相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

新着モデル(完成編:その1):架空防空巡洋艦とそのバリエーション

前回、新着モデルをいくつか紹介しましたが、今回は「完成編、その1:防空巡洋艦編」です。

ですので、今回も(多分、次回も)巡洋艦発達小史はお休みです。(でも、発達小史の「if」艦部門として楽しんでもらえれば・・・。と、これは手前勝手なお願いです)

 

日本海軍の防空巡洋艦(If艦)

実はあった、防空巡洋艦建造の計画:815号型防空巡洋艦

少しおさらいも含めて。

本級は、日本海軍が、海軍の主戦力の航空化を踏まえて、空母機動部隊等、主力部隊の艦隊防空の専任艦として開発した防空巡洋艦という設定です。「軽巡洋艦クラスの船体に、日本海軍の最優秀対空砲といわれた「長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)」を連装砲塔で12基搭載する、という仕様になっています。米海軍の「アトランタ級軽巡洋艦、英海軍の「ダイドー級軽巡洋艦、と同じカテゴリーに属し、主として艦隊防空の要を担う軍艦です。日本海軍の「秋月級」駆逐艦の拡大型、というべきかも」と前回紹介しました。

それに続けて、前回、同様の艦種の計画があった、という公式の情報は見たことがなく、おそらくは「架空艦」「if艦」と言っていいと思う、という記述をしたのですが、実は日本海軍には「815号型軽巡洋艦」という設計案が昭和17年度艦船補充第1期計画(通称マル五計画)において計画されていたことが分かりました。

(また、一つ発見。実はこのブログを始めてから、これまでに考えたことがなかった事柄(例えば日本海海戦での「東郷ターン」や「T字を切った」)や、あまり詳しくなかったこと(例えば速射砲の射撃速度、魚雷の発達史)について、ずいぶん勉強させていただきました。そういう意味では、毎回何某かの発見があります。純粋に個人的な楽しみのあり方としては、本当にありがたいことだと、心から実感しています。そういう意味でも、もっと、「おい、こんな情報あるぜい」とか、「ちょっとその解釈、無理がないかい」など、ご指摘いただけると、本当にありがたいのですが)

 

815号型軽巡洋艦は、主力艦直衛の防空巡洋艦という設計で、5800トンの船体に65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)を連装砲塔で4基搭載するという設計だったようです。

ja.wikipedia.org

「マル五計画」自体がミッドウェー海戦の敗北で見直され、この計画は立ち消えになったのですが、その主要な仕様は、「秋月級」駆逐艦へと継承されたと考えられます。

 

防空巡洋艦:名前がないと進めにくいなあ

さて、今回ご紹介する「防空巡洋艦」は「阿賀野級軽巡洋艦よりはひと回り小ぶりな外観をしており、上記の「815号型軽巡洋艦」では計画に盛り込まれていた水上偵察機2機搭載の航空艤装や魚雷装備が廃止された代わり65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)を連装砲塔で12基も搭載するという、より艦隊直衛に特化した設計になっています。日本海軍が常に拘った雷装が放棄された辺りの割り切りも含め、やはり「架空艦」と言っていいように思います。www.shapeways.com

 

ということで、まずは艦級名の話を。

同級は艦隊防空の専任艦として設計され、**年度艦船補充計画(正史でいけば17年度ですが、本稿のやや後ろ倒しで始まった太平洋戦史に則れば19年度でもいいのかも)で、10隻の建造が決定されました。慣例として二等巡洋艦軽巡洋艦)には、「川」の名前が与えられたとこところから、1番艦には「高瀬」の名が与えられました。以後、同型艦には「鳴瀬」「綾瀬」「早瀬」「平瀬」「嘉瀬」「初瀬」「白瀬」「渡良瀬」「水無瀬」などが予定されていました。

 

ということで、艦級名は「高瀬級」

ここからは「架空艦」ならではの「if」ストーリー。

「高瀬級」軽巡洋艦では、対空砲兵装の充実のために、前述のように航空艤装や雷装が廃止され、他の構造物はできるだけ軽量化が図られ、例えば艦橋構造は、駆逐艦の様な簡素な塔構造とされています。

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(直上の写真は、防空巡洋艦「高瀬級」の概観を示したもの。138mm in 1:1250  C.O.B Constructs and Militarys製 素材はSmooth Fine Detail Plastic)

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(直上の写真は、「高瀬級」と「阿賀野級」の概観比較。「阿賀野級」が一回り大きい。「阿賀野級」141mm in 1:1250 by Neptune :「高瀬級」では、上部構造物が簡素化され、軽量化への工夫が見て取れます)


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(直上の写真は、「高瀬級」と同様の設計思想で建造された「秋月級」防空駆逐艦の概観比較。

ja.wikipedia.org

やはり軽巡洋艦だけあって「高瀬級」の大きさが目立ちます。艦橋構造は類似しているのが見ていただけると思います。「秋月級」防空駆逐艦:   117mm in 1:1250 by Neptune)

 

65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)

同級の最大の特徴は、その主砲を、高角砲機能を中心に据えた両用砲としたところにありますが、搭載する65口径長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)は、日本海軍の最優秀対空砲と言われた高角砲で、18700mの最大射程、13300mの最大射高を持ち、毎分19発の射撃速度を持っていました。これは、戦艦、巡洋艦、空母などの主要な対空兵装であった12.7cm高角砲(八九式十二糎七粍高角砲に比べて射程でも射撃速度でも1.3倍(射撃速度では2倍という数値もあるようです)という高性能で、特に重量が大きく高速機への対応で機動性の不足が顕著になりつつあった12.7cm高角砲の後継として、大きな期待が寄せられていました。

ja.wikipedia.org

同様の艦隊防空と言うコンセプトで米海軍が建造した「アトランタ級軽巡洋艦の主砲であったMk 12  5インチ両用砲と比較してみると、射程でも射高でもこれを上回り、射撃速度はほぼ同等、しかし口径の差から弾丸状量が長10cm高角砲の13kgに対し、5インチ砲は25kgとほぼ倍で、両用砲搭載艦同士の砲戦となった場合には、射程を利用した最大射程での命中弾を期待するしかなく、不利は否めなかったと言わざるを得ないでしょう。

 

同級の建造と、設計変更

ここからは「架空艦」ならではの「if」ストーリー。f:id:fw688i:20200524120213j:plain

上掲の写真のように、12基の連装対空砲塔を、艦首部に3基、艦中央に6基、艦尾部に3基と、多数配置し対空兵装の充実を目指した「高瀬級」でしたが、しかしどう贔屓目に見ても兵装過多、トップヘビーで、高速で転舵などすると、傾斜が想定以上に大きく、射撃等にも影響が出るなどの事象が発生し、次期改装期には艦首部の1番、および艦尾部の12番砲塔を撤去するなどの対策が検討されていました。未成に終わった5番艦・6番艦では最初から主砲塔を2基減じた設計に変更されていた、とも言われています。

 

更に、戦況が進むにつれ、水雷戦隊旗艦を務めていた「5500トン級」軽巡洋艦の中から戦没艦が生じ始めます。それ以前に「5500トン級」軽巡洋艦は海戦当時すでに旧式化しており、特にその搭載主砲は旧式な単装砲郭式であり、かつ対空戦闘能力も低く、昼間の出撃では「5500トン級」は 戦闘に耐えないとして、旗艦を駆逐艦に変更する戦隊指揮官も現れるほどでした。これを補うのが「阿賀野級軽巡洋艦だったのですが数が揃わず、すでに2隻が完成し、6隻が着工、あるいは起工寸前だった「高瀬級」も、この候補として検討され始めます。

しかし、既述のように、同級の主砲、長10cm高角砲は対水上艦戦闘では非力と言わざるを得ず、また水雷戦隊旗艦としては雷装を保有しないのは適性が低いなど、用兵側から、同級の搭載砲等の兵装に対する見直しが要求されます。こうして、「改高瀬級」汎用軽巡洋艦が設計されることになります。

 

「改高瀬級」汎用軽巡洋艦の建造

同級は船体や機関など「高瀬級」の基本設計はそのままに、高角砲(両用砲)の搭載数を半分にして、水上戦闘にも耐えるように主砲として3年式60口径15.5cm砲を連装砲塔3基に搭載することが計画されました。

この砲は元々はワシントン・ロンドン体制で重巡洋艦保有数を制限された日本海軍が、列強の重巡洋艦の8インチ砲にも対抗できるように「最上級」軽巡洋艦の主砲として開発された砲で、「最上級」が条約切れに伴い8インチ砲に主砲を換装した後は、「大和級」戦艦の副砲に転用されました。27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。「最上級」「大和級」では、これを3連装砲塔で搭載していましたが、「高瀬級」の船体に合わせて、新たな連装砲塔が開発されました。

75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありましたが、毎分5発程度の射撃速度では、対空砲としての実用性には限界がありました。

ja.wikipedia.org

 

加えて「5500トン級」軽巡洋艦に代わる水雷戦隊旗艦としての運用に期待を寄せる用兵側の強い要求で、魚雷装備が復活され、61cm4連装魚雷発射管を2基、次発装填装置付で搭載することとなりました。

優れた基本設計で、なんとかこれらの要求には応えたものの、この辺りが限界で、流石に航空艤装の搭載は諦めざるを得ませんでした。f:id:fw688i:20200524115833j:image

(直上の写真は、「改高瀬級=渡良瀬級」軽巡洋艦の概観を示したもの。基本設計は「高瀬級」の設計に準じたものの、射撃管制等により艦橋がやや大型化しているのが分かります。138mm in 1:1250  C.O.B Constructs and Militarys製 素材はWhite Natural Versatile Plastic)

 

設計決定後、同級の建造は最優先となり、「高瀬級」の建造は4隻でいったん休止されます。こうして建造された1番艦には「高瀬級」の艦名予定リストから「渡良瀬」の名が与えられました。

 

「渡良瀬級」と命名

艦名は「渡良瀬」「水無瀬」とされました。

本来の計画では、「高瀬級」は10隻が建造される予定で、うち8隻が着工、4隻が「高瀬」「成瀬」「綾瀬」「早瀬」として就役、最も着工の遅かったの2隻が大掛かりな設計変更の末「改高瀬級=渡良瀬級」として建造を優先的に継続され、「渡良瀬」「水無瀬」として完成されました。

着工済みだった残りの2隻は、「渡良瀬級」に準じて設計を変更するには工事が進みすぎており、中間的な位置付けの設計変更での対応を模索する中、戦況の激化で完成されませんでした。 

 

(直下の写真は、「高瀬級」防空巡洋艦(左列)と「渡良瀬級」軽巡洋艦(右列)の主要箇所比較。上段:艦首部の主砲配置の比較。中段:艦橋構造と中央部の対空砲配置の比較(「渡良瀬級」の艦橋が射撃管制等の必要性から大型化しているのが分かります。下段:艦尾部の比較(「渡良瀬級」では魚雷装備が復活されました。艦中央部の上部構造物内に次発装填機構が組み入れれれています)

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こうして完成された「渡良瀬級」軽巡洋艦は、兵装面だけをみると「阿賀野級」よりもはるかに強力で、これを「阿賀野級」よりもひと回り小さな船体に搭載し、原型である「高瀬級」同様に船体重心を下げるために極限まで簡素化された上部構造を持ったため、その居住性は劣悪だったと言われています。それでもやはりトップヘビーは避けられず、そのため次期の改装では6基の高角砲のうち2基を機銃座に換装し軽量化を図るなどの対策が検討されていたと言われています。

また、現場の運用場面では、夜戦想定の出撃の場合には、高角砲の砲弾を定数の6割程度に抑えて軽量化を図り出撃した、とも言われています。

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(直上の写真では、「渡良瀬級」軽巡洋艦(手前)と「阿賀野級軽巡洋艦の概観を比較。「渡良瀬級」がひとまわり小さいことがよく分かります。

直下の写真では、両級の主要な部分を比較しています。上段:前部主砲塔と艦橋の配置(「渡良瀬級」の搭載主砲の方が新しく強力です。一方、艦橋は「渡良瀬級」では簡素化され、一見、駆逐艦の艦橋構造のようです)中段:艦中央の構造比較(「渡良瀬級」では航空艤装に代えて対空兵装を充実しています)下段:艦尾部の比較(「阿賀野級」では魚雷兵装は搭載水上偵察機の整備甲板の下に設置されています))

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「渡良瀬級」汎用軽巡洋艦の製作

前回のほぼ再掲です。

当初から、防空巡洋艦のバリエーション制作の予定で、加工適性の高いWhite Natural Versatile Plastic製のモデルを発注しておきました。f:id:fw688i:20200516145042j:image

(上掲の写真の奥がm加工適性の高いWhite Natural Versatile Plastic製のモデル。下のリンクは)

 

併せて、主砲の換装用に、15.5cm連装砲塔も入手しておきました。

(今回使用した3年式60口径15.5cm砲連装砲塔は左)

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www.shapeways.com

これらの加工工程が以下です。

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まず、上段の写真がオリジナルのモデル。中段では、艦首部と艦尾部の主砲塔群を切除。そして下段では、前後の砲塔群の跡に15.5センチ連装砲塔を搭載、そして小さなパーツをちょこちょこ追加。まあ数時間でこの程度の作業ができちゃうところが、筆者のように時間がない者にとっては(場所もないのですが)、とっても嬉しいところ。(下段写真の少し黄色っぽく見える部分は、砲塔群切除の際にやや削りすぎた上甲板部をパテで補修した跡です)

この後、サーフェサーを塗布し下地処理をした後、塗装しています。まさに「戦時急造艦」ですね。

 

その戦歴は・・・

こうして、空母機動部隊の直衛艦として建造された「高瀬級」、加えて水雷戦隊旗艦としても期待された「渡良瀬級」だったわけですが、完成した順に戦況の激化する中部ソロモン諸島の戦場に投入されました。

特に第2次ショートランド沖夜戦では、輸送部隊の支援任務で出撃した新編の第26戦隊の「渡良瀬」と「鳴瀬」「綾瀬」が、補給阻止のために周辺海域を遊弋していた米巡洋艦部隊(重巡2:ニューオーリンズ級、軽巡3:アトランタ級2隻とブルックリン級1隻)と遭遇戦を展開。旗艦「渡良瀬」が大破し、「鳴瀬」を失いながらも、米軽巡1を撃沈し、重巡2、軽巡1を大破という戦果を収めています・・・的な。

(直下の写真は、第2次ショートランド沖夜戦に出撃した第26戦隊の「渡良瀬」(手前)と「鳴瀬」)

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(直下の写真:第2次ショートランド沖夜戦で日本艦隊の補給作戦阻止に現れた米巡洋艦部隊。手前から、「アトランタ級軽巡洋艦、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦、「ブルックリン級」軽巡洋艦
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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の概観 142mm in 1:1250 by Neptune) 

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(直上の写真は、「アトランタ級軽巡洋艦の概観。131mm in 1:1250 by Neptune:今回ご紹介した「高瀬級」軽巡洋艦と、ほぼ同じ設計思想で建造されました) 

これらの艦級については、本稿「巡洋艦発達小史(その4)でご紹介しています。そちら回せて楽しんで下ると幸いです

fw688i.hatenablog.com

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(直上の写真は、「ブルックリン級」軽巡洋艦の概観。148mm in 1:1250 by Neptune:同級は日本海軍の「最上級」軽巡洋艦と同様、ワシントン・ロンドン体制下での重巡洋艦保有制限対策として、1万トン級の大型の船体を持ち、一方で重巡洋艦とみなされない6インチ砲を主砲として装備し他軽巡洋艦として設計されました。

ja.wikipedia.org

重巡洋艦との砲戦を想定しているため、重巡洋艦以上に重防御で、この強靭さと、速射性が高く長射程を持った6インチ主砲での手数の多さで、相手重巡洋艦を圧倒する設計でした。 本級は7隻が建造され、対空砲を連装砲塔とした「セントルイス級」2隻、3連装主砲塔を1基減じ、代わりに連装対空砲塔を2基増設した「クリーブランド級」等の派生系を有しています)

 

実は今、今回ご紹介した防空巡洋艦の同じモデルを2隻、Shapewaysに追加発注しています。 

もう少し、バリエーションを考えて遊んでみます。その際にはまたお付き合いのほどを。

 

という訳で、今回はここまで。

次回は、前回ご紹介したもう一つの新着モデル「レキシントン級巡洋戦艦オリジナルデザインと、それに刺激されて制作中(改装中?)の「レキシントン級」籠マスト+巨大集合煙突デザイン案のご紹介を予定しています。少しネタバラシをしてしまうと、これで一応「レキシントン級」のデザインバリエーションは全て揃いますので、その辺りのお話を。(もう一回、人気投票も?)

巡洋艦発達小史は、いずれは再開しますので、お見捨てなきよう)

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」については、お付き合いいただいている皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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新着モデルのご紹介:あの未成巡洋戦艦オリジナルデザインや架空防空巡洋艦など(架空防空巡洋艦の艦名募集中)

新着モデル到着

今回は、巡洋艦発達小史は、ちょっと一息。

一休みして、昨日、いつもお世話になっている3D Printing の Shapewaysからモデルが届きましたので、そちらをご紹介します。

何度か紹介しているので、既にご存知の方も多いと思いますが、Shapewaysはオランダにある3D Printingの、おそらく世界最大手の出力センターで、デザイナー、製作者はここのデータベースにデータを預け、筆者のような依頼者からの依頼を受けることになります。その扱い商品は実に多岐にわたっていて、昨今は Corona対策のマスクや、機器のパーツなども扱っているようです。興味がある方は是非こちらを。

www.shapeways.com

 

筆者は、もちろん主として1:1250や1:144のスケールモデル、あるいはスター・トレック関連の模型などを調達することが多いのですが、こうしたミニチュアですと、多分、出力まで(つまりモデルが完成するのに)おおよそ1週間、そしてオランダから日本への配送が、同じく1週間、都合、2週間から3週間で手元に届く、という感じでしょうか。

デザイナーによって力を入れている分野が違ったりするので、それを整理しながらいろいろとみて見るのも、大変楽しいですよ。「ああ、この人は、この分野に強いんだなあ」とかね。

 

巡洋艦はお休み」と言っても、巡洋艦を離れてしまうわけではなく、到着したモデルの全ては「巡洋艦巡洋戦艦」で、巡洋艦飽きちゃった、というわけではありませんので、ちょっと軽い寄り道的な脱線に、ご容赦を。

 

レキシントン級巡洋戦艦(オリジナルデザイン)

以前、本稿でレキシントン級巡洋戦艦については「巨大集合煙突デザイン」のモデル制作をご紹介しましたが、今回は、そのオリジナル・デザイン案のモデルを入手しました。

fw688i.hatenablog.com

 

レキシントン級巡洋戦艦は、ダニエルズプランで建造に着手された、米海軍初の巡洋戦艦の艦級です。着工はされましたが、その後、ワシントン軍縮条約で制約、整理の対象となり、同級のうち2隻(「レキシントン」「サラトガ」)が転用され、大型の艦隊空母として完成されました。

つまり巡洋戦艦としては、同級はいわゆる「未成艦」に分類されるわけですが、その「未成」故に完成時の姿を想像することは、大変楽しいことです。

本稿の上記回でのご紹介も、そもそも発端は、空母「レキシントン」の巨大な煙突からの妄想でした。この煙突がついている主力艦は、どんな感じだったろうか、作っちゃおうか、という訳です。で、その巨大な煙突の背景には大きな機関があり、元々は7本の煙突が初期の設計段階では予定されていたことを知る訳です。

レキシントン級巡洋戦艦のオリジナル・デザインでは、34300トンの船体に、当時、米海軍主力艦の標準主砲口径だった14インチ砲を、3連装砲塔と連装砲塔を背負式で艦首部と艦尾部に搭載し、35ノットの速力を発揮する設計でした。

その外観的な特徴は、なんと言ってもその高速力を生み出す巨大な機関から生じる7本煙突という構造でしょう。

モデルは、Masters of Miitaly社製で、White Natural Versatile Plasticでの出力を依頼していました。

(直下の写真は、到着したレキシントン級巡洋戦艦のモデル概観。Masters of Miitaly社製。素材はWhite Natural Versatile Plastic)

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上記、ご紹介した回で行った「レキシントン級デザイン人気投票」では、「籠マスト+巨大集合煙突デザイン」に継ぎ第二位という結果で、私も大変気になりながらも、14インチ砲搭載艦というところに少し引っかかりがあり(あまりたいした理由はないのですが、この巨体なら16インチ砲だろう、という思いが強く)、なかなか手を出していなかったのですが、この人気投票に背中を押してもらった感じです。

www.shapeways.com

原案設計の当時には、米海軍の主力艦標準備砲ということで14インチ砲搭載の予定だったのですが、その後、日本の八八艦隊計画が「全て16インチ砲搭載艦で主力艦を揃える」という設計であることを知り、急遽16インチ砲搭載に設計変更した、という経緯があったようです。

写真でご覧いただけるように、モデルは非常にバランスの取れたプロポーションを示しています。どこか手を入れるとしたら、当時の米主力艦の特徴である「籠マスト」かなあ、とは思いますが、さてどうしましょうか?おそらくこのままストレートに仕上げることになるとは思いますが・・・。

 

重巡洋艦「摩耶」最終形態

次にご紹介するのは、前回ご紹介した「高雄級」重巡洋艦の4番艦「摩耶」の最終形態の模型です。「摩耶」はラバウル空襲で大破した後、内地に回航され修復と防空巡洋艦への大改装を受けました。具体的には3番砲塔を連装対空砲2基に換装し、さらに対空機銃座を増設する、という当時の米艦載機優位の戦況を色濃く反映したものでした。

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 (直上の写真:「摩耶」の最終形態。Tiny Thingamajigs製 素材:Smooth Fine Detail Plasitic すみません、スケールは1:1800です。再三に渡り、スケール変更(1:1250)を依頼してきたのですが、今回は返事をいただけず、やむを得ず、という感じです。このデザイナーさん(?)、製作者さんは、これまで何度も筆者からのスケール変更のお願いには、いつでも快く対応してきてくださっただけに、今回の対応(無反応)は、Coron aの状況等考えると、少し不安になってきます。大変なことになっていないことを祈るのみです

www.shapeways.com

こちらは、普段よりも小さなスケールなので、特に手を入れることはせず、ストレートに仕上げてみる予定です。

 

日本海防空巡洋艦

さて、次は「架空艦、If艦」です。

日本海軍の防空巡洋艦という設定で、軽巡洋艦クラスの船体に、日本海軍の最優秀対空砲といわれた「長10センチ高角砲(九八式十糎高角砲)」を連装砲塔で12基搭載する、という仕様になっています。米海軍の「アトランタ級軽巡洋艦、英海軍の「ダイドー級軽巡洋艦、と同じカテゴリーに属し、主として艦隊防空の要を担う軍艦です。日本海軍の「秋月級」駆逐艦の拡大型、というべきかも。

これまでに、筆者はこのような設計案があったとか、そういう具体的な「公式」の情報に触れたことはありません(発想としては、何度かこれに類するアイディアには触れた記憶はありますが)。おそらくは全くの架空艦と言って良いと思います。(もしどなたか、「そういう計画はあったらしいよ」などの情報をご存知の方、是非お知らせください)

(直下の写真:防空巡洋艦の概観。C.O.B Constructs and Militarys製 素材はSmooth Fine Detail Plastic 製作者がこのモデルに付けた名前は「Taiseiyo=大西洋」!? このネーミングは・・・???)

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www.shapeways.com

 

前述のように、筆者にとっては、全くの架空艦とはいえ、設計思想もデザインも、いかにも在りそうな「虚実のバランス」がなんとも言えず良いなあ、と思っているモデルです。それにしても製作者のつけた「大西洋」というネーミングはどうにもいただけません。どういうセンス?なんか良い名前を考えねば。

(直下の写真:まさに「ハリネズミのように」搭載された九八式十センチ高角砲連装砲塔の配置。砲身を別素材に置き換えたりしたくなりそうですが、結構、小さいので、多分、一度このまま仕上げてしまいましょう。それでも我慢できなかったら、何か考えてみ流ことにします)
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実はこのモデル、上の写真のSmooth Fine Detail Plasticとは別にWhite Natural Versatile Plastic素材のモデルも出力を依頼しておきました、

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以前、本稿で3D printingの素材特性についてご紹介しています。

fw688i.hatenablog.com

その中でこんなコメントをしているのですが、

3D Printing 出力素材比較:仕上がり以外にも検討すべき点があるかも?

もう一点、素材選びの際に比較的重要なポイントがあります。実は前出の「たかつき」級護衛艦のモデルストックは、すでに「たかつき」級の護衛艦の模型はHai社製のものがありましたので、いずれは加工して架空艦を作成する際の素材として入手したものです。その際には切ったり、削ったりが必要になるのですが、加工の種類によっては、White Natural Versataile Plasticの方が粘性が強く、切断等の作業には適性が高いかもしれません。一方で、Smooth Fine Detail Plasticは、硬度が高く、研磨等の作業には適性が高いかもしれません。もちろん作業者の得手不得手も吟味して、選択して頂ければと考えます。つまり、高ければいい(基本はそうなのだけれど)、と言うわけではない、と言うことです。

 で、今回、White Natural Versatile Plastic素材のモデルも出力を依頼しておいた理由は、つまり、このモデルをベースとして「切った貼った」をしたかったから、という事です。

 

防空巡洋艦:「切った貼った」野望編

今回、同時に下の写真の砲塔も出力依頼をしていました。

(下の写真:ちょっとわかり難いのですが、左が60口径15.5糎砲連装砲塔(60口径と記載されていますので、阿賀野級軽巡洋艦が搭載した50口径15.5センチ砲ではなく、最上級や大和級戦艦の副砲に使われた15.5センチ砲の連装砲塔版ということになりますね)、右が「高雄級」重巡洋艦に搭載された3年式50口径8インチ連装砲塔版です。この二つ、ほとんど見た目の大きさは変わりません。しかし、よーくみると砲身の太さが違うし、砲塔の下のリンク部分の付け根の造作が異なっています。さらに砲塔の厚みが微妙に違う(ように見えるような気がしてくるだけかも)。製作者はdiStephan 3D print 素材はSmooth Fine Detail Plasticです。なぜかこの製作者、1:1250スケールでは、日本海軍の武装が中心です。もっとも、力を入れていらっしゃるのはもっと大きなスケールの艦船武装パーツのようですが。大スケールのパーツにはあまり用がないのですが、でも、見ていると結構面白い。ああ、これは「アレ」だな、と発見があったり、「ああこんな形をしているんだ」と気づきがあったり)

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www.shapeways.com

この武装パーツを見た際に、これ利用して、防空巡洋艦のバリエーションの「切った貼った」をやっちゃおう、という「野望」がむくむくと湧き上がった、という訳です。

 

汎用軽巡洋艦の作成

で、「切った貼った」の成果、途中経過が以下。

まず、上段の写真がオリジナルのモデル。中段では、艦首部と艦尾部の主砲塔群を切除。そして下段では、前後の砲塔群の跡に15.5センチ連装砲塔を搭載、そして小さなパーツをちょこちょこ追加。まあ数時間でこの程度の作業ができちゃうところが、筆者のように時間がない者にとっては(場所もないのですが)、とっても嬉しいところ。(下段写真の少し黄色っぽく見える部分は、砲塔群切除の際にやや削りすぎた上甲板部をパテで補修した跡です)
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「**年次計画で、日本海軍は空母機動部隊の艦隊防空の要となる10隻の防空巡洋艦の建造を計画した。同艦級は九八式十糎高角砲24門をその主要武装とする予定であった。しかし、建造決定後、用兵側からの強い要求で、うち4隻は従来の軽巡洋艦の基幹任務である水雷戦隊の旗艦としても運用できるように、15.5センチ砲を主砲とし、併せて雷装も保有する重装備の汎用軽巡洋艦として再設計された。戦局の激化で防空巡洋艦としては4隻が完成し、汎用軽巡洋艦としては2隻が完成した」というようなカバーストーリーでしょうか?ソロモン諸島あたりで、「駆逐艦部隊の鼠輸送に支援部隊として出撃。阻止を目論み出撃してきた米巡洋艦隊と夜間遭遇戦を展開し・・・・」と米海軍の「アトランタ級」や「ニューオーリンズ級」と夜戦をやらせてみたくなりますね。

 

さて、なんて名前にしようかな。

ネーミング、募集します。

防空巡洋艦と汎用軽巡洋艦、それぞれに・・・。

通常なら、当然「川」の名前から、でしょうね。あるいは、もっと別角度からのアイディアがあれば、是非、教えてください。(「コメント」を利用してお知らせいただけると、「感謝、感謝」です)

 

ということで、今回はここまで。さあ、下地処理をしなくっちゃ。パテは乾いたかな?

