相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

「扶桑級」戦艦:開発新噺:あるいは架空艦の架空戦記のような「噺」

今回はこれまでの「扶桑級」戦艦、「改扶桑級」戦艦の開発経緯のまとめを、少し年代記風に。今回はその辺りをサクッと。

 

その前に

ピカード ・シーズン3」

あっという間に第5話です。

***(ネタバレがあるかも。嫌な人の自己責任撤退ラインはここ:ネタバレ回避したい人は、次の青い大文字見出しに「engage!」)***

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Star Trek: Picard - Engage! - Episode 3 finale - YouTube

 

「ロー・ラレン」まで登場、とは、これは予想外。

「マキ」、なんと、また懐かしい言葉が出てきましたね。「誰だっけ?」と筆者も思い出すのに少し時間がかかりました。(ベイジョー女性といえば筆者にとってはキラ・ネリスなので・・・。ネリスは流石に出てこないのかな)

ストーリーはますます混沌としてきました。「可変種」の描かれ方が、従来とは少し異なっているように感じるのは気のせいでしょうか?お話自体はますますいろいろな要素を取り込んで広がっていく一方であるような気がします。そろそろ「あまり急いで話を締め括らないでほしいなあ」と、これはこれまでピカード の全てのシーズンで必ず5話あたりで感じる感想ではあったので、今回も大丈夫ですよね、きっと。

ストーリーに対する心配はそれとして、やはり今回も「これはピカード の物語なのか?」と言う疑問についての示唆は得られませんでした。

前回も書いたことですが、「仲間」「家族」「信頼」といった懐かしい言葉が散りばめられています。それらに対する我々の概念をより「高み」に(「深み」と言う言葉は適切なのかもしれません)導いていくのが「ピカード 」と言う存在であってほしいと、今後の展開に期待しています。あるいは前シーズンでは、結局「Q」と言う一見厄介な存在が、それらを導く鍵であったように、今回は「可変種」がその鍵なのかな、それが冒頭に述べた「描かれ方」の相違なのかな、などと、想像は膨らむ一方です。

 

扶桑級」戦艦:開発新噺

日本海軍初の超弩級戦艦「扶桑級」誕生(1915年ー就役)

ja.wikipedia.org

扶桑級就役時の概観:163mm in 1:1250 by Navis)

扶桑級」戦艦は日本海軍が初めて保有した超弩級戦艦でした。

日露戦争での戦費負担(日露戦争で日本は朝鮮半島中国東北部に関する主導権を手に入れましたが、戦後賠償金は獲得できませんでした)、それに続く戦利艦の補修と艦隊への編入により、日本海軍は世界の主力艦整備の趨勢(いわゆる弩級戦艦超弩級戦艦の整備)に大きく出遅れてしまいました。「主力艦」と名のつく軍艦の保有数は飛躍的に増えましたが、その性能は第一線級と呼べるものは数えるほど、と言う状態でした。旧式艦装備の大海軍、そんな感じだったのではないかと。

そのような状態の日本海軍が起死回生を狙って建造したのが「金剛級巡洋戦艦と「扶桑級」戦艦でした。「扶桑級」の一番艦「扶桑」の就役当時は世界で初めて30000トンを超える大鑑で、世界最大・最強の呼び声の高い日本海軍嘱望の艦でした。

しかし、同級には完成後、多くの課題が現れてきます。

例えば、一見バランス良く艦全体に配置されているように見える6基の砲塔は、同時に艦の弱点ともなる弾庫の配置が広範囲にわたることを意味しています。これを防御するには広範囲に防御装甲を装備せねばなりません。また、斉射時に爆風の影響が艦上部構造全体に及び、重大な弊害を生じることがわかりました。さらに罐室を挟んで砲塔が配置されたため、出力向上のための機関部改修等に余地を生み出しにくいことも、機関・機器類の進歩への対応力の低さとして現れました。

