相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日本海軍 空母機動部隊開発小史:番外編:ドーリットル東京空襲

開発小史の本編はいよいよ「ミッドウェー海戦」なのですが、ちょっと諸々でお休みです。

今回はスピンアウトというか「真珠湾攻撃」の番外編のお話です。

少し内輪話的なお話をすると、前回「珊瑚海海戦」で米機動部隊についてもご紹介の機会があったわけですが、その中で空母「ヨークタウン」をご紹介した際に、「同型艦「ホーネット」と言えば・・・」と少しご紹介しています。少し興味がそちらに行ってしまった、そういうことです。

(再掲載:抜粋)

ヨークタウン級航空母艦

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航空母艦「ヨークタウン」の概観:198mm in 1:1250 by Neptun:同艦は「ヨークタウン級」のネームシップで、飛行甲板に表示された「5」は「ヨークタウン」の番号でした)

ワシントン・ロンドン体制下で建造された米海軍初の(と言い切っていいと思います)本格的艦隊空母です。ワシントン・ロンドン両条約の空母保有制限枠から算出された最大枠25000トンの船体を持ち、太平洋戦争開戦時には米艦隊の主力空母群をを構成していました。

「珊瑚海海戦」に先立ち、ドーリットル中佐の率いる16機の双発陸軍機で、最初の東京空襲が実施されるのですが、この部隊を日本近海まで運び、洋上から発進させたのは、同型艦の「ホーネット」であり、「ホーネット」護衛のためにやはり同型艦の「エンタープライズ」がエスコートしていました)

(抜粋ここまで)

 

というわけで、今回は、時系列的にいうと「珊瑚海海戦」(1942年5月)に先立って4月に実施された米軍の東京空襲(ドーリットル空襲)のお話です。

今回は日本海軍の軍艦は出てきません。ご容赦を。

 

真珠湾攻撃と日本本土空襲計画

既にご紹介の通り、1941年12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃で日米が開戦しました。真珠湾攻撃は、主力艦隊同士の決戦、という視点から見れば大成功の「漸減作戦」と言え、米海軍太平洋艦隊の主力艦(戦艦)群は近々の艦隊決戦の能力を失いました。

日米の厳然たる物量の差から、長期戦での勝機を見出せない海軍首脳としては、できるだけ早期に敵に与えた大きな打撃で戦意を挫き、講和の機会を見出すことも狙いのうちだったわけですが、その意に反して真珠湾での損害艦のサルベージが始まるか始まらないかの1942年1月から、米国首脳は日本本土への爆撃計画に着手しています。とても戦意を挫くどころではなかった、という感じですね。

 

日本本土爆撃にはいくつかの方法論が検討されますが、最終的に採用されたのは、日本近海に進出した空母から発進した陸用爆撃機による低高度進入による東京爆撃、でした。

日本本土への爆撃だけなら通常の空母艦載機による爆撃でも良かった、というか、それが当たり前かと思われるのですが、主力艦部隊に壊滅的な損害を受けたこの時点では、残された艦隊の唯一の有力な攻撃兵力と言っていいであろう空母機動部隊への危険を最小限に留めたかった、という要素も大いに働きました。つまり日本軍の反撃圏外からの空襲を実施し空母を守る必要があった、ということから、長距離の航続力を持った双発陸用爆撃機を空母から放つ、という作戦が採用されたわけです。いわゆる「アウトレンジ」です。「アウトレンジ」というと、日本海軍のマリアナ沖海戦が連想されますが、既に開戦早々、米軍は実行していたわけです。

 

実はこの辺りの経緯については映画「パールハーバー」の後半部分で詳しく描かれています。興味のある方は是非。(資料的な精度はよくわかりませんが、心理的な背景や、作戦立案の経緯などは腹落ちが良いかと思います。何より、映画としてはかなり面白いしね)

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この作戦の企図、発想の経緯を物語るシーンがこちら。

 

