ちょっと大層なサブタイトルを付けてしまいましたが、正直に言うと、切り口が明確に見つからないままです。が、取り敢えず模型のサイトだと言う原点に立ち返って始めてみよう、今回はそう言うお話です。今回は日米両軍の参加部隊を空母紹介を中心に。次回以降、海戦の特徴等をご紹介。一応二回で行けるかな、と思っています。
ですので、サブタイトルに準じた本論的なものは、また蒸し返すかも。
ミッドウェー作戦(MI作戦)の構想
例によって詳細な作戦経緯等は別の優れた記述にお任せします。
この作戦は、乱暴に整理してしまうと、長期の総力戦では勝機を見いだせない日本海軍が、一時的に現出できた数的(多分質的にも)優位の状況に乗じて企図した艦隊決戦だった、と言っていいと思います。
真珠湾攻撃では米太平洋艦隊の主力艦部隊(戦艦部隊)を行動不能に陥れることができたわけですが、そこで期待された米側の戦意喪失とそれに伴う早期講和(まで期待したかどうか?)の兆候は見出すことができず、逆に当面米側に残された唯一の戦闘兵力と言っていい「空母機動部隊(日本のように集中運用はされませんでした。多方面への対応があり、できなかった、と言う方が正しいのかな)」の活動は活発で、真珠湾攻撃の直後にマーシャル諸島等日本の前哨基地への激しい空襲、さらには日本側が全く予期しなかった長い航続距離を持った双発陸用爆撃機を空母から発進させ日本本土を空襲すると言う離れ業(真珠湾攻撃以上の奇襲かもしれません)をやってのけるほど、高い戦意が示されたわけです。いわゆる「ドゥーリットル空襲」ですね。(本稿でもこの映画のような作戦は取り上げています)
では、その残された腕を奪ってしまえばいい、と言うのがこのミッドウェー作戦の狙いだった、と考えていいと思います。
この作戦の時点で、太平洋に空母機動部隊を中心とした日本海軍の数的・質的優位が一時的に形成されていた事は、おそらく事実でしょうが、もう一つ、主に国力の要因から(南方資源地域は確かに緒戦で確保されましたが、それを国力の充実に反映させるところまでは行っていませんでした。大戦の終了まで、それは実現することができなかった、と考えています。戦争しながら、と言うのは無理だったんでしょうね)日本海軍は開戦以来の半年間をほぼ予備兵力の準備なしでいわば技量抜群最高潮の「一枚看板」で戦ってきました。そう言う意味では質的にもその時点でピークにあったのですが、海軍首脳にはこの状況で持たせられるのは「開戦以降せいぜい半年か一年」と言う危機感があったのではないでしょうか?
実は例えば空母艦載機搭乗員の配置を見ても、新造空母の急速な戦力化のために「一枚看板」であったはずの「機動部隊搭乗員」の新造空母搭載機部隊への派出が始まっており、あわせて損耗による戦力の喪失も考慮すると、「一枚看板」を継続できるのはあとわずか、だと。既にミッドウェー海戦時の南雲機動部隊の搭乗員・指揮官の交代が始まっており、内々には「既に真珠湾の機動部隊ではない」とも言われ始めていたようです。
そうした要因から、この作戦は必然的に行われた、と考えています。
この構想に従い、日本海軍はほぼ全ての戦闘艦艇をこの作戦に投入します。
潜水艦部隊(第六艦隊)が米艦隊の行動への索敵線を展開します。
空母機動部隊(第一航空艦隊:南雲機動部隊)はミッドウェー島への空爆と、それに誘引され反撃に出現するであろう米空母部隊の撃滅に任じます。
ミッドウェー島の攻略部隊(陸軍一個連隊基幹)を第二艦隊が輸送護衛、作戦支援にあたります。
ミッドウェー島攻略に伴い、日本の前哨戦は大きく前進しますのでその側方線の確保に向けて、北方アリューシャン列島方面でも前線を押し上げる作戦が展開され(陸軍一個連隊基幹)、これを北方部隊(第五艦隊)が支援します。
これらを総覧するために(?)、日本海軍の主力艦部隊(第一艦隊)が後方支援として出撃します。
ほぼ、当時の日本海軍の全艦艇がこの作戦に投入された、と言っていいと思います。
作戦への空母の配置(日本海軍)
前述の戦闘序列に準じて、作戦に参加した空母を一覧しておきます。
