初の近代的戦艦 富士級:Fuji class :battle ship (富士:1897-1945/八島:1897-1905)
少し時間をさかのぼることになるが、日清開戦が濃厚に予感される時期、当面の仮想敵である清国北洋艦隊は、ドイツ製の定遠級戦艦(甲鉄砲塔艦)2隻をその主力として就役させた。日本海軍は三景艦(松島・厳島・橋立)を建造し、これに対抗しようとしたが、いずれも装甲を持たない防護巡洋艦であり、劣勢は明らかであった。
この為、当時、イギリスで登場した本格的な航洋性を備えた近代戦艦の導入が計画された。しかしこの計画は、その急務であることは理解されながらも、数年の間、予算の問題から実現に至らなかった。ようやく1894年、勅命による宮廷費の削減、公務員の給与一部返納などの非常手段により、建造にこぎつけた。富士級の二隻は、そのようにして建造された。その無理にも関わらず、就役は、日清戦争後の1897年であった。
富士級戦艦は、前述の通り、イギリスの「近代戦艦の始祖」と言われるロイヤル・ソブリン級戦艦を原型としている
ここで言う「近代戦艦」は、以下のような特徴を備えている。高い乾舷による凌波性により、大洋での航海に耐える船体に、30センチ級の主砲を連装砲塔2基に収めている(ロイヤル・ソブリン級では、主砲は30口径34.3センチ、それを連装にして露砲塔に収めていた)。船体は1万トン強、舷側に副砲を並べ、17−18ノットの速力を発揮する。これらを初めて実現したのが、原型となったイギリス戦艦「ロイヤル・ソブリン」(1892年就役)であった。以降、これらの要件はこの時期の「近代戦艦」のスタンダードとなった。1906年のドレッドノートの登場までのこの時期、世界の戦艦はほとんどがこの「近代戦艦」の系譜に属していたと言っていい。
写真は、富士級とほぼ同時期の、ロイヤル・ソブリン級の改良型、イギリス戦艦マジェスティック級(1895-:15,900トン 17ノット)である。本級から、主砲は富士級と同じ40口径30.5センチ砲を、初めて採用した装甲砲塔に収めていた。(100mm in 1:1250)
富士級は、このマジェスティック級同様、そのファミリーの初期の一族、といえるだろう。
12,500トン、40口径30.5センチ砲の連装を2基の装甲砲塔に装備し、15.2センチ速射砲10門を副砲として舷側に配置、18ノット強を出すことができた。
但し、その連装砲塔には、装填時に首尾線正位置に戻す必要がある、という装填機構上の課題があった。(97mm in 1:1250)
(富士と八島)
富士級2隻のうち、「八島」は、帝国海軍「魔の1904年5月15日」、旅順沖を哨戒中に僚艦戦艦「初瀬」と共に触雷して喪失されたが、「富士」は長命で、海防艦、練習艦等を経て、最後は洋上校舎として太平洋戦争終戦の年、空襲で大破するまで現役にあり、戦後解体された。
下関講和条約、三国干渉、そして六六艦隊計画へ
繰り返しになるが、明治政府は、アヘン戦争以降の、清国での列強蚕食の惨状への危機感から発する維新を経て成立した。その「惰弱」な清国を依然、宗主国として「無邪気」にその影響下にあり続ける朝鮮国に、隣の半島を委ねることに、明治政府は身をよじる程の危うさを覚えた。
日清戦争は、そのように、日本の影響下での朝鮮の独立確保が主命題であったから、遼東半島の領有は、大躍進であると言えた。
にも関わらず、直後の独・仏・露による三国干渉(1895)で、この割譲は反故にされ、あろうことかその遼東半島はロシアの租借地となった。
言うまでもなくロシアは欧州列強の中で唯一、国境を極東に接している。つまり列強の中で即座に極東に陸兵を展開できる、唯一の国、ということである。日本の危機感からすれば、最もその進出を警戒すべき相手であるロシアが、そうした事態の出現を防ぐことが目的だったはずの日清戦争の結果、念願の不凍港と、南下の拠点を、朝鮮のすぐ隣に得ることになった。
