に、それまでのスプーン・バウ型から、凌波性に優れたダブル・カーべチュア型に改めました。

1938年には、「長良級」では唯一、太平洋開戦以前に魚雷兵装強化の改装を受け、前部の連装魚雷発射管を撤去して、後部の連装魚雷発射管を4連装魚雷発射管に換装し、強力な酸素魚雷の運用が可能となりました。

この背景には、同艦の建造中に関東大震災があり、工期が長引き就役年次が遅れたため、「長良級」の他艦に比べると艦齢が若く、改装が優先されたという事情があったと、言われています。

(直下の写真は、「長良級」の他艦と「阿武隈」の艦首形状の違いを示したもの。「阿武隈」では、衝突事故による艦首の損傷時に凌波性に優れたダブル・カーブドバウに艦首形状を改めていました

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開戦時には、第一水雷戦隊の旗艦として真珠湾作戦に参加、空母機動部隊の護衛を務めました。その後、同機動部隊に帯同してジャワ攻略戦、インド洋作戦に参加した後、北方部隊である第五艦隊に編入されました。アリューシャン攻略戦、アッツ島沖海戦、キスカ撤退作戦に参加した後、同級の「長良」「名取」「鬼怒」と同様、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、対空兵装の強化が行なわれました。

その後、レイテ沖海戦には第五艦隊の一員として志摩中将の指揮下で参加し、スリガオ海峡海戦で米魚雷艇群と交戦し被雷。速力が低下したため戦場を離脱後の翌朝、米艦載機、米陸軍機の数次にわたる空襲を受け損傷を重ね、1944年10月、フィリピン諸島ネグロス島沖で沈没しました。

 

第七駆逐隊 駆逐艦 曙」「潮」

レイテ沖海戦当時、第七駆逐隊は「吹雪級」駆逐艦II型(「綾波級」と呼称されることも)「曙」「潮」の二隻で編成されていました。

「吹雪級」駆逐艦(24隻)

 

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 ワシントン軍縮条約の締結により、日本海軍は進行中の八八艦隊計画を断念、さらに主力艦は保有制限が課せられ、制限外の巡洋艦以下の補助艦艇についても仮想敵国である米国との国力差から、保有数よりも個艦性能で凌駕することをより強く意識するようになります。

こうして海軍が提示した前級「睦月級」を上回る高性能駆逐艦の要求にこたえたものが「吹雪級」駆逐艦です。1700トンの船体に、61cm3連装魚雷発射管を3基(9射線:「睦月級」は6射線)、主砲口径をそれまでの12cmから12.7cmにあげて連装砲等3基6門(「睦月級」は12cm砲4門)、速力37ノット(「睦月級」と同等)と、それまでの駆逐艦とは一線を画する高性能艦となりました。

搭載主砲塔、機関形式の違い等から、Ⅰ型、Ⅱ型、Ⅲ型の3形式があり、それぞれ10隻、10隻、4隻、合計24隻が建造されました。

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(直上の写真:「吹雪級」の各形式。右からI型、II型、Ⅲ型の順。下段写真は各形式の主砲塔と缶室吸気口・煙突形状の比較。右からI型、II型、Ⅲ型の順:詳細は各形式で説明します)

Ⅱ型(10隻):概観上の特徴は、連装主砲塔を仰角75度まで上げた対空射撃も可能としたB型としたことと、缶室吸気口を前出の「改Ⅰ型」で採用された、海水浸水のより少ない「お椀型」としたことです。

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(直上の写真:「吹雪級II型」の概観。94mm in 1:1250 by Trident)

 

曙:レイテ沖海戦では、「曙」は特に大きな損傷を受けることはなく、レイテ湾突入時に米艦隊の砲撃で大破した「西村艦隊」の「最上」を護衛して退避中、米軍機の空襲を受けます。この空襲で航行不能となった「最上」を魚雷で処分しています。

その後、マニラ・レイテ間の陸兵輸送に従事したのち、11月米軍機のマニラ空襲で損傷、桟橋に係留して修復待ちのところを再度空襲されて着底、沈没しました。

 