作戦立案時、日本海軍は10隻の艦隊空母を保有していました。しかしMO作戦に伴い発生した珊瑚海海戦で、第五航空戦隊の所属艦のうち「祥鳳」が失われ、さらに「翔鶴」が損傷、「瑞鶴」も母艦自体は無事だったものの搭載機部隊が消耗し、結局MI作戦には参加できない状況で、稼働艦隊空母は7隻となってしまいました。これに5月に就役したばかりの商船改造特設空母「隼鷹」を加え、8隻が作戦に参加しています。
新生「第四航空戦隊」:北方部隊に所属し、第二機動部隊を構成
「第四航空戦隊」は開戦以来、空母「龍驤」と潜水母艦改造の補助空母「祥鳳」で編成されていましたが(戦隊として行動したことは、なかったかも)、「祥鳳」が珊瑚海海戦で失われ、代わって新造の中型特設空母「隼鷹」を加え再編成されました。同戦隊は、アリューシャン方面の攻略を担当する北方部隊(第五艦隊)に組み入れられ「第二機動部隊」と呼称され、北方における米軍の海軍拠点であるダッチハーバー空襲等の作戦の実施基幹部隊となりました。
まずは新顔の「隼鷹」から。
5月初旬に就役した商船改造空母「隼鷹」
「隼鷹級」空母は、海軍が戦時に空母に改造をすることを前提に民間の海運会社に支給された補助金で建造されたサンフランシスコ航路向けの大型高速客船「橿原丸」と「出雲丸」をベースとした航空母艦です。対米関係の悪化で結局、建造途中から航空母艦として建造されることとなり、客船としては完成していません。
完成していれば、それまでの商船を遥かに凌ぐ日本最大の客船となる予定でした。
「橿原丸」は「隼鷹」、「出雲丸」は「飛鷹」と命名され、それぞれ1942年5月、1942年7月(ミッドウェー海戦後)に就役しています。
原設計の客船が24ノットの速力を有する設計だったこともあり、特設艦船としては異例の26ノットの高速を発揮することができました。また27000トン級の大型の船体を持ち、「飛龍級」空母に匹敵する船体規模と搭載機数を有していました。
また当初から空母への転用を念頭に置き、商船には異例の防御装甲が配慮された設計となっており、規模と合わせてほぼ「飛龍級」空母に匹敵する戦力となることが期待されていました。
煙突と一体化したアイランド形式の艦橋を日本海軍の空母として初めて採用した艦でもありました。同形式の艦橋は建造途中の「大鳳」、この後空母への転用が決定される「信濃」でも採用されています。
(特設航空母艦「隼鷹」の概観:175mm in 1:1250 by Neptun: 下段右のカットは、「隼鷹」で導入された煙突と一体化されたアイランド形式の艦橋を持っていました。同級での知見は、後に建造される「大鳳」「信濃」に受け継がれてゆきます。下の写真は、「隼鷹」(奥)と「飛龍」の比較:「隼鷹」は速度を除けば、ほぼ「飛龍」に匹敵する性能を持っていました。商船を母体とするため、全般にゆったりと余裕のある設計だったとか。日本海軍は新鋭空母就役都度、既存空母の航空隊群から抽出した搭載機部隊で新たに新空母搭載機部隊を編成していました。搭載機数の定数割れには目をつぶり稼働空母数を増やすことを優先指定していたわけですね)
ミッドウェー海戦時(1942年6月)には、「隼鷹」のみ就役し、珊瑚海海戦で失われた「祥鳳」に代わり第四航空戦隊に組み入れられていました。
(ワシントン条約の空母保有枠を意識して設計された小型航空母艦「龍驤」の概観:149mm in 1:1250 by Neptun:s設計途中でロンドン条約が締結され、小型空母も条約の保有制限対象となったため、急遽、格納甲板を一段追加、いかにもトップ・ヘビーな概観となりました)
小さな船体に要求事項を目一杯盛り込んだ過重な装備から、就役直後から復原性に問題があるとされた「龍驤」はバルジの大型化、キール部分へのバラストの追加等、対策が取られましたが、乾舷の減少等、別の課題が発生していました。「第四艦隊事件」では、事故の当事艦の一隻となり、艦橋に大きな損害が発生しています。その後、船首部分を一層追加して乾舷を高める、艦首の前面形状を凌波性を意識した形状に改修するなど、対応が取られました。(モデルはおそらく最終形態です)
第一航空艦隊:南雲機動部隊:ミッドウェー攻略戦・支援部隊主力
第一航空戦隊・第二航空戦隊からなる、主力機動部隊で、ミッドウェー島攻略の際の航空支援の主力と、もちろん米機動部隊が出現した際には、海空戦の主力を務める予定でした。