当時の日本人は、自分たちの努力の結果現れたこの皮肉な事態に、呆れるばかりであったであろう。
上述のようにロシアの租借地は遼東半島であったが、たちまち満洲を貫く鉄道を引き、鉄道警備の名目で大量の陸兵を駐屯させ、満洲全土をその影響下においた。同時にその先端の旅順港にヨーロッパ式の本格的な要塞を築きはじめ、ここをロシア太平洋艦隊の拠点とした。
折から、日本海軍は上記の経緯で、初の本格的近代戦艦「富士」「八島」を建造中であり、このことが ロシア太平洋艦隊編成を大いに刺激した。
期せずして、俄かに建艦競争が始まった。その意図はどうあれ、負の連鎖が始まる時というのは、往々にしてこういう事かもしれない。
ロシアは、手始めに3隻のいわゆる「近代戦艦」をサンクトペテルブルクの造船所で就役させ、その全てを太平洋艦隊所属とし旅順に回航した。さらにフランス、アメリカに各1隻の「近代戦艦」を発注し、これを旅順艦隊に編入、さらに艦隊装甲艦と称する一種の「快速戦艦」3隻を本国で建造し、この3隻も太平洋艦隊に配置する予定であった。(「快速戦艦」のうち二番艦「オスリャービャ」は、旅順への回航途中に日露開戦となったため、途中で本国へ引き返している。後にバルティック艦隊の一隻として、極東を目指すことになる)
これら7隻の新式戦艦は、1899年から1903年の間に、旅順で就役することになる。
ロシア太平洋艦隊の7隻の戦艦(ツェザレヴィッチ:左上、レトヴィザン:左中、ペトロパブロフスク級:ペトロパブロフスク、セヴァストポリ、ポルタワ 左下、右3段目、右下、ペレスヴェート級:ぺレスヴェート、ポペーダ 右上、右2段目)
さらにウラジオストックには、3隻の装甲巡洋艦を基幹とする 艦隊がある。
ウラジオストック艦隊の3隻の装甲巡洋艦(グロモボイ:上段、ロシア:左下、リューリック:右下)
このロシアの大建艦計画に対応すべく日本海軍が立案した建艦計画が、「六六艦隊計画」である。
この計画は、それまで扶桑艦など数隻の旧式艦を除き、舷側装甲を持たない防護巡洋艦以下の軍艦により編成されてきた海軍が、建造中の「富士」「八島」の2隻を含み、一気に6隻の「近代戦艦」と、それを補助するやはり6隻の「近代装甲巡洋艦」を持とうとするものだった。予算の観点から見れば、これらの艦艇の建造費だけで、1896年からの10年間の歳入の実に10%強を貪ってしまうという、当時の国力からすれば全く無謀と言ってもいい計画だった。
外圧への危機感から成立した明治という時代であるために、元来、軍事費の財政に占める比率は高い(日清開戦以前の10年間の軍事費率は24%)。とはいえ、さらに加えて、この計画も含め、ロシアの南下への備えとして、この時期、日清戦争終結後の1895年から日露開戦前年の1903年までの、歳入に占める軍事費は、実に44%にのぼった。
その是非はさておき、ともかくも、この時代の政府、海軍と国民は、この計画を日露開戦までに成し遂げた。
6隻の戦艦(三笠:左上、朝日:右上、敷島級の2隻:敷島、初瀬 左右中段、富士級の2隻:富士、八島 左右下段)
6隻の装甲巡洋艦(八雲:左上、吾妻:右上、出雲級の2隻:出雲、磐手 左右中段、浅間級の2隻:浅間、常磐 左右下段)
不幸なことに、いよいよ日露両国間に戦雲が満ちつつある。
ロシアは6個師団という兵力を満洲に展開し、艦隊はその南端の旅順に集結している。
次回は、日露開戦。
上記で示した歳入と軍事費、あるいは六六艦隊計画の予算に関わる数字は、以下を資料として、手元で概算したものです。あくまでご参考程度に。
帝国|書院 統計資料 歴史統計 軍事費(第1期〜昭和20年)