相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日本海軍巡洋艦開発小史(その4) 平賀デザインの巡洋艦

平賀デザイン

平賀譲は大正期から昭和初期にかけて日本海軍の艦政本部で鑑定設計に従事しました。

その設計の根幹は、少し乱暴に整理してしまうと、日本海軍が誕生から負わされた大命題、乏しい資源と予算を条件として如何に最大級の戦闘力を生み出すか、と言う一点に集約され、 コンパクトな船体と重武装の両立を追い求めたところにある、と言えるのではないかと考えます。

その秀逸な発想から「造船の神様」と賛辞する声がある一方、人の意見に耳を貸さないところから「平賀不譲(=譲らない)」と異名をつけられるなど、毀誉褒貶の多い人物でもあったようです。

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本稿でもかつて紹介した映画「アルキメデスの大戦」では、おそらくこの平賀譲をモデルにした平山造船中将(田中泯さんが演じていました。さすがに抜群の存在感!)を紹介しましたが、映画では(コミックでも)大艦巨砲主義を推進する、あるいは自身の技術を示すために大艦巨砲主義者を利用するかなり政治的な存在としてとして描かれていると感じました。しかし、今回本稿の準備で資料を当たった感触では、実物はもっと一本気で周りのことは目にも入らない芸術家肌ではなかったのかな、と感じます。

天才の常として、理想の実現に向けては現有する技術の限界(造艦当事者)や、運用者(用兵当事者 )の思惑など気にしない、純粋な職人気質ではなかったかと。その為、往々にして、彼の設計はより工数がかかる、あるいはより難度の高い工作技術を要する、など、本来は限られた予算の中での有効解の発見であったはずのミッションが、時としてより高価で、量産には向かない、などの結果を生じることになりました。この辺り、零式艦上戦闘機を開発した堀越技師とも何かしら共通点があるように感じます。

或いは、「目指すべき量産」とは言いながら、来るべき「総力戦」の規模の「量産」には到底到ることが出来ない国力の限界の中で、「総力戦」に適応する造形を求められた技術者の苦悩の軌跡、と言えるのかもしれません。

 

ともあれ、平賀譲がこの大正期から昭和初期のかけて次々に生み出した画期的な設計の一連のコンパクト重武装艦は、第一次世界大戦後の列強に強い警戒感を生み出し、やがてワシントン海軍軍職条約、その制限範囲を補助艦艇にまで広げたロンドン海軍軍縮条約などの流れを強める一因ともなった、と言われています。

 

平賀マジック、始まり、始まり!

軽巡洋艦 夕張 -Yubari light cruiser-(1923-1944 )  

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

 

「夕張」は、 元々、5500トン級軽巡洋艦の9番艦(「球磨級」5隻に続く「長良級」第1期の4番艦)として建造予定だったものを、折からの不況の影響を受け予算の逼迫等の要因から、設計変更したと言う経緯で建造されました。

設計は、当時造船大佐だった平賀譲が主導し、その建造経緯は上記のようなどちらかと言うと後ろ向きなものがきっかけではありましたが、元々は本稿の初期でも触れてきたつもりですが、日本海軍設立の根本に、資源に乏しく、資金にも限界のある国が、その限界の中で国を守るための最大武装を持つには、と言う大命題と同軸線上にあるものでした。それがこの機に具現化され、画期的な軍艦が誕生し、世界を驚かせた、と言っていいでしょう。

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」(手前)と5500トン級軽巡洋艦(「長良」)の概観比較。5500トン級よりもひとまわり小さな船体に、航空兵装をのぞきほぼ同等の兵装を搭載し、周囲を驚かせました)

 

設計の基本骨子は、5500トン級と同等の兵装と速度を3000トン弱の船体で実現すると言うものでした。すべての主砲を船体の中心線上に配置、前後それぞれ単装砲と連装砲の背負式として、5500トン級に比べると主砲の搭載数は1門減りましたが、両舷に対し5500トン級と同様の6射線を確保しました。同様に連装魚雷発射管を中心線上に配置することにより、発射管搭載数は半減したものの、両舷に対して確保した射線4は、5500トン級と同数でした。

 

