相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

レイテ沖海戦:栗田艦隊(その2):第一遊撃部隊 第二部隊とレイテ沖海戦の概要(経緯)

今回は前回に引き続き、第一遊撃部隊 第二部隊のお話です。

 

第一遊撃部隊は第二艦隊を基幹部隊とし、第十戦隊他を加えて編成されていました。

少しおさらい。最終的なレイテ突入部隊の戦闘序列は以下の通り。

 

第一遊撃部隊(第二艦隊を基幹に第三艦隊所属の第十戦隊で編成):  司令長官:栗田健男中将     

第一部隊(指揮官:栗田健男中将直率)

        第四戦隊(司令長官直率)重巡洋艦 愛宕、高雄、摩耶、鳥海

        第一戦隊(司令官:宇垣纏中将)戦艦 大和、武蔵、長門

        第五戦隊(司令官:橋本信太郎中将)重巡洋艦 妙高、羽黒

        第二水雷戦隊(司令官:早川幹夫少将)軽巡洋艦 能代駆逐艦島風

            第二駆逐隊 駆逐艦 早霜、秋霜:夕雲級駆逐艦

            第三十一駆逐隊 駆逐艦 岸波、沖波、朝霜、長波:夕雲級駆逐艦

            第三十二駆逐隊 駆逐艦 浜波、藤波:夕雲級駆逐艦

 

第二部隊( 指揮官:鈴木義尾第三戦隊司令官

        第三戦隊(司令官:鈴木義尾中将)戦艦 金剛、榛名

        第七戦隊(司令官:白石萬隆中将)重巡洋艦 鈴谷、熊野、利根、筑摩

        第十戦隊(司令官:木村進少将)軽巡洋艦 矢矧

            第十七駆逐隊 駆逐艦 浦風、磯風、雪風、浜風陽炎級駆逐艦

            第三隊※臨時編成 駆逐艦 清霜:夕雲級駆逐艦、野分陽炎級駆逐艦

 

第三部隊(指揮官:西村祥治第二戦隊司令官

        第二戦隊(司令官:西村祥治中将)戦艦 山城、扶桑

         第二戦隊直掩:重巡洋艦 最上  駆逐艦 時雨:白露級駆逐艦

           第四駆逐隊 駆逐艦 山雲、満潮、朝雲朝潮駆逐艦

 

第二遊撃部隊(第五艦隊基幹:志摩艦隊)司令長官:志摩清英中将

第二十一戦隊(第五艦隊司令長官直率)重巡洋艦 那智、足柄

第一水雷戦隊司令官:木村昌福少将)軽巡洋艦 阿武隈

   第七駆逐隊 駆逐艦 曙、潮

   第十八駆逐隊 駆逐艦 霞、不知火

 

第一遊撃部隊 第二部隊

このうち第一遊撃部隊 第二部隊を再録しておくと

第二部隊( 指揮官:鈴木義尾第三戦隊司令官

        第三戦隊(司令官:鈴木義尾中将)戦艦 金剛、榛名

        第七戦隊(司令官:白石萬隆中将)重巡洋艦 鈴谷、熊野、利根、筑摩

        第十戦隊(司令官:木村進少将)軽巡洋艦 矢矧

            第十七駆逐隊 駆逐艦 浦風、磯風、雪風、浜風陽炎級駆逐艦

            第三隊※臨時編成 駆逐艦 清霜:夕雲級駆逐艦、野分陽炎級駆逐艦

となります。速度30ノット以上の高速艦艇を揃えた艦隊ですね。

 

部隊指揮官は第三戦隊司令官の鈴木義尾中将が兼任しています。鈴木義尾中将は海兵40期卒で、同期生にはレイテ沖海戦時の第一航空艦隊司令長官の大西滝次郎(神風特攻の生みの親とされている人物です)、同時期の第二航空艦隊司令長官福留繁(古賀連合艦隊司令部時代の参謀長)や、第一戦隊司令官宇垣纏(山本連合艦隊司令部時代の参謀長)がいます。ミッドウェーで飛竜を率いて奮戦した山口多門も同期生ですね。

鈴木中将自身は、太平洋開戦時には軍令部第二部長(戦備・兵站担当)を務めていました。1943年5月に大西らと同時期に中将に進級し、その後、1943年7月から第三戦隊司令官を務めました。資料によっては第三戦隊司令官(つまり第二部隊指揮官)当時には少将とするものもありますが、本稿では上記に従うことにします。

(それにしても、第一遊撃部隊には「中将」がたくさんいます。司令長官の栗田さん:海兵38期、第一戦隊司令官の宇垣さん:海兵40期、第二戦隊司令官の西村さん:海兵39期、そして上記の第三戦隊司令官、鈴木さん:海兵40期、さらに第五戦隊司令官の橋本さん:海兵41期、第七戦隊司令官の白石さん:海兵42期。つまり重巡洋艦以上の艦艇で構成されていた部隊指揮官は全員「中将」だったということになります。その中で鈴木さんは第二部隊の指揮官に選ばれていますから、レイテ沖海戦当時は中将だったと確信しています)

