相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

レイテ沖海戦:西村艦隊:第二艦隊(第一遊撃部隊)第三部隊の話

本稿前回で、最近目にした「扶桑級」戦艦の41センチ主砲搭載改装案をセミ・スクラッチ・モデル化してご紹介しましたが、その資料を当たる際に、「扶桑級」戦艦というとそのほとんど最初で最後の戦場であった「レイテ沖海戦」の資料にぶつかるわけで、今回は、その流れで「扶桑級」戦艦を基幹として構成された「西村艦隊」、正式には第二艦隊 第二戦隊基幹の別働部隊(第一遊撃部隊 第三部隊)について、少し触れてみたいと思います。

 

「西村艦隊」配属以前の「扶桑級

第二戦隊

前回でも少し触れていますが、「扶桑級」戦艦2隻(「山城」「扶桑」)は太平洋戦争開戦時には、「伊勢級」戦艦2隻(「伊勢」「日向」)とともに戦艦部隊である第一艦隊第二戦隊に所属していました。しかし巨砲を主兵器とする戦艦には、空母機動部隊を中核とする航空主兵が明らかとなった太平洋戦線での活躍の場は多くはありませんでした。

開戦から約半年後のミッドウェー海戦日本海軍が空母機動部隊の主力を喪失すると、失われた空母戦力の補完のために、第二戦隊の4隻の戦艦は空母への改装を検討されました。紆余曲折あり、結局「伊勢級」の2隻は航空戦艦へと改装されますが、「扶桑級」についてはその工数と期間の長さから改装が行われませんでした。

その間、「扶桑級」の2隻は、「扶桑」は爆沈した「陸奥」の代艦として「長門」と行動を共にするべくトラック島に進出、一方「山城」は内地にとどまり射撃訓練、電探(レーダー)の探知訓練等、練習艦任務についていました。やがて「伊勢級」の航空戦艦への改装が完了した時点で一旦第二戦隊は解隊され、「山城」は砲術学校・水雷学校・通信学校の練習艦として就役し、「扶桑」は「大和」以下の主力艦隊と共に南方泊地を移動していました。

 

第二戦隊の復活と西村艦隊の編成

マリアナ沖海戦では、「扶桑」は上記の編成の流れで「長門」と共に空母機動部隊(第一機動艦隊)乙部隊(空母「隼鷹」「飛鷹」「龍鳳」基幹)の直掩として配置される予定でしたが、速力の遅さ(「扶桑級」を語る際に常に付き纏うワードなんですが)、航続力の短さなどを理由に、ダバオに待機させられ、海戦には参加しませんでした。

マリアナ沖海戦の敗戦後、「山城」「扶桑」両艦は内地で対空兵装・電探設備(レーダー等)強化しました。

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先述のように度重なる改装を受けた「扶桑級」戦艦でしたが、太平洋戦争開戦前に受けた第二次改装時に対空兵装の強化、機関の重油専焼缶への換装などを行い、速力も24ノット代まで向上させていました。

 

扶桑

この改装の際に、「扶桑」は3番砲塔を前向き装備に改めています(「扶桑」ファン一押しの特異な艦橋の形態は、この時に生まれました)。

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(二次大改装後の「扶桑」の概観:170mm in 1:1250 by XP forge 「扶桑」の最大の魅力は変則的な前檣構造。3番砲塔の向きにも注目:レイテ海戦当時は、これらに加え対空装備、電探装備などがさらに強化されていたはずです。下の写真は「扶桑」の主砲塔配置や前檣の拡大)

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「扶桑」は西村艦隊の基幹戦力としてレイテ湾に突入しますが、レイテ 湾入り口あたりで突入時に右舷方向からの米駆逐艦の雷撃にさらされ、4本の魚雷を被雷し機関が停止、停電となったのち火災を発生、やがて弾薬庫に引火して艦体を2分する大爆発を起こし沈没しました。

 

山城

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(二次大改装後の「山城」の概観:170mm in 1:1250 by XP forge 前檣や主砲塔を「扶桑」のモデルをベースに、手を入れています。直下の写真は「「山城」の主砲塔周りの拡大)f:id:fw688i:20230306004106p:image

