相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日本海軍巡洋艦開発小史(その6) 重巡洋艦の決定版登場 そして第一次ソロモン海戦

最後の条約型一等巡洋艦

期せずして、巡洋艦にカテゴリーA(重巡洋艦)と言う区分を設け、その保有数が制限されるロンドン体制のきっかけとなった「妙高級」重巡洋艦でしたが、いわゆる「平賀デザイン」巡洋艦の頂点として重武装コンパクト艦を実現する一方で、様々な課題を内包していた事は、本稿で既述した通りでした。

これに対する「解」として設計されたのが「高雄級」重巡洋艦だったわけなのですが、この艦級の建造により、日本海軍のカテゴリーA(=重巡洋艦=一等巡洋艦)の保有枠は制限一杯となり、以降の巡洋艦は全てカテゴリーB(=軽巡洋艦=二等巡洋艦)として設計されました。

つまり、本級が、日本海軍が設計した最後のカテゴリーAとなったわけです。

 

重巡洋艦の集大成

高雄級重巡洋艦 -Takao class heavy cruiser-(高雄:1932-終戦時残存/愛宕:1932-1944/鳥海:1932-1944/摩耶:1932-1944)   

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Takao-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の概観。 165mm in 1:1250 by Konishi )

 

「高雄級」重巡洋艦は、基本的に前級「妙高級」の改良型として設計されました。しかし設計は平賀譲の手を離れ、その後継者と目される藤本喜久雄(当時造船大佐)によるものでした。前回「妙高級」でも触れましたが、平賀譲は造船家として優れた設計思想をもち、その設計した軽巡洋艦「夕張」、「古鷹級」巡洋艦、「妙高級」重巡洋艦など、海外から大きな脅威として見られたシリーズ(この一連のシリーズに対する脅威から、主力艦に保有制限を設けたワシントン体制から、補助艦艇にも保有制限を設けるロンドン条約が生まれたほどです)を生み出した反面、「不譲=譲らず」の異名をつけられるほど自説に対する自信が強く、時に用兵者の要求も一顧だにせずはねつける、あるいは「完成形」を求めるあまり工数、費用、量産性などを考慮しないなど、毀誉褒貶の激しい人物でした。この為、海軍の造船中枢からは外されてしまいました。 

前級との主な差異は、主砲口径を最初から条約制限上限の8インチ(20.3cm)とし、連装主砲砲塔5基の配置形態はそのままにして、前後の配置間隔を詰めることにより集中防御を強化したこと、新砲塔の採用により主砲の仰角をあげ、対空射撃能力を主砲にも持たせ、これにより高角砲の搭載数を減じたこと、そして何より被弾時の誘爆損害が大きな懸案だった船体内に装備された魚雷発射管を上甲板上に装備する配置に変更したことが挙げられるでしょう。

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時の特徴をクローズアップしたもの。巨大な艦橋(下段左)。単装高角砲と、設計時から上甲板上に設置された魚雷発射管:新型砲塔の採用で主砲の仰角を上げることで対空射撃にも対応できる設計として、単装高角砲は前級の6基から4基に減じられています(上段)。拡充された航空艤装:設計当初からカタパルトを2基搭載していました(下段右))

 

航空艤装も強化され、前級までは1基だったカタパルトを2基装備にすることにより、水上偵察機の運用能力の向上が図られました。

一方で、上記の「平賀はずし」の経緯の反動で、用兵側の要求に対する異論が唱えにくい空気が醸成されたことも事実で、それが戦隊(艦隊)旗艦業務などに対応する為の艦橋の著しい大型化などとなって現れ、高い重心から「妙高級」に対しやや安定性と速力で劣る仕上がりとなりました。

 

大改装

同級のうち「高雄」と「愛宕」は、1939年から数次にわたる改装を受けました。

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(直上の写真は、「高雄級」:大改装後の概観。by Konishi )

 

課題であった艦橋の若干の小型化とバルジの大型化による復原性(安定性)の改善、航空艤装の変更(格納庫を廃止し、基本、搭載機の甲板係留としました。整備甲板を増設し、配置を変更、水上偵察機の搭載定数を2機から3機に増加しています)、魚雷発射管の連装発射管4基から4連装発射管4基への換装、高角砲を正12cm単装砲4基から5インチ連装砲4基8門に強化したことなどが挙げられます。 

この最後の高角砲の強化については、竣工時の設計では既述のように新砲塔の採用で主砲に対空射撃能力を付与することによって高角砲の搭載数を前級「妙高級」よりも減じた同級だったのですが、8インチ主砲での対空射撃では射撃間隔が実用に耐えず、結局高角砲を強化せざるを得なかった、という背景がありました。