本来は、真珠湾作戦以来の変わらぬ編成で、この二つの航空戦隊に加え新鋭空母の「瑞鶴」と「翔鶴」で構成される第五航空戦隊も加えた6隻の艦隊空母が参加する予定でしたが。先の珊瑚海海戦で「翔鶴」が損傷し修復中、かつ搭載機部隊に大きな損害が出たため、同作戦には第五航空戦隊は参加できませんでした。
第一航空戦隊
(下の写真:第一航空戦隊:「赤城」(上段)と「加賀」)
空母「赤城」
ワシントン条約で建造途中での廃棄が決定されていた巡洋戦艦「赤城」を航空母艦に改造することが認められていました。当初は三層の飛行甲板を有する母艦として完成しましたが、のちに一層全通飛行甲板の本格的空母として改装されました。ja.wikipedia.org
(一段全通甲板形態に大改装された「赤城」の概観:下の写真は竣工時の「赤城」(上段)と改装後の「赤城」の比較。「加賀」同様、中甲板の20センチ連装砲塔が撤去され、小さな艦橋が飛行甲板左舷「加賀」に比べるとやや艦の中央よりに設置されました)
空母「加賀」
ワシントン条約で建造途中での廃棄が決定されていた巡洋戦艦「天城」を航空母艦に改造することが認められていました。改造工事の途中に発生した関東大震災で被災した「天城」に変わり、急遽やはり廃棄予定だった戦艦「加賀」が航空母艦に改造されることになり、空母として完成しました。当初は「赤城」と同じ三層の飛行甲板を有する母艦として完成しましたが、のちに一層全通飛行甲板の本格的空母として改装されました。
(一段全通甲板形態に大改装された「加賀」の概観:下の写真は三段飛行甲板形態の竣工時(上段)と、全通飛行甲板形態に改装後の比較。中飛行甲板に設置されていた20センチ連装砲塔が撤去され、飛行甲板右舷に小さな艦橋が設置されました)
第二航空戦隊
(下の写真:第二航空戦隊の空母「飛龍」(奥)と「蒼龍」)
(「蒼龍」(手前)と「飛龍」の概観比較:「飛龍」は「蒼龍」の拡大改良型とされていますが、基本は同型で言いきさには大差ありません。艦橋の位置の差異が目立ちますね。「蒼龍」は右舷側、「飛龍」は左舷側ですが、さらにその飛行甲板上の位置も大きな差異が見られます。「蒼龍」の場合には排気路との干渉を避けるために、前よりになっています)
空母「飛龍」
(航空母艦「飛龍」の概観:182mm in 1:1250 by Neptun)
「飛龍」は、後述の「蒼龍」と共に中型空母として建造されました。しかし、「蒼龍」の起工直後に、日本はワシントン・ロンドン体制からの脱退を決定しており、この為本来二番艦であった「飛龍」は「蒼龍」を原型としながらもやや拡大した設計となりました。
結果20000トン(公試排水量)、エレベータ3基、速力34ノットと性能的にはほぼ「蒼龍」と同等ながら、船体の強度、凌波性の向上等に配慮された船体を持つ空母となりました。(公称は「蒼龍」と同様10000トン)
大きな特徴として、「赤城」と同様に艦橋を左舷中央に設置しています。この狙いとしては、艦首よりに設置された艦橋よりも大型艦上機の発進時(つまり飛行甲板後部から滑走を始めるわけです)に、艦首方向が大きく解放され障害になりにくい、ということが挙げられました。その他にも右舷側に突き出した煙突とのバランス、煙突の排気路を避けた搭乗員通路の設定ができ運用がスムーズになる、格納庫の形状が効率的になる、などの利点がありましたが、一方で左指向性のある(プロペラの回転方向から、左へ流れる傾向がある)レシプロ機では着艦時に障害となるなど、搭乗員側からの評判はあまり良くなく、左舷配置は「「赤城」「飛龍」の二艦に留められました。
搭載機は竣工時には常用57機補用16機計73機で、「蒼龍」と同じでした。(真珠湾作戦時には常用57機搭載)
空母「蒼龍」
(航空母艦「蒼龍」の概観:180mm in 1:1250 by Neptun)
軍縮条約の制約を「遵守」して建造されたため「蒼龍」は公称10000トン級の小型空母、という印象が特に列強海軍にはあったようです。(ミッドウェーで「蒼龍」に命中弾を与えたパイロットは艦の大きさから「加賀」と誤認していたようです。自分が命中弾を与えたのが「蒼龍」だったと知った際に、「ああ、小型空母を見誤ったのか」と悔しがったとか)
