相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第7回 黄海海戦と蔚山沖海戦;近代戦艦・装甲巡洋艦の時代

黄海海戦 −ロシア旅順艦隊

ウィトゲフトが出撃する。

旗艦ツェザレヴィッチ以下、旅順にいた6隻の戦艦全てを率いている。他には3隻の防護巡洋艦を含み、損傷で動けない艦を除くと、ほぼ旅順の艦隊全てを率いての出撃、と言っていい。

こと戦艦の数だけで言えば、5月に「初瀬」「八島」を触雷で失い4隻しか戦艦を持たない日本艦隊を、圧倒していた。

日本艦隊としては、6隻と、これも数だけで言えば旅順艦隊を圧倒している装甲巡洋艦に期待を寄せたいところだったが、そのうち4隻は、日本海で通商破壊戦に戦果を挙げ、その神出鬼没で日本を悩ませ続けていたロシア・ウラジオストック艦隊(装甲巡洋艦3隻から編成)の対応に奔走させられ、この千載一遇の決戦場には参加できなかった。

が、旅順艦隊の早期の無力化を喫緊の主題とする日本艦隊にすれば、この出撃を看過するわけには行かず、戦艦4隻にウラジオストック艦隊対応に当たらない装甲巡洋艦2隻、これに開戦直前アルゼンチン海軍から購入し、ようやく日本に回航されたばかりの装甲巡洋艦2隻を加えた戦力で、これを迎えた。

一方、ウィトゲフトの主題は、あくまで決戦ではなく、ウラジオストックへの移動であった。

既に前回触れたことだが、本国から強力な新鋭戦艦で構成されたバルティック艦隊が極東に送られてくる。現在の時点ですら、ウィトゲフトの艦隊は戦艦の数で日本艦隊を上回っている。ウィトゲフトとしては、その本国艦隊の到着まで現在の彼の艦隊を保持し、回航される新艦隊に合流する事が課せられた任務であり、それを達成することで、ロシアは勝利を確実にできるはずであった。

しかしながら、これも前稿に触れたように、旅順要塞にはそれに拠って艦隊を維持するには、いくつかの不具合があった。その主なものは、修理施設の不足と、要塞域の不備である。その為、ウィトゲフトが艦隊保持の目的を達成するためには、ウラジオストックへの移動を実施することが必須となった。

この為、1904年8月10日、ウィトゲフトはその艦隊を率いて旅順を発した。

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旗艦はツェザレヴィッチ、これにレトヴィザン、ポペーダ、ペレスウェート、セヴァストポリ、ポルタワの順で6隻の戦艦が出港し、これに太平洋艦隊の3隻の防護巡洋艦が続いた。堂々たる威容である。

 

ツェサレーヴィチ (戦艦) - Wikipedia   battleshipTsesarevich   (1903-1918)

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フランス ラ・セーヌ造船所製。日本の30センチ砲装備戦艦に対抗する目的で、仏・米二国に発注された2隻のうちの1隻。同型艦はない。フランス艦らしく、流麗なタンブルホーム型船体が特徴である。おそらく、ロシアの近代戦艦(前弩級戦艦)の最高峰であろう。続くバルティック艦隊の主力となるボロジノ級の原型となったが、ボロジノ級は種々の装備を付加した為、重量が増加し、かえって復原性などが本艦よりも劣る結果となった。

副砲を連装砲塔6基にまとめるなど、兵装にも新機軸が見られた。

13,100t  18.7ノット (92mm in 1:1250)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/レトヴィザン_(戦艦)  battleship_Retvizan

(1902-1923: 1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「肥前」)

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アメリカ、クランプ造船所製。日本の30センチ砲装備戦艦に対抗する目的で、仏・米二国に発注された2隻のうちの1隻。同型艦はない。アメリカ艦らしい堅牢な設計で、機関部の電化など、新機軸が取り入れられていた。

12,700t 17ノット (92mm in 1:1250)

 

ペレスヴェート級戦艦 - WikipediPeresvet-class_battleshipp 

ペレスヴェート(1901-1916 :1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「相模」)