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の概観比較。舷側の大きなバルジの追加が目立ちます。さらに、航空艤装の構造が変更され、後檣の位置が変わっています)

 

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(直上の写真は、「高雄級」:竣工時(上段)と大改装後の変化をもう少し詳細に見たもの。左列:艦橋が小型化してます。写真ではちょっとわかりにくいのですが、かなり大幅な小型化です。一段低くし、同時に簡素化が行われた、と言う表現がいいでしょうか?時折「最上級」に倣って、と言うような表現も目にしますが、それはちょっと言い過ぎかと。右列:高角砲は連装に変更されています。主砲での対空射撃は、構想としては両用砲的な活用の発想で、意欲的ではありましたが、射撃速度と弾速が航空機の速度を勘案すると実用的ではなかったようです。そのため、高角砲自体を強化する必要があったようです。高角砲甲板の下の魚雷発射管については、配置自体には変更は見られませんが、発射管を連装から4連装に強化しています)

 

「摩耶」の防空巡洋艦

「摩耶」は上記の大改装を受けずに太平洋戦争に臨みましたが、1943年ラバウルで米艦載機の空襲で被弾大破。その修復の際に3番主砲塔を撤去し、連装対空砲を2基増設し6基12門、さらに対空機銃多数を増設し、防空巡洋艦化を行いました。この際に、復原性改善の為のバルジ増設、魚雷装備の換装なども併せて行っています。

(この状態での模型が、今、手元にありません。模型自体はNeptuneから市販されています。入手次第、公開します。ご容赦を)

 

その戦歴

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(直上の写真は、太平洋戦争開戦時の第4戦隊。手前から「愛宕」「高雄」「鳥海」「摩耶」。舷側のバルジの有無と、後檣の位置で判別できます。同級は、その設計時に旗艦設備を組み込んだ大型艦橋をもたされていたため、他の艦隊への派出が相次ぎ、なかなか4隻揃って出撃する、と言う機会がありませんでした。1944年10月のレイテ沖海戦には、第2艦隊の旗艦戦隊として、4隻揃って出撃しましたが、出航翌日、うち3隻が米潜水艦の攻撃で被雷。2隻が沈没し、1隻が戦列を離れてしまいます)

 

「高雄」:太平洋開戦時には、南方作戦全般の指揮をとる第2艦隊(近藤信竹中将)の直卒主隊である第4戦隊に所属し、フィリピン攻略戦、ジャワ攻略戦等に参加しています。

ミッドウェー海戦では、僚艦「摩耶」と共に第4戦隊第2小隊を編成し、アリューシャン作戦に分派され、その後、ソロモン方面での第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦などに参加しています。

米艦隊によるラバウル空襲で被弾。損傷修復のために内地にひきあげたのち、マリアナ沖海戦を経て、1944年10月、栗田艦隊(第二艦隊第一遊撃部隊)の一員として、レイテ沖海戦に、同型艦4隻揃って参加しました。しかし艦隊出撃の翌日、パラワン島沖で、米潜水艦の魚雷を2発被雷し、一時航行不能になり、そのままブルネイに引き返しました。その後、シンガポールに回航され修復を行いますが、英海軍のコマンド部隊の爆破工作など(戦争末期に落日の日本軍相手に、そんな危険な作戦を行ったんですね。イギリス人のモチベーションは、時折よくわからない)で再び損傷を受け、そのまま終戦を同地で迎えました。

 

愛宕」:太平洋戦争開戦時には、緒戦の南方作戦統括の第2艦隊旗艦として参加しています。マレー作戦、蘭印攻略戦などを支援した後、ミッドウェー作戦では、ミッドウェー島攻略部隊本隊旗艦として参加。

その後、主戦場がソロモン方面に移ると、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦に活躍しました。

第三次ソロモン海戦では、ガダルカナル島ヘンダーソン基地(飛行場)砲撃主隊である第11戦隊(「比叡」「霧島」)の支援部隊として参加。緒戦では、警戒中の米巡洋艦隊と第11戦隊が夜間遭遇戦を展開し乱戦の末、旗艦「比叡」が大損傷を受け砲撃は未遂に終わります。(「比叡」は翌日、米軍機の攻撃を受け自沈)

愛宕」に座乗する近藤司令長官は、直卒する第4戦隊主隊とともに「霧島」による飛行場砲撃を再起しますが、途上で阻止を狙う米戦艦隊(「ワシントン」「サウスダコタ」基幹)と再び遭遇戦となってしまいます。乱戦になり「サウスダコタ」に大損害を与えつつも、16インチ砲を装備した戦艦2隻には歯が立たず(「霧島」は14インチ砲装備)、「ワシントン」のレーダー管制射撃を浴びて「霧島」は大破、翌日、沈没します。