「扶桑」と「山城」f:id:fw688i:20230306004351p:image

(上の写真は第二戦隊基幹部隊となった「扶桑」(奥)と「山城」。下の写真では改めて「扶桑」(上段)と「山城」の細部を比較)

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「山城」は「扶桑」の被雷脱落後も(第二戦隊司令部は気が付いていなかった、とも)、レイテ湾への前進を続けますが、「扶桑」同様、米駆逐艦の放った魚雷を艦尾に受け、艦尾の弾薬庫に注水したため、稼働主砲が8門になってしまいます。

損傷しながらなおも西村艦隊は前進を続けますが、その頃には既に「山城」「最上」「時雨」の3隻のみになっていました。「山城」は加えて魚雷を受け、さらに速力を落としますが、これに米戦艦部隊がレーダー照準で砲撃を加えました。「山城」「最上」「時雨」に向けて発射された16インチ砲弾(「ウエストヴァージニア」「メリーランド」)と14インチ砲弾(「ペンシルバニア」「テネシー」「ミシシッピ」「カリフォルニア」)は300発以上、さらに4000発近い8インチ砲弾、6インチ砲弾が撃ち込まれ、「山城」「最上」は大火災を起こし、さらにこれに魚雷の命中が加わり「山城」は大爆発を起こし沈没しました。

 

幻の第二戦隊旗艦「長門

新第二戦隊序列の際に、 軍令部案では「大和」「武蔵」の機動性を存分に発揮させるため、第一戦隊から「大和」級に対し速力の劣る「長門」を分離し、「長門」「山城」「扶桑」で新生第二戦隊を編成し、これを西村中将に指揮させる予定でした。その際には第二戦隊旗艦は「長門」となる予定でしたので、当時国民に日本海軍の象徴として名高かった「長門」(「大和級」については、高度の軍事機密扱いとされたため、実際には一般国民はその存在をほとんど知らなかったようです)に座乗して西村中将がどのような戦いを行なったのか、見てみたかったような気がします。

第二艦隊の集結地であるブルネイに第二戦隊(この時はまだ「山城」「扶桑」の2隻編成でした)が到着すると、一転してこの軍令部案は第二艦隊司令部の反対(第一戦隊宇垣司令官が「長門」の第二戦隊異動に反対したと言われています)により覆り、第二戦隊旗艦「長門」は幻となったのでした。

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(1941 43,500 t, 26.5 knot, 16in *2*4, 2 ships, 182mm in 1:1250 by Neptun)
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長門」の第二戦隊異動案への反対理由として、「扶桑」「山城」が「長門」と行動を共にするには速力不足(また出てきた)と航続力不足が挙げられますが、実際には速力では「長門」が大改装後の速力低下で「扶桑級」と遜色はなく、かつ航続距離では「扶桑級」は「長門級」を上回っていたので、これも合理的な説明にはなっていません。実際はこれまで行動を共にしたことのない新編の部隊を帯同することと、何より作戦立案者である軍令部・連合艦隊司令部への反発だったかと。もしかすると何かと「うるさ型」提督である宇垣中将がごねたのかも。

これ以前にも、第二艦隊司令部(栗田司令部)は第二艦隊で最も通信能力の高い「大和」への旗艦変更を希望したのですが、「第二艦隊は本来前衛部隊で、伝統的に旗艦は軽快に機動できる巡洋艦であるべき」というわかったような分からないような理由で、承認されませんでした。(「本来前衛部隊」って言ったって、では「主力部隊」はどこにいるんだい、と言いたくなります)

結果的に栗田司令部を載せた「第二艦隊」伝統の旗艦「愛宕」」は出撃直後に米潜水艦に撃沈されてしまい、司令部は本戦以前に海中を泳ぐというような試練に見舞われます。要員も全て無事だった訳ではないでしょうから、作成開始時に瑕疵を負い消耗した司令部が全般指揮を取らざるを得なくなった訳です。(まあ、これは史実を知る立場からの後知恵ではあるのですが)