ポペーダ(1902-1922 :1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「周防」)

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タンブルホーム型の船体など、フランス艦的な要素が色濃く窺えるが、ロシア国産の戦艦である。装甲巡洋艦の拡大的要素が強く、航洋性能と速度を重視し、武装と装甲を少し抑えた、後の巡洋戦艦の性格を持つ。その為、主砲は少し小さめの口径の25.4センチ連装砲を、前後の砲塔に収めている。二番艦オスリャービャは、太平洋艦隊に編入すべく、旅順回航中に日露開戦となったため、本国に引き返し、後にバルティック艦隊の一員として、日本を目指すことになる。(12,674t 18ノット)(104mm in 1:1250)

 

ペトロパブロフスク級戦艦 - Wikipedia Petropavlovsk-class_battleship 

ポルタワ(1900-1916 1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「丹後」)

セヴァストポリ(1900-1905)

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 日本海軍の「富士級」建造に刺激され、本国の造船所で建造され、旅順へ回航された。30センチ砲を連装砲塔に装備する、あるいは副砲を4基の連装砲塔とケースメイトに収めるなど、意欲的な設計であり、ロシアの造船技術の列強各国並みの成熟度を周囲に示した。

10,960t 16ノット (88mm in 1:1250)

3隻の同型艦のうち、ペトロパブロフスクは、名将マカロフの旗艦を務めたが、旅順口をめぐる一連の戦いの中で、触雷してマカロフとともに喪失された。

 

黄海海戦 –日本艦隊

「旅順艦隊動く」の報に接し、日本艦隊も出撃した。

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「初瀬」「八島」の2隻を失ったばかりの第一戦隊「三笠」「朝日」「敷島」「富士」、喪失した2戦艦に変わり編入された装甲巡洋艦「春日」「日進」、加えてウラジオストック艦隊の対応に当たっている第二戦隊から装甲巡洋艦「浅間」「八雲」の計8隻を主力として編成された艦隊を、連合艦隊司令長官東郷が自ら率いていた。ロシア艦隊同様、こちらも現地で展開できる戦力の全てを展開した。

 

三笠 (戦艦) - Wikipedia  battleships_Mikasa (1902-1923)

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イギリス ビッカース社製。敷島級戦艦の四番艦であり、いわゆる六六艦隊計画の最終艦である。日本海軍は六六艦隊計画の実行に当たり、世界に先駆けて搭載砲口径の統一を行った。そのため六六艦隊の戦艦は全て40口径30.5センチ砲、副砲は40口径15.2センチ速射砲で統一されている。「三笠」は、日露戦争を通じ、連合艦隊の旗艦を務めた。(15,140t 18ノット)(99mm in 1:1250)

 

朝日 (戦艦) - Wikipedia battleship Asahi(1900-1942)

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イギリス ジョン・ブラウン社製。敷島級戦艦の二番艦。(15,200t 18ノット)(99mm in 1:1250)

 

敷島 (戦艦) - Wikipedia  battleship Shikishima(1900-1945)

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イギリス テムズ鉄工造船所製。日本海軍で二番目の近代戦艦敷島級のネームシップである。本艦と3番艦の「初瀬」のみ、3本煙突である。日露戦争を通じて、日本主力艦隊の中軸を形成した。竣工当時は、世界最大、と言われた。(敷島級については、本稿の第六回にて既述)(14,850t 18ノット)(99mm in 1:1250)

 

富士 (戦艦) - Wikipedia  battleship Fuji(1897-1945)

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イギリス テムズ鉄工所製。日本最初の近代戦艦、富士級のネームシップである。日本海軍としては、初めて装甲砲塔に主砲を搭載するなど、当時の最新式の装備を満載していた。(富士級については、本稿の第五回にて既述)

(12,533t 18ノット)(96mm in 1:1250)

 

春日 (装甲巡洋艦) - Wikipedia   armored cruiser Kasuga(1904-1945)