この乱戦中に、「愛宕」は19本の魚雷を射出しますが、命中させることはできませんでした。

第2艦隊司令長官が開戦以来の近藤中将から栗田中将に交代しますが、旗艦は引き続き「愛宕」が務めることとなりました。内地での「ラバウル空襲」で受けた損傷を修理した後、マリアナ沖海戦に参加。この海戦では、第2艦隊はそれまで連合艦隊主隊として活動してきた「大和」「武蔵」「長門」など戦艦部隊も戦列に加え、小沢中将の第3艦隊(空母機動部隊)と統合艦隊(第1機動艦隊)を編成し、小沢中将がこれを統合指揮する体制に移行しています。

マリアナ沖海戦は日本海軍がそのほぼ全力を集中して戦った、いわゆる念願の艦隊決戦だったわけですが、結果、その空母戦力を喪失(特に艦載機部隊の損耗が激しく、敗戦まで、この損害を立て直せませんでした)してしまいました。

次のレイテ沖海戦では、この空母機動部隊の残存兵力(小沢中将指揮の第3艦隊基幹。その艦載機は、実質空母1隻分程度でしたが)を囮に使い、これに米空母機動部隊が誘引される隙に水上戦闘艦隊(第2艦隊基幹:栗田中将指揮)が米上陸部隊を攻撃する、という構想の戦闘計画が実行されました。

愛宕」はこの作戦でも引き続き第2艦隊旗艦を務めました。

1944年10月、栗田中将率いる第一遊撃部隊(第2艦隊主力部隊)はブルネイを出航。戦艦5、重巡洋艦10、軽巡2、駆逐艦15からなる大艦隊でした。出航の翌日、パラワン沖で米潜水艦の雷撃を受け、4本の魚雷が命中。約20分で、沈没しました。

愛宕」は旗艦でしたので、栗田中将以下艦隊司令部が搭乗していたのですが、彼らは海中に避難後、駆逐艦を経て、「大和」に収容され、以後は「大和」が旗艦となりました。

***栗田中将はレイテ海戦前に、この作戦は、これまでの空母機動部隊主力の作戦と異なり水上戦闘艦艇が日本艦隊の主力となる戦いとなるために、旗艦を「愛宕」から、艦隊の最も新しい戦艦で、戦闘力も防御能力もさらに情報収集のための通信能力も高い「大和」に変更する希望を連合艦隊司令部に出した、と言われています。しかし連合艦隊司令部は「第2艦隊の旗艦は開戦以来「愛宕」だから」という、理由にもならないような理由でこれを却下したと言われています。

栗田中将が連合艦隊司令部から軽んじられていた、信頼されていなかった、というような穿った見方もありますが、もしこれが真実であれば、そのような評価の人物に、この重要な、ことによると日本海軍の最後の作戦となるかもしれないような作戦の指揮を任せた、というのは、どういうことなんでしょうか?

「真面目に戦ったのは、小沢と西村だけ」というような戦後評価があり、常にそうした場面で栗田中将は割りを食ってきていますが、連合艦隊司令部、あるいは軍令部が真面目に戦ったのか、という問いかけをすることが、先のような気がします。

 

「鳥海」:開戦時は第4戦隊の序列からは離れ、小沢中将の指揮する南遣艦隊の旗艦を務め、マレー攻略戦を戦いました。その後、蘭印作戦に参加した後、第4戦隊に復帰し、ミッドウェー海戦には、ミッドウェー島攻略本隊に第4戦隊第1小隊(「愛宕」艦隊旗艦、「鳥海」)として参加しています。

ラバウルに第8艦隊が新設されると、この新艦隊の旗艦として「鳥海」は再び第4戦隊を離れます。同艦隊は、既述のように新たな占領地域であるラバウルに拠点を置き、ニューギニアソロモン諸島方面(南東方面:外南洋)をその担当領域としていました。

米軍がガダルカナル、ツラギに来襲すると、この迎撃に第8艦隊が出撃します。いわゆる第一次ソロモン海戦です。この海戦で、第8艦隊は戦闘では劇的な戦果をあげるのですが、一方で作戦目的からの(戦略的な)評価では、護衛艦隊が粉砕され丸腰になった上陸船団に指一本触れなかったことから、すでに戦闘直後から、疑問の声が多く挙げられてきたことは、皆さんもよくご存知のことと思います。

***本稿前回でも少し述べましたが、ここでも日本海軍の「損害恐怖症」とでもいうようなメンタルな部分の弱点が感じられると考えています。戦果の拡大による目的の完遂よりも、艦艇の保全の方が優先される、というか・・・。持たざる国の宿命、と言ってしまえば、その通りなのですが。