 

次回はこの完成編、あるいは巡洋艦発達小史の続きか、はたまた・・・、ちょっと作業次第ですね。

 

お仕事の方はWork From Homeでずっと家にいるのですが、意外と(というか、ありがたいことに、と言うべきでしょうか)高密度で忙しく、毎日、模型を触りながら、という訳にはいきません。

 

模型に関するご質問等は、大歓迎です。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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日本海軍巡洋艦開発小史(その6) 重巡洋艦の決定版登場 そして第一次ソロモン海戦

最後の条約型一等巡洋艦

期せずして、巡洋艦にカテゴリーA(重巡洋艦)と言う区分を設け、その保有数が制限されるロンドン体制のきっかけとなった「妙高級」重巡洋艦でしたが、いわゆる「平賀デザイン」巡洋艦の頂点として重武装コンパクト艦を実現する一方で、様々な課題を内包していた事は、本稿で既述した通りでした。

これに対する「解」として設計されたのが「高雄級」重巡洋艦だったわけなのですが、この艦級の建造により、日本海軍のカテゴリーA(=重巡洋艦=一等巡洋艦)の保有枠は制限一杯となり、以降の巡洋艦は全てカテゴリーB(=軽巡洋艦=二等巡洋艦)として設計されました。

つまり、本級が、日本海軍が設計した最後のカテゴリーAとなったわけです。

 

重巡洋艦の集大成

高雄級重巡洋艦 -Takao class heavy cruiser-(高雄:1932-終戦時残存/愛宕:1932-1944/鳥海:1932-1944/摩耶:1932-1944)   

ja.wikipedia.org

Takao-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の概観。 165mm in 1:1250 by Konishi )

 

「高雄級」重巡洋艦は、基本的に前級「妙高級」の改良型として設計されました。しかし設計は平賀譲の手を離れ、その後継者と目される藤本喜久雄(当時造船大佐)によるものでした。前回「妙高級」でも触れましたが、平賀譲は造船家として優れた設計思想をもち、その設計した軽巡洋艦「夕張」、「古鷹級」巡洋艦、「妙高級」重巡洋艦など、海外から大きな脅威として見られたシリーズ(この一連のシリーズに対する脅威から、主力艦に保有制限を設けたワシントン体制から、補助艦艇にも保有制限を設けるロンドン条約が生まれたほどです)を生み出した反面、「不譲=譲らず」の異名をつけられるほど自説に対する自信が強く、時に用兵者の要求も一顧だにせずはねつける、あるいは「完成形」を求めるあまり工数、費用、量産性などを考慮しないなど、毀誉褒貶の激しい人物でした。この為、海軍の造船中枢からは外されてしまいました。 

前級との主な差異は、主砲口径を最初から条約制限上限の8インチ(20.3cm)とし、連装主砲砲塔5基の配置形態はそのままにして、前後の配置間隔を詰めることにより集中防御を強化したこと、新砲塔の採用により主砲の仰角をあげ、対空射撃能力を主砲にも持たせ、これにより高角砲の搭載数を減じたこと、そして何より被弾時の誘爆損害が大きな懸案だった船体内に装備された魚雷発射管を上甲板上に装備する配置に変更したことが挙げられるでしょう。

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の特徴をクローズアップしたもの。巨大な艦橋(下段左)。単装高角砲と、設計時から上甲板上に設置された魚雷発射管:新型砲塔の採用で主砲の仰角を上げることで対空射撃にも対応できる設計として、単装高角砲は前級の6基から4基に減じられています(上段)。拡充された航空艤装:設計当初からカタパルトを2基搭載していました(下段右))

 

航空艤装も強化され、前級までは1基だったカタパルトを2基装備にすることにより、水上偵察機の運用能力の向上が図られました。

一方で、上記の「平賀はずし」の経緯の反動で、用兵側の要求に対する異論が唱えにくい空気が醸成されたことも事実で、それが戦隊(艦隊)旗艦業務などに対応する為の艦橋の著しい大型化などとなって現れ、高い重心から「妙高級」に対しやや安定性と速力で劣る仕上がりとなりました。

 

大改装

同級のうち「高雄」と「愛宕」は、1939年から数次にわたる改装を受けました。

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(直上の写真は、「高雄級」:大改装後の概観。by Konishi )

 

課題であった艦橋の若干の小型化とバルジの大型化による復原性(安定性)の改善、航空艤装の変更(格納庫を廃止し、基本、搭載機の甲板係留としました。整備甲板を増設し、配置を変更、水上偵察機の搭載定数を2機から3機に増加しています)、魚雷発射管の連装発射管4基から4連装発射管4基への換装、高角砲を正12cm単装砲4基から5インチ連装砲4基8門に強化したことなどが挙げられます。 

この最後の高角砲の強化については、竣工時の設計では既述のように新砲塔の採用で主砲に対空射撃能力を付与することによって高角砲の搭載数を前級「妙高級」よりも減じた同級だったのですが、8インチ主砲での対空射撃では射撃間隔が実用に耐えず、結局高角砲を強化せざるを得なかった、という背景がありました。

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の概観比較。舷側の大きなバルジの追加が目立ちます。さらに、航空艤装の構造が変更され、後檣の位置が変わっています)

 

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の変化をもう少し詳細に見たもの。左列:艦橋が小型化してます。写真ではちょっとわかりにくいのですが、かなり大幅な小型化です。一段低くし、同時に簡素化が行われた、と言う表現がいいでしょうか?時折「最上級」に倣って、と言うような表現も目にしますが、それはちょっと言い過ぎかと。右列:高角砲は連装に変更されています。主砲での対空射撃は、構想としては両用砲的な活用の発想で、意欲的ではありましたが、射撃速度と弾速が航空機の速度を勘案すると実用的ではなかったようです。そのため、高角砲自体を強化する必要があったようです。高角砲甲板の下の魚雷発射管については、配置自体には変更は見られませんが、発射管を連装から4連装に強化しています)

 

「摩耶」の防空巡洋艦

「摩耶」は上記の大改装を受けずに太平洋戦争に臨みましたが、1943年ラバウルで米艦載機の空襲で被弾大破。その修復の際に3番主砲塔を撤去し、連装対空砲を2基増設し6基12門、さらに対空機銃多数を増設し、防空巡洋艦化を行いました。この際に、復原性改善の為のバルジ増設、魚雷装備の換装なども併せて行っています。

(この状態での模型が、今、手元にありません。模型自体はNeptuneから市販されています。入手次第、公開します。ご容赦を)

 

その戦歴

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(直上の写真は、太平洋戦争開戦時の第4戦隊。手前から「愛宕」「高雄」「鳥海」「摩耶」。舷側のバルジの有無と、後檣の位置で判別できます。同級は、その設計時に旗艦設備を組み込んだ大型艦橋をもたされていたため、他の艦隊への派出が相次ぎ、なかなか4隻揃って出撃する、と言う機会がありませんでした。1944年10月のレイテ沖海戦には、第2艦隊の旗艦戦隊として、4隻揃って出撃しましたが、出航翌日、うち3隻が米潜水艦の攻撃で被雷。2隻が沈没し、1隻が戦列を離れてしまいます)

 

「高雄」:太平洋開戦時には、南方作戦全般の指揮をとる第2艦隊(近藤信竹中将)の直卒主隊である第4戦隊に所属し、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦等に参加しています。

ミッドウェー海戦では、僚艦「摩耶」と共に第4戦隊第2小隊を編成し、アリューシャン作戦に分派され、その後、ソロモン方面での第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦などに参加しています。

米艦隊によるラバウル空襲で被弾。損傷修復のために内地にひきあげたのち、マリアナ沖海戦を経て、1944年10月、栗田艦隊(第二艦隊第一遊撃部隊)の一員として、レイテ沖海戦に、同型艦4隻揃って参加しました。しかし艦隊出撃の翌日、パラワン島沖で、米潜水艦の魚雷を2発被雷し、一時航行不能になり、そのままブルネイに引き返しました。その後、シンガポールに回航され修復を行いますが、英海軍のコマンド部隊の爆破工作など(戦争末期に落日の日本軍相手に、そんな危険な作戦を行ったんですね。イギリス人のモチベーションは、時折よくわからない)で再び損傷を受け、そのまま終戦を同地で迎えました。

 

愛宕」:太平洋戦争開戦時には、緒戦の南方作戦統括の第2艦隊旗艦として参加しています。マレー作戦、蘭印攻略戦などを支援した後、ミッドウェー作戦では、ミッドウェー島攻略部隊本隊旗艦として参加。

その後、主戦場がソロモン方面に移ると、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦に活躍しました。

第三次ソロモン海戦では、ガダルカナル島ヘンダーソン基地(飛行場)砲撃主隊である第11戦隊(「比叡」「霧島」)の支援部隊として参加。緒戦では、警戒中の米巡洋艦隊と第11戦隊が夜間遭遇戦を展開し乱戦の末、旗艦「比叡」が大損傷を受け砲撃は未遂に終わります。(「比叡」は翌日、米軍機の攻撃を受け自沈)

愛宕」に座乗する近藤司令長官は、直卒する第4戦隊主隊とともに「霧島」による飛行場砲撃を再起しますが、途上で阻止を狙う米戦艦隊(「ワシントン」「サウスダコタ」基幹)と再び遭遇戦となってしまいます。乱戦になり「サウスダコタ」に大損害を与えつつも、16インチ砲を装備した戦艦2隻には歯が立たず(「霧島」は14インチ砲装備)、「ワシントン」のレーダー管制射撃を浴びて「霧島」は大破、翌日、沈没します。

この乱戦中に、「愛宕」は19本の魚雷を射出しますが、命中させることはできませんでした。

第2艦隊司令長官が開戦以来の近藤中将から栗田中将に交代しますが、旗艦は引き続き「愛宕」が務めることとなりました。内地での「ラバウル空襲」で受けた損傷を修理した後、マリアナ沖海戦に参加。この海戦では、第2艦隊はそれまで連合艦隊主隊として活動してきた「大和」「武蔵」「長門」など戦艦部隊も戦列に加え、小沢中将の第3艦隊(空母機動部隊)と統合艦隊(第1機動艦隊)を編成し、小沢中将がこれを統合指揮する体制に移行しています。

マリアナ沖海戦は日本海軍がそのほぼ全力を集中して戦った、いわゆる念願の艦隊決戦だったわけですが、結果、その空母戦力を喪失(特に艦載機部隊の損耗が激しく、敗戦まで、この損害を立て直せませんでした)してしまいました。

次のレイテ沖海戦では、この空母機動部隊の残存兵力(小沢中将指揮の第3艦隊基幹。その艦載機は、実質空母1隻分程度でしたが)を囮に使い、これに米空母機動部隊が誘引される隙に水上戦闘艦隊(第2艦隊基幹:栗田中将指揮)が米上陸部隊を攻撃する、という構想の戦闘計画が実行されました。

愛宕」はこの作戦でも引き続き第2艦隊旗艦を務めました。

1944年10月、栗田中将率いる第一遊撃部隊(第2艦隊主力部隊)はブルネイを出航。戦艦5、重巡洋艦10、軽巡2、駆逐艦15からなる大艦隊でした。出航の翌日、パラワン沖で米潜水艦の雷撃を受け、4本の魚雷が命中。約20分で、沈没しました。

愛宕」は旗艦でしたので、栗田中将以下艦隊司令部が搭乗していたのですが、彼らは海中に避難後、駆逐艦を経て、「大和」に収容され、以後は「大和」が旗艦となりました。

***栗田中将はレイテ海戦前に、この作戦は、これまでの空母機動部隊主力の作戦と異なり水上戦闘艦艇が日本艦隊の主力となる戦いとなるために、旗艦を「愛宕」から、艦隊の最も新しい戦艦で、戦闘力も防御能力もさらに情報収集のための通信能力も高い「大和」に変更する希望を連合艦隊司令部に出した、と言われています。しかし連合艦隊司令部は「第2艦隊の旗艦は開戦以来「愛宕」だから」という、理由にもならないような理由でこれを却下したと言われています。

栗田中将が連合艦隊司令部から軽んじられていた、信頼されていなかった、というような穿った見方もありますが、もしこれが真実であれば、そのような評価の人物に、この重要な、ことによると日本海軍の最後の作戦となるかもしれないような作戦の指揮を任せた、というのは、どういうことなんでしょうか?

「真面目に戦ったのは、小沢と西村だけ」というような戦後評価があり、常にそうした場面で栗田中将は割りを食ってきていますが、連合艦隊司令部、あるいは軍令部が真面目に戦ったのか、という問いかけをすることが、先のような気がします。

 

「鳥海」:開戦時は第4戦隊の序列からは離れ、小沢中将の指揮する南遣艦隊の旗艦を務め、マレー攻略戦を戦いました。その後、蘭印作戦に参加した後、第4戦隊に復帰し、ミッドウェー海戦には、ミッドウェー島攻略本隊に第4戦隊第1小隊(「愛宕」艦隊旗艦、「鳥海」)として参加しています。

ラバウルに第8艦隊が新設されると、この新艦隊の旗艦として「鳥海」は再び第4戦隊を離れます。同艦隊は、既述のように新たな占領地域であるラバウルに拠点を置き、ニューギニアソロモン諸島方面(南東方面:外南洋)をその担当領域としていました。

米軍がガダルカナル、ツラギに来襲すると、この迎撃に第8艦隊が出撃します。いわゆる第一次ソロモン海戦です。この海戦で、第8艦隊は戦闘では劇的な戦果をあげるのですが、一方で作戦目的からの(戦略的な)評価では、護衛艦隊が粉砕され丸腰になった上陸船団に指一本触れなかったことから、すでに戦闘直後から、疑問の声が多く挙げられてきたことは、皆さんもよくご存知のことと思います。

***本稿前回でも少し述べましたが、ここでも日本海軍の「損害恐怖症」とでもいうようなメンタルな部分の弱点が感じられると考えています。戦果の拡大による目的の完遂よりも、艦艇の保全の方が優先される、というか・・・。持たざる国の宿命、と言ってしまえば、その通りなのですが。

その後、ガダルカナル島をめぐる攻防戦に多くは輸送部隊の支援で出撃。第二次ソロモン海戦、第三次ソロモン海戦にいずれも第8艦隊旗艦として参加した後、内地に帰還し損傷箇所の修理、整備を行いました。

戦線復帰後は、再びラバウル。ソロモン方面で活動し、その後、第2艦隊第4戦隊に復帰、マリアナ沖海戦を経て、レイテ沖海戦に参加します。

1944年10月、「鳥海」は僚艦3隻とともに栗田艦隊(第2艦隊基幹:第一遊撃部隊)の一員としてブルネイを出航。翌日、第4戦隊の3隻(「愛宕」「摩耶」「高雄」)が相次いで米潜水艦の雷撃で艦隊から欠けてしまいます(「愛宕」「摩耶」が沈没。「高雄」は大破の後、ブルネイに帰還)。「鳥海」は第5戦隊(「妙高」「羽黒」)に編入され、そのまま作戦を継続しました。

その後、サマール沖で米護衛空母部隊を追撃中に、米艦載機の空爆にさらされ被弾しこれによって魚雷が誘爆、戦線を離脱しました。更に数次の空襲で被弾後、大火災を発生し、味方駆逐艦によって雷撃処分されています。

 

「摩耶」:太平洋戦争開戦時には第2艦隊第4戦隊に所属し、フィリピン攻略戦、蘭印作戦に従事しました。その後、第4戦隊第2小隊(「高雄」「摩耶」)としてミッドウェー作戦の一環であるアリューシャン作戦参加、アッツ。キスか両島の占領を成功させています。

ガダルカナルを巡る攻防が激化すると、同方面での第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦に参加。第三次ソロモン海戦では、当初予定されていた第11戦隊(「比叡」「霧島」)による飛行場砲撃が米艦隊との遭遇戦で阻止された後、代わりにがガダルカナル海域に突入して飛行場砲撃を行っています。この砲撃からの帰途に米艦載機の空襲を受け、その際に米軍機が体当たりを敢行、火災が発生し、魚雷を投棄するほどの損害を受けました。

内地で損傷修理後、一転して「摩耶」は北方部隊に編入されます。同方面でアッツ島守備隊への物資輸送をめぐり発生したアッツ島沖海戦に参加しました。この海戦は、輸送を阻止しようとする米艦隊と、これを護衛する日本艦隊の巡洋艦同士の砲撃戦でしたが、日本海軍が米海軍に対し優位にあると自信を持っていた遠距離砲撃の精度が、同等、もしくはそれ以下であったという実例を示すという結果となりました。双方に大きな損害はなかったものの、日本海軍の輸送目的は阻止され、北方占領地の防備強化はできないまま、アッツ島守備隊の玉砕を迎えてしまいます。

「摩耶」は海戦後、南方戦線に向かいますが、到着直後、米艦載機によるラバウル空襲で被弾大破し、内地で修復を受けます。この際に前述の防空巡洋艦化の改装を受け、3番主砲塔を撤去し連装高角砲を2基追加、同時にそれまで搭載していた単装高角砲を全て連装に改めたり、その他にも多数の対空機銃を装備し、併せて「高雄」「愛宕」には開戦前に行われた復原性改善の為のバルジ増設や魚雷発射管の連装から4連装への換装なども実施しています。

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(大改装後の「摩耶」by Konishi: 三番砲塔を撤去して対空砲を強化し、本格的な防空巡洋艦に変身しました。安定性と浮力確保のためにバルジが装着されました)f:id:fw688i:20210829132121j:image

(改装前と改装後(左列)の細部比較:対空砲を3倍に強化しています)

修復後は第2艦隊(栗田艦隊)に復帰しマリアナ沖海戦を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に参加しました。栗田艦隊のブルネイ出航の翌日、パラワン島沖で、米海軍潜水艦の雷撃を受け、4本の魚雷が命中。わずか10分そこそこで沈んでしまいました。

 

このように、日本海軍最後の一等巡洋艦「高雄級」は、ネームシップの「高雄」を除いて全てレイテ沖海戦で失われました。前級である「妙高級」も併せて、いわゆる諸列強が羨望した条約型重巡洋艦である「妙高級」「高雄級」は、奇しくも両級のネームシップが、シンガポールで、行動不能の状態で残存する、という状況で終戦を迎えることとなりました。

 

第一次ソロモン海戦

第一次ソロモン海戦は、今回ご紹介した「高雄級」重巡洋艦の3番艦である「鳥海」が旗艦となり参加した海戦です。

当時、日本が飛行場建設中だったソロモン諸島南部のガダルカナル島と、その向かいにありこちらも海軍の陸戦隊が占領したてのツラギ泊地に、米軍が突如来襲し、ツラギ守備隊は瞬時にほぼ全滅、飛行場建設中の設営隊は周辺の山に逃げ込む、という状況で、米軍が飛行場を押さえてしまった、という状況に対し、急遽、殴り込みをかける、という戦闘でした。

 

例によって、海戦の経緯等は別の優れた文献にお願いすることとします。

ja.wikipedia.org

日本艦隊については、既にご紹介した艦級ばかりなので、簡単に触れるとして、同時期の米海軍の巡洋艦について触れるいい機会かな、と考え、そちらのご紹介を中心にしたいと考えています。

 

日本海軍第8艦隊の海戦時の戦闘序列

日本側の「鳥海」以外の参加兵力は、いずれもこれまでにご紹介してきた「青葉級」重巡洋艦2隻と「古鷹級」重巡洋艦2隻から編成されている第6戦隊と、軽巡洋艦「夕張」と第18戦隊の軽巡洋艦「天龍」、第2海上護衛隊に所属する軽巡洋艦「夕張」と駆逐艦「夕凪」(「神風級」駆逐艦)でした。これらをラバウルに新編成されたばかりの第8艦隊として三川中将が率いていました。

第8艦隊そのものが新設で、上記の構成も見ていただいても、編成の艦種バランスなど考慮されているとは思えません。ともかく米艦隊の来攻は看過できない、という一点で周辺の稼働兵力をかき集めた、という寄せ集め感満載です。

こういう、現地主義感は決して嫌いではないですね。臨場感があるというか・・・。特に、「天龍」「夕張」「夕凪」については、第18戦隊司令官が懇願した為編成に入れた、という話もあるくらいで・・・。

 

重巡洋艦「鳥海」(旗艦)

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(直上の写真は、「高雄級」の概観:3番艦「鳥海」は第8艦隊の旗艦を務めました。「鳥海」は大改装を受けずに太平洋戦争を迎え、その後も前線で稼働し続けたため、ほぼ竣工時の状態のまま、太平洋戦争を戦い通しました)

 

「古鷹級」重巡洋艦(「古鷹」「加古」)

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(直上の写真は、大改装後の「古鷹級」の概観)

 

「青葉級」重巡洋艦(「青葉」:第6戦隊旗艦、「衣笠」) 

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(直上の写真は、「青葉級」:大改装後の概観)

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(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)

 

軽巡洋艦「天龍」 

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(直上の写真:天龍級軽巡洋艦)

初めてギヤードタービンを搭載し、前級の筑波級防護巡洋艦の倍以上の出力から、33ノットの高速を発揮することができました。艦型は前年に就役した「江風級」駆逐艦を拡大したもので、当初から駆逐艦戦隊(水雷戦隊)を指揮することを目的とした嚮導駆逐艦的な性格の強い設計でした。

主砲には14センチ単装砲を中央線上に4門装備し、両舷に4射線を確保しました。日本海軍の巡洋艦としては初めて53センチ3連装魚雷発射管を搭載しました。この発射管は当初は発射時に射出方向へ若干移動して射出する方式採っていましたが、運用面で機構状の不都合が生じ、装備位置を高め固定して両舷に射出する方式に改められました。舷側装甲は、アメリ駆逐艦の標準兵装である4インチ砲に対する防御を想定したものでした。太平洋戦争では、既に旧式艦となりながらも、開戦当初2隻で第18戦隊を構成し、南方作戦で活躍しました。

 

軽巡洋艦「夕張』

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

「夕張」は、 元々、5500トン級軽巡洋艦の9番艦(「球磨級」5隻に続く「長良級」第1期の4番艦)として建造予定だったものを、折からの不況の影響を受け予算の逼迫等の要因から、設計変更したと言う経緯で建造されました。

設計の基本骨子は、5500トン級と同等の兵装と速度を3000トン弱の船体で実現すると言うものでした。すべての主砲を船体の中心線上に配置、前後それぞれ単装砲と連装砲の背負式として、5500トン級に比べると主砲の搭載数は1門減りましたが、両舷に対し5500トン級と同様の6射線を確保しました。同様に連装魚雷発射管を中心線上に配置することにより、発射管搭載数は半減したものの、両舷に対して確保した射線4は、5500トン級と同数でした。

 

駆逐艦「夕凪』 

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(直上の写真は、「夕凪」が属する「神風級」駆逐艦の前級である「峯風級」駆逐艦特型駆逐艦出現までの艦隊駆逐艦の形状の始祖となったと言えると思います。同級は太平洋戦争時には、既に旧式化していたため、主として日本近海での船団護衛任務などに投入されました。準同型艦の「野風級」も含め、15隻中10隻が失われました。本級の改良型である「神風級(II)」(「後期峯風級」と言われることもあります)は、9隻中7隻が戦没しています)

  

迎え撃つ米豪艦隊の編成

一方、上陸部隊を護衛する米豪艦隊は、以下のような編成でした。

第62任務部隊(リッチモンド・K・ターナー米海軍少将指揮)

サボ島南水路警戒部隊(クラッチレー英海軍少将指揮)

重巡洋艦オーストラリア・重巡洋艦キャンベラ(いずれもオーストラリア海軍):ケント級

重巡洋艦シカゴ:ノーザンプトン級 +駆逐艦2隻(「パターソン」「バックレイ」)

サボ島北水路警戒部隊(リーフコール米海軍大佐指揮)

重巡洋艦ヴィンセンス、重巡洋艦クインシー、重巡洋艦アストリア :ニューオーリンズ級 +駆逐艦2隻(「ヘルム」「ウィルソン」)

サボ島南北水路哨戒隊:駆逐艦2隻(「ラルフ・タルボット」「ブルー」)

ツラギ島東方警戒部隊(スコット米海軍少将指揮)

軽巡洋艦サン・ファン :アトランタ級

軽巡洋艦ホバート(オーストラリア海軍):パース級 +駆逐艦2隻(「モンセン」「ブキャナン」)

上記のうち、実際に戦闘に参加したのはサボ島南水路警戒部隊とサボ島北水路警戒部隊、サボ島南北水路哨戒隊でした。

 

ケント級重巡洋艦:オーストラリア、キャンベラ

ja.wikipedia.org

County-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ケント級」の概観。 「オーストラリア」「キャンベラ」はこの艦級に属していました。152mm in 1:1250 by Neptune )

 

「ケント級」重巡洋艦は、英海軍が建造した条約型重巡洋艦カウンティ級重巡洋艦の第一グループで、条約制限内での建造の条件を満たし、かつ英海軍の巡洋艦本来の通商路保護の主要任務に就く為、防御と速力には目を瞑り火力と航続力に重点を置いた設計としています。8インチ砲8門を装備し、31.5ノットを発揮しました。

今回上述の「高雄級」の主砲に関する記述でも触れましたが、本級でも主砲の仰角をあげ高角砲との兼用についての試みが行われましたが、やはり射撃速度が対空射撃に及ばず実用的ではありませんでした。

魚雷は53.3cm魚雷を上甲板に搭載した発射管から射出する形式でしたが、就役当時の魚雷には投射の衝撃に対する耐性がなく、新型魚雷の開発まで、実装は待たねばなりませんでした。

7隻が建造され、そのうち「オーストラリア」と「キャンベラ」の2隻が、オーストラリア海軍に供与されました。

 