また、このレイテ沖海戦の作戦全般においても、小沢司令部が、「機動部隊本体(第三艦隊:小沢機動部隊)は囮艦隊としての役割から、作戦主力(第一遊撃部隊)から米機動部隊を引き離すことが任務であるから、初期に主戦場から遠ざかる機動を行い、かつ「囮艦隊」故に損害多数を想定するため、作戦全般の指揮は無理」との軍令部・連合艦隊首脳への上申を行ったのに対し、一旦は全般指揮を継続して執るように、と差し戻したりしています。

どうも海軍首脳と前線部隊の間には、意思疎通に齟齬(というか反発の火種)があるように見受けられますね。同じようなことが指揮官の間にもチラチラと。これは、米海軍の第三艦隊(ハルゼー司令部)と第七艦隊(キンケード司令部)の間でも発生しているようですから、日本海軍に限ったことではなさそうですが、日本海軍の場合には戦局全般の敗色濃厚な中、「艦隊を擦り潰しても、この一戦での戦果にかける」と言う切所にありながら、目的の共有等、目的達成の具体策等の検討と共有などの不足という、レベルがもっと深刻なように思われるのです。

 

西村艦隊(第一遊撃部隊 第三部隊)の編成

上記のような経緯から、第二戦隊とその直衛部隊が配置され、第一遊撃部隊 第三部隊(西村艦隊)が編成されたわけです。

以下が戦闘序列です。

第二戦隊(司令官:西村祥治中将)戦艦 山城、扶桑

重巡洋艦 最上

駆逐艦 時雨 (白露級:第二十七駆逐隊所属ながら単艦)

第四駆逐隊 駆逐艦 山雲、満潮、朝雲朝潮級)

 

第二戦隊はすでにご紹介済みですので、他の諸艦を紹介してゆきましょう。

重巡洋艦「最上」

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Mogami-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「最上級」の就役時の概観。6インチ三連装砲塔を5基搭載しています。163mm in 1:1250 by Konishi)

「最上」はいわゆる条約型巡洋艦として設計された「最上級」軽巡洋艦ネームシップです。当初は重巡洋艦保有制限枠を既に使い切っていたため、6インチ主砲搭載の軽巡洋艦として誕生しました。したがって艦名も重巡洋艦の「山」に因んだ名前ではなく、軽巡洋艦の「川」に因んだ名前となっています。

 

主砲の換装、そして名実ともに重巡洋艦

ワシントン・ロンドン体制は、1936年に失効し、保有制限がなくなったこの機会に「最上級」各艦は主砲を50口径8インチ連装砲に換装しました。こうして重巡洋艦を越えるべく建造された「最上級」は、名実共に重巡洋艦となりました。

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(直上の写真:主砲を8インチ連装主砲塔に換装した「最上級」の外観:by Neptun)

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(直上の写真:竣工時に搭載していた3年式60口径6インチ砲の3連装砲塔(上段)と8インチ連装砲塔への換装後(下段)の比較。換装後の2番砲塔の砲身は、1番砲塔と干渉するため、正正面で繋止する際には一定の仰角をかける必要がありました(下段))

 

 主砲換装の是非

本来、「最上級」に搭載されていた3年式60口径15.5cm砲は、重巡洋艦との砲戦でも撃ち負けない様に設計されただけに、射程も重巡洋艦が搭載する20.3cm砲に遜色はなく、砲弾一発当たりの威力では劣るものの、「最上級」はこれを3連装砲塔5基、15門搭載し、その高い速射性も相まって、1分あたりの投射弾量の総量では、20.3cm連装砲塔5基を上回っていました。さらに60口径の長砲身を持ち散布界が小さい射撃精度の高い砲として、用兵側には高い評価を得ていました。

これを本当に換装する必要があったのかどうか、やや疑問です。

筆者の漁った限りの情報では、貫徹力でどうしても劣る、というのが主な換装理由ですが、その後のソロモン周辺での戦闘を見ると、あるいはこれまでの日本海軍の戦歴を見ると、速射性の高い砲での薙射で上部構造を破壊し戦闘不能に陥れる、という戦い方も十分にあり得たのではないかな、と。

あるいは、米海軍を仮想敵として想定した場合に、その艦艇の生存性の高さ、あるいは後方の修復能力の段違いの高さから、必殺性が求められた、ということでしょうか?(日本海軍の場合、損傷艦の自沈、あるいは海没処分、というのが目立つのですが、米海軍では、そのような例はあまり見かけません)

また、前述の様に米海軍も英海軍も同様の設計の巡洋艦を建造していますが、いずれも換装した例はありません。

 

主砲換装は計画されていたのか?