その後、ガダルカナル島をめぐる攻防戦に多くは輸送部隊の支援で出撃。第二次ソロモン海戦、第三次ソロモン海戦にいずれも第8艦隊旗艦として参加した後、内地に帰還し損傷箇所の修理、整備を行いました。

戦線復帰後は、再びラバウル。ソロモン方面で活動し、その後、第2艦隊第4戦隊に復帰、マリアナ沖海戦を経て、レイテ沖海戦に参加します。

1944年10月、「鳥海」は僚艦3隻とともに栗田艦隊(第2艦隊基幹:第一遊撃部隊)の一員としてブルネイを出航。翌日、第4戦隊の3隻(「愛宕」「摩耶」「高雄」)が相次いで米潜水艦の雷撃で艦隊から欠けてしまいます(「愛宕」「摩耶」が沈没。「高雄」は大破の後、ブルネイに帰還)。「鳥海」は第5戦隊(「妙高」「羽黒」)に編入され、そのまま作戦を継続しました。

その後、サマール沖で米護衛空母部隊を追撃中に、米艦載機の空爆にさらされ被弾しこれによって魚雷が誘爆、戦線を離脱しました。更に数次の空襲で被弾後、大火災を発生し、味方駆逐艦によって雷撃処分されています。

 

「摩耶」:太平洋戦争開戦時には第2艦隊第4戦隊に所属し、フィリピン攻略戦、蘭印作戦に従事しました。その後、第4戦隊第2小隊(「高雄」「摩耶」)としてミッドウェー作戦の一環であるアリューシャン作戦参加、アッツ。キスか両島の占領を成功させています。

ガダルカナルを巡る攻防が激化すると、同方面での第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦、第三次ソロモン海戦に参加。第三次ソロモン海戦では、当初予定されていた第11戦隊(「比叡」「霧島」)による飛行場砲撃が米艦隊との遭遇戦で阻止された後、代わりにがガダルカナル海域に突入して飛行場砲撃を行っています。この砲撃からの帰途に米艦載機の空襲を受け、その際に米軍機が体当たりを敢行、火災が発生し、魚雷を投棄するほどの損害を受けました。

内地で損傷修理後、一転して「摩耶」は北方部隊に編入されます。同方面でアッツ島守備隊への物資輸送をめぐり発生したアッツ島沖海戦に参加しました。この海戦は、輸送を阻止しようとする米艦隊と、これを護衛する日本艦隊の巡洋艦同士の砲撃戦でしたが、日本海軍が米海軍に対し優位にあると自信を持っていた遠距離砲撃の精度が、同等、もしくはそれ以下であったという実例を示すという結果となりました。双方に大きな損害はなかったものの、日本海軍の輸送目的は阻止され、北方占領地の防備強化はできないまま、アッツ島守備隊の玉砕を迎えてしまいます。

「摩耶」は海戦後、南方戦線に向かいますが、到着直後、米艦載機によるラバウル空襲で被弾大破し、内地で修復を受けます。この際に前述の防空巡洋艦化の改装を受け、3番主砲塔を撤去し連装高角砲を2基追加、同時にそれまで搭載していた単装高角砲を全て連装に改めたり、その他にも多数の対空機銃を装備し、併せて「高雄」「愛宕」には開戦前に行われた復原性改善の為のバルジ増設や魚雷発射管の連装から4連装への換装なども実施しています。

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(大改装後の「摩耶」by Konishi: 三番砲塔を撤去して対空砲を強化し、本格的な防空巡洋艦に変身しました。安定性と浮力確保のためにバルジが装着されました)f:id:fw688i:20210829132121j:image

(改装前と改装後(左列)の細部比較:対空砲を3倍に強化しています)

修復後は第2艦隊(栗田艦隊)に復帰しマリアナ沖海戦を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に参加しました。栗田艦隊のブルネイ出航の翌日、パラワン島沖で、米海軍潜水艦の雷撃を受け、4本の魚雷が命中。わずか10分そこそこで沈んでしまいました。

 

このように、日本海軍最後の一等巡洋艦「高雄級」は、ネームシップの「高雄」を除いて全てレイテ沖海戦で失われました。前級である「妙高級」も併せて、いわゆる諸列強が羨望した条約型重巡洋艦である「妙高級」「高雄級」は、奇しくも両級のネームシップが、シンガポールで、行動不能の状態で残存する、という状況で終戦を迎えることとなりました。

 