 

第一遊撃部隊 第二部隊の各艦艇

今回は上記のうち、第二部隊の各艦艇をご紹介します。

第二部隊   第三戦隊(指揮官:鈴木義尾中将直卒)戦艦 金剛、榛名

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金剛級第一次世界大戦期に建造された巡洋戦艦で、日本海軍の主力艦としては最古参ですが高い機動性と優れた基本設計により、数次の改装を経て、太平洋戦争では唯一、高速空母機動部隊に帯同できる主力艦でした。

その改装要目は多岐にわたり、バルジ等の装着による防御力向上、対空兵装の強化、艦橋構造の変更、航空艤装の装備等による重量の増加を、機関の換装、艦尾の延長等により、速度をより優速の30ノットに向上させていました。この高速ゆえ、空母との帯同も可能な唯一の主力艦として、他の主力艦群が長く内地に留置されている時期も、第一線にあり続けていました。ソロモン海の激戦で同型艦の「比叡」「霧島」は失われましたが、「金剛」「榛名」はなお、1944年次にあっても高速戦艦として 現役にとどまることができていました。

(1941-, 32,000t, 30knot, 14in *2*4, 4 ships)(178mm in 1:1250 by Neptun) 

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(直上:1941年当時の「金剛」直下は「榛名」:レイテ沖海戦時にはいずれも対空兵装を格段に強化されていました)

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(「榛名」は「霧島」同様、丸みを帯びた主砲等を装備し、傾斜のない後檣を装備していました(直下の写真))

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「金剛」

レイテ沖海戦には第一遊撃部隊(栗田艦隊)第二部隊の旗艦(第三戦隊旗艦)として参加しています。数次の空襲でもほとんど損害はないまま、米護衛空母部隊とのサマール島沖海戦では高速を生かし重巡部隊とともに護衛空母郡追撃の先頭に立っています。

栗田艦隊の反転、戦場離脱後、集結地として指定されたブルネイへの帰投途中、米機動部隊の艦載機の急降下爆撃機の集中攻撃を受け、損傷しています。

1944年11月、「大和」「長門」とともにブルネイから本土への回航が決定され、回航途上、台湾沖で米潜水艦の雷撃を受け、魚雷二発が命中、引き続き退避を続けますが、それまでの損傷箇所などからも浸水が誘発され、被雷から約2時間後、傾斜を復旧できず航行不能になり傾斜増加により弾薬庫が爆発を起こし沈没しています。この際、旗艦にとどまり復旧指揮を取っていた鈴木中将も戦死しています。

 

「榛名」

レイテ沖海戦には前出の「金剛」とともに参加しますが、機関の不調を抱えたままの出撃となりました。第二部隊は米機動部隊の空襲が第一部隊に集中したため、大きな損害なく、サマール沖の米護衛空母(栗田艦隊は、護衛空母とは認識せず、正規空母機動部隊の一部と誤認していました)追撃戦でも全速が発揮できませんでした。

栗田艦隊の反転、戦場離脱後、米艦載機の空襲で至近弾により損傷を負いますが、大きな損害ではありませんでした。

海戦後、「榛名」は「金剛」と別れ、第二遊撃部隊(志摩中将指揮:南方残置艦隊)に編入され、ブルネイからリンガ泊地(スマトラ東方)に移動します。その途上、座礁し、現地修復が不可能とされたため、やがて内地に回航されました。

1944年12月呉に帰投し修復を受けますが、既に内地に燃料はなく出撃機会に恵まれることなく、呉に係留されたまま1945年7月の呉大空襲で20発以上の命中弾を受け大破着底し、そのまま終戦を迎えました。

 

竣工時の「金剛級巡洋戦艦

金剛級」の建造経緯を少し、これもおさらい。

(1913-, 26,330t, 27.5knot, 14in *2*4, 4 ships)(173mm in 1:1250 by Navis) 

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日清、日露の戦訓から、欧米列強に対し基本的な国力が劣る状況が改善されることは想定しにくく、物量で凌駕できない条件の元でも、機動力において常に仮想敵を上回ることができれば、勝利を見いだせることが、日本海軍の確信となっていました。

これらの背景から、超弩級巡洋戦艦「金剛」級は生まれました。

海外技術の導入の必要性から、1番艦「金剛」は英ビッカース社で建造されましたが、2番艦以降は、「比叡」横須賀海軍工廠、「榛名」神戸川崎造船所、「霧島」三菱長崎造船所、と、国内で生産され、特に民間への技術扶植がおこなわれ、ひいては造船技術の底上げが図られました。4隻は1913年「金剛」、14年「比叡、」15年「榛名」「霧島」と相次いで就役しています。