「背負式砲塔」の配置の話

「夕張」の主砲は前述のように、単装砲と連装砲塔を背負式に、艦前部と後部に振り分け配置して搭載しているのですが、単装砲を低甲板に、一段高い甲板に連装砲等を配置する形式をとていました。この門数の多い砲塔を高い位置に搭載する配置は、平賀デザインでは、後の有名は「金剛代艦級」の設計案でも登場します。素人目には逆の方が重心的に安定感が出るような感じがして、最初、なん予備知識もなく「金剛代艦」の設計を見た際には「ああ、このスケッチ、間違ってるなあ」となんの違和感もなく、思ったものでした。

より強力な砲塔に広い射界を持たせるため?発射弾数の多い砲塔により大きな弾庫を確保するスペースを確保するため?より重い砲塔に大きな動力を与えるため?どういう狙いがあったんでしょうか?

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の主砲搭載形態を示したもの)

 

機関は、当時高速化が進んでいた駆逐艦型式を導入して、小型化・軽量化が図られ、36ノット(就役当初)を発揮することができました。

防御装甲として、軽巡洋艦としては初めて防御甲板を設け、船体外板の内側のインターナル・アーマー形式で、軽巡「川内級」と同等以上の防御力を得ていた、と言う評価もあるようです。

そのほかに特筆すべきこととして、誘導煙突の導入が挙げられます。

 

「誘導煙突」の話

これは、コンパクトな船体と、強力な武装、そして高機動力を並立させる上では、大変重要な工夫です。つまり、大きな武装の搭載にはスペースが必要で、かつ高出力の機関も同様に大きなスペースを必要とします。さらに、高度化する射撃管制等のシステムには、指揮スペースにも大きなものが必要です。これらのそれぞれの要求をコンパクトな船体で兼備しようとすると、直立の煙突では無理は生じ、例えば艦橋下にまで伸長して設置された機関からの煙路を「誘導」する必要が生じるわけです。

このように、ある意味、日本海軍の置かれた環境から生じた必然として、以後、この誘導煙突(集合煙突)は、日本の軍艦(特に巡洋艦)の特徴となってゆきます。

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(直上の写真2点は、軽巡洋艦「夕張」の誘導煙突。いずれの写真も上段は竣工直後の誘導煙突。当初、高さが十分でなく、排煙が艦橋に逆流するなどの不都合があったため、後に下段のように高さが改められました。誘導煙突は艦橋下から延長されており、機関と兵装、その指揮系統のパズルのような配置への工夫が想像されます)

 

こうしてコンパクトな船体と強力な兵装の両立という課題を実現した高い評価を得た「夕張」ではありましたが、そのコンパクトさ故に、偵察機搭載のための航空艤装スペースを持てず索敵能力が十分でないこと、また、今後の兵装の拡張性に対する適応余地がほとんどないこと、などから、艦隊の先兵を務める水雷戦隊旗艦、偵察巡洋艦としての実戦での用兵価値が低く、実際の建造は一隻に止まりました。

しかし、上述の「誘導煙突」のみならず、「夕張」で試された種々の新機軸、設計上の試みは、以降の日本の軍艦設計に大きな影響を残してゆきます。

 

その戦歴

太平洋戦争開戦時には、内南洋(中部太平洋委任統治領)の警備を担当する第4艦隊、第3水雷戦隊の旗艦を務めました。太平洋緒戦でほぼ唯一日本軍が苦戦したウエーク島攻略戦に参加したのち、ラバウル、ラエ・サラモア、ブーゲンビル、ポートモレスビー 攻略戦に活躍しました。

その後、第3水雷戦隊の解体に伴い第2海上護衛隊に転籍したが、主としてそれまでと同様、ソロモン諸島ニューギニア方面で活動を続けました。

米軍のガダルカナル島侵攻に伴い、米軍の揚陸を阻止すべく出撃した新編成の第8艦隊(外南洋警備担当)に帯同して、第一次ソロモン海戦に参加しました。その後中部太平洋方面での護衛任務の後、正式に第8艦隊所属となり、ラバウル、ブーゲンビル方面での、警備・護衛任務につきました。

ラバウルで米軍機の爆撃で被弾、内地で修理の後、再び第3水雷戦隊旗艦として中部太平洋方面艦隊所属となり、同方面での船団護衛の任務に就きます。1944年4月、ソンソル島(パラオの南西)への輸送任務から帰投中に、米潜水艦により撃沈されました。

