相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第8回 バルティック艦隊回航と海戦

バルティック艦隊の極東回航

「壮図」、という言葉にふさわしい。

バルティック艦隊の本拠リバウ軍港から、旅順、あるいはウラジオストックまでの距離、約18,000浬、30,000キロ。計画の当初40隻を超える艦艇がこの遠征に参加する予定で、最終的には50隻を超えた。最短でも4ヶ月はかかる見込みで、実際には7ヶ月余りの航海になった。距離的にはマゼランの航海には及ばぬものの、その艦隊の規模、兵員数、戦闘力、さらには、石炭の補給をはじめとする計画的な兵站の確保を考慮すると、まぎれもない「空前の壮挙」であった。

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(第二太平洋艦隊主力の第一戦艦戦隊:最新鋭のボロジノ級戦艦4隻 スヴィーロフ・アレクサンドル3世・ボロジノ・オリョール)

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(第二戦艦戦隊:オスリャービャ(上段)、シソイ・ウォーリキー(下段左)、ナヴァリン(下段右))

 

回航により彼らが得ようとしたもの、その企図は雄大そのものと言わねばならない。

当時、極東には、ほぼ日本海軍に匹敵する規模の太平洋艦隊(第一)が旅順とウラジオストックを基地として展開していた。これに、ほぼ同規模の艦隊(第二)を本国から派遣し、二つの艦隊を合わせて、すなわち日本海軍の二倍の規模で圧倒してしまおう、というものであった。その海軍を撃滅し、制海権を握り補給を断つならば、満州に展開する日本陸軍など、ただ待っているだけでも消滅してしまう。

必勝の図式に裏打ちされた、見事な戦略と言えるであろう。

瑕疵があるとすれば、回航作戦の決定時期そのものの遅さ、およびその後、決定から発動まで、5ヶ月の時間がかかっていることであろう。(決定:5月20日 出港:10月15日)

前稿でも何度か触れたが、これらはこの戦争全般に見られる準備努力の不足、および「開戦時期の決定権はロシアにある」という大国ならではの思い上がりに似た見通しに起因しているように思われる。

 

一方、5月のロシア本国艦隊回航決定の報に触れ、日本は陸海軍をあげて、8月に当初その戦争計画になかった旅順要塞の攻略戦を開始した。両艦隊の合流は、日本の死命を制することは明らかであるために、日本にとって、一転して「旅順」は国運をかけた戦場となった。

この結果、「旅順」は、本国艦隊回航までの間、太平洋艦隊を温存するには安全な地ではなくなり、旅順艦隊はウラジオストックへの移動を企図する。その移動を巡って、同月には、旅順艦隊と日本艦隊の間に黄海海戦が行われた。膠州湾に逃げ込み武装解除された一隻をのぞいて、旅順に戻った5隻の戦艦であったが、海戦で受けた損傷を修復することが旅順ではできず、海上戦力としての旅順艦隊は消滅した。

冷静に考えれば、巨大な陸軍を陸路満州に送り込む能力を持つロシアにしてみれば、この時点、すなわち既に両艦隊の合流という海軍力による戦争の勝利の見通しの失われた今、本国艦隊の回航を中止する判断があってもよかった。

 

が、その判断は下されず、艦隊は、1904年10月15日に、リバウ軍港を出発した。

出発にあたり、バルティック艦隊は第二太平洋艦隊と名を改めた。司令長官には軍令部長のロジェストヴェンスキィが就任し、中将に昇進した。

彼はその将旗をボロジノ級戦艦、スヴォーロフに掲げた。

 

ボロジノ級戦艦 - WikipediaBorodino-class battleships

ボロジノ(1904-1905)

アレクサンドル3世(1903-1905)

オリョール(1904-1922 :1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「石見」)

スヴォーロフ(1904-1905)

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旅順艦隊所属にして、おそらく最良の戦艦「ツェザレヴィッチ」をタイプシップとして、ロシア国内で設計変更されライセンス生産された。タンブルホーム、連装砲塔式の副砲など、いくつかの特徴を受け継ぎながら、やや大型化している。

最良艦をベースにしているにも関わらず、ロシアでの改設計、併せて建造技術などの問題から、最終的には復元性に課題のある艦となってしまった。

欠陥があるにせよ、旅順艦隊が動けない状況で、ボロジノ級の4隻は、ロシア艦隊最強の戦艦であることに変わりはなく、その主力として、この4隻で最強の第一戦艦戦隊を編成し、ロジェストウェンスキーが直卒した。