英海軍のライオン級巡洋戦艦タイプシップとして、27.5ノットを発揮し、主砲口径は当初は50口径30.5センチ砲連装砲塔5基を予定していましたが、候補となった英国製のこの砲には命中精度、砲身寿命に課題があり、本家の英海軍もより大口径の砲へ次級戦艦の主砲を切り替えたため、「金剛級」では当時としては他に例を見ない45口径35.6センチの巨砲を、連装砲塔4基に装備することになりました。

強力な砲兵装と機関により、排水量27,000トンを超える巨艦となり、第一次大戦当時、金剛級4隻は世界最強の戦隊、と歌われ、諸列強、垂涎の的でした(英国は第一次世界大戦中に同戦隊の貸与を日本海軍に申し入れたと言われています)。

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金剛級4隻(手前から、金剛、比叡、榛名、霧島)


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(写真は1927年ごろの霧島。前檣の構造がやや複雑化しつつあるのが分かります)

 

第七戦隊(司令官:白石萬隆中将)重巡洋艦 鈴谷、熊野、利根、筑摩

第七戦隊は、「最上級」重巡洋艦二隻と「利根級重巡巡洋艦二隻で編成されていました。

 

「熊野」「鈴谷」:最上級巡洋艦 

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(直上の写真:「最上級」の外観:163mm in 1:1250 by  Neptun)

 

開戦時の 第七戦隊

第七戦隊は太平洋戦争開戦当時、「最上級」重巡洋艦四隻で編成されていました。緒戦はマレー・蘭印攻略戦等に帯同し活躍しました。続くミッドウェー海戦では、ミッドウェー攻略部隊主隊(第二艦隊基幹)の前衛としてミッドウェ島砲撃等の任務を帯び本隊よりも先行していましたが、空母機動部隊の敗北を受けて退避中に「三隈」は空襲で失われ、「最上」は同海戦での損傷回復時に航空巡洋艦に改装されました。(レイテ沖海戦時には「西村艦隊」に所属し、沈没しています)

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(直上の写真:第7戦隊の勢揃い。手前から、「最上」「熊野」「鈴谷」「三隈』)

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(直上の写真:ミッドウェー海戦での損傷修復後、航空巡洋艦となった「最上」:by Konishi。艦後部に11機の水上偵察機の繋留ができる航空甲板を設置しました)

「熊野」

レイテ沖海戦では第一遊撃部隊(栗田艦隊)第二部隊所属の第7戦隊の旗艦を務めました。

シブヤン海では米機動部隊の艦載機の空襲を受け、艦隊は戦艦「武蔵」を失うほどの損害を受けました。「熊野」も被弾しますが、幸いにも不発弾で、その後も作戦参加を続行しました。その後の米護衛空母部隊と交戦したサマール島沖海戦では、空母部隊直衛の駆逐艦から雷撃を艦首に受け、艦首を喪失して戦列から脱落しています。

マニラ帰着後、11月に損傷の修復のため本土帰還を目指したが、度重なる空爆で失われました。

「鈴谷」

レイテ沖海戦に第一遊撃部隊(栗田艦隊)第二部隊の一員として参加しました。サマール島沖海戦で、米護衛空母部隊と交戦し、同空母部隊艦載機の爆撃を受け至近弾により魚雷が誘爆し航行不能となってしまいます。その後も火災が収まらず、さらに魚雷と高角砲弾の誘爆も始まり、やがて沈没してしまいました。

 

「最上級」建造の経緯

「最上級」は当初、ワシントン・ロンドン体制の重巡洋艦保有枠の保有上限から、6インチ砲装備の軽巡洋艦として建造されました。ただし、重巡洋艦とも十分に対抗できるよう、それまでの日本海軍の軽巡洋艦とは異なり、37ノットのずば抜けた機動性に加え、十分な防御力を備えた大型の船体を持ち、これにそれまでの軽巡洋艦の倍以上の火力を搭載して敵を圧倒する、と言う設計思想で建造されました。

また軽巡洋艦であるため、艦名には「川」の名前が冠されました。

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(直上の写真は、「最上級」の就役時の概観。163mm in 1:1250 by Konishi)

採用された主砲は、3年式60口径15.5cm砲で、この砲をを3連装砲塔5基に搭載することが計画されました。

(直下の写真:竣工時に搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔郡の配置)f:id:fw688i:20200607140653j:image

この砲は27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は高初速で散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。

75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありましたが、毎分5発程度の射撃速度では、対空砲としての実用性には限界がありました。

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主砲の換装、そして名実ともに重巡洋艦

ワシントン・ロンドン体制は、1936年に失効し、保有制限がなくなったこの機会に「最上級」各艦は主砲を50口径20.3cm連装砲に換装しました。こうして重巡洋艦を越えるべく建造された「最上級」は、名実共に重巡洋艦となりました。

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(直上の写真:主砲を20.3cm連装主砲塔に換装した「最上級」の外観:by Neptune)