実質は18000トン(公試排水量)の船体を持ち、エレベーター3基を装備、34ノットの高速を発揮する空母として誕生しました。二段式の格納庫を全通飛行甲板下に持ち、搭載機は竣工時には常用57機補用16機計73機とされています。
太平洋戦争開戦時(つまり真珠湾作戦)では、常用57機を運用する空母でした。
日本海軍としては理想的な中型空母と言え、建造費用、サイズ等の観点からも戦時の量産空母の雛形とされ「蒼龍」の基本設計から「雲龍級」空母が量産されています。
第二艦隊:ミッドウェー島攻略部隊・本隊上空哨戒
陸軍のミッドウェー島攻略部隊(一木支隊:歩兵一個連隊基幹)の輸送と上陸作戦時の地上戦闘の支援を行う目的で、第二艦隊が輸送船団を護衛していました。
第二艦隊には上空警戒支援艦として空母「瑞鳳」が配置され、上空の哨戒。護衛を努めました
艦隊補助空母「瑞鳳」
「剣崎級」潜水母艦を改造した補助空母で2隻が空母に改造されましたが、同型艦「祥鳳」は先の珊瑚海海戦で失われ、「瑞鳳」のみ第二艦隊に配属されていました。
(航空母艦「瑞鳳」の概観:164mm in 1:1250 by Trident)
(上の写真は、潜水母艦形態と航空母艦形態の比較。エレベーターなどが最初から組み込まれていたことがよく分かります。後部のエレベータ:上の写真では船体後部のグレー塗装部分:は潜水母艦時代には、エレベータは組み込まれたものの、上に蓋がされていたようです。:「剣崎級」潜水母艦は、筆者の知る限り、1:1250スケールでは市販のモデルがありません。上の写真は筆者がセミ・スクラッチしたものです。「瑞鳳」の母体となった「高崎」は前述のように潜水母艦としては完成されないまま航空母艦になりましたので、潜水母艦としての「高崎」は結局存在していません。モデルは「剣崎」の図面(こちらは潜水母艦として完成しています)に従ったもの。後に空母「祥鳳」に改造されています。という次第で、形態はあくまでご参考という事でお願いします)
第一艦隊:連合艦隊本隊:上空哨戒
ミッドウェー攻略機動部隊、攻略部隊本隊(第二艦隊)の後方には、作戦総指揮にあたる連合課隊司令部をのせた第一艦隊が後続していました。第一艦隊は戦艦部隊を基幹戦力とする艦隊で、同艦隊の上空警戒艦として、空母「鳳翔」が帯同していました。
空母「鳳翔」
多分に実験的な性格を帯びた小型空母でした。黎明期の空母と言え、太平洋戦争開戦時には既に旧式で、新型の艦上機の運用には必ずしも適性を有していませんでした。ミッドウェー海戦時にも零戦ではなく旧式の96式艦戦を、対潜哨戒機として97式艦攻ではなく複葉の96式艦攻を搭載していたとも言われています。
(太平洋戦争初期の「鳳翔」概観 by Trident:アイランド形式の艦橋は撤去され、飛行甲板下の最前部に移動しました。煙突は倒された状態(下段右))
巧緻(?)な作戦計画と部隊配置
こうして見ると、同作戦に日本海軍は当時の可動航空母艦の全てを投入しています。(当時就役していて参加していないのは特設空母「大鷹」のみですが、同艦は商船改装の低速空母で、当時は南方作戦で拡大した南方戦線への航空機輸送の任務にあたっていました)。もっとも、冒頭にご紹介したようにミッドウェー作戦には空母だけでなくほとんどの可動戦力を投入したのですが、どうも日本海軍の作戦には開戦以来、巧緻な戦力配置が常態化しているような気がています。
開戦時には、限られた戦力で、艦隊決戦の前哨戦とも言える米主力艦隊を対象とした「航空水雷漸減作戦」である真珠湾攻撃と、南方への進出支援の両方を速やかに行わねばならず、巧緻な戦力配置が必要かつ重要でした。
それがそのまま、第二段作戦の緒戦であるMO作戦(ポートモレスビー作戦)前後にも規模を縮小して継続されているような気がしています。例えばポートモレスビー攻略とほぼ同時期にツラギ進出、ナウル占領などに兵力を派出しています。立案には緻密なプランニングを行う高い能力が必要なのですが、一方で最小兵力で最大効果を狙う、と言ういかにも日本的な作戦嗜好が次第に顕著さを増してくるような気もしているのです。ボードゲーム的な面白さ(と言うと少し事柄が単純化されすぎるような気もしますが、敢えて)に、現実が引っ張られている、そんな気がしています。