潮:レイテ沖海戦では損傷した水雷戦隊旗艦「阿武隈」を護衛して退避しますが、退避途中で「阿武隈」は空襲で沈没し、「潮」は「阿武隈」生存者を収容してフィリピン諸島西方のコロン島に帰還しました。

その後、南西方面での輸送任務・護衛任務に活躍しますが、11月マニラ空襲で損傷。主機を損傷して一軸推進となったまま大破した「妙高」の護衛(「妙高」は米潜水艦により撃沈されます)、船団護衛等の任務につきながら1945年1月に横須賀に帰還、主機損傷のまま係留され終戦を迎えました。

 

第十八駆逐隊 駆逐艦 「霞」「不知火」

レイテ沖海戦当時、第十八駆逐隊は 「朝潮級」駆逐艦「霞」と「陽炎級駆逐艦「不知火」の2隻で編成されていました。

朝潮級」駆逐艦(10隻)

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ロンドン条約保有制約から大型駆逐艦保有制限を受けた日本海軍は、「初春級」「白露級」と中型駆逐艦を就役させた日本海軍でしたが、先述の通り、小さな船体に重武装・高性能の意欲的な設計を行ったが故に、無理の多い仕上がりとなり、結果的に期待を満たす性能は得られない結果となりました。

このため、次級の「朝潮級」では「吹雪級」並みの大型駆逐艦の設計を戻されることになりました。設計時期にはまだロンドン条約の制約は生きていましたが、ロンドン条約からの脱退を見込んでいたため、もはや艦型への制限を意識する必要がなくなる、という前提での設計方針の変更でもありました。

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(直上の写真:「朝潮級」の概観。94mm in 1:1250 by Neptune)

 

こうして「朝潮級」は2000トン級の船体に、「白露級」で採用された4連装魚雷発射管2基を搭載し8射線を確保、次発装填装置を備え魚雷16本を搭載、主砲には「50口径3年式12.7cm砲」を仰角55度の平射型C型連装砲塔3基6門搭載したバランスの取れた艦となりました。機関には空気予熱器つきの缶(ボイラー)3基を搭載、35ノットの速力を発揮する設計でした。こうして日本海軍は、ほぼ艦隊駆逐艦の完成形とも言える艦級を手に入れたわけですが、一点、航続距離の点で要求に到達できず、建造は10隻のみとなり、次の「陽炎級」に建造は移行することになりました。

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(直上の写真:「朝潮級」の特徴である次発想定装置付きの4連装魚雷発射管(上段)と、艦尾部に配置された「白露級」と同じC型連装砲塔:仰角55度の平射用砲塔でした)

 

太平洋戦争には10隻が参加し、全て戦没しました。

 

霞:「霞」は、レイテ沖海戦よりコロン島に帰還後、マニラ・レイテ間の輸送護衛任務に就いています。その後、損傷していた戦艦「榛名」の内地帰還を護衛。その後、第二水雷戦隊旗艦として日本海軍最後の戦術的勝利と言われた「礼号作戦」(ミンドロ島攻撃作戦)に参加した後、シンガポールに帰還しました。本土への物資輸送作戦となった「北号作戦」に帯同して本土に帰還後、1945年3月、「天一号作戦」(大和以下、第二艦隊の沖縄特攻)に、第二水雷戦隊の一員として参加、米軍機の空襲で撃沈されました。

 

陽炎級駆逐艦(19隻)

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(直上の写真:「陽炎級」の概観。94mm in 1:1250 by Neptune)

 

陽炎級駆逐艦は、前級「朝潮級」の船体強度改修後をタイプシップとして、その課題として残されていた速力・航続距離を改善すべくされました。兵装は「朝潮級」の継承し、2000トン級の船体に、4連装魚雷発射管2基を搭載し8射線を確保、次発装填装置を備え魚雷16本を搭載、主砲には「50口径3年式12.7cm砲」を仰角55度の平射型C型連装砲塔3基6門搭載とされました。

