相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

新着モデルのご紹介:戦艦「三笠」Navis新ヴァージョンモデル(Navis Nシリーズ)と六六艦隊の戦艦群

いきなり本論ですが戦艦「三笠」は日本にとって大変重要な主力艦の一隻だと考えています。

乱暴にまとめると、そもそも明治維新は江戸期300年の太平を謳歌してきた日本人が、初めて強烈に国際社会というものを「外国からの侵略の脅威」として認識したことを原点として起きた革命でした。その「外圧」の脅威から、経緯はともあれ「一息つけた」のが日露戦争の「勝利」(ちょっと微妙なので「」付きですが)であり、そのある種の象徴が「三笠」と言う艦(ふね)である訳です。

艦船の発達史的な視点で見ると、明治維新後の日本は食うや食わずの国民生活を差し置いて巨額を投じて国力に全く不相応と言っていい近代海軍の整備に邁進しました。その中で急速に発展を遂げた装甲蒸気軍艦を用いた「海戦」を経験したほぼ唯一の国家となりました。「三笠」はその海戦経験においても象徴的な存在であり、彼女達が戦った戦訓に基づき主力艦の設計は新たなフェイズへと移行してゆき、本格的な「大鑑巨砲主義=ドレッドノートの時代」の全盛期が始まると言っていいと考えています。

そもそも本稿は日本海軍を中心に主力艦の発達を模型で見てゆこう、と言う趣旨で始まっていますので、この辺りのことは本稿の立ち上がりの投稿でかなり回数を割いて記述しています、もし興味があればご覧ください。(本稿の立ち上がり時期には、ある狙いがあって、文章にある種の傾向を意図的につけています。最近の投稿に比べるとかなり読みにくい印象を筆者自身も持っています。悪しからず

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戦艦「三笠」

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(「三笠」の概観:100mm in 1:1250 by Navis Nシリーズ 下の写真は「三笠」の細部の拡大:当時の標準的な戦艦の兵装配置等がよくわかります)f:id:fw688i:20230115102642p:image

同艦は、日本海軍が日清戦争の勝利の後、その脅威が一層強まったロシア帝国を仮想敵として国家財政を傾けてでも整備した六六艦隊計画(戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻体制の艦隊整備計画)の最後の建造された戦艦でした。前弩級戦艦(もちろん同艦の建造当時にはそんな分類はなかったのですが)のほぼ完成形と言っていいと思います。

六六艦隊計画の骨子の大きな特徴は、6隻の戦艦、6隻の装甲巡洋艦が、それぞれ同口径の主砲を同形態(連装砲塔形式)で装備し、ほぼ同じ速力での艦隊運動が可能な機関を搭載することで、個艦ではなく統一的な艦隊運動による戦闘を可能にした、というところにあります。これは短期間に集中的にほぼ同一技術で艦船整備をおこなえた日本海軍ならでは、と言っていいかと。

「敷島級」戦艦の建造当時、日本にはこの規模の軍艦の建造能力はなく英国に発注されました。日本海軍としては航洋型戦艦の第二世代として設計された「敷島級」戦艦の最終艦で、他の3艦同様、15000トン級の船体に40口径30.5センチ砲を主砲として採用し、これを連装砲塔2基に搭載する、という当時の戦艦の標準的な設計でした。石炭専焼館とレシプロ機関の組み合わせという、これも当時としては標準的な設計で、18ノットの速力を発揮できました。

「敷島級」戦艦4隻は基本設計は同じながら、建造時期によって導入技術が異なり、例えば建造時期の早い「敷島」「初瀬」は3本煙突、「朝日」「三笠」は2本煙突など外観状にも差異が生じています。

最終艦である「三笠」のみ最新のKC鋼が採用され、防御力が他の3隻よりも強化されていました。

戦歴

1903年に就役し連合艦隊旗艦として日露戦争を戦い抜きました。

日露戦争直後1905年に弾薬庫の爆発で沈没、のちに引き上げられましたが1912年に再び弾薬庫の爆発事故に見舞われています。修復後シベリア出兵等に従事しますがワシントン条約の締結で廃艦が決定。関東大震災での損傷で過去の損傷箇所からの浸水で着底し、そのまま除籍されています。後に引き上げられて記念艦になっているのはご存知の通りです。

 

新旧モデルの比較

例によって筆者を悩ませ続けてくれているNavis製モデルの新旧比較ですが、元々旧モデルでも「三笠」のモデルは「敷島級」の他艦に比べると細部の仕上げが丁寧だという認識でした。

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(「三笠」のNavis社製新旧モデルの比較:上の写真では概観全体を。下の写真では細部の比較を。Navis社のヴァージョンアップに共通に言えることですが、比較自体に意味がないと思えるほど至る所の再現精度が上がっています。とく「三笠」で目立つのは、通風筒の数・配置、煙突のキャップ、艦載艇等の再現かと。甲板のモールドももちろん細部にわたって見直されています。ここまでならアップデート意欲は掻き立てられますね)
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しかし、今回の新ヴァージョンではさらに細部の再現性が進化しているのは一目瞭然かと。

 

Navis Nシリーズ「三笠」vs「ドレッドノート

本稿では以前にやはり艦船発達史上では非常に重要な「ドレッドノート」のNavis新ヴァージョンモデルのご紹介もしています。「ドレッドノート」の設計原案は「三笠」の参加した「黄海海戦」「日本海海戦」での戦訓によるところが大きいと言われています。ついでに、というわけではないのですが、いい機会なので「三笠」と「ドレッドノート」の比較も。

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(上掲の2カットは、「ドレッドノート」と「三笠」の比較:「三笠」の2.5倍の砲戦力を有し、3ノットの優速を発揮する「ドレッドノート」の登場で、それまで列強が営々と整備に注力してきた従来設計の戦艦は一夜にして旧設計艦に転落、列強の主力艦開発は全く次元の違う段階へと突入します)

 

六六艦隊を構成した戦艦群

「三笠」以外の戦艦群もご紹介しておきましょう。

「富士級」戦艦(「富士」「八島」)

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(「富士級」戦艦の概観:95mm in 1:1250 by Navis(旧モデルです)下の写真は「富士級」の細部の拡大:Navis製モデルの標準的な精度と言って良いと思います。決して不満足な再現精度ではないことは納得していただけるかと)

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日清戦争の予感が強まってきた際に、清国東洋艦隊が就役させたドイツ製の定遠級戦艦(甲鉄砲塔艦)2隻への対抗策として日本海軍は巨峰を載せた三景艦(松島・厳島・橋立)を建造しましたが、同級は装甲を持たない防護巡洋艦であり、劣勢は明らかでした。

この為、当時、イギリスで登場した本格的な航洋性を備えた近代戦艦の導入が計画されました。しかしこの計画は、その急務であることは理解されながらも、数年の間、予算の問題から実現に至らず、ようやく1894年、勅命による宮廷費の削減、公務員の給与一部返納などの非常手段により、建造にこぎつけました。そのような無理にも関わらず、同級の就役は日清戦争には間に合いませんでした。 

「富士級」戦艦は、前述の通り、イギリスの「近代戦艦の始祖」と言われるロイヤル・ソブリン級戦艦を原型としており、軍艦建造史的な視点で言うと、いわゆる後に言う「前弩級戦艦」の第一世代に属していると言っていいでしょう。「前弩級戦艦」の標準となった1万トン強の船体(14500トン)に30センチ級の主砲を連装砲塔形式で2基搭載し(40口径30.5センチ砲)、18ノット前後の速力を有するというような特徴を全て備えていました。

しかし主砲塔の装填機構が建造年次なりに古く次発装填時に砲塔を首尾線正位置に戻す必要がありました

「富士級」2隻のうち、「八島」は、帝国海軍の「魔の1904年5月15日」、旅順沖を哨戒中に僚艦戦艦「初瀬」と共に触雷して失われましたが、「富士」は長命で、海防艦練習艦等を経て、最後は洋上校舎として太平洋戦争終戦の年、空襲で大破するまで現役にあり、戦後解体されました。

 

「敷島級」戦艦(「敷島」「初瀬」「朝日」「三笠」)

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「敷島級」戦艦の概略は前出の「三笠」に関連して既述です。

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(「敷島級前期型?」戦艦の概観:99mm in 1:1250 by Navis(旧モデルです)下の写真は「敷島級前期型」の細部の拡大:Navis製モデルの標準的な精度と言って良いと思います。決して不満足な再現精度ではないことは納得していただけるかと:同級は三本煙突が特徴でした。建造当時は「世界最大」という呼び声も)

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建造年次により導入技術の際により外観、性能に差異がありますが、基本的な運用スペックは同様で戦隊での運用が想定されていました。

同級4隻は全て日露戦争に参加しましたが1隻が戦没しています。f:id:fw688i:20230115104517p:image

(「敷島級前期型の2隻:「初瀬」と「敷島」)」

「敷島」

日露戦争後も第一線にあって前出の「三笠」の爆発事故時などには連合艦隊旗艦を務めたりしています。1921年海防艦に艦首変更されその後、ワシントン条約下で装甲・武装等を撤去して練習艦に艦種変更され、第二次世界大戦期まで運用され、戦後解体されました。

「初瀬」

日露戦争では主力艦隊第一艦隊の第一戦隊に所属していましたが、旅順要塞の封鎖警備に従事中の「魔の1904年5月15日」に前述の「八島」と相次いで触雷し失われました。

 

「朝日」

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(戦艦「朝日:敷島級後期型?」の概観:99mm in 1:1250 by Navis(旧モデルです)下の写真は「朝日」の細部の拡大:Navis製モデルの標準的な精度と言って良いと思います。新ヴァージョンを見るまでは何の不足も感じませんでした)

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日露戦争後、第一次世界大戦では第五戦隊の旗艦を務め、ウラジオストク方面の警備等に従事しています。1920年海防艦に艦種変更され、ワシントン条約締結後に練習特務館に再度艦種変更され、武装や装甲を撤去しています。太平洋戦争では工作艦として運用され緒戦の南方作戦等に帯同しシンガポールで損傷艦艇の修理などに活躍しました。1942年、サイゴン沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没しています。(おお、工作艦「朝日」作ってみたいかも)

 

黄海海戦日本海海戦(ご参考:本稿の以前(ごく初期)の投稿からの抜粋引用)

ここからは「黄海海戦」と「日本海海戦」の経緯について、確固の投稿からピックアップしておきます。(元投稿そのままなので文体は少し異なります。ご了承を)

(引用ここから)

黄海海戦

ロシア旅順艦隊

ウィトゲフトが出撃する。

旗艦ツェザレヴィッチ以下、旅順にいた6隻の戦艦全てを率いている。他には3隻の防護巡洋艦を含み、損傷で動けない艦を除くと、ほぼ旅順の艦隊全てを率いての出撃、と言っていい。

こと戦艦の数だけで言えば、5月に「初瀬」「八島」を触雷で失い4隻しか戦艦を持たない日本艦隊を、圧倒していた。

日本艦隊としては、6隻と、これも数だけで言えば旅順艦隊を圧倒している装甲巡洋艦に期待を寄せたいところだったが、そのうち4隻は、日本海で通商破壊戦に戦果を挙げ、その神出鬼没な行動で日本を悩ませ続けていたロシア・ウラジオストック艦隊(装甲巡洋艦3隻から編成)の対応に奔走させられ、この千載一遇の決戦場には参加できなかった。

が、旅順艦隊の早期の無力化を喫緊の主題とする日本艦隊にすれば、この出撃を看過するわけには行かず、戦艦4隻にウラジオストック艦隊対応に当たらない装甲巡洋艦2隻、これに開戦直前アルゼンチン海軍から購入し、ようやく日本に回航されたばかりの装甲巡洋艦2隻を加えた戦力で、これを迎えた。

一方、ウィトゲフトの主題は、あくまで決戦ではなく、ウラジオストックへの移動であった。

既に前回触れたことだが、本国から強力な新鋭戦艦で構成されたバルティック艦隊が極東に送られてくる。現在の時点ですら、ウィトゲフトの艦隊は戦艦の数で日本艦隊を上回っている。ウィトゲフトとしては、その本国艦隊の到着まで現在の彼の艦隊を保持し、回航される新艦隊に合流する事が課せられた任務であり、それを達成することで、ロシアは勝利を確実にできるはずであった。

しかしながら、これも前稿に触れたように、旅順要塞にはそれに拠って艦隊を維持するには、いくつかの不具合があった。その主なものは、修理施設の不足と、要塞域の不備である。その為、ウィトゲフトが艦隊保持の目的を達成するためには、ウラジオストックへの移動を実施することが必須となった。

この為、1904年8月10日、ウィトゲフトはその艦隊を率いて旅順を発した。

黄海海戦に参加したロシア艦隊:旗艦はツェザレヴィッチ(上段左)、これにレトヴィザン(中段左)、ポペーダ(上段右)、ペレスウェート(中段右)、セヴァストポリ(下段左)、ポルタワ(下段右)の順で6隻の戦艦が出港し、これに太平洋艦隊の3隻の防護巡洋艦が続いた。堂々たる威容である)

日本艦隊

「旅順艦隊動く」の報に接し、日本艦隊も出撃した。

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(上の写真は「初瀬」「八島」の2隻を失ったばかりの第一戦隊「三笠」(上段左:新モデル)「朝日」(上段右)「敷島」(下段左)「富士」(下段右):下の写真はあ黄海海戦に参加した装甲巡洋艦4隻 喪失した2戦艦に変わり編入された装甲巡洋艦「春日」(上段左)「日進」(上段右)、加えてウラジオストック艦隊の対応に当たっている第二戦隊から装甲巡洋艦「浅間」(下段右)「八雲」(下段左) 黄海海戦にはこれらの計8隻を主力として編成された艦隊を、連合艦隊司令長官東郷が自ら率いていた。ロシア艦隊同様、こちらも現地で展開できる戦力の全てを展開した)

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海戦経緯:史上初の近代戦艦同士の海戦

ほぼ同一規模のいずれも近代戦艦を主戦力とした艦隊が、史上初の海戦を行おうとしている。

が、両艦隊の目的は、全くと言っていいほど異なっていた。

繰り返しになるが、ロシア艦隊の旅順出港の目的は、艦隊温存のためのウラジオストックへの移動・脱出であった。

一方、日本艦隊のこの一戦での目的は艦隊決戦しかない。

旅順要塞という厚い甲羅の中で生き続けるだけで、旅順艦隊は日本を敗北させる可能性を、濃厚に持っている。これを封じ込め無力化、あるいは撃滅すべく、水雷夜襲、閉塞作戦、挑発と港外の誘導、と色々と手を繰り出してきたが、いずれも不調であった。一方で、要塞内に艦隊が存在する限り、海軍は満州への兵站確保への責任から警備の艦艇を出さねばならず、兵も艦もやがて疲弊し、来るべき艦隊決戦の際にその力を発揮できないかもしれない。現にウラジオストックのロシア装甲巡洋艦艦隊の出没に、兵站線の一部は脅かされ、第二艦隊はその対応に右往左往の状態であった。

そのような状況の打開に苦慮していた時に、旅順艦隊が自らようやく出てきた。この待ち望んだ機会を大切にし、この一戦で旅順艦隊を撃滅しなければ、戦争全体の敗北が決定するかもしれない、という危機感に基づいて、連合艦隊は行動した。

さらに、自らを上回る強力な戦力を持つロシア艦隊が、自軍同様に決戦を意図しない出撃をするとは、おそらく想像していなかったかもしれない。そのために実は逃走を意図する敵を前に、その旅順への帰途を絶とうと、ロシア艦隊の背後に回り込む艦隊運動を行なった。

当然、ロシア艦隊はこれを僥倖として、日本艦隊をかわしウラジオストックへの逃走運動を継続する。

戦場では、強力な戦力を有する艦隊が、劣勢な艦隊から逃げる、という、不思議な現象が生じている。退路を断とうとする艦隊運動のために、日本艦隊は大きく後落し、両艦隊の距離が、一旦、開いてゆく。

日本艦隊にすれば、ようやくロシア艦隊の出撃の真意が、ウラジオストックへの逃走にあることに気付いた時に、本当に苦しい戦いが始まったであろう。ウラジオストックにこの艦隊が逃げ込んだ瞬間、おそらく日本の敗北が決定するのである。

 

一方、逃走を目論むウィトゲフトにも事情がある。

6隻の彼の戦艦のうち、ペトロパブロフスク級の2隻、セヴァストポリとポルタワの石炭搭載量が少なく、すなわち航続距離が短いのである。旅順からウラジオストックまでの距離は約1000浬であった。実はロシアは、開戦前からこの二つの海軍拠点の距離を気にしていた節がある。開戦直前の日露間の交渉で、ロシアは朝鮮の北半分の中立化を提案し、ここにもう一つ中継地を作ろうと企図している。一方、上記のぺトロパブロフスク級の両戦艦の航続距離は10ノットの速度で3500浬で、これを14ノットの戦闘速力とした場合には、ウラジオストックに辿り着くのがやっと、という計算になる。そのため複雑な艦隊行動などは取れなかった。

この両艦は、既述のように本国、サンクトペテルブルクの造船所で建造された。航続距離への要求事項と、バルト海の奥に位置する造船所には関係があるように思われる。上記の航続距離は、バルト海をその行動領域と考える場合には、十分なものであろう。

さらに折悪しく、数日前の海軍陸戦重砲隊の砲撃で、二番艦のレトヴィザンの舷側に命中弾があり、応急処置を施した箇所周辺から12ノット以上の速力を出すと浸水が発生した。この事が旅順艦隊の逃走速度を決めた。

逃げる側も、機動と速力の選択の自由が狭められていた。

あるいは、ウィトゲフトは彼が率いる艦隊から上記の3隻を除くべきだったかもしれない。そうすれば、ウラジオストックでの戦力保持は部分的に実現出来た可能性が濃厚である。が、一方で、その場合には、本国艦隊と合流して圧倒的な戦力で決戦を行う、という目的に対し、齟齬を生じるリスクがあり、その事に彼は責任を負わねばならない。ウィトゲフトもまた、苦しい決断を迫られた上での出撃であった。

 

正午ごろに始まった追跡戦は、ようやく日没直前に終わりを告げる。日本艦隊はようやく追いつき、両艦隊は並走し、約6000メートルの距離で砲戦を開始した。いずれも常識として縦列先頭の艦、それぞれの旗艦、ツェザレヴィッチと三笠がねらわれた。

その砲戦で、ツェザレヴィッチの艦橋に2発の砲弾が命中し、ウィトゲフトの命を奪い、かつ旗艦の操舵能力を一時的に奪った。このため旗艦は左へ急回頭し、縦列がそれに続こうとして混乱した。旗艦の異変に気づき、ペレスヴェートに座乗する副将が隊列を立て直そうとしたが、日没が訪れ、ロシア艦隊はウラジオストックへの移動の意図を諦め、旅順へ帰投した。

 

東郷は、自ら率いる主力艦部隊も、多くが敵の砲撃で損傷し、かつ以降は夜戦となるため、不測の事態で主力艦艇にこれ以上の喪失が出ることを恐れた。このため、この帰投阻止を指揮下の水雷艇部隊に委ねたが、帰投を阻むことはできなかった。

結局、6隻の戦艦のうち5隻が旅順に帰投し、旗艦のみ、ドイツ領の膠州湾へ逃げ込み、そこで拘留、武装解除された。

 

結局、一隻の敵艦も撃沈できず、また要塞の修理施設の不備を知るよしもない連合艦隊は、これまで通りの消耗のつづく旅順警備活動を、陸軍による旅順要塞攻略まで、継続せねばならなかった。

 

日本海海戦、敵前大回頭の意味

・・・・いよいよ日本海海戦に至るわけだが、海戦の経緯については非常に多くの資料、優れた書籍に任せるとして、本稿では、有名な敵前大回頭(東郷ターン)について少し触れてみたい。

旅順艦隊の消滅によって、日本海軍の背負う主題はかなり軽くなったと言えるのだが、しかしながら、制海権を守るためには必ず勝利を収めねばならないことには変わりはなく、可能な限り特にロシア艦隊の主力艦(戦艦)をこの海戦で沈めてしまいたかった。

一方、ロシア艦隊はその主力艦、特に戦艦に区分される艦種において、数で日本艦隊を依然圧倒していた。主力艦の数、すなわち射程の長い巨砲の数、といってもいい。この巨砲群を持って、日本艦隊を撃ち払い、ウラジオストックに逃げ込めれば、その後の戦局に大きな影響力を維持し得ることは間違いない。

或いは、出撃せずともウラジオストックの港内で、その機関のあげる煤煙を高くするだけでも、日本の補給路に緊張を与えることが可能であろう。

大口径砲で圧倒するロシア艦隊、中口径砲では日本艦隊に優位が

来攻するロシア艦隊の戦艦は、数だけでいえば8隻に及ぶ。もちろんこれまでに何度か触れたように、その建造年代は多岐に渡り、すなわち旧式に分類される艦も含まれてはいる。これもこれまでに見てきたように、この時期の(あるいは軍事技術というのはいつもそうであるのかも知れないが)数年の差は、実に大きな意味を持つ。そうした意味で言えば、ロシア艦隊の主力を務めるボロジノ級戦艦は、日本艦隊の主力三笠、朝日、敷島の3隻の戦艦よりも新しい。オスリャービャは、ほぼ三笠以下3隻と同年代の戦艦であり、日本の「富士」とロシアの残りの3隻の戦艦は三笠よりも前の世代に属していた。

30センチ級の主砲の数で言えば、日本艦隊が16門であるのに対し、ロシア艦隊は26門、一回り小さな25センチ級の砲は、日本艦隊は1門(春日)であるのに対し、ロシア艦隊は15門(3隻の装甲海防艦を含む)であった。

一方、装甲巡洋艦の数では日本艦隊はロシア艦隊を圧倒していた。日本艦隊8隻に対し、ロシア艦隊3隻、装甲巡洋艦の主砲である20センチ級の砲数は、30対16 であった。また、日本の装甲巡洋艦は全て同年代に艦隊決戦用に作られたいわばミニ戦艦で、全ての砲を砲塔に装備しているのに対し、ロシア艦隊の装甲巡洋艦は全て旧式で、うち2隻は主砲を舷側装備していた。

すなわち、日本艦隊が勝利を収めるためには砲戦の距離を詰める必要があり、一方、ロシア艦隊は長距離での砲戦を維持すればするほど、ウラジオストック到着というその目的を達成する可能性を高めることができた。

両艦隊が激突

ロシア艦隊は本稿の冒頭に示したように、ボロジノ級を中心とした第一戦艦戦隊、オスリャービャを先頭に旧式戦艦2隻、装甲巡洋艦を従えた第二戦艦戦隊、そしてニコライ1世を旗艦とするネボガトフの第三太平洋艦隊の3郡が緩やかな縦陣を組んで北東方向へ進路を取っている。

一方、日本艦隊は三笠以下第一戦隊の戦艦4、装甲巡洋艦2、出雲以下第二戦隊の装甲巡洋艦6隻の順でこちらも単縦陣で南下してきている。

ロシア・バルティック艦隊

(第二太平洋艦隊主力の第一戦艦戦隊:最新鋭のボロジノ級戦艦4隻 スヴィーロフ・アレクサンドル3世・ボロジノ・オリョール)

(第二戦艦戦隊:オスリャービャ(上段)、シソイ・ウォーリキー(下段左)、ナヴァリン(下段右))

 (第三太平洋艦隊:戦艦ニコライ1世(上段左)装甲海防艦セニャーウィン(上段右) 同ウシャコフ(下段左) 同アプラクシン(下段右))  

日本艦隊

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 (第一戦隊:三笠(上段左:新モデルです)、朝日(上段右)、敷島(中段左)、富士(中段右)、装甲巡洋艦春日(下段左)、装甲巡洋艦日進(下段右))

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第二戦隊の装甲巡洋艦(八雲(上段左)、吾妻(上段右)、出雲(中段左)、磐手(中段右)、浅間(下段左)、常磐(下段右))

敵前大回頭の意味

遠くロシア艦隊を視認した日本艦隊は、一旦進路を北西にとりロシア艦隊の予定進路を横断し自らの左舷方向に敵艦隊をみる位置どりに移行したのち、再び進路を南西に戻し、反航進路を進んでいく。距離12,000メートルで旗艦三笠には、有名なZ旗が掲げられた。Z旗は「皇国の興廃、この一戦にあり。各員、一層奮励努力せよ」の文字が割り当てられていることで有名であるが、Zはアルファベットの最終文字であることから「もう後がない」を意味してもいた。

中口径砲戦力活用のための艦隊運動

日本艦隊が勝利を目指すには、以下のいくつかの条件を検討し、艦隊を運動させねばならない。

北上してくるロシア艦隊と待ち受ける日本艦隊の位置どりを考えると、おそらく最初の会合は反航航路の形態を取るであろう。

一方、黄海海戦の苦戦の教訓から、反航戦を継続して行った場合、一度後落するとその距離を詰めるには多くの時間を要する。今回の海戦では、ロシア艦隊主力(特に高速を出しうるボロジノ級を始めとるする数隻)の遁走が最も恐れなくてはならない結果であり、それを防ぐためには、早い時期に同航戦に移行する必要があった。

備砲の差。長距離射程を有する大口径砲においては、ロシア艦隊に圧倒的な優位がある。日本艦隊としては、数的に優位な中口径砲を活用せねばならない。そのためには距離を詰める必要がある。

整備、速度における優位。長距離を回航してくるロシア艦隊は整備が十分ではなく、かつ建造年代にばらつきがあり、艦隊運動を高速で行うことは望めない。一方、日本艦隊は整備が完了しており、かつその主力艦はほぼ同世代であり、これらを考慮すると、海戦は味方の優速で行うことが期待できる。

東郷ターン

実際には、日本艦隊は距離10,000メートルで17ノットに増速し、まず敵艦隊に対する優速を確保した。ロシア艦隊はこの辺りで発砲を開始する。ロシア艦隊も、自軍の優位性(大口径砲の数)を理解し、その論理に忠実な長距離での戦闘を行おうとした節がある。さらに両艦隊の距離8,000メートルのあたりで、三笠は150度の敵前大回頭(東郷ターン)を行い、ロシア艦隊との距離を一気に詰めるコースに乗った。

一般に大回頭の危うさを問う記述は多い。確かに、回頭地点に砲弾を集中されれば、高い被弾率を覚悟せねばならない。が、それは回頭点とその後の進路が特定された後の、後続艦におけるリスクであり、先頭艦は、回頭後の進路予測が難しく、この時点での被弾はそれほど気にする必要はなかった。併せて、両艦隊ともにかなりの速度で運動中であり、加えて、秋山の出撃時の軍令部宛の電文にあるように「波高し」の気象条件である。実際には、日本海海戦当時には、特定地点に大口径砲弾を正確に送り込み続ける、というのは大きな困難を伴ったであろう。

三笠への砲弾の集中は、先頭艦としての宿命であり、かつ新進路で敵との距離を詰めるコースに乗ったことにより生じたものので、回頭のいかんに関わらず、先頭の旗艦としては、甘んじて受け入れざるを得ない危険であった。

後続艦も逐次、回頭しこの新進路に乗る。この回頭により日本艦隊はロシア艦隊に対し「T字」を切ることが出来た、という表現があるが、どちらかというと「イ」の字に近い進路をとり、その砲戦距離を自軍に有利な中口径砲向きに詰めた同航戦を行った、と解釈する方が実際に近いような気がしている。

加えて、17ノットの優速をもってすれば、常に距離を開く方向へ運動しようとするロシア艦隊の鼻先を抑えるような機動が可能であり得たであろう。

こうして海戦は始まり、翌日までに、東郷の艦隊は歴史的な勝利を収めた。艦隊の目的地ウラジオストックにたどり着いたのは、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻にすぎず、戦艦8隻のうち6隻が撃沈され、2隻が日本海軍に捕獲された。

まさに壮図というべきでは

一方で、結末は悲惨なものであったが、やはり冒頭に述べたように30,000キロに及ぶこの規模の大艦隊による航海は、やはりそれだけで讃えられるべきものであると考える。種々の悪条件、さらに悪化する極東の戦況の中、大きな事故なく航海を成し遂げ、しかも戦う意欲を持続させた事実は、偉大であり、ロジェストヴェンスキィの統率力は眼を見張るものがある。あるいは、劣勢を知りながらこれに付き従い戦ったロシアの兵士たちの忠良さを、なんと賞賛すべきであろうか。

ともあれ、海上の覇権をめぐる争いとしての日露戦争は終わった。(引用ここまで)

 

速報:Neptun社製「H39型」戦艦を入手

(写真はneptun社製「H39型」:sammelhafen.deより拝借しています)

2022年末あたりに集中してドイツ第三帝国ナチス・ドイツ)海軍の未成戦艦「H級」の処刑式のモデルをご紹介してきました。その一形式である「H39型」についてはDelphin社製のモデルをご紹介してきていますが、今回、ebayでNeptun社製のモデルを落札できました。今、発送途上にあるはずで、到着次第、ご紹介できると思います。Delphin社製モデルは決して低品質ではないのですが、やはりNeptunの精度はこれまでの筆者の経験では他を圧倒しています。特にDelphin社製モデルについて、筆者は戦隊のフォルムについてやや違和感を覚えている箇所があり、その辺りがNeptun製ではどんなふうに再現されているのか、楽しみです。

Delphin社との解釈の違い等、その辺りも踏まえてご紹介します。お楽しみに。

 

ということで今回はここまで。

 

次回は先述のNeptun製「H39型」のモデルが到着していれば、その紹介を。するとまた架空艦のお話になるかも。

 もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

今年もこんな感じで続けてゆきたいと思っていますので、時々見にきていただければ鯛へn嬉しいです。今年もよろしくお願いします。

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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