「最上級」の主砲塔配置は、それまでの「妙高級」「高雄級」重巡洋艦の砲塔配置とは少し異なっています。「妙高級」「高雄級」では艦首部の3砲塔を中央が高い「ピラミッド型」の配置としていました。これは砲塔間の間隔を短くし弾庫の防御装甲範囲を小さくし重量を削減するのに有効でしたが、一方で3番砲塔の射角が左右方向のみに大きく制限されました。

「最上級」の主砲塔配置は、砲身の短い15.5cm砲に合わせた設計になっており、20.3cm砲に換装した際に2番砲塔の砲身が1番砲塔に干渉してしまい、正正面で固定する場合、砲身に一定の仰角をかける必要がありました。このことから、従来定説であった条約失効後の換装計画が設計当初から本当に決定されていたのか、と少し疑問に思ってしまいます。

一方で、15.5cm3連装主砲塔の重量は、20.3cm連装主砲塔よりも重く、第4艦隊事件などで、重武装を目指すあまりに全般にトップヘビーの傾向が見られた艦船設計に対する改善策としては、理にかなった選択だった、とも言えるのではないでしょうか?

  

最上の戦歴

太平洋戦争海戦時には、同級の僚艦とともに、第七戦隊を編成し、南遣艦隊の基幹部隊として南方作戦に従事しました。マレー作戦、蘭印作戦で活躍しました。バタビア沖海戦では、米重巡洋艦「ヒューストン」オーストラリア軽巡洋艦「パース」などの撃沈に参加しています。

ミッドウェー海戦には、ミッドウェー攻略部隊(第二艦隊)の前衛支援部隊(第七戦隊基幹)として参加。機動部隊(空母機動部隊)の壊滅後も、機動部隊の残存兵力(水上戦闘艦艇)や、主隊による米艦隊との夜戦の機会を求めて、その支援のため、第7戦隊にはミッドウェー島の飛行場砲撃の任務が与えれました。このため第七戦隊は進撃を継続しましたが、結局、夜戦の戦機なしとの判断から、連合艦隊司令部からの撤収命令に従い反転しました。撤収中に、米潜水艦による接触を受け、回避行動中に僚艦「三隅」と衝突し艦首が圧壊し一時行動不能に陥りました。応急処置により、同じく損傷した「三隅」とともにトラック島へむけての退避航行を開始したものの、翌日、米軍の基地航空機、空母艦載機の空襲により、僚艦「三隅」は沈没、「最上」も5発の爆弾を被弾し、後部の4番・5番両砲塔に大損害を受けました。

なんとか第二艦隊に合流し、内地に帰還後、「最上」はその修復の際に、大損害を受けた艦後部の4・5番砲塔を撤去し、艦後部を全て航空甲板とするという大規模な改造を受け、11機の水上偵察機を搭載可能な航空巡洋艦として生まれ変わりました。

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(直上の写真:ミッドウェー海戦での損傷修復後、航空巡洋艦となった「最上」:by Konishi。艦後部に11機の水上偵察機の繋留ができる航空甲板を設置しました)

 

最上の搭載機

改装時の計画では、ミッドウェーの喪失空母の穴埋め目的から、「瑞雲(水上爆撃機)」を11基搭載する予定でしたが、搭載機材開発の遅れから、実際には従来の零式水偵4機と零式水観3機の混載の記録が残されているようです。レイテ沖海戦当時は水偵5機を搭載していました。

 

第七戦隊に復帰後、主として中部太平洋で行動しますが、ラバウルに進出した際に、ラバウル空襲に遭遇し、再び被弾してしまいます。

損傷回復後、マリアナ沖海戦への参加(「長門」と共に空母機動部隊乙部隊直衛)を経て、1944年10月レイテ沖海戦では、第一遊撃部隊の第三部隊(西村艦隊)の一員として戦闘に参加しました。西村艦隊はスリガオ海峡へ突入しますが、米艦隊の砲撃で「最上」は炎上、更に後続の第二遊撃艦隊(志摩艦隊)の旗艦「那智」と衝突し損傷を大きくしてしまいました。