加えて第一次世界大戦ユトランド海戦で行われた長距離砲戦(砲戦距離が長くなればなるほど、主砲の仰角が上がり、結果垂直に砲弾が落下する弾道が描かれ、垂直防御の重要性がクローズアップされます)への対策としては、艦全体に配置された装甲の重量の割には水平防御が不足していることが判明するなど、一時は世界最大最強を歌われながら、一方では生まれながらの欠陥戦艦と言わざるを得ない状況でした。

こうした結果、「扶桑級」戦艦の建造は2隻で打ち切られ、3番艦、4番艦となる予定であった「伊勢」「日向」は新たな設計により生まれることとなりました。

以降、「扶桑級」の2隻は、就役直後、短期間連合艦隊旗艦の任務に就いたのち「艦隊に配置されているよりも、ドックに入っている期間の方が長い」と揶揄されるほど、改装に明け暮れる事になるのです。

 

平賀造船中将の「扶桑級」改装計画(1919年)

改装を重ね、なお、なかなか戦力化の目処をつけられない「扶桑級」戦艦を、一気に戦力化してしまおうと言う改造計画が平賀造船中将から提出されました。(上記の「1919年」と言うのは、史実よりかなり早いかも)

この提案の背景には「扶桑級」の抱えていた課題もさるころながら、一方で、より大きな世界情勢の動きとして、列強の間での財政負担を懸念した「軍縮」への動きがありました。

この時期、世界の列強は巨砲を積んだ大艦建造計画に鎬を削ります。日本海軍は有名な「八八艦隊計画」を、対する米海軍は「ダニエルズ計画」で海軍軍備の大拡張を図るのです。が、財政的にはこの継続は世界経済を破滅に導く恐れあり、として一転して海軍軍縮への道が開かれてゆきます。結果、ワシントン条約の締結へと世界は動いてゆき、上記の両計画は頓挫するのです。

この条約締結をほぼ前提として、つまり新造戦艦の計画が全て白紙化すると言う前提の中で、であれば既存艦の更新で一部でも戦力補完を目指そう、そう言う動きを見据えつつ、平賀中将は課題満載の「扶桑級」改造計画を立案したわけです。

これは同級の課題の元凶ともいうべき主砲塔配置に大きな変更を加え、併せて機関の配置等についても余裕を持たせ、速力不足等についても一気に解決してしまおう、という意欲的な案でした。あわせてこの案は、ワシントン条約の制限対象が新造艦に対するもので、既存艦については制限がないということを前提に提出されたものでした。(史実では既存艦の改造についても制限が設けられたため、この計画は実現しませんでした。が、今回は「新噺」ですので、そこは少し都合よく話をでっち上げてゆきましょう)

(下の写真は刊「丸」2013年8月号の掲載されている「扶桑級」改装案の図面。平賀案を元に作成されたもの?) 

平賀中将の残したメモによるとこの改装案の眼目は、前述のように課題の元凶であるとされる6基の36センチ主砲塔を全て当時最大口径であった41センチ砲に置き換え、代わりに主砲塔の数は削減し、再配置により改装前よりも弊害を軽減、かつ新たに確保できる艦内スペースを機関等に充てることにより、機動性も高める、いうものでした。これは同時に八八艦隊計画が中止になった場合に、「長門級」の2隻のみとなることが予想された41センチ主砲装備艦を補完することも目的としていました。この改造により「長門級」と同等の機動性を持つ高速戦艦として、「欠陥戦艦」のレッテルの貼られた「扶桑級」を再生しようとするものでした(随所に筆者の妄想的な解釈がかなり入っていることは、ご容赦を。以降はこう言う言い訳めいた注釈はしないので、そこは皆さんの良識でご判断を)。

(上の写真は「改扶桑級」平賀源案の概観:163mm in 1:1250 by semi-scratchied besed on C. O. B. Constracts and Miniatures:下は前檣と41センチ主砲塔。艦首部は連装砲塔2基の背負式配置、前檣直後に三連装砲塔を1基、さらに艦尾部に1基配置した姿:模型ならではの「架空艦」です:でも一応計画はありました。比較的図面に忠実に再現してみたもの)