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春日級装甲巡洋艦は、六六艦隊計画完成後に、既述のように、開戦直前にアルゼンチンから購入したイタリア製のジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦のうちの2隻である。六六艦隊計画では、搭載砲の口径統一が行われたが、六六艦隊計画間に属さない「春日」のみは、前部主砲に40口径25.4センチ砲を採用している。この砲は、連合艦隊の艦載砲の中で最も射程が長く、旅順要塞の要塞砲の射程外から港内に砲撃が可能であった。日本海軍は旅順沖で機雷により喪失した戦艦「初瀬」「八島」の代わりに、この春日級装甲巡洋艦を第一艦隊、第一戦隊に編入した。(7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250)

 

日進 (装甲巡洋艦) - Wikipediaarmored cruiser Nisshin(1904-1935)

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「春日」同様、開戦直前にアルゼンチンから購入されたイタリア製装甲巡洋艦である。「春日」と異なり、「日進」の主砲は、前・後部共に、45口径20.3センチ連装砲である。「春日」の項に記載した通り、本艦も「春日」と共に、第一戦隊(戦艦戦隊)に編入された。このため、主要な海戦においては敵艦隊の主軸艦からの砲撃を引き受けることになり、第一戦隊の他艦以上の苦労があった。(7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250)

 

浅間 (装甲巡洋艦) - Wikipediaarmored cruiser Asama(1899-1945)

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イギリス アームストロング社製。浅間級装甲巡洋艦ネームシップである。他の設計段階からの発注形式の艦と異なり、既製艦を購入したため、購入時は六六艦隊計画最終期でありながら、就役は最も早い艦となった。

武装は六六艦隊計画の基本通り、統一口径を採用しており、45口径20.3センチ連装砲を前後に、副砲として15.2センチ速射砲を装備している。 (9,700t 21.5ノット)(98mm in 1:1250)

 

八雲 (装甲巡洋艦) - Wikipedia   armored cruiser Jakumo(1900-1945)

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 六六艦隊計画の中で、唯一、ドイツに発注された。砲装備などは、六六艦隊計画に添い、45口径20.3センチ主砲、15.2センチ副砲で統一されているが、同じ3本煙突ながら、イギリス製の出雲級と比べ、やや重厚な艦容であるように思える。

(9,695t 20.5ノット)(99mm in 1:1250)

 

海戦経緯:史上初の近代戦艦同士の海戦

ほぼ同一規模のいずれも近代戦艦を主戦力とした艦隊が、史上初の海戦を行おうとしている。

が、両艦隊の目的は、全くと言っていいほど異なっていた。

繰り返しになるが、ロシア艦隊の旅順出港の目的は、艦隊温存のためのウラジオストックへの移動・脱出であった。

一方、日本艦隊のこの一戦での目的は艦隊決戦しかない。

旅順要塞という厚い甲羅の中で生き続けるだけで、旅順艦隊は日本を敗北させる可能性を、濃厚に持っている。これを封じ込め無力化、あるいは撃滅すべく、水雷夜襲、閉塞作戦、挑発と港外の誘導、と色々と手を繰り出してきたが、いずれも不調であった。一方で、要塞内に艦隊が存在する限り、海軍は満州への兵站確保への責任から警備の艦艇を出さねばならず、兵も艦もやがて疲弊し、来るべき艦隊決戦の際にその力を発揮できないかもしれない。現にウラジオストックのロシア装甲巡洋艦艦隊の出没に、兵站線の一部は脅かされ、第二艦隊はその対応に右往左往の状態であった。

そのような状況の打開に苦慮していた時に、旅順艦隊が自らようやく出てきた。この待ち望んだ機会を大切にし、この一戦で旅順艦隊を撃滅しなければ、戦争全体の敗北が決定するかもしれない、という危機感に基づいて、連合艦隊は行動した。

さらに、自らを上回る強力な戦力を持つロシア艦隊が、自軍同様に決戦を意図しない出撃をするとは、おそらく想像していなかったかもしれない。そのために実は逃走を意図する敵を前に、その旅順への帰途を絶とうとする艦隊運動を行なった。