翌朝、米軍機の空襲をうけ、味方駆逐艦の魚雷で処分されました。

 

駆逐艦「時雨」(「白露級」駆逐艦

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(直上の写真:「白露級」の概観。88mm in 1:1250 by Neptun:レイテ沖海戦時には、もっと対空機銃等が強化されていたはず)

 

「時雨」は「白露級」中型駆逐艦の二番艦として建造されました。

「白露級」駆逐艦は前級「初春級」の復原性改善後の設計をベースに建造された準同型艦で、少し船型を拡大し、4連装魚雷発射管2基を搭載し、射線数を「吹雪級」に近づけたものとすることになりました。次発装填装置を搭載し、魚雷搭載数を当初16本として、雷撃能力を向上させています(当初と記載したのは、実際には搭載魚雷数は14本あるいは12本だったようです)。その他の兵装、艦容はほぼ「初春級」に準じるものとなりました。

主砲は「初春級」と同じ「50口径3年式12.7cm砲」でしたが、この砲をC型連装砲塔、B型単装砲塔に搭載しましたが、これらはいずれも仰角を55度に抑えた平射用の主砲塔でした。

速力は改修後の「初春級」とほぼ同等の34ノットでした。

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(直上の写真:「白露級」の特徴である次発想定装置付きの4連装魚雷発射管(上段)と、艦尾部に背中合わせに配置された単装主砲砲塔と連装砲塔:いずれも仰角55度の平射用砲塔でした)

太平洋戦争開戦時には、「時雨」は「白露級」1隻、「初春級」2隻と共に第二十七駆逐隊を編成していました。その後戦局が進み、同駆逐隊も損傷等で構成艦が入れ替わりますが、第一遊撃部隊への編入時点では、相次ぐ喪失、損傷で「時雨」は僚艦を持たない単艦となっていました。

レイテ沖海戦では、西村艦隊の一員としてスリガオ 海峡に突入しましたが、「時雨」は左翼の警戒艦の任を務めました。米艦隊との砲雷戦の結果、命中弾1、至近弾数発で損傷を受けましたが、西村艦隊の唯一の生き残りとなりました。

海戦ののち、船団護衛等の任務に奔走しますが、1945年1月にカムラン湾ベトナム)に向かう船団の護衛中に、潜水艦を探知。対潜水艦戦闘中に潜水艦の魚雷攻撃で撃沈されました。

 

第四駆逐隊 駆逐艦 山雲、満潮、朝雲朝潮級)

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第四駆逐隊の3隻(「山雲」「満ち潮」「朝雲」)は「朝潮級」駆逐艦です。

朝潮級」駆逐艦は、ロンドン条約の大型駆逐艦保有制約への対策として「初春級」「白露級」と中型駆逐艦を就役させた日本海軍が、条約の失効を踏まえて再び建造した大型駆逐艦の第一陣です。「初春級」「白露級」は、小さな船体に重武装を搭載し、高速をも発揮する意欲的な設計でしたが、無理の多い仕上がりとなり、結果的に期待を満たす性能は得られない結果となり、条約失効に伴い大型駆逐艦への回帰となりました。

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(直上の写真:「朝潮級」の概観。94mm in 1:1250 by Neptun:レイテ沖海戦時には、もっと対空機銃等が強化されていたはず)

 

こうして「朝潮級」は2000トン級の船体に、「白露級」で採用された4連装魚雷発射管2基を搭載し8射線を確保、次発装填装置を備え魚雷16本を搭載、主砲には「50口径3年式12.7cm砲」を仰角55度の平射型C型連装砲塔3基6門搭載したバランスの取れた艦となりました。機関には空気予熱器つきの缶(ボイラー)3基を搭載、35ノットの速力を発揮する設計でした。こうして日本海軍は、ほぼ艦隊駆逐艦の完成形とも言える艦級を手に入れたわけですが、一点、航続距離の点で要求に到達できず、建造は10隻のみとなり、次の「陽炎級」に建造は移行することになりました。