 

条約締結に間に合わせるために、完成したものは・・・「改扶桑級」戦艦の誕生(1922年)

平賀中将の設計案の常として、「コンパクトな船体に最大の攻撃力」とでもいうべき傾向が見られます。残されたメモを見る限り「扶桑級」主砲換装案もこれに違わず、世界初の41センチ主砲搭載艦である「長門級」戦艦が41センチ連装主砲塔4基搭載の設計であるのに対し、より船体の小さな「扶桑級」に連装砲塔と三連装砲塔の混載で、41センチ砲を10門搭載する案となっていました。

この実現のためには、それまで日本海軍には経験のない大口径砲の三連装砲塔を新たに設計せねばならず、特に砲塔の駆動系等の開発や連装砲塔と三連装砲塔の旋回同期の機構を考えると、設計開発にはいくつもの試行が必要で、実装までには相当な時間を要することが予想されました。

一方で、条約締結までに完成していることが保有の前提条件であること(史実では既存艦の大規模な改造は認められず、特に条約の発端ともなった41センチ(16インチ)主砲装備艦については、保有制約が厳しく、いわゆるビッグ7と呼ばれる7隻しか保有が認められませんでした)も明らかになるつつある状況を踏まえ、結局、三連装主砲塔の開発は見送られ、「扶桑級」は「長門級」で既に実績のある41センチ連装主砲塔4基の装備艦として大改装を受けることとなりました。

この決断に平賀造船中将は関与せず、後に通知された際に激怒したと言われますが、条約下での保有を認めさせるには、必要な措置でした。

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(上の写真は「改扶桑級」完成時の概観:163mm in 1:1250 by semi-scratchied besed on C. O. B. Constracts and Miniatures:下は最終的に連装主砲塔4基搭載でまとまった主砲配置:ワシントン条約締結時に就役していることが保有の大きな条件となるため、開発に研究の必要な平賀原案の三連装砲塔と連装砲塔の混載を諦め、先行する「長門級」建造で実績のある連装砲塔で統一しました。平賀さんは怒っただろうなあ。しかしこの決定で砲塔周りの機構は間違いなく簡略化され、すっきりした外観となるとともに、艦の航洋性も改善されました)

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またこの決定で上部構造の重量が軽減され、かつ砲撃時の反動も軽減されたため(こちらも「長門級」で既にデータが取られていたため、強度の再計算等も容易でした)、艦自体の強度も高められ、かつ航行性、直進性等は、36センチ主砲塔搭載時よりも良好となったと言われています。さらに浮いた重量を機関部整備等にあてられたため、機動性をさらに改善することができたとされています。

 

就役後は「長門級」と共に連合艦隊主力の第一戦隊を構成

就役後は「長門級」の2隻と共に41センチ主砲装備、速力26ノットの高速戦艦4隻で構成される第一戦隊に組み入れられ、連合艦隊の文字通り主力となりました。

(「長門級」竣工時のモデル:by Hai: Hai製のモデルは前部煙突が「長門級と言えば湾曲煙突」と言うほど有名な湾曲煙突の状態を再現していますが、上掲のモデルでは就役時を再現したかったので、前部煙突を直立のものに交換しています。下の写真は「長門級」竣工時の細部の拡大:Hai製のモデルの前檣もかなり繊細に再現されています)

「有名な湾曲煙突」に換装された「長門級」戦艦

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(「長門級」湾曲煙突に換装後のモデル:by Hai: 「長門」といえばこの形態、と言うほど有名な形態ですね。下の写真は大正期、昭和初期を通じて第一戦隊を構成した「長門級」(奥)と「(改)扶桑級」)

 

「改扶桑級」戦艦の近代化改装と太平洋戦争開戦(1935年ー1941年)