作戦準備

B-25の採用と改造

作戦の具体化にあたっては、使用機種の選定が行われます。

艦上機には、着艦の際に機体を制動し飛行甲板上に引き留める装具(着艦フック)が必要となるのですが、陸用双発爆撃機の場合、特に米陸軍航空隊爆撃機の主流であった機首に車輪のある三車輪式では尾部の位置が高く、これが装備できないところから、空母への帰還は計画から捨てざるを得ませんでした。日本近海から発進した爆撃機は日本本土を爆撃した後、中国大陸まで飛翔し、当時米国とともに日本と交戦状態にあった中国軍支配地域に不時着ののち、中国軍に保護される、という基本計画が立てられました。

この計画で機体が満たすべき要件としては、「2000 ポンド(約1000 kg: 250kg ×4発)の爆弾を搭載し、500フィート(150m)以下の滑走距離で発進でき、2000マイル(3200km)飛行できること」というものでした。このうち2番目の滑走距離は作戦に必要な数の爆撃機を空母の飛行甲板に搭載した際に残された発艦時の飛行甲板の距離から算出された条件で、加えて言うなら、この条件には「空母に搭載でき、空母の飛行甲板のサイズに収まること」という条件が、当然含まれているわけです。

これらを満たしうる機体として、まず当時の4発エンジンの爆撃機が条件外とされ、残された双発爆撃機の中からノースアメリカンB-25が選定されました。

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しかし、条件、特に航続距離の条件を満たすにはB-25の燃料搭載量を増やす改造が必要となり、この増設のために機体重量の徹底的な軽減も併せて検討、実施されました。

例えば防御用の機銃数の削減(尾部銃座のリモート式機銃は木製のダミーに換装されましたし、腹部銃座は撤去され燃料タンクに置き換えられています)、高高度爆撃用のノルデン爆撃照準器とこれに連動する自動操縦装置は降ろされ、簡易な照準器に変更されました。隠密作戦であるため無線機も下され、一部の防弾版も外されるなどしています。

その代わりに戦果記録用のカメラ類が搭載されたりしています。

(この辺りも、前述の映画「パールハーバー」で、ほんの少しですが語られています)

改造は24機に対して行われ、うち16機が空襲部隊として残されることになるのですが、この16機の指揮官が、機種選定を始め計画の当初から関わってきたジェイムズ・H・ドーリットル陸軍中佐で、彼が自ら部隊を率いて出撃することになりました。

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空母「ホーネット」

22機の改造B-25はまずカリフォルニア州アラメダ海軍基地で状態の好調な16機に絞り込まれ、近接埠頭まで牽引車で運ばれてクレーンで「ホーネット」に搭載されました。

こうして改造B-25、16機を搭載して、空母「ホーネット」が出撃します。「ホーネット」は前述のように「ヨークタウン」級空母の3番艦で、就役直後の新鋭艦で飛行甲板上に16機のB-25を搭載しても、約450フィート(135m)の発艦距離を確保することができました。

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(ドーリットル空襲部隊を搭載した空母「ホーネット」の概観:実はこのモデル、いつもの1:1250スケールではなく、1:1200スケールのRevell社のプラスティックモデルです。つまり少し大きいのです。海外のモデラーの方がEbayに出品されていたものを「ヨークタウン級」3隻まとめて入手したものに、搭載機位置など少し手を入れています。下の写真は、甲板上に繋止状態で搭載された攻撃隊のB-25:16機並べると結構圧巻です。右下のカットでは発艦スペースとしてどの程度の距離が残されているのか、なんとなくわかるかな、というカットです。史実では前述のように450フィート確保されていた、という記録があるのですが、1:1200スケールのモデルに換算すると、実はこのカットよりも5ミリ程度スペースが確保されていた計算になります。B-25を綺麗に整列させすぎたのかも。双発の16トンもある陸用爆撃機でも(ちなみに開戦時日本海軍の艦上機で最も重かった97式艦上攻撃機は4トン強でした)、空母が全速(25ノット以上)で「風にたて」ば、機体自体の推力との合成風力でこの程度の滑走距離で発艦させられるんだ、とちょっと感動)
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これを重巡「ヴィンセンス」軽巡ナッシュビル駆逐艦4隻が護衛して、空襲実行部隊である第18任務部隊(「ホーネット」艦長マーク・ミッチャー大佐 部隊指揮官兼任?)が編成されました。

