相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日清戦争:黄海海戦時の日本海軍:初編成の連合艦隊、第一梯団:遊撃隊

 今回は下のURL、前々回の投稿に続けて日清戦争黄海海戦時の連合艦隊、その第一梯団、「遊撃戦隊」と呼ばれている部隊についてのご紹介です。

fw688i.hatenablog.com

少しおさらいしておくと、この海戦に向けてそれまでの「常備艦隊」と「警備艦隊」の二本立ての建制を改め、水上兵力を一元の指揮の下におく「連合艦隊」が初めて編成されました。初代連合艦隊司令長官には、常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将が就任しています。

伊東長官の直卒部隊については上掲の投稿で詳しくご説明していますが、いわゆる当時の艦隊主力と見做された6隻の艦船で構成されていました。海戦の戦場海面には連合艦隊は単縦陣で登場し、この主力部隊を第二梯団とし、さらに優速の第一梯団がこれに先行していました。

今回はこの先行して戦場に到着した第一梯団、いわゆる「遊撃戦隊」の艦艇のお話です。

 

黄海海戦と第二梯団:遊撃戦隊

この「遊撃戦隊」は坪井航三少将を司令官とし、「吉野」「高千穂」「秋津洲」「浪速」(単縦陣の構成順)の4隻の防護巡洋艦で編成されていました(下表赤枠)。これらの4隻はいずれも建艦年次の新しい当時の新鋭高速艦で、軽快に機動し、中口径砲の連射、速射砲の薙射で敵艦の上部構造を破壊することが期待されていました。

(上表は日清両海軍の黄海海戦への参加艦艇の主要スペックの一覧表です。赤字速射砲の口径とその装備数です。赤枠は今回ご紹介する連合艦隊第一梯団:遊撃戦隊)

黄海海戦の経緯は例によって詳しい文献にお任せするとして、1894年9月、鴨緑江河口付近への陸兵上陸を支援した直後の清国艦隊と、清国艦隊出撃を察知し朝鮮半島西端の根拠地を出撃した連合艦隊が激突しました。

史上初の装甲艦で構成された艦隊同士の海戦とされる「リッサ海戦」(1866年)の戦訓に基づき「衝角戦法」を再現すべく、当時「東アジア随一の堅艦」と称された「定遠」「鎮遠」を中心に堂々たる横陣をはった清国北洋艦隊と、「リッサ海戦」当時からは格段に高速化した艦隊速度と速射性能の進歩した中口径砲を生かすべく単縦陣をとった連合艦隊の対決となった訳です。

結果は高い機動性に基づく艦隊運動と速射砲の連射によった反復攻撃を展開する日本艦隊によって、徐々に清国北洋艦隊は艦艇に損傷を負い、艦隊としての戦力を削られ最終的には戦場を離脱せざるを得ませんでした。一方で日本艦隊の中口径砲では北洋艦隊主力の「定遠級」装甲艦には致命傷を与えることはできないことも確認され、以降、大口径砲の開発と運用法がさらに研究されることとなりました。

 

防護巡洋艦という艦種

上掲の記述でも、何度か防護巡洋艦という言葉ができます。少しおさらいを。

本稿ではこれまで何度も触れてきたので、「またか」の感はあるかとは思いますが、防護巡洋艦は基本、舷側装甲を持たず、機関部を覆う防護甲板により艦の重要部分を防御し、舷側の防御は石炭庫の配置に委ねるという設計構想を持った艦種で、舷側装甲を持たないため艦の重量を大幅に軽減し高速と長い航続距離を両立させることができました。

一般に巡洋艦の主たる使命を、仮想敵の通商路破壊と自国通報路の防御においた欧州各国にとっては、商船に勝る速力と通商路全般をカバーする長い航続性能を保つ非常に有用な艦種と言え、一世を風靡しました。

その時期は明治初年の日本海軍の黎明期と重なり、早急な海軍整備のためには欧州先進国からの軍艦購入に頼らざるを得ない日本にとっては、乏しい国家財政も勘案して比較的調達の容易な(程度の問題ではありましたが)艦種として、多くが購入されました。

 

参考1:世界初の防護巡洋艦エスメラルダ」(後に日本海軍に購入され巡洋艦「和泉」となります)(1884-1912: 1894、日本海軍に売却、以降、巡洋艦「和泉」)