「改扶桑級」戦艦の二隻も1930年代に入ると他の主力艦と同様、数次の改装を受け、太平洋戦争開戦時は下の写真のような姿になっていました。

(「改扶桑級」近代化改装後形態:上の写真は戦艦「(改)扶桑」近代化改装後形態の概観:戦艦「(改)扶桑」は近代化改装の際に史実のように三番主砲塔の係止位置を正艦首方向としたため、前檣の構造がかなり特異な物になりました(模型製作的な実情はこの特異な艦橋を再現するために主砲塔の向きを変えたわけですが)。下は「(改)山城」近代化改装後形態の概観:「(改)山城」は近代化改装の際にも主砲塔の係止位置の補正(変更?)を行いませんでした:まさに「架空艦」を筆者の妄想で上書きした、「模型の醍醐味(だと筆者は思うんですが)」のようなモデルです)

 

太平洋戦争緒戦:南方部隊(第二艦隊)に配置

(太平洋戦争緒戦では「扶桑」(奥)と「山城」は第一戦隊第二小隊として、南方攻略戦の主力部隊である第二艦隊に派出されました)

「扶桑」と「山城」は英海軍が開戦直前にシンガポールに配置した「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」への対抗戦力として、これらに対峙する南方攻略部隊主力である第二艦隊に派出されました。第二艦隊は南方の資源地域を短期に攻略することを目的として南遣艦隊、第三艦隊等を配下に入れて攻略戦全般を指揮する役割にあたっていましたが、具体的な戦力としては巡洋戦艦出自の高速戦艦「金剛」「榛名」の他は巡洋艦で構成された部隊で、上述の英海軍が配置した「新戦艦」に直接対峙できる艦船を保有していませんでした。

シンガポールに配置された英東洋艦隊の2戦艦:上「プリンス・オブ・ウェールズ」と下の上段「レパルス」(下の写真の下段は「レパルス」の同型艦「リナウン」(近代化改装が進められ、英新戦艦のような艦橋を有していました))

このためこれを危惧した連合艦隊司令部は41センチ主砲装備の戦艦4隻(「長門」「陸奥」「扶桑」「山城」)で構成される第一戦隊から第二小隊の「扶桑」と「山城」を第二艦隊に応援として派出することとしました(「長門」「陸奥」は連合艦隊旗艦とその僚艦として動けませんでした)。

英海軍の主力艦2隻は、海軍基地航空隊の航空攻撃で撃沈されたため(有名なマレー沖海戦ですね)、「扶桑」「山城」が「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」と砲火を交わすことはありませんでしたが、「扶桑」「山城」は両英戦艦の撃沈後もそのまま第二艦隊に留まり、南方攻略戦に従事しました。

 

ミッドウェー海戦後、新編成の第二戦隊に移籍(1942年)

新造戦艦「大和」が就役し、第一戦隊に配置されると、「大和級」二番艦「武蔵」の就役も具体化し、第一戦隊がやや大世帯になります。あわせてミッドウェーでの艦隊空母4隻の喪失を受けて、「伊勢級」戦艦の航空戦艦への改造が決定されると、空席となった第二戦隊を「扶桑」「山城」の2隻で構成することとなりました。

両艦はその機動性を評価され、上述のように開戦以来、長く第二艦隊に帯同してきましたが、

この新第二戦隊編成を機に正式に第二艦隊に編入されました。第二艦隊の主戦場がガダルカナル島等を含むソロモン海域に移ると、第二戦隊もこれに帯同し、ソロモン海の戦場に姿を表します。

第二戦隊は41センチ砲を持って夜間のガダルカナル島ヘンダーソン基地への砲撃を数次に渡り展開し、基地に大きな損害を与えました。

 

第三次ソロモン海戦での戦果(1942年11月)

1942年11月、ガダルカナル島奪還に向けて、次期攻撃の主力となる陸軍第38師団の輸送に先立ち、米航空基地の無力化を目的に、第十一戦隊(「比叡」「霧島」)、第二戦隊(「扶桑」「山城」)を主隊とする挺身砲撃作戦が敢行されます。