(13,500t 17.8knot) (95mm in 1:1250)

 

オスリャービャ (戦艦) - Wikipedia(1901-1905)

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ペレスヴェート級の二番艦。元々は、太平洋艦隊に配属される予定であったが、旅順への回航途中に日露開戦となり、本国に戻った。今回の本国艦隊の極東回航にあたり、第二戦艦戦隊の旗艦を務めた。(フェルケルザム少将座乗)

ロシア級装甲巡洋艦の拡大的要素が強く、航洋性能と速度を重視し、武装と装甲を少し抑えた、後の巡洋戦艦的な性格を持つ。その為、主砲は少し小さめの口径の25.4センチ連装砲を、前後の砲塔に収めている。

(12,674t 18knot) (104mm in 1:1250)

 

今回の極東回航にあたっては、フェルケルザムの率いる第二戦艦戦隊主力は、オスリャービャと以下の紹介する一世代前のバルト海向けに建造された戦艦2隻、加えてやや旧式の装甲巡洋艦で構成された。旗艦オスリャービャは、前述のように言わば強化型の装甲巡洋艦的な性格でその主砲口径が小さく、その他の2戦艦はそもそもがバルト海用の海防戦艦であり、特に航続距離、速度が最新戦艦に劣った。一方で、バルト海向けの海防戦艦であるために喫水が浅く、地中海、スエズ運河経由の航路を選択することができ、オスリャービャを除いて短縮ルートに別働した。

 

シソイ・ヴェリキィー (海防戦艦) - Wikipedia (1896-1905)

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バルト海向けに建造された海防戦艦である。乾舷をやや高くし航洋性を向上させるなど、形式はほぼ近代戦艦の要件を満たしているが、速力が15.6ノットと遅かった。また石炭の積載量も1000tと少なく、一回の給炭での航続距離が短い。(10,499t 15.6knot) (81mm in 1:1259)

 

ナヴァリン (戦艦) - Wikipedia(1895-1905)

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四角に配置された4本の煙突を持つ、極めて特徴的な外観をしている。近代戦艦以前のバルト艦隊向けに開発された装甲砲塔艦的な設計の艦で、極めて低い乾舷を有していた。前掲のシソイ・ヴェリキー同様、航続距離が短い。10.200t 15.8knot) (83mm in 1:1250)

 

航海は難渋を極めた。

それは、給炭と補給地を求める航海であったと言っていい。

元々、航路上の大半は、日英同盟を結ぶイギリス領であり、この港湾に立ち寄ることはもとより計画に入れることはできなかった。もし寄港などすれば、たちまち拘束されてしまうであろう。従って、当初から寄港地は、長年の同盟国であったフランス領に設定された。アフリカの西岸、東岸ともにフランス領は多く、その港湾を飛び石伝いに辿っていけば、十分な補給と休養がえられる筈であった。

ところが、イギリスの老練な外交手腕により、本来は長年の同盟国であったはずのフランスの態度が時を追うにつれ、冷たくなった。

フランスにも事情がある。前述のようにフランスは長年にわたりロシアを同盟国としてきている。この同盟により、フランスはイギリス、加えて殊に長年の潜在的仮想敵国であるドイツとの外交における自国の地位を保ってきている。ところが日露戦争により、ロシアはその強力な陸軍の主力を極東に割かねばならなくなった。ドイツ東方国境にかかっていた重圧が減衰した。相対的に、同盟国であるフランスのヨーロッパにおける地位が弱まった。

さらに、今回の艦隊回航により、ロシアの海上勢力はヨーロッパを空にするように、極東に向けられてしまう。潜在的にドイツを仮想敵国とするフランスとしては、この崩れたバランスを補うために、イギリスに冷淡な態度をとることが難しくなった。

フランスの態度の変化の背景にはそういう事情が働いている。

同盟国の態度の変化はともかく、遠征を行う艦隊にとって、フランス領への寄港、そこでの補給は不可欠で、艦隊は不慣れな外交交渉に苦しみながらも、半ば強引に居座るようにフランス領の港湾を使用せねばならなかった。

 