ノーザンプトン重巡洋艦:シカゴ

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Northampton-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune) 

「シカゴ」は米海軍が建造した条約型重巡洋艦の第2グループ「ノーザンプトン級」の4番艦です。前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。

航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。

 

同級については、本稿の「日本海巡洋艦開発小史(その5)」で記述しています。そちらをご覧下さい

日本海軍巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊 - 相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

 

ニューオーリンズ重巡洋艦:ヴィンセンス、クインシー、アストリア

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New Orleans-class cruiser - Wikipedia 

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の概観:「アストリア」「ヴィンセンス」「クインシー」はこの艦級に属していました。142mm in 1:1250 by Neptune) 

 

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の特徴を示したもの。艦橋の構造を、前級までの三脚前檣構造から塔状に改めています(上段)。航空艤装の位置を改めて、運用を改善(中段)。この艦級に限ったことではないですが、アメリカの建造物は理詰めで作られているためか、時として非常に無骨に見える時がある、と感じています(下段)。フランスやイタリアでは、こんなデザインは、あり得ないのでは、と思うことも。「機能美」と言うのは非常に便利な言葉です。でも、この無骨さが良いのです)

 

米海軍の条約型重巡洋艦としては第四段の設計にあたります。

主砲としては8インチ砲3連装砲塔3基を艦首部に2基、艦尾部に1基搭載するという形式は「ノーザンプトン級」「ポートランド級」に続いて踏襲しています。魚雷兵装は、「ポートランド級」につづき、竣工時から搭載していません。航空艤装の位置を少し後方へ移動して、搭載設備をさらに充実させています。

乾舷を低くして艦首楼を延長することで、米重巡洋艦の課題であった復原性を改善し、32.7ノットの速力を発揮することができました。

 

同型艦は7隻が建造されましたが、そのうちこの海戦で参加した3隻全てが撃沈されてしまいました。

その後も、ソロモン海域での戦闘では常に第一線で活躍し、サボ島沖夜戦では同級の「サンフランシスコ」が旗艦を務める艦隊がレーダー射撃によって、日本海軍の重巡「青葉」を大破させ、「古鷹」を撃沈する戦果を上げています。一方で、第三次ソロモン海戦では、同じく艦隊旗艦を務めた「サンブランシスコ」が「比叡」「霧島」との乱打戦で大破していますし、ルンガ沖夜戦では、日本海軍の駆逐艦部隊の輸送任務の阻止を試みた同級の「ニューオーリンズ」「ミネアポリス」が、日本駆逐艦の放った魚雷で大破する、といったような損害も被っています。

 

米海軍の「ヤラレ役」を一身に背負った感のある緩急ですが、それだけ「切所」を踏ん張った、と言うことだと考えています。

 

アトランタ級軽巡洋艦:サン・ファン

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Atlanta-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「アトランタ級軽巡洋艦の概観。131mm in 1:1250 by Neptune) 

 

当初は「オマハ級」軽巡洋艦の代替として、駆逐艦部隊の旗艦を想定して設計がスタートしましたが、設計途上で防空巡洋艦への設計変更が行われました。6000トン級の船体に、主砲とし38口径5インチ両用砲の連装砲塔を8基搭載し、併せて53.3cm魚雷の4連装発射管2基も搭載し、当初設計の駆逐艦部隊の旗艦任務にも適応できました。速力は32.5ノットを発揮することができました。

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(直上の写真は、「アトランタ級軽巡洋艦の細部をアップしたもの。なんと言っても全体をハリネズミのように両用砲塔が覆っているのがよくわかります。第一次ソロモン海戦では、持ち場が主戦場から離れていたため(ツラギ東方警備)、戦闘には参加しませんでしたが、こののち、ソロモン海での海戦にはたびたび登場します。前掲の「ニューオーリンズ」級とは一転して、やや華奢な優美な艦形をしています)

 

8基の両用砲塔の搭載により、やや復原性に課題が見出され、5番艦以降では、砲塔数を2基減じて、復原性を改善しています。

同型艦は11隻が建造され、艦隊防空の中核を担いました。

 

パース級軽巡洋艦ホバート

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ホバート」は、「リアンダー級」軽巡洋艦の改良型として建造された「パース級」軽巡洋艦の1隻です。同級は、英海軍「アンフィオン級」軽巡洋艦として3隻建造され、3隻とも後にオーストラリア海軍に供与されました。

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(直上の写真は、オーストラリア海軍「パース級」軽巡洋艦の概観。135mm in 1:1250 by Neptune)

同級については、本稿の「日本海巡洋艦開発小史(その5)」で記述しています。そちらをご覧下さい

日本海軍巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊 - 相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

 

バグレイ級駆逐艦:「パターソン」「バックレイ」「ヘルム」「ウィルソン「ラルフ・タルボット」「ブルー」

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Bagley-class destroyer - Wikipedia

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(直上の写真は、「バグレイ級」駆逐艦の概観。主戦場となった南北のサボ島水路に展開していたのは、全てこの艦級の駆逐艦でした。1600t弱の船体に、5インチ砲4門と53.3cm4連装魚雷発射管を4基搭載し、38.5ノットの高速を発揮することができました。太平洋戦争に参加した米海軍の艦隊駆逐艦としては、やや古参の部類に属します。同型艦は20隻。83mm in 1:1250 by Neptune) 

 

リヴァモア級駆逐艦:「モンセン」「ブキャナン」

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Gleaves-class destroyer - Wikipedia

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(直上の写真は、「リヴァモア級」駆逐艦の概観。主戦場には展開していなかったため、戦闘には参加していません。米海軍の艦隊駆逐艦としては、主力となった高名な「フレッチャー級」への導入となった量産型の駆逐艦と言っていいでしょう。いくつかサブグループがあったり、建造順で名称が異なったりしますが、ここでは「リヴァモア級」と言うことで一括りにしておきます。まあ、模型があるかどうか、も大きなファクターですが。1630tの船体に、5インチ砲4門と53.3cm4連装魚雷発射管を4基搭載し、37.4ノットの高速を発揮することができました。同型艦64隻 86mm in 1:1250 by Neptune) 

 

海戦の概要としては、第8艦隊は深夜11時43分ごろサボ島南水路から進入し、まず南水路警戒部隊と交戦。わずか8分の間に「キャンベラ」に魚雷2本と8インチ砲弾28発を命中させ、行動不能に陥れます(翌朝、沈没)。続いて「シカゴ」に魚雷1本と多数の命中弾を浴びせ、駆逐艦「パターソン」とともにを大破させました。

次に「鳥海」が艦首左舷方向に別艦隊(サボ島北水路警戒部隊)を発見し、11時53分「アストリア」に向け砲撃を開始、命中弾多数を与え、これを沈黙させました。(翌朝、沈没)次に目標を「クインシー」に変更し砲撃を開始し丁度0時ごろに火災を発生。戦列が乱れ、別働していた「古鷹」「天龍」「夕張」が炎上する「クインシー」を反対舷側から攻撃を開始。「天龍」「夕張」の魚雷が「クインシー」に命中し、0時35分ごろ転覆し沈没しました。第8艦隊は最後に「ヴィンセンス」に砲火を集中し、「ヴィンセンス」もこれに反撃しますが、「鳥海」「夕張」の魚雷が都合4本命中し、0時直後に航行不能となりました。(0時50分に転覆沈没)

最後に水路哨戒隊の「ラルフ・タルボット」と交戦し、これを撃破(大破)しました。

ここまで、第8艦隊の各艦は大きな損害を受けたものはなく、混乱した艦列を修正するために、いったんサボ島北側に集結しました。この際に水路哨戒隊の「ラルフ・タルボット」と遭遇、これに砲撃を加え、「ラルフ・タルボット」は大破しながら離脱します。

これを最後に戦闘は終結し第8艦隊は隊列を整えるのですが、この時に、艦隊司令部では、攻撃を継続するか撤収するかの、ある種「有名」な議論があったとされています。「丸腰となった輸送船団を攻撃するために反転すべき」(早川「鳥海」艦長)という意見と、「上空援護が期待できず、空襲を避けるために早期に撤退すべき」(大西艦隊参謀長、神艦隊先任参謀)という意見が対立したわけです。

結局、三川司令長官が後者の意見を容れて、艦隊は帰途につきます。

この決断は、海戦の直後からその可否についての議論が絶えません。が、日本海軍の常として、上層部ほど「後」の議論を積極的に行う傾向があるように感じています。連合艦隊司令部、あるいは軍令部あたり。かと言って、次の作戦で事前に明確な指示を出すわけでもないのです。「現場判断尊重」の名目で、解釈に幅のある曖昧な作戦目的を前線に伝え、後に現場判断に対する批評を行う傾向があるように思うのです。うがった見方をすれば、これも「損害恐怖症」の片鱗かと。自身が明確な指示を出すことによって生じる損害に対して責任を取りたくない、ということでしょうか?

これはどうやら、真珠湾作戦当初から延々と繰り返される日本海軍の「性」とでもいえるかもしれません。

戦闘では確かに圧勝したが、そもそも作戦の目的はなんだったのか?

 

そしてこの海戦には、もう一つ日本海軍にはありがたくない「おまけ」がついていました。

早めの離脱の指示で、安全に、米軍の空襲域を脱出できた第8艦隊だったのですが、泊地到着寸前で米潜水艦の雷撃を受け、重巡「加古」を失います。

 

こうしてこの海戦は終了しましたが、実はこれがソロモン海での底無しの消耗線の始まりでもありました。

 

というわけで、今回はここまで。

このシリーズの次回は。「条約の落し子」的な巡洋艦群をご紹介する予定です。

 

模型に関するご質問等は、大歓迎です。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

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補遺:オーストラリア海軍 軽巡「パース」の到着

本日、無事にオーストラリア海軍の軽巡洋艦「パース」が到着しました。

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「パース」は「リアンダー級」軽巡洋艦の改良型として建造された「アンフィオン級」軽巡洋艦を、営海軍がオーストラリア海軍に供与した3隻のうちの1隻です。

蘭印防衛を託されたABDA連合艦隊の一員としてスラバヤ沖海戦に参加しましたが、艦隊旗艦「デ・ロイテル」がドールマン司令官と共に失われたため、戦力再編成のためバタビアからチラチャップへの移動中に、日本海軍の別働隊(第七戦隊:重巡「三隈」「最上」、第5水雷戦隊基幹)と遭遇し、撃沈されました。

 

本稿、「日本海巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊」おアップデートしておきます。

 

と言うことで、プチアップデート。おしまい。

補遺:日本海軍巡洋艦開発小史(その4) 「青葉級:竣工時」の制作

GW中、皆さん、いかがお過ごしでしたか?まあ、大変なことになったもんです。

私の場合、今年はどこへも行きませんので、暇に任せて、今回はちょっとした「アップデート・ネタ」です。 今回はそう言うミニ・ストーリー。

 

スタートは、小さな「引っ掛かり」

本稿で「日本海巡洋艦開発小史(その4)平賀デザインの巡洋艦」を執筆した際に、実は小さな「引っ掛かり」が生まれていました。そう言えば「青葉級重巡洋艦」の竣工時について、何もモデルを準備していないぞ、と・・・。

 

前級の「古鷹級」については、その竣工時について、ご紹介したようにTrident社から優れたモデルが市販されているのですが、「青葉級」については、私の知る限りはモ竣工時のデルが市販されていません。まあ、「古鷹級」については竣工時の単装砲架を搭載したモデルと、その後の連装砲塔装備のような、外観にわかりやすい大きな変化が伴うので、双方のモデルをコレクションしたくなる需要が高いのでしょうが、確かに「青葉級」については、変更点が(どちらかと言えば)地味です。ですので、どこもモデルを出していない、のでしょうかね?(「古鷹級」については、前出のTrident社以外にも、日本の艦船模型メーカーである小西製作所(「妙高級:竣工時のモデルはこの会社のものです)からも、1:1250スケールで模型が発売されています。

 

やっぱり作っちゃおう 

最初は「小さな引っ掛かり」だったのですが、本稿前回「妙高級」の竣工時のモデルについてコメントを記述している際に、その引っ掛かりが無視できなくなてきました。あれれ、「青葉級」の竣工時と改装後の差異とそれほど変わらないのに、「妙高級」はちゃんと竣工時のモデルがあるじゃないか、と言うわけです。(ある種の病気か?)

特に「青葉級」重巡洋艦は、私が日本海軍の巡洋艦の中で、最も好きなクラスであるだけに、次第にこの「引っ掛かり」が放って置けなくなりました。

「では」と言うことで、本稿の方針の「常」として、「作ってみようか」と。幸か不幸か、今年のGWは家にいなきゃならないし、と言うわけです。

 

ベースとなるモデル選定

早速、ベースとなるモデル選び。これは以下のいくつかの条件を満たすモデルから選ぶことになります。

①複数の同型モデルを既にストックしているか?:潰してしまっても、コレクションに穴が開く事はないか?

②補充は比較的容易なモデルか?:万一、失敗しても再トライができるかどうか?今回のように一旦気になると、穴を開けたまま放置しておく事は、かなり辛いことです(わかってもらえるかなあ?もらえますよね?)。

③加工が比較的容易なモデルか?:気持ちに技術がついていくか、と言うことですね。(皆さんの厳しい目には叶わなくても、せめて自分が我慢できる程度の仕上がりにはしたいので)

 

と言うことで、今回はTrident社の「古鷹級:竣工時」のモデルをベースに選択することにします。上記のいずれの条件も、一応満たしていることと、さらに船体内に装備された魚雷発射管がモールドされているから、と言うのがその主たる理由です。加えて、これは条件の②とも通じるのですが、Trident社製のモデルは比較的安価で入手できる、と言う点も大きなポイントでした。(既に補充のモデルは、中古モデルを扱う海外の業者さんに発注済み!)

 

竣工時「青葉級』(らしきもの)の製作

以下が、制作した「竣工時:青葉級」です。

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手順は以下のとおりです。

①単装砲架形式の主砲を全て撤去。ダイキャスト製のモデルですので、撤去後をできるだけ平に見えるように、ヤスリがけして整えます。

②Neptune社製の「古鷹級」から主砲塔を移植します。その際に、1番・3番砲塔の下の主砲塔リンクと、2番砲塔の台座とリンクをストックのジャンクパーツからセレクトして接着します。

③もうひとつ、「青葉級」の設計時点での大きな特徴である、航空艤装について、2番煙突の後方に水上偵察機の格納庫を設置(これは、Delphin社の「足柄級」重巡洋艦から、同様のパーツを拝借しています)。

④高角砲の換装。「古鷹級」は8センチ単装高角砲を4門搭載していましたが、「青葉級」では竣工時から口径を一つあげた12センチ単装高角砲を搭載しています。ですので、ベースモデルでは煙突脇に搭載されている8センチ高角砲を撤去して、ジャンクパーツから12センチ単装高角砲に見えそうな部品(今回は1:700の模型の武装セットから、それらしい部品を選んで使用しています)を接着しました。

⑤最後に、塗装。「古鷹級」よりもちょっと明るめの塗装で仕上げました。

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(直上の写真は、今回製作した「青葉級」の特徴にクローズアップして示したもの。連装主砲塔(上段)、単装12センチ高角砲(中段)、航空艤装(下段)。舷側には「古鷹級」と同様に船体内に装備された魚雷発射管の射出口が見えています。これはTrident社製モデルのモールドをそのまま生かしています)

 

「古鷹級:竣工時」と「青葉級:竣工時」の比較

(結局、毎回こう言うことがやりたいだけ、なんですよね)

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(直上の写真は、いずれも竣工時の「古鷹級」(上段)と「青葉級」(下段:今回製作したもの)を比較したもの。主砲装備の差異がやはり目立った特徴ですが、艦後方の航空艤装も大きく異なっています。ベースは同じモデルですので、全体的な外観は似通っているかも。実際には、艦橋構造と煙突の形態がもっと異なっていたようですが・・・)

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(直上の写真は、いずれも竣工時の「古鷹級」(上段)と「青葉級」(下段:今回製作したもの)を、更に少し細部に寄って比較したもの。左列では、単装高角砲の差異を、右列では水上偵察機の運用方法の差異を示しています)

 

上の写真に関連して、少し水上偵察機の運用の違いについてコメントを。

「古鷹級」の竣工時、水上偵察機は4番砲架上に続き延長された滑走台から発艦させる形式(写真:右上段)を取っていましたが、「青葉級」では設計段階から水上偵察機を新開発のカタパルトにより射出することとし、運用改善を図る予定でした。この為、水上偵察機の格納庫と3番主砲塔の間には、カタパルト設置場所が予定されていました。しかし、カタパルトの開発が竣工に間に合わず、止むを得ず、竣工時には水上偵察機をデリックで海面に下ろして発艦する運用方式が取られました(写真:右下段)。

このカタパルト、本級竣工から2、3年後に同級の僚艦(「衣笠」「青葉」)に搭載されています。

 

と言うことで、今回はここまで。

本稿「日本海巡洋艦開発小史(その4)平賀デザインの巡洋艦」の方も、順次、改稿しておきます。

 

引き続き、模型に関するご質問等は、大歓迎です。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

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日本海軍巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊

ワシントン・ロンドン両海軍軍縮条約と「平賀デザイン」

1912年に締結されたワシントン海軍軍縮条約では、主力艦(戦艦・巡洋戦艦)および航空母艦には、主砲口径と基準排水量 、そして保有数には総合計排水量で制限がかけられました。

しかし、巡洋艦以下の補助艦艇には、排水量(10000トン)と搭載主砲(8インチ)に上限が設けられましたが、保有数には制限がかけられませんでした。そのために列強各国はこの条約の抜け穴ともいうべき「準主力艦」の建造を競います。

ワシントン体制で「主力艦=戦艦」の保有数に対英米60%の保有制限をかけられた日本海軍は、大正12年度計画(1923年)で、保有制限のない補助艦艇の分野で2種類の巡洋艦の建造計画を始動します。

一つは、本稿の前回(おっと、前々回?)でご紹介した、5500トン級軽巡洋艦を強化した7000トン級の偵察巡洋艦。この船は列強の軽巡洋艦を凌駕すべく、20センチ主砲を搭載した強化型偵察巡洋艦「古鷹級」として完成します。

もう一つが、今回、本稿で取り上げる、「主力艦」を補う役割の「準主力艦」として強力な打撃力を持った重装備巡洋艦妙高級」です。

いずれも造船官平賀譲の主導のコンパクト重装備をコンセプトにおいた設計をベースとし、日本海軍は、用兵側の要求として、兵器としての実用性、有効性に自信を持ちつつあった魚雷に重点をおいた、重雷装をその特徴として付加した巡洋艦シリーズを育て上げてゆくことになります。

 

「飢えた狼」と呼ばれた艦級(フネ) 

妙高重巡洋艦 -Myoko class heavy cruiser-(妙高:1929-終戦時残存 /那智:1928-1944/足柄:1929-1945/羽黒:1929-1945)   

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Myōkō-class cruiser - Wikipedia

妙高級」巡洋艦は、前述のようにワシントン体制の制約の中で、日本海軍初の条約型巡洋艦として設計・建造されました。すなわち、補助艦艇の上限枠である基準排水量10000トン、主砲口径8インチと言う制約をいっぱいに使って計画された巡洋艦であったわけです。

設計は平賀譲が主導しました。これまで本稿で見てきたように、彼は既に軽巡洋艦「夕張」、強化型偵察巡洋艦「古鷹型」でコンパクトな艦体に重武装を施すと言うコンセプトを具現化してきており、ある意味、本級はその「平賀デザイン」の集大成と言ってもいいでしょう。

後に、1930年のロンドン海軍軍縮条約では、それまで保有上限を設けていなかった補助艦艇にも保有数の制約が設けられました。特に巡洋艦については、艦体上限の基準排水量10000トンについては変更されませんでしたが、主砲口径でクラスが設けられ、8インチ以下6.1インチ以上をカテゴリーA(いわゆる重巡洋艦の定義がこうして生まれたわけです)とし、日本海軍は対米6割の保有上限を課せられました。「妙高級」の竣工が1929年である事を考慮に入れると、「古鷹級」「妙高級」などの登場による日本式コンパクト重装備艦に対する警戒感が背景の一つにあったと言ってもいいでしょう。

これにより、本来は上述のように強化型偵察巡洋艦であった「古鷹級」、その改良型である「青葉級」も、「準主力艦」として建造された「妙高級」も、一括りにカテゴリーA(重巡洋艦)と分類され、その総保有数が制限されることになります。

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の概観。166mm in 1:1250 by Konishi) 

 

設計と建造

妙高級」は、その設計は、前級である「古鷹級」「青葉級」の拡大型と言えるでしょう。

しかし、強化型偵察巡洋艦として、5500トン級軽巡と同様に時として駆逐艦隊を率いて前哨戦を行う可能性のある「古鷹級」「青葉級」と異なり、強力な攻撃力と防御力を併せ持つ準主力艦を目指す本級では、平賀は、用兵側が強く要求した魚雷装備を廃止し、20センチ連装主砲塔5基を搭載する、当時の諸列強の巡洋艦を砲力で圧倒する設計を提案しました。

平賀のこの設計の背景には、竣工当時の魚雷に、上甲板からの投射に耐えるだけの強度がなく、一段低い船内に魚雷発射管を設置せねばならなかったと言う事情が強く働いていたようです。平賀は艦体の設計上、被弾時の魚雷の誘爆に対する懸念から、船内への搭載に強く抵抗し、「妙高級」では用兵側の要求であった20センチ砲8門搭載を10門に増強することにより、雷装を廃止した設計を行い、用兵側の反対を受け入れず押し切ったと言われています。 

平賀にすれば、同級は20センチ砲10門に加えて、12センチ高角砲を単装砲架で6基搭載しており、「水雷戦隊を率いる可能性のある偵察巡洋艦ならまだしも、準主力艦である本級にはすでに十分強力な砲兵装が施されており、誘爆が大損害に直結する船体魚雷発射管の装備は見送るべき」と言うわけですね。

この提案は一旦は承認されましたが、軍令部は平賀の外遊中に留守番の藤本造船官に、魚雷発射管を船体内に装備するよう、設計変更を命じました。この時同時に、「青葉級」の主砲搭載形式でも、軍令部の連装砲塔搭載の要望に対し、船体強度の観点から「古鷹級」で採用した単装砲架形式を主張して譲らない平賀の設計を、やはり軍令部は藤本に命じて設計変更をさせています。用兵当事者から見れば、平賀は自説に固執し議論すらできない、融通の効かない設計官と写っており、この後、平賀は海軍の艦艇設計の中枢を追われることになります。

結局、建造された「妙高級」は、正20センチ主砲を連装砲塔で5基、12センチ高角砲を単装砲架で6基、61センチ3連装魚雷発射管を各舷2基、計4基を搭載する強力な軍艦となりました。

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の主砲配置と単装高角砲の配置。かなり砲兵装に力を入れた装備ですね)

 

さらに、航空艤装としては水上偵察機を2機収納できる格納庫を艦中央部に設置し、当初から射出用のカタパルトを搭載していました。 

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時の魚雷発射管。「古鷹級」と同様、当時の魚雷の強度を考慮し、船体内に搭載されています。;上段写真/ 下段写真は航空艤装。当初からカタパルトを装備していました。水上偵察機を2機収納できる格納庫はカタパルトの手前の構造物) 

 

数値的には列強の同時期の条約型重巡洋艦よりも厚い装甲を持ち、重油専焼缶12機とタービン4基から35.5ノットの最高速度を発揮する設計でした。

すでにこの時期には平賀は海軍建艦の中枢にはいませんでしたが、ある意味「平賀デザイン」の集大成であり、ロンドン軍縮条約の制約項目まで影響を与えるほど、列強から「コンパクト強武装艦」として警戒感を持って迎えられた「妙高級」ではあったわけですが、やはり実現にはいくつかの点で無理が生じていました。一つは制限の10000トンを大きく超えた排水量となったことであり、設計と建造技術の乖離が顕在化する結果となりました。併せて、連装砲塔5基に搭載した主砲だったわけですが、その散布界(着弾範囲=命中精度)が大きく、主砲を6門、同じ連装砲塔形式で搭載した前級「青葉級」よりも低い命中精度しか得られないと言う結果となりました。さらに、上記の経緯で無理をして魚雷発射管を船体内に搭載したため、居住スペースが縮小され、居住性を劣化させることになりました。

こうしたその強兵装に対する畏怖と、一方で、あらゆる兵装を詰め込んだことから生じる劣悪な居住性などへの疑問(嘲笑)から、同級を訪れた外国海軍将校から「飢えた狼」と言う呼称をもらったことは有名な逸話となっています。

 

その大改装

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の大改装後の概観。166mm in 1:1250 by Neptune) 

 

1932年からの第一次改装と1938年の第二次改装で、同級は、主砲口径を正20センチから8インチ8(20.3センチ)に拡大しました。これにより、主砲弾重量が110kgから125kgに強化されました。また高角砲を単装砲架6基から連装砲4基へと強化、さらに懸案の魚雷発射管を船内に搭載した3連装発射管4基から、上甲板上に搭載する4連装魚雷発射管4基として、各舷への射線を増やすとともに、より強力な酸素魚雷に対応できるよになりました。

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の竣工時と大改装後の主要な相違点。左列は魚雷発射管の装備位置:大改装後、発射管は上甲板上に装備されました。右列は水上偵察機の搭載位置の変化:大改装後にはカタパルトが2機に増設され、整備甲板が設置されました)

 

上甲板上の魚雷発射管を覆う形状で水上偵察機の整備甲板を設置し、カタパルトを増設、搭載水上偵察機数も増やしています。

この大改装で、排水量が増加し、速力が33ノットに低下しています。

 

その戦歴

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(直上の写真は、「妙高級」重巡洋艦の勢揃い)

 

妙高」:太平洋戦争開戦時、「妙高級」4隻は第5戦隊を編成し、「妙高」は同戦隊の旗艦でした。第5戦隊は第3艦隊に所属し、フィリピン攻略戦に従事しました。その後、同戦隊はジャワ攻略戦に転戦するためにダバオに集結。そこで米軍機の空襲を受け、「妙高」は修理に2ヶ月を要する損傷を受けました。これは太平洋戦争での、大型軍艦としては最初に損傷を受けた艦となってしまいました。

損傷修復後には、スラバヤ沖海戦の最終海戦に参加。その後、珊瑚海海戦には空母機動部隊の直衛部隊の旗艦を務めます。

ミッドウェー海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦などに参加したのち、ブーゲンビル島沖海戦では、来攻する米軍を迎え撃つ襲撃艦隊を率いて戦いました。

マリアナ海戦を経て、1944年10月レイテ沖海戦には、第2艦隊(栗田艦隊)第5戦隊の旗艦として僚艦「羽黒」を率いて参加しますが、シブヤン海で米機動部隊の空襲で避雷し、艦隊から落伍してしまいました。海戦後、損傷修理のために内地への回航中に米潜水艦の雷撃により、艦尾部を切断、内地回航を諦めシンガポールに曳航され、航行不能状態のまま同地で防空艦として終戦を迎えました。

 

那智」:太平洋戦争開戦時、第5戦隊の一員としてフィリピン攻略戦に参加。損傷した「妙高」に代わり第5戦隊旗艦となり、その後のジャワ方面の攻略戦に参加します。スラバヤ沖海戦(後述します)で、連合国艦隊(いわゆるABDA艦隊)に勝利したのち、一転して北方部隊に編入され、北方部隊の基幹部隊である第5艦隊旗艦となります。

第5艦隊旗艦としてミッドウェー作戦と並行して実施されたアリューシャン作戦に参加。アッツ沖海戦、キスカ撤退作戦に参加した後、戦局の悪化に伴い、第5艦隊は北方警備から転じて、本州南部の警備に従事し、台湾沖航空戦での残敵掃討(実は米艦隊はほとんど損傷していなかったので幻の「残敵」を追うことになったわけですが)に出撃しますが、もとより残敵に遭遇することなく南西諸島・台湾方面に待機することになりました。

1944年10月のレイテ沖海戦には、第2遊撃部隊(第5艦隊、志摩部隊)旗艦として、第1遊撃部隊別働隊の西村艦隊(第2戦隊基幹)の後を追って、スリガオ海峡に突入します。が、先行した西村艦隊の壊滅時の混乱に巻き込まれ損傷して退避中の西村艦隊の重巡「最上」と衝突、指揮官の志摩中将は突入を断念し、戦場から退避を下令します。(余談ですが、この志摩中将の判断は、欧米の戦史研究では、「同海戦での、日本海軍首脳のほぼ唯一の理性的な判断」と評価が高いようです。一見、華々しい「勇戦」(=同海戦ではこの「勇戦」は艦隊をすり潰すことにほぼ等しいのですが)よりも、戦いの粘り強さ、のようなものを評価視点にするのは、文化的な差異でしょうか?それとも、「合目的性」に対する適合性という視点でしょうか?)