主砲換装の是非

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(直上の写真:竣工時に搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔(上段)と20.3cm連装砲塔への換装後(下段)の比較。換装後の2番砲塔の砲身は、1番砲塔と干渉するため、正正面で繋止する際には一定の仰角をかける必要がありました(下段))

本来、「最上級」に搭載されていた3年式60口径15.5cm砲は、重巡洋艦との砲戦でも撃ち負けない様に設計されただけに、射程も重巡洋艦が搭載する20.3cm砲に遜色はなく、砲弾一発当たりの威力では劣るものの、「最上級」はこれを3連装砲塔5基、15門搭載し、その高い速射性も相まって、1分あたりの投射弾量の総量では、20.3cm連装砲塔5基を上回っていました。さらに60口径の長砲身を持ち散布界が小さい射撃精度の高い砲として、用兵側には高い評価を得ていました。

これを本当に換装する必要があったのかどうか、やや疑問です。

筆者の漁った限りの情報では、貫徹力でどうしても劣る、というのが主な換装理由ですが、その後のソロモン周辺での戦闘を見ると、あるいはこれまでの日本海軍の戦歴を見ると、速射性の高い砲での薙射で上部構造を破壊し戦闘不能に陥れる、という戦い方も十分にあり得たのではないかな、と。

あるいは、米海軍を仮想敵として想定した場合に、その艦艇の生存性の高さ、あるいは後方の修復能力の段違いの高さから、必殺性が求められた、ということでしょうか?(日本海軍の場合、損傷艦の自沈、あるいは海没処分、というのが目立つのですが、米海軍では、そのような例はあまり見かけません)

また、前述の様に米海軍も英海軍も同様の設計の巡洋艦を建造していますが、いずれも換装した例はありません。

主砲換装は計画されていたのか?

「最上級」の主砲塔配置は、それまでの「妙高級」「高雄級」重巡洋艦の砲塔配置とは少し異なっています。「妙高級」「高雄級」では艦首部の3砲塔を中央が高い「ピラミッド型の配置としていました。これは砲塔間の間隔を短くし弾庫の防御装甲範囲を小さくし重量を削減するのに有効でしたが、一方で3番砲塔の射角が左右方向のみに大きく制限されました。

「最上級」の主砲塔配置は、砲身の短い15.5cm砲に合わせた設計になっており、20.3cm砲に換装した際に2番砲塔の砲身が1番砲塔に干渉してしまい、正正面で砲塔を固定する場合、砲身に一定の仰角をかける必要がありました。このことから、従来定説であった条約失効後の換装計画が設計当初から決定されていたのか、と少し疑問に思ってしまいます。

一方で、15.5cm3連装主砲塔の重量は、20.3cm連装主砲塔よりも重く、第4艦隊事件などで、重武装を目指すあまりに全般にトップヘビーの傾向が見られた艦船設計に対する改善策としては、理にかなった選択だった、とも言えるのではないでしょうか?

    

「利根」「筑摩」:利根級巡洋艦 

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(直上の写真は、「利根級」の概観。162mm in 1:1250 by Konishi)

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(直上の写真は、第8戦隊の「利根」(手前)「筑摩」:by Neptune

「利根」

レイテ沖海戦に第一遊撃部隊(栗田艦隊)の一員として参加。サマール沖海戦では米護衛空母を追撃し、砲撃で一隻を撃沈しています。一方で、米護衛空母の艦載機の反撃で艦後部に被弾し損傷しました。

作戦終了後、ブルネイに一旦退避後、輸送任務と修理のために内地に帰還。海軍兵学校練習艦として呉に停泊中に空襲により被弾損傷。さらに数次にわたる空襲で被弾が相次ぎ、大破着底状態で終戦を迎えました。

 

「筑摩」

レイテ沖海戦に、第一遊撃部隊(栗田艦隊)第7戦隊(旗艦「熊野」)の一員として参加します。

サマール島沖海戦では米護衛空部部隊を追撃し砲撃を加えますが、護衛空母艦載機の雷撃攻撃で艦尾に避雷し、舵故障と速度低下で部隊から落伍してしまいました。その後、再度米軍機の空襲を受け、艦中央部に複数の命中弾を受け、味方駆逐艦「野分」により雷撃処分されました。

「筑摩」乗組員は雷撃処分に当たった駆逐艦「野分」に収容されましたが、「野分」も後に米艦隊に撃沈され、生存者は海戦時には索敵任務を帯びて発進しそのまま地上基地に向かった水上偵察機の搭乗員を除くと、「野分」に救助されず、米艦隊に救助された1名と撃沈された「野分」から救助された「野分」「筑摩」の生き残り1名、計2名と言われています。

 

利根級」建造の経緯

日本海軍は早くから航空機による索敵に注目していました。すでに5500トン級軽巡洋艦から、航空索敵の能力付与についての模索は始まっていました。

しかし、具現化については米海軍が常に一歩先をゆき、例えば5500トン級と同時代の「オマハ級」軽巡洋艦はすでにカタパルトを2基搭載し、水上偵察機も2機搭載していました。その後も米海軍の優位は続き、米海軍の条約型重巡洋艦は4機の水上偵察機搭載を標準としていたのに対し、日本海軍の重巡洋艦は2機乃至3機の搭載に甘んじていました。