日本人は「柔道が好き=柔よく剛を制す」とか、「義経」の戦術が好き、「信長」の桶狭間が好き、のような「奇手好み」(ちょっと言い過ぎかな)が色濃く現れるような、「そこが作戦参謀の腕の見せ所でしょう」となかなか「兵力の集中」などの当たり前の正論を言いにくい空気が生まれくるような、そんな気が、本稿を書き始めて改めて強く感じ始めています。
一例としては、何故、MI作戦に投入される予定だった第五航空戦隊をMO作戦に派出したのか。
作戦の重要性から言うと、戦争の帰趨を決定することを意図したMI作戦(残存艦隊戦力である米空母機動部隊の排除と早期講和への道の開削)と、新たに手に入れた南方拠点であるラバウル外郭の強化(そもそもラバウル獲得も中部太平洋の拠点であるトラックの外殻強化であったはず)、あわせて米豪遮断の一手であるMO作戦のどちらが重要か、これは明らかだと思います。MI作戦が成功し戦争を終結に導く方向が定まれば、MO作戦の目的は不要になるわけですから。しかも第五航空戦隊はMI作戦でも基幹部隊の重要な一翼を担うはずだったわけで、そもそもMI作戦が勝機の無い総力戦を回避するための日本海軍に訪れた一時的な数的・質的優位に乗じた作戦であることが明らかならば、MO作戦の優先度を下げてでもMI作戦の前提条件を守ことに集中すると言う結論を出すべきだったのではないかと思うのです。
さらにはMI作戦等並行して実施されたAL作戦への第二機動部隊(空母「龍驤」「隼鷹」)の派出もあげていいかもしれません。特にMO作戦実施後に第五航空戦隊の作戦参加不可がはっきりした後にも、なぜこの派出が行われたのか。むしろAL作戦の並行実施自体を見送るべきではなかったか。一時的な数的・質的優位へのこだわりがもっとあるべきだったと考えるのです。
あわせてさらに疑問なのは、なぜ第一艦隊(当時の連合艦隊主隊、ですよね)が出撃しながらも後方に拘置されているのか。作戦総指揮を執る目的なら、当然、もっと機動部隊に近い方がいいでしょうし、例えば機動部隊に帯同するには機動力不足、なら、そもそも連合艦隊司令部が第一艦隊に座乗しているべきではなかった、と言うことになるのではないか、とも思われます。
とまあ、どうしても結果を知るからこその、後知恵作戦批判にはなってしまいます。勝機は本当になかったんだろうか。どうしてもそう考えてしまうのは、日本人だから、なのですかね。
米艦隊の対応と空母配置
この日本海軍が始動したMI作戦に対し、米海軍が暗号解読等を通じて実施時期・目的地等をかなり正確に把握していたことは知られています。
しかし一方でほぼ全海軍を動員して出撃してくる日本艦隊に対し、米海軍としては使える戦力が空母部隊しかなく、しかもこの時期に作戦参加が可能だった空母はハルゼーが率いて東京空襲作戦(ドゥーリットル空襲)を実施した直後の「エンタープライズ」と「ホーネット」しかありませんでした。
太平洋艦隊の空母部隊の主力だった「レキシントン 級」空母のうち「レキシントン」は珊瑚海海戦で撃沈され、「サラトガ」は日本海軍の潜水艦の雷撃で損傷し本土で修理を完了した直後で、搭載機部隊のみハワイに駐留していました。
残る一隻の空母「ヨークタウン」は、沈没した「レキシントン」 とともに参加した珊瑚海海戦で日本空母艦載機の襲撃で損傷し、真珠湾で修理を始めたばかりでした。
「ヨークタウン」の修理には当初90日以上必要と言われましたが、緊急の状況下で応急修理なら2週間、さらにこれを3日で間に合わせられるところまでで良い、と言う妥協のもとで再出撃可能となりました。珊瑚海海戦で損耗した搭載機部隊は前述のハワイで訓練中の「サラトガ」の艦載機部隊に交代し、こうして都合3隻の「ヨークタウン級」空母を全て投入することとなりました
(航空母艦「ヨークタウン」の概観:198mm in 1:1250 by Neptun:同艦は「ヨークタウン級」のネームシップで、飛行甲板に表示された「5」は「ヨークタウン」の番号でした)
ワシントン・ロンドン体制下で建造された米海軍初の(と言い切っていいと思います)本格的艦隊空母です。ワシントン・ロンドン両条約の空母保有制限枠から算出された最大枠25000トンの船体を持ち、太平洋戦争開戦時には米艦隊の主力空母群をを構成していました。
ミッドウェー海戦に参加した三隻の米空母「ヨークタウン」「エンタープライズ」そして「ホーネット」は全てこの艦級に属した同型艦でした。