 

平賀デザイン 第二弾! 日本海重巡洋艦の草分け 

古鷹級重巡洋艦 -Furutaka class heavy cruiser-(古鷹:1926-1942 /加古:1926-1942)  

Japanese cruiser Yūbari - Wikipedia

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Furutaka-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「古鷹級」の概観。 146mm in 1:1250 by Trident : 新世代の偵察巡洋艦として、初めて20cm主砲を搭載しました。下は「古鷹」と「加古」)

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前出の「夕張」で成功した手法を発展させ、平賀譲が設計主導をした第二陣が、この「古鷹級」巡洋艦です。

本来は、有力な火力を持つ米海軍の「オマハ級」軽巡洋艦に対抗して、これを凌ぐ重武装偵察巡洋艦として設計されました。

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(直上の写真は、「古鷹級」(奥)と5500トン級軽巡洋艦(「長良」)の概観比較。5500トン級よりも二回りほど大きな船体を有しています)

 

そうした意味では5500トン級軽巡洋艦の強化形で、二回りほど大きな7000トン級(設計時)の船体に主砲口径を20センチとして、これを砲塔形式の単装砲架6基、艦首部に3基、艦尾部にそれぞれ3基に振り分け、中央の砲架がを一段高くすると言うピラミッド型に配置しています。

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(直上の写真は、「古鷹級」の特徴的な主砲配置。艦首部と艦尾部に、それぞれ中央部が一段高いピラミッド型の配置で装備されました)

 

雷装としては、61センチ連装発射管を船内に固定式で各舷3ヶ所に配置、都合各舷に対し6射線を有していました。

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(直上の写真は、「古鷹級」の船内に配置された連装魚雷発射管:舷側の2連の円形がそれです。各舷に3箇所、艦首部に1箇所、艦やや後部に2箇所配置されています。艦内に魚雷発射管を装備することには被弾時の魚雷の誘爆など、懸念がありましたが、同級竣工時の魚雷には上甲板からの射出時の衝撃に耐えられる強度が確保されていなかったようです)

 

船体中央部にボイラー12基からなる機関を配置し、34.5ノットの速力を発揮しました。

「夕張」で試みた誘導煙突を利用して、前後に大きな主砲用のスペースを取り、中央の機関スペースの上に艦上構造を載せる設計となっています。

さらに、後部砲塔群上の滑走台から発艦させる形式で、索敵用の水上偵察機を搭載していました。 

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(直上の写真は、「古鷹級」の誘導煙突(上段)と水上偵察機の発艦用の滑走台。発艦時には水偵の搭載台である4番砲塔を発艦向きに旋回させ、その先の滑走台もその向きに、レールに沿って移動させました。滑走台の真下あたりに魚雷発射管が見えています)

 

主砲単装砲架の話

「古鷹級」の最大の特徴は、前後に振り分け配置されたピラミッド型配置の20センチ砲単装砲架ですが、課題の多い装備だったとされています。

単装砲形式については、設計者の平賀が艦の安定性の視点で強く拘ったと言われています。その砲塔形式の単装砲架は、重量軽減の視点から本格的な砲塔ではなく、断片防御程度の軽装甲しか施されていない「砲室」でした。かつ、揚弾、装填などの作業の多くを人力に依存する構造であった為、100キロを超える砲弾を扱う本級の場合、射撃速度の維持が困難であったと言われています。

本級よりもはるか以前に設計された「伊勢級」戦艦では、日本人の体格を考慮して人力装填の副砲口径を前級「山城級」の15.2cmから14cmに下げた経緯を持つ同じ海軍で、なぜこのような決断が下され、それに拘ったのか、これこそが「不譲」と言われる平賀の性格と、誕生期の闊達さを失い官僚的になりつつあった海軍中央の課題の、現れであったと言えるかもしれません。

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この課題の単装砲架は、後に次級の「青葉級」と同様の連装砲塔形式に変更されました。この兵装の転換は大成功で、艦構造は大きな変更を行わなかったにも関わらず、射撃の安定性などに問題は生じず、用兵者側の運用は格段に優れたものになった、と言われています。

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(直上の写真は、「古鷹級」の主砲の換装前後を示したもの。竣工時の単装砲架配置から、次級「青葉級」で実績の出た連装砲塔形式への換装が行われました:1936-1939)

