相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日清戦争:黄海海戦時の日本海軍:初編成の連合艦隊、その主隊

今回はようやく準備が整い、日清戦争黄海海戦時の日本海軍の艦艇のご紹介です。

 

日清戦争(1894−1895)

前々回投稿と重複を恐れずに背景をおさらいしておくと、明治維新は、そもそもアヘン戦争に敗れた清国が列強の蚕食を受ける惨状を間近にした日本(当時の日本の知識人たち、と言うべきでしょうか)の危機感から始まったと言っていいと思います。

当時の清国は確かに国家としての晩年期を迎えていました。民心を繫ぎ止めるには宮廷も官僚も腐敗し、国家としての弾力を失っていました。列強はこの老大国の支配階級の肥大した我欲に付け入り、「眠れる獅子」などと煽て、あるいは半ば本当に恐れながら、眠りを覚まさぬよう注意深く利益を貪り続けました。

一方、前述の危機感に端を発した明治維新により、ともかくも自存を保ち得たと自負する日本は、永らく清帝国の影響下にあり続ける隣の朝鮮王朝に同様の危機感を抱くことになります。地政学的にみても朝鮮は大陸から日本に向けて南に垂れ下がった半島国家であり、その地続きの大陸にある眠れる大国は今や列強の草刈り場となろうとしています。半島という地形自体が周辺水域への重要な拠点を提供できるという特徴を持っている以上、そのまま列強の南下が進み、この半島に列強のいずれかが拠点を持てば、即、未だ列強に十分に対応できる体力を持たない日本もまた、その自存が脅かされることになってしまう、その、ひりつくような危機感に煽られ、日本は朝鮮に、半ば強引に派兵することによって、覚醒と保護の手を差し伸べたようとしたわけです。

その、手前勝手で一方的な「好意」を、永く清国を宗主国と仰ぐ朝鮮王国は、当然のことながら好意としては受け取らず、清国に泣きつきます。あるいは、儒教国家として成熟した朝鮮には、同じ東アジア文化圏にありながら、その東洋的には洗練された習俗を全てをかなぐりすてる様にしてまで、いち早く欧化を遂げた日本に対して、当然その危機感を理解できず、一種の侮蔑感を抱きもしたでしょう。

清帝国にしても、長く自身の保護下にある朝鮮に、求められてもいない「保護者意識」を持って影響力を行使しようとする日本は、決して好ましい存在と映るはずもなく、やがて両国は戦端を開くに至りました。(1894年8月1日宣戦布告)

ja.wikipedia.org清国はアヘン戦争での敗戦を機に、近代海軍の整備に着手します。特に明治維新以降、台頭著しく、長らく清国保護下にあった朝鮮に対し関心と接触を高める日本に対峙する北洋艦隊には最も近代的な艦艇を集めていました。北洋艦隊については以下の回でご紹介しています。興味のある方は、どうぞご一読下さい。

fw688i.hatenablog.com

上掲の投稿でもご紹介しているように、北洋艦隊は装甲艦2隻を中心に、装甲巡洋艦2隻、防護巡洋艦8隻、装甲砲艦1隻を中核として構成された強力な艦隊でした。特に装甲艦「定遠」「鎮遠」は当時東アジア最大最強を謳われる堅艦で、他の艦艇も比較的艦齢の若い優秀艦が集められていました。

 

日清開戦の気運の高まりを受け、これに対応する日本海軍はそれまでの「常備艦隊」と「警備艦隊」の建制を改め、水上兵力を一元の指揮の下におく「連合艦隊」を編成することとしました。初代連合艦隊司令長官には、常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将が就任しています。

 

黄海海戦時の連合艦隊

日清の開戦にあたり日本海軍に負わされた最優先の課題は大陸への海上補給路をどう確保できるか、と言う一点でした。これに対する清国側は、上掲の「北洋艦隊」の投稿でもご紹介したように威海衛・旅順を根拠地として展開する北洋艦隊に、清国の最優秀艦艇を集め、日本の海上輸送路への圧力を高めていました。清国は緒戦、強力な艦隊を持ちながらも、戦力温存による日本軍兵站線への威力誇示を示す方針をとっていました。

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日清開戦から約1ヶ月半後の1894年9月、鴨緑江河口付近への陸兵上陸を支援した直後の清国艦隊と、清国艦隊出撃を察知し朝鮮半島西端の根拠地を出撃した連合艦隊が激突したわけです。

例によって海戦の詳しい経緯は優れた文献にお任せするとして、両艦隊の構成感を比較した際に筆者が顕著だと感じるのは、その就役年次の差異です。

(上表は日清両海軍の黄海海戦への参加艦艇の主要スペックの一覧表です。赤字速射砲の口径とその装備数です)