当然、ロシア艦隊はこれを僥倖として、日本艦隊をかわしウラジオストックへの逃走運動を継続する。

戦場では、強力な戦力を有する艦隊が、劣勢な艦隊から逃げる、という、不思議な現象が生じている。退路を断とうとする艦隊運動のために、日本艦隊は大きく後落し、両艦隊の距離が、一旦、開いてゆく。

日本艦隊にすれば、ようやくその出撃の真意が、ウラジオストックへの逃走にあることに気付いた時に、本当に苦しい戦いが始まったであろう。ウラジオストックにこの艦隊が逃げ込んだ瞬間、おそらく日本の敗北が決定するのである。

 

一方、逃走を目論むウィトゲフトにも事情がある。

6隻の彼の戦艦のうち、ペトロパブロフスク級の2隻、セヴァストポリとポルタワの石炭搭載量が少なく、すなわち航続距離が短いのである。旅順からウラジオストックまでの距離は約1000浬であった。実はロシアは、開戦前からこの二つの海軍拠点の距離を気にしていた節がある。開戦直前の日露間の交渉で、ロシアは朝鮮の北半分の中立化を提案し、ここにもう一つ中継地を作ろうと企図している。一方、上記のぺトロパブロフスク級の両戦艦の航続距離は10ノットの速度で3500浬で、これを14ノットの戦闘速力とした場合には、ウラジオストックに辿り着くのがやっと、という計算になる。そのため複雑な艦隊行動などは取れなかった。

この両艦は、既述のように本国、サンクトペテルブルクの造船所で建造された。航続距離への要求事項と、バルト海の奥に位置する造船所には関係があるように思われる。上記の航続距離は、バルト海をその行動領域と考える場合には、十分なものであろう。

さらに折悪しく、数日前の海軍陸戦重砲隊の砲撃で、二番艦のレトヴィザンの舷側に命中弾があり、応急処置を施した箇所周辺から12ノット以上の速力を出すと浸水が発生した。この事が旅順艦隊の逃走速度を決めた。

逃げる側も、機動と速力の選択の自由が狭められていた。

あるいは、ウィトゲフトは彼が率いる艦隊から上記の3隻を除くべきだったかもしれない。そうすれば、ウラジオストックでの戦力保持は部分的に実現出来た可能性が濃厚である。が、一方で、その場合には、本国艦隊と合流して圧倒的な戦力で決戦を行う、という目的に対し、齟齬を生じるリスクがあり、その事に彼は責任を負わねばならない。ウィトゲフトもまた、苦しい決断を迫られた上での出撃であった。

 

正午ごろに始まった追跡戦は、ようやく日没直前に終わりを告げる。日本艦隊はようやく追いつき、両艦隊は並走し、約6000メートルの距離で砲戦を開始した。いずれも常識として縦列先頭の艦、それぞれの旗艦、ツェザレヴィッチと三笠がねらわれた。

その砲戦で、ツェザレヴィッチの艦橋に2発の砲弾が命中し、ウィトゲフトの命を奪い、かつ旗艦の操舵能力を一時的に奪った。このため旗艦は左へ急回頭し、縦列がそれに続こうとして混乱した。旗艦の異変に気づき、ペレスヴェートに座乗する副将が隊列を立て直そうとしたが、日没が訪れ、ロシア艦隊はウラジオストックへの移動の意図を諦め、旅順へ帰投した。

 

東郷は、自ら率いる主力艦部隊も、多くが敵の砲撃で損傷し、かつ以降は夜戦となるため、不測の事態で主力艦艇にこれ以上の喪失が出ることを恐れた。このため、この帰投阻止を指揮下の水雷艇部隊に委ねたが、帰投を阻むことはできなかった。

結局、6隻の戦艦のうち5隻が旅順に帰投し、旗艦のみ、ドイツ領の膠州湾へ逃げ込み、そこで拘留、武装解除された。

 

結局、一隻の敵艦も撃沈できず、また要塞の修理施設の不備を知るよしもない連合艦隊は、これまで通りの消耗のつづく旅順警備活動を、陸軍による旅順要塞攻略まで、継続せねばならなかった。

 