第一次ソロモン海戦

第一次ソロモン海戦は、今回ご紹介した「高雄級」重巡洋艦の3番艦である「鳥海」が旗艦となり参加した海戦です。

当時、日本が飛行場建設中だったソロモン諸島南部のガダルカナル島と、その向かいにありこちらも海軍の陸戦隊が占領したてのツラギ泊地に、米軍が突如来襲し、ツラギ守備隊は瞬時にほぼ全滅、飛行場建設中の設営隊は周辺の山に逃げ込む、という状況で、米軍が飛行場を押さえてしまった、という状況に対し、急遽、殴り込みをかける、という戦闘でした。

 

例によって、海戦の経緯等は別の優れた文献にお願いすることとします。

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日本艦隊については、既にご紹介した艦級ばかりなので、簡単に触れるとして、同時期の米海軍の巡洋艦について触れるいい機会かな、と考え、そちらのご紹介を中心にしたいと考えています。

 

日本海軍第8艦隊の海戦時の戦闘序列

日本側の「鳥海」以外の参加兵力は、いずれもこれまでにご紹介してきた「青葉級」重巡洋艦2隻と「古鷹級」重巡洋艦2隻から編成されている第6戦隊と、軽巡洋艦「夕張」と第18戦隊の軽巡洋艦「天龍」、第2海上護衛隊に所属する軽巡洋艦「夕張」と駆逐艦「夕凪」(「神風級」駆逐艦)でした。これらをラバウルに新編成されたばかりの第8艦隊として三川中将が率いていました。

第8艦隊そのものが新設で、上記の構成も見ていただいても、編成の艦種バランスなど考慮されているとは思えません。ともかく米艦隊の来攻は看過できない、という一点で周辺の稼働兵力をかき集めた、という寄せ集め感満載です。

こういう、現地主義感は決して嫌いではないですね。臨場感があるというか・・・。特に、「天龍」「夕張」「夕凪」については、第18戦隊司令官が懇願した為編成に入れた、という話もあるくらいで・・・。

 

重巡洋艦「鳥海」(旗艦)

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(直上の写真は、「高雄級」の概観:3番艦「鳥海」は第8艦隊の旗艦を務めました。「鳥海」は大改装を受けずに太平洋戦争を迎え、その後も前線で稼働し続けたため、ほぼ竣工時の状態のまま、太平洋戦争を戦い通しました)

 

「古鷹級」重巡洋艦(「古鷹」「加古」)

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(直上の写真は、大改装後の「古鷹級」の概観)

 

「青葉級」重巡洋艦(「青葉」:第6戦隊旗艦、「衣笠」) 

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(直上の写真は、「青葉級」:大改装後の概観)

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(直上の写真は、「青葉級」の2隻(上段)と大改装後の「古鷹級」を併せた第6戦隊4隻の勢揃い。この両級は、その開発意図である強化型偵察巡洋艦の本来の姿通り、艦隊の先兵として、太平洋戦争緒戦では常に第一線に投入され続けます。そして開戦から1年を待たずに、3隻が失われました)

 

軽巡洋艦「天龍」 

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(直上の写真:天龍級軽巡洋艦)

初めてギヤードタービンを搭載し、前級の筑波級防護巡洋艦の倍以上の出力から、33ノットの高速を発揮することができました。艦型は前年に就役した「江風級」駆逐艦を拡大したもので、当初から駆逐艦戦隊(水雷戦隊)を指揮することを目的とした嚮導駆逐艦的な性格の強い設計でした。

主砲には14センチ単装砲を中央線上に4門装備し、両舷に4射線を確保しました。日本海軍の巡洋艦としては初めて53センチ3連装魚雷発射管を搭載しました。この発射管は当初は発射時に射出方向へ若干移動して射出する方式採っていましたが、運用面で機構状の不都合が生じ、装備位置を高め固定して両舷に射出する方式に改められました。舷側装甲は、アメリ駆逐艦の標準兵装である4インチ砲に対する防御を想定したものでした。太平洋戦争では、既に旧式艦となりながらも、開戦当初2隻で第18戦隊を構成し、南方作戦で活躍しました。

 

軽巡洋艦「夕張』

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(直上の写真は、軽巡洋艦「夕張」の概観。110mm in 1:1250 by Neptune) 

「夕張」は、 元々、5500トン級軽巡洋艦の9番艦(「球磨級」5隻に続く「長良級」第1期の4番艦)として建造予定だったものを、折からの不況の影響を受け予算の逼迫等の要因から、設計変更したと言う経緯で建造されました。