「ホーネット」はこの作戦ではB-25を飛行甲板に繋止状態で搭載したため、これを発進させるまでは、他の艦載機は格納庫に押し込められており、ドーリットル隊を発艦させるまでは運用ができませんでした。

 

このためハルゼー中将が指揮する第16任務部隊がこの護衛にあたり、全体をハルゼー中将が指揮することになりました。(第16任務部隊 空母「エンタープライズ重巡ノーザンプトン」「ソルトレイクシティ駆逐艦4隻)

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(空襲作戦部隊の2空母:第16任務部隊の「エンタープライズ」(手前)と第18任務部隊の「ホーネット」:こちらの両空母とも、1:1200スケールのRevell社のキットです。ちなみに「ヨークタウン級」二番艦の「エンタープライズ」は艦番号「6」、三番艦の「ホーネット」は「8」でした。では「7」はというと、条約の制限枠で建造されたやや小ぶりな空母「ワスプ」が持っていました。「ワスプ」には、いずれまた登場してもらいましょう。戦時中に飛行甲板に艦番号が書かれていたかどうかは、甚だ疑問ですが、そこは「模型」ということで)

 

第18任務部隊の2隻の巡洋艦

重巡:ヴィンセンス(ニューオーリンズ重巡洋艦

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New Orleans-class cruiser - Wikipedia 

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の概観 142mm in 1:1250 by Neptune) 

主砲としては8インチ砲3連装砲塔3基を艦首部に2基、艦尾部に1基搭載するという形式は「ノーザンプトン級」「ポートランド級」に続いて踏襲しています。魚雷兵装は、「ポートランド級」につづき、竣工時から搭載していません。航空艤装の位置を少し後方へ移動して、搭載設備をさらに充実させています。乾舷を低くして艦首楼を延長することで、米重巡洋艦の課題であった復原性を改善し、32.7ノットの速力を発揮することができました。

 

軽巡ナッシュビル(ブルックリン級軽巡洋艦

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Brooklyn-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:「ブルックリン級」の概観。150mm in 1:1250 by Neptune )

本級は日本海軍の「最上級」同様、ロンドン条約保有に制限のかかった重巡洋艦(カテゴリーA)の補完戦力として設計された大型巡洋艦で、それまでの偵察任務等に重点の置かれた軽快な軽巡洋艦とは異なり条約型重巡洋艦に撃ち負けない砲力と十分な防御力を併せもった設計となっていました。

このため主砲にはカテゴリーB=軽巡洋艦に搭載可能な6インチ砲を3連装砲塔5基、15門搭載していました。同砲はMk16 47口径6インチ砲と呼ばれる新設計の砲で、59kgの砲弾を毎分8−10発発射することができました。

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重防御を施した10000トンを超える船体を持ち、33.6ノットの速力を発揮することができました。

魚雷兵装は搭載しませんでしたが、対空兵装としては5インチ高角砲を単装砲架で8基搭載していました。

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(直上の写真は、速射性の高Mark 16 15.2cm(47口径)速射砲の3連装砲塔を5基搭載しています。対空砲として5インチ両用砲を8門搭載していますが、後期の2隻はこれを連装砲塔形式で搭載していました。このため後期型の2隻を分類して「セントルイス級」と呼ぶこともあります)

 

第16任務部隊の2隻の巡洋艦

重巡ノーザンプトンノーザンプトン重巡洋艦

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Northampton-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune) 

前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」の主砲配置と航空艤装の概観。水上偵察機の格納庫はかなり本格的に見えます(中段)。同級は竣工時には魚雷を搭載していたはずですが、既にこの時点では対空兵装を強化し、魚雷発射管は見当りません) 

