相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日本海軍 空母機動部隊小史 4:空母機動部隊の活躍と第一段作戦の終了、第二段作戦への移行

空母機動部隊の南方攻略戦支援

1941年12月の「真珠湾攻撃」の後、南雲機動部隊は第二航空戦隊(「飛龍」「蒼龍」)を第四艦隊に分派し、難攻していたウェーク島攻略を支援します。f:id:fw688i:20211031132140j:image

(難攻するウェーク島攻略戦に分派された第二航空戦隊:「飛龍」(上)と「蒼龍」)

その間、機動部隊本隊は本土に帰還、予定されていた南方展開の支援のための補給・整備に入っていました。

1942年1月、第一航空戦隊(「赤城」「加賀」)と第五航空戦隊(「瑞鶴」「翔鶴」)はラバウル攻略支援作戦を実施しましたf:id:fw688i:20211031132144j:image

(ラバルル攻略戦を支援した第一航空戦隊:「赤城」(上)と「加賀(上の写真)と(下の写真)第五航空戦隊(「瑞鶴」(手前)と「翔鶴」)

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2月、オーストラリア北岸のダーウィン空襲、続いてジャワ攻略戦支援を実施します(第一航空戦隊、第二航空戦隊)。

補給地で座礁損傷した「加賀」は内地に引き上げますが、1942年3月、「加賀」以外の5隻でインド洋に進出し、インド洋での作戦を展開します。

 

インド洋作戦と英東洋艦隊の動向

インド洋に進出した機動部隊は、ビルマ攻略戦を支援するために東インド洋の英軍の拠点であったセイロン島のコロンボ、トリンコマリーに空襲を行いました。

当時、英海軍は東洋艦隊を増強していました。

南雲機動部隊のインド洋作戦展開当時、東洋艦隊には戦艦5隻(いずれも第一次大戦型の超弩級戦艦を近代化改装した艦)、空母3隻(中型装甲空母2隻と軽空母1隻)を基幹とする有力な艦隊となっていましたが、元来東洋艦隊の一大拠点であったシンガポールの陥落を受け、艦隊集結地を新拠点候補の一つであるインド洋東方のモルディブ諸島アッドゥ環礁に下げていたため、互いに索敵を実施したものの双方発見に至らず、主力艦隊同士の海戦は発生しませんでした。

英東洋艦隊の主要艦

戦艦「ウォースパイト」(東洋艦隊旗艦)

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「ウォースパイト」は同級の一隻です。同艦は第二次世界大戦を通じて種々の海戦で戦果を上げており、しばしば第二次世界大戦での最優秀戦艦と呼称されるほどの活躍をしていることでも有名です。

同級は初めて15インチ砲を主砲として採用し、砲力の格段の強化と、あわせて速力を25ノットとした「高速戦艦」でした。同級の最終改装では、艦橋構造の変更、副砲の撤去と対空兵装の充実などが行われ、艦容が一変するほどのものでした。装甲重量、重厚な艦橋など、重量の増加に伴い、速力の低下を生じていたようです。

(1942近代化改装後: 32,930t, 23knot, 15in *2*4, 5 ships,154mm in 1:1250)  

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リヴェンジ級戦艦(東洋艦隊所属は「レゾリューション」「ラミリーズ」「ロイヤル・ソブリン」「リヴェンジ」)

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前級「クイーン・エリザベス」級戦艦で成功を見た15インチ砲を搭載した戦艦を安価に量産するために「アイアン・デューク」級戦艦を基本設計として生まれた艦級です

最終改装は「クイーン・エリザベス級」ほど徹底したものではありませんでしたが、防御装甲の強化、舷側へのバルジの追加、対空兵装の強化などが行われ、速力が低下しました。

(下の写真:1942近代化改装後の概観 33,500t, 21.5knot, 15in *2*4, 5 ships, 150mm in 1:1250) 

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イラストリアス級航空母艦(東洋艦隊所属は「インドミタブル」「フォーミダブル」)

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(英東洋艦隊に編入された「インドミタブル」と「フォーミダブル」:いずれも「イラストリアス」級の概観:192mm in 1:1250 by ???(メーカ不明です)戦隊のみジャンクパーツで入手したモデルを、それらしく仕上げてあります)

同級は空母の弱点である飛行甲板を装甲化した世界初の重防御空母の艦級です。装甲化によるトップヘビー化対応により、格納甲板が当初1層とされたため、搭載機数が減少しています。

東洋艦隊所属の「フォーミダブル」は第一世代に属し、一層の格納庫を持っていましたが、「インドミタブル」は改良型の第二世代で、格納庫を部分的に二層とし、搭載機数を増やす試みが行われました。それでも装甲甲板を持った代償は大きく、1942年当時の搭載機数として記録されているのは「フォーミダブル」41機、「インドミタブル」45機と、同時期のほぼ同じ大きさの「飛龍」級に比べると、やや控えめな搭載機数でした。