 

ロンドン海軍軍縮条約で生まれた「重巡洋艦」(カテゴリーA)の話

ロンドン条約では「主砲口径が6.1インチを超え、8インチ以下で、10000トン以下の艦」をカテゴリーA:重巡洋艦とすると言う定義が行われることになります。この定義は、「夕張」「古鷹級」と言う画期的なコンパクトな重武装艦を生み出し始めた日本海軍を警戒して列強が定め、「古鷹級」とこれに続く「青葉級」をカテゴリーAの総排水量の中でカウントし、その保有数に限界を持たせることを狙ったとも言われています。

同様の制約は、その他の補助艦艇に対する制約でも現れます。その一つが機雷敷設艦艇での制限で、ここでは新造される機雷敷設艦の最大速力を20ノットと制限することで、日本海軍が高速で強力な兵装を持つ、軽巡洋艦或いは重巡洋艦に匹敵するような高速機雷敷設巡洋艦保有することを制限する狙いがあった、と言われています。これも「夕張」「古鷹級」のもたらした副産物と言えるかもしれません。
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(直上の写真は、上述の機雷敷設艦津軽」:104mm in 1:1250 by Neptune  4000トンの船体を持ち、条約制限いっぱいの20ノットの速力を有していました。「津軽」は12.5cm 連装対空砲を2基を主砲として搭載していますが、準同型艦の「沖島」は軽巡洋艦と同等の14cm主砲を連装砲塔形式で2基、保有していました。ロンドン海軍軍縮条約で、機雷敷設艦等の補助艦艇には最高速力を20ノット以下とする、という制限がかかりましたが、これは、「夕張」「古鷹級」等のコンパクト重装備艦の登場を警戒した列強が、機雷敷設艦の名目で日本海軍が軽巡洋艦として運用できる強力な敷設巡洋艦を建造することを予防した、と言われています。実際に太平洋戦争では、中部太平洋ソロモン諸島方面で輸送船団の護衛や、自ら輸送・揚陸任務など、高速を必要とする水雷戦隊旗艦島の任務を除けば他の軽巡洋艦と同等に活躍しています)

 

「古鷹級」の大改装 

前掲の写真のキャプションでも少し触れましたが、「古鷹級」は1936年から1939年にかけて、次級「青葉級」の要目に準じた、大改装を受けます。その改装項目は、主砲の単装砲架から連装砲塔への換装、魚雷発射管の4連装発射管への換装と上甲板への移転、対空砲の換装(8cm 単装高角砲から12cm単装高角砲へ)、航空艤装の換装(滑走台からカタパルトへ)、機関を重油専焼形式へ統一、舷側への安定性向上のためのバルジ装着等、多岐に渡りました。

これにより同級の外観は一変し、「青葉級」と類似した外観となります。

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(直上の写真は、大改装後の「古鷹級」の概観。直下の写真は、大改装前(上段)と大改装後の「古鷹級」の概観比較。バルジの装着などでやや速度は低下しました)

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(直上の写真は、主砲搭載形式の大改装前後の比較:単装砲架から連装砲塔へ。この際に、主砲口径が正20センチから、条約制限いっぱいの8インチ=20.3センチに拡大されました)

 

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(直上の写真は、航空艤装の大改装前後の比較:大改装前の滑走台方式(上段)からカタパルト方式へ)

 

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(直上の写真は、雷装形式の大改装前後の比較:船内の連装発射管形式から上甲板の4連装魚雷発射管へ

 

その戦歴

「古鷹」:太平洋開戦時には、僚艦「加古」「青葉」「衣笠」と第6戦隊を編成し、内南洋部隊(第4艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第8艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛任務等に活躍しました。

1942年10月、ガダルカナル揚陸作戦に支援部隊として出撃中、サボ島沖で、米艦隊の初のレーダー索敵による奇襲を受け、同部隊の旗艦「青葉」の被弾後離脱(戦隊司令官戦死)援護のため前衛に出たところを集中射撃を受けて行動不能となり、やがて沈没しました。

 

「加古」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊の一艦として上記の「古鷹」等と行動を共にします。