 

重巡ソルトレイクシティ(「ペンサコーラ級重巡洋艦

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(直上の写真は、「ペンサコーラ級」重巡洋艦の概観。143mm in 1:1250 by Neptune) 

 「ペンサコーラ級」は米海軍が初めて建造した重巡洋艦です。当初は、日本海軍の「古鷹級」と同様に強化型の軽巡洋艦として設計されましたが、建造途中にロンドン条約により巡洋艦にカテゴリーが生まれそれぞれに制限を課せられたため、「カテゴリーA=重巡洋艦」に類別されたという経緯があり、結果的に条約型重巡洋艦の第一陣となりました。

設計当初は8インチ3連装主砲塔4基を搭載する予定でしたが、艦型の大型化を抑制するために4基のうちの2基を連装主砲塔にあらためて建造されました。雷装としては53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載していました。

やや装甲を抑えめにし9100トンと列強の重巡洋艦としてはやや小ぶりながら、強力な砲兵装を有し、抗堪性に考慮を払い初めて採用された缶室分離方式で配置された主機から32.5ノットの速力を発揮することができました。

強力な兵装配置と、やや変則的な砲塔配置に伴い、トップへービーの傾向があり、復原性に課題があるとされていました。

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(直上の写真は、「ペンサコーラ級」重巡洋艦の特徴的な主砲塔配置。連装砲塔を低い位置に、3連装砲塔を背負い式に高い位置に配置しています。高いマストとも相まって、重心がいかにも高そうに見えます) 

 

日本本土空襲

1942年4月1日にサンフランシスコを出撃した第18任務部隊は、4月13日にハルゼーの第16任務部隊と合流し、18日未明に日本の漁船、小型貨物船を改造した特設哨戒艇数隻と遭遇、これを排除した後、空襲部隊を日本の東方海上の予定より遠方から発進させました。(500マイル地点からの発進予定が800マイルからの発進となったようです)

全ての機が500ポンド(250kg)通常爆弾1発、500ポンド特殊爆弾(破壊力を強化した爆弾)1発、焼夷弾2発を搭載し、16機のうち10機は東京を目標とし、横浜、名古屋には各2機が、横須賀、神戸にそれぞれ1機が向かいました。

目標直前までは超低空(20フィート=6m: 本当かな?)を飛行し、目標直前で1500フィート(450m)まで上昇して爆弾投下を行いました。

東京へ向かった1機が日本軍戦闘機の迎撃を受け爆弾を相模湾上空で投棄した他は、全て爆弾投下を成功させましたが、何機かは当初目標以外の場所を爆撃し、民間人に死傷者を出したりしています。

その後、日本上空をすり抜けて15機が計画通り中国大陸へ抜け、全て不時着、もしくは乗員の空中脱出を行い、1機がソ連領のウラジオストクに不時着しました。

計画通りの中国大陸への脱出だったのですが、発進地点が予定よりも日本本土から遠い地点となったため、不時着地点が、場所によっては日本軍の支配地域に近く、捕虜8名を出しました。(その他不時着時の死亡1名、行方不明2名)

このあたり、前出の映画「パールハーバー」の後半の山場ですね。

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(上のリンクでうまく再生できなかったら、Youtubeで "boming away on japan"で検索して見てください。

 

この爆撃では15機の襲撃機(1機は前述のように海上で爆弾を投棄)から30発の爆弾と30発の焼夷弾が投下され、日本側には死者87名、500名弱の負傷者が出ています。170棟近い建物が全壊・半壊等の被害を受けました。また横須賀で空母へ改造中の潜水母艦「大鯨」が命中弾を受け、大火災を発生、改造工期が遅れています。(ああ、日本の軍艦、出てきました!)