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(写真は日本海編入後、日露戦争時の巡洋艦「和泉」の概観:68mm in 1:1250 by Navis:主砲等が速射砲に換装された後の姿だと思われます)

 「エスメラルダ」は、当初、チリ海軍によってイギリス・アームストロング社に発注された、防護巡洋艦です。上掲の防護巡洋艦の設計上の特徴を有し、建造時には、3000トン弱の船体に、主要兵装として25.4センチ単装砲2門を主砲、他に15センチ砲6門を装備し、18ノットの速力を出すことが出来ました。

日清戦争中の1895年に日本に売却され、艦名を「和泉」としました。日本海軍に移籍後、主砲を15センチ速射砲に、その他を12センチ速射砲に換装するなどして、日露戦争では、第三艦隊の序列に加わり戦いました。

本艦がアームストロング社エルジック造船所で建造されたところから、以降、同様の設計で建造された防護巡洋艦は、造船所の場所に関わらず「エルジック・クルーザー」と呼ばれるようになりました。いわゆる元祖エルジック・クルーザーという「記念的」な巡洋艦と言えるでしょう。

 

黄海海戦時の連合艦隊、第一梯団を構成した4隻は全てこのエルジック・クルーザー(防護巡洋艦)の直系に属する艦艇でした。

第一梯団:遊撃戦隊旗艦 巡洋艦「吉野」:吉野級防護巡洋艦  (1893から就役:同型艦2隻)ja.wikipedia.org

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(「吉野級」防護巡洋艦の概観:92mm in 1:1250 by Hai:いかにも高速性能に優れた姿勢の低い艦型が再現されている素晴らしいモデルだと思っています)

明治24年度計画で、イギリス・アームストロング社に発注されました。建造は同社エルジック造船所で行われ、まさに本家のエルジック・クルーザーです。

その特徴は何をおいても23ノットという高速にあり、就役当時は世界最速巡洋艦、と言われました。4,200トンの船体に、15900馬力の機関を搭載し、兵装は全て速射砲で揃えていました(15.2センチ速射砲4門・12センチ速射砲8門)。

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防護巡洋艦「吉野」の主要兵装:同艦は15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲8門を主要兵装としていましたが、15.2センチ速射砲は艦首と艦首寄りのスポンソンに集中して搭載し(写真上段)、艦首方向の火力を強化した配置になっていました)

黄海海戦にあたっては、第一遊撃隊の旗艦として、坪井少将が座乗しました。

同型艦高砂日清戦争後に発注され、主砲口径を20.3センチにするなど、いくつかの改良点が見られます。

その後、「吉野」は日露戦争には、第3戦隊の一隻として参加しましたが、いわゆる日本海軍「魔の1904年5月15日」、封鎖中の旅順沖を哨戒中に濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没しました。同日、機雷で戦艦「初瀬」「八島」を喪失し、日本海軍にとって5月15日は、まさに災厄の1日となりました。

同型艦高砂」も、同年12月13日にやはり旅順閉鎖作戦中に触雷して失われました。

 

巡洋艦「高千穂」「浪速」:「浪速級」防護巡洋艦1886年から就役:同型艦2隻19)

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(「浪速級」防護巡洋艦の概観:75mm in 1:1250 by WTJ)

日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦の建造を決定します。

そのうち、イギリスに発注された2隻が、「浪速級」防護巡洋艦であり、「浪速」「高千穂」と命名されました。

設計にあたっては、当時、世界の注目を浴びた優秀艦「エスメラルダ」(前出)をタイプシップとして、防御甲板の増強による防御力の向上、主砲口径の拡大など、若干の改良が盛り込まれました。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する、日本海軍最初の防護巡洋艦です。

(下の写真は、「浪速級」(奥)とタイプシップとされた防護巡洋艦の始祖と言われる「エスメラルダ」に比較:「浪速級」が「エスメラルダ」の拡大強化型であることが分かるかと)

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船体はタイプシップである「エスメラルダ」より少し大型化し3,700トンとなり、防護巡洋艦で「定遠級」などの装甲艦に対抗せざるを得ないという背景から、装甲艦を打ち抜けるとされたクルップ社製の26センチ主砲2門、同じくクルップ社製15センチ砲6門を主要兵装として備え、7600馬力の機関を搭載し18ノットの速力を発揮することが出来ました。

