相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第12 回 第一次世界大戦の主要海戦と主力艦の活動

第一次世界大戦は、前回でも触れた通り、当時の列強諸国間に時間をかけて醸成された同盟関係が連鎖的、かつ短期間に発動されたため、未曾有の規模の戦争になった。1914年7月28日の開戦から1918年11月11日の終結までに、両陣営で7000万人が動員され、戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上が死亡したとされている。

短期終結を予想した参戦各国の思惑をよそに、誰もが予想だにしない、文字通り塹壕をはさんでの泥沼のような長期戦になった。

 

一方、海軍艦船については、これまで本稿で見てきたように、戦前から諸列強が競って弩級超弩級戦艦、巡洋戦艦の建艦競争を繰り広げてきた。新たなクラスが登場するごとに、砲力が強化され、あるいは搭載兵器の量が前級を凌駕した。艦は巨大化しながらも機関は次々に新しい技術革新を取り入れ強化の一途をたどり、速力が向上した。当然、整備されたそれらの諸艦が戦場を縦横に行き交い、砲戦を交える図を、誰もが想像した。

が、実際には、主力艦に限って言えば、その活動は極めて限定的で、実際の戦闘行動に関わった主力艦は、ほぼ英独の二国の主力艦に限られ、主力艦による主要海戦といっても、以下の4つを上げれば事足りるであろう。

コロネル沖海戦(1914年11月1日)

フォークランド沖海戦(1914年12月8日)

ドッガー・バンク海戦(1915年1月24日)

ユトランド沖海戦(1916年5月31日ー6月1日)

このうち、最初の二つの海戦は、ドイツ東洋艦隊の本国帰航とその阻止をめぐる一連の戦いであり、あとの二つは英独両主力艦隊の激突であった。

 

コロネル沖海戦(再録)

このうち、コロネル沖海戦については、本稿号外Vol.1.5で、英独装甲巡洋艦同士の戦いとして既述である。

以下、かいつまんで再録する。

 

中国膠州湾の青島に本拠を置くドイツ東洋艦隊(マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮、装甲巡洋艦シャルンホルストグナイゼナウを主力艦とする)は、開戦と共に想定される日本海軍等による行動封鎖を嫌い、当時ドイツ領であったマリアナ諸島パガン島に艦船を集結させ、これらを率いて南米経由で通商破壊線を展開しながら本国への帰航をめざした。

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(ドイツ海軍シュペー艦隊の装甲巡洋艦 シャルンホルスト(手前)、グナイゼナウ

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(シュペー艦隊の巡洋艦  左からライプツィヒブレーメン級 89mm in 1:1250)、ニュルンベルクケーニヒスベルク級 94mm in 1:1250)、ドレスデンドレスデン級 95mm in 1:1250):エムデンも同型)

 

一方、イギリス海軍はクラドック少将の指揮下に、装甲巡洋艦グッドホープ、モンマス、前弩級戦艦カノーパスなどからなる捜索艦隊を編成し、これを阻止しようとした。

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イギリス海軍クラドック艦隊の装甲巡洋艦 グッドホープ(手前)、モンマス)

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 (クラドック艦隊の防護巡洋艦グラスゴー:本艦はコロネル沖海戦を生き抜き、後にフォークランド沖海戦にも参加 110mm in 1:1250)

f:id:fw688i:20181111174535j:plain (クラドック艦隊の前弩級戦艦カノーパス:本艦はコロネル沖海戦には間に合わず、後にフォークランド沖海戦にもその前哨戦に参加 98mm in 1:1250)

 

両艦隊は、11月1日、チリ・コロネル沖で、遭遇し、海戦が発生した。

両艦隊はいずれも装甲巡洋艦をその主戦力としていたが、ドイツ艦隊は準主力艦型の装甲巡洋艦2隻を主力とし、一方イギリス艦隊は強化巡洋艦型の装甲巡洋艦2隻をその主力としていたと言える。両艦隊を砲力で比較すると、ドイツ艦隊は2隻の装甲巡洋艦で、21センチ速射砲を片舷12門、15センチ速射砲片舷6門をそれぞれ指向できるのに対し、イギリス艦隊は同じく2隻の装甲巡洋艦で、23センチ砲2門、15センチ速射砲17門を片舷に指向できた。