12日の第一次夜戦では、先行する第十一戦隊とガダルカナル島警備の米巡洋艦部隊との間に遭遇戦が発生し、双方混乱の中で乱戦となり、米巡洋艦2隻を撃沈し、指揮官と次席指揮官を戦死させるなどの戦果を上げながらも、自軍も「比叡」が行動の自由を失い自沈せざるを得なくなるなどの損害を受けます。この結果、基地砲撃は叶いませんでした。第二戦隊は先行する第十一戦隊に続行して、時間差で海域に到達し砲撃の仕上げを自慢の41センチ砲で行う予定でしたので、砲撃の機会を失いました。

15日には再度基地砲撃を期して、第十一戦隊の残存艦「霧島」に同行して、第二戦隊も挺身砲撃に参加することとなりました。

一方で巡洋艦部隊に大損害を出していた米海軍も新鋭の16インチ主砲搭載戦艦2隻(「ワシントン」「サウスダコタ」)を主力とする第64任務部隊を投入して、これに対抗しました。

(第64任務部隊の2戦艦:上は「サウスダコタ」下は「ワシントン」)

双方2隻づつ16インチ級の主砲を持つ戦艦を投入しながらも、戦闘は双方の発見の遅れもあって10000メートル程度の距離での砲撃戦となり、先頭の「霧島」は米艦隊の「サウスダコタ」に砲撃を開始しました。「霧島」は数発の36センチ砲弾を命中させますが、飛行場砲撃目的の出撃であったため、当初砲塔に装弾されていた砲弾は徹甲弾ではなかったために上部構造に大損害を与えるに留まりました。そのうちに「ワシントン」が「霧島」に砲撃を開始し「霧島」は16インチ砲弾の命中弾を連続的に受け戦闘不能の大破(のち自沈)、後続の「扶桑」は当初炎上が認められた「サウスダコタ」に砲撃を加えていましたが、やがて目標を変更した「ワシントン」の標的となり、16インチ砲の命中弾を数発受け中破し、戦線を離脱しました。「扶桑」の被弾を見ていた「山城」は主砲塔に装弾されていた飛行場攻撃用の砲弾を早々に斉射し尽くし、徹甲弾に切り替えて「ワシントン」に砲撃を開始し、数発の命中弾を与え同艦を大破、行動不能とさせました(戦場を離脱中に浸水沈没)。

こうして15日の第二夜戦の終了後、戦場には「山城」だけが戦闘を続行できる状態で止まっていましたが、僚艦「扶桑」の離脱を考慮すると、夜戦終了後の「山城」単艦での基地砲撃は効果が想定できず(作戦当初の3戦艦での砲撃の戦果は期待し難い)、夜明け後の航空攻撃を受ける危険性が高く、「霧島」の自沈、「扶桑」の中破に加えてこの上「山城」の喪失は受け入れ難いとして、結局作戦は中止されてしまいました。

 

長門」の第二戦隊編入(1943年7月)とトラック泊地での待機、そしてマリアナ沖海戦(1944年6月)

1943年6月に「長門級」戦艦の二番艦「陸奥」が広島柱島泊地で謎の爆沈を遂げます。僚艦を失った「長門」は第三次ソロモン海戦での損傷を回復した第二戦隊に編入され、第二戦隊は41センチ主砲装備戦艦3隻で編成された部隊となります。

(上の写真は戦艦「長門」の概観:189mm in 1:1250 by neptun: おそらく同艦が「幻の第二戦隊」の旗艦を務めていたでしょうね。下の写真は「幻の第二戦隊」基幹部隊の勢揃い:奥から「長門」「(改)扶桑」「(改)山城」の準)

ガダルカナル島から撤退ののち、中部ソロモンでの戦闘に敗れた日本海軍にとって、次の戦場は中部太平洋であることは間違いなく、長く日本海軍が前線に向けての待機根拠地としていたトラック泊地が、最前線として攻撃にさらされることとなります(1944年2月:トラック等空襲)。