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(上の写真は、「浪速級」の主要兵装部分の拡大:就役時にはクルップ社製の26センチ砲を主砲として艦首と艦尾に搭載し、舷側には同じくクルップ社製の15センチ砲を搭載していました。これらはいずれも優秀な砲でしたが、速射性には劣りました)

日清開戦時の「浪速」の艦長が東郷平八郎(当時大佐)であり、彼と「浪速」は、開戦劈頭の「高陞号事件」で名を挙げたことは、とはつとに有名です。

日清戦争後、黄海海戦時の同級の26センチ主砲は発射速度の遅さから有効性が疑問視され(黄海海戦中に「浪速」は33発発射、「高千穂」は22発:ちなみに「鎮遠」の30.5センチ砲は海戦中に110発発砲しています)、戦後兵装を全てアームストロング社製の15.2センチ速射砲に換装し、日露戦争に望みました。日露戦争では第二艦隊に所属、主力の装甲巡洋艦を補佐しました。

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(「浪速級」の2隻:「浪速」と「高千穂」)

「高千穂」は、第一次世界大戦で、ドイツ太平洋艦隊の根拠地青島要塞の攻略戦に封鎖艦隊の一員として参加しました。その際、ドイツの水雷艇S-90の雷撃を受け、補給用に搭載していた魚雷が誘爆、轟沈しました。日本海軍における、敵艦との交戦で失われた最初の艦となってしまいました。

「浪速」は1910年頃に警備・測量艦に移籍し北海道・樺太方面でん無に重視していましたが、1912年に座礁し沈没、除籍され1913年に残骸が売却されました。

 

参考2:幻の防護巡洋艦「畝傍」(1886年就役・同年遭難して喪失:同型艦なし)

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防護巡洋艦「畝傍」の概観:81 mm in 1:1250 by Hai))

日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦を英仏両国に発注しましたが、このうちフランスに発注された1隻が「畝傍」でした。

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮する設計でした。

同時期に発注された当時の最新式の防護巡洋艦であるにも関わらず、「浪速」級(次の投稿でご紹介する予定)とは異なり、直上の写真のように、流麗でやや古めかしい感じさえする三檣バーク形式の船でした。フランスから日本への回航途上で行方不明となったことはつとに有名です。

浪速級と比較すると、やや低めの乾舷と、舷側の4箇所の砲座に搭載された24センチの主砲が、ややバランスの悪さを感じさせます。

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防護巡洋艦「畝傍」の主要兵装等の拡大:舷側の4箇所に主砲用の張り出し部分があります。低い乾舷と細い船型で高速性を感じさせる概観ですが、重い主砲4基を上甲板樹に設置していますので、復元性は気になるデザインではあります。その後の遭難(?)行方不明を考えると・・・)

フランス艦には時に復元性能に問題がある場合があり、回航途上に暴風雨などに遭遇しその弱点が瞬時の転覆をもたらしたのかもしれません。

しかしその流麗な艦容で高速を発揮し敵に肉薄する姿など、見てみたかったなあ、と思いませんか?

 

防護巡洋艦秋津洲」  (1894年就役:同型艦なし)

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防護巡洋艦秋津洲」の概観:80mm in 1:1250 by WTJ:同艦はアメリカ海軍の「ボルチモア級」防護巡洋艦タイプシップとして模倣したと言われています)

秋津洲」は、巡洋艦のような大型艦としては、設計から建造まで初めて日本国内で行われた、記念すべき軍艦です。

3,150トン、8400馬力の機関を搭載し19ノットの快速を発揮することができた国産のいわゆるエルジック・クルーザーです。

少し裏話:「秋津洲」の艦名は、元々は「松島級」防護巡洋艦(後に三景艦として親しまれた艦級ですね)の4番艦の艦名として予定されていました。計画では「松島」同様、32センチ主砲を後ろ向きに搭載する予定だったようです。しかし、主砲の有効性(というよりは艦型の大きさと主砲のアンバランスというべきか)への疑問から、同級は3隻の建造で打ち切られ、「秋津洲」は前述のように全く別の防護巡洋艦として建造される事になりました。この決定は「松島級」の設計者のベルタンに無断で行われたため、ベルタンは怒って帰国してしまったとか。