一方で、常に劣勢に置かれる主力艦事情を覆すべく構想された空母の集中運用、いわゆる空母機動部隊の構想においては、航空索敵の必要性はさらに高まり、「利根級巡洋艦は、それを具現すべく設計された、と言って良いと思います。

利根級巡洋艦は前述の「最上級」と同様の建造経緯で、8500トンの船体をもち、15.5cm砲を主砲として搭載したカテゴリーB(軽巡洋艦)として計画され、艦名も「川」の名前を与えられていました。同級の設計時点ではワシントン・ロンドン体制の制限下で、すでにカテゴリーA(重巡洋艦)の保有枠を使い切っていたわけです。

その艦型は大変ユニークで、「最上級」と同じ3年式60口径15.5cm砲を主砲としてその3連装砲塔を「最上級」よりも1基減らして4基、12門をすべて艦首部に搭載し、艦尾部は水上偵察機の発艦・整備甲板として開放されていました。水上偵察機を6機搭載する能力を持ち、日本海軍は念願の空母機動部隊の「目」として運用することになります。

(直下の写真は、「利根級」の特徴のクローズアップ。前部主砲塔群(上段)と艦後部の水上偵察機の発艦・整備甲板)) 

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着工後の1936年に軍縮条約が失効したことを受けて、建造途中から主砲を重巡洋艦の標準主砲であった50口径3年式20.3cm砲に変更、完成時にはこの砲を連装砲塔で4基搭載した重巡洋艦として就役しました。

主砲塔をすべて艦首部に集中したことで、集中防御の範囲を狭め十分な装甲を施すことができ、また航続力も巡洋艦の中で最長で、高い航空索敵能力も併せて、最優秀巡洋艦の評価も聞かれたようです。

もっとも、速度の遅い水上偵察機による敵機動部隊索敵は、比較的早い時期に効果に疑問がもたれ、米海軍などは一部の空母搭載の艦上爆撃機を索敵機として部署し運用し始めていました。

 

第十戦隊(司令官:木村進少将)軽巡洋艦 矢矧

第十戦隊は、阿賀野級軽巡洋艦「矢矧」を旗艦とし、五隻の陽炎級駆逐艦(浦風、磯風、雪風、浜風、野分)と清霜(夕雲級駆逐艦)で構成されていました。

司令官は木村進少将(海兵40期)で、第二部隊指揮官の鈴木中将とは海兵同期でした。

第十戦隊は元々が空母機動部隊(第一航空艦隊、ミッドウエー海戦後第三艦隊)の直衛部隊として編成された部隊でしたが、マリアナ沖海戦で空母機動部隊を主戦力とする作戦が立案困難になった時点で、水上決戦部隊の直衛にその任務が変更され、第一遊撃部隊に編入されました。

 

「矢矧」

「矢矧」は太平洋戦争開戦後の1943年12月に就役した最新鋭の軽巡洋艦阿賀野級」の三番艦でした。

レイテ沖海戦に第一遊撃部隊(栗田艦隊)第二部隊第十戦隊の旗艦として参加。「武蔵」が撃沈されたシブヤン海での米機動部隊の空襲で損傷しましたが、その後も艦隊に帯同しサマール沖海戦(米護衛空母追撃戦:栗田艦隊は正規空母部隊と誤認していました)にも参加しています。

作戦中止後、帰投途上で、米機動部隊の艦載機の攻撃を受け、同型艦の第二水雷戦隊旗艦「能代」は魚雷1発を被雷し、その後の米艦載機の集中攻撃を受け撃沈されましたが、「矢矧」は至近弾等による損傷を受けながらブルネイに帰投しました。海戦後、「大和」「長門」「金剛」を護衛し内地に帰投(この途上「金剛」は米潜水艦の攻撃で沈没しています)。損傷の回復後、第二水雷戦隊旗艦とされ、「大和」に従い天号作戦(沖縄海上特攻)に同行し米艦載機の攻撃で沈没しています。

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(直上の写真は、「阿賀野級」の就役時の概観。138mm in 1:1250 by Neptune)

 

阿賀野級巡洋艦 -Agano class cruiser-    

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日本海軍では、高速化する駆逐艦と、その搭載する強力な魚雷に大きな期待を寄せ、 水雷戦隊をその中核戦力の一環に組み入れてきました。そしてこの戦隊を統括し指揮する役目を軽巡洋艦に期待してきたわけです。

その趣旨に沿って建造されたのが、一連の「5500トン級」軽巡洋艦でした。この艦級は初期型5隻(1917年から順次就役)、中期型6隻(1922年から順次就役)、後期型3隻(1924年から順次就役)、計14隻が建造されその適応力の高さから種々の改装等を受け適宜近代化に対応してきましたが、1930年代後半に入るとさすがに特に初期型の老朽化は否めず、艦隊の尖兵を構成する部隊の旗艦としては、砲力、索敵能力に課題が見られるようになりました。