速力は双方共に23ノットを発揮でき、遜色はなかった。

英艦隊の前弩級戦艦カノーパスは低速から巡洋艦隊と行動を共にできず別働しており、海戦には間に合わなかった。

このため、海戦は圧倒的に火力に勝るドイツ艦隊の一方的な勝利に終わり、グッドホープ、モンマスは沈没、クラドック少将も戦死した。

シュペー提督の名は、栄光に包まれ、一方、英海軍にとって「コロネル沖」は屈辱の名となる。

 

フォークランド沖海戦

コロネル沖の栄光から約1ヶ月後、本国帰航を目指すシュペー艦隊にスタディー中将の率いる艦隊が立ちはだかる。スタディー艦隊はインヴィンシブル級巡洋戦艦の2隻、インヴィンシブルとインフレキシブルを主力とし、他にモンマス級装甲巡洋艦2隻、デヴォンシャー級装甲巡洋艦1隻などを含んでいた。

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インヴィンシブル級巡洋戦艦(1908年、17,373トン: 30.5cm連装砲4基、25.5ノット)同型艦3隻 (136mm in 1:1250)

 戦艦と同等の砲力と、巡洋艦の速力を兼ね備えた新しい大型装甲巡洋艦として設計され、巡洋戦艦の始祖となった。

 

モンマス級装甲巡洋艦 - Wikipedia

1903年竣工、9,800トン、15.2cm(45口径)連装速射砲2基+同単装速射砲10基、23ノット)10隻

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デヴォンシャー級装甲巡洋艦 - Wikipedia

(1905年竣工、10,850トン、19.1cm(45口径)単装速射砲4基、22.25ノット)6隻

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12月8日、フォークランド諸島をシュペー艦隊が襲撃。待ち受けていたスタディー艦隊がこれを追撃する形で、戦闘は始められた。

英艦隊に2隻の巡洋戦艦を認めたシュペーは、3隻の防護巡洋艦を逃がすべく分離した後、装甲巡洋艦2隻でこれに対応した。

前回のコロネル海戦にちなみ、両艦隊の主力艦の主砲片舷斉射砲力を比較すると、独東洋艦隊が2隻の装甲巡洋艦で、21センチ砲12門であるのに対し、英スタディー艦隊は2巡洋戦艦だけで、30.5センチ砲16門、と比較にならない。

さらに当時のドイツ帝国マリアナ諸島パガン出港以来、長期の航海で機関に整備を必要としていたドイツ艦隊は、前海戦とは一変して、巡洋戦艦の高い機動性と強力な主砲による自在なアウトレンジ攻撃にさらされることになった。

約3時間の砲戦の末、まず旗艦シャルンホルストが撃沈されシュペー自身も戦死、やがてグナイゼナウも自沈を余儀なくされた。分派された3隻の防護巡洋艦も順次補足され、独東洋艦隊は壊滅した。

 

こうして両海戦を総括すると、ある意味、艦船の設計者(海軍軍政担当者)、あるいは運用当事者(海軍軍令担当者)の企図した通りの結果、物理的に打撃力の高い方が勝者となった、いわば番狂わせ的な要素のない結果であった、と言っていいであろう。

この体験は、以後の海軍の諸活動を見る時、特にドイツ帝国海軍において、潜在的な影響が大きいと言えるかもしれない。

 

ドッガー・バンク海戦

物理的な打撃力、と言う視点で言えば、当時のイギリスは特に海軍力で大戦への参戦各国に対し、相対的に圧倒的な優位にあったと言っていい。

本稿でも触れたが、例えば開戦時の主力艦の保有数をみれば、イギリスは弩級超弩級戦艦を22隻、巡洋戦艦を9隻、前弩級戦艦を40隻保有していたのに対し、ドイツ帝国はこれに次いでそれぞれ14隻、4隻、22隻で、名実ともに当時の雌雄であった。参考までに、これに次ぐのはアメリカ海軍で、それぞれ12隻、0隻(アメリカは何故か、巡洋戦艦に興味を示さなかった)、23隻、さらに、かつての大海軍国フランスは、それぞれ3隻、0隻、17隻に過ぎない。

 

上記のように、ドイツ帝国海軍は英海軍に次ぐ艦隊を保有したとは言え、その差は大きく、かつ、緒戦のいくつかの小規模な海戦の敗北の結果、これまで急ピッチで財貨を投じ整備してきたその主力艦隊(大海艦隊)に大規模な損害が出ることを恐れた皇帝の勅命により、積極的な戦闘行動に出ることができずに、北海に面した根拠地ウィルヘルムスハーフェンに半ば封じ込められていた。