海戦敗北後、同艦はマニラ周辺での輸送任務に従事しますが、1944年11月初旬の米艦載機のマニラ湾空襲で爆弾と魚雷を多数受け、沈没しました。

 

「足柄」:太平洋戦争開戦時には、第5戦隊の序列を離れフィリピン侵攻作戦の主隊である第16戦隊旗艦となり、同戦隊の所属する第3艦隊の旗艦も併せて務めます。同戦隊はフィリピン攻略戦、ジャワ方面攻略戦に転戦しました。

ついで第2南遣艦隊旗艦となり、シンガポール方面の警備等に従事しました。その後、第5艦隊に所属し北方警備に従事した後、第5艦隊所属のまま、台湾沖航空戦での「残敵掃討」任務(実際には米艦隊にはほとんど損害がなかったため「残敵」などなく、空振りの出撃となりましたが)に出撃し、台湾方面に遊弋中に、志摩艦隊の一員として僚艦「那智」とともにレイテ沖海戦に参加しました。

海戦敗北後、南西方面艦隊所属となり、「日本海軍の最後の組織的戦闘での勝利」と言われる「礼号作戦」に参加した後、南方に分断された艦艇で編成された第10方面艦隊に所属しました。1945年6月、単艦で陸軍部隊の輸送任務中に英潜水艦の雷撃を受け、沈没しました。

 

「羽黒」:太平洋開戦時には、僚艦とともに第5戦隊に所属し、フィリピン作戦、ジャワ方面での作戦に参加しました。その後、第5航空戦隊の直衛として珊瑚海海戦に参加、ミッドウェー海戦を経て、ソロモン方面に進出して第二次ソロモン海戦ブーゲンビル島沖海戦等に参加しています。その後、マリアナ沖海戦では、米潜水艦の雷撃で撃沈された第1機動艦隊旗艦の「大鳳」から、小沢司令部を一時的に収容しました。

続くレイテ沖海戦では、第一遊撃部隊(第2艦隊主隊:栗田艦隊)に編入され、米艦載機の爆撃で損傷を負いながらサマール沖海戦で米護衛空母艦隊を追撃するなど活躍しました。

その後は 南西方面艦隊に所属し、シンガポール方面での輸送任務についていましたが、1945年5月、輸送任務中に英海軍機の攻撃で被弾損傷、その後、英駆逐艦隊と交戦し英駆逐艦の雷撃で沈没しました。

 

以上のように、「妙高級」はそのネームシップである「妙高」を除いて、全てレイテ沖海戦後に失われました。

 

スラバヤ沖海戦

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この海戦は、「妙高級」4隻が揃って参加した海戦です。

第3艦隊によるジャワ方面の攻略戦支援艦隊と、これを阻止しようとした連合国艦隊の間の戦いです。連合国艦隊はイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアの4カ国の巡洋艦駆逐艦で構成されていました。このABDA(America, British, Dutch, Australia)艦隊は巡洋艦5隻と駆逐艦9隻で編成されていましたが、その実態は、シンガポール、フィリピン等の失陥に伴って、拠点を失った各国海軍が周辺から行動可能な艦を寄せ集めて編成したもので、これをオランダ海軍のドールマン少将が指揮しました。

 

ABDA艦隊の編成

軽巡洋艦 デ・ロイテル (オランダ)

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HNLMS De Ruyter (1935) - Wikipedia

同艦はオランダ海軍が植民地警備のために1隻のみ建造した軽巡洋艦です。6642トンの船体に15センチ速射砲(大仰角を取ることが可能で、高角砲としても機能できる)の連装砲塔3基と単装砲1基(砲架形式)、計7門を装備し、32ノットの速力を出すことができました。

大戦直前に東インド植民地艦隊の旗艦の任につきました。 

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(直上の写真は、軽巡洋艦「デ・ロイテル」の概観。142mm in 1:1250 by ??? どこのモデルだったっけ?そびえ立つ塔構造の艦橋が、全体の印象を軽巡洋艦らしからぬ重厚さを醸しています。植民地警備に特化した本艦ならではの外観、と言っていいのではないでしょうか?実は、このモデル、やや重厚に過ぎるようにずっと思っています。ずっと適当なモデルを探してはいるのですが・・・。実はお勧めはRhenania社製の下の写真のモデル。

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ebayなどでは何度か見かけているのですが、なかなか入手できていません。写真はantics onlineから拝借しました。うーん、56£(7300円?)、しかもいつ見てもSold Out。Rhenania 1/1250 De Ruyter, Dutch cruiser, WW2 Rhe77

(直下の写真は、「デ・ロイテル」の特徴的な主砲配置。艦首部に連装砲塔と単装砲架を背負式に、艦尾部には連装砲塔を背負式に配置しています) 

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オランダ軽巡洋艦「デ・ロイテル」のリファイン版

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(直上の写真:オランダ海軍軽巡洋艦「デ・ロイテル」の概観 137mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs)

 

上記の様に求めているのはRhenania社製の模型でしたが、この模型が大変希少なため、なかなか入手できません。そこで、ということで、今回、最近何かとお世話にないっている3Dプリンティングモデル(Tiny Thingamajigs社製)を入手し完成させました。

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(直上の写真は、ABDA艦隊の基幹部隊となったオランダ艦隊の軽巡洋艦「デ・ロイテル」と軽巡洋艦「ジャワ」「デ・ロイテル」はかなりスリムになったのですが、今度は「ジャワ」(Star社製)の乾舷の高さが気になりだしました。Star社のモデルは端正なフォルムで、概ね気に入っているのですが、時折、乾舷が高過ぎる傾向があります。ゴリゴリ削ってみましょうか?まあ、それはいずれまた。今回は大満足!)

 

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(直上写真は新着のTiny Thingamajigs社製モデル(左)と、従来のモデルの比較。そして直下の写真は、両モデルの艦首形状の比較:下段が今回新着のTiny Thingamajigs社製モデル。従来モデルで気になっていたモデルの「大柄さ」は改善されている様に思います。満足!)

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軽巡洋艦 ジャワ(オランダ)

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Java-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ジャワ級」軽巡洋艦の概観。125mm in 1:1250 by Star) 

 

軽巡洋艦「ジャワ」はオランダ海軍が第一次世界大戦後、植民地警備の目的で建造した軽巡洋艦です。5185トンの船体に、15センチ速射砲10門を装備し、30ノットの速力を有していました。魚雷は装備していませんでした。

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(直上の写真は、「ジャワ級」軽巡洋艦の兵装配置。単装砲架を10基搭載し、両舷に対し7射線を確保しています。軽巡洋艦としては強力な砲兵装を有しています。魚雷は搭載していませんでしたが、艦尾部にはかなり大規模な機雷敷設設備を保有しています。植民地警備に特化した本級ならではの特徴と言っていいのではないでしょうか?「ジャワ」はスラバヤ沖海戦で、艦尾に日本海軍の魚雷を受けて轟沈するのですが、これは艦尾の機雷庫の誘爆では?)

 

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(直上の写真は、スラバヤ沖海戦に参加した艦艇。「デ・ロイテル」「ジャワ」の2軽巡に加えて、アドミラル級駆逐艦「コルテノール」「ヴィデ・デ・ヴィット」)

 

重巡洋艦 エクセター(イギリス)

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York-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、重巡洋艦エクセター」の概観。138mm in 1:1250 by Neptune) 

 

エクセター」は「ヨーク級重巡洋艦の2番艦として建造されました。「ヨーク級」は、いわゆる条約型巡洋艦の一連のシリーズに属し、英国の通商航路保護の要求によって隻数を揃えるために、前級「カウンティ級」よりも装甲が強化された代わりに、連装砲塔を1基減じて、排水量を抑え、建造費用を安価にした設計でした。「エクセター」は8390トンの船体に8インチ砲6門を搭載し、53.3cm3連装魚雷発射管を2基、装備していました。速力は32ノットを発揮。

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(直上の写真は、「エクセター」の主砲配置と航空艤装。魚雷発射管の搭載位置:下段写真)

エクセター」は、第二次世界大戦開戦後、大西洋で大暴れしたドイツが放った通商破壊艦(ポケット戦艦)「グラーフ・シュペー」の追跡戦で活躍し、「グラーフ・シュペー」の11インチ砲によって大損害を受けながらも、ラプラタ河口で自沈に追い込んだことで有名になりました。

 

軽巡洋艦 パース(オーストラリア)

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「パース」は、「リアンダー級」軽巡洋艦の改良型として建造された「パース級」軽巡洋艦ネームシップです。「リアンダー級」からの改正点は、機関の配置で、これに伴い、前級「リアンダー級」が船体中央に大きな集合煙突を持ったいたのに対し、本級では二本煙突と、外観に差異が生じています。

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(直上の写真は、オーストラリア海軍「パース級」軽巡洋艦の概観。同級は、英海軍「アンフィオン級」軽巡洋艦として3隻建造され、3隻とも後にオーストラリア海軍に供与されました。135mm in 1:1250 by Neptune)

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(直上の写真は、「パース級」軽巡洋艦の前級(準同型艦)である「リアンダー級」軽巡洋艦の概観。 参考値:「リアンダー級」135mm in 1:1250 by Neptune) 

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直上の写真は、「リアンダー級」軽巡洋艦(上段)と「パース級」軽巡洋艦の概観比較。「パース級」との外観上の相違点は煙突の形式。「リアンダー級」は集合煙突形式ですが、「パース級」は機関配置を変更したため、二本煙突になっています)

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(直上の写真は、「パース級」軽巡洋艦の主砲配置(上段・下段)と艦中央部(中段)。1941年の短期間、「パース」は航空艤装を撤去している。モデルはカタパルトを装備していいないところから、その時期を再現したものかも。魚雷発射管の搭載位置は高角砲搭載甲板の下(下段))

 

同級は3隻が建造され、建造当初は英海軍に属し「アンフィオン」「アポロ」「フェートン」と言う名前で就役しました。後に3隻ともオーストラリア海軍に供与され、それぞれ「パース」「ホバート」「シドニー」と改名されました。

7000トン弱の船体に、6インチ連装速射砲4基、53.3cm4連装魚雷発射管2基を搭載していました。

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(直上の写真は、ABDA艦隊に参加した「エクセター」と「パース」の外観。「エクセター」が重巡洋艦としては、比較的小ぶりであることがわかります。英連邦艦隊はABDA艦隊にスラバヤ沖海戦には2隻の巡洋艦と3隻の駆逐艦で参加しました) 

 

重巡洋艦 ヒューストン(アメリカ)

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Northampton-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune) 

「ヒューストン」は米海軍が建造した条約型重巡洋艦の第2グループ「ノーザンプトン級」の5番艦です。前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。

航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の主砲配置と航空艤装の概観。水上偵察機の格納庫はかなり本格的に見えます(中段)。同級は竣工時には魚雷を搭載していたはずですが、既にこの時点では対空兵装を強化し、魚雷発射管は見当りません) 

 

同型艦は6隻が建造されましたが、そのうち「ヒューストン」を含め3隻が、太平洋戦争で失われました。

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(直上の写真は、ABDA艦隊参加時:スラバヤ沖海戦時のアメリカ艦隊。重巡洋艦「ヒューストン」と「クリムゾン級」駆逐艦4隻:「ジョン・D・エドワーズ」「ポール・ジョーンズ」「ジョン・D・フォード」「オールルデン」「ポープ」が参加しました) 

 

海戦の詳細は例によって他に譲るとして、この46時間の長時間にわたる海戦は、数段階に分けて行われ、その海戦前半はは第5戦隊主隊の戦隊旗艦「那智」と「羽黒」が、そして海戦後半では前半で砲弾も魚雷もほとんどを使い果たした両艦に代わり、第3艦隊旗艦として作戦全般を指揮していた「足柄」と、爆撃による損傷の修理を終えた「妙高」が参加しました。

 

(雑感:酸素魚雷のこと)

こうして改めてその装備を見ると、この時点で、やはり日本海軍の魚雷装備が連合国の装備を凌駕していたことが、かなりはっきりと分かります。日本海軍が61cmの魚雷発射管を全ての重巡洋艦軽巡洋艦駆逐艦が装備していたのに対し、 連合国の雷装は全て53.3cmです。さらにこの時期、日本海軍は酸素魚雷を実装していましたので、その射程、威力には格段の差があったわけです。

海戦の経緯を見ると、日本艦隊はアウトレンジにこだわった戦い方をしたように見えます。これは、緒戦での軍艦に対する極度の損害恐怖症(物量で優位には立てない日本海軍は宿命的にこの損害に対する恐怖感を持っているように感じます。総力戦は、ある程度の損害は盛り込んでおかねばならないのですが、この恐怖感の為、常にどこか一歩踏み込めず、勝利を拡大する機会を失い、あるいは劣勢に対し粘りがなく、淡白になっているような気がするのですが)から来るものか、あるいは圧倒的に優位に立っている酸素魚雷の長大な射程に大きな期待を持った為か、その両者があいまった結果のような気がします。

参考までに、日本海軍の酸素魚雷(93式1型)と米海軍のMk-15(標準的な水上艦用の魚雷)の諸元を比較しておきます。

93式1型(酸素魚雷):直径61cm /炸薬量492kg /雷速40knotで射程32000m, 雷速48knotで射程22000m

Mk-15(空気式):直径53.3cm /炸薬量374kg /雷速26.5knotで射程13700m, 雷速45knotで射程5480m

炸薬の量も、射程も、圧倒的!まあ、このデータを見ると、使って威力を見てみたい、と言うのもなんとなく頷けますね。

確かにABDA艦隊の5隻の巡洋艦のうち、「デ・ロイテル」「ジャワ」の2隻は、夜戦での長距離砲戦では大した損害を受けなかったにも関わらず、明らかに遠距離から日本艦隊の放った魚雷が1本づつ命中し、行き足が止まり撃沈されています。

 

もう一つ、この海戦では上記のように酸素魚雷は大きな戦果をあげているのですが、実は同海戦の前半戦では水中から飛び出したり、自爆したりと言う不備が続発していたようです。これは一つには爆発栓(魚雷を命中と同時に起爆させる装置)の感度設定が高過ぎ、波浪で爆発してしまったことと、投射時の衝撃への耐性が想定より低かった、と言う事が原因として海戦後に解明されたそうです。

妙高級」の竣工時には魚雷の強度が不足する為に、魚雷発射管を上甲板上に設置できず、一段低い船体内に発射管を設置せねばならなかったのですが、大改装の際に、魚雷の強度が向上し上甲板の旋回式の魚雷発射管での装備に変更し、被弾時の魚雷の誘爆対策としたわけです。しかし、実戦ではやはり高速航行での発射など、まだ強度が不足する場面が生じた、と言うことでしょうか。

 

その後の、日本海軍が修めたいくつかの海戦での勝利を見ると(その全てが、巡洋艦駆逐艦主体の小艦隊同士の海戦だったと言っていいと思うのですが)、その殆どが魚雷戦での勝利であるように思われます。やはり、酸素魚雷の長射程、大炸薬量は効果的だった、と言うことかもしれません。

しかし、戦局を大きく左右する戦闘は、圧倒的な戦力を誇る米空母機動部隊の制するところであり、そのような海空戦では、魚雷の出番などあるはずもなく、日本海軍は勝利から遠のいて行くことになります。

戦局へ魚雷が大きな影響を与える事ができる可能性は、実は潜水艦戦にはあったと考えるのですが、優秀な潜水艦部隊を持ちながら、彼らが戦局を左右するような戦果を上げる事はありませんでした。

それでも、輸送船団相手の通商破壊戦での可能性で、日本海軍が構想していた艦隊決戦の前哨戦、と言う位置づけでは、ドイツのUボートが戦争中盤以降、船団相手ですらあれだけ封殺されたことを考えると、空母機動部隊相手では、20000m程度の射程では、やはりあまり効果を上げる機会はなかったかもしれませんね。

  

と言うことで、今回はここまで。

 

このミニ・シリーズ、次回は条約型巡洋艦の集大成ともう言うべき「高雄級」にスポットを当ててお届けする予定です。(その前に、何か挟まるかも・・)

 

引き続き、模型に関するご質問等は、大歓迎です。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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レキシントン級巡洋戦艦、巨大集合煙突デザイン、制作の話

今回は、巡洋艦のお話は少しお休み。

そのかわりに、と言ってはなんですが、以前、モデルの到着をご案内していた「レキシントン級巡洋戦艦」が、一応完成しましたので、ご紹介します。

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今回は、そう言うお話し。

一番最後に投票がありますので、そちらもよろしくお願いします。(申し訳ありません。せっかくの投票を、私の不手際で消してしまいました。再開しますので、お手数ですが皆さん奮って投票をお願いします)

 

本稿で以前ご紹介した「レキシントン級巡洋戦艦

本稿では既に「レキシントン級巡洋戦艦を、「コンステレーション級」巡洋戦艦として、ご紹介しています。

(以下、再録です) 

コンステレーション級(レキシントン級)巡洋戦艦 - Wikipedia

en.wikipedia.org

同級のうちレキシントンサラトガ航空母艦に転用建造され、コンステレーションとコンスティチューションの2隻が建造された。

米海軍はこれまで巡洋戦艦を建造せず、米海軍初の巡洋戦艦となった。

それまで、米海軍の主力艦は21ノットの戦隊速度を頑なに守っており、高速艦で揃えられた日本艦隊、あるいは英海軍のクイーン・エリザベス級、レナウン級、アドミラル級などの高速艦隊に対抗する術を持たなかった。これを補うべく設計された同級であったが、当初の設計では、備砲(16インチ8門)と速力は強力ながら(当初設計では33.3ノット)、その装甲は極めて薄く、ユトランド沖海戦以降に、防御に対策を施した諸列強の高速艦には十分に対抗できるものではなかった。

この為、装甲の強化を中心とした防御力に対する見直しが行われ、代わりに速力を30ノットに抑える、という設計変更が行われた。
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(42,000t, 30knot, 16in *2*4, 2 ships, 213mm in 1:1250 by Hai)

 

コンステレーション級(レキシントン級巡洋戦艦 近代化改装

同級もケンタッキー級に準じた、射撃システムの変更、副砲撤去、両用砲を砲塔形式で装備、上部構造物の一新、等々で目での近代化改装を受け、艦様が一変した。

特に、外観上での米海軍主力艦の特徴の一つであった艦上部構造の前後に佇立する篭マストが、塔状の構造物に置き換えられた。

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直上の写真:舷側に迷彩塗装を施してみた)

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(直上の写真は、コンステレーション級の新造時(上)と最終改装後(下)の艦型の比較)

この最終改装後の形態については、以下の3Dプリンティングモデルを使用しています。

www.shapeways.com

 

もし、本稿での記述に関心がある方は、下記も合わせてお楽しみください。

fw688i.hatenablog.com

fw688i.hatenablog.com

 

レキシントン級巡洋戦艦の別案制作

さて、3月28日の投稿で、以下の写真をチラッとご紹介しました。

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レキシントン級巡洋戦艦は、アメリカ海が初めて計画した巡洋戦艦です。ダニエルズ・プランで6隻の建造が計画されていましたが、ワシントン海軍軍縮条約の下で建造が中止され、そのうち起工していた「レキシントン」と「サラトガ」はその高速性により空母に転用、大型空母としてとして完成されました。この辺りの経緯は、日本海軍の空母「赤城」「天城」建造の経緯と酷似しています。

この巡洋戦艦転用の「レキシントン級」空母の最大の特徴は、なんと言っても巡洋戦艦に搭載予定であった巨大な機関に由来する巨大な煙突だと思っています。(写真↓)

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下の写真は「レキシントン級巡洋戦艦のオリジナル案の一つで、五本煙突に見えますが、実は写真の2番目と4番目の煙突は左右に並列状態で配置されており、実は七本煙突なのです。この案で建造されていたなら、「七本煙突の4万トンを超える巡洋戦艦」と言う大変ユニークな艦型になっていたかもしれません。

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七本煙突、が意味するところは、非常に大きな機関を搭載していた、と言うことで、繰り返しになりますが、その強力な機関が生み出す高速力が、飛行甲板に適した長大な艦型と併せて空母に適していると言うことで空母に転用されたわけです。
空母に転用されるには、艦載機の発着艦に影響を発生させそうな煙突を巡洋戦艦案のように乱立させるわけには行かず、集合煙突とした結果、あの巨大な煙突が生まれたわけです。

 

ここからはちょっと本稿と模型の話。

本稿では、前述のように、IF艦を登場させるために(私の個人的な趣味ですので、ご容赦を)ワシントン体制はもう少しゆるい形で成立し、「レキシントン級巡洋戦艦は「レキシントン」「サラトガ」は空母として完成され、巡洋戦艦としては「コンステレーション」と「コンスティチューション」の2隻が建造されることになり、既に上述のように2本煙突の巡洋戦艦として、模型を製作していました。

今回の別案作成のきっかけは、そもそもは、空母「レキシントン」の巨大な煙突を転用して、何か面白いものを作れないだろうか、と突然思い立ち(常のことです)、ならばいっそこの煙突を搭載した「レキシントン級」を作ってみようかと。実は、竣工時も作っちゃおうかと考えて、煙突は二つ入手してはいるのですが、ベースになるはずの3Dプリンティング・モデルが、何らかデータの不備で入手できなくなってしまい、今回は、最終改装時のモデルだけのご紹介になります。ご容赦を。

ベースとなった3Dプリンティングモデルは下記です。

www.shapeways.com

このモデルの煙突をゴリゴリと除去し、Deagostini社の空母「サラトガ」の完成模型(プラスティックとダイキャストのハイブリッドモデル)から拝借した巨大な集合煙突(プラスティック製)を移植したものが、下の写真です。f:id:fw688i:20200328161044j:image

このモデルの設定では、二本煙突案の「レキシントン級巡洋戦艦を近代改装後の対空砲強化の際に、上甲板にケースメート形式で搭載していた副砲を廃止して単装5インチ両用砲を搭載したと言う想定になっています

ちなみに、データの不備で入手出来なかったもう一つの竣工時のモデルが下記です。

www.shapeways.com

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作りたかったなあ。

(ちょっと制作のさらに裏話。上記のモデル、もしかするとSmooth Fine Detail Plasticと言う素材であれば、入手可能かもしれません。しかしこの素材、以前に少しお話しした記憶があるのですが、硬度が高く、細部の再現性は格段に高いのですが、その分、高価($65.94+送料)。かつ、船体の一部の除去と移植(煙突と艦中央部のボート甲板等を除去して、巨大な集合煙突を移植)というような加工作業が想定される今回のようなケースでは、私の手には余るかと。パーツの除去作業を行うと、多分船体が割れてしまう。・・・・ということもあって、入手を断念、という事情もあります。と言っていても、まあ、余裕のある時には、あるいはすごく退屈した時にはトライするかも。これも、また楽しみの先送り、ということにしておきましょう

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(いっそこのダイキャストモデルを潰してしまおうか?一隻完成模型を潰すことになるので、ちょっと勇気が要りますが。このHai製、ウン?Delphin製かな?どちらにせよこの両社のモデルであれば、上部構造は分割しやすい構成になっているはずなので、煙突の移植(換装)作業は比較的楽、かもしれません)

 

一方、七本煙突デザインは、当時の米海軍の戦艦の標準主砲であった14インチ砲10門搭載の初期案で、実は昨日(4/25)下記のモデルを発注。到着したら、まずはストレートに作ってみます。それはまたいずれご紹介します。

www.shapeways.com

 

本当は七本煙突デザインモデルも含め、七本煙突当初計画案:14インチ主砲搭載➡️竣工時集合煙突:16インチ主砲搭載➡️集合煙突一時改装時:副砲を単装高角砲に換装(これが今回製作したものですね)➡️二本煙突最終改装時:単装高角砲を連装高角砲に換装(こちらは本稿で以前に紹介したモデルです)、という一連の流れを作りたいという、少々大きな計画を持っています。(となると、やはり今回入手できなかった二本煙突竣工時のモデルを入手し、これをベースに集合煙突竣工時をどうやって制作するか、ということになりますね。困ったなあ、でもちょっと楽しい)

 

 

と、ごちゃごちゃと裏話を書きましが・・・。 

完成がこちら。(やはりなんと言っても巨大集合煙突が目を引きますね。煙突の中央にDeagostini製空母「サラトガ」にならい、中央に黒の太いラインを入れてみます。二本煙突に見えるような偽装、でしょうかね。まあ、この巨大な煙突は、放っておくと標的としては最適でしょうねえ)f:id:fw688i:20200426140053j:image

次いで、二本煙突デザインとの比較。

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(この直上の撮り方だと、近代化改装のバリエーション、枝分かれ的なストーリーラインが見えてきますね。

上の写真からは「一番艦の「コンステレーション」は近代化改装の際に巨大集合煙突を採用したが、二番艦の「コンスティチューション」は改装時期が少し遅くなったため、機関も換装、二本煙突に上部構造をコンパクト化した。その為、同型艦ながら異なる艦影を持つことに」という感じでしょうか。

一方下の写真からは、「第一次改装で副砲を撤去し、対空兵装強化のために単装両方砲に換装。その後、最終改装時に、機関経緯等も更新し、標的となる恐れの大きい巨大煙突を、コンパクトな二本煙突に換装。弱点を減らせるための改装ではあったが、長年親しんだ艦影を惜しむ声が」という感じでしょうか?あるいは「日本海軍との海戦で、一番艦は格好の標的となり轟沈。大損害を受けながらも生還した二番艦は、修復時に巨大煙突を撤去し上部構造をコンパクト化。併せて対空兵装を強化」というような感じでもいいかもしれません