 そこで計画されたのが、「阿賀野級軽巡洋艦でした。

 

阿賀野級」は、それまでの「5500トン級」とは全く異なる設計で、6650トンの船体に、軽巡洋艦としては初となる15.2cm砲を主砲として採用し連装砲塔を3基搭載していました。この砲自体の設計は古く、名称を「41式15.2cm 50口径速射砲」といい、「金剛級巡洋戦艦、「扶桑級」戦艦の副砲として採用された砲でした。

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同砲は、主砲を単装砲架での搭載を予定していた「5500トン級」軽巡洋艦では人力装填となるため日本人には砲弾が重すぎるとして、少し小さな14cm砲が採用されたという、曰く付きの砲でもあります。しかし。列強の軽巡洋艦は全て6インチ砲を採用しており、明らかに砲戦能力での劣後を避けたい日本海軍は、新造の「阿賀野級」では、この砲を新設計の機装式の連装砲塔で搭載することにしました。

同砲は21000メートルの射程を持ち、砲弾重量45.5kg (14cm砲は射程19000メートル、砲弾重量38kg)。連装砲塔では毎分6発の射撃が可能でした。さらに新設計のこの連装砲塔では主砲仰角が55度まで可能で、一応、対空射撃にも対応できる、とされていました。

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(直上の写真は、「阿賀野級」の細部。主砲として採用された41式15.2cm 50口径速射砲の連装砲塔(上段)。高角砲として搭載した長8cm連装高角砲(左下):この砲は最優秀高角砲の呼び声高い長10cm高角砲のダウンサイズですが、口径が小さいため被害範囲が小さく、あまり評価は良くなかったようです。水上偵察機の整備運用甲板とカタパルト(右下))

 

対空兵装としては優秀砲の呼び声の高い長10cm高角砲を小型化した新型の長8cm連装高角砲2基搭載していました。

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雷装としては61cm四連装魚雷発射管2基、艦中央部に縦列に装備し、両舷方向に8射線を確保する設計でした。

航空偵察能力は「5500トン級」よりも充実し、水上偵察機2機を搭載し射出用のカタパルト1基を装備していました。

最大速力は、水雷戦隊旗艦として駆逐艦と行動を共にできる35ノットを発揮しました。

 

第十七駆逐隊 駆逐艦 浦風、磯風、雪風、浜風:陽炎級駆逐艦

第十戦隊直属:臨時編成 駆逐艦 清霜:夕雲級駆逐艦、野分:陽炎級駆逐艦

 

陽炎級駆逐艦(19隻)

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(直上の写真:「陽炎級」の概観。94mm in 1:1250 by Neptune)

 

陽炎級駆逐艦は、前級「朝潮級」の船体強度改修後をタイプシップとして、設計されました。兵装は「朝潮級」の継承し、2000トン級の船体に、4連装魚雷発射管2基を搭載し8射線を確保、次発装填装置を備え魚雷16本を搭載、主砲には「50口径3年式12.7cm砲」を仰角55度の平射型C型連装砲塔3基6門搭載とされました。

朝潮級」の課題とされた速度と航続距離に関しては、機関や缶の改良により改善はされましたが、特に速力については、以前課題を残したままとなり、推進器形状の改良を待たねばなりませんでした。

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(直上の写真:「陽炎級」では、次発装填装置の配置が変更されました。左列が「朝潮級」、右列が「陽炎級」。「陽炎級」の場合、1番魚雷発射管の前部の次発装填装置に搭載された予備魚雷を、装填する際には発射管をくるりと180°回転させて発射管後部から。魚雷の搭載位置を分散することで、被弾時の誘爆リスクを低減する狙いがありました)

 

太平洋戦争開戦時には、最新鋭の駆逐艦として常に第一線に投入されますが、想定されていた主力艦艦隊の艦隊決戦の機会はなく、その主要な任務は艦隊護衛、船団護衛や輸送任務であり、その目的のためには対空戦闘能力、対潜戦闘能力ともに十分とは言えず、常に悪先駆との末、同型艦19隻中、「雪風」を除く18隻が戦没しました。

 

「夕雲級」駆逐艦(19隻)

ja.wikipedia.or 「夕雲級」駆逐艦は、「陽炎級」の改良型と言えます。就役は1番艦「夕雲」(1941年12月5日就役)を除いて全て太平洋戦争開戦後で、最終艦「清霜」(1944年5月15日就役)まで、19隻が建造されました。

その特徴としては、前級の速力不足を補うために、船体が延長され、やや艦型は大きくなりますが、所定の35ノットを発揮することができました。兵装は「陽炎級」の搭載兵器を基本的には踏襲しますが、対空戦闘能力の必要性から、主砲は再び仰角75度まで対応可能なD型連装砲塔3基となりました。しかし、装填機構は改修されず、依然、射撃速度は毎分4発程度と、実用性を欠いたままの状態でした。