ちなみに空母「インドミタブル」は、当初、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」と共に東洋艦隊に配置される予定でしたが、シンガポールへの回航途中で座礁しその損傷回復に時間を要したためマレー沖海戦に間に合いませんでした。もし間に合っていれば、陸攻・中攻だけの護衛戦闘機なしで行われた日本海軍の両艦襲撃は実施されなかったかもしれません。

 

軽空母「ハーミス」

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(英東洋艦隊に編入された空母「ハーミス」の概観:147mm in 1:1250 by Neptun: 下の写真では、この時期の空母の共通特徴である対艦用の主砲装備のアップ:14センチ単装砲を6門装備していました)

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(Harmis の日本語表記としては「ハーミーズ」「ハーメス」「ハームス」「ハーミズ」等種々ありますが、ここでは「ハーミス」と表記しています)

いわゆる最初から航空母艦として設計された世界で初めての軍艦です。完成が日本海軍の「鳳翔」の方が早かったため日本では「鳳翔」を世界初の航空母艦とする史料が多いようです。

英海軍には既に商船改造の「アーガス」や戦艦改造(建造途中から空母に変更)の「イーグル」など、艦上機を搭載し運用する先行艦があり、これらを参考にはしたものの、実験的な色合いの強い艦でした。

「鳳翔」と同世代の航空母艦の常として、「ハーミス」も対艦用武装として14センチ単装砲6基を装備していました。一層の格納庫を持ち、太平洋戦争開戦時には2基のエレベーターを装備していました(竣工時には1基のみ装備。のちに追加)。艦型が小さく、低速のため航空機の近代化につれ運用可能な機種が少なくなり(「鳳翔」も同様でした)、太平洋戦争開戦当時は、複葉のソードフィッシュ雷撃機)12機を搭載していました。

 

コロンボ空襲、トリンコマリー空襲、そしてセイロン沖海戦

南雲機動部隊はセイロン島における英軍の根拠地であるコロンボ、トリンコマリーを相次いで空襲し、基地施設を破壊しましたが、その際、英東洋艦隊から離れて行動していた重巡洋艦「ドーセットシャー」「コーンウォール」と上記の軽空母「ハーミス」を撃沈しました。

 

撃沈された「コーンウォール」:ケント級重巡洋艦

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(直上の写真は、「ケント級」の概観。152mm in 1:1250 by Neptune )

 

撃沈された「ドーセットシャー」: ノーフォーク重巡洋艦

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(直上の写真は、「ノーフォーク級」の概観。152mm in 1:1250 by Neptune )

撃沈された空母「ハーミス」(再掲)f:id:fw688i:20211031125920j:image

(上述のようにこの時期空母「ハーミス」は艦上戦闘機を搭載していませんでした。低速のため、十分な合成風力が

得られず、発艦させられる艦上戦闘機がなかった、と言うべきでしょうか。セイロン沖で南雲機動部隊と交戦した際にも、「ハーミス」がセイロン島の陸上基地に戦闘機の派遣を要請した無線が記録されているそうです)

 

コラム)珍しい複座艦上戦闘機「フェアリー・フルマー」

上述のように「ハーミス」は艦上戦闘機を運用できませんでしたが、英海軍は艦上戦闘機の分野ではかなり出遅れていました。「フェアリー・フルマー」はそれまで旧式の複葉機しか保有していなかった艦上戦闘機の後継機として設計された単葉複座の艦上戦闘機でした。

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複座とした理由は洋上での運用を考慮した際に航法士が必要、と言うもので、単発エンジンでの戦闘機としては運動性や速度に著しいハンディが生じるのは自明でした。

600機余が生産されましたが、性能は十分ではなく、ハリケーン艦上戦闘機タイプ(シーハリケーン)やスピットファイア艦上機型(シーファイア)、グラマンF4Fの英国向け輸出型(マートレット)に置き換えられました。

翼内に固定武装として7.7mm機銃8挺を搭載していた他、後部の航法士座席に旋回式の7.7mm機銃を搭載したタイプもあったようです。250kg爆弾2発の搭載能力もあったようですが、低速は如何ともし難く、あまり目覚ましい戦闘記録は残っていません。

フェアリー社はフルマーの好景気として、エンジンと武装を強化したやはり複座のファイアフライ艦上戦闘機として製造していますが、空母搭載の夜間戦闘機、対潜哨戒機、強行偵察機、練習機として使用されたようです。

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でも、ちょっと面白い。

 