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皆さんはどちらのデザインがお好みですか?ぜひご意見を。(広告消して=×、投票してください。+++申し訳ありません。せっかくの投票を、私の不手際で消してしまいました。再開しますので、お手数ですが皆さん奮って投票をお願いします)

 

あるいは、こんなストーリーだってあるんじゃないの、というようなお話も、もちろん大歓迎です。

 

まあ、この巨大な煙突は、敵方に格好の照準目標を与えてしまうのかもしれませんが、しかし、デザインとしては好きだなあ。作って良かった、となんとなくニヤニヤしています。

 

ということで、今回はここまで。 

次回は「平賀デザイン」の重巡洋艦、誕生」というタイトルで「妙高級」重巡洋艦にスポットを当ててお届けする予定です。(多分)

 

引き続き、模型に関するご質問等は、大歓迎です。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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お詫びと訂正:日本海軍巡洋艦開発小史(その4) 平賀デザインの巡洋艦

 表題中の「青葉級」紹介の際に、事実誤認がありました。お詫びします。

 

「青葉」はサボ島沖夜戦で損傷し、その復旧の際に予備砲身がないために3番砲塔を修復しなかったので、大戦末期を再現した掲載した写真の姿はありえない、という主旨の記述をしましたが、実際にはその後のガビエン方面での空襲による損傷復旧の際に、3番砲塔を復旧していました。お詫びして訂正します。

 

青葉級重巡洋艦 -Aoba class heavy cruiser-(青葉:1927-1945 /衣笠:1927-1942)   

ja.wikipedia.org

Aoba-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「青葉級」の概観。 148mm in 1:1250 by Neptune : 写真はNeptuneの説明では1944年の「青葉」の姿、ということになっていますが、後述のように同艦は1942年の損傷修復の際に3番砲塔を撤去しており、この姿では復旧していません。併せて僚艦の「衣笠」は1942年に既に失われていますので、この形態の艦は存在しないことになります。模型の世界ですので往々にしてこういうことが・・・。まあ、「青葉」が完全修復していたら、とうことでご容赦を<<<お詫び:と書きましたが、よく調べると、サボ島沖夜戦での損傷後は外されていた3番砲塔は、その後の復旧の際に復旧されていました。従って、レイテ沖海戦等には、写真の姿で臨んでいます)

 

上述のように、 「古鷹級」のいくつかの課題に改訂を加えて生まれたのが「青葉級」です。

本来は「古鷹級」の3番艦、4番艦として建造される計画だったのですが、同級の計画中に次級「妙高級」の基本設計が進められており、この内容を盛り込んだ、いわば「妙高級の縮小型」と言う性格も併せ持つ改訂となりました。

最大の変更点はその主砲を「古鷹級」の単装砲架形式から連装砲塔形式に変更したところで、この変更により、前述のように装弾系が射撃速度の維持等の点で問題のあった人力から機装式となり、格段な戦力強化につながりました。(後年、これに基づいた兵装転換が「古鷹級」にも行われ、同級の運用上の効率が向上した事は、前述の通りです)

 

「連装砲塔」の話

設計者の平賀が船体の設計上の要件から、強いこだわりを持っていた単装砲架形式での主砲搭載であったわけですが、本来同型艦であったはずの「青葉級」での、この連装砲塔形式への改定については、その承認経緯に諸説があります。既に設計が進んでいた平賀自身が携わっていた次級「妙高級」での連装砲塔採用が決まっていたことから、ようやく砲術上の要求を自覚した、とする説や、平賀の外遊中に平賀に無断で傭兵側の要求に基づく設計変更が行われ、帰朝後にこれを聞いた平賀が激怒したが、既に変更不能となっていた、など、都市伝説に類するよう話まで、いろいろとあるようです。

 

また、この変更により、船体強度に無理が生じる事はなく、それに伴う重量の増加(300トン程度)にも関わらず速力が低下するような事はありませんでした。(35ノット)

その他の変更箇所としては、新造時からカタパルトを搭載している事で、これにより水上偵察機による索敵能力が強化されました。さらに対空兵装として、新造時から12センチ単装高角砲が4門搭載されました。

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(直上の写真は、「青葉級」(上段)と大改装後の「古鷹級」の航空艤装の比較。整備甲板とカタパルトの配置の相違がよくわかります。ちょとわかりにくいですが「青葉級」の魚雷発射管は水偵の整備甲板の下に装備されています)

 

その戦歴

「青葉」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊旗艦として僚艦「古鷹」「加古」「衣笠」と共に内南洋部隊(第4艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第8艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛島に活躍しました。

その後、1942年10月の前述の「古鷹」が失われた「サボ島沖夜戦」で、米艦隊の奇襲で、艦橋に被弾し第6戦隊司令官が戦死するなど、大損傷を受けて内地に帰還し修復を受けました。その際に予備砲身のない第3主砲塔を撤去しています。

その後再びラバウルの第8艦隊所属となりますが、再び同方面で空襲により被弾、浅瀬に座礁してしまいます。

内地に帰還して再度修復後(追記:この修復の際に、3番主砲塔を復旧しています)は、第16戦隊旗艦として戦線に復帰します。速力が28ノットに落ちたこともあり主としてシンガポール方面での輸送任務に従事しました。その後、一時的に第16戦隊に編入された重巡「利根」「筑摩・などを率いてインド洋方面での通商破壊戦を行います。

レイテ沖海戦では後方での兵員輸送に携わりますが、ルソン島西方沖で米潜水艦の雷撃で大破し、三度、内地に帰還します。しかし損傷が大きく呉での修理の見込みの立たないまま、呉軍港で係留状態で浮き砲台となり対空戦闘を行いますが、1945年7月の米軍機による呉軍港空襲で被弾し、右舷に傾斜して着底してしまい、そのまま終戦を迎えました。

 

 

 

日本海軍巡洋艦開発小史(その4) 平賀デザインの巡洋艦

平賀デザイン

平賀譲は大正期から昭和初期にかけて日本海軍の艦政本部で鑑定設計に従事しました。

その設計の根幹は、少し乱暴に整理してしまうと、日本海軍が誕生から負わされた大命題、乏しい資源と予算を条件として如何に最大級の戦闘力を生み出すか、と言う一点に集約され、 コンパクトな船体と重武装の両立を追い求めたところにある、と言えるのではないかと考えます。

その秀逸な発想から「造船の神様」と賛辞する声がある一方、人の意見に耳を貸さないところから「平賀不譲(=譲らない)」と異名をつけられるなど、毀誉褒貶の多い人物でもあったようです。

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本稿でもかつて紹介した映画「アルキメデスの大戦」では、おそらくこの平賀譲をモデルにした平山造船中将(田中泯さんが演じていました。さすがに抜群の存在感!)を紹介しましたが、映画では(コミックでも)大艦巨砲主義を推進する、あるいは自身の技術を示すために大艦巨砲主義者を利用するかなり政治的な存在としてとして描かれていると感じました。しかし、今回本稿の準備で資料を当たった感触では、実物はもっと一本気で周りのことは目にも入らない芸術家肌ではなかったのかな、と感じます。

天才の常として、理想の実現に向けては現有する技術の限界(造艦当事者)や、運用者(用兵当事者 )の思惑など気にしない、純粋な職人気質ではなかったかと。その為、往々にして、彼の設計はより工数がかかる、あるいはより難度の高い工作技術を要する、など、本来は限られた予算の中での有効解の発見であったはずのミッションが、時としてより高価で、量産には向かない、などの結果を生じることになりました。この辺り、零式艦上戦闘機を開発した堀越技師とも何かしら共通点があるように感じます。

或いは、「目指すべき量産」とは言いながら、来るべき「総力戦」の規模の「量産」には到底到ることが出来ない国力の限界の中で、「総力戦」に適応する造形を求められた技術者の苦悩の軌跡、と言えるのかもしれません。

 

ともあれ、平賀譲がこの大正期から昭和初期のかけて次々に生み出した画期的な設計の一連のコンパクト重武装艦は、第一次世界大戦後の列強に強い警戒感を生み出し、やがてワシントン海軍軍職条約、その制限範囲を補助艦艇にまで広げたロンドン海軍軍縮条約などの流れを強める一因ともなった、と言われています。

 

平賀マジック、始まり、始まり!

軽巡洋艦 夕張 -Yubari light cruiser-(1923-1944 )  

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

 

「夕張」は、 元々、5500トン級軽巡洋艦の9番艦(「球磨級」5隻に続く「長良級」第1期の4番艦)として建造予定だったものを、折からの不況の影響を受け予算の逼迫等の要因から、設計変更したと言う経緯で建造されました。

設計は、当時造船大佐だった平賀譲が主導し、その建造経緯は上記のようなどちらかと言うと後ろ向きなものがきっかけではありましたが、元々は本稿の初期でも触れてきたつもりですが、日本海軍設立の根本に、資源に乏しく、資金にも限界のある国が、その限界の中で国を守るための最大武装を持つには、と言う大命題と同軸線上にあるものでした。それがこの機に具現化され、画期的な軍艦が誕生し、世界を驚かせた、と言っていいでしょう。

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」(手前)と5500トン級軽巡洋艦(「長良」)の概観比較。5500トン級よりもひとまわり小さな船体に、航空兵装をのぞきほぼ同等の兵装を搭載し、周囲を驚かせました)

 

設計の基本骨子は、5500トン級と同等の兵装と速度を3000トン弱の船体で実現すると言うものでした。すべての主砲を船体の中心線上に配置、前後それぞれ単装砲と連装砲の背負式として、5500トン級に比べると主砲の搭載数は1門減りましたが、両舷に対し5500トン級と同様の6射線を確保しました。同様に連装魚雷発射管を中心線上に配置することにより、発射管搭載数は半減したものの、両舷に対して確保した射線4は、5500トン級と同数でした。

 

「背負式砲塔」の配置の話

「夕張」の主砲は前述のように、単装砲と連装砲塔を背負式に、艦前部と後部に振り分け配置して搭載しているのですが、単装砲を低甲板に、一段高い甲板に連装砲等を配置する形式をとていました。この門数の多い砲塔を高い位置に搭載する配置は、平賀デザインでは、後の有名は「金剛代艦級」の設計案でも登場します。素人目には逆の方が重心的に安定感が出るような感じがして、最初、なん予備知識もなく「金剛代艦」の設計を見た際には「ああ、このスケッチ、間違ってるなあ」となんの違和感もなく、思ったものでした。

より強力な砲塔に広い射界を持たせるため?発射弾数の多い砲塔により大きな弾庫を確保するスペースを確保するため?より重い砲塔に大きな動力を与えるため?どういう狙いがあったんでしょうか?

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の主砲搭載形態を示したもの)

 

機関は、当時高速化が進んでいた駆逐艦型式を導入して、小型化・軽量化が図られ、36ノット(就役当初)を発揮することができました。

防御装甲として、軽巡洋艦としては初めて防御甲板を設け、船体外板の内側のインターナル・アーマー形式で、軽巡「川内級」と同等以上の防御力を得ていた、と言う評価もあるようです。

そのほかに特筆すべきこととして、誘導煙突の導入が挙げられます。

 

「誘導煙突」の話

これは、コンパクトな船体と、強力な武装、そして高機動力を並立させる上では、大変重要な工夫です。つまり、大きな武装の搭載にはスペースが必要で、かつ高出力の機関も同様に大きなスペースを必要とします。さらに、高度化する射撃管制等のシステムには、指揮スペースにも大きなものが必要です。これらのそれぞれの要求をコンパクトな船体で兼備しようとすると、直立の煙突では無理は生じ、例えば艦橋下にまで伸長して設置された機関からの煙路を「誘導」する必要が生じるわけです。

このように、ある意味、日本海軍の置かれた環境から生じた必然として、以後、この誘導煙突(集合煙突)は、日本の軍艦(特に巡洋艦)の特徴となってゆきます。

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(直上の写真2点は、軽巡洋艦「夕張」の誘導煙突。いずれの写真も上段は竣工直後の誘導煙突。当初、高さが十分でなく、排煙が艦橋に逆流するなどの不都合があったため、後に下段のように高さが改められました。誘導煙突は艦橋下から延長されており、機関と兵装、その指揮系統のパズルのような配置への工夫が想像されます)

 

こうしてコンパクトな船体と強力な兵装の両立という課題を実現した高い評価を得た「夕張」ではありましたが、そのコンパクトさ故に、偵察機搭載のための航空艤装スペースを持てず索敵能力が十分でないこと、また、今後の兵装の拡張性に対する適応余地がほとんどないこと、などから、艦隊の先兵を務める水雷戦隊旗艦、偵察巡洋艦としての実戦での用兵価値が低く、実際の建造は一隻に止まりました。

しかし、上述の「誘導煙突」のみならず、「夕張」で試された種々の新機軸、設計上の試みは、以降の日本の軍艦設計に大きな影響を残してゆきます。

 

その戦歴

太平洋戦争開戦時には、内南洋(中部太平洋委任統治領)の警備を担当する第4艦隊、第3水雷戦隊の旗艦を務めました。太平洋緒戦でほぼ唯一日本軍が苦戦したウエーク島攻略戦に参加したのち、ラバウル、ラエ・サラモア、ブーゲンビル、ポートモレスビー 攻略戦に活躍しました。

その後、第3水雷戦隊の解体に伴い第2海上護衛隊に転籍したが、主としてそれまでと同様、ソロモン諸島ニューギニア方面で活動を続けました。

米軍のガダルカナル島侵攻に伴い、米軍の揚陸を阻止すべく出撃した新編成の第8艦隊(外南洋警備担当)に帯同して、第一次ソロモン海戦に参加しました。その後中部太平洋方面での護衛任務の後、正式に第8艦隊所属となり、ラバウル、ブーゲンビル方面での、警備・護衛任務につきました。

ラバウルで米軍機の爆撃で被弾、内地で修理の後、再び第3水雷戦隊旗艦として中部太平洋方面艦隊所属となり、同方面での船団護衛の任務に就きます。1944年4月、ソンソル島(パラオの南西)への輸送任務から帰投中に、米潜水艦により撃沈されました。

 

平賀デザイン 第二弾! 日本海重巡洋艦の草分け 

古鷹級重巡洋艦 -Furutaka class heavy cruiser-(古鷹:1926-1942 /加古:1926-1942)  

Japanese cruiser Yūbari - Wikipedia

ja.wikipedia.org

Furutaka-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「古鷹級」の概観。 146mm in 1:1250 by Trident : 新世代の偵察巡洋艦として、初めて20cm主砲を搭載しました。下は「古鷹」と「加古」)

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前出の「夕張」で成功した手法を発展させ、平賀譲が設計主導をした第二陣が、この「古鷹級」巡洋艦です。

本来は、有力な火力を持つ米海軍の「オマハ級」軽巡洋艦に対抗して、これを凌ぐ重武装偵察巡洋艦として設計されました。

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(直上の写真は、「古鷹級」(奥)と5500トン級軽巡洋艦(「長良」)の概観比較。5500トン級よりも二回りほど大きな船体を有しています)

 

そうした意味では5500トン級軽巡洋艦の強化形で、二回りほど大きな7000トン級(設計時)の船体に主砲口径を20センチとして、これを砲塔形式の単装砲架6基、艦首部に3基、艦尾部にそれぞれ3基に振り分け、中央の砲架がを一段高くすると言うピラミッド型に配置しています。

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(直上の写真は、「古鷹級」の特徴的な主砲配置。艦首部と艦尾部に、それぞれ中央部が一段高いピラミッド型の配置で装備されました)

 

雷装としては、61センチ連装発射管を船内に固定式で各舷3ヶ所に配置、都合各舷に対し6射線を有していました。

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(直上の写真は、「古鷹級」の船内に配置された連装魚雷発射管:舷側の2連の円形がそれです。各舷に3箇所、艦首部に1箇所、艦やや後部に2箇所配置されています。艦内に魚雷発射管を装備することには被弾時の魚雷の誘爆など、懸念がありましたが、同級竣工時の魚雷には上甲板からの射出時の衝撃に耐えられる強度が確保されていなかったようです)

 

船体中央部にボイラー12基からなる機関を配置し、34.5ノットの速力を発揮しました。

「夕張」で試みた誘導煙突を利用して、前後に大きな主砲用のスペースを取り、中央の機関スペースの上に艦上構造を載せる設計となっています。

さらに、後部砲塔群上の滑走台から発艦させる形式で、索敵用の水上偵察機を搭載していました。 

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(直上の写真は、「古鷹級」の誘導煙突(上段)と水上偵察機の発艦用の滑走台。発艦時には水偵の搭載台である4番砲塔を発艦向きに旋回させ、その先の滑走台もその向きに、レールに沿って移動させました。滑走台の真下あたりに魚雷発射管が見えています)

 

主砲単装砲架の話

「古鷹級」の最大の特徴は、前後に振り分け配置されたピラミッド型配置の20センチ砲単装砲架ですが、課題の多い装備だったとされています。

単装砲形式については、設計者の平賀が艦の安定性の視点で強く拘ったと言われています。その砲塔形式の単装砲架は、重量軽減の視点から本格的な砲塔ではなく、断片防御程度の軽装甲しか施されていない「砲室」でした。かつ、揚弾、装填などの作業の多くを人力に依存する構造であった為、100キロを超える砲弾を扱う本級の場合、射撃速度の維持が困難であったと言われています。

本級よりもはるか以前に設計された「伊勢級」戦艦では、日本人の体格を考慮して人力装填の副砲口径を前級「山城級」の15.2cmから14cmに下げた経緯を持つ同じ海軍で、なぜこのような決断が下され、それに拘ったのか、これこそが「不譲」と言われる平賀の性格と、誕生期の闊達さを失い官僚的になりつつあった海軍中央の課題の、現れであったと言えるかもしれません。

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この課題の単装砲架は、後に次級の「青葉級」と同様の連装砲塔形式に変更されました。この兵装の転換は大成功で、艦構造は大きな変更を行わなかったにも関わらず、射撃の安定性などに問題は生じず、用兵者側の運用は格段に優れたものになった、と言われています。

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(直上の写真は、「古鷹級」の主砲の換装前後を示したもの。竣工時の単装砲架配置から、次級「青葉級」で実績の出た連装砲塔形式への換装が行われました:1936-1939)

 

ロンドン海軍軍縮条約で生まれた「重巡洋艦」(カテゴリーA)の話

ロンドン条約では「主砲口径が6.1インチを超え、8インチ以下で、10000トン以下の艦」をカテゴリーA:重巡洋艦とすると言う定義が行われることになります。この定義は、「夕張」「古鷹級」と言う画期的なコンパクトな重武装艦を生み出し始めた日本海軍を警戒して列強が定め、「古鷹級」とこれに続く「青葉級」をカテゴリーAの総排水量の中でカウントし、その保有数に限界を持たせることを狙ったとも言われています。

同様の制約は、その他の補助艦艇に対する制約でも現れます。その一つが機雷敷設艦艇での制限で、ここでは新造される機雷敷設艦の最大速力を20ノットと制限することで、日本海軍が高速で強力な兵装を持つ、軽巡洋艦或いは重巡洋艦に匹敵するような高速機雷敷設巡洋艦保有することを制限する狙いがあった、と言われています。これも「夕張」「古鷹級」のもたらした副産物と言えるかもしれません。
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(直上の写真は、上述の機雷敷設艦津軽」:104mm in 1:1250 by Neptune  4000トンの船体を持ち、条約制限いっぱいの20ノットの速力を有していました。「津軽」は12.5cm 連装対空砲を2基を主砲として搭載していますが、準同型艦の「沖島」は軽巡洋艦と同等の14cm主砲を連装砲塔形式で2基、保有していました。ロンドン海軍軍縮条約で、機雷敷設艦等の補助艦艇には最高速力を20ノット以下とする、という制限がかかりましたが、これは、「夕張」「古鷹級」等のコンパクト重装備艦の登場を警戒した列強が、機雷敷設艦の名目で日本海軍が軽巡洋艦として運用できる強力な敷設巡洋艦を建造することを予防した、と言われています。実際に太平洋戦争では、中部太平洋ソロモン諸島方面で輸送船団の護衛や、自ら輸送・揚陸任務など、高速を必要とする水雷戦隊旗艦島の任務を除けば他の軽巡洋艦と同等に活躍しています)

 

「古鷹級」の大改装 

前掲の写真のキャプションでも少し触れましたが、「古鷹級」は1936年から1939年にかけて、次級「青葉級」の要目に準じた、大改装を受けます。その改装項目は、主砲の単装砲架から連装砲塔への換装、魚雷発射管の4連装発射管への換装と上甲板への移転、対空砲の換装(8cm 単装高角砲から12cm単装高角砲へ)、航空艤装の換装(滑走台からカタパルトへ)、機関を重油専焼形式へ統一、舷側への安定性向上のためのバルジ装着等、多岐に渡りました。

これにより同級の外観は一変し、「青葉級」と類似した外観となります。

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(直上の写真は、大改装後の「古鷹級」の概観。直下の写真は、大改装前(上段)と大改装後の「古鷹級」の概観比較。バルジの装着などでやや速度は低下しました)

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(直上の写真は、主砲搭載形式の大改装前後の比較:単装砲架から連装砲塔へ。この際に、主砲口径が正20センチから、条約制限いっぱいの8インチ=20.3センチに拡大されました)

 

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(直上の写真は、航空艤装の大改装前後の比較:大改装前の滑走台方式(上段)からカタパルト方式へ)

 

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(直上の写真は、雷装形式の大改装前後の比較:船内の連装発射管形式から上甲板の4連装魚雷発射管へ

 

その戦歴

「古鷹」:太平洋開戦時には、僚艦「加古」「青葉」「衣笠」と第6戦隊を編成し、内南洋部隊(第4艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第8艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛任務等に活躍しました。

1942年10月、ガダルカナル揚陸作戦に支援部隊として出撃中、サボ島沖で、米艦隊の初のレーダー索敵による奇襲を受け、同部隊の旗艦「青葉」の被弾後離脱(戦隊司令官戦死)援護のため前衛に出たところを集中射撃を受けて行動不能となり、やがて沈没しました。

 

「加古」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊の一艦として上記の「古鷹」等と行動を共にします。

1942年8月、第1次ソロモン海戦に第6戦隊の僚艦とともに参加し、記録的な勝利を収めた(戦略的には課題が多いとされますが)後、ニューギニア・ガビエンに帰投中に、米潜水艦の雷撃を受け、魚雷3本が命中し、沈没しました。

魚雷の初弾披雷から転覆沈没までわずか6分ほどであったとされ、この早期の転覆の一因として、平賀デザインの機関部の中央縦隔壁の存在が挙げられています。この縦隔壁については、設計当初から、浸水時の復元性喪失による転覆を早める恐れがある等の指摘が行われていたと言われています。

 

「平賀デザイン」の改訂版

青葉級重巡洋艦 -Aoba class heavy cruiser-(青葉:1927-1945 /衣笠:1927-1942)   

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Aoba-class cruiser - Wikipediaf:id:fw688i:20200506161108j:image

(直上の写真は、「青葉級」竣工時の概観。 148mm in 1:1250 by Semi-scratched based on Trident : Trident社製「古鷹級:竣工時」のモデルをベースに、主砲搭載形式、高角砲、水上偵察機搭載形式、等をセミクラッチし、「青葉級」の竣工時を再現してみました。実際には艦橋構造、煙突の形状などがもっと異なっていたようです)

 

 

「古鷹級」のいくつかの課題に改訂を加えて生まれたのが「青葉級」です。

本来は「古鷹級」の3番艦、4番艦として建造される計画だったのですが、同級の計画中に次級「妙高級」の基本設計が進められており、この内容を盛り込んだ、いわば「妙高級の縮小型」と言う性格も併せ持つ改訂となりました。

最大の変更点はその主砲を「古鷹級」の単装砲架形式から連装砲塔形式に変更したところで、この変更により、前述のように装弾系が射撃速度の維持等の点で問題のあった人力から機装式となり、格段な戦力強化につながりました。(後年、これに基づいた兵装転換が「古鷹級」にも行われ、同級の運用上の効率が向上した事は、前述の通りです)

 

「連装砲塔」の話

設計者の平賀が船体の設計上の要件から、強いこだわりを持っていた単装砲架形式での主砲搭載であったわけですが、本来同型艦であったはずの「青葉級」での、この連装砲塔形式への改定については、その承認経緯に諸説があります。既に設計が進んでいた平賀自身が携わっていた次級「妙高級」での連装砲塔採用が決まっていたことから、ようやく砲術上の要求を自覚した、とする説や、平賀の外遊中に平賀に無断で用兵側の要求に基づく設計変更が行われ、帰朝後にこれを聞いた平賀が激怒したが、既に変更不能となっていた、など、都市伝説に類するよう話まで、いろいろとあるようです。

 

また、この変更により、船体強度に無理が生じる事はなく、それに伴う重量の増加(300トン程度)にも関わらず速力が低下するような事はありませんでした。(35ノット)

その他の変更箇所としては、設計時からカタパルトの搭載を計画していた事で、これにより水上偵察機による索敵能力の強化されるはずでした。しかし、竣工時には予定していたカタパルトは間に合わず、当面は水上偵察機を水面に下ろして運用することとなりました。さらに対空兵装として、新造時から12センチ単装高角砲(当初はシールドなし)が4門搭載されました。

 

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(直上の写真は、今回製作した「青葉級」の特徴を示したもの。連装主砲塔(上段)、単装12センチ高角砲(中段)、航空艤装(下段)。舷側には「古鷹級」と同様に船体内に装備された魚雷発射管の射出口が見えています)

 

竣工時には間に合わなかったカタパルトは、1928年から29年にかけて順次装備され、水上機の運用はカタパルトからの射出により格段に改善されました。

雷装は、就役当初は「古鷹級」と同様の船内に固定式の魚雷発射管を各舷6門づつ装備していました。後に近代化改装の際に上甲板上の旋回式4連装魚雷発射管2基に改められました。

 

大改装後の「青葉級』

同級の大改装による大きな変更点は、魚雷発射管の装備形式を、竣工以来、被弾時の誘爆によるダメージに憂慮のあった船体内に装備した連装発射管6基から、上甲板上に設置した4連装発射管からの射出に改めたこと、単装高角砲をシールド付きに改めたこと、さらに、魚雷発射管上に水上偵察機の整備・運用甲板を設けたことです。

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(直上の写真は、「青葉級」:大改装後の概観。 148mm in 1:1250 by Neptune : 写真はNeptuneの説明では1944年の「青葉」の姿、ということになっていますが、後述のように同艦は1942年の損傷修復の際に3番砲塔を撤去しており、この姿では復旧していません。併せて僚艦の「衣笠」は1942年に既に失われていますので、この形態の艦は存在しないことになります。模型の世界ですので往々にしてこういうことが・・・。まあ、「青葉」が完全修復していたら、とうことでご容赦を<<<お詫び:と書きましたが、よく調べると、サボ島沖夜戦での損傷後、一旦外されていた3番砲塔は、その後の修復の際に復旧されていました。従って、レイテ沖海戦等には、写真の姿で臨んでいます)

 