こうしたある種、早くも始まった膠着的な状況に対する反動として、ドッガー・バンク海戦が起こったと言っていいであろう。

その企図は、快速高性能な巡洋戦艦を主力とする偵察艦隊を持って英艦隊を挑発し、その一部の突出を独大海艦隊の主力をもって叩く、と言うものであった。

偵察艦隊は旗艦ザイトリッツ、デアフリンガー、モルトケ、フォン・デア・タンの4隻の弩級巡洋戦艦から編成されており、これをフランツ・リッター・フォン・ヒッパー少将が率いていた。艦隊は1914年11月3日、12月16日に英艦隊への誘引行動として、イギリス沿岸の都市に対して艦砲射撃を行った。

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11月3日、12月16日に出撃したヒッパー艦隊の基幹をなす巡洋戦艦(ザイトリッツ:旗艦(上段左)、デアフリンガー(上段右)、モルトケ(下段左)、フォン・デア・タン(下段右))

ザイトリッツ(1913-, 24,988t, 26.5knot, 11in *2*5)(160mm in 1:1250)

アフリンガー(1914-, 26,600t, 26.5knot, 12in *2*4)(167mm in 1:1250)

モルトケ(1910-, 22,979t, 25.5knot, 11in *2*5)(151mm in 1:1250)

フォン・デア・タン(1910-, 19,370t, 24.8knot, 11in *2*4)(136mm in 1:1250)

 

これに対し、特に12月16日の独艦隊の出撃に対してはデイビット・ビーティ中将が率いる第一巡洋戦艦戦隊を出撃させ、これを捕捉しようとしたが、濃霧のため、会敵には至らなかった。ビーティの艦隊は34.5センチ砲装備の超弩級巡洋戦艦3隻(ライオン、プリンセス・ロイヤル、タイガー)と、30.5センチ砲装備のやや旧式で速度の遅い弩級巡洋戦艦2隻(インドミタブル、ニュージーランド)で構成されていた。

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ヒッパー艦隊の出撃に対応した英第一巡洋戦艦戦隊(ビーティ中将指揮)の基幹部隊(ライオン:旗艦(上段左):プリンセス・ロイヤルも同型、タイガー(上段右)、インドミタブル:インヴィンシブル級(下段左)、ニュージーランド:インディファティカブル級(下段右))

ライオン、プリンセス・ロイヤル(1912-, 26,270t, 27knot, 13.5in *2*4)(167mm in 1:1250)

 タイガー(1914-, 28,430t, 28.7knot, 13.5in *2*4)(170mm in 1:1250)

ニュージーランド(1911-, 18,500t, 25knot, 12in *2*4)(144mm in 1:1250) 

インドミタブル(1908-, 17,373t, 25.5knot, 12in *2*4)(136mm in 1:1250)

 

年が明けて1915年1月23日、ヒッパー艦隊は3回目の出撃を行う。今度はドッカー・バンクで操業する英漁船団を襲撃する狙いであった。

今回の出撃にあたっては、偵察艦隊のうち巡洋戦艦フォン・デア・タンが機関の整備のために修理中で参加できず、代わりに装甲巡洋艦ブリュッヒャーが艦隊に加わっていた。

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1915年1月23日のヒッパー艦隊の基幹部隊(ザイトリッツ:旗艦(上段左)、デアフリンガー(上段右)、モルトケ(下段左)、機関不調のフォン・デア・タンに変わって加わった装甲巡洋艦ブリュッヒャー(下段右))

ザイトリッツ(1913-, 24,988t, 26.5knot, 11in *2*5)(160mm in 1:1250)

アフリンガー(1914-, 26,600t, 26.5knot, 12in *2*4)(167mm in 1:1250)

モルトケ(1910-, 22,979t, 25.5knot, 11in *2*5)(151mm in 1:1250)

ブリュッヒャー(1909-, 15,842t, 25.4knot, 8.27in L44 *2*6)(128mm in 1:1250)

 

1月24日、ドッカーバンク北方の海域で、両艦隊は会敵し、互いに前衛に展開していた護衛の巡洋艦同士の砲戦が開始された。

両艦隊の主砲片舷斉射能力を前例に従い比較しておくと、

ドイツ艦隊:28センチ砲 20門、30.5センチ砲 8門、21センチ砲 8門であるのに対し、イギリス艦隊:34.5センチ砲 24門、30.5センチ砲 16門であった。但し、ドイツ艦隊の備砲は全て速射砲で、ちなみにデアフリンガーの30.5センチ砲の場合、1分間に5−7発を撃つことができた。(英艦隊の34.5センチ砲は1.5発)