朝潮級」の課題とされた速度と航続距離に関しては、機関や缶の改良により改善はされましたが、特に速力については、以前課題を残したままとなり、推進器形状の改良を待たねばなりませんでした。

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(直上の写真:「陽炎級」では、次発装填装置の配置が変更されました。左列が「朝潮級」、右列が「陽炎級」。「陽炎級」の場合、1番魚雷発射管の前部の次発装填装置に搭載された予備魚雷を、装填する際には発射管をくるりと180°回転させて発射管後部から。魚雷の搭載位置を分散することで、被弾時の誘爆リスクを低減する狙いがありました)

 

太平洋戦争開戦時には、最新鋭の駆逐艦として常に第一線に投入されますが、想定されていた主力艦艦隊の艦隊決戦の機会はなく、その主要な任務は艦隊護衛、船団護衛や輸送任務であり、その目的のためには対空戦闘能力、対潜戦闘能力ともに十分とは言えず、常に悪先駆との末、同型艦19隻中、「雪風」を除く18隻が戦没しました。

 

不知火:「不知火」は、レイテ湾突入戦での戦闘では大きな損傷はありませんでしたが、西村艦隊残存の「最上」と衝突し損傷した「那智」を護衛して退避、コロン島に帰還した同日、第五艦隊第十六戦隊の損傷した「鬼怒」救出に向かいます。現場に到着した時点ですでに「鬼怒」は沈没しており、「不知火」はその帰途、米機動部隊の空襲で、撃沈されました。

 

第二十一駆逐隊 駆逐艦 「初春」「若葉」「初霜」

 レイテ海戦当時の第二十一駆逐隊は「初春級」中型駆逐艦「初春」「若菜」「初霜」の三隻で編成されていました。第二十一駆逐隊は、マニラへの輸送任務に就いていたため、輸送任務終了後、ミンダナオ島周辺で第二遊撃部隊本隊と合流する計画でした。しかし、合流前に米艦載機の攻撃を受け、「若菜」が撃沈され、合流が果たせず、したがってレイテ湾への突入作戦には参加できませんでした。

 

「初春級」駆逐艦(6隻)

ワシントン条約に続く ロンドン条約では、それまで制限のなかった補助艦艇にも制限が加えられ、駆逐艦にも保有制限枠が設けられました。特に駆逐艦には1500トンを超える艦は総保有量(合計排水量)の16%以内という項目が加えられました。このため1700トン級(公称)の「吹雪級」駆逐艦をこれ以上建造できなくなり(日本としては財政的な視点から、「吹雪級」の増産を継続するよりも、もう少し安価な艦で数を満たす切実な事情もあったのですが)、次の「初春級」では、1400トン級の船体と「吹雪級」と同等の性能の両立という課題に挑戦することになりました。

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結果として、竣工時の「初春級」駆逐艦は、主砲として、艦首部に「吹雪級」と同じ「50口径3年式12.7cm砲」B型連装砲塔とB型連装砲塔と同じく仰角を75度に改めたA型改1単装砲塔を背負い式に装備し、艦尾にB型連装砲塔を配置しました。さらに「吹雪級」と同じ61cm3連装魚雷発射管を3基(9射線)を装備し、予備魚雷も「吹雪級」と同数を搭載。加えて次発装填装置をも初めて装備し、魚雷発射後の再雷撃までの時間短縮を可能としました。機関には「吹雪級Ⅲ型」と同じ空気予熱器付きの缶3基を搭載し、36.5ノットの速力を発揮することができました。

1400トン級のコンパクトな船体に「吹雪級」とほど同等な重武装と機関を搭載し、かつ搭載する強力な主砲と雷装を総覧する艦橋は大型化したことにより、無理を重ねた設計でした。そしてそれは顕著なトップヘビーの傾向として顕在化することになります。

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(直上の写真は「初春級」竣工時の概観:88mm in 1:1250 by Neptuneをベースにセミ・スクラッチ