日本海軍は根拠地をリンガ泊地に下げて戦力の充実を計っていましたが、米軍のマリアナ諸島来攻に対抗して「あ号」作戦を発動し、ほぼ全ての艦隊をこの作戦に投入します。

第二戦隊は、第二艦隊と第三艦隊を統合指揮する第一機動艦隊の乙部隊に組み入れられました。この部隊は2隻の中型商船改造空母(「隼鷹」「飛鷹」)と潜水母艦改造の軽空母1隻(「竜鳳」)で編成された第二航空戦隊を基幹とした部隊で、搭載機144機を有している部隊でした。第二戦隊の戦艦3隻はこれらの母艦の護衛に、航空巡洋艦「最上」と駆逐艦9隻とともに当たることとなっていました。

「あ号」作戦は日本海軍の艦載機の長い航続距離を生かした「アウトレンジ作戦」、つまり米機動部隊の空母搭載機の行動圏外から攻撃を加える作戦でしたが、それまでのソロモン方面での消耗戦で大きな損害を出していた母艦航空隊を急錬成により数だけは揃えた、と言うのが実情で、搭乗員練度の低下と、圧倒的な数を誇る米機動部隊の迎撃戦闘機の壁、および機動部隊自体の対空砲網を越えられず、ほぼ1日で大半の航空機を失い、作戦は失敗します。

併せて機動部隊主力である甲部隊の基幹部隊である第一航空戦隊(「大鳳」「瑞鶴」「翔鶴」)の3隻の大型艦隊空母(当時日本海軍が保有する全ての艦隊空母)のうち2隻が、潜水艦の雷撃により失われてしまいました。

第二戦隊が参加していた乙部隊については、作戦初日(6月19日)に出撃した搭載機部隊に大きな損害を受け、翌20日にはようやく日本艦隊を発見し夕刻に来襲した米機動部隊艦載機の攻撃で「飛鷹」が撃沈され、「隼鷹」は命中弾を受け中破、「竜鳳」も小破しています。

第二戦隊は第二航空戦隊の母艦を守って対空戦闘を実施しましたが、3隻の戦艦に重大な損害はありませんでした。

 

この「あ号」作戦で日本海軍は空母の艦載機部隊・基地航空部隊の双方に壊滅的な打撃を受け、空母機動部隊は戦力として以降、終戦まで再生することはありませんでした。

第二航空戦隊も残った2隻の空母は損害を回復しますが、その搭載機部隊が再生することはなく、両空母ともその後出撃の機会はありませんでした。

 

第二戦隊の第五艦隊編入(1944年9月)とレイテ沖海戦(1944年10月)

レイテ沖海戦については本稿でもかなりの回数を割いて記述していますので、史実については、もし興味があればそちらを読んでみてください。

レイテ沖海戦:小沢艦隊(第三艦隊:空母機動部隊)日本海軍、空母機動部隊の終焉(その1) - 相州の、1:1250 Scale の艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

レイテ沖海戦:小沢艦隊(第三艦隊:空母機動部隊)日本海軍、空母機動部隊の終焉(その2) - 相州の、1:1250 Scale の艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

レイテ沖海戦:栗田艦隊(その1):第二艦隊(第一遊撃部隊 第一部隊) - 相州の、1:1250 Scale の艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

レイテ沖海戦:栗田艦隊(その2):第一遊撃部隊 第二部隊とレイテ沖海戦の概要(経緯) - 相州の、1:1250 Scale の艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

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史実では第二戦隊に「長門」が編入されることは、計画のみで実施には至らず(もちろん、「扶桑級」が41センチ主砲に換装されることなどなく)、第二戦隊が第五艦隊に編入されることも、計画のみで実現はせず、西村中将に率いられてわずか7隻の小部隊として「第二戦隊」はレイテ湾に突入しそこで壊滅します。