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(直上の写真:「朝潮級」の特徴である次発想定装置付きの4連装魚雷発射管(上段)と、艦尾部に配置された「白露級」と同じC型連装砲塔:仰角55度の平射用砲塔でした)

 

3隻はスリガオ海峡突入時、当初は「最上」と共に第二戦隊の前衛として出没する米魚雷艇部隊の掃討に従事し、後に「満潮」「朝雲」が縦列で前衛警戒、「山雲」が右翼警戒にあたりました。(前出の「時雨」が左翼警戒)

これに主隊である第二戦隊の「山城」「扶桑」と「最上」が続く隊形で、西村艦隊はレイテ湾に突入するわけですが、これを左右から米駆逐艦が雷撃し、「扶桑」の被雷、後落に続いて第四駆逐隊の3隻が相次いで被雷し「満潮」「朝雲」は航行不能に、「山雲」は轟沈してしまい、西村艦隊は一気に前衛を失ってしまいます。

 

トピック:「特型駆逐艦」の呼称

少し余談になりますが、「特型駆逐艦」の呼称はそれまでの駆逐艦の概念を超えた「吹雪級」駆逐艦の別称とされることが一般的かと思いますが、軍縮条約制約下の高い個艦性能への要求(制限を受けた艦型と高い重武装要求のせめぎ合い、と言っていいと思います)を満たすべく設計・建造された「吹雪級」「初春級」「白露級」「朝潮級」を一纏めに使われる場合もあるようです。

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(直上の写真:「特型駆逐艦」群の艦型比較。上から「吹雪級」、「初春級」復原性改善後、「白露級」「朝潮級」の順)

これに対し、それ以前の駆逐艦群(「峯風級」「神風級」「睦月級」)には、「並型駆逐艦」という表現が使われることもありました。(まるで「特盛り」「並盛り」ですね)

以上、余談でした。

 

西村艦隊の概観

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(第一遊撃部隊 第三部隊(西村艦隊)の概観:(上段)西村艦隊の基幹部隊である第二戦隊(扶桑・山城)と、(下段)その直衛部隊(航空巡洋艦「最上」と駆逐艦朝雲」「山雲」「満潮」「時雨」(奥から))

やはりこうして見てみると、戦力としては規模が小さいですね。

本稿でも紹介していますが「長門」でもこれに加わっていれば。

 

さらに言うと、第二戦隊の所属については第五艦隊(つまり「第二遊撃部隊」への配属案もあったようです。軍令部は第五艦隊を北方警備から外した時点で第三艦隊(空母機動部隊)の直掩として使用しようとした構想を持っていたようで、第二戦隊の第五艦隊配属については空母機動部隊への帯同が困難との理由で見送られたようです。(と言っても速度的には「扶桑級」とそれほど大差のない2隻の航空戦艦「伊勢」「日向」で構成される第四航空戦隊が第三艦隊に配置されていたわけですから、第二戦隊の配置にも大きな障害はなかったのでは、と思うのですが)

更に、水上戦闘部隊として第五艦隊を使用する(つまり第二遊撃部隊、ですね)ことが決定された時点で、この空母機動部隊との帯同問題はなくなっていたはずなので、その時点で配属をしても良かったのでは、と思ってしまいます(行動を共にしたことがない、等々は平時であれば大きな障害と考えられるべきかも知れませんが、このレイテ沖海戦の時点ではそのようなことよりももっと大事なことが)。

まあ、第五艦隊配属となれば、おそらく第二戦隊の直衛に第二艦隊が「最上」や第四駆逐隊を割くことはなかったでしょうが。一方で、第五艦隊には第十六戦隊(重巡「青葉」、軽巡「鬼怒」、駆逐艦「浦波」)が付属していましたので、必要であれば(また、行動を共にしたことがない、などの議論はあるのでしょうが)、これを加えるということも考慮できたのでは、等々考えてしまいます。

 

というわけで、今回はここまで。

 

 次回はロイヤル・ネイビー駆逐艦小史に戻りましょうかね。あるいは今回の続きで「志摩艦隊」が先かな。この勢いでレイテ沖海戦当時の日本艦隊というミニ・シリーズ化もあるかと思いますが、日本海軍の空母の総覧が終わっていないので、少し先かな?

もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

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特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

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