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(直上の写真は、「初春級」竣工時の特徴のアップ。左上:艦橋部。艦橋部の下層構造を延長し、艦橋の位置をやや後方へ。艦橋部下層構造の前端に2番主砲塔(単装)を、1番主砲塔(連装)と背負い式になるように配置。右上:2番魚雷発射管。下段左と中央:後橋部分と2番・3番発射管の配置状況。3番発射管自体は、船体中心線に対し、やや右にオフセットした位置に追加。細かいこだわりですが、一応、3番発射管用の次発装填装置を後橋部の構造建屋の上に設置。2番発射管用の次発装填装置は後橋部建屋の左側の斜め張り出し部に内蔵されています)

 

既に公試時の10度程度の進路変更時ですら危険な大傾斜傾向が現れ、バルジの追加等で何とか就役しますが、この設計原案での建造は「初春」と「子の日」の2隻のみのとどめられました。さらにその後の発生した友鶴事件により、設計は復原性改善を目指して全面体に見直されました。

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初春:竣工時の艦型概観(「初春」「子の日」のみ)

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このげ初春:復原性改修後の艦型概観

(上のシルエットは次のサイトからお借りしています

http://www.jam.bx.sakura.ne.jp/dd/dd_class_hatsuharu.html

残念ながら、竣工時の「初春級」については 1:1250スケールのモデルがありません。スクラッチにトライするには、やや手持ちの「初春級」のモデルが足りていません。 いずれはトライする予定ですが、今回はご勘弁を<<<セミ・スクラッチによる竣工時モデルを上記に追加投稿しました)

 

その性能改善工事は、61cm3連装魚雷発射管の3基から2基への削減(併せて搭載魚雷数も3分の2に削減)、主砲塔の配置を艦首に連装砲塔1基、艦尾部に単装砲塔と連装砲塔を各1基の配置と搭載方法を変更し、武装重量の削減とバランスの改善を目指します。さらに艦橋・煙突の高さを下げ、艦底にバラストを追加搭載するなど重心の低下をおこなった結果、艦容を一変するほどのものになりました。その結果、復原性の改善には成功しましたが、船体重量は1800トン近くに増加し速度が36.5ノットから33.3ノットに低下してしまいました。

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(直上の写真:復原性改善修復後の「初春級」の概観。88mm in 1:1250 by Neptune)

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(直上の写真:「初春級」の特徴である次発想定装置付きの3連装魚雷発射管(上段)と、艦尾部に背中合わせに配置された単装主砲砲塔と連装砲塔:仰角75度の高角射撃も可能とした砲塔でした。この砲塔は装填機構の問題から装填次に平射1に戻さねばならず、射撃速度が低く対空砲としては実用性に乏しいものでした)

 

復原性修復後のモデルとの比較は以下に。二枚とも、上が「竣工時(今回セミ・スクラッチ製作したモデル)」、下が「復原性修復後」のモデル(Neptune社の現行の市販モデル)。

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「竣工時」の過大な兵装とそれに因る腰高感が表現できているかどうか・・・。できているんじゃないかな(とちょっと自画自賛)。 

 

当初は12隻が建造される予定でしたが、上記のような不具合から6隻で建造が打ち切られ、全て太平洋戦争で失われました。

 

初春:前述のように本隊合流を果たせずレイテ湾突入戦には参加していません。その後、レイテへの輸送作戦(多号作戦)に警戒隊として従事したのち、1944年11月のマニラ空襲で損傷し沈没しました。

 

若菜:前述のように、第二十一駆逐隊は台湾からフィリピンへの輸送任務で第二遊撃部隊主隊と別行動を依っていましたが、ミンダナオ島周辺で本体と合流し、レイテ湾へ突入する計画でした。しかし合流前に米艦載機の空襲有を受け、その際に「若葉」は被弾し沈没しています。(1944年10月)このため第二十一駆逐隊は第二遊撃部隊本体との合流を断念しています。

 

初霜:先述の主隊合流前の米艦載機の空襲で、小型爆弾を被弾し損傷し、泊地に帰還しています。マニラで損傷修復後、レイテ方面への輸送作戦(多号作戦)に従事、前述の「霞」と共に損傷した「榛名」の内地帰還を護衛した後、やはり損傷した「妙高」のシンガポール回航に従事、さらに「礼号作戦」(本土への物資輸送)に従事して本土に帰還しています。