その本隊の航路を辿ると、リバウ出発後、11月6日前後に、地中海ルートをとるフェルケルザム戦隊を分離、11月16日、アフリカ西岸のダカールに寄港。その約1ヶ月後の12月16日、ドイツ領アンゴラに寄港後、19日に喜望峰沖を通過している。

当時の通信事情で、艦隊は知る由もなかったが、実はこの間、12月5日に旅順要塞外郭の203高地日本陸軍の手に落ち、その高地を観測点にした有名な28センチ榴弾砲の砲撃で、翌12月6日には、旅順艦隊の残存する5隻の戦艦のうち、レトヴィザン、ペレスヴェート、ポペーダ、ポルタワが大破、着底してしまっていた。さらに、1月1日には要塞そのものが日本軍に降伏し、戦艦のうち1隻だけ残っていたセヴァストポリも港外で自沈してしまっていた。

 

航海を続ける艦隊は、12月29日にはマダガスカル周辺に到着し、マダガスカル西岸のノシベに、1月9日に入港。ここでスエズルートを取ったフェルケルザムの別働戦隊と合流した。艦隊はこのノシべで上記の旅順艦隊の消滅を知らされた。

後世のこの遠征の結果を知る我々からみれば、この遠征の目的、遠征の末の勝利の図式が失われた時点で、艦隊の回航中止は、ほぼ唯一の理性的な、あるいは十分に検討価値のある選択肢として映るかもしれない。

しかし、戦争当事者にとっては、戦争がそもそも国家の威信そのものを賭けた政治行為であるとすれば、この段階での遠征中止はありえなかったであろう。この時点で、皇帝個人への敬意はさておき、少なくとも帝国政府・中枢の官僚、ひいては体制への疑問が無視できぬほどくすぶりつつある国内事情をみれば、政権の中心にいる者たちにとっては、この遠征を竜頭蛇尾に終えることは、それが今後の国家維持のためにどれほど賢明な選択であったとしても、出来ない相談であった。それは例えば10年後の政権のためにはなっても、今日の政権の権威にとってはなんら利するところはない。これは皇帝ニコライ2世周辺において、最も濃厚であった。

一方、艦隊を率いるロジェストヴェンスキィ提督にしても、同様に、あるいは全く異なる理由から、中止は考慮もしなかったであろう。

栄光あるロシア海軍の軍人として(或いは、国籍を問はず軍人の常として)、彼は勝つことのみを考える。そして彼にとって、この状況下で勝利の確率を最も高める最良の方法は、すぐに極東に向けて出発することであったし、実際にそのようにモスクワに上申している。

日本艦隊はようやく旅順警備の重圧から解放されたとはいえ、長期間の洋上待機状態で艦も兵も疲弊しきっているはずである。多くの艦は、多少なりとも戦闘での損傷箇所があり、あるいは不調箇所があるはずであった。おそらく、強力な旅順艦隊に対峙してきた日本艦隊においては、主力艦において、その必要の度合いは高いであろう。これを急いで修理、休養させねばならないが、当時の日本の修理施設には限界があり、短時間での回復は望めない。ロシア艦隊としては、この状況を自軍に有利な材料として利用するには、その整備の整わぬうちに、少しでも早い極東への到着を目指すべきであった。

が、ロジェストヴェンスキィの焦慮をよそに、この後、艦隊はこのノシベに約2ヶ月滞在することになる。すなわち、モスクワは、彼の上申を承認しなかった。

モスクワの懸念は別のところにあった。元々、開戦当初、太平洋艦隊(旅順・ウラジオストック艦隊)には、ロシア海軍における当時の最新最良の艦船、兵員が優先的に配置されていた。これをロシア海軍始まって以来の名将マカロフに指揮させて日本に勝つ、というのがモスクワの描いた構想だった。

今回の遠征艦隊は、開戦以降就役した最新鋭の戦艦を5隻揃えているとは言え、その兵員は旅順の部隊に比べれば未熟であり、このまま戦場に赴かせるのは不安であった。このため、新たに二つの小艦隊を増援として、送り出すので、これを合流して極東を目指せ、と指令した。

一つは快速巡洋艦数隻からなる部隊であり、もう一つは二世代前の旧式戦艦と旧式の装甲巡洋艦バルト海の沿岸警備用の装甲海防艦(小戦艦)3隻を中心とした艦隊で、物々しく、第三太平洋艦隊の名を冠し、これをネボガトフ少将に預けた。