上表をまとめると清国北洋艦隊の艦艇の就役年次は平均すると1885年で、一方、日本艦隊の就役年次は特に古い「比叡」「扶桑」を除くと1890年と5年の差があるのです。兵器というのはいつの時代にもそうですが、大変速いスピードで発展を遂げているものです。特にこの黄海海戦時には帆装木造軍艦から機帆並装軍艦、蒸気装甲艦へと急激な発展を遂げた時期で、機関と砲兵装において、その発展は日々目を見張るものがあった時期でした。

「当たらない艦砲」と「衝角戦法」

本稿でも何度もご紹介していますが普墺戦争に付随して発生した1866年の海戦史上初の装甲蒸気艦同士の艦隊戦闘と言われる「リッサ海戦」の当時は、その備砲は未だ木造帆船時代と同様の丸い砲丸を砲口から装填するいわゆる前装滑空砲を舷側に並べ、照準も砲側での独立打ち方が主流の時代で、有効射程は300メートル、装甲艦に対しては命中してもほぼ効果なし、という時代でした。

この海戦でオーストリア帝国海軍は歴史的な勝利を収めるのですが、その戦法は「衝角戦法」というもので、艦首の「衝角(ラム)」で敵艦の艦腹を打ち破る、という太古のギリシア時代と何ら変わらぬ戦法でした。これは特に機動中の蒸気艦同士の砲戦では艦砲は当たらない、ということを前提としたもので、その後の大型軍艦が艦首に「衝角」を標準装備とすることは、実に第一次世界大戦の終了期まで継続するのでした。

清国北洋艦隊の艦艇はこの「衝角戦法」を具現化するために設計された時期の軍艦で、「衝角」はいうまでもなく(これは日本艦隊も全て装備していました)、主要艦艇は全て艦首方向にそれぞれの主砲を指向させる設計になっていました(「定遠級」装甲艦:30センチ砲4門×2隻、「経遠級」装甲巡洋艦:21センチ砲2門×2隻、「致遠級」防護巡洋艦:21センチ砲2門×2隻、防護巡洋艦「済遠」:21センチ砲2門)。これらの大口径砲はいずれもドイツクルップ社製の優秀な後装砲で、加えて副砲もクルップ社製の15センチ後装砲でほぼ統一されていました。

清国海軍切っての名将と言われた丁汝昌はこれらの自艦隊の特徴を最大限に生かすために横陣を組んで日本艦隊に対峙します。横陣の速度は7ノットだったと言われています。一見するとずいぶん低速だなあ、などと思ってしまいますが、個艦のスペックを見るといずれも14〜15ノット程度の速度を有していましたので、艦隊の練度を踏まえた横陣を維持した艦隊速度だったのかな、と考えています。

「手数で当てる速射砲」

これに対する日本艦隊は防護巡洋艦4隻で構成される第一梯団、防護巡洋艦3隻と装甲帯巡洋艦1隻、装甲艦1隻、装甲コルベット1隻の計6隻で構成される第二梯団(こちらが艦隊主力なのですが)がそれぞれ単縦陣を形成して10ノットの速度で横陣の頭を横切り北洋艦隊の右翼へ接近してゆくことになります。

設計年次の差が顕著に現れたのはその備砲で、日本艦隊は装甲コルベット「比叡」を除く全ての艦の副砲をアームストロング社製の12センチ速射砲で統一していました。アームストロング社製の12センチ速射砲の発射速度は1分間に5−6発と言われており、北洋艦隊の主力中口径砲であったクルップ社製15センチ砲が1分間に1発程度の射撃速度であったことと比較すると、速射砲の導入は「当たらない機動中の艦隊の艦砲」を「手数を増やして当たるように」変える工夫だと言え、日本艦隊はこの「当たる艦砲」によって勝利を得たのだと考えています。

この海戦で北洋艦隊の防護巡洋艦5隻(座礁2隻)、装甲巡洋艦1隻が失われ、残存艦の多くが中口径砲弾を被弾して炎上しています。海戦後、北洋艦隊は旅順港に戻りますが、清国には損傷を回復する十分な施設がなく、以降、戦力としての艦隊は失われてしまいました。

一方で、「鎮遠」「定遠」などは200発近い命中弾を受け火災を発生するなどの状況に陥りながらも、主要部に対する損害は軽微で行動力等は失われず、十分な装甲防御を持つ主力艦の存在の有効性が再確認されることとなりました。

 