その後、「天一号作戦」に第二水雷戦隊として参加、旗艦「矢作」沈没後、古村戦隊司令官を収容して旗艦となっています。

生還後、舞鶴宮津湾)へ移動し、同地で米軍の機雷封鎖を受けた上で空襲を受け、損傷、さらに触雷して沈没しました。

 

第十六戦隊 重巡洋艦 「青葉」軽巡洋艦 鬼怒」駆逐艦 「浦波」

同戦隊は、第二遊撃部隊の他の部隊と異なり、元来、南方で編成され、南方・インド洋方面での輸送・警備・通商破壊島の任務に就いていました。レイテ戦を控え、当初は第一遊撃部隊(栗田艦隊)に編入されていましたが、直前に第二遊撃部隊(志摩艦隊)に配置換えになりました。リンガ泊地から回航途上(10月23日)旗艦「青葉」が米潜水艦の魚雷攻撃を受け被雷、第二遊撃部隊に合流できませんでした。(合流し、主隊とレイテ湾を目指す予定だったのか、それともレイテへの輸送任務に従事する予定だったのか、あまり判然としません。どなたかご存知であれば)

青葉級重巡洋艦 -Aoba class heavy cruiser-(青葉:1927-1945 /衣笠:1927-1942)   

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Aoba-class cruiser - Wikipediaf:id:fw688i:20200506161108j:image

(直上の写真は、「青葉級」竣工時の概観。 148mm in 1:1250 by Semi-scratched based on Trident : Trident社製「古鷹級:竣工時」のモデルをベースに、主砲搭載形式、高角砲、水上偵察機搭載形式、等をセミクラッチし、「青葉級」の竣工時を再現してみました。実際には艦橋構造、煙突の形状などがもっと異なっていたようです)

 

 

「古鷹級」のいくつかの課題に改訂を加えて生まれたのが「青葉級」です。

本来は「古鷹級」の3番艦、4番艦として建造される計画だったのですが、同級の計画中に次級「妙高級」の基本設計が進められており、この内容を盛り込んだ、いわば「妙高級の縮小型」と言う性格も併せ持つ改訂となりました。

最大の変更点はその主砲を「古鷹級」の単装砲架形式から連装砲塔形式に変更したところで、この変更により、前述のように装弾系が射撃速度の維持等の点で問題のあった人力から機装式となり、格段な戦力強化につながりました。(後年、これに基づいた兵装転換が「古鷹級」にも行われ、同級の運用上の効率が向上した事は、前述の通りです)

 

「連装砲塔」の話

設計者の平賀が船体の設計上の要件から、強いこだわりを持っていた単装砲架形式での主砲搭載であったわけですが、本来同型艦であったはずの「青葉級」での、この連装砲塔形式への改定については、その承認経緯に諸説があります。既に設計が進んでいた平賀自身が携わっていた次級「妙高級」での連装砲塔採用が決まっていたことから、ようやく砲術上の要求を自覚した、とする説や、平賀の外遊中に平賀に無断で用兵側の要求に基づく設計変更が行われ、帰朝後にこれを聞いた平賀が激怒したが、既に変更不能となっていた、など、都市伝説に類するよう話まで、いろいろとあるようです。

 

また、この変更により、船体強度に無理が生じる事はなく、それに伴う重量の増加(300トン程度)にも関わらず速力が低下するような事はありませんでした。(35ノット)

その他の変更箇所としては、設計時からカタパルトの搭載を計画していた事で、これにより水上偵察機による索敵能力の強化されるはずでした。しかし、竣工時には予定していたカタパルトは間に合わず、当面は水上偵察機を水面に下ろして運用することとなりました。さらに対空兵装として、新造時から12センチ単装高角砲(当初はシールドなし)が4門搭載されました。

 