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(直上の写真は、「青葉級」(上段)と大改装後の「古鷹級」の航空艤装の比較。整備甲板とカタパルトの配置の相違がよくわかります)。ちょとわかりにくいですが「青葉級」の魚雷発射管は水偵の整備甲板の下に装備されています)

 

その戦歴

「青葉」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊旗艦として僚艦「古鷹」「加古」「衣笠」と共に内南洋部隊(第4艦隊基幹)に編入されグアム、ウエーク攻略戦に従事します。史上初の空母機動部隊同士の海戦である珊瑚海海戦、ガダルカナル島攻防の緒戦、第1次ソロモン海戦に外南洋部隊(第8艦隊)の一員として参加。その後も、同艦隊所属としてガダルカナル島を巡る輸送作戦の護衛島に活躍しました。

その後、1942年10月の前述の「古鷹」が失われた「サボ島沖夜戦」で、米艦隊の奇襲で、艦橋に被弾し第6戦隊司令官が戦死するなど、大損傷を受けて内地に帰還し修復を受けました。その際に予備砲身のない第3主砲塔を撤去しています。

その後再びラバウルの第8艦隊所属となりますが、再び同方面で空襲により被弾、浅瀬に座礁してしまいます。

内地に帰還して再度修復後(追記:この修復の際に、3番主砲塔を復旧しています)は、第16戦隊旗艦として戦線に復帰します。速力が28ノットに落ちたこともあり主としてシンガポール方面での輸送任務に従事しました。その後、一時的に第16戦隊に編入された重巡「利根」「筑摩・などを率いてインド洋方面での通商破壊戦を行います。

レイテ沖海戦では後方での兵員輸送に携わりますが、ルソン島西方沖で米潜水艦の雷撃で大破し、三度、内地に帰還します。しかし損傷が大きく呉での修理の見込みの立たないまま、呉軍港で係留状態で浮き砲台となり対空戦闘を行いますが、1945年7月の米軍機による呉軍港空襲で被弾し、右舷に傾斜して着底してしまい、そのまま終戦を迎えました。

 

「衣笠」:太平洋戦争開戦時からガダルカナル緒戦まで、第6戦隊の一艦として僚艦「青葉」「古鷹」「加古」と行動を共にします。

サボ島沖海戦で僚艦「古鷹」が失われ、第6戦隊旗艦の「青葉」が損傷を受け内地に引き上げ、第6戦隊が解体された後も「衣笠」は第8艦隊の基幹戦力として、ソロモン海方面でガダルカナル島への輸送をめぐる戦闘を継続します。

1942年11月、第3次ソロモン海戦の第二ラウンドにガダルカナル島ヘンダーソン飛行場砲撃部隊(第7戦隊:重巡「鈴谷」「摩耶」基幹)の支援に出撃。砲撃成功後、合流して帰投中に、米軍機の数次の雷爆撃を受けて、中部ソロモン諸島ニュジョージア島南方で沈没しました。

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(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)

 

このように、平賀デザインの第二弾として建造された「古鷹級」とその改訂版である「青葉級」の4隻は、軽装甲巡洋艦の強化型として世に問われ、軍縮条約の定義で新たに重巡洋艦(=カテゴリーA:重兵装軽装甲巡洋艦?)という艦種を生み出す一つの起点となりました。太平洋戦争初戦には常に第一線にあって活躍しましたが、開戦から比較的早い時期、1942年に、ガダルカナルの攻防戦に投入される中、ソロモン海で3隻が失われました。 残った「青葉」は終戦間際まで残存していましたが、終戦時には行動不能の状態でした。

 

「夕張」の技術的なチャレンジは、「古鷹級」「青葉級」で洗練され、次級「妙高級」で、名実ともに第一線級の戦力として結実してゆくわけですが、今回はここまで。

 

このミニ・シリーズ、次回は「平賀デザインの集大成と条約型重巡洋艦決定版」にスポットを当ててお届けする予定です。(その前に、何か挟まるかも・・)

 

引き続き、模型に関するご質問等は、大歓迎です。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

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日本海軍巡洋艦開発小史(その3) 5,500トンシリーズ

 前回に引き続き、日本海軍の軽巡洋艦の主軸となった5500トン型のお話です。

今回登場する二つの艦級の軽巡洋艦は、いずれも、太平洋戦争前半は水雷戦隊旗艦などとして大暴れした船ばかりです。

 

日本海軍のワークホース! 

長良級軽巡洋艦 -Nagar class light cruiser-(長良:1922-1944 /五十鈴:1923-1945/名取:1923-1944/由良:1923-1942/鬼怒:1922-1944/阿武隈:1925-1944 )  

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Nagara-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「長良級」軽巡洋艦の概観。119mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs:3D printing modell :写真の姿は太平洋戦争開戦時の姿。航空機による索敵能力を得るために、後の改装で5番砲塔と6番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)

 

本級は5500トン級軽巡洋艦の第2グループとして、1917年計画 1918年計画で各3隻、合計6隻が建造されました。球磨級軽巡洋艦の改良型であり、基本設計は大きく変わりません。前級である球磨級からの変更点は、 魚雷性能と駆逐艦の発展に応じ搭載魚雷の口径を53センチから61センチに拡大したところと、主力艦隊の前衛としての索敵能力の充実のために、設計時から航空機を羅針艦橋下部の格納庫に収納する構造を、前級最終艦「木曽」にならい艦橋構造に組み込んでいたところにあります。格納庫を組み入れたため、艦橋の形状は箱型となりました。

 

航空艤装の話

搭載機には水上偵察機ではなく10年式艦上戦闘機(陸用機)をあて、格納庫前の1番・2番砲の上部に展開された滑走台を用いて発艦させる、という運用方法でした。

前級の「球磨級」では、竣工時には水上偵察機を艦後部の格納庫に収容し、必要都度、水面に降ろして海面から発進させる方式をとったため、その発進の度に艦の航行を停止、あるいは微速まで速力を落とす必要がありました。この運用方法は、平時はさておき、特に戦闘時には軽巡洋艦に求められる高い機動性を阻害するものでした。

そこで、前級「球磨級」最終艦の「木曽」では、羅針艦橋下部に収納庫を設け、そこに搭載した陸用機を滑走台から発艦させる運用を試み、「長良級」はこの形式を踏襲した訳ですが、発進等の即応性には、ある程度目処が立ったものの、運用された陸用機には当然の事ながら母艦への着艦の術がなく、帰投後に母艦周辺に着水して操縦者のみを回収するか、あるいは陸上の基地まで自力で帰還するか、いずれかの方法しか、操縦者が生還する方法がありませんでした。そのため訓練等においても、10式艦上戦闘機の航続距離を考慮した沿岸距離での演習に限られるなど、実用性に乏しく、就役後には航空機は稀にしか搭載されず、ほとんど使用されませんでした。

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(直上の写真は、竣工当時の「長良級」の航空艤装。多分、こんな感じだっただろう、と、WTJのストックモデルの艦橋前を少し整形した後、プラ板とプラロッドでちょっと悪戯してみました。固定式の滑走台を艦橋前に設置。羅針艦橋下の格納庫に収納した陸用機:10年式艦上戦闘機を組み立てて(翼を展張して)発進させる形式でした。実際には発進時には艦橋下の収納庫の扉は開け放たれていたはず。今回は、そこまでは再現できず・・・。ごめんなさい。併せてもう一つ「ごめんなさい」。写真の滑走台上の航空機は10年式艦上戦闘機ではなく、90式艦上戦闘機です。翼に日の丸つけたかったけど、そこまでの技術ないし・・・。1:1250スケールの問題点の一つはその小ささ。魅力でもあるのですが・・・。この90式艦上戦闘機の翼長は約7ミリ。ピンセットで摘むのですが、一度落とすと、探すのが大変です。ちなみにこの90式はSNAFU store製:3D printingモデルです。・・・それにしても、実戦時での即応性を高めるためにこの形式にしたはずなのですが、高速航行時にこんな狭い所で、搭載機の整備(組み立ても?)ができたんでしょうか?まあ、ほとんど実用例がないようですが)

 

後に射出機(カタパルト)が装備され水上偵察機の実際的な運用が可能になるまで、ライバルの米海軍のオマハ軽巡洋艦が設計当初からカタパルトを搭載していた事も鑑みて、同級の課題として残されたままでした。

カタパルト装備後は、航空艤装が艦後部に移ったことから、羅針艦橋下の航空機格納庫は戦隊旗艦業務に転用されました。

 

ちょっとブレイク:5500トン級のライバル「オマハ級」軽巡洋艦

(直下の写真は、米海軍が建造した「オマハ級」軽巡洋艦。136mm in 1:1250 by Neptune)

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Omaha-class cruiser - Wikipedia

オマハ級」軽巡洋艦(1923- 同型艦10)は、「チェスター級」に次いで米海軍が建造した軽巡洋艦で、7000トンのゆとりのある船体に、6インチ砲(15,2センチ)12門と3インチ高角砲8門と言う強力な火力を有していました。4本煙突の、やや古風な外観ながら、主砲の搭載形態には連装砲塔2基とケースメイト形式の単装砲を各舷4門という混成配置で、両舷に対し8射線(後期型は7射線)を確保すことができる等、新機軸を盛り込んだ意欲的な設計でした。最高速力は35ノットと標準的な速度でしたが、20ノットという高い巡航速度を有していました。また最初からカタパルト2基による高い航空索敵能力をもっていました。

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(直上の写真は、「オマハ級」軽巡洋艦のカタパルト2基を装備し充実した航空艤装(上段)と連装砲塔とケースメートの混成による主砲配置、写真の艦は後期型で、後部のケースメートが2基減じられています)

 

再び「長良級」の話。

「長良級」の主砲は前級と同じ14センチ砲7門を、前級と同じ配置とし、各舷に対して6射線を確保しました。雷装としては、61センチに強化された魚雷を、連装魚雷発射管4基、前級と同様の配置として、両舷に対し4射線を確保していました。

前級と同仕様の機関を搭載し、36ノットの速力を発揮する事が出来ました。 

 

本級を含む5500トン級巡洋艦は、その後、改装、武装の強化などが数次にわたり行われ、戦力維持が図られましたが、太平洋戦争開戦時には、既に就役後20年を経ようとする老朽艦ながら、戦争を通じて第一線で活躍しました。

 

筆者にとって「意外」だった搭載魚雷の話

上記の通り、前級「球磨級」では53センチだった搭載魚雷の口径を61センチに拡大し、61センチ連装魚雷発射管を搭載、ということで、当然酸素魚雷(93式1型)を搭載して太平洋戦争に臨んだのだろうと思い込んでいたのですが、実は、下記の「戦歴」に記述しますが開戦以前に酸素魚雷を運用できたのは、酸素魚雷が射出可能な魚雷発射管を装備していた「阿武隈」のみでした。「川内級」でも、太平洋戦争開戦直前の魚雷発射管の位置移転、換装で「神通」「那珂」は酸素魚雷の運用が可能となりましたが、実は水雷戦隊旗艦を輩出した「長良級」「川内級」のうちで併せてこの3隻のみが、酸素魚雷の運用が可能だった、というのは少々驚きでした。

その後、防空巡洋艦への大改装を受けた「五十鈴」は、「阿武隈」同様の仕様で、酸素魚雷の搭載能力を得ます。「長良」については、魚雷発射管自体の改造により、発射管配置はそのままで、酸素魚雷発射能力を持った、という未確認の情報もあるようです。

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(直上の写真は、魚雷発射管装備の変遷を示したもの。上段の二枚は「長良級」の一般的な魚雷発射管の配置を示し英ます。61センチ連装発射管を艦橋直後と艦後部に片舷2基装備しています。下段の二枚は「長良級」最終艦「阿武隈」の魚雷発射管の装備状況。「阿武隈」では艦橋直後には発射管は装備せず、艦後部に93式魚雷(61センチ酸素魚雷)が射出可能な4連装発射管を片舷1基づつ、装備しています。射線数は変わりませんが、より強力な酸素魚雷の運用が可能となりました。この形式は、防空巡洋艦への大改装を終えた「五十鈴」と、次級「川内級」の、「神通」「那珂」にも採用されています)

 

その戦歴

「長良」:開戦劈頭から南方攻略戦に転戦した後、ミッドウェー海戦には空母機動部隊の直衛戦隊(第10戦隊)旗艦の任を務めました。機動部隊旗艦「赤城」の被弾後は、一時的に機動部隊残存部隊の旗艦となりました。その後、新空母機動部隊である第3艦隊に所属して、ソロモン海を転戦した後、主として輸送任務・輸送護衛任務につきました。この間、損傷修理等の間に、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備、対空機銃の増設等の改装を受けています。

その後、中部太平洋、沖縄方面での輸送任務に従事中、1944年8月、熊本県天草沖で米潜水艦の雷撃により失われました。

 

「五十鈴」:開戦時、香港や南方の攻略戦に参加した後、第2水雷戦隊旗艦として南太平洋海戦、第3次ソロモン海戦等に参加しました。その後、米機動部隊の空襲による損傷復旧の際に、全主砲を高角砲に換装するなど、対空兵装を格段に充実・強化した防空巡洋艦に生まれ変わりました。この対空兵装の強化は、既に旧式化した全ての「長良」級巡洋艦に実施される予定でしたが、実現したのは「五十鈴」1艦のみでした。この改装の際に、魚雷発射管の搭載・射出方式を改め、前部連装発射管を撤去、後部発射管を4連装発射管に改め、酸素魚雷の運用能力を持ちました。

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(直上の写真は、「長良級」2番艦「五十鈴」の防空巡洋艦への改装後の概観。本来はこれと同等の改装を、「長良級」の他艦にも実施する予定でした)

(直下の写真は、「五十鈴」の対空兵装の配置を少し詳細に示したもの。すべての主砲を撤去し、艦後部に搭載したカタパルトを撤去し、3基の連装高角砲と多数の対空機銃座を増設しています。この改装の際に、「五十鈴」は前述の魚雷発射管の配置、換装を併せて行いました)

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その後、レイテ沖海戦では、第3艦隊(小沢「囮」機動部隊)に編入され、海戦に参加しました。海戦では米艦載機の攻撃により損傷。第3艦隊の解散後は輸送任務につき、1945年4月、スンダ列島の陸軍部隊の撤退作戦に従事中、小スンダ列島スンバワ島沖で米潜水艦の雷撃により撃沈されました。

 

「名取」:開戦時、第5水雷戦隊の旗艦として、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦などを歴戦しました。その後、第16戦隊の旗艦任務、東インド(現インドネシア)方面の警戒任務に従事。空襲による損傷修理時に、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、「長良」同様の対空兵装の強化が行われました。

マリアナ沖海戦参加後の輸送任務従事中に、1944年8月、フィリピン諸島サマール島沖で、米潜水艦の雷撃により失われました。

 

「由良」:開戦時には、第5潜水戦隊の旗艦として、マレー攻略戦、ボルネオ攻略戦等に参加しました。第5潜水戦隊旗艦任務を解かれた後も、南方作戦部隊に留まり、その後のジャワ攻略戦にも従事しました。その後、損傷した軽巡洋艦「那珂」と交代して第4水雷戦隊旗艦となり、第2艦隊に所属してミッドウェー海戦、第8艦隊に所属してガダルカナル攻防戦、その後の同島への輸送作戦に従事しました。

1942年10月ガダルカナル島での陸軍部隊の総攻撃に呼応した同島周辺での作戦行動中に、米軍機の空襲により航行不能となり、味方駆逐艦の雷撃で処分されました。軽巡洋艦の戦没第一号となってしまいました。

 

「鬼怒」:開戦時には、第4潜水戦隊旗艦としてマレー攻略戦に従事。その後、旗艦任務を解かれてジャワ方面の攻略戦、ニューギニア西部での作戦に参加しました。

作戦による損傷修復時に、上述の「長良」「名取」などと同様、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、対空兵装の強化が行なわれました。

その後、レイテ作戦(捷一号作戦)では、レイテ島への兵員輸送を担当する第16戦隊に参加し、1944年10月、同作戦に従事中に米艦載機(第7艦隊)の空襲により失われました。

 

阿武隈」:「阿武隈」は「長良級」の他艦とはやや異なる外観を有していました。1930年に衝突事故を起こし、艦首の損傷を修復する際に、それまでのスプーン・バウ型から、凌波性に優れたダブル・カーべチュア型に改めました。

1938年には、「長良級」では唯一、太平洋開戦以前に魚雷兵装強化の改装を受け、前部の連装魚雷発射管を撤去して、後部の連装魚雷発射管を4連装魚雷発射管に換装し、強力な酸素魚雷の運用が可能となりました。

この背景には、同艦の建造中に関東大震災があり、工期が長引き就役年次が遅れたため、「長良級」の他艦に比べると艦齢が若く、改装が優先されたという事情があったと、言われています。

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(直上の写真は、「長良級」6番艦「阿武隈」の概観。カタパルトを搭載した太平洋戦争開戦時の姿を示しています)

(直下の写真は、「長良級」の他艦と「阿武隈」の艦首形状の違いを示したもの。「阿武隈」では、衝突事故による艦首の損傷時に凌波性に優れたダブル・カーブドバウに艦首形状を改めていました

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開戦時には、第1水雷戦隊の旗艦として真珠湾作戦に参加、空母機動部隊の護衛を務めました。その後、同機動部隊に帯同してジャワ攻略戦、インド洋作戦に参加した後、北方部隊である第5艦隊に編入されました。アリューシャン攻略戦、アッツ島沖海戦、キスカ撤退作戦に参加した後、同級の「長良」「名取」「鬼怒」と同様、5番・7番主砲の撤去と高角砲の装備・対空機銃の増設など、対空兵装の強化が行なわれました。

その後、レイテ沖海戦には第5艦隊の一員として志摩中将の指揮下で参加し、スリガオ海峡海戦で米魚雷艇群と交戦し被雷。速力が低下したため戦場を離脱後の翌朝、米艦載機、米陸軍機の数次にわたる空襲を受け損傷を重ね、1944年10月、フィリピン諸島ネグロス島沖で沈没しました。

 

八八艦隊計画」の落とし子。重油消費の急増をどうやって抑えようか・・・

川内級軽巡洋艦 -Sendai class light cruiser-(川内:1924-1944 /神通:1925-1943/那珂:1925-1944 ) 

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Sendai-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「川内級」軽巡洋艦の概観。119mm in 1:1250 by Neptune:写真の姿は「川内」の太平洋戦争開戦時の姿。復元性向上のために、一番煙突の高さを他の煙突と同じ高さに揃えています。同様の目的のため「艦橋も一段低くした」との記述もありますが、この模型では反映されていないようですね。航空機による索敵能力を得るために、6番砲塔と7番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)

 

「川内」級は5500トン級軽巡洋艦の第3グループにあたります。当初計画では8隻の建造が予定されていました。

球磨級」「長良級」の前2級との相違点は、当時海軍が推進していた大建艦計画「八八艦隊計画」の推進により予測される重油消費量の飛躍的な増加への対策として、重油専焼缶(ボイラー)の数を減らし、重油石炭混焼缶を増やしたことから、煙突の数が増え4本になった事が挙げられます。

他の装備、性能は、ほぼ前2級を踏襲したものになっています。

ワシントン軍縮条約の締結で、同級の建造計画は8隻から3隻に縮小し、「川内」「神通」「那珂」の3隻が建造されました。同級は太平洋開戦時には既に艦齢15年を迎えていましたが、それでも日本海軍の最新の軽巡洋艦であったため、 3隻とも水雷戦隊旗艦として活躍しました。

 

外観の差異の話

3隻には外観に差異があり、「川内」は復元性改善工事により四本の煙突の高さが同じになり、艦橋の高さも一段低くなっています。一方、「那珂」は建造中に関東大震災で大きく損傷を受け、艦首を凌波性に優れたダブル・カーブドバウ形式に変更して竣工しています。「神通」は1927年の美保関事件(第8回基本演習:夜間無灯火演習中に発生した艦艇衝突事故)で艦首を損傷し、その修復の際に従来のスプーン・バウ形式から「那珂」と同様のダブル・カーブドバウ形式に艦首形状を変更しています。

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(直上の写真は、「川内級」軽巡洋艦の外観を比較したもの。上段が「川内級」のネームシップ「川内」の外観。下段は「神通」「那珂」の外観を示しています。艦首形状が「川内」はスプーン・バウ、「神通」「那珂」はダブル・カーブドバウ(写真左列)。煙突形状が異なり、上段の「川内」は煙突の高さを揃えたのに対し、「神通」「那珂」では一番煙突が他の煙突よりも高い竣工時の姿を残しています。本当は艦橋の高さに差があるはずなのですが、このモデルでは再現されていないようです)

 

航空艤装と搭載魚雷の話

航空索敵については、ほぼ前級「長良級」と同様の形式を踏襲しています。つまり、竣工時には、陸用機を滑走台から発艦させる形式をとっていましたが、前述のようにこの形式は実用性に課題があったため、カタパルト搭載へ、順次改装されました。

(直下の写真は、「長良級」と「川内級」のカタパルト配置位置の相違を示したもの。「長良級」(上段)ではカタパルトは、5番砲と6番砲の間に装備されていますが、「川内級」(下段)では装備位置が6番砲と7番砲の間になっています)

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搭載魚雷については、太平洋開戦直前の改装で「神通」「那珂」については、前述の「阿武隈」同様、前部連装発射管を撤去、後部発射管を4連総発射管に改め、酸素魚雷の運用能力を持ちました。(写真掲載のNeptuneのモデルでは、「神通」「那珂」も「川内」と魚雷発射管の装備位置には差異が見られず、上記の「改装」より以前の姿を再現していると考えられます)

 

その戦歴

「川内」:開戦時には第3水雷戦隊の旗艦を務め、南遣艦隊に所属し、南方作戦でマレー方面、スマトラ方面を転戦しました。

ミッドウェー海戦では第3水雷戦隊は主力艦隊(戦艦部隊)に帯同しました。同作戦の失敗後、同水雷戦隊は南西方面艦隊に転籍し、インド洋作戦に参加する予定でしたが、ガダルカナル戦の展開により同作戦が中止され、ソロモン方面に進出しました。

1942年8月から1943年8月のほぼ1年間、ガダルカナル攻防戦、その後の中部ソロモン諸島を巡る諸海戦のほぼ全てに第3水雷戦隊は活躍しますが、「川内」は常に第一線で活躍してきたため対空兵装の強化改装を受けられず、やがて水雷戦隊の昼間の行動時には戦隊司令官が旗艦を駆逐艦に変更するなど、不都合が派生していたとわれています。

 

1943年11月、「川内」は米軍のブーゲンビル島侵攻を阻止すべく発生したブーゲンビル島沖海戦に参加します。日米ほぼ同数の巡洋艦駆逐艦の混成艦隊同士(日:重巡2、軽巡2、駆逐艦6・米:軽巡4、駆逐艦8)の夜戦となりましたが、レーダーで日本艦隊の接近を察知した米艦隊に対し、最も近い位置にいた川内は海戦の開始とほぼ同時に集中砲火を浴び主機が停止し舵が故障、航行不能となってしまいました。

日本艦隊主体が撤退したため、取り残された「川内」に米駆逐艦が攻撃を集中し、「川内」は魚雷2本を被雷し沈没しました。

 

「神通」 :第2水雷戦隊旗艦として太平洋戦争の開戦を迎えました。開戦劈頭、フィリピン攻略戦に参加。その後参加したジャワ攻略戦では、スラバヤ沖海戦に参加しています。

ミッドウェー海戦では、第2水雷戦隊はミッドウェー島上陸部隊の護衛隊として参加しましたが、機動部隊の敗北により上陸戦には至らずに帰投しています。

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(直上の写真は、「神通」「那珂」の概観を示したもの。ダブル・カーブドバウの艦首形状、一番煙突が他煙突よりも高くなっている、など、特徴がよくわかります)

 

1942年にガダルカナル攻防戦が始まると、「神通」は第2水雷戦隊を率いてガダルカナルへの輸送任務、輸送船団護衛任務に活躍しました。第2次ソロモン海戦では米軍機の爆撃で損傷を負います。

損傷修復後、ガダルカナル撤退作戦には支援部隊として参加、その後、中部ソロモン諸島での攻防戦に転戦してゆくことになります。

 

1943年7月、中部ソロモン諸島コロンバンガラ島への陸軍増援部隊の増援輸送を巡り、「神通」を旗艦とする増援部隊の護衛部隊(第2水雷戦隊:軽巡1、駆逐艦5)と、増援阻止を狙う米艦隊(軽巡3、駆逐艦10)の間に夜戦が発生します。

「神通」は米艦隊発見後、探照灯でこれを照射し、魚雷戦、砲戦を麾下の部隊に下命します。一方、米艦隊の軽巡3隻はレーダー射撃を「神通」に集中し、艦橋への被弾で「神通」に座乗していた伊崎少将以下第2水雷隊司令部が全滅、「神通」も航行不能となりました。

米艦隊の砲撃が「神通」に集中する中、麾下の駆逐艦は砲雷戦を展開し、米軽巡洋艦3隻に損傷を負わせました。

航行不能となった「神通」は米艦隊からさらに2発の魚雷を受け、爆沈しました。

 

「那珂」:開戦時には、第4水雷戦隊の旗艦として、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦、スラバヤ沖開戦、クリスマス島攻略作戦等に活躍しました。クリスマス島作戦中に、米潜水艦の魚雷攻撃を受け被雷損傷し、内地に回航され修理を受けました。この修復の際に、5番主砲を撤去し連装高角砲に換装、積載小艇の変更など、その後の輸送、輸送護衛任務への適応力を硬化する改装が併せて行われました。

損傷の修復後は、内南洋警備担当の第4艦隊第14戦隊に編入され、主として担当海域である中部太平洋方面での輸送任務、輸送護衛任務に従事しました。

1944年2月、米潜水艦の雷撃で航行不能となった軽巡洋艦阿賀野」救援のためにトラック島周辺で活動中に、米機動部隊のトラック島空襲に遭遇。機動部隊艦載機の反復攻撃を受け、爆弾、魚雷を被弾、沈没しました。

 

こうして両級の戦歴を見ていきますと、長い艦暦の中での数次の改装に耐えられる程度の余裕のある艦級だったのだろうなと改めて実感するわけです。その一方で、それがある意味災いして特に太平洋戦争の開戦時には、既に旧式艦の部類ながら更に続けて第一線での奮闘を求められる過酷な実情が浮かんでも来ます。

そして、次第に任務の重点が、設計本来の水雷戦の要(太平洋戦争緒戦では、まだいくつか、艦隊同士の海戦が行われます)、から輸送・輸送護衛などの任務への役割のシフト、いわゆる「艦隊決戦」的な視点から兵站重視の「総力戦」的視点への海軍設計そのものの重点のシフトへの対応を求められた、ある意味、象徴的な艦級であるとも言えるかと思います。

そして、両級の全ての艦が、失われてしまいました。

5500トン型全体を見ても、終戦時に残存していたのは「北上」1艦のみで、残りの13隻は戦没してしまいました。

 

というわけで、今回はここまで。

このミニ・シリーズ、次回は「平賀デザインの巡洋艦」にスポットを当ててお届けする予定です。(「夕張」を忘れているわけではないので、ご安心を)

 

