今回は日清戦争時の清国北洋艦隊の艦艇のご紹介です。
日清戦争(1894−1895)
少し背景をおさらいしておくと、明治維新は、そもそもアヘン戦争に敗れた清国が列強の蚕食を受けることを間近にした危機感から始まったと言っていいと思います。
当時の清国は確かに国家としての晩年期を迎えていました。民心を繫ぎ止めるには宮廷も官僚も腐敗し、国家としての弾力を失っていました。列強はこの老大国の支配階級の肥大した我欲に付け入り、「眠れる獅子」などと煽て、あるいは半ば本当に恐れながら、眠りを覚まさぬよう注意深く利益を貪り続けました。
一方、前述の危機感に痰を発した明治維新により、ともかくも自存を保ち得たと自負する日本は、永らく清帝国の影響下にあり続ける隣の朝鮮王朝に同様の危機感を抱くことになります。地政学的にみても朝鮮は大陸から日本に向けて南に垂れ下がった半島国家であり、その地続きの大陸にある眠れる大国は今や列強の草刈り場となろうとしています。半島という地形自体が周辺水域への重要な拠点を提供できるという特徴を持っている以上、そのまま列強の南下が進み、この半島に列強のいずれかが拠点を持てば、即、日本の自存が脅かされることになってしまう、その、ひりつくような危機感に煽られ、日本は朝鮮に、半ば強引に派兵することによって、保護と覚醒の手を差し伸べたわけです。
その、手前勝手で一方的な「好意」を、永く清国を宗主国と仰ぐ朝鮮王国は、当然のことながら好意としては受け取らず、清国に泣きつきます。あるいは、儒教国家として成熟した朝鮮には、同じ東アジア文化圏にありながら、その東洋的には洗練された習俗を全てをかなぐりすてる様にしてまで、いち早く欧化を遂げた日本に対して、当然その危機感を理解できず、一種の侮蔑感を抱きもしたでしょう。
清帝国にしても、長く自身の保護下にある朝鮮に求められてもいない「保護者意識」を持って影響力を行使しようとする日本は、決して好ましい存在と映るはずもなく、やがて両国は戦端を開くに至りました。
清国海軍と近代四水師(艦隊)の設立
清帝国は元来は北方民族による征服王朝で、17世紀に明朝末期に跳梁した倭寇(日本に拠点を持つ海賊)が徳川幕府の鎖国政策によってその活動を終息し、あわせて内政的には台湾に逃れていたの明朝の残党が降伏すると(1683年)、帝国の海軍への関心は一気に低下することになりました。海外との接触を制限する海禁政策が取られ、以降、18世紀の前半まで、海軍といえば沿岸海賊の討伐程度の警察活動が主要な任務で、それも帝国に帰順した元海賊を当てる、というような状況がほぼ2世紀に渡って永らく続くことになるのです。
このような状況で1840年に勃発したアヘン戦争時の海軍装備は、ジャンク(帆装軍船)600隻と沿岸砲台がその主要装備で、列強の蒸気軍艦には火力と機動性で圧倒され、全く歯が立ちませんでした。
アヘン戦争(1840-1842年)とそれに続くアロー戦争(1856−1860年)で清国は列強への複数の開港地を設定させられ、かつその周辺警備のため、開港地周辺への兵力の駐留を認めさせられることとなります。こうして海禁政策は終わりを告げ、進出の進む列強海軍への対応と、一方で開港地周辺以外での沿岸治安維持への列強の要求が高まり、清国は近代海軍の整備に動かざるを得ませんでした。
当初、お雇い外国人による艦隊が作られますが、主導権はお雇軍人の出身母体である英海軍が握ったため、種々の問題が噴出し、やがて廃止され、清国独自の艦隊が設立されます。
これが広東、福建、南洋、北洋の4つの艦隊、近代四水師でした。これらの艦隊は清国皇帝に直属し、一応海軍省(海軍衞門)の指揮下にあるものの、設立資金等を拠出した各地の有力者(督撫)の権限が強く、それぞれが地方軍閥的な独立色の濃い組織で、この体制は清朝末まで続き統合指揮を受けることはありませんでした。
福建艦隊(水師)
1866年設立:福州に拠点を置き、福建沿岸部と台湾の警備を主任務としていました。1500トン級の巡洋艦「揚武」を旗艦としていました。その他は1000トン級の砲艦15隻で構成されていましたが、清仏戦争でほぼ壊滅し、日清戦争当時は砲艦5隻ほどの戦力を有するのみでした。
スループ「揚武: Yang Wu」(1875年就役:同型艦なし)