ロジェストヴェンスキィにすれば、これらの艦は全て、今回の遠征艦隊を編成するにあたって、戦力としては期待できないとして、外した艦ばかりであったから、すぐに反対意見を上申し、一刻も早いノシべ出発を許可するよう懇願した。が、モスクワは聞き届けなかった。

このモスクワの対応に強い苛立ちを覚えつつも、一方で、彼は皇帝ニコライ2世侍従長軍令部長であり、誰よりも皇帝の意思には忠実な自分でなくてはならなかった。

彼が行なった精一杯の反抗は、ネボガトフとは、ノシべではなく、回航途上の仏領カムラン湾で合流する、とモスクワに告げたことだった。こうした経緯の後、ようやく3月16日、艦隊はノシべを出港した。

 

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 (第三太平洋艦隊:戦艦ニコライ1世(上段左)装甲海防艦セニャーウィン(上段右) 同ウシャコフ(下段左) 同アプラクシン(下段右))  

 

 第三太平洋艦隊はネボガトフ少将を指揮官とし、旧式戦艦1、装甲海防艦3、旧式装甲巡洋艦1、これに工作船、補給船、病院船など7隻が付随した。2月16日リバウ軍港を出港、地中海・スエズ航路を経て、仏領カムラン湾での第二太平洋艦隊との合流を目指した。

インペラートル・ニコライ1世 (戦艦・初代) - Wikipedia(1891-1915:1905年以降、日本海軍に在籍 二等戦艦「壱岐」)

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バルト海での運用を想定して設計され、 ロシア海軍として初めて主砲に連装砲塔構造を採用した。その主砲は前部に一基のみ搭載され、やや小型の海防戦艦的な性格の艦である。(9,500t 15.3knot)(84mm in 1:1250)

 

アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦 - Wikipedia

ウシャコフ(1895-1905)

セニャーウィン(1896-1935:1905年以降、日本海軍に在籍 二等海防艦「見島」)

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バルト海沿岸防御用に建造された小型海防戦艦である。小さな船体ながら、25.4センチ砲を連装砲塔2基に収納している。沿岸防御を主任務と想定しているため、浅吃水が条件づけられ、大洋での行動には不向きとされていた。

 

アプラクシン(1899-1922:1905年以降、日本海軍に在籍 二等海防艦沖島」) 

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アプラクシンのみ、後部に単装砲塔を装備し、主砲は3門である。

(4,971t 16knot)(69mm in 1:1250)

 

ノシべを発した第二太平洋艦隊の次の寄港地は、インドシナ半島カムラン湾であった。この間、全てイギリス領であり、洋上給炭などに苦しみながら、艦隊は、航海を続けなくてはならなかった。ロジェストヴェンスキーはシンガポール沖で、ネボガトフの艦隊がジプチに到着したことを通報された。おそらく数週間後には、仏領カムラン湾で会同するであろう。

そして艦隊は、4月上旬、その会同地点、仏領カムラン湾沖に到着する。

到着後、ロジェストヴェンスキィは、全艦隊に給炭の指示を出した。実はこの時点で、彼には、ネボガトフを待たず、カムラン湾を素通りする意思があった。

東郷は、当然、ネボガトフの艦隊の発進を知っている。従ってその現在位置の情報を集め、ロシア艦隊の合流日時、さらには日本近郊到着の日時を予測しているであろう。カムラン湾を素通りし、そのままウラジオストックを目指せば、この予測の裏をかくことが出来、その混乱に乗じて、ウラジオストックへ到着する確率を高めることができる。これがロジェストヴェンスキィの目論見だった。

後発の老朽艦隊の回航情報を囮に使った、見事な作戦と言えるであろう。

が、この目論見は、簡単に崩れてしまう。艦隊主力、ボロジノ級2番艦、これまで艦隊最優秀艦と目されていたアレクサンドル3世が、これまでの給炭量をごまかして報告しており、現在の積載石炭では、ウラジオストックに到達できないことが判明したためであった。給炭量のごまかしの動機は、給炭時間を短く見せることにより最優秀艦の評価を維持するため、という呆れるようなものだった。

積載量を満たすためには、、新たに給炭船を呼び戻さねばならず、これにより彼の計画は実施できなくなった。

 

5月9日、第二、第三、両太平洋艦隊は仏領カムラン湾で合流し、5月14日、ウラジオストックに向けて出発した。

 