連合艦隊第二梯団:主力部隊の艦艇のご紹介

海戦の経緯はこの辺りにして、以降は日本艦隊の艦艇群、そのうち今回は、まず、その主力部隊の艦艇をご紹介します。

同部隊は日本海軍で初めて編成された連合艦隊司令長官伊東中将直卒の部隊で、「松島級」防護巡洋艦3隻、装甲帯巡洋艦「千代田」、装甲艦「扶桑」、装甲コルベット「比叡」の6隻で構成されていました。

 

「松島級」防護巡洋艦(三景艦)(厳島:1891-1925/ 松島:1892-1908/ 橋立:1894-1925 ) 

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防護巡洋艦「松島」の概観:75mm in 1:1250 by Fairy-kikaku(レジンモデルです): 下の写真は同型艦厳島」「橋立」の概観:by Hai :同型艦ながら、艦型も主砲の搭載位置も異なります)

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同級は、フランスの天才造船家エミール・ベルタンの設計であることはつとに知られています。清国の当時アジア最強を謳われた定遠級戦艦(砲塔装甲艦)「定遠」、「鎮遠」に対抗する艦として設計されました。艦名が日本三景(松島、厳島、橋立)に寄るところから、「三景艦」という俗称がつきました。

これらの艦の最大の特徴は、4,000トン強の小さな船体に巨大な38口径32センチ砲を主砲として一門搭載していることで、主砲自体の性能は、射程、口径、弾丸重量ともに、「定遠級」の主砲(20口径30センチ砲)を凌駕していました。「厳島」と「橋立」はこの主砲を前向きの露砲塔に搭載し、「松島」は後ろ向きに搭載しています。「アジア最強の戦艦を上回る強力艦を手に入れた」と国民の少年のような高ぶりが伝わってくるような気がします。

主砲はフランス・カネー社製の後装式ライフル砲で、8500メートルほどの最大射程をもち8000メートルで334mmの舷側装甲を貫通する威力を発揮できると言われていました(ちなみに「定遠級」装甲艦の舷側装甲は36センチでした)。発射速度は5分に1発と言われていますが、これは発砲から次発装填にかかる手順状の時間ですので、照準等を合わせると10分に1発、というところだったかと思われます。黄海海戦では「松島」が4発、「厳島」が5発、「橋立」が4発、3隻計で13発という発砲記録が残されています。これに対し命中の記録は「定遠」4発、「鎮遠」複数、「来遠」「致遠」各1発とされており、これによると6割以上の命中率、ということになり、やや眉唾物だと思います。いずれにせよ発射速度は実戦的とは言えず、戦後、装甲巡洋艦の主砲(連装8インチ砲)への換装案等が出されたようですが、実現はせず、日露戦争にも主砲はそのまま参加しています。

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一方、副砲としては、前出の「黄海海戦」の項で既述のようにアームストロング式12センチ速射砲を各舷5基配置していました。同砲は最大射程9000メートルで、毎分5-6発の発射速度を持っていました。

3隻のうち長船首楼型の船体を持ち凌波性に優れ、かつ機関の調子の良かった「松島」が初の連合艦隊旗艦とされ、黄海海戦でも旗艦を務めています。

 

被弾した「松島」

実は黄海海戦で、旗艦「松島」は「鎮遠」の30.5センチ主砲弾の跳弾を被弾しています。

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(左舷に「鎮遠」の主砲弾を被弾した「松島」:左舷の速射砲座は砲側に積まれていた予備弾の誘爆により全滅。右舷の速射砲座も被害を受けました。操舵装置も故障、主砲も砲尾の尾栓機構に不具合が生じ以降砲撃ができなくなるなど、戦闘力を失いました)

1発は12センチ速射砲の砲身を跳ね飛ばし砲郭天井を貫通して爆発せず抜けたのですが、もう1発が12センチ速射砲の砲盾に命中して炸裂しました。当時は速射砲の導入直後で、実は給弾方法が間に合っておらず海戦中は砲側に砲弾が積み上げられていました。この砲弾約60発が誘爆し、左舷速射砲の砲郭は全滅、防護巡洋艦の悲しさで隔壁等を装備していないために右舷砲郭にも被害は及んでおり、即死者28名、重傷者60名を出し、さらに被弾と誘爆の衝撃で操舵装置、主砲にも故障が発生して、一瞬で旗艦が戦闘不能に陥る、という状況に陥りました。

信号旗で他艦に対して自由行動を許しますが、組織的な戦闘はこれで継続できなくなり、やがて日没とともに戦闘は終了しました。

その後

3隻はいずれも1898年の海軍艦艇類別等級の制定によって二等巡洋艦に類別され、日露戦争では索敵、哨戒、掃海等を主任務とする第三艦隊に所属し、1906年練習艦に類別変更されました。

「松島」は1908年に少尉候補生による遠洋航海中、台湾馬公に在泊中に火薬庫爆発を起こし轟沈しました。「橋立」は練習艦業務ののち二等海防艦に艦種が変更され、1925年の廃船、その後解体されました。「厳島」は二等海防艦を経たのち潜水艦母艦任務に就き1922年に除籍解体されています。

 

 **本稿でのラーニング:筆者は以前から、この「松島級」の特に「松島」に装備された後むきの主砲はどの様に使用される目的があったのだろうかと、疑問を持っていました。この疑問に対し、ご投稿(「通りすがり」さん)をお寄せいただき、「設計者ベルタンのオリジナルの設計はもう少し大きな艦型になるはずだった。日本海軍は予算の関係で船体を小さなものにせざるを得なかった」(これは筆者も聞いたことがありました)、そして「その設計では、もう少しまともに舷側方向に射撃ができたはず」(なるほど!)、さらに「何れにせよ使いにくい巨砲ではあったので、中口径砲の乱射で敵艦の行動の自由をある程度奪ったのちに、必中のタイミングでトドメを刺すような使い方を想定したのではないか。標的と想定された「定遠」級装甲砲塔艦の装甲を撃ち抜くには、この巨砲しかなかったのだから」という趣旨の解釈を伺うことができました。眼から鱗、とはこのことです。こういう情報は本当にありがたいです。

 

防護巡洋艦「千代田」 (1891-1927:同型艦なし)

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防護巡洋艦「千代田」の概観:77 mm in 1:1250 by WTJ)

防護巡洋艦「千代田」は、フランスから日本への回航途上で消息を絶った巡洋艦「畝傍」の保険金により調達されたといういわく付きの巡洋艦です。イギリスで建造され、舷側水線部に貼られた装甲帯を持つところから「日本海軍初の装甲巡洋艦」ともいわれることもありますが、2,500トン、主砲は持たず12センチ速射砲を舷側に10門装備した、正確には装甲帯巡洋艦、一般的には防護巡洋艦に分類されるでしょう。f:id:fw688i:20241208133739j:image

防護巡洋艦「千代田」の主要兵装等の拡大:同艦はいわゆる大口径砲を主砲として装備せず、備砲は12センチ速射砲に統一されていました、これを各減速に4門、艦首と艦尾にそれぞれ1門、計10門装備していました)

19ノットの速力を持ち、当時としては快速でありながら、重厚な連合艦隊主隊に組み込まれたため(おそらく、その装甲帯のため?)、その快速を発揮する機会は、黄海海戦においてはありませんでした。

その後

1898年の海軍艦艇類別等級の制定で三等巡洋艦に類別され、日露戦争では索敵・哨戒等の業務に従事し、旅順港外で触雷しています。戦後、二等海防艦として第一次世界大戦では中国沿海での警備活動を実施し、その後潜水母艦練習艦業務に就いたのち、1926年に廃船、解体されています。

 

参考まで:「千代田」は同艦遭難の保険金で建造されました。

防護巡洋艦「畝傍」(1886年就役:同年遭難:同型艦なし)

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防護巡洋艦「畝傍」の概観:81 mm in 1:1250 by Hai))

日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦を英仏両国に発注しましたが、このうちフランスに発注された1隻が「畝傍」でした。

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮する設計でした。

同時期に発注された当時の最新式の防護巡洋艦であるにも関わらず、「浪速」級(次の投稿でご紹介する予定)とは異なり、直上の写真のように、流麗でやや古めかしい感じさえする三檣バーク形式の船でした。フランスから日本への回航途上で行方不明となったことはつとに有名です。

浪速級と比較すると、やや低めの乾舷と、舷側の4箇所の砲座に搭載された24センチの主砲が、ややバランスの悪さを感じさせます。

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防護巡洋艦「畝傍」の主要兵装等の拡大:舷側の4箇所に主砲用の張り出し部分があります。低い乾舷と細い船型で高速性を感じさせる概観ですが、重い主砲4基を上甲板樹に設置していますので、復元性は気になるデザインではあります。その後の遭難(?)行方不明を考えると・・・)

フランス艦には時に復元性能に問題がある場合があり、回航途上に暴風雨などに遭遇しその弱点が瞬時の転覆をもたらしたのかもしれません。

しかしその流麗な艦容で高速を発揮し敵に肉薄する姿など、見てみたかったなあ、と思いませんか?

 

装甲艦「扶桑艦」(1878年就役:同型艦なし)

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(装甲艦「扶桑」の概観:55mm in Hai: 兵装改変等を施した後の日清戦争当時の姿を再現しています)

同艦は1875年度予算で建造された日本海軍初の鉄製軍艦でした。

日本海軍は明治維新後の1875年の海軍省設立とともに成立したと考えるのが一般的ですが、当時の海軍艦艇は旧幕府海軍、旧諸藩海軍から供出された軍艦の寄せ集めで、数も10隻をようやく超える程度、そのほとんどが「練習艦任務には耐える」、と言う規模と実情でした。

内政的には1874年の佐賀の乱を皮切りに不平士族の反乱が相次ぎ、一方外政では台湾出兵などによって、有力な軍艦による本格的な海軍艦艇の整備の必要性が痛感される時期でもありました。

こうして前述のように1875年度予算で明治政府としては初めての新造艦となる3隻の軍艦が海外に発注されました。

そのうち2隻は木造船体に舷側装甲帯を装着した2300トン級の装甲コルベット金剛級」(モデルは近い将来ご紹介することになります)で、残る1隻が同艦「扶桑艦」でした。

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(装甲コルベット「扶桑艦」の概観:55mm in 1:1250 by WTJ:ほぼ就役時の姿を再現したものです)

就役時、同艦は3700トン級の船体を持つ、日本海軍初の全鉄製の軍艦で、装甲フリゲートに分類されていました。日本海軍では当時最大の艦船だったのみならず、清国が「定遠級」装甲艦2隻を導入するまでは、アジアでも唯一の近代的装甲艦でもありました。

三檣バーク型のマストを備えた本格的な帆装能力と、イギリス製の3500馬力の機関を搭載し、13ノットの速力を発揮できる設計でした。就役当初は通常航海は主に帆走で行っており、煙突は伸縮式でした。

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(装甲コルベット「扶桑艦」の中央砲郭部の拡大:同艦は装甲艦としては中央砲郭形式の艦で、艦のほぼ中央に主砲とその弾薬(自艦にとっては最大の攻撃力であると同時に、被弾時に最も防御したい対象)を防御する重厚な装甲区画を設けています。ちなみに中央砲郭部の上部に見える煙突は伸縮式で、帆走時には船内に引き込むことができました。排煙は直後の中央マストの帆装を痛めたようで、後に中央マストは撤去されます)

主砲にはクルップ社製の20口径24センチ後装砲を4門搭載し、これを船体のほぼ中央に設置した装甲艦の形態でお馴染みの中央砲郭の4隅に据えて射界を広く与える工夫がされていました。この中央砲郭部の上には副砲としてクルップ社製25口径17センチ単装砲2門が単装砲架形式で設置されていました。

さらに近接戦闘用の火器として47ミリ機関砲6基が甲板状に装備されていました。

逐次近代化改装を実施

1894年ごろから近代化改装が逐次行われ、まずは帆装が簡略化されます。これにより外観的には排煙の影響を大きく受ける中央マストが撤去され、二本マスト形態となって見張り所が設置されました。

日清戦争には黄海海戦連合艦隊の主力艦隊の一隻として参加しています。

日清戦争当時の形態:兵装近代化改変:速射砲の搭載f:id:fw688i:20240804132600j:image

(装甲コルベット「扶桑艦」の近代化改装後の概観:副砲が速射砲に換装され、艦首・艦尾・中央砲郭上の両舷の4基に強化されました(下の写真))f:id:fw688i:20240804132558j:image

副砲が40口径12センチ速射砲(アームストロング社製)に改められました。同砲は盾付きの単装砲架形式で、両舷側に各1基、艦首・艦尾に各1基、都合4基が搭載され、中距離での砲戦力が強化されました。

黄海海戦時にはすでに老朽化が進んでおり、主力部隊の中でも後述の「比叡」と並んで主隊からはやや後落気味にな理、北洋艦隊の横陣に飲み込まれそうになり、返信して「衝角戦法」の餌食となることを避ける場面などもありました。

その後

日清戦争直後に「松島」と衝突して沈没着底する被害を受けています。浮揚後、1898年の海軍艦艇類別等級の制定によって日清戦争での戦利艦「鎮遠」と共に二等戦艦に類別され、日露戦争では第三艦隊第七戦隊の旗艦として、警備活動に従事しました。日本海海戦に参加しました。二等海防艦に艦首変更ののち1908年に除籍されました。

 

金剛級」装甲コルベット(「金剛」(1878-1908)  「比