設計の基本骨子は、5500トン級と同等の兵装と速度を3000トン弱の船体で実現すると言うものでした。すべての主砲を船体の中心線上に配置、前後それぞれ単装砲と連装砲の背負式として、5500トン級に比べると主砲の搭載数は1門減りましたが、両舷に対し5500トン級と同様の6射線を確保しました。同様に連装魚雷発射管を中心線上に配置することにより、発射管搭載数は半減したものの、両舷に対して確保した射線4は、5500トン級と同数でした。

 

駆逐艦「夕凪』 

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(直上の写真は、「夕凪」が属する「神風級」駆逐艦の前級である「峯風級」駆逐艦特型駆逐艦出現までの艦隊駆逐艦の形状の始祖となったと言えると思います。同級は太平洋戦争時には、既に旧式化していたため、主として日本近海での船団護衛任務などに投入されました。準同型艦の「野風級」も含め、15隻中10隻が失われました。本級の改良型である「神風級(II)」(「後期峯風級」と言われることもあります)は、9隻中7隻が戦没しています)

  

迎え撃つ米豪艦隊の編成

一方、上陸部隊を護衛する米豪艦隊は、以下のような編成でした。

第62任務部隊(リッチモンド・K・ターナー米海軍少将指揮)

サボ島南水路警戒部隊(クラッチレー英海軍少将指揮)

重巡洋艦オーストラリア・重巡洋艦キャンベラ(いずれもオーストラリア海軍):ケント級

重巡洋艦シカゴ:ノーザンプトン級 +駆逐艦2隻(「パターソン」「バックレイ」)

サボ島北水路警戒部隊(リーフコール米海軍大佐指揮)

重巡洋艦ヴィンセンス、重巡洋艦クインシー、重巡洋艦アストリア :ニューオーリンズ級 +駆逐艦2隻(「ヘルム」「ウィルソン」)

サボ島南北水路哨戒隊:駆逐艦2隻(「ラルフ・タルボット」「ブルー」)

ツラギ島東方警戒部隊(スコット米海軍少将指揮)

軽巡洋艦サン・ファン :アトランタ級

軽巡洋艦ホバート(オーストラリア海軍):パース級 +駆逐艦2隻(「モンセン」「ブキャナン」)

上記のうち、実際に戦闘に参加したのはサボ島南水路警戒部隊とサボ島北水路警戒部隊、サボ島南北水路哨戒隊でした。

 

ケント級重巡洋艦:オーストラリア、キャンベラ

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County-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ケント級」の概観。 「オーストラリア」「キャンベラ」はこの艦級に属していました。152mm in 1:1250 by Neptune )

 

「ケント級」重巡洋艦は、英海軍が建造した条約型重巡洋艦カウンティ級重巡洋艦の第一グループで、条約制限内での建造の条件を満たし、かつ英海軍の巡洋艦本来の通商路保護の主要任務に就く為、防御と速力には目を瞑り火力と航続力に重点を置いた設計としています。8インチ砲8門を装備し、31.5ノットを発揮しました。

今回上述の「高雄級」の主砲に関する記述でも触れましたが、本級でも主砲の仰角をあげ高角砲との兼用についての試みが行われましたが、やはり射撃速度が対空射撃に及ばず実用的ではありませんでした。

魚雷は53.3cm魚雷を上甲板に搭載した発射管から射出する形式でしたが、就役当時の魚雷には投射の衝撃に対する耐性がなく、新型魚雷の開発まで、実装は待たねばなりませんでした。

7隻が建造され、そのうち「オーストラリア」と「キャンベラ」の2隻が、オーストラリア海軍に供与されました。

 

ノーザンプトン重巡洋艦:シカゴ

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Northampton-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「ノーザンプトン級」重巡洋艦の概観。146mm in 1:1250 by Neptune) 

「シカゴ」は米海軍が建造した条約型重巡洋艦の第2グループ「ノーザンプトン級」の4番艦です。前級「ペンサコーラ級」から8インチ主砲を1門減じて、3連装砲塔3基の形式で搭載しました。砲塔が減った事により浮いた重量を装甲に転換し、防御力を高め、艦首楼形式の船体を用いることにより、凌波性を高めることができました。9000トンの船体に8インチ主砲9門、53.3cm3連装魚雷発射管を2基搭載し、32ノットの速力を発揮しました。

航空艤装には力を入れた設計で、水上偵察機を5機搭載し、射出用のカタパルトを2基、さらに整備用の大きな格納庫を有していました。

 

同級については、本稿の「日本海巡洋艦開発小史(その5)」で記述しています。そちらをご覧下さい

日本海軍巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊 - 相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

 

ニューオーリンズ重巡洋艦:ヴィンセンス、クインシー、アストリア

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New Orleans-class cruiser - Wikipedia 

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の概観:「アストリア」「ヴィンセンス」「クインシー」はこの艦級に属していました。142mm in 1:1250 by Neptune) 