1942年8月、第1次ソロモン海戦に第6戦隊の僚艦とともに参加し、記録的な勝利を収めた(戦略的には課題が多いとされますが)後、ニューギニア・ガビエンに帰投中に、米潜水艦の雷撃を受け、魚雷3本が命中し、沈没しました。

魚雷の初弾披雷から転覆沈没までわずか6分ほどであったとされ、この早期の転覆の一因として、平賀デザインの機関部の中央縦隔壁の存在が挙げられています。この縦隔壁については、設計当初から、浸水時の復元性喪失による転覆を早める恐れがある等の指摘が行われていたと言われています。

 

「平賀デザイン」の改訂版

青葉級重巡洋艦 -Aoba class heavy cruiser-(青葉:1927-1945 /衣笠:1927-1942)   

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Aoba-class cruiser - Wikipediaf:id:fw688i:20200506161108j:image

(直上の写真は、「青葉級」竣工時の概観。 148mm in 1:1250 by Semi-scratched based on Trident : Trident社製「古鷹級:竣工時」のモデルをベースに、主砲搭載形式、高角砲、水上偵察機搭載形式、等をセミクラッチし、「青葉級」の竣工時を再現してみました。実際には艦橋構造、煙突の形状などがもっと異なっていたようです)

 

 

「古鷹級」のいくつかの課題に改訂を加えて生まれたのが「青葉級」です。

本来は「古鷹級」の3番艦、4番艦として建造される計画だったのですが、同級の計画中に次級「妙高級」の基本設計が進められており、この内容を盛り込んだ、いわば「妙高級の縮小型」と言う性格も併せ持つ改訂となりました。

最大の変更点はその主砲を「古鷹級」の単装砲架形式から連装砲塔形式に変更したところで、この変更により、前述のように装弾系が射撃速度の維持等の点で問題のあった人力から機装式となり、格段な戦力強化につながりました。(後年、これに基づいた兵装転換が「古鷹級」にも行われ、同級の運用上の効率が向上した事は、前述の通りです)

 

「連装砲塔」の話

設計者の平賀が船体の設計上の要件から、強いこだわりを持っていた単装砲架形式での主砲搭載であったわけですが、本来同型艦であったはずの「青葉級」での、この連装砲塔形式への改定については、その承認経緯に諸説があります。既に設計が進んでいた平賀自身が携わっていた次級「妙高級」での連装砲塔採用が決まっていたことから、ようやく砲術上の要求を自覚した、とする説や、平賀の外遊中に平賀に無断で用兵側の要求に基づく設計変更が行われ、帰朝後にこれを聞いた平賀が激怒したが、既に変更不能となっていた、など、都市伝説に類するよう話まで、いろいろとあるようです。

 

また、この変更により、船体強度に無理が生じる事はなく、それに伴う重量の増加(300トン程度)にも関わらず速力が低下するような事はありませんでした。(35ノット)

その他の変更箇所としては、設計時からカタパルトの搭載を計画していた事で、これにより水上偵察機による索敵能力の強化されるはずでした。しかし、竣工時には予定していたカタパルトは間に合わず、当面は水上偵察機を水面に下ろして運用することとなりました。さらに対空兵装として、新造時から12センチ単装高角砲(当初はシールドなし)が4門搭載されました。

 

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(直上の写真は、今回製作した「青葉級」の特徴を示したもの。連装主砲塔(上段)、単装12センチ高角砲(中段)、航空艤装(下段)。舷側には「古鷹級」と同様に船体内に装備された魚雷発射管の射出口が見えています)

 

竣工時には間に合わなかったカタパルトは、1928年から29年にかけて順次装備され、水上機の運用はカタパルトからの射出により格段に改善されました。

雷装は、就役当初は「古鷹級」と同様の船内に固定式の魚雷発射管を各舷6門づつ装備していました。後に近代化改装の際に上甲板上の旋回式4連装魚雷発射管2基に改められました。

 

大改装後の「青葉級』

同級の大改装による大きな変更点は、魚雷発射管の装備形式を、竣工以来、被弾時の誘爆によるダメージに憂慮のあった船体内に装備した連装発射管6基から、上甲板上に設置した4連装発射管からの射出に改めたこと、単装高角砲をシールド付きに改めたこと、さらに、魚雷発射管上に水上偵察機の整備・運用甲板を設けたことです。