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(直上の写真は、今回製作した「青葉級」の特徴を示したもの。連装主砲塔(上段)、単装12センチ高角砲(中段)、航空艤装(下段)。舷側には「古鷹級」と同様に船体内に装備された魚雷発射管の射出口が見えています)

 

竣工時には間に合わなかったカタパルトは、1928年から29年にかけて順次装備され、水上機の運用はカタパルトからの射出により格段に改善されました。

雷装は、就役当初は「古鷹級」と同様の船内に固定式の魚雷発射管を各舷6門づつ装備していました。後に近代化改装の際に上甲板上の旋回式4連装魚雷発射管2基に改められました。

 

大改装後の「青葉級』

同級の大改装による大きな変更点は、魚雷発射管の装備形式を、竣工以来、被弾時の誘爆によるダメージに憂慮のあった船体内に装備した連装発射管6基から、上甲板上に設置した4連装発射管からの射出に改めたこと、単装高角砲をシールド付きに改めたこと、さらに、魚雷発射管上に水上偵察機の整備・運用甲板を設けたことです。

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(直上の写真は、「青葉級」:大改装後の概観。 148mm in 1:1250 by Neptune : 写真はNeptuneの説明では1944年の「青葉」の姿、ということになっていますが、後述のように同艦は1942年の損傷修復の際に3番砲塔を撤去しており、この姿では復旧していません。併せて僚艦の「衣笠」は1942年に既に失われていますので、この形態の艦は存在しないことになります。模型の世界ですので往々にしてこういうことが・・・。まあ、「青葉」が完全修復していたら、とうことでご容赦を<<<お詫び:と書きましたが、よく調べると、サボ島沖夜戦での損傷後、一旦外されていた3番砲塔は、その後の修復の際に復旧されていました。従って、レイテ沖海戦等には、写真の姿で臨んでいます)

 

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(直上の写真は、「青葉級」(上段)と大改装後の「古鷹級」の航空艤装の比較。整備甲板とカタパルトの配置の相違がよくわかります)。ちょとわかりにくいですが「青葉級」の魚雷発射管は水偵の整備甲板の下に装備されています)

 

青葉:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊旗艦として僚艦「古鷹」「加古」「衣笠」と共に内南洋部隊(第四艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第八艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛島に活躍しました。

その後、1942年10月の前述の「古鷹」が失われた「サボ島沖夜戦」で、米艦隊の奇襲で、艦橋に被弾し第六戦隊司令官が戦死するなど、大損傷を受けて内地に帰還し修復を受けました。その際に予備砲身のない第3主砲塔を撤去しています。

その後再びラバウルの第八艦隊所属となりますが、再び同方面で空襲により被弾、浅瀬に座礁してしまいます。

内地に帰還して再度修復後(追記:この修復の際に、3番主砲塔を復旧しています)は、第十六戦隊旗艦として戦線に復帰します。速力が28ノットに落ちたこともあり主としてシンガポール方面での輸送任務に従事しました。その後、一時的に第十六戦隊に編入された重巡「利根」「筑摩・などを率いてインド洋方面での通商破壊戦を行います。

レイテ沖海戦では、前述のように作戦直前に米潜水艦の攻撃で被雷し、レイテ湾位への突入戦には参加していません。損傷回復のために内地に帰還しましたが、損傷が大きく呉での修理の見込みの立たないまま、呉軍港で係留状態で浮き砲台となり対空戦闘を行います。1945年7月の米軍機による呉軍港空襲で被弾し、右舷に傾斜して着底してしまい、そのまま終戦を迎えました。

 

 軽巡洋艦「鬼怒」

「鬼怒」は5500トン級軽巡洋艦第二グループ(「長良級」と称されることも)の一隻。 

長良級軽巡洋艦 -Nagar class light cruiser-(長良:1922-1944 /五十鈴:1923-1945/名取:1923-1944/由良:1923-1942/鬼怒:1922-1944/阿武隈:1925-1944 )  

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Nagara-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「長良級」軽巡洋艦の概観。119mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs:3D printing modell :写真の姿は太平洋戦争開戦時の姿。航空機による索敵能力を得るために、後の改装で5番砲塔と6番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)