 

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(直上の写真は、「ニューオーリンズ級」重巡洋艦の特徴を示したもの。艦橋の構造を、前級までの三脚前檣構造から塔状に改めています(上段)。航空艤装の位置を改めて、運用を改善(中段)。この艦級に限ったことではないですが、アメリカの建造物は理詰めで作られているためか、時として非常に無骨に見える時がある、と感じています(下段)。フランスやイタリアでは、こんなデザインは、あり得ないのでは、と思うことも。「機能美」と言うのは非常に便利な言葉です。でも、この無骨さが良いのです)

 

米海軍の条約型重巡洋艦としては第四段の設計にあたります。

主砲としては8インチ砲3連装砲塔3基を艦首部に2基、艦尾部に1基搭載するという形式は「ノーザンプトン級」「ポートランド級」に続いて踏襲しています。魚雷兵装は、「ポートランド級」につづき、竣工時から搭載していません。航空艤装の位置を少し後方へ移動して、搭載設備をさらに充実させています。

乾舷を低くして艦首楼を延長することで、米重巡洋艦の課題であった復原性を改善し、32.7ノットの速力を発揮することができました。

 

同型艦は7隻が建造されましたが、そのうちこの海戦で参加した3隻全てが撃沈されてしまいました。

その後も、ソロモン海域での戦闘では常に第一線で活躍し、サボ島沖夜戦では同級の「サンフランシスコ」が旗艦を務める艦隊がレーダー射撃によって、日本海軍の重巡「青葉」を大破させ、「古鷹」を撃沈する戦果を上げています。一方で、第三次ソロモン海戦では、同じく艦隊旗艦を務めた「サンブランシスコ」が「比叡」「霧島」との乱打戦で大破していますし、ルンガ沖夜戦では、日本海軍の駆逐艦部隊の輸送任務の阻止を試みた同級の「ニューオーリンズ」「ミネアポリス」が、日本駆逐艦の放った魚雷で大破する、といったような損害も被っています。

 

米海軍の「ヤラレ役」を一身に背負った感のある緩急ですが、それだけ「切所」を踏ん張った、と言うことだと考えています。

 

アトランタ級軽巡洋艦:サン・ファン

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Atlanta-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「アトランタ級軽巡洋艦の概観。131mm in 1:1250 by Neptune) 

 

当初は「オマハ級」軽巡洋艦の代替として、駆逐艦部隊の旗艦を想定して設計がスタートしましたが、設計途上で防空巡洋艦への設計変更が行われました。6000トン級の船体に、主砲とし38口径5インチ両用砲の連装砲塔を8基搭載し、併せて53.3cm魚雷の4連装発射管2基も搭載し、当初設計の駆逐艦部隊の旗艦任務にも適応できました。速力は32.5ノットを発揮することができました。

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(直上の写真は、「アトランタ級軽巡洋艦の細部をアップしたもの。なんと言っても全体をハリネズミのように両用砲塔が覆っているのがよくわかります。第一次ソロモン海戦では、持ち場が主戦場から離れていたため(ツラギ東方警備)、戦闘には参加しませんでしたが、こののち、ソロモン海での海戦にはたびたび登場します。前掲の「ニューオーリンズ」級とは一転して、やや華奢な優美な艦形をしています)

 

8基の両用砲塔の搭載により、やや復原性に課題が見出され、5番艦以降では、砲塔数を2基減じて、復原性を改善しています。

同型艦は11隻が建造され、艦隊防空の中核を担いました。

 

パース級軽巡洋艦ホバート

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ホバート」は、「リアンダー級」軽巡洋艦の改良型として建造された「パース級」軽巡洋艦の1隻です。同級は、英海軍「アンフィオン級」軽巡洋艦として3隻建造され、3隻とも後にオーストラリア海軍に供与されました。

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(直上の写真は、オーストラリア海軍「パース級」軽巡洋艦の概観。135mm in 1:1250 by Neptune)

同級については、本稿の「日本海巡洋艦開発小史(その5)」で記述しています。そちらをご覧下さい

日本海軍巡洋艦開発小史(その5) 「平賀デザイン」の重巡洋艦誕生、そしてABDA艦隊 - 相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

 

バグレイ級駆逐艦:「パターソン」「バックレイ」「ヘルム」「ウィルソン「ラルフ・タルボット」「ブルー」

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Bagley-class destroyer - Wikipedia

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(直上の写真は、「バグレイ級」駆逐艦の概観。主戦場となった南北のサボ島水路に展開していたのは、全てこの艦級の駆逐艦でした。1600t弱の船体に、5インチ砲4門と53.3cm4連装魚雷発射管を4基搭載し、38.5ノットの高速を発揮することができました。太平洋戦争に参加した米海軍の艦隊駆逐艦としては、やや古参の部類に属します。同型艦は20隻。83mm in 1:1250 by Neptune) 