(福建艦隊の主力艦、木造スループ「揚武」の概観:47mm in 1:1250 by Brown Water Miniatures)
1870年台に清国が建造した「揚武」(Yang Wu)です。1870年台の建造で、1400トン級の当時最大の木造スループでした。旋回式の6.5インチ砲1門、5インチ砲6門を搭載していました。清仏戦争(1884年)では福建艦隊の旗艦を務めましたが、馬江海戦で避雷し失われました。
広東艦隊(水師)
1867年設立:広州に拠点を置き、広東沿岸の海賊と外国線を警備することが主任務でした。200トン前後の小型の砲艦が戦力の中核で30隻余りが所属していました。清朝が滅びた後も後継の中華民国で沿岸警備活動を継続しました。日清戦争時には後述の防御巡洋艦「広甲」、「広乙級」防護巡洋艦等の1000トン級の小型の防護巡洋艦を3隻保有していましたが、全て北洋艦隊に増援として拠出しています。
南洋艦隊(水師)
1867年設立:上海を拠点とし、江蘇沿岸と長江の警備を主任務としていました。ドイツから購入した2000トン級の「南琛級」防護巡洋艦を中心に1000トン級の砲艦10隻余りを有していました。

(写真は「南琛級」防護巡洋艦の概観:Wikipediaより拝借しています:2000トン級の船体を持つ防護巡洋艦で21センチ砲2門、12センチ砲8門を装備し15ノットの速力を発揮できる設計でした)
先述の清仏戦争では福建艦隊の応援で出撃しますが、到着前に福建艦隊が壊滅し、南洋艦隊もフランス海軍に迎撃されて砲艦2隻を失いました。
日本との関係悪化に伴い、海軍の軍備整備が北洋艦隊に集中されたため、以降は大きな戦力強化は行われず、日清戦争では台湾方面(当時日本の勢力下にありました)の警備に当たっていました。
日清戦争で北洋艦隊が壊滅すると、清国海軍のほぼ唯一のまとまった残存戦力となりました。
北洋艦隊(水師)
1871年設立:天津・威海衛に本拠を置き、1870年台後半から、明治維新以降、勃興が著しく、事あるごとに朝鮮の支配権をめぐって対立を深めていくことになる日本を仮想敵国として拡張されました。拡張は主として外国からの輸入艦艇により急速に行われましたが、一方で兵員の訓練不足、整備施設の欠如等、艦隊の維持整備には重大な課題を抱えることになります。例えば後述する北洋艦隊の主力艦である「定遠級」装甲艦が整備可能な施設は、東アジアには当時は香港(英国領)と長崎(日本)」にしかありませんでした。
日清戦争時には上述のように、当時の清国海軍の有力艦艇は全て北洋艦隊に集中され、数量共に清国海軍の主力を構成する存在になっていました。
では日清戦争時の北洋艦隊の艦艇をご紹介しておきましょう。
装甲艦
北洋艦隊はアジア最大の装甲艦「定遠級」2隻を保有していました。
「定遠級: Ting Yuen class」装甲艦(戦艦)(1885年から就役:同型艦2隻)

(「定遠級」装甲艦:75mm in 1:1250 by War Time Journal:主砲塔のフードを外した状態です)
日本海軍の装甲艦「扶桑」、「金剛級」装甲帯コルベットなど、近代艦艇の調達に刺激されて清国海軍がドイツから購入した装甲艦です。いわゆる中央砲塔艦で7100トン級の当時のアジアでは他を圧倒する巨艦で、30センチ連装砲塔2基と15センチ単装速射砲2基という圧倒的な火力を誇っていました。6200馬力の石炭専焼機関を搭載し、14.5ノットの最大速度を発揮する設計でした。