会敵後、数に劣り状況不利と判断したヒッパーは退却に向かうが、英艦隊は追撃戦を展開した、特にビーティ艦隊のうち超弩級巡洋戦艦3隻は独艦隊に対し優速で、次第に距離を詰めて18000メートルの距離から34.5センチ砲で砲撃を開始した。これに対し、殿艦であったブリュッヒャーも自慢の長射程の21センチ砲で、これに応射したが、3隻の巡洋戦艦から集中的に命中弾を受けたブリュッヒャーは、戦列から脱落してしまう。

やがてこの砲戦にドイツの3隻の巡洋戦艦が参戦し、英艦隊の先頭艦ライオンに砲火を集中した。ヒッパーの旗艦ザイトリッツは後部砲塔にライオンの34.5センチ主砲弾を被弾し使用不能にされたものの、ドイツ艦隊はその砲術の優秀さを発揮し、英艦隊の旗艦ライオンに18発の命中弾を与え大破させた。英艦隊の旗艦は浸水を生じ、戦列を離れざるを得なくなてしまったため、英艦隊の指揮が乱れた。

ビーティは、ニュージーランドに座乗する次席指揮官のムーア少将に、旗艦に構わず追撃を継続するように指示を出したが、通信機が破壊され信号旗によったため伝わらず、ムーアは既に廃艦同然の装甲巡洋艦ブリュッヒャーに砲火を集中してこれを撃沈したにとどまり、ドイツ艦隊を逃してしまった。

 

こうして海戦は終了し、それぞれドイツ艦隊は装甲巡洋艦ブリュッヒャーを失い、後部砲塔に被弾した旗艦ザイトリッツが大破した。兵員の損害は1,000名を超え、英艦隊は旗艦ライオンが大破し、修理にその後4ヶ月を要したが兵員の損害は15名に過ぎなかった。

一般的には英艦隊の勝利と見ることができるが、英艦隊には、指揮継承のまずさ、通信技術の拙劣さ、砲術の拙劣さなど、課題が山積みであった。

特に砲撃技術の差は顕著で、英艦隊がが22発の命中弾を受けたの対し、ドイツ巡洋戦艦が受けた命中弾は4発に過ぎなかった。

ドイツ側を見ると、艦隊を指揮したヒッパーの状況判断は的確で、劣勢な中、敵艦隊の一部を計画通り誘引し、かつ艦隊主力を連れ帰り、次に備えることができた。

しかし一方で、そもそもの作戦立案時の偵察艦隊の挑発により誘引された英艦隊を叩く、という目的に対しては、本来出撃すべき大海艦隊主力が動いた形跡は見られず、勅命に縛られ動くことのなかった大海艦隊司令長官フリードリヒ・フォン・インゲノール大将は、海戦後、更迭された。

 

本稿の主題にそい、史上初のイギリスの超弩級巡洋戦艦3隻とドイツの弩級巡洋戦艦3隻の対決、という視点で見た場合、戦闘はほぼ痛み分けと言っていいであろう。イギリス海軍の大口径砲は少数の命中弾しか得なかったが、1発の打撃力を思う存分発揮し、ザイトリッツを大破した。一方、ドイツ海軍は高い砲撃精度を示し、多数の命中弾により、英艦隊旗艦ライオンを行動不能に陥れた。

海戦からの学びへの姿勢には、少々差異が出る。ドイツ海軍は、ザイトリッツの後部砲塔への命中弾とその後の火薬庫の誘爆を戦訓として、その後、弾薬庫の防御を改善した。この措置は全ての戦艦、巡洋艦に及び実行され、ユトランド沖海戦にまでには完了し、ドイツ艦の生存性向上に反映した。

 

この海戦後、両海軍の主力艦隊は再び睨み合いに移行する。

 

次回は、第一次大戦最大のユトランド沖海戦とその後の経緯、ドイツ帝国海軍の終焉について。

 

これまで本稿に登場した各艦の情報を下記に国別にまとめました。

fw688i.hatenadiary.jp

内容は当ブログの内容と同様ですが、詳しい情報をご覧になりたい時などに、辞書がわりに使っていただければ幸いです。

 

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