その後の旅順艦隊

ツェザレヴィッチを除いて5隻の戦艦は、旅順に戻ったものの、その損傷を修復する能力は旅順にはなく、砲と兵員を陸揚げするなどして、要塞攻防戦を戦った。いずれの艦も、再び出撃する機会は訪れなかった。結果、旅順艦隊はこの一戦で、洋上兵力としての存在を失うことになった。

海戦後の、各主力艦のその後は以下の通りである。

ツェザレヴィッチ:黄海海戦後は、損傷のため戦艦の中で唯一旅順に戻れず、ドイツの租借地であった膠州湾に逃げ込み、戦争終結までドイツに拘留され、武装解除された。戦争終結後、ロシアに返還され、バルト艦隊所属となった。

レトヴィザン:海戦後旅順に戻り、陸上からの28センチ榴弾砲により大破着底。要塞降伏後、日本海軍によって引き上げられ、日本海軍に「肥前」として編入された。

ペレスヴェート、ポペーダ:両艦共、レトヴィザンと同様、旅順に戻ったのち日本軍の砲撃で大破着底。要塞陥落後、引き上げられ「相模」「周防」として日本海軍に編入されている。ペレスヴェートのみ、第一次大戦開戦後(1916)、ロシア海軍に買い戻され艦隊に編入された。

ポルタワ:海戦後損傷し旅順に戻った。その後、ポルタワはレトヴィザン等と同様、日本軍の砲撃で大破着底。要塞陥落後、引き上げられ日本海軍に戦艦「丹後」として編入されている。

セヴァストポリセヴァストポリのみは、28センチ榴弾砲の死角にあったため、射撃による損害は免れたものの、遂には水雷攻撃で損傷する。損傷はありながらも旅順艦隊の戦艦の中で最後まで健在で、旅順開城の日に日本軍による接収を避けるために、湾外まで移動して自沈した。

 

黄海海戦の残したもの

期せずして、この戦いは近代戦艦を中心とした艦隊同士の、史上初の海戦となった。

海戦の戦訓は、イギリスで、ある革命的な戦艦を誕生させる基礎となる。

黄海海戦では、距離約 6000メートルでの本格的な砲戦になる前に、すでに10000メートル以上の距離から砲戦が始まっていた。また射撃法の視点でも、日本海軍では六六艦隊計画による同一口径砲の導入と、それまでの独立打ち方から、艦橋から一元的に距離と方位を指示するという「斉射」に近い射撃方法に変更していた。

イギリスでは、砲戦距離のさらなる伸長を予測した場合、多数の同一口径砲が同一のデータを元にした照準で同時に弾丸を発射し、着弾の水柱を見ながら照準を修正してゆく『斉射』の有効性が認識され、この思想が、第一海軍卿に就任したジョン・アーバスノット・フィッシャー提督により、『長距離砲戦に圧倒的に優位な』戦艦「ドレッドノート」として具現化されてゆくことになる。ちなみに黄海海戦は1904年8月10日に起こり、ドレッドノートの起工は1905年10月2日である。

ドレッドノート (戦艦) - Wikipedia  battleship Dreadnought (1906-1919)

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(18,110t  21knot) (126mm in 1:1250)

ドレッドノートについては、また詳述する機会もあるかと思うが、あまりに著名な戦艦であるため、ここでも軽く紹介しておく。(下の写真は、「三笠」との比較/ 三笠:15,140t 18 knot)(99mm in 1:1250)

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蔚山沖海戦

既述の通り、ウラジオストックを拠点とするロシア太平洋艦隊の3隻の装甲巡洋艦は、日本海で通商破壊戦を展開し、大きな成果を収めていた。

この阻止に当たったのが、日本海軍第二艦隊、第二戦隊の六六艦隊計画で揃えられた装甲巡洋艦群であった。しかしながら、第二戦隊は、神出鬼没のウラジオストック艦隊を捕捉できず、翻弄され続け、その損害に、世論は第二戦隊とそれを率いる司令官上村中将を責めた。

