扶桑艦と鎮遠。この二隻は日清戦争においては敵として相見え、
初代 扶桑艦 -Fuso :ironclad-(1878−1910)
明治初年、海軍は、旧幕府、諸藩の寄せ集めによって設立されたと言っていい。軍艦も同様である。
そこで、戊辰戦争、佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争を経て、近代的な軍艦の整備が急務とされた。
明治政府は1875年、イギリスに3隻の軍艦を発注した。その一隻が「扶桑艦」である。
「扶桑艦」は竣工当初は三本のバーク型マストを持つ汽帆走併用艦であった。明治海軍として初の装甲艦で、中央の砲郭にクルップ式20口径24センチ後装式主砲四門を収納し、4000トン足らずの小艦であることを除けは、当時の列強主力艦の形式を踏襲していた。後述の「鎮遠(定遠級)」の登場までは、アジア唯一の装甲艦であった。
1:1250の世界では、55mmほどの大きさである。(55mm in 1;1250)
就役当時の姿は下の写真をご参考に。
***但し、「扶桑艦」自体の写真ではないのでご注意を。一般的に巡行時には帆走を用い、出港、入港などの際には機関を用いるという運用である。そのため中央の煙突は帆走時には収納できる伸縮式だった。
主砲は船体中央の四角の砲郭:写真ではボートの下辺り:のほぼ四隅に配置されている。この、堅牢に装甲された中央砲郭は、少し船体外部に張り出している場合が多い。下記のモデルでは、張出でなく、船体自体に、前後方向に向けて斜めに切れ込みがあり、射界をを与える工夫がある。この砲郭への主砲配置により、自艦にとっても脅威となりうる巨砲の弾薬に対しては充分な防御を与えつつ、主砲にできる限り広い射角を与え、反航戦・同航戦、あるいは突撃戦においても、最大限主砲を活用しよう、というのが、この設計の基本思想であるように思われる。
さて、「扶桑艦」に話を戻すと、就役から約20年後に機関を換装、帆走装備をほぼ廃し、二本のコンバットマストを持つ冒頭の写真の近代的な姿となり、日清戦争に臨んだ。
日清戦争当時も、日本海軍としては唯一の装甲艦で、艦隊行動においては、すでに低速に苦しむ旧式艦となりながらも、連合艦隊本隊に所属し、黄海海戦等で「鎮遠」と対決した。
大きさ、艦形、いずれをとっても所謂「戦艦」の要件は満たしていないが、のちに二等戦艦に艦種が変更されたため、日本海軍「初」の戦艦とされている。
「鎮遠(定遠級甲鉄砲塔艦)-Ting Yuen class - (1885-1911)
ドイツ生まれ。就役当時、東洋一の堅艦と言われた。(75mm in 1:1250)
ドイツで建造されたが、こちらも当時流行のイタリア砲艦と言われる型式である。トップヘビーを避けるために、低い両舷にオフセット配置された砲塔に20口径30センチ砲を連装型式で収めている。砲はクルップ社製の後装砲であった。
写真の外観を見る限り、主砲と若干の副砲、小さな司令塔を除き、ほぼ余分な構造物がなく、ドイツ的な理論美(?)を醸し、いかにも堅艦と呼ぶにふさわしい。
乾舷はやや低すぎるような気がするが、北洋艦隊の受け持つ主戦場が黄海周辺であることを考慮すると、いらぬ危惧、と言えるのかもしれない。
しかしながら、この主砲、30センチの当時として群を抜く巨砲ながら、20 口径の短砲身で、有効射程は2000メートルほど、毎時三発程度の射撃速度、だったという。(「毎分」ではない、毎時、である)また、堅牢に見える砲塔だが、装甲砲塔ではなく、露砲塔にフードをかぶせたでものであり、破片防御程度の厚さしかなく、実際に黄海開戦時には、内部にこもる発射煙により兵員の活動が妨げられるため、フードは外されていたそうだ。