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(直上の写真は、「青葉級」:大改装後の概観。 148mm in 1:1250 by Neptune : 写真はNeptuneの説明では1944年の「青葉」の姿、ということになっていますが、後述のように同艦は1942年の損傷修復の際に3番砲塔を撤去しており、この姿では復旧していません。併せて僚艦の「衣笠」は1942年に既に失われていますので、この形態の艦は存在しないことになります。模型の世界ですので往々にしてこういうことが・・・。まあ、「青葉」が完全修復していたら、とうことでご容赦を<<<お詫び:と書きましたが、よく調べると、サボ島沖夜戦での損傷後、一旦外されていた3番砲塔は、その後の修復の際に復旧されていました。従って、レイテ沖海戦等には、写真の姿で臨んでいます)

 

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(直上の写真は、「青葉級」(上段)と大改装後の「古鷹級」の航空艤装の比較。整備甲板とカタパルトの配置の相違がよくわかります)。ちょとわかりにくいですが「青葉級」の魚雷発射管は水偵の整備甲板の下に装備されています)

 

その戦歴

「青葉」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊旗艦として僚艦「古鷹」「加古」「衣笠」と共に内南洋部隊(第4艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第8艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛島に活躍しました。

その後、1942年10月の前述の「古鷹」が失われた「サボ島沖夜戦」で、米艦隊の奇襲で、艦橋に被弾し第6戦隊司令官が戦死するなど、大損傷を受けて内地に帰還し修復を受けました。その際に予備砲身のない第3主砲塔を撤去しています。

その後再びラバウルの第8艦隊所属となりますが、再び同方面で空襲により被弾、浅瀬に座礁してしまいます。

内地に帰還して再度修復後(追記:この修復の際に、3番主砲塔を復旧しています)は、第16戦隊旗艦として戦線に復帰します。速力が28ノットに落ちたこともあり主としてシンガポール方面での輸送任務に従事しました。その後、一時的に第16戦隊に編入された重巡「利根」「筑摩・などを率いてインド洋方面での通商破壊戦を行います。

レイテ沖海戦では後方での兵員輸送に携わりますが、ルソン島西方沖で米潜水艦の雷撃で大破し、三度、内地に帰還します。しかし損傷が大きく呉での修理の見込みの立たないまま、呉軍港で係留状態で浮き砲台となり対空戦闘を行いますが、1945年7月の米軍機による呉軍港空襲で被弾し、右舷に傾斜して着底してしまい、そのまま終戦を迎えました。

 

「衣笠」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊の一艦として僚艦「青葉」「古鷹」「加古」と行動を共にします。

サボ島沖海戦で僚艦「古鷹」が失われ、第6戦隊旗艦の「青葉」が損傷を受け内地に引き上げ、第6戦隊が解体された後も「衣笠」は第8艦隊の基幹戦力として、ソロモン海方面でガダルカナル島への輸送をめぐる戦闘を継続します。

1942年11月、第3次ソロモン海戦の第二ラウンドにガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃部隊(第7戦隊:重巡「鈴谷」「摩耶」基幹)の支援に出撃。砲撃成功後、合流して帰投中に、米軍機の数次の雷爆撃を受けて、中部ソロモン諸島ニュジョージア島南方で沈没しました。

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(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)

 

このように、平賀デザインの第二弾として建造された「古鷹級」とその改訂版である「青葉級」の4隻は、軽装甲巡洋艦の強化型として世に問われ、軍縮条約の定義で新たに重巡洋艦(=カテゴリーA:重兵装軽装甲巡洋艦?)という艦種を生み出す一つの起点となりました。太平洋戦争初戦には常に第一線にあって活躍しましたが、開戦から比較的早い時期、1942年に、ガダルカナルの攻防戦に投入される中、ソロモン海で3隻が失われました。 残った「青葉」は終戦間際まで残存していましたが、終戦時には行動不能の状態でした。

 

「夕張」の技術的なチャレンジは、「古鷹級」「青葉級」で洗練され、次級「妙高級」で、名実ともに第一線級の戦力として結実してゆくわけですが、今回はここまで。

 

このミニ・シリーズ、次回は「平賀デザインの集大成と条約型重巡洋艦決定版」にスポットを当ててお届けする予定です。(その前に、何か挟まるかも・・)

 

引き続き、模型に関するご質問等は、大歓迎です。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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