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(上の写真は、「秋津洲」の主要兵装部分の拡大:同艦は設計当初から兵装は速射砲のみを搭載する予定で設計されていました。就役時には15.2センチ速射砲は両舷4箇所のスポンソンに搭載されていました)

兵装には特徴があり、設計当初から巨砲を主砲とせず、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門と全て速射砲で統一装備していました。当初設計では防護巡洋艦「千代田」と同様に12センチ速射砲のみの装備予定でしたが、火力不足への懸念から、15.2センチ速射砲4基との併載に変更された経緯があった様です。

いずれにせよ同時期に輸入された防護巡洋艦の多くが、就役時に装備した主砲(巨砲)を、その後速射砲に換装していること考えると、まさに慧眼と言えるでしょう。あるいは、巨砲を調達できなかった、案外、実情はそういうことかも知れませんが。経緯はさておき、本艦以降、日本海軍の防護巡洋艦は、速射砲中心でその兵装を整えて行くことになります。

同艦は日清戦争後も長く艦隊に在籍し、日露戦争では第三艦隊に所属し警備・索敵活動などに従事しました。更に第一次世界大戦では青島攻略戦、フィリピン・シンガポール方面の航路警備等にあたりました。1921年に特務艦隻に移され潜水艇母艦等の任務を経たのち1927年に解体されました。

第一梯団:遊撃戦隊の概観

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(第一梯団:遊撃戦隊を構成した防護巡洋艦の一覧:左から旗艦「吉野」「高千穂」「秋津洲」「浪速」の順:戦隊先頭の「吉野」と三番艦の「秋津洲」は兵装を全て速射砲のみとしていました。一方二番艦「高千穂」と四番艦「浪速」はこの時点では主要兵装に速射砲を搭載していませんでした)

 

別働隊のこと

黄海海戦については、前述の連合艦隊の主力戦隊、遊撃戦隊以外に別働隊がありました。

後世からは信じがたいことながら、海軍の全作戦を総覧すべき軍令部長樺山資紀中将が「督戦」と称して、日本郵船所有の「西京丸」(2,900トン 14 ノット)に、速射砲等数門を搭載し、急造の仮装巡洋艦としてこれに自ら乗り込み、戦場に臨んだのです。軍令部長を裸で出すわけにもいかず、砲艦「赤城」を護衛としてつけ、小艦隊を編成していました。

明治のこの時期、時代は未だにこのような空気の中にあった、ということがなんとなくわかるようなエピソードではあります。

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(別働隊の2隻:特設巡洋艦「西京丸」(らしき船)と砲艦「赤城」)

 

特設巡洋艦「西京丸」  (1888年貨客船として就役:1894年海軍に通報艦として徴用)

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(残念ながら「西京丸」についてはモデルは未保有です。Hai社からモデルが出ていることになってはいるのですが、写真すら見たことがありません。というわけで写真はなんとなくこんな感じという船を掲載しています。掲載したのは”Stassfrut” by Garerie Maritim: 83mm in 1:1250: 3131トンのドイツの貨物船でドイツ=オーストラリア航路に就航していた船のようです。概観はあまり似ていないかも。雰囲気だけでも感じていただけたら)

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(「西京丸」に概観が似ているという意味では、上掲の船の方が全体の雰囲気は近いかもしれません、しかしこのモデルはやや小さすぎる、という課題を抱えています。モデルは1900年ごろの1200トン級のドイツの客船”Hertha” 65mm in 1:1250 by Welfia:「西京丸」は全長99メートルの船でしたので、1:1250スケールでの理論値は80mm程度の船という事になります)

同艦は前述のように日本郵船所属の貨客船「西京丸」を徴用し改造したものです。2900トンの船体に3200馬力の機関を搭載し14ノットの速力を出すことができました。1894年に海軍に徴用されるまでは上海航路に就航していました。

海軍に通報艦として徴用後、武装され、12センチ速射砲1門、57mm速射砲1門、47mm速射砲2門を搭載していました。

黄海海戦時には軍令部長樺山中将(1895年大将に昇進)の座乗艦として出撃しています。この樺山資紀という人物は、薩英戦争・戊辰戦争、さらに西南戦争には陸軍軍人として従軍し陸軍少将まで進級しています。