この三隻の空母は2群の空母機動部隊に分けられ、「ヨークタウン」は第17任務部隊としてフレッチャー少将が率い、「エンタープライズ」と「ホーネット」は第16任務部隊としてスプルーアンス少将が率いて出撃することになりました。第16任務部隊の指揮官は開戦以来ハルゼー中将で、彼の指揮下でウェーク島空襲を実施、その後、空母ホーネットを基幹戦力として発足した第18任務部隊を指揮下に吸収し「東京空襲」を実施。珊瑚海海戦では、第17任務部隊を吸収して指揮に当たる予定でしたが、戦場へ到着前に海戦が終了して統合指揮はかないませんでした。ハルゼーはミッドウェー海戦直前に皮膚病を発症して入院し、第16任務部隊の護衛部隊(巡洋艦部隊)指揮官であったスプルーアンスが第16任務部隊の指揮を引き継ぐことになりました。
両軍の作戦参加兵力
両軍の参加兵力をまとめておきます。
日本艦隊
前哨部隊:第六艦隊基幹
北方作戦部隊(AL作戦部隊):第五艦隊基幹
空母2隻「龍驤」「隼鷹」(搭載機:艦上戦闘機27、艦上爆撃機15、艦上攻撃機21:計63)
ミッドウェー作戦支援機動部隊:第一航空艦隊基幹
空母4隻「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」(搭載機:艦上戦闘機84、艦上爆撃機84、艦上攻撃機93、艦上偵察機2?:計263)
ミッドウェー攻略部隊:第二艦隊基幹
空母1隻「瑞鳳」(搭載機:艦上戦闘機15、艦上攻撃機9:計24)
戦艦2隻・重巡洋艦8隻・軽巡洋艦2隻・駆逐艦21隻・水上機母艦2隻
(ミッドウェー島上陸部隊として、海軍陸戦隊・設営隊約3000名と陸軍部隊約2000名を載せた18隻の輸送船を共なっていました)
主力部隊:連合艦隊直卒部隊:第一艦隊基幹
空母1隻「鳳翔」(搭載機:艦上戦闘機9、艦上攻撃機6:計15)
アメリカ艦隊
第16任務部隊
空母2隻「エンタープライズ」「ホーネット」(搭載機:艦上戦闘機54、艦上爆撃機76、艦上攻撃機29:計159)
第17任務部隊
空母1隻「ヨークタウン」(搭載機:艦上戦闘機25、艦上爆撃機37、艦上攻撃機14:76)
ミッドウェー島航空隊
(その他魚雷艇等哨戒用の小艦艇14隻とミッドウェー島守備隊約3000名)
こうして参加兵力を比較すると、日本海軍が米海軍を圧倒しているわけですが、前述のように日本海軍の北方作戦部隊(AL作戦部隊)は遠くアリューシャン方面に展開しており、南雲機動部隊に次ぐ航空兵力を持ちながらもミッドウェー作戦には直接関与ができません。あわせて連合艦隊直卒部隊も最大速力で駆けつけても最低1日の行程がかかる後方にいたわけです。
つまり日本海軍の機動部隊のみで米基地部隊と機動部隊を相手にするわけですから、航空機の総数で言うと、日本海軍263機(第二艦隊の「瑞鳳」を加えても287機)+若干の艦載水上偵察機で母艦搭載機235機と基地航空機137機、計370機あまりと対峙せねばならなかったわけです。こうしてみると今回の冒頭で記述したこの作戦の実施に向けての前提であった数的・質的優位が必ずしも実現できていたわけではない、と言うことに改めて気づかされました。
と言うことで、今回はここまで。ミッドウェー海戦を理解するための準備段階、と言うような回となりました。次回は海戦の経緯に触れながら、もう少しあれこれと考えてみたいと思います。(うーん、艦船模型は出てこないかも、どうしようかな)
模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。
特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。
もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。
もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。
お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。
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