しかし、ここで紹介している「改扶桑級」は、主砲を41センチに換装し、機関を換装し機動性を高めた高速戦艦として、太平洋戦争を通じて第一線で活躍してきています。

一方、第五艦隊は開戦以来、北方警備の専従部隊であったのですが、敗色濃厚となった時点で機動艦隊の直掩戦力として配置転換が計画されます。さらにマリアナ沖海戦で機動艦隊の基幹戦力である空母部隊が崩壊し再建の目処すら失うと、海軍はそれまでの「空母機動部隊」を中核戦力とした艦隊決戦構想を、水上戦闘艦隊を中心とした侵攻部隊(上陸軍)撃滅に転換せざるを得ず、第五艦隊はその侵攻部隊撃滅戦の一勢力として戦力の充実を図られることになってゆくわけです。(史実では、この構想の表れが、第二戦隊への「長門編入による強化であったり、それまで巡洋艦を基幹とした戦闘部隊であった第五艦隊への戦艦の編入(第二戦隊の編入)と言う計画となったと考えています。いずれも計画のみで実現はされませんでしたが)

 

しかし今回の「改扶桑級」戦艦の実現した世界では、これらは全て実現されます。

これによりレイテ沖海戦における第二遊撃部隊は、41センチ主砲装備の高速戦艦3隻(「長門」「山城」「扶桑」)、重巡洋艦3隻(「那智」「足柄」「青葉」)、航空巡洋艦1隻(「最上」)、軽巡洋艦2隻(「阿武隈」「鬼怒」)、駆逐艦12隻という強力な艦隊としてレイテ湾を目指すことになります。栗田艦隊との連携を目指すために、おそらくその進路は史実で西村部隊、志摩部隊がたどったものと同じスリガオ海峡を経て南からレイテ湾に突入するコースをとったことでしょう(これにより日本海軍の水上戦闘部隊は南から(第二遊撃部隊:志摩艦隊)と東から(第一遊撃部隊:栗田艦隊)、それぞれが互いを陽動部隊としながら突入することが可能になります)。どちらが先に突入することになっても(あるいは同時に突入することになっても)レイテ侵攻部隊(マッカーサー上陸軍)を護衛する米第七艦隊の水上戦闘の基幹戦力である第77任務部隊第2群(Task Group 77.2 ;オルデンドルフ部隊)は、相当苦戦することになったことでしょう。

オルデンドルフ部隊については下記で。

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もしかすると、オルデンドルフ艦隊は先に突入してきた部隊との交戦で戦力を消耗し、後から突入する日本艦隊によってレイテ侵攻部隊(上陸軍)すら相当の損害を出したかもしれません。侵攻継続に必須な兵站拠点等を破壊されていたら、侵攻そのものが一旦破綻したかもしれません。しかしその代償として、おそらく突入した日本海軍の水上戦闘部隊は、その大半がいずれは駆けつけた(あるいは日本艦隊の脱出中に追撃してきた)ハルゼー機動部隊によって壊滅させられたでしょうが。

 

先に突入するのが第二遊撃部隊だったとしたら、そのような中で41センチ主砲を装備した「山城」「扶桑」がどんな戦いをするのかは、もはや小説の世界になってゆきますので、どなたかに委ねたいと思います。

41センチ主砲24門対16インチ砲16門プラス14インチ砲48門、これはどんな戦いになるんでしょうねえ。オルデンドルフ艦隊は展開した6隻の戦艦のうち2隻を失い3隻が損傷、一方の第二遊撃部隊の3戦艦は2隻がレイテ湾内で行動不能に陥り沈没、かろうじて1隻が自力脱出に成功、そんな感じででしょうか?後続して突入した第一遊撃部隊(栗田艦隊)によって残存艦は撃破され、上陸軍も砲撃を受ける・・・。

その時、「武蔵」はやはり沈んでしまっているんだろうか、サマール沖での護衛空母群との遭遇戦がなかったら、栗田艦隊は突入したんだろうか、そもそもこの作戦の何を変えれば破綻しなかったんだろうか、等々、興味は尽きませんが、まあ今回はこの辺りで。

 

次回は、うまくいけば始動した八八艦隊のモデル・リニューアル計画の進捗のお話などを、と考えています。Shapewaysの進捗情報を見ると、関連するオーダーのほとんどがPackingにまわっています。

もちろん「ピカード ・シーズン3」のお話も。

もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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