海戦、敵前大回頭の意味

いよいよ日本海海戦に至るわけだが、海戦の経緯については非常に多くの資料、優れた書籍に任せるとして、本稿では、有名な敵前大回頭(東郷ターン)について少し触れてみたい。

 

旅順艦隊の消滅によって、日本海軍の背負う主題はかなり軽くなったと言えるのだが、しかしながら、制海権を守るためには必ず勝利を収めねばならないことには変わりはなく、可能な限り特にロシア艦隊の主力艦(戦艦)をこの海戦で沈めてしまいたかった。

一方、ロシア艦隊はその主力艦、特に戦艦に区分される艦種において、数で日本艦隊を依然圧倒していた。主力艦の数、すなわち射程の長い巨砲の数、といってもいい。この巨砲群を持って、日本艦隊を撃ち払い、ウラジオストックに逃げ込めれば、その後の戦局に大きな影響力を維持し得ることは間違いない。

或いは、出撃せずともウラジオストックの港内で、その機関のあげる煤煙を高くするだけでも、日本の補給路に緊張を与えることが可能であろう。

 

来攻するロシア艦隊の戦艦は、数だけでいえば8隻に及ぶ。もちろんこれまでに何度か触れたように、その建造年代は多岐に渡り、すなわち旧式に分類される艦も含まれてはいる。これもこれまでに見てきたように、この時期の(あるいは軍事技術というのはいつもそうであるのかも知れないが)数年の差は、実に大きな意味を持つ。そうした意味で言えば、ロシア艦隊の主力を務めるボロジノ級戦艦は、日本艦隊の主力艦である三笠、朝日、敷島の3隻の戦艦よりも新しい。オスリャービャは、ほぼ三笠以下3隻と同年代の戦艦であり、日本の「富士」とロシアの残りの3隻の戦艦は三笠よりも前の世代に属していた。

30センチ級の主砲の数で言えば、日本艦隊が16門であるのに対し、ロシア艦隊は26門、一回り小さな25センチ級の砲は、日本艦隊は1門(春日)であるのに対し、ロシア艦隊は15門(3隻の装甲海防艦を含む)であった。

一方、装甲巡洋艦の数では日本艦隊はロシア艦隊を圧倒していた。日本艦隊8隻に対し、ロシア艦隊3隻、装甲巡洋艦の主砲である20センチ級の砲数は、30対16 であった。また、日本の装甲巡洋艦は全て同年代に艦隊決戦用に作られたいわばミニ戦艦で、全ての砲を砲塔に装備しているのに対し、ロシア艦隊の装甲巡洋艦は全て旧式で、うち2隻は主砲を舷側装備していた。

すなわち、日本艦隊が勝利を収めるためには砲戦の距離を詰める必要があり、一方、ロシア艦隊は長距離での砲戦を維持すればするほど、ウラジオストック到着というその目的を達成する可能性を高めることができた。

 

 

両艦隊が激突する。

ロシア艦隊は本稿の冒頭に示したように、ボロジノ級を中心とした第一戦艦戦隊、オスリャービャを先頭に旧式戦艦2隻、装甲巡洋艦を従えた第二戦艦戦隊、そしてニコライ1世を旗艦とするネボガトフの第三太平洋艦隊の3郡が緩やかな縦陣を組んで北東方向へ進路を取っている。

一方、日本艦隊は三笠以下第一戦隊の戦艦4、装甲巡洋艦2、出雲以下第二戦隊の装甲巡洋艦6隻の順でこちらも単縦陣で南下してきている。

 

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 (第一戦隊:三笠(上段左)、朝日(上段右)、敷島(中段左)、富士(中段右)、装甲巡洋艦春日(下段左)、装甲巡洋艦日進(下段右))

 

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第二戦隊の装甲巡洋艦(八雲(上段左)、吾妻(上段右)、出雲(中段左)、磐手(中段右)、浅間(下段左)、常磐(下段右))

 

遠くロシア艦隊を視認した日本艦隊は、一旦進路を北西にとりロシア艦隊の予定進路を横断し自らの左舷方向に敵艦隊をみる位置どりに移行したのち、再び進路を南西に戻し、反航進路を進んでいく。距離12,000メートルで旗艦三笠には、有名なZ旗が掲げられた。Z旗は「皇国の興廃、この一戦にあり。各員、一層奮励努力せよ」の文字が割り当てられていることで有名であるが、Zはアルファベットの最終文字であることから「もう後がない」を意味してもいた。