(「定遠級」装甲艦の主要兵装:連装露砲塔2基(上段)と艦首と艦尾に搭載された15センチ副砲(中段・下段):搭載位置から広い射界を確保できています)
主砲はドイツクルップ社製の25口径30.5センチ後装ライフル砲で、最大射程7800メートル、3分間に1発の射撃速度を有していました。同砲は連装砲塔2基に装備されていましたが、装甲天蓋を持たない露砲塔で、波浪と断片防御程度のフードは、実戦参加時には撤去されていました。これは主砲発砲時に発生する発砲煙やガス、熱気等から兵員を守り、また当時の砲側照準をできるだけ有効にするためでした。
副砲としてはクルップ社製35口径15センチ砲を採用し、最大射程11000メートル、毎分1発の発射速度を有する優秀砲でした。これを露砲塔形式で艦首・艦尾のほぼ両端に1門づつ搭載し広い射界を得ることができていました。
さらに対艦攻撃用の45センチ魚雷発射管を装備した艦載水雷艇2隻を搭載していました。
(参考まで「定遠級」装甲艦の主砲塔のフードを外した状態(上段:戦闘中はこの状態だったと記録されています)とフードを装着した状態(中断)。そして艦載水雷艇(下段))
黄海海戦では日本艦隊の速射砲の命中弾多数を受け、上部構造物は破壊されたものの、厚い防御装甲に守られた砲兵装・機関に損傷はなく、自力で戦場を離脱しました。しかし再び航洋艦としての能力を取り戻す修理施設が清国にはなく、威海衛で浮き砲台として活用されました。日本軍の威海衛攻略戦では水雷艇の攻撃で「定遠」が航行不能となり自沈、「鎮遠」は提督・艦長の自決後に日本海軍に鹵獲されました。
日清戦争後、残存していた「鎮遠」は日本海軍に編入され二等戦艦「鎮遠」となるわけですが、副砲が長砲身の15センチ速射砲に換装され、さらに各舷に1基づつ増設されました。日露戦争では第三艦隊に編入され、警備・哨戒活動等に従事しました。
「 経遠級: King Yuen class」装甲巡洋艦(1887年就役:同型艦2隻)

(「経遠級」装甲巡洋艦の概観:66mm in 1:1250 by War Time Journal)
同級はドイツに発注された3000トン級の装甲巡洋艦で、主砲としてクルップ社製の21センチライフル砲を連装砲架で艦首部に1基搭載していました。4400馬力の機関から15.5ノットの速力を発揮することができました。副砲としては、「定遠級」装甲艦の紹介でも記述したクルップ社製35口径15センチ砲を単装砲架で左右両舷に1基づつ搭載していました。
(「経遠級」装甲巡洋艦の主要兵装の拡大:21センチ連装砲(上段)と15センチ単装砲(下段))
清国艦艇としては唯一の近代的な舷側装甲を持つ装甲巡洋艦でした。
「経遠」は黄海海戦で沈没し、「来遠」は威海衛で日本海軍の水雷艇の夜襲で失われました。

(「経遠級」装甲巡洋艦:「経遠」と「来遠」)
装甲巡洋艦「平遠: Ping Yuen」(1890年就役:同型艦なし)

(装甲巡洋艦「平遠」の概観:49mm in 1:1250 by War Time Journal:形態から見ても航洋性に優れた艦型とは言い難く、装甲砲艦という名称の方が実態を表しているように思います)
同艦は国産の巡洋艦で装甲はフランスから、備砲はドイツから調達されました。2100トン級の船体に2400馬力の基幹を搭載し、10.5ノットの速力を発揮できる設計でした。主砲にはクルップ社製26センチ砲を採用し、これを艦首部に単装露砲塔形式で搭載、副砲にはクルップ社製35口径15センチ砲2門を搭載していました。その艦型から見ても航洋性への配慮は低いことが推測され、併せて低速であることから、装甲砲艦といった方が良いかもしれません。黄海海戦でも低速から北洋艦隊主力とは帯同せず別働隊として行動していました。
(下の写真は装甲巡洋艦「平遠」の主要兵装の拡大:26センチ主砲(上段)と15センチ単装砲(下段))

黄海海戦では、「松島」と交戦して損害を与えましたが、自艦も損傷し威海衛に撤退しました。威海衛攻防戦で日本海軍に鹵獲され、以降、日本海軍に編入されました。一頭砲艦として日露戦争に参加し、旅順要塞攻略戦などに参加しています。1904年、哨戒から帰投中に触雷して失われました。
「致遠級: Chih Yuen class」防護巡洋艦(1887年から就役:同型艦2隻)

(「致遠級」防護巡洋艦の概観:65mm in 1:1250 by Brown Water Miniatures)
同級は清国が英国アームストロング社に発注した防護巡洋艦です。2隻が建造され北洋艦隊に編入されました。2300トン級の船体を持ち、クルップ製35口径21センチ砲を連装砲と単装砲で搭載、さらにクルップ社製35口径15センチ単装砲2基を装備していました。6850馬力の機関を搭載し、当時としては高速の18ノットの速力を発揮することができました。