インド洋作戦の終了と第二段作戦への準備

こうれまでに述べてきたような経緯で、南雲機動部隊は「真珠湾攻撃」からの一連の第一段作戦を終了し、第二段作戦の準備に移行してゆきます。

第二段作戦は、第一段作戦の成功で太平洋戦争のそもそもの目的であった南方資源地域の確保に成功した日本が、資源地域から本土への輸送路の安全を確保するために、中部太平洋の防御施設地域の外周の拡大と、長期戦を避けるためになんとか短期での艦隊決戦への米海軍の誘引を同時に企図した作戦、と言えると考えます。

インド洋作戦を終えた南雲機動部隊について言うと、具体的には、第一航空戦隊、第二航空戦隊は休養、整備、補充のために内地に帰還し、第五航空戦隊は第二段作戦の緒戦と位置付けられるニューギニア島ポートモレスビー攻略の支援を目的として、実施部隊である第四艦隊に編入されます。

 

ポートモレスビー攻略戦(MO作戦)の始動

ポートモレスビーはニュギニア島の南岸に位置する米豪軍の拠点で、これを確保することにより、日本海軍の一大拠点である中部太平洋の要、トラック島(カロリン諸島)の外郭拠点として確保したラバウルの安全性をさらに高めようと言う企図の元に、攻略が検討されました。

ラバウルに近いニューギニア島の北東岸は既に日本軍が確保していましたが、同地からポートモレスビーへの陸上からの侵攻は、中間に高山地帯があり難度が高いため、海上からの侵攻が検討されたのでした。

この作戦は南洋部隊としてラバウル等の攻略を担当した第四艦隊が担当しますが、同艦隊の固有の戦力は根拠地対等、警備部隊であったため、第一段作戦参加部隊からいくつかの中核戦力が引き抜かれ、同作戦にあたることとなりました。

 

MO機動部隊

第五航空戦隊は同作戦の航空支援の中核戦力と目されており、従来の第五航空戦隊(「瑞鶴」「翔鶴」)に加えて、これを支援する護衛部隊として第五戦隊(重巡妙高」「羽黒」)と第七駆逐隊(駆逐艦2隻)、第二十七駆逐隊(駆逐艦4隻)を加えた機動部隊が編成されました。

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「翔鶴級」航空母艦の概観:182mm in 1:1250 by Neptun:下の写真は「翔鶴」(奥)と「瑞鶴」。両艦は同型艦でしたので大きな差異は、このスケールでは見られません)

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の大改装後の概観。166mm in 1:1250 by Neptune) 

 

MO攻略部隊

これとは別に海上から侵攻する上陸部隊の直接支援部隊として第六戦隊(重巡「青葉」「衣笠」「古鷹」「加古」」)と駆逐艦1隻、第十八戦隊(軽巡「天龍」「龍田」)と数隻の特設水上機母艦特設砲艦特設掃海艇、さらに輸送船団の直衛部隊として第六水雷戦隊(軽巡「夕張」、駆逐艦5隻)と敷設艦津軽」が当たることになっていました。

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(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)

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(直上の写真:天龍級軽巡洋艦:116mm in 1:1250 by Navis)

 

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(直上の写真: 第18戦隊の天龍級軽巡洋艦2隻:天龍と龍田)

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

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(直上の写真は、上述の機雷敷設艦津軽」:104mm in 1:1250 by Neptune  4000トンの船体を持ち、条約制限いっぱいの20ノットの速力を有していました。「津軽」は12.5cm 連装対空砲を2基を主砲として搭載していますが、準同型艦の「沖島」は軽巡洋艦と同等の14cm主砲を連装砲塔形式で2基、保有していました。ロンドン海軍軍縮条約で、機雷敷設艦等の補助艦艇には最高速力を20ノット以下とする、という制限がかかりましたが、これは、「夕張」「古鷹級」等のコンパクト重装備艦の登場を警戒した列強が、機雷敷設艦の名目で日本海軍が軽巡洋艦として運用できる強力な敷設巡洋艦を建造することを予防した、と言われています。実際に太平洋戦争では、中部太平洋ソロモン諸島方面で輸送船団の護衛や、自ら輸送・揚陸任務など、高速を必要とする水雷戦隊旗艦島の任務を除けば他の軽巡洋艦と同等に活躍しています)

これらの諸艦については下記のリンクの前後の回でも楽しんでいただければ、と。

fw688i.hatenablog.com

fw688i.hatenablog.com

 

艦隊補助空母「祥鳳」の編入

さらに、この部隊には1隻の補助空母が追加されています。

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(空母「祥鳳」の概観:164mm in 1:1250: 「祥鳳」の特徴としては、飛行甲板がオリジナルのまま延長されなかったところでしょうか?:下の写真では、「祥鳳」の母体となった潜水母艦「剣崎」と「祥鳳」の対比をご紹介しています)