 

日本艦隊が勝利を目指すには、以下のいくつかの条件を検討し、艦隊を運動させねばならない。

北上してくるロシア艦隊と待ち受ける日本艦隊の位置どりを考えると、おそらく最初の会合は反航航路の形態を取るであろう。

一方、黄海海戦の苦戦の教訓から、反航戦を継続して行った場合、一度後落するとその距離を詰めるには多くの時間を要する。今回の海戦では、ロシア艦隊主力(特に高速を出しうるボロジノ級を始めとるする数隻)の遁走が最も恐れなくてはならない結果であり、それを防ぐためには、早い時期に同航戦に移行する必要があった。

備砲の差。長距離射程を有する大口径砲においては、ロシア艦隊に圧倒的な優位がある。日本艦隊としては、数的に優位な中口径砲を活用せねばならない。そのためには距離を詰める必要がある。

整備、速度における優位。長距離を回航してくるロシア艦隊は整備が十分ではなく、かつ建造年代にばらつきがあり、艦隊運動を高速で行うことは望めない。一方、日本艦隊は整備が完了しており、かつその主力艦はほぼ同世代であり、これらを考慮すると、海戦は味方の優速で行うことが期待できる。

 

実際には、日本艦隊は距離10,000メートルで17ノットに増速し、まず敵艦隊に対する優速を確保した。ロシア艦隊はこの辺りで発砲を開始する。ロシア艦隊も、自軍の優位性(大口径砲の数)を理解し、その論理に忠実な長距離での戦闘を行おうとした節がある。さらに両艦隊の距離8,000メートルのあたりで、三笠は150度の敵前大回頭(東郷ターン)を行い、ロシア艦隊との距離を一気に詰めるコースに乗った。

一般に大回頭の危うさを問う記述は多い。確かに、回頭地点に砲弾を集中されれば、高い被弾率を覚悟せねばならない。が、それは回頭点とその後の進路が特定された後の、後続艦におけるリスクであり、先頭艦は、回頭後の進路予測が難しく、この時点での被弾はそれほど気にする必要はなかった。併せて、両艦隊ともにかなりの速度で運動中であり、加えて、秋山の出撃時の軍令部宛の電文にあるように「波高し」の気象条件である。実際には、日本海海戦当時には、特定地点に大口径砲弾を正確に送り込み続ける、というのは大きな困難を伴ったであろう。

三笠への砲弾の集中は、先頭艦としての宿命であり、かつ新進路で敵との距離を詰めるコースに乗ったことにより生じたものので、回頭のいかんに関わらず、先頭の旗艦としては、甘んじて受け入れざるを得ない危険であった。

後続艦も逐次、回頭しこの新進路に乗る。この回頭により日本艦隊はロシア艦隊に対し「T字」を切ることが出来た、という表現があるが、どちらかというと「イ」の字に近い進路をとり、その砲戦距離を自軍に有利な中口径砲向きに詰めた同航戦を行った、と解釈する方が実際に近いような気がしている。

加えて、17ノットの優速をもってすれば、常に距離を開く方向へ運動しようとするロシア艦隊の鼻先を抑えるような機動が可能であり得たであろう。

 

こうして海戦は始まり、翌日までに、東郷の艦隊は歴史的な勝利を収めた。艦隊の目的地ウラジオストックにたどり着いたのは、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻にすぎず、戦艦8隻のうち6隻が撃沈され、2隻が日本海軍に捕獲された。

 

一方で、結末は悲惨なものであったが、やはり冒頭に述べたように30,000キロに及ぶこの規模の大艦隊による航海は、やはりそれだけで讃えられるべきものであると考える。種々の悪条件、さらに悪化する極東の戦況の中、大きな事故なく航海を成し遂げ、しかも戦う意欲を持続させた事実は、偉大であり、ロジェストヴェンスキィの統率力は眼を見張るものがある。あるいは、劣勢を知りながらこれに付き従い戦ったロシアの兵士たちの忠良さを、なんと賞賛すべきであろうか。

 

ともあれ、海上の覇権をめぐる争いとしての日露戦争は終わった。

 

次回は、日露戦争以降の日本海軍に訪れた空前の危機、について。

 

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