それでも日本艦隊の旗艦「松島」に命中した一発は、たった一発で100名近い兵員を死傷させ、しばらく旗艦を戦闘不能にするほどの威力があったし、小口径砲弾の乱打を浴びながらも、機関等の主要部には損害が及ばなかった。
そもそも、「鎮遠」の設計思想では、その威力が艦前面に集中されている。砲塔は両舷共に艦首方向を指向し、艦首方向に射界を確保している4門の巨砲と、艦首の水面下の衝角により、敵艦の腹部を破る、という戦闘を想定している。これは普墺戦争中のリッサ海戦(1866)でのオーストリア海軍の勝利に範をとったものと思われ、そう考えると、黄海開戦時の北洋艦隊が横陣(その後の海戦史を知る目から見ると、いかにも旧弊に見える)を押し出してきた丁汝昌の戦術は頷ける。(そういう目で見ると、北洋艦隊の多くは、主要な兵装を前部に集中している)
但し、悲しいかな小口径速射砲の射撃速度の向上と、軍艦そのものの速度の向上などが、この戦闘思想を時代遅れにしてしまった。
「鎮遠」は日清戦争後、戦利艦として日本海軍に編入され、艦名を変更せずに前述の「扶桑艦」と同様、二等戦艦に分類された。
日露戦争時には、「扶桑艦」と同じ第三艦隊に所属し、主として索敵、護衛等の任務に当たった。
以下は今回のおまけ。
その周辺(1) 巡洋艦「筑紫」-Tsukushi :protected cruiser/ gunboat- (1882-1908)
下の写真は、日清戦争当時、若き尉官として秋山真之が乗り込んだことで知られる巡洋艦「筑紫」である。この艦上で、秋山は部下を失い、自身の海軍士官としての適性に疑問を持ったというエピソードは有名である。(55mm in 1;1250)
巡洋艦、と呼称されているが、実際には1,350トン程度の小さな艦で、砲艦と防護巡洋艦の過渡にあると言っていい。前後の天蓋下に25センチ砲を一門づつ納めている。チリ海軍がイギリスに発注した3隻のうちの1隻を建造途中から日本海軍が買い取ったもので、残り2隻は清国海軍が買い取って、日清戦争当時には同型艦が敵味方にそれぞれ所属していた。(この清国所属の両艦は、黄海海戦でいずれも戦没している)
「筑紫」は日清戦争には、所謂主力艦隊には属さず、警備活動、要塞攻略支援などに当たった。続いて日露戦争にも参加。「扶桑艦」「鎮遠」と同じ、第三艦隊に所属している。
その周辺(2) 金剛型コルベット -Kongo class :corvette-
金剛(1878-1908) 比叡(1878-1911)
「扶桑艦」と同時に、新生明治海軍の主力艦としてイギリスに発注された2隻の軍艦が、この金剛型コルベット(金剛、比叡)である。(55mm in 1:1250)
装甲艦として設計された「扶桑艦」と異なり、鉄骨木皮の三檣バーク形式の船である。木皮ながら、舷側、水線部には装甲板を装着している。帆走時代の航洋船の流れを汲む優美な艦影である。
黄海海戦においては、同級の「比叡」が、すでに老艦ながら「扶桑艦」同様、連合艦隊本隊に参加している。おそらくその劣速のせいで、主隊に追随できず、清国北洋艦隊の横陣に割って入るような敵中突破行動をとり集中砲火を浴び、一時戦闘不能に陥いる危い場面もあった。
日露戦争には、さすがに主力としての性能はなく、警備活動など、支援的な役割で参加している。
初回の投稿から、ほぼ一週間が過ぎた。
素材の準備等から、もう少し頻度の高い更新を、と計画したのだが、この辺りのペースが適当であるような気がしている。もしも楽しみにしていてくださる方がいるとして、何れにせよ、気まぐれな頻度での更新となることはご容赦願いたい。
また、本来の1:1250模型について、もしご質問等があれば、どうか気軽にご質問いただきたい。
次回は、もう少し、日清戦争時の連合艦隊について触れてみようと考えている。
そして、いよいよ六六艦隊のお話へ・・・。