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(直上の写真:「陽炎級」(上段)と「夕雲級」(下段)の艦橋の構造比較。やや大型化し、基部が台形形状をしています)

陽炎級」と同様、就役順に第一線に常に投入されますが、その主要な任務は、設計に力点の置かれた艦隊決戦での雷撃能力ではなく、艦隊護衛、船団護衛や輸送任務であり、その目的のためには対空戦闘能力、対潜戦闘能力ともに十分とは言えず、全て戦没しました。

 

第十戦隊の駆逐艦六隻(浦風、磯風、雪風、浜風、野分、清霜)のうちレイテ沖海戦では「野分」のみが失われました。

 

第一遊撃部隊 第二部隊の捷一号作戦(レイテ沖海戦とその後のフィリピン攻防)での損害状況

以下に第一遊撃部隊 第二部隊の作戦回りでの損害をまとめておきましょう。赤字レイテ沖海戦(10月20日から28日にかけて)で失われた艦船を、緑字レイテ沖海戦後のフィリピン攻防に関連して失われた艦(海戦後の内地への回航途上での損害も含んでいます)を表しています。

第二部隊
 
レイテ沖海戦の経緯と喪失・損傷艦

レイテ沖海戦は1944年10月20日から25日にかけてレイテ島に来攻した米上陸軍の侵攻阻止を目論んで出撃した日本海軍の艦隊・基地航空部隊と、これを護衛する米空母機動部隊との間で戦われた一連の海空戦の総称です。

総称と書いたのは、戦闘期間が長く、かつ広範囲に渡り、いくつかの段階に分けて整理されることが多いからで、以下にその経緯とその段階での日本海軍の損害艦を一覧してみると、より全体の様相を把握する助けになると考えています。

パラワン水道での戦い(米潜水艦による攻撃):10月23日

22日栗田艦隊は集結地であるブルネイを出航し、第一遊撃部隊はパラワン水道を通過するコースをとります。23火未明、これを発見した米潜水艦二隻がこれを攻撃し、第一遊撃部隊指揮官(栗田中将)直卒の第四戦隊の重巡二隻が撃沈され、一隻が大損害を得て離脱します。

喪失:重巡洋艦愛宕」「麻耶」 離脱:重巡洋艦「高雄」(「駆逐艦朝潮」「長波」が「高雄」退避を護衛して離脱)

シブヤン海海戦(米機動部隊による空襲:5回に及ぶ):10月24日

シブヤン海を航行中の栗田艦隊(第一遊撃部隊主力)が米第三艦隊(ハルゼイ大将指揮)の米空母機動部隊の攻撃を受けます。米艦載機の空襲は5次に渡り、この戦いで「武蔵」が撃沈されます。

喪失:戦艦「武蔵」 離脱:重巡洋艦妙高

栗田艦隊の反転と再反転

この海戦で主力「武蔵」以外にも損害が続出した栗田艦隊は一旦反転し、米機動部隊の攻撃から退避、艦載機の空襲が終了した約1時間半後、再度反転しレイテ湾を目指すコースに戻りました。

基地航空部隊・空母機動部隊(小沢艦隊艦載機)による米機動部隊攻撃

この間、基地航空部隊、空母航空部隊も米機動部隊に対し攻撃をかけています。(米軽空母「プリンストン」大破、のち魚雷処分されています)

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 (直上の写真:「インディペンデンス級航空母艦の概観。151mm in 1:1250 by Neptun) 

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 (「インディペンデンス級」空母は「クリーブランド級」軽巡洋艦の船体をベースに建造されたいわゆる戦時急造艦です。直上の写真:「インディペンデンス級航空母艦と「クリーブランド級」軽巡洋艦の比較。空母「プリンストン」が日本軍機の空襲で被弾した際に、消化活動と防空支援にあったたのが、軽巡洋艦バーミンガム」で「従姉妹(叔母と言うべき?)」に当たる「クリーブランド級」の一隻でした。「バーミンガム」は「プリンストン」が魚雷庫への引火で大爆発を起こした際に隣接して消化活動に当たっていた「バーミンガム」は巻き込まれ大損害を出しています)

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(直上の写真:「クリーブランド級」の概観。150mm in 1:1250 by Neptune。主砲塔を1基減らし、対空兵装として、連装5インチ両用砲を6基に増やし、対空戦闘能力を高めています )