引き続き、模型に関するご質問等は、大歓迎です。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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日本海軍巡洋艦開発小史(その2) 軽巡洋艦の誕生

防護巡洋艦から軽巡洋艦

タイトルの流れを少し乱暴に整理すると、巡洋艦に対する機動性・高速化への要求から、その主機にタービンが採用され、その燃料も効率の良い重油へのシフトが加速化されました。

本稿ではこれまで何度も触れてきたので、「またか」の感はあるかとは思いますが、防護巡洋艦とは、基本、舷側装甲を持たず、機関部を覆う艦内に貼られた防護甲板と舷側の石炭庫により艦の重要部分を防御する構想を持った設計で、艦の重量を軽減し、限られた出力の機関から高速と長い航続距離を得ることを両立させることを狙った艦種で、一般に巡洋艦の主たる使命を、仮想敵の通商路破壊と自国通報路の防御においた欧州各国にとっては非常に有用な艦種と言え、一世を風靡しました。

しかしこの燃料の重油化への流れの中では、これまでの防護巡洋艦の防御設計の根幹を成してきた石炭庫による舷側防御に代わるものとして、一定の舷側装甲が必要となるわけです。その上で、速力への要求との兼ね合いもあり「軽い舷側装甲を持った巡洋艦」という艦種が発想されます。これが、軽装甲巡洋艦軽巡洋艦です。

 

日本海軍について、この流れにもう少し付け加えると、機動性に対する要求の背後には、魚雷の性能の飛躍的な向上と、駆逐艦の発達も合わせて考える必要がありそうです。

 

魚雷性能の向上

下表は日露戦争期から太平洋戦争の終結までの日本海軍の水上艦艇用の魚雷形式の一覧です。これらの他にも潜水艦用、あるいは航空機用の航空魚雷があるわけです。 

西暦 和暦 形式名称 直径(cm) 炸薬量(kg) 雷速(低)kt 射程(m) 雷速(高)kt 射程(m) 装気形式
1899 明治32 32式 36 50 15 2,500 24 800 空気
1904 37 日露戦争              
1905 38 38式2号 45 95 23 4,000 40 1,000 空気
1910 43 43式 45 95     26 5,000 空気
1911 44 44式 45 110     36 4,000 空気
    44式 53 160 27 10,000 35 7,000 空気
1914 大正3 第一次世界大戦            
1917 6 6年式 53 203 27 15,500 36 8,500 空気
1921 10 8年式2号 61 346 28 20,000 38 10,000 空気
1931 昭和6 89式 53 300 35 11,000 45 5,000 空気
1933 8 90式 61 373 35 15,000 46 7,000 空気
1935 10 93式1型 61 492 40 32,000 48 22,000 酸素
1939 14 第二次世界大戦            
1941 16 太平洋戦争              
1944 19 93式3型 61 780 36 20,000 48 15,000 酸素

表の見方を説明しておくと(必要ないかも知れませんが)、例えば6年式(大正6年制式採用)の場合、魚雷の直径は53cm、弾頭の炸薬量が203kg、低速設定の27ノットで射程が15,500m、高速設定の36ノットで射程が射程が8,500mということになります。

これが、93式1型(皇紀2593年制式採用)のいわゆる酸素魚雷の場合、魚雷の直径は61cm、弾頭の炸薬量が492kg、低速設定の40ノットで射程が32,000m、高速設定の48ノットで射程が射程が22,000mとなり、性能の高さが際立っていることがわかります。

それ以前にも6年式あたりから、つまり53センチ口径の魚雷の登場から、炸薬量、魚雷の速度(雷速)、射程が顕著に向上し、魚雷の兵器としての実用性が格段に高まったことが想像できます。(上表以前の日清戦争期の日本海軍の魚雷は、炸薬量が約20kg程度、射程が最大で 1000m程。有効射程は300mと言われていました。それが日露戦争期にようやく1000mでも何とか使えるかも、という状況だったわけです)

 

艦隊駆逐艦の発達 

一方、下表は日露戦争期から昭和初期にかけての日本海軍が建造した艦隊型駆逐艦(一等駆逐艦)の艦級の一覧です。

Class 竣工年次 同型艦 基準排水量(t) 速度(kt) 主砲口径(cm) 装備数 魚雷口径(cm) 装備数2 備考
雷級 1899 6 345 31 8 1 45 Tx2 英国製
東雲級 1899 6 322 30 8 1 45 Tx2 英国製
暁級 1901 2 363 31 8 1 45 Tx2 英国製
白雲級 1902 2 322 31 8 1 45 Tx2 英国製
春風級 1903 7 375 29 8 2 45 Tx2  
  1904 日露戦争            
神風級(I) 1905 25 381 29 8 2 45 Tx2  
海風級 1911 2 1,030 33 12 2 45 Tx3/TTx2  
浦風 1913 1 810 30 12 1 53 TTx2 英国製
  1915 第一次世界大戦            
磯風級 1915 4 1,105 34 12 4 45 TTx3  
江風級 1918 2 1,180 34 12 3 53 TTx3  
峯風級 1920 12 1,215 39 12 4 53 TTx3  
野風級 1922 3 1,215 39 12 4 53 TTx3  
神風級(II) 1922 9 1,270 37.3 12 4 53 TTx3  
睦月級 1926 12 1,315 37.3 12 4 61 TTTx2  

大雑把に分類すると、日本海軍初の駆逐艦である「雷級」から初代の「神風級」までの6クラスが日露戦争を想定し急速に整備された「日露戦争型」の駆逐艦、続く「海風級」から「江風級」が日本海軍独自の艦隊駆逐艦の模索期、その後の「峯風級」以降が第一次の決定版艦隊駆逐艦、と言えるのではないでしょうか?(この他にも、駆逐艦としては、模索期以降、中型(1000t以下)の二等駆逐艦の艦級も存在します。第一次世界大戦で、地中海に派遣された「樺級」「桃級」などがこれに該当します。艦隊型駆逐艦としては、実はこの表の後、つまり「睦月級」の後には、いわゆる「特型駆逐艦」以降の艦級が控えています。「太平洋戦争型」の駆逐艦日本海軍の駆逐艦の黄金期であり、その頂点かつ終焉のシリーズ、ということになり、上表の「酸素魚雷」との組み合わせで、スペック的にはとんでもないことになるのですが、それらはもしかすると別の機会に)

 

えっ!模型出せよって!

しょうがないなあ。出します、出します。

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(直上の写真は、日本海軍の駆逐艦の各級を一覧したもの。手前から、日露戦争期の代表格で「東雲級」と「白雲級」、模索期から「海風級(竣工時の単装魚雷発射管、その後の連装魚雷発射管への換装後の2タイプ)」、「磯風級」、そして第一次決定版艦隊駆逐艦として「峯風級」、「睦月級」。(「神風級(II)」は現在、日本に向け回航中です。いずれは・・・)

日露戦争期の駆逐艦

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(直上の写真:東雲級駆逐艦:50mm in 1:1250 by Navis 2本煙突が特徴)

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(直上の写真:白雲駆逐艦:51mm in 1:1250 by Navis 日露戦役時の駆逐艦の標準的な形状をしています)

 

模索期の艦隊駆逐艦

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(直上の写真:海風級駆逐艦、竣工直後の姿。単装魚雷発射管を装備:78mm in 1:1250 by WTJ)

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(直上の写真:海風級駆逐艦、連装魚雷発射管への換装後の姿)

 

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(直上の写真:磯風級駆逐艦:78mm in 1:1250 by WTJ。軽巡洋艦天龍級」はこの磯風級駆逐艦の形状を拡大した、と言われています。連装魚雷発射管を3基装備し、雷撃兵装を重視した設計です)

 

「峯風級」駆逐艦「野風級:後期峯風級」駆逐艦

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峯風級」は、それまで主として英海軍の駆逐艦をモデルに設計の模索を続けてきた日本海軍が試行錯誤の末に到達した日本オリジナルのデザインを持った駆逐艦と言っていいでしょう。12cm主砲を単装砲架で4基搭載し、連装魚雷発射管を3基6射線搭載する、という兵装の基本形を作り上げました。1215トン。39ノット。同型艦15隻:下記の「野風級:後期峯風級3隻を含む)

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(直上の写真:「峯風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces) 

 

「野風級:後期峯風級」は「峯風級」の諸元をそのままに、魚雷発射管と主砲の配置を改め、主砲や魚雷発射管の統一指揮・給弾の効率を改善したもので、3隻が建造されました。

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(直上の写真:「野風級:後期峯風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces)

 

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(直上の写真は、「峯風級」(上段)と「野風級:後期峯風級」(下段)の主砲配置の比較。主砲の給弾、主砲・魚雷発射の統一指揮の視点から、「野風級」の配置が以後の日本海駆逐艦の基本配置となりました)  

 

「神風級」駆逐艦 

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「神風級」は、上記の「野風級:後期峯風級」の武装レイアウトを継承し、これに若干の復原性・安定性の改善をめざし、艦幅を若干拡大(7インチ)した「峯風級」の改良版です。9隻が建造されました。1270トン。37.25ノット。

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(直上の写真:「神風級」駆逐艦の概観 82mm in 1:1250 by The Last Square: Costal Forces)

 

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(直上の写真:「峯風級」(上段)と「神風級」の艦橋形状の(ちょっと無理やり)比較。「神風級」では、それまで必要に応じて周囲にキャンバスをはる開放形式だった露天艦橋を、周囲に鋼板を固定したブルワーク形式に改めました。天蓋は「睦月級」まで、必要に応じてキャンバスを展張する形式を踏襲しました)

 

***今回ご紹介したモデルは、あまりこれまでご紹介してこなかったThe Last Square製のホワイトメタルモデルです。同社は、1:1250 Costal Forcesというタイトルのシリーズで、タイトル通り第二次世界大戦当時の主要国海軍(日・米・英・独・伊)の沿岸輸送、或いは通商路護衛の艦船、駆逐艦護衛駆逐艦駆潜艇魚雷艇などの小艦艇のモデルや護衛される側の商船などを主要なラインナップとして揃えています。

http://www.lastsquare.com/zen-cart/index.php?main_page=index&cPath=103_146

:直下の写真は同社の米海軍護衛空母「ボーグ」の未塗装モデル:これから色を塗ろうっと。このモデルは、エレベーターが別パーツになっていたり、結構面白いのですが、少し小ぶりに仕上がり過ぎているかもしれません。

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そして「睦月級」駆逐艦

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 「睦月級」駆逐艦は「峯風級」から始まった日本海軍独自のデザインによる一連の艦隊駆逐艦の集大成と言えるでしょう。

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(直上の写真:「睦月級」駆逐艦の概観 83mm in 1:1250 by Neptune) 

艦首形状を凌波性に優れるダブル・カーブドバウに改め、砲兵装の配置は「後期峯風級」「神風級」を踏襲し、魚雷発射管を初めて61cmとして、これを3連装2基搭載しています。太平洋戦争では、本級は既に旧式化していましたが、強力な雷装と優れた航洋性から、広く太平洋の前線に投入され、全ての艦が、1944年までに失われました。1315トン。37..25ノット。同型艦12隻。

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(直上の写真:「睦月級」(下段)と「神風級」(上段)の艦首形状の比較。「睦月級」では、凌波性の高いダブル・カーブドバウに艦首形状が改められました)

 

艦隊決戦構想と軽巡洋艦

軽巡洋艦の紹介の前に、魚雷だの駆逐艦だの、何を長々書いているんだ、という声が聞こえてきそうですが、もう少しお付き合いを。

これも、これまでに何度も本稿では繰り返し記述してきたことなので、「しつこい」と言われそうですが、日本海軍は、その成立の過程の特異性として、常に「艦隊決戦」というものを目的に設計されてきています。

日露戦争での「勝利」(まあ、戦争全体を見れば、「?」がつくかもしれませんが、海軍の戦歴、戦果から戦術的に見ればそう言ってもいいでしょう)によって、それはさらに確信的なものになったと思われます。

巡洋艦の設計においてもこの傾向は色濃く見られ、他国の海軍においては、巡洋艦は偵察や通商路の破壊、防御を主任務と想定されるため、長期間の作戦行動や航洋性などに重点が置かれるのに対し、日本海軍では常にその戦闘力に設計の重点があり、他を圧倒する火力や速度などを追い求める傾向が顕著で、「一点豪華」な設計ではありながら、ともすれば運用にやや無理が生じることがありました。偵察任務等を目的に建造された艦級は本稿前々回、「防護巡洋艦」の回にご紹介した「新高級」「音羽」くらいで、逆にこれらの艦は設計に無理がなく運用面では大変高評価だったということです。

 

さて、「艦隊決戦」を目的に設計された日本海軍なのですが、日露戦争の次の仮想敵は、太平洋を挟んで向き合うアメリカ、ということになります。国力、工業力の差は如何ともし難く、日本海軍の決戦構想は、受け身になります(対ロシアの時もそうだった、それでうまくいった、という前例主義的な思いも幾分かあったでしょうね)

つまり渡洋してくるアメリカ艦隊を迎え撃つ、ということになる訳ですが、主力艦の物量の差を米艦隊の渡洋の途上で少しでも縮めておこうという、いわゆる「漸減戦術」がその作戦構想の根幹に常に持たれることになります。

補助戦力で、渡洋してくる米艦隊の戦力をできるだけ削り、主力決戦に持ち込もう、という訳です。

この構想の具体化の第一弾が、実用化された魚雷と、それを搭載し有力な戦力となった駆逐艦を組み合せた「水雷戦隊」で、軽巡洋艦はその司令塔としての役割(旗艦)を担うことになってゆきます。(ああ、やっと繋がった)

 

日本海軍 最初の軽巡洋艦! 駆逐艦の頼れる兄貴

天龍級軽巡洋艦 -Tenryu class light cruiser-(天龍:1919-1942 /龍田:1919-1944 ) 

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Tenryū-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:天龍級軽巡洋艦:116mm in 1:1250 by Navis)

 

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(直上の写真: 第18戦隊の天龍級軽巡洋艦2隻:天龍と龍田)

 

初めてギヤードタービンを搭載し、前級の筑波級防護巡洋艦の倍以上の出力から、33ノットの高速を発揮することができました。艦型は前年に就役した「江風級」駆逐艦を拡大したもので、当初から駆逐艦戦隊(水雷戦隊)を指揮することを目的とした嚮導駆逐艦的な性格の強い設計でした。

主砲には14センチ単装砲を中央線上に4門装備し、両舷に4射線を確保しました。日本海軍の巡洋艦としては初めて53センチ3連装魚雷発射管を搭載しました。この発射管は当初は発射時に射出方向へ若干移動して射出する方式採っていましたが、運用面で機構状の不都合が生じ、装備位置を高め固定して両舷に射出する方式に改められました。

舷側装甲は、アメリ駆逐艦の標準兵装である4インチ砲に対する防御を想定したものでした。

 

本級は、当初計画では、水雷戦隊旗艦とさらに主力部隊の直衛としても使用する予定で、8隻の建造が計画されていましたが、同時期のアメリカ海軍の「オマハ級」軽巡洋艦が、本級よりもはるかに強力なスペックを持っていること、および本級の就役直後に就役を開始したため「江風級」の次の「峯風級」駆逐艦が39ノットの高速力を有しており、その戦隊の旗艦としては、物足りないこと等から、2隻で毛像を打ち切り、次級「球磨級軽巡洋艦の建造に計画を移行させました。

太平洋戦争では、既に旧式艦となりながらも、開戦当初2隻で第18戦隊を構成し、南方作戦で活躍しました。

 

両艦は南方の攻略戦を転戦後、ラバウルに新設された第8艦隊に編入され、ソロモン方面で活躍しました。

「天龍」はその最中、1942年12月18日、ニューギニア方面への輸送作戦中に米潜水艦の雷撃で撃沈され、「龍田」はその後、水雷戦隊旗艦等の任務を経て、輸送船団護衛任務中、1944年3月13日に八丈島沖で、こちらも米潜水艦の雷撃により失われました。

 

本格的水雷戦隊旗艦から重雷装型まで。魚雷を使いこなせ! 

球磨級軽巡洋艦 -Kuma class light cruiser-(球磨:1920-1944 /多摩:1921-1944/北上:1921-1945/大井:1921-1944/木曽:1921-1944 ) 

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Kuma-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:球磨級駆逐艦:119mm in 1:1250 by Tiny Thingamajigs:3D printing modell :写真の姿は太平洋戦争当時の「球磨」。航空機による索敵能力を得るために、後の改装で5番砲塔と6番砲塔の間に、水上偵察機射出用の射出機(カタパルト)を搭載しています)

 

本級は「天龍級」の艦型を5500トンに拡大し、併せて主砲を「天龍級」の14センチ単装砲4門から7門に増強しています。雷装としては、53センチ連装魚雷発射管を各舷に2基、都合4基搭載し、両舷に対し4射線を確保する設計となっています。

速力は、同時期の「峯風級」駆逐艦(39ノット)を率いる高速水雷戦隊の旗艦として、機関を強化し36ノットを有する設計となっています。

主力艦隊の前衛で水雷戦隊を直卒する任務をこなすため、高い索敵能力が必要とされ、その具体的な手段として航空艤装にも設計段階から配慮が払われた最初の艦級となり、水上偵察機を分解して搭載していました。しかしこの方式は運用上有効性が低く、「球磨」と「多摩d」では、後日、改装時に後橋の前に射出機(カタパルト)を装備し水上機による索敵能力を向上させることになります。

一方、同級の最終艦「木曽」では、水上偵察機ではなく陸用機を搭載し艦橋下に格納、艦橋前の滑走台から発艦させる、という構想を実現しました。このため「木曽」は同型艦でありながら、異なる外観の艦橋を有しています。(「木曽」は最後まで射出機を装備しませんでした)

(直下の写真は、異なる形状の艦橋を持つ「木曽」 by Tiny Thingamajigs) 

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(直上の写真:「球磨」と「木曽」の艦橋形状の比較。「木曽」は艦橋下に搭載機の格納庫を設け、偵察機の発進時にはその前部にある1・2番主砲等の上に滑走台を展開した)

 

重雷装艦への改装

1941年に、旧式化した(「球磨級」は53センチ魚雷搭載艦であり、当時の61センチ酸素魚雷を標準装備とする水雷戦隊の旗艦任務は難しくなっていました)同級の3番艦以降(「北上」「大井」「木曽」)を61センチ4連装魚雷発射管10基(片舷5基)を搭載する重雷装艦への改装が決定され、「北上」「大井」については同年中に改装を完了しました。

(直下の写真は、重雷装艦に改装された「北上」「大井」:by Trident) 

 

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(直下の写真:「北上」と「大井」:艦の中央部に61センチ4連装魚雷発射管を片舷5基装備した。その後、魚雷発射管の搭載スペースを活用して、高速郵送巻に改装された) 

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しかし、想定された艦隊決戦は発生せず、両艦が実戦に重雷装艦として投入されることはありませんでした。その後、戦局が厳しくなると、両艦はそのペイロード(多数の魚雷発射管の装備甲板)に注目され、高速輸送艦への改装が計画されました。その改装は魚雷発射管を8基撤去、主砲を全廃し、高角砲を装備、その他積荷の積載装備の追加などに及び、結局、工程がかかりすぎるとして本格的な改装には至りませんでしたが、魚雷発射管の撤去などの小改装による輸送艦任務への適応は随時実施されました。

その後「北上」は損傷修理の際に回天搭載艦への改装が実施されました。これは、主砲、魚雷発射管を全て撤去、高角砲に換装し、艦尾に回天発進用のスロープと投下用のレールを設置し、航行しながら回転を発進させられるようにする、というようなものでした。改装は完成しましたが、実戦に投入されることはありませんでした。

 

トピック:艦船模型メーカーによるグレードアップ

これまで1:1250スケールの艦船模型メーカーについて、あれこれ紹介してきましたが、実はコレクターにとって、かなり嬉しくて、しかし少し悩ましい問題が、艦船模型メーカー自身による、モデルのグレードアップなのです。

くどくど説明するより、見ていただいた方が早いと思うので、まずは実例をご紹介。

 

重雷装艦「北上」のケース

EbayでTrident社製の日本海軽巡洋艦「北上」の重雷装艦形態の最近の模型を入手しました。

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(直上の写真は、重雷装艦「北上」の最近のモデル(上段)と従来のモデル(下段)の比較。メーカーはいずれもTrident社)


ご覧のように、特に魚雷発射管のディテイルが、格段に再現度が向上されています。f:id:fw688i:20200719202728j:image

(直上の写真は、重雷装艦「北上」の最近のモデル(左列)と従来のモデル(右列)の細部の比較。上段では魚雷発射管のディテイルの再現度が格段に進歩していることがわかります。さらに下段では艦尾部の再現も随分変更されていることがよくわかります)

 

その戦歴

「球磨」は、南方攻略戦に従事したのち、南方拠点での警備、訓練支援、輸送等の任務に活躍したのち、1944年1月11日に、ペナン島沖で英潜水艦の雷撃で失われました。

「多摩」は、開戦時以来、主として北方警備を担当する第5艦隊に所属し、アリューシャン攻略等に参加、さらにキスカ島の撤退作戦などにも参加しました。その後、南方での輸送作戦等に従事したのち、1944年にレイテ沖海戦に第3艦隊(小沢囮艦隊:空母機動部隊)に編入され、米機動部隊による空襲で損傷し、1944年10月25日、沖縄への退避中に米潜水艦の雷撃により失われました。

「北上」は、重雷装艦として第1艦隊に編入後、上記の次第で高速輸送艦に改装されました。高速輸送艦として南方での多くの任務に従事した後、日本に帰還しそこで今度はこれも上記のように回天搭載艦への改装を受けることになりました。改装は完了しましたが、出撃機会の無いままに呉軍港で米機動部隊の空襲で大破し航行不能となり、その状態で終戦を迎えました。

終戦後は復員支援の工作艦輸送艦として運用された後、1946年に解体されました。いわゆる5500トン型軽巡洋艦14隻の中で唯一、終戦を迎えた艦です。

「大井」は、「北上」とともに重雷装艦として第1艦隊に編入され、「北上」同様高速輸送艦に改装され、ソロモン諸島方面、インド洋方面での輸送任務に従事した後、1944年7月19日、米潜水艦の雷撃を受け香港沖で撃沈されました。

「木曽」は、開戦時、北方部隊の第5艦隊に編入され、北方警備活動、アリューシャン列島攻略戦に従事しました。キスカ島撤退作戦に参加した後、南方での輸送任務等に従事しました。レイテ沖海戦後に、同海戦に参加した第5艦隊に編入され、1944年11月13日レイテ作戦敗退後の同艦隊司令部輸送のためにフィリピン、マニラ湾に待機中に米機動部隊の空襲を受け大破着底し、失われました。

 

こうして戦歴を見てみると、同級は、高速水雷戦隊旗艦として設計されながら、太平洋戦争時には既に旧式化しており、本来の活躍ができなかった不運な艦級と言えるでしょう。

 

というわけで、今回はここまで。軽巡洋艦の誕生について、まとめてみました。

5500トン型の続きはまたいずれ。(次回予告をしないところは、これまでの学習効果、ということで)

 

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ピカード、完結 そして「善き人」という言葉

ピカードが完結してしまった。

「・・・しまった」という言葉を思わず書かずにいられない。

終わるのだなあ。f:id:fw688i:20200126184702g:plain

たまらず、オープニングテーマを再録。

www.youtube.com

たかが(お叱りを承知で、言ってしまおう)TV ドラマである。がこの名残惜しさ(では表し切れないのだが)は、何だろう。

ドラマは常に終わる。その中に気に入ったものがあれば、それは「名残惜しい」。

しかし今のこの気持ちは、もっと癒し難い何物かで、敢えて言うと空疎な「喪失感」に近く、日常の「名残惜しさ」の域とは間違いなく異なるものだと言える。

 

ストーリーには、いろいろななところで批判がある。そして、そのどれもがもっともで、 そのいくつかには私も半ば同意する部分がある。「都合のいい展開」「解明しきれない謎」「ロミュランの真の動機は?」「古い仲間うちの物語」「あまりにもスター・トレック的」、いずれも、その通りだと頷いている自分がいるのである。

確かにドラマとしての評価は、手放しで高評価か、と聞かれると、「それほどでも」あるいは「スター・トレック見たことありますか?」と首をかしげ、条件など付けている自分がいる。しかし「今、好きなドラマは?」と聞かれると、迷わずその筆頭にあげることは間違いない。

あるいは「ドラマは?」と聞かれても、頭には浮かばないかも知れない。もっと、密かで大切なもの?

 

これは何だろう?

 

「懐かしいだけで、ピカード が出てきて嬉しいだけで高評価するのは・・・」と、どなたかがどこかで首を傾げていらっしゃったが、これには「まさにこれだ」と膝をたたいた。

そうだ。「面白い」ではなく「嬉しい」なのだ。おそらくこの一文には、本質への手掛かりがありそうだ。

つまり「嬉しい」のは何故?

ピカードに触れること?

即ち、「ピカード」 とは、(私にとって)何者なのか?