 

本級は5500トン級軽巡洋艦の第2グループとして、1917年計画 1918年計画で各3隻、合計6隻が建造されました。球磨級軽巡洋艦の改良型であり、基本設計は大きく変わりません。前級である球磨級からの変更点は、 魚雷性能と駆逐艦の発展に応じ搭載魚雷の口径を53センチから61センチに拡大したところと、主力艦隊の前衛としての索敵能力の充実のために、設計時から航空機を羅針艦橋下部の格納庫に収納する構造を、前級最終艦「木曽」にならい艦橋構造に組み込んでいたところにあります。格納庫を組み入れたため、艦橋の形状は箱型となりました。

 

鬼怒:当初第一遊撃部隊(栗田艦隊)の所属していた第十六戦隊は、レイテ沖海戦直前に第二遊撃部隊へと編入され、栗田艦隊と共に訓練地であったリンガ泊地を出港し、マニラを目指しました。この途上、第十六戦隊旗艦の「青葉」が米潜水艦の攻撃で損傷し、レイテ湾突入戦には参加していません(当初から輸送任務従事のため、参加予定がなかったのか、この旗艦損傷のため見送られたのか、はっきりしません)。

その後、「鬼怒」はレイテ方面への輸送任務からの帰還途上で、米軍機の空襲で撃沈されました。(1944年10月26日)

 

駆逐艦「浦波」

「浦波」は「吹雪級」駆逐艦I型(「吹雪級」)の10番艦。「浦波」では、より海水の浸入防止に配慮された「お椀型」の吸気口が採用されており、このため10番艦は「改Ⅰ型」あるいは「ⅡA型」と呼ばれることもあります。

「吹雪級」駆逐艦(24隻)

 

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Ⅰ型(10隻):特徴はA型と呼称される連装主砲塔を採用しています。この主砲塔は、仰角40度までの所謂平射砲塔でした。あわせて、缶室吸気口としてキセル型の吸気口を装備していました。ある程度高さを与え、海水の侵入を防ぐ工夫がされていましたが、十分ではなかったようで、「浦波」では、より海水の浸入防止に配慮された「お椀型」の吸気口が採用されており、このため10番艦は「改Ⅰ型」あるいは「ⅡA型」と呼ばれることもあります。

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(直上の写真:「吹雪級I型」の概観。94mm in 1:1250 by DAMEYA on Shapeways)

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(直上の写真:「吹雪級I型」の特徴。A型連装砲塔:平射用(上段)とキセル型缶室吸気口:「浦波」では吸気口をより海水侵入防止効果の高い「お椀型」に改めていました)

 浦波:レイテ沖海戦時には、第十六戦隊の一員として、前述の「鬼怒」と行動を共にし、「鬼怒」と同じく1944年10月26日、レイテ島への輸送任務の帰途、米艦載機の空襲で撃沈されました。 

 

レイテ沖海戦以降の「志摩艦隊」

レイテ沖海戦の結果、日本海軍はその水上戦闘戦力をほぼ失います。

その後、南西方面艦隊所属の「志摩艦隊」は「第五艦隊」の基幹部隊以外の残存部隊を吸収しつつ局地的反抗作戦(礼号作戦)、兵員輸送、物資輸送作戦(北号作戦)など、南西方面で展開されるほぼ全ての海軍作戦の実施部隊となり、志摩中将は全般指揮を執りました。

1945年2月に第十方面艦隊の設立とともに艦隊は解隊されて、指揮官の志磨中将は台湾の高雄警備府司令長官と第一航空艦隊司令長官を兼務しますが、実質的な戦力は伴わず、そのまま終戦を迎えました。

 

というわけで、今回はここまで。

 

 次回はロイヤル・ネイビー駆逐艦小史に戻りましょうかね。あるいは今回の続きで「栗田艦隊」が先かな。二回くらいには分けないと。この勢いでレイテ沖海戦当時の日本艦隊というミニ・シリーズ化もあるかと思いますが、日本海軍の空母の総覧が終わっていないので、少し先かな?

もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

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