スリガオ海峡海戦(「西村艦隊」と後続する「志摩艦隊」によるレイテ湾突入):10月24日深夜ー25日未明

作戦計画では、第一遊撃部隊はレイテ湾南北から25日黎明時にレイテ湾に突入することになっていました。実際には主力の栗田艦隊は上記のシブヤン海で米機動部隊の空襲を受け、一旦退避、一方別動隊の西村艦隊は予期していた空襲をほとんど受けなかったため、順調に航海し、スリガオ海峡にやや早くさしかかっていました。このため西村艦隊は栗田艦隊を待たず単独突入を決意、これに後続する第二遊撃部隊(志摩艦隊)が相次いでレイテ湾に突入を試み、レイテ上陸軍を護衛する米第七艦隊との間で戦闘が行われました。

喪失:戦艦「山城」「扶桑」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦山雲」「満潮」「朝雲

エンガノ岬沖海戦(米機動部隊の小沢艦隊:空母機動部隊に対する攻撃):10月25日

いずれ本稿でも扱いますが、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援すべく北方で活動した小沢空母機動部隊に対し、ハルゼイの空母機動部隊が攻撃をかけました。

喪失:空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」、軽巡洋艦「多摩」、駆逐艦秋月」「初月」

サマール沖海戦(第一遊撃部隊と米護衛空母部隊との遭遇戦):10月25日

レイテ上陸軍を護衛する米第七艦隊は、上記のスリガオ海峡海戦で西村艦隊他と交戦した水上戦闘部隊の他、上陸部隊の空中支援兵力として三つの護衛空母グループ(タフィ1、タフィ2、タフィ3)を含んでいました。これら三つのグループはいずれも六隻の護衛空母を基幹戦力として編成されており、レイテ島空中支援のため、レイテ島周辺を遊弋していました。

このうちの一群(タフィ3)を栗田艦隊が発見し、全力で攻撃をかけた戦いがサマール沖海戦です。

護衛空母はいずれも1万トン級の戦時急造貨物船をベースとして設計された補助的な役割の空母で、最大速力19ノット程度、搭載機30機程度でした。主として上陸軍の輸送船団の護衛と、上陸後の航空支援が主任務でした。

タフィ3は、このような護衛空母六隻とこれを護衛するフレッチャー級艦隊駆逐艦三隻、対潜水艦・対空戦闘用のジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦四隻で編成されている小さな艦隊でした。

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 (直上の写真:「カサブランカ級」護衛航空母艦の概観。123mm in 1:1250 by Last Square) 

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 (直上の写真:「フレッチャー級駆逐艦の概観。92mm in 1:1250 by Neptun) 

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 (直上の写真:「ジョン・C・バトラー級」護衛駆逐艦の概観。74mm in 1:1250 by Neptun)f:id:fw688i:20210905131502j:image 

(直上の写真:タフィ3の諸艦)

これに対し第一遊撃部隊が全力で襲いかかったのですから、砲雷戦自体は一方的なものになるはずだったのですが、米護衛駆逐艦部隊が艦隊駆逐艦二隻、護衛駆逐艦一隻の損害を出しながら奮戦し、護衛空母の損害は一隻のみに止まりました。さらにこれに母艦搭載機ん反撃が加わり、第一遊撃部隊は重巡3、駆逐艦1を失っています。

喪失:重巡洋艦「鳥海」「鈴谷」「筑摩」、駆逐艦「早霜」 離脱:重巡洋艦「熊野」

 

レイテ沖海戦終結

このサマール沖海戦ののち、栗田艦隊はレイテ湾を目の前にして、攻撃目標を「米機動部隊主力」に変更し、これを求めていわゆる「謎の反転」を行います。

結果的に「米機動部隊主力」は発見できず、栗田艦隊は作戦海域から去るのですが、このサマール沖海戦海戦で遭遇した護衛空母群「タフィ3」を正規空母機動部隊の一部と誤認したことが反転に大きな影響があったと考えられているようです。つまり、米機動部隊の主力は非常に近いところにいる、という錯覚ですね。

22日の艦隊集結地出航以来、23日の旗艦喪失(艦隊参謀長は「愛宕」喪失時に負傷しています)、24日のほぼ終日の対空戦闘、その後の反転・再反転の判断と、疲労の極にあり、かつ旗艦喪失による栗田艦隊司令部付きの通信要員の欠如からくる情報収集能力の低下、これに作戦目的に対する潜在的な不信感と付帯された目的変更に対する自由裁量の条件が、この「誤認」に後押しされて「反転の判断」につながった、というのは、あまりにも短絡と叱られそうですが。

 

結局、この4日間の海戦に、日本海軍は戦艦七隻、航空戦艦二隻、空母四隻、重巡洋艦十三隻、軽巡洋艦六隻、駆逐艦三十一隻を投入し、戦艦三隻、空母四隻、重巡洋艦六隻、軽巡洋艦三隻、駆逐艦八隻を失ったのでした。

 

というわけで、今回はここまで。

次回は、ここまでくるとやはり「小沢機動部隊」でしょうかね。もしかすると、一回お休みをして、あるいは二回に分けて、レイテ沖海戦の総括も含めて、ということになるかもしれません。敵役の「米第三艦隊」というテーマもあるかもしれませんが、ちょっと手に余る感じがしています。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

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