 

リヴァモア級駆逐艦:「モンセン」「ブキャナン」

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Gleaves-class destroyer - Wikipedia

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(直上の写真は、「リヴァモア級」駆逐艦の概観。主戦場には展開していなかったため、戦闘には参加していません。米海軍の艦隊駆逐艦としては、主力となった高名な「フレッチャー級」への導入となった量産型の駆逐艦と言っていいでしょう。いくつかサブグループがあったり、建造順で名称が異なったりしますが、ここでは「リヴァモア級」と言うことで一括りにしておきます。まあ、模型があるかどうか、も大きなファクターですが。1630tの船体に、5インチ砲4門と53.3cm4連装魚雷発射管を4基搭載し、37.4ノットの高速を発揮することができました。同型艦64隻 86mm in 1:1250 by Neptune) 

 

海戦の概要としては、第8艦隊は深夜11時43分ごろサボ島南水路から進入し、まず南水路警戒部隊と交戦。わずか8分の間に「キャンベラ」に魚雷2本と8インチ砲弾28発を命中させ、行動不能に陥れます(翌朝、沈没)。続いて「シカゴ」に魚雷1本と多数の命中弾を浴びせ、駆逐艦「パターソン」とともにを大破させました。

次に「鳥海」が艦首左舷方向に別艦隊(サボ島北水路警戒部隊)を発見し、11時53分「アストリア」に向け砲撃を開始、命中弾多数を与え、これを沈黙させました。(翌朝、沈没)次に目標を「クインシー」に変更し砲撃を開始し丁度0時ごろに火災を発生。戦列が乱れ、別働していた「古鷹」「天龍」「夕張」が炎上する「クインシー」を反対舷側から攻撃を開始。「天龍」「夕張」の魚雷が「クインシー」に命中し、0時35分ごろ転覆し沈没しました。第8艦隊は最後に「ヴィンセンス」に砲火を集中し、「ヴィンセンス」もこれに反撃しますが、「鳥海」「夕張」の魚雷が都合4本命中し、0時直後に航行不能となりました。(0時50分に転覆沈没)

最後に水路哨戒隊の「ラルフ・タルボット」と交戦し、これを撃破(大破)しました。

ここまで、第8艦隊の各艦は大きな損害を受けたものはなく、混乱した艦列を修正するために、いったんサボ島北側に集結しました。この際に水路哨戒隊の「ラルフ・タルボット」と遭遇、これに砲撃を加え、「ラルフ・タルボット」は大破しながら離脱します。

これを最後に戦闘は終結し第8艦隊は隊列を整えるのですが、この時に、艦隊司令部では、攻撃を継続するか撤収するかの、ある種「有名」な議論があったとされています。「丸腰となった輸送船団を攻撃するために反転すべき」(早川「鳥海」艦長)という意見と、「上空援護が期待できず、空襲を避けるために早期に撤退すべき」(大西艦隊参謀長、神艦隊先任参謀)という意見が対立したわけです。

結局、三川司令長官が後者の意見を容れて、艦隊は帰途につきます。

この決断は、海戦の直後からその可否についての議論が絶えません。が、日本海軍の常として、上層部ほど「後」の議論を積極的に行う傾向があるように感じています。連合艦隊司令部、あるいは軍令部あたり。かと言って、次の作戦で事前に明確な指示を出すわけでもないのです。「現場判断尊重」の名目で、解釈に幅のある曖昧な作戦目的を前線に伝え、後に現場判断に対する批評を行う傾向があるように思うのです。うがった見方をすれば、これも「損害恐怖症」の片鱗かと。自身が明確な指示を出すことによって生じる損害に対して責任を取りたくない、ということでしょうか?

これはどうやら、真珠湾作戦当初から延々と繰り返される日本海軍の「性」とでもいえるかもしれません。

戦闘では確かに圧勝したが、そもそも作戦の目的はなんだったのか?

 

そしてこの海戦には、もう一つ日本海軍にはありがたくない「おまけ」がついていました。

早めの離脱の指示で、安全に、米軍の空襲域を脱出できた第8艦隊だったのですが、泊地到着寸前で米潜水艦の雷撃を受け、重巡「加古」を失います。

 

こうしてこの海戦は終了しましたが、実はこれがソロモン海での底無しの消耗線の始まりでもありました。

 

というわけで、今回はここまで。

このシリーズの次回は。「条約の落し子」的な巡洋艦群をご紹介する予定です。

 

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