1880年代に海軍大臣西郷従道の引で(この辺りが時代の空気を感じるのですが)海軍に移籍し後には海軍次官等も努めています。その後も海軍大臣を務めるなど、まさに良きにつけ悪しきにつけ薩長藩閥の象徴するような人物でした。

海戦時には伊東司令長官から戦場からの離脱要請が出ていますが、避けきれず(意図的かとも思ってしまいます)、敵中孤立の状況になり30センチ砲弾4発を含む12発の被弾があったとされています。

日清戦争後は「西京丸」は再び上海航路に戻りますが日露戦争で再び、今度は病院船として海軍に徴用されています。

戦後は上海・大連航路に復帰。1927年に解体されました。

 

砲艦「赤城」:「摩耶級」砲艦  (1883年から就役:同型艦4隻)

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(砲艦「赤城」の概観:35mm in 1:1250: レジンキットをベースとしたスクラッチモデル)

同級は1833年から就役の始まった砲艦の艦級で、650トン級の船体に700馬力程度の機関を搭載し10ノットの速力を出すことができました。

同型艦ながら船体素材が木製から鋼鉄製へと移行する時期であったため、「摩耶」「鳥海」は鉄製、「愛宕」は鋼骨木皮、「赤城」は鋼製の船体を持っていました。備砲も各艦異なり、「摩耶」はクルップ社製15センチ砲2門、「愛宕」「鳥海」はクルップ社製21センチ砲1門とクルップ社製12センチ砲1門、「赤城」はフランス・フィブリール社製12センチ速射砲4門でした。

上記のように砲艦「赤城」は摩耶級砲艦の4番艦で、建造年次も兵装も最も新しく、鋼製の船体を持ち、フランス製の速射砲4門を装備していました。

黄海海戦では軍令部長の座乗する「西京丸」の護衛にあたり、一時は敵前孤立状態となり、集中砲火を浴びる事になります。沈没にこそ至りませんでしたが、被弾数は30発を数え、戦闘中に、艦長戦死、航海長負傷というほどの損害を受けました。

日露戦争にも旅順攻略作戦等に参加し、1911年に除籍。その後民間に払い下げられ、貨物船「赤城丸」に転身を遂げています。台風・触雷と2度の沈没を経ながらも都度浮揚され、驚くほど長命な船となりました。そして最後は老朽化のため1953年に解体されました。

「摩耶級」砲艦その後 

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(「摩耶級」砲艦の一覧:左から「摩耶」「愛宕」「鳥海」「赤城」の順:いずれも3D printingモデルをベースとしたスクラッチモデルです。かなり前に静s苦した記憶がありますが、小さなモデルではありま須賀、色々と妄想しながら作ったので面白かったなあ:こうやってならbてみると、「赤城」だけ艦首楼に砲門が見えていますね。きっとベースに「甲鉄:後の「東艦」」を使ったんでしょうね。でもどうした「赤城」だけなんだろう。自分でもよくわかりません)

「摩耶級」砲艦の他の3隻は、まず「愛宕」が日露戦争中(1904年)に座礁で失われました。「鳥海」は日露戦争への参戦を経て1908年に除籍され、その後機関練習船として佐世保海兵団所属となりました。1911年に廃船されています。「摩耶」は「鳥海」同様、1908年に除籍され横須賀海兵団所属の練習船となりました。1911年に廃船とされましたが、内務省に移管され、兵庫県港湾部検疫番艦としての任務を経たのち1918年に民間に払い下げられ「摩耶丸」と改名しています。1935年頃に解体されました。

 

ということで今回はこの辺で。

次回はなんと早くも年末、ということで、再掲もしくは2週程スキップさせてただくことになるかもしれません。目下のところ筆者の関心は、前回投稿の際に少し触れたワイマール共和国海軍の主力艦予備艦にリストされ、北海航路啓開業務にあたるため掃海艇母艦に改造された前弩級戦艦ロートリンゲン」とこれに端を発したドイツ帝国海軍の小型巡洋艦に移っています。こうした筆者の関心ごとの揺らぎの中から、どんなお話で新年を迎えることになるのか、筆者自身にもさっぱり見当がつきません。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

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