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(横須賀で命中弾を受け空母への改造工事の工期がのびた潜水母艦「大鯨」:当初から空母への転用を前提として設計された潜水母艦でした。結構露骨にその意図がわかる艦型をしています。下の写真は潜水母艦形態と空母への改造後の比較カットです)

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しかし攻撃隊は各機がバラバラに高速で低空侵入し奇襲をかけたため、目標の誤認も多く、決して精度の高い攻撃ではありませんでした。一部には民間人に対する射撃なども認められており、真珠湾奇襲(米側では宣戦布告前の騙し討ち、と解釈され憤慨する声も多かったようです)への報復の色合いの濃い襲撃となり、後に日本軍は民間人に対し機銃掃射を行なったとして、捕虜にした搭乗員たちのうち数名を処刑しています。

 

日本海軍は米機動部隊により撃沈された特設哨戒艇からの通報などで米機動部隊の出現を察知していながら、艦上機の襲撃圏外という思い込みが強く、空襲日時を予測できませんでした(襲撃があるとすれば、艦載機の航続力から考えて一日後の発進、と思っていたようです)。

この誤った襲撃予測のもとに迎撃態勢を整え部隊配置をしたため、空襲部隊発進と同時に反転退避した米機動部隊を捕捉できませんでした。

日本陸軍は海軍からの通報を受け警戒警報を出しましたが、高空からの空襲を想定したため低空侵入を察知できませんでした。一部の部隊は低空の襲撃機を視認しながら、低空飛行のため自軍の航空機と誤認して迎撃せず、上空通過を看過してしまったようです。

結局、対空砲も空に上がった迎撃戦闘機も、低空高速の侵入機を捕捉しきれず、一機も撃墜することができませんでした。南方作戦が展開されており、第一線部隊の多くが日本本土を離れていた、という条件も大きく働いていたかも知れません。

いずれにせよ開戦以来、米軍の空襲のおそれは予見されていながらも、準備されていた警戒態勢は全く機能していないことが明らかになり、軍首脳部に大きな衝撃が走ったことは間違いありません。

 

一方、開戦以来、真珠湾での大損害、日本軍の順調な南方進出、その過程でのフィリピン、グアム島ウェーク島の失陥等で沈滞していた米国民の戦意は大きく回復されてゆきます。

「俺たちがやるのは奴らの心臓へのひと突きだ」映画「パールハーバー」の中で日本海軍の真珠湾奇襲の規模と比べて、これで良いのかと首を傾げる隊員に対して指揮官のドーリットルがつぶやくひとことです。映画ではあるのですが、いかにもアメリカ人の言いそうな一言です。

この作戦で捕虜となった8名、戦死した1名、行方不明の2名、ウラジオストクに不時着しソ連に抑留された8番機の6名を除く43名は、中国の友軍と接触し本国に帰還しています。指揮官のドーリットル中佐はこの作戦の功績により7月に准将に昇進し、以後北アフリカ戦線で指揮をとったりしています。

ソ連に抑留された6名は、その後イラクに脱出し1943年にアメリカに帰還しています。

 

「東京奇襲」という書籍

朝日ソノラマ航空戦史文庫から「東京奇襲」という本が出ています。

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(古書での流通ですが、結構値段がこなれていて手に入れやすい本です)

こちらドーリットル隊の7番機の機長であったローソン大尉の手記という体裁で出された本で(著者はローソンとなっていますが、実際にはローソンを取材した記者が編集した本のようです)、戦時中に戦意高揚本として1942年に米国で出版されている本です。冒険小説として読んでも結構面白い。おすすめです。

さらにこの本を下敷きにして「東京上空30秒」という映画が制作せれています(こちらはまだ見ていないので、なんとも)

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(こちらは未見なのでなんとも言えませんが、Youtubeにアップされている下のTrailerを見る限りでは見てみても良いかな、という感じですね。1944年、つまりまだ戦争中にこんな映画を撮っていたんですね。ちょっとびっくり)

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ということで、「ヨークタウン級」空母を発端とする「番外編」はこの辺りで終了です。

次回はいよいよ「ミッドウェー海戦」を。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

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