(「致遠級」防護巡洋艦の主要兵装の拡大:21センチ連装砲(上段)21センチ単装砲(中段)と15センチ単装砲(下段))
「致遠」は黄海海戦で失われ、「靖遠」は威海衛攻防戦で沈没しています。
(「致遠級」防護巡洋艦:「致遠」と「来遠」)
コラム:防護巡洋艦について
防護巡洋艦とは舷側装甲を持たず、船体内に貼られた防護甲板と舷側の石炭庫で、被弾から自艦の主要部を守るという思想で建造された巡洋艦で、重い装甲を装備しないため、巡洋艦に必要な速力と航続力を確保できる理想的な設計として、一時期の航洋型巡洋艦の基本型として列強が競って整備しました。英国のエルジック造船所で第一艦が建造されたため、以降は造船所の所在を問わず「エルジック・クルーザー」と称されることもあります。
防護巡洋艦「済遠: Tsi Yuan」(1885年就役:同型艦なし)

(防護巡洋艦「済遠」の概観:58mm in 1:1250 by Brown Water Miniatures)
「済遠」は清国がドイツに発注した防護巡洋艦です。清国海軍が初めて建造した近代的な防護巡洋艦と言ってもいいと考えています。2400トン級の船体にクルップ社製38口径21センチ連装砲塔1基と35口径15センチ単装砲1基を搭載していました。2800馬力の機関を搭載し15ノットの速力を発揮することができました。
(防護巡洋艦「済遠」の主要兵装の拡大:21センチ連装砲塔(上段)と艦尾部の15センチ単装砲(下段)を主要兵装としていました)
当初同型艦3隻を建造する計画でしたが、清仏戦争で福建艦隊がフランス艦隊に敗れた戦訓から、2番艦以降の設計が見直され、前出の「経遠級」装甲巡洋艦に設計を改められたため、同型艦はありません。
(下の写真は、防護巡洋艦「済遠」(手前)と元々はその2番艦以降で計画されており、その改設計とも言うべき「経遠級」装甲巡洋艦に比較)

日清戦争では豊島沖海戦、黄海海戦に参戦していますが、いずれの戦いでも艦長は戦況不利でいち早く戦場を離脱しています。特に黄海海戦では、同艦の離脱が離脱命令の発令と誤解を招き、敗戦の要因となったとして、艦長は海戦後「敵前逃亡」を理由に処刑されました。
黄海海戦後、威海衛攻防戦で日本海軍に捕獲され、戦後、日本海軍に編入。3等海防艦として事実上の日露戦争の最初の戦い(「エカテリノスラフ号」拿捕)に参加し、旅順要塞攻防戦に参戦中、触雷して沈没しました。
「超勇級: Chao Yung class」防護巡洋艦(1881年から就役:同型艦2隻)

(「超勇級」防護巡洋艦の概観:51mm in 1:1250 by Brown Water Miniatures)
同級は英国アームストロング社で建造された防護巡洋艦で、元来はチリ海軍向けに建造された3隻のうち2隻を清国海軍が購入したものです。残りの1隻は日本海軍が購入し巡洋艦「筑紫」となりました。
防護巡洋艦としては最も初期の型式で、レンデル式砲艦と防護巡洋艦の過渡期にある巡洋艦と言っていいと思われます。1300トン級の船体に2200馬力の機関を搭載し、16.5ノットの速力を発揮する設計でした。
主砲の搭載方式に特徴があり、艦の上部構造物の両端に水圧で旋回するバーベットを1基づつ搭載しここにアームストロング式25口径25.4センチ砲が据えられています。そのバーベット上に天蓋を設置し、ある程度の防護を与えた設計でした。1300トン級の船体に巨砲を2門搭載したため乾舷は低く、巡洋艦というにはやや航洋性に疑問があったのではないでしょうか?
(「超勇級」防護巡洋艦」の主要兵装の拡大:同級は防護巡洋艦として初期の設計に属する艦級で、艦首と艦尾に天蓋で覆われた25.4センチ単装砲を装備していました)
1880年代前半には北洋艦隊の最新鋭艦として活躍しましたが、1880年代後半、「定遠級」装甲艦等が加わると二線級戦力として扱われています。
黄海海戦で「趙勇」「揚威」の2隻とも失われました。
(「超勇級」防護巡洋艦:「超勇」と「揚威」)
防護巡洋艦「広甲: Kuang Chia」(1887年就役:同型艦なし)