 

「善き人」という言葉が浮かんでは消える。

決して間違いのない人、という意味ではない。

常により良い「解」を求めて迷う人、というほどの意味だろうか。迷いが物語を紡ぎ、その本質に迷い、そして探す「善き」魂がある。

「成長」という言葉はあまりに教条的かも知れない。では「探索」という言葉ではどうだろう。「私の大切な物、大好きなものの、さらに深層への探索」止む事なくそれを続ける「善き」魂に、私は憧れるのである。

そして、私はそのようでありたい、と。

 

エンドタイトル。

www.youtube.com

ともあれこの10週間の、何と豊かだったことか。改めて、この豊かな時間に感謝したい。

ありがとうございました。

しばらくは、「ピカード」のサウンドトラックを聴くのだろうなあ。

 

 

少し艦船模型のブログの素顔に戻って・・・。

下の写真のような船が制作途中です。「ああ、これは・・・」「おやおや、またマニアックな」と思われた方、いずれはお目見えしますので、楽しみに。

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感想や、情報、あるいはご質問などがあれば、是非お知らせください。

 

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日本海軍巡洋艦開発小史(その1) 防護巡洋艦の系譜

さて、今回は艦船模型サイトらしく(胸を張って、いうんじゃない!・・・おっしゃる通りです)、日本海軍の巡洋艦開発(装甲巡洋艦巡洋戦艦は主力艦として既に紹介済みなので、それ以外)を辿るシリーズの第一回です。少し細切れに、6回程度のシリーズにする予定ですが、今回は、これまでにすでに紹介した内容の再録もあるので、日本海軍成立からの防護巡洋艦を一気にご紹介。

 

日本帝国海軍の防護巡洋艦

本稿ではこれまで何度も触れてきたので、「またか」の感はあるかとは思いますが、防護巡洋艦は基本、舷側装甲を持たず、機関部を覆う防護甲板により艦の重要部分を防御し、舷側の防御は石炭庫の配置に委ねるという設計構想を持った艦種で、艦の重量を軽減し高速と長い航続距離を両立させることができました。

一般に巡洋艦の主たる使命を、仮想敵の通商路破壊と自国通報路の防御においた欧州各国にとっては非常に有用な艦種と言え、一世を風靡しました。

その時期は明治初年の日本海軍の黎明期と重なり、早急な海軍整備のためには欧州先進国からの軍艦購入に頼らざるを得ない日本にとっては、乏しい国家財政も勘案して比較的調達の容易な(程度の問題ではありましたが)艦種として、多くが購入されたことは、本稿でも紹介してきたところです。

まさに日清戦争時における、日本海軍の主力艦群であったと言えるでしょう。

 

日本海軍初期の防護巡洋艦

日清戦争期までの防護巡洋艦(浪速級から吉野級)については、本稿の第3回、第4回で、ご紹介しています。以下、再録(抄録)しておきます。

fw688i.hatenablog.com

fw688i.hatenablog.com

 

トーゴー」さんと一緒に有名になっちゃった。日本海軍、最初の巡洋艦

浪速級防護巡洋艦 -Naniwa class :protected cruiser-(浪速:1886-1912 /高千穂:1886-1914)

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Naniwa-class cruiser - Wikipedia

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日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦の建造を決定。

そのうち、イギリスに発注された2隻が、浪速級防護巡洋艦であり、「浪速」「高千穂」と命名されました。

設計にあたっては、当時、世界の注目を浴びた優秀艦「エスメラルダ」(後述)をタイプシップとして、防御甲板の増強による防御力の向上、主砲口径の拡大など、若干の改良が盛り込まれました。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する、日本海軍最初の防護巡洋艦です。

船体はタイプシップである「エスメラルダ」より少し大型化し3,700トンとなり、26センチ主砲2門、15センチ砲6門を主要兵装として備え、速力は18ノットを発揮することが出来ました。(77mm in 1:1250 Hai)

日清開戦時の「浪速」の艦長が東郷平八郎であり、彼と「浪速」は、開戦劈頭の「高陞号事件」で名を挙げました。

日清戦争後、兵装を15.2センチ速射砲に換装し、日露戦争に望みました。日露戦争では第二艦隊に所属、主力の装甲巡洋艦を補佐しました。

「高千穂」は、第一次世界大戦で、ドイツ太平洋艦隊の根拠地青島要塞の攻略戦に封鎖艦隊の一員として参加しました。その際、ドイツの水雷艇S-90の雷撃を受け、補給用に搭載していた魚雷が誘爆、轟沈しました。日本海軍における、敵艦との交戦で失われた最初の艦となってしまいました。

 

待てど暮らせど・・・。どこに行っちゃったんだろう?

幻の防護巡洋艦「畝傍」-Unebi :protected cruiser-

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Japanese cruiser Unebi - Wikipedia

f:id:fw688i:20181013214613j:plain明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦を英仏2両国に発注しましたが、このうちフランスに発注された1隻が「畝傍」でした。

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮しました。(::mm in 1:1250 Hai)

同時期に発注された当時の最新式の防護巡洋艦であるにも関わらず、「浪速」級とは異なり、直上の写真のように、流麗でやや古めかしい三檣バーク形式の船でした。フランスから日本への回航途上で行方不明となったことはつとに有名です。

浪速級と比較すると、やや低めの乾舷と、舷側の4箇所の砲座に搭載された24センチの主砲が、ややバランスの悪さを感じさせます。フランス艦には時に復元性能に問題がある場合があり、回航途上に暴風雨などに遭遇しその弱点が瞬時の転覆をもたらしたのかもしれません。

しかしその流麗な艦容で高速を発揮し敵に肉薄する姿など、見てみたかったと思いませんか?

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(直上の写真は、「浪速級」と「畝傍」の関係の比較。同年代なのに、基本設計が異なるのでしょうね。後述の「松島級」のそうですが、フランスの設計は、好きだなあ)

 

舷側装甲帯を持った防護巡洋艦?そんなのあり?

千代田 -Chiyoda :protected cruiser-  (1891-1927) 

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Japanese cruiser Chiyoda - Wikipediaf:id:fw688i:20180915210056p:plain

「千代田」は、前出のフランスから日本への回航途上で消息を絶った巡洋艦「畝傍」の保険金により調達されたといういわく付きの巡洋艦です。イギリスで建造され、舷側水線部に貼られた装甲帯を持つところから「日本海軍初の装甲巡洋艦」ともいわれることもありますが、2,500トン、主砲は持たず12センチ速射砲を舷側に10門装備した、正確には装甲帯巡洋艦、一般的には防護巡洋艦に分類されるでしょう。(75mm in 1:1250 WTJ)

19ノットの速力を持ち、当時としては快速でありながら、重厚な連合艦隊主隊に組み込まれたため(おそらく、その装甲帯のため?)、その快速を発揮する機会は、黄海海戦においてはありませんでした。

 

倒せ定遠鎮遠!すごいの作っちゃったよ。

三景艦:松島級防護巡洋艦 -Matsushima class :protected cruiser- 

(厳島:1891-1925/ 松島:1892-1908/ 橋立:1894-1925  

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Matsushima-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「松島」。「松島」は主砲を後ろ向きに搭載している。フェアリー企画製レジンキット

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(「厳島」と「橋立」は同型艦。主砲を前向きに搭載している。Hai製。ベルタンの設計では、主砲を後ろ向きに搭載した「松島型」2隻と、前向きに主砲を搭載した「厳島」「橋立」の4隻で、一セットの戦隊として戦場に投入される予定だったと言われています)

この3隻が、フランスの天才造船家エミール・ベルタンの設計であることはつとに知られています。清国の当時アジア最強を謳われた定遠級戦艦(砲塔装甲艦)「定遠」、「鎮遠」に対抗する艦として設計されました。

これらの艦の最大の特徴は、4,000トン強の小さな船体に巨大な38口径32センチ砲を主砲として一門搭載していることで、主砲自体の性能は、射程、口径、弾丸重量ともに、「定遠級」の主砲(20口径30センチ砲)を凌駕していました。「厳島」と「橋立」はこの主砲を前向きの露砲塔に搭載し、「松島」は後ろ向きに搭載しています。「アジア最強の戦艦を上回る強力艦を手に入れた」と国民の少年のような高ぶりが伝わってくるような気がします。

早速、連合艦隊も「松島」をその旗艦に据えました。(75mm in 1:1250 Hai)

 

 **本稿でのラーニング:筆者は以前から、この「松島級」の特に「松島」に装備された後むきの主砲はどの様に使用される目的があったのだろうかと、疑問を持っていました。この疑問に対し、ご投稿(「通りすがり」さん)をお寄せいただき、「設計者ベルタンのオリジナルの設計はもう少し大きな艦型になるはずだった。日本海軍は予算の関係で船体を小さなものにせざるを得なかった」(これは筆者も聞いたことがありました)、そして「その設計では、もう少しまともに舷側方向に射撃ができたはず」(なるほど!)、さらに「何れにせよ使いにくい巨砲ではあったので、中口径砲の乱射で敵艦の行動の自由をある程度奪ったのちに、必中のタイミングでトドメを刺すような使い方を想定したのではないか。標的と想定された「定遠」級装甲砲塔艦の装甲を撃ち抜くには、この巨砲しかなかったのだから」という趣旨の解釈を伺うことができました。眼から鱗、とはこのことです。ありがとうございました。

 

初の国産巡洋艦。結構良いんじゃない?

秋津洲 Akitsushima :protected cruiser- (1894-1927)

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Japanese cruiser Akitsushima - Wikipediaf:id:fw688i:20180917142146j:image

 「秋津洲」は、巡洋艦のような大型艦としては、設計から建造まで初めて日本国内で行われた、記念すべき軍艦です。

3,150トン、19ノットの快速を発揮し、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門を装備した、国産のいわゆるエルジック・クルーザーです。設計当初から巨砲を主砲とせず、当初から速射砲を装備しています。他の防護巡洋艦の多くが、就役時に装備した主砲を、その後速射砲に換装していること考えると、まさに慧眼と言えるでしょう。あるいは、巨砲を調達できなかった、案外、実情はそういうことかも知れませんが。経緯はさておき、本艦以降、日本海軍の防護巡洋艦は、速射砲中心でその兵装を整えて行くことになります。(80mm in 1:1250 WTJ)

 

元祖エルジック・クルーザーを手に入れた!

防護巡洋艦「和泉」、元は「エスメラルダ」-Esmeralda :protected cruiser: Izumi - (1884-1912: 1894、日本海軍に売却、以降、巡洋艦「和泉」)

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Japanese cruiser Izumi - Wikipediaf:id:fw688i:20180917122434j:image

 「エスメラルダ」は、当初、チリ海軍によってイギリス・アームストロング社に発注された、防護巡洋艦です。(68mm in 1;:1250 Navis)

建造時には、3000トン弱の船体に、主要兵装として25.4センチ単装砲2門を主砲、他に15センチ砲6門を装備し、18ノットの速力を出すことが出来ました。

日清戦争中の1895年に日本に売却され、艦名を「和泉」としました。日本海軍に移籍後、主砲を15センチ速射砲に、その他を12センチ速射砲に換装するなどして、日露戦争では、第三艦隊の序列に加わり戦いました。

本艦がアームストロング社エルジック造船所で建造されたところから、以降、同様の設計で建造された防護巡洋艦は、造船所の場所に関わらずエルジック・クルーザーと呼ばれるようになりました。いわゆる元祖エルジック・クルーザーという「記念的」な巡洋艦と言えるでしょう。日本海軍の防護巡洋艦は、フランスで生まれた「松島級」、舷側装甲を持った「千代田」を除いて、すべてこの形式です。

 

世界最速の・・・

吉野級防護巡洋艦 -Yoshino class :protected cruiser - (吉野:1893-1905/高砂:1898-1904)

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Japanese cruiser Yoshino - Wikipedia

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明治24年度計画で、イギリス・アームストロング社に発注されました。建造は同社エルジック造船所で行われ、まさに本家のエルジック・クルーザーです。

その特徴は何をおいても23ノットという高速にあり、就役当時は世界最速巡洋艦、と言われました。4,200トンの船体に、「秋津洲」同様に兵装は全て速射砲で揃えていました(15.2センチ速射砲4門・12センチ速射砲8門)。 (95mm in 1:1250 WTJ)

黄海海戦にあたっては、第一遊撃隊の旗艦として、坪井少将が座乗しました。

同型艦高砂日清戦争後に発注され、主砲口径を20.3センチにするなど、いくつかの改良点が見られます。

その後、「吉野」は日露戦争には、第3戦隊の一隻として参加しましたが、いわゆる日本海軍「魔の1904年5月15日」、封鎖中の旅順沖を哨戒中に濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没しました。同日、機雷で戦艦「初瀬」「八島」を喪失し、日本海軍にとって5月15日は、まさに災厄の1日となりました。

同型艦高砂」も、同年12月13日にやはり旅順閉鎖作戦中に触雷して失われました。

 

日清戦争以降の防護巡洋艦

 

これで国産定着?

須磨級防護巡洋艦 -Suma class :protected cruiser-(須磨:1896-1923 /明石:1899-1928) 

ja.wikipedia.org

Category:Suma-class cruisers - Wikipedia

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「須磨」級防護巡洋艦は、前出の初の国産巡洋艦秋津洲」を小型化し改良したものです。

2,657トンの「秋津洲」よりも二回りほど小さな船体に、「秋津洲」と同様の兵装、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門を装備し、同級より若干優速の20ノットを発揮します。(78mm in 1:1250 WTJ)

日清戦争には間に合いませんでしたが、日露戦争では建造年次の新しい防護巡洋艦として高速をいかした前哨索敵等の任務でほぼ全ての主要な海戦に参加し活躍しました。

さらに第一次世界大戦では、青島要塞攻略戦やインド洋でのANZAC護衛任務等に参加した後、「明石」は第二特務艦隊旗艦として地中海での対Uボート作戦に派遣されています。

 

(直下の写真は、前回ご紹介したWTJ製の3D printing model。防護巡洋艦「笠置」級(奥)と「須磨」級(手前)。今回ご紹介する「須磨級」「笠置級」両防護巡洋艦は、これを仕上げたものです)

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「吉野」をもう2隻!

笠置級防護巡洋艦 -Kasagi class :protected cruiser-(笠置:1898-1916 /千歳:1899-1928)

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Kasagi-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「吉野級」と「笠置級」。「笠置級」は「吉野級」をタイプシップとしたため、類似点が多い)

「笠置級」防護巡洋艦は、「吉野級」の2番艦「高砂」をタイプシップとして、アメリカで建造されました。日本海軍としては、海外に発注された最後の防護巡洋艦となりました。

武装タイプシップである「高砂」に準じて、20.3センチ速射砲2門、12センチ速射砲10門を主兵装としています。速力は22.5ノットを発揮しました。(95mm in 1:1250 WTJ)

日露戦争では、海軍主力艦隊の第一艦隊に所属し、戦艦戦隊を補佐しほぼ全ての主要海戦に参加しました。

 

偵察専任!無理のない設計で、しかも国産。

新高級防護巡洋艦 -Niitaka class :protected cruiser-(新高:1904-1922 /対馬:1904-1939)

ja.wikipedia.org

Niitaka-class cruiser - Wikipedia

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 「新高級」防護巡洋艦は、日本海軍としては初めて設計当初から偵察任務を想定して建造された国産巡洋艦です。そのため前級にくらべやや小型の艦型となりました(3,366トン)。雷装を廃止し、兵装も15.2セント速射砲6門、速力も20ノットととやや抑えたものとなっています。(81mm in 1:1250 Navis)

この様に一見したスペックでは華々しさには欠ける同級ですが、一点、堅牢性、実用性は大変高く評価された様です。(日本海軍は、ともすると「一点豪華」へのこだわりが強く見られ、ともすればその「豪華」装備へのこだわりで、設計に齟齬をきたす様なことが時折みうけられたりするのですが、本級における成功は、米軍におけるシャーマン戦車やドイツ軍の4号戦車などの様な成功例と何処かに通ずるところがある様な気がします)

第一次世界大戦では、インド洋でのシーレーン防御任務に活躍し、南アフリカケープタウンあたりまで遠征しています。

 

予算がちょっと足りないから、少し小ぶりに作ってみました

音羽 Otowa :protected cruiser- (1904-1917)

ja.wikipedia.org

Japanese cruiser Otowa - Wikipedia

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前出の「新高級」同様に 偵察任務を想定し1隻のみ建造されました。予算の関係で、「新高級」をさらに小型化した設計となり、3,000トンの船体で21ノットを発揮しました。

兵装は前級同様、雷装は持たず、15.2センチ速射砲2門、12センチ速射砲6門と、艦型の小型化に準じさらに抑えたものになっています。

偵察巡洋艦の本領を発揮して、日露戦争に続き、第一世界大戦でも主として警備活動に活躍しました。

(本艦の1:1250スケールの艦船模型は、未入手です。Hai社から製品化されてはいる様なのですが。写真はLaWaRuというモデルショップのものを拝借。いずれはセミクラッチにトライしてみようかな。何処かに資料があったかな?)

 

やっぱり「吉野」は良かったよね。国産でも作ってみよう。

利根 Tone :protected cruiser- (1910-1931)

ja.wikipedia.or

Japanese cruiser Tone (1907) - Wikipedia

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前出の「吉野級」防護巡洋艦タイプシップとして、日露戦争直後の臨時軍事費で1隻のみ建造されました。タイプシップを 「吉野級」にしたところからも、艦隊型巡洋艦として設計され、前級「新高級」「音羽」では廃止されていた雷装を装備し、兵装も「吉野」に準じて15.2センチ速射砲2門、12センチ速射砲10門としています。(99mm in 1:1250 Navis)

本艦の最大の特徴は、これまで戦果実績が見られず、一方では両艦同士の衝突などによる喪失事故が見られた艦首の衝角を廃止し、クリッパー型の艦首を持ったところにあります。

4,113トンの船体にレシプロ蒸気機関を搭載し23ノットの速力を発揮しました。本艦は日本海軍の巡洋艦として、レシプロ機関を主機とした最後の巡洋艦となりました。

 

次の次元に行ってみよう。防護巡洋艦から軽巡洋艦への過渡期。

筑摩級防護巡洋艦 -Chikuma class :protected cruiser-(筑摩:1912-1931 /矢作:1912-1940 /平戸:1912-1940)

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Chikuma-class cruiser - Wikipedia

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本級は明治40年度計画で3隻の建造が 承認されました。一番艦「筑摩」は佐世保海軍工廠で建造されましたが、「矢作」は三菱長崎造船所、「平戸」は川崎造船所、といずれも初めて民間造船所で建造された巡洋艦となりました。

前級「利根」同様に艦首衝角を廃止しクリッパー型艦首を持ち、艦型は一気に5,000トンと大型化しています。主機には初めて蒸気タービンが採用され、26ノットの高速を発揮します。

3基の魚雷発射管と、15.2センチ速射砲8門を主要な兵装として装備しています。(177mm in 1:1250 Navis)

本級は防護巡洋艦から後の軽巡洋艦(軽装甲巡洋艦)への過渡的な存在と言え、防護巡洋艦本来の舷側防御である石炭庫の配置に加え、舷側の一部に87mmの舷側装甲を有していました。

第一次世界大戦では、ニューギニアドイツ領の攻略戦や、ドイツ太平洋艦隊(シュペー提督指揮)の通商破壊戦への警備活動、のちにはインド通商路の警備活動などに活躍しました。

 

 

ということで、今回は日本海軍の設立当初からその戦力として重要な一翼を担ってきた防護巡洋艦をおさらいも含めて一覧してみました。当然、この後、軽巡洋艦(軽装甲巡洋艦)、重巡洋艦と続いていくのですが・・・。(次回予告をしないところは、これまでの学習効果、ということで)

 

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号外:艦船模型サイトの復活?(でも、「ピカード」も少しだけ)

珍しく、二日続けての連投、です。(どうした、暇か?・・・まあ、そう言わないで)

 

久々の艦船模型の到着

このところ、艦船模型に関係のない話ばかりが続いています。

「いろいろあって時間が無い」とか、言い訳ばっかりしている様な気もしているので(確かに、「スター・トレック ピカード」の放送開始も含め、やや感心事が膨らんで、自分自身でもややその振れ幅を持て余している、そんな感覚もあるのは事実です)、ここで少し、自分への気持ちの引き締めも兼ねて、艦船模型がらみのアップデートです。(何をやっても、言い訳めいてきます。とほほ)

 

これまでにも、本稿では何度かご紹介してきましたが、私の1:1250スケール艦船模型のコレクションでは、大変頼りにしているWTJ(War Time Journal)から、オーダーしていた日本海軍の防護巡洋艦と大正期の駆逐艦のモデルが到着しました。

www.wtj.com

 

今回到着したのは、防護巡洋艦「須磨」級と「笠置」級、駆逐艦「海風」級の「海風」「山風」、さらに「磯風」級駆逐艦、の計5隻です。

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(上段:防護巡洋艦「笠置」級(奥)と「須磨」級(手前)。下段:駆逐艦「山風」/「海風」級の連装魚雷発射管への換装後を再現 と「海風」/「海風」級竣工時を再現(中央)、駆逐艦「磯風」級(手前))

ja.wikipedia.org

日本海軍初の国産大型艦「秋津洲」に続く、国産防護巡洋艦で、「秋津洲」の小型化改良版でです。

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日清戦争後に、アメリカに発注された防護巡洋艦で、最後の外国への発注軍艦となりました。

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日本海軍初の1000トン級駆逐艦。前級の「神風」級が400トン足らずの艦であったことを考えると、大きく飛躍した設計になっています。主機に初めてタービンを採用し、33ノットの高速を発揮しました。

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「海風」級に続く国産駆逐艦。「海風」級の強化型です。魚雷発射管の搭載数を増やし、34ノットの高速を発揮。

 

これらの到着により、滞っている日本海巡洋艦の特集が、防護巡洋艦軽巡洋艦重巡洋艦と、系統的に展開できる様になる予定です。その前に、「仕上げなきゃ」と言うハードルがあるのですが。(写真は到着したての無垢のままですが、一応、下地処理までは進んでいます)

 

と言うことで、艦船模型サイトを「辞めちゃった」訳ではないので、しばらく待ってやってください(おい、また言い訳か?・・・まあ、そう言わずに)。

 

スター・トレック ピカード

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みんな、観てますか?観てますよね。(ネタバレは絶対嫌、と言う人は、ここまでで、撤退してください!)

***********(撤退ライン)************

 

Amazon Primeの誤配信騒動などもあって(あんなことって、ある?)、先週は、私も皆さん同様「金曜日、返してくれ」と喚いていた一派だったのですが、一転して、Episode 7がもう嬉しくて、ネタバレも気にせず、「下の写真を投稿」、です。f:id:fw688i:20200308155523j:image

もう観た人はもちろん、まだ観てない人(でも、ここまで読んじゃった人)も、説明は要らないと思います。

しかしDiana Troiに再会した際に"I'm fine....., really"と言った際のPicardの表情は・・・。

 

金曜日は、吹替版と字幕版で、至福の2時間を過ごしています。殊に、この週末の2時間は・・・。

 

もう一回、オープニング・テーマを聞いちゃおう。

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こっちも併せて。

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こんなのも、見つけちゃった。(この動画、是非、最後まで聞いてください。小さな奇跡が。ちょっと大げさかな?)

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ああ、少し内省的に分析すると、こう言うのが、前述の「私の最近の関心事の振れ幅」の一つの具現化、ですね。・・・でも、なんだか、豊か、だなあ。

 

次回予告は、しないことにしましたが、艦船模型、少しづつだけど進んではいるので、いずれは・・・。

感想や、情報、あるいはご質問などがあれば、是非お知らせください。

 

 

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坂本龍一の映画音楽

またまた、お詫びから。すみません。やはり予告通りにはいかず(前回、次は「否定と肯定」という映画について、と言いましたが、少しこれは後回し)、今回は坂本龍一さんの映画音楽を、少し。

 

言い訳をすると、前回の「大好きな韓国映画、総ざらい」で、最後に「天命の城」という映画について少し触れましたが、その音楽を担当したのが坂本龍一さんで、そこから坂本龍一の映画音楽のミニ・ブーム(私の日常生活では、しょっちゅうこういうミニ・ブームが起こるのですが、皆さんは起こらない?)が起きていて、私の中では、一応、流れとしては、つながってはいるのです。(そんなの知るか!おっしゃる通りです)

 

ということで、「天命の城」のテーマを再掲。

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 ついでに、前回紹介した坂本龍一さんの「天命の城」の音楽メイキングインタビューも再掲しておきます。

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 「天命の城」は2018年の映画ですので、坂本龍一さんの映画音楽作品としては、比較的新しい物です。上掲のインタビューの中でも、韓国の伝統的なモチーフを取り入れた、という様なことが語られていますが、ストリングスを多用した静かな、うねる様な曲想は、坂本龍一という映画音楽作曲家の一つの特徴の現時点での「高み」を味合わさせてくれる物だと思っています。

 

坂本龍一(1952年ー)

私が同系列の名曲と感じているものをもう一つ。

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シェルタリング・スカイ(1991年)。これもストリングスを多用した、テーマが美しい。

さらに、リトル・ブッダ(1993年)

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私は映画音楽が大好きです。

クラシックも大好きなのですが、実は、私の中で順序としては映画音楽が先で、その背景、派生を調べてゆくうちに、そのベースとなっているクラシックにたどり着いた、という経緯があります。もちろん歴史的な長さを考えても、クラシックの奥深さは映画音楽の比ではない、とは思うのですが、元々が宮廷や教会のBGM、オペラなどの舞台の「装置」として奏でられた曲からスタートした音楽が、今やクラシックの名曲として残っているところから考えても、我々の現在の生活の中で重要な位置を占めている映画や、TV番組のために書かれたオリジナルの音楽は、やがていくつかがクラシックとして伝わっていくのだろうな、などと想像しながら、いろいろと頭の中でその系譜を整理したりするのは、本当に豊かな時間だなあ、と、時にふと思ってしまいます。

誕生に立ち会っているのかもしれない、なんて贅沢な体験なんだろう、と。

私にとって、そうした「誕生の予感」を曲を聴くたびに濃厚に感じさせてくれる作曲家の一人が、坂本龍一、と言う人なのです。

今回は、そう言うお話。

 

坂本龍一の映画音楽。次に取り上げるのは、「オネアミスの翼」(1987年)。映画そのものも、正にアニメのクラシックと言っても良い作品ですが、その音楽もまた。

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YMOの血脈を色濃く残した作品、と言っておきましょう。前へ前へと進もうとする世界を、少し物悲しく表した様な。スチームパンク的なアナログな世界観が、その様な色合いを醸すのでしょうか?私にはそんな曲に聞こえます。もちろん大好き。

 

そして、なんと言っても次の2作品に触れないわけにはいかないでしょう。

ラスト・エンペラー(1988年)と戦場のメリークリスマス(1983年)。

ラスト・エンペラーは、エンディング・テーマを。アカデミー作曲賞受賞作品ですね。

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これらは坂本龍一さんの映画音楽作曲家のキャリアとしては、年代を見ていただいてもわかる様に、最初期の作品群、と言えます。最初期からこの完成度。やはり才能ですね。何も、おこがましく私が言う必要はないですが。(すみません)

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映画音楽家として記念すべき最初の作品。このあまりにも有名な曲には「Forbidden

colours」というタイトルがあり、歌がついていたりします。

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坂本龍一さんの作品は、映画のサウンドトラックとしてのみならず、音楽単独でも演奏される機会が多く、その中には坂本龍一さん自身による演奏も多く含まれています。上掲のシェルタリング・スカイなどもその一例ですね。私にとっては、クラシックの誕生に立ち会えている様な、そんな瞬間です。

 

その中でも、坂本さんご自身が率いるskmt trioによる、演奏をご紹介しておきたいと思います。

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特に次にご紹介する「Merry Christmas Mr Lawrence」もskmt trioによる演奏。曲も演奏も最高です。改めて言うまでもないですが、この曲は正に「名曲」の名にふさわしい、この演奏を聴くたびにそう思います。特に少し心が痛んだいる時など、最後には少し元気になれている、そんな一曲かと。

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続けて坂本龍一氏、自身によるピアノ独奏も

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さらにオーケストラとのコラボ。

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これらがYoutubeでいつでも楽しめるなんて、やはり我々は豊かな時代に生きている。

 

でも、こうしてコレクションするのも確かに豊かなんですが、演奏会の次元の違う豊かさもまた。一日も早くコロナ騒ぎが収まって、いろんな人と音楽を聴く時間を共有できると良いなあ、と、最近本当に実感します。

 

最後に、坂本龍一さんとは全く関係ないですが、前回ご紹介した、韓国映画のキムチ・ウエスタン「Good Bad Weird」のサウンドトラックからも一曲。こっちも元気になれるから!

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次回予告・・・。

どうしようかな。

巡洋艦路線は、少し回数がかかりそう。もう一つ、企画物(と言うか、私の中でミニ・ブームになっているだけなんですが)があるのだけれど、一回でおさまるかなあ?

そうすると次回こそ「否定と肯定」という映画を巡るお話を?ああ、T-34 Mod 40だってあるぞ。Picardも佳境に入ってきたし。

と言うことで、出たとこ勝負でいかせてもらいます。(あ、開き直った。・・・まあ、そう言わずに)

 

感想や、情報、あるいはご質問などがあれば、是非お知らせください。

 

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