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(上の写真は、潜水母艦形態と航空母艦形態の比較。エレベーターなどが最初から組み込まれていたことがよく分かります。後部のエレベータ:上の写真では船体後部のグレー塗装部分:は潜水母艦時代には、エレベータは組み込まれたものの、上に蓋がされていたようです。:「剣崎級」潜水母艦は、筆者の知る限り、1:1250スケールでは市販のモデルがありません。上の写真は筆者がセミ・スクラッチしたものです。写真の空母は「祥鳳」の姉妹艦「瑞鳳」ものです。「瑞鳳」の母体となった「高崎」は潜水母艦としては完成されないまま航空母艦に改造されましたので、潜水母艦としての「高崎」は結局存在していません。モデルは「剣崎」の図面(こちらは潜水母艦として完成しています)に従ったもの。後に空母「祥鳳」に改造されています。という次第で、形態はあくまでご参考という事でお願いします)

 

「祥鳳」は戦時には短期間での補助空母への改造を計画されていた「剣埼」級潜水母艦ネームシップ「剣埼」を空母に改造して建造された艦隊補助空母です。二番艦「高崎」は潜水母艦形態を経ずに先に太平洋戦争開戦前に空母として完成していましたが、同艦は潜水母艦形態を経てのちに空母の改装されたため、就役は開戦直後の1941年12月22日でした。

その後、第四航空戦隊を「龍驤」と共に編成しますが、既に「龍驤」は南方作戦の支援に出ていたため、行動を共にする機会はありませんでした。就役後は南方への航空機の輸送島の任務等に従事していました。

 

「祥鳳」の同部隊への編入には、これまでの第一航空艦隊のインド洋作戦での戦訓から、同機動部隊の搭載艦上戦闘機の数が、機動部隊周辺の警戒と、発進する攻撃隊の護衛の双方を行うには不足していることが挙げられ、同艦を実験的に搭載機を全て艦上戦闘機として機動部隊直掩に専従させる事で攻撃隊の護衛を強化する狙いがあったとされています。

しかし、上陸部隊を供出する陸軍から輸送船団の上空直衛への強い希望があり、第四艦隊司令部もこれを了承したため、結局、同艦はMO攻略部隊に編入され、輸送船団の上空支援にあたることとなりました。

 

「MO作戦」と言う名称から考えること

本当にこんな作戦名称を使っていたんでしょうか、と言いたくなるような名称です。

民間の商品開発でも、もう少し秘匿性の高い暗号名がつけられますよね。

それとも作戦の発動はあくまで敵の艦隊を誘き出すための餌だったのでしょうか?むしろ予定戦場をほのめかずくらいが丁度いい、とか?

長期消耗戦での勝利は絶対にあり得ないのだから、短期の決戦主義で破れれば、もはや仕方ないのだ、と言っている作戦名のようにも思えてきます(こんな解釈が多分に後知恵であることは自覚しています)。不敗の体勢なんてあり得ないのだと割り切っているようにも思えます。

とりあえず一回戦は完勝だった。駒も大きく失わずに済んだ。これを後2回くらい繰り返せば、少しずつ相手の戦意を挫くことができ、「終わりかた」の話ができるようになるんじゃないのか、そう言うことでしょうか?(野球も7回で「コールド」があることだし、と思ったかどうかは?)

と書いていると、米国の国力を熟知し対米戦争に反対し続けた連合艦隊司令長官が軍人として取り得た一つの道、としてはありかな、とも思えてきました。

総力戦が理解できなかったのではなく、どう転んでも総力戦での勝ちが望めない以上は、解る必要がなく、つまりその路線に寄り添ってはいけないわけで、いけるところまで一枚看板で均衡を求めて決戦主義で行こう、そう言うことだったんでしょうか?

「半年は暴れてみせます」と言う言葉の意味はそう言うことだったんでしょうかね。だから半年以内にもう一回、勝って見せれば、なんとかなるかも、と。或いはそれは日露戦争で日本がなんとかなった(勝った、と言えないまでも、滅びなかった)、と言う戦訓から来ているのかもしれません。

「暴れて見せる」ための切り札が高速空母に足の長い航空機を満載し、航空魚雷で敵艦隊を仕留める空母機動部隊であり、実はこれが多分に「消耗戦」的な要素を持っていた、つまりあっという間に「決戦の一枚看板」が失われなくてはいけなかった、と言うところがなんとも皮肉なような気がします。決戦主義で戦うにしても、「一枚看板」では準備不足だった、そう言うことかも。

「MO作戦」の名称から、あらぬところに想像の羽が飛んでしまいました。

 

と言うことで、次回は「一枚看板」の崩壊の序曲とも言うべき、空母機動部隊同士の初めての戦闘「珊瑚海海戦」をお送りする予定です。(一回、新着モデル等はさむかもしれません)

 

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

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