(防護巡洋艦「広甲」の概観:46mm in 1:1250 by Brown Water Miniatures)
防護巡洋艦「広甲」(Kwan Chia)は国産の巡洋艦で、1300トン級の船体にクルップ社製15センチ単装砲3基とクルップ社製12センチ単装砲4基を搭載していました。1600馬力の機関を搭載し14ノットの速力を発揮することができました。
(防護巡洋艦「広甲」の主要兵装の拡大:艦首部の15センチ単装砲2基(上段)と艦尾部の15センチ単装砲1基(下段)、さらに12センチ単装砲塔を装備していました(下段))
当初、広東艦隊(水師)に所属していましたが、後述の「広乙」「広丙」と共に日清戦争時には北洋艦隊に編入されていました。
黄海海戦では前述の「済遠」と主に戦場を早期に離脱しましたが大連湾で座礁し放棄されました。
「広乙級: Kang Yi class」 防護巡洋艦(1889年から就役:同型艦3隻)

(「広乙級」防護巡洋艦の概観:モデル未保有:写真はebayに出品中のものから拝借しています)
同級は広東艦隊(水師)向けに建造された清国国産の小型巡洋艦で、1000トン級の船体に2400馬力の機関を搭載し17ノットの最大速力を発揮する設計でした。艦型に対して魚雷発射管4門という強力な雷装を保有していました。一方砲兵装はやや控えめで、「広乙」はクルップ社製35口型15センチ単装砲2門と37口径12センチ単装砲1門、「広丙」は37口径12センチ単装砲3門でした。これらの兵装バランスから、同級は水雷砲艦と分類されることもあるようです。
日清戦争時には広東艦隊から北洋艦隊に所属が変更され、「広乙」は事実上の両国開戦となった豊島沖海戦で日本艦隊と交戦し擱座、乗員は艦を放棄して爆破しました。
「広丙」は黄海海戦に別働隊として参加しますが、敗戦後威海衛で日本艦隊に鹵獲され、以降日本海軍に編入されました。しかし編入後1年で座礁し沈没してしまいました。
清国北洋艦隊の巡洋艦の発展
(下の写真は北洋艦隊の巡洋艦を年代順に並べたもの。手前(上段では右)から、「超勇級」防護巡洋艦、防護巡洋艦「済遠」、「経遠級」装甲巡洋艦、「致遠級」防護巡洋艦、防護巡洋艦「広甲」の順)
)
「鎮東級」砲艦(1880-81年就役:同型艦6隻)

(「鎮東級」砲艦の概観:モデル未保有: 写真はHai社製のもので、いつものsammelhafen.deから拝借しています。艦首部の構造物内に主砲を搭載している設計でしたが、モデルでは砲門ははモールドされていないように見えます。しかし砲尾は見えています(下段左)。上部構造内には下段右の写真のように砲門が設けられているはずです。写真お出典元はhttps://www.tynebuiltships.co.uk/K-Ships/kappa1881.html )
北洋艦隊には「鎮東級」砲艦6隻(「鎮東」「鎮西」「鎮北」「鎮南」「鎮中」「鎮辺」)が所属していました(「鎮北級」と言われることもあるようです)。同級は英国アームストロング社に発注された420トン級の小型の砲艦で、420馬力の機関から10ノットの速力を発揮できました。
最も特筆すべきはその武装で、この小さな船体に28センチ砲という巨砲を艦首方向に固定して搭載している点でした。設計者ジョージ・レンデルの名をとってレンデル砲艦と呼称されていました。その主要な任務は港湾部への敵艦の侵入を防御することで、港湾周辺での活動に適するように浅喫水を持つ低乾舷の設計で、魚雷・速射砲などの登場以前、1860年代にはその有効性が期待され、建造が安価なこともあり多数が建造されました。平べったい船体からアイロンとあだ名されることもあったようです。
日清戦争当時には速射砲、魚雷などの実用化が始まっており、ほとんど活動の場面はありませんでした。6隻全てが戦後日本海軍に編入されましたが、日本海軍では一旦二等砲艦として分類しましたものの、早々に武装を撤去して雑役船となりました。
上掲でご紹介した以外に、北洋艦隊には6隻の水雷艇、複数の補助艦などがが所属していました。
ということで、今回はこの辺で。
次回は黄海海戦に参加した日本艦隊の艦艇のご紹介と、できれば黄海海戦の概要などを予定しています。
もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。
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