蔚山沖海戦は、黄海海戦の旅順戦艦部隊のウラジオストック移動を支援することを目的として出撃したウラジオストック艦隊と、この第二戦隊の間で行われた。

いずれも、装甲巡洋艦を中心とした艦隊であったが、装甲巡洋艦の名称こそ同じながら、その設計目的が異なる系譜に属する 艦隊同士の戦いであった。

上記のように黄海海戦が史上初のほぼ同等の近代戦艦同士の砲戦であったのに対し、ここではやや設計世代と設計思想の異なる装甲巡洋艦同士の戦いが発生した。

 

ロシア・ウラジオストック艦隊

グロモボーイ (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Gromoboi(1900-1922)

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 (12,359t 20ノット)(118mm in 1:1250)

Russian cruiser Rossia - Wikipedia(1896-1922)

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 (12,195t 19ノット)(118mm in 1:1250)

リューリク (装甲巡洋艦・初代) - Wikipedia  armored cruiser Rurik(1895-1904)

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 (11,960t 18ノット)(105mm in 1:1250)

この3隻の登場は、航洋性と重武装・重装甲は両立しないとされてきた常識を覆した、という意味で非常に重要な系譜に属する艦である。前述の繰り返しになるが、巡洋艦の重要な任務に通商破壊がある。このためには航洋性能と、航続距離、速力が必要となるが、この目的には、防護巡洋艦が最適とされ量産された。

防護巡洋艦は艦内に貼られた防護甲板で機関部等重要設備を防護する構造で、舷側装甲を持たない。この防護巡洋艦の系譜に、十分な舷側装甲を持たせるという命題に挑戦した一つの解、がこの系譜であると言って良いであろう。

このシリーズの登場により、特に仏・英では、巡洋艦設計の見直しが行われた。

いずれも、11,000tから12,000tを超える巨体に強力な機関を有し(あるいは、強力な機関を搭載するが故に巨体になった、というべきか)、18から20ノットの速力を出した。20センチ級の主砲4門と、多数の15センチ級の砲を、舷側に装備した。航続距離は10ノットの速力で6500から8000浬に及んだ。

 

日露開戦にあたっては、いずれも太平洋艦隊に所属し、旅順の戦艦部隊とは別に、ウラジオストックを拠点として、緒戦から主として日本海における通商破壊戦を展開し、大きな成果をあげた。

 

1904年8月10日、上記の黄海海戦にあたり、旅順の戦艦部隊のウラジオストックへの移動を支援する任務が、ウラジオストック艦隊に下命され、11日、イェッセン少将指揮のもと3隻の装甲巡洋艦は出撃した。黄海海戦は、すでに10日中には決着がついており、実はこの出撃は本来の目的から見れば既に無意味と言えるのだが、当時の通報事情では、これを知ることはできなかった。

 

日本艦隊との遭遇

 旅順戦艦部隊との会合を求めて、ウラジオストック艦隊は南下を続けた。これに黄海海戦後に旅順に戻らなかったとみられる巡洋艦の捜索を行っていた、上村中将の率いる第二戦隊が遭遇した。

出雲型装甲巡洋艦 - Wikipedia  armored cruiser Izumo class

出雲(1900-1945)

磐手(1901-1945)

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(9,750t 20.3knot)(100mm in 1:1250)

いずれもイギリス アームストロング社製。六六艦隊計画に沿って建造された艦で、この6隻は、全て45口径20.3センチ連装砲を2基を主砲とし、40口径15.2センチ速射砲を副砲としていた。

 

常磐 (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Tokiwa(1899-1945)

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(9,700t 21.5knot)(98mm in 1:1250)

六六艦隊計画に沿って建造された浅間級装甲巡洋艦の二番艦。イギリス アームストロング社製である。兵装等の装備は他艦と同様である。

 

吾妻 (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Azuma(1900-1945)

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 (9,326t 20knot)(106mm in 1:1250)

六六艦隊の中で唯一フランスで生まれた艦である。兵装等は他の装甲巡洋艦と統一されていた。

 

日本艦隊を構成する4隻の装甲巡洋艦は、全て同一の兵装とほぼ同じ速度を持ち、一単位として行動することを前提として設計されていた。いわば、主力戦艦部隊を支援する「ミニ戦艦」として艦隊決戦に参加する事を前提に建造された「戦闘艦艇」であったと言っていい。同一口径で兵装を統一できたが故に、射撃法も遠距離での命中率を高めるような、後の「斉射」に近いような方法が工夫されていた。

以前にも「防護巡洋艦」の説明の際に触れたことがあるが、日本海軍は、列強海軍と異なり、「通商破壊」についての理解が浅い。これはおそらく遠隔地に植民地を持たない、つまり守るべき長大な通商路を持たないことと、そもそもその国家、海軍の成立過程で、外圧の排除に重心が大きく偏っていたことによると思われるが、このことは特に巡洋艦の設計には色濃く影響を与えている。列強が巡洋艦の主要任務として通商破壊、もしくは通商路の確保を大きく取り上げ、したがって、航続力、長期の居住性を含んだ航洋性能を重視するのに対し、日本海軍は、常に艦隊決戦を意識する。

時代が下って、条約型重巡洋艦の時代、日本は「足柄級」を就役させるが、英海軍の同時代の「ケント級」と比較され「飢えた狼」と表現された。日本人はこれを戦闘力への高い評価と受け取ったが、同時に居住性の欠如への揶揄を含んでいたという。これもまた、巡洋艦の設計思想の違いを示す好例であると考える。

 

この海戦は、そのように通商破壊任務を主目的とする航洋型軍艦の発展形として、重防御と重兵装を持たせた「装甲巡洋艦」と、戦艦と同様の艦隊決戦を目的とし、航洋性を兼ね備えた「ミニ戦艦・補助戦艦」としての「装甲巡洋艦」の対決であった。

 

両者は8月14日、ほぼ同時に相手を発見する。

ロシア巡洋艦隊は、通商破壊艦の習いとして、有力な敵からの離脱を一旦試みるが、これまで、この捕捉のために苦杯を舐め続けてきた上村の巡洋艦隊がこの機会に食らいついた。

砲戦は主砲を砲塔に装備した日本艦隊が全主砲を敵に指向できるのに対し、主砲を舷側装備するロシア巡洋艦隊は、その半分しか主砲を日本艦隊に指向できなかった。射撃法の差異もその命中率に現れ、砲戦の結果、リューリクが失われ、ロシアとグロモボイが主にその上部構造を破壊され戦闘に支障をきたし、海戦二日後にウラジオストックに帰還した。

その後、両艦は損傷を修復したが、以後、活発な出撃は行わなかった。

 

以降、いわゆる上記の「ロシア型」の装甲巡洋艦は影を潜めるが、その潜在ニーズがなくなったわけではなく、やがて重巡洋艦軽巡洋艦として、再び姿を表してくる。一方「日本型」の装甲巡洋艦は、戦闘力、すなわち主砲口径の拡大の方向へ 発展を遂げる。そしてこの方向は、ドレッドノートの時代における巡洋戦艦へと結実し、いずれにせよまもなく装甲巡洋艦の時代は終わりを告げる。

 

 黄海海戦蔚山沖海戦を見てきたが、こうして改めて整理すると、特に黄海海戦は、その一見地味な、おそらく作戦当事者としては不本意な戦果とは裏腹に、日露戦争の帰趨を決定した重要な海戦だったと言える。日本海軍は誠に残念ながら気がつくことはなかったが、この海戦の結果、ロシア太平洋艦隊は戦力としては消えてしまった。

この艦隊と合流することを前提に大回航されるバルティック艦隊は、その目的と勝利への論理を失ってしまった。冷静に考えれば、極東への回航そのものを中止すべきであった。

が、彼らはやってくる。

 

併せて、主力艦開発が次の段階に移行したことも、本稿で明確になった。

1894年日清戦争、1904年日露戦争、そして1914年第一次世界大戦開戦。近代戦艦、装甲巡洋艦の時代が終わり、弩級艦、弩級巡洋戦艦の時代が始まろうとしている。

 

次回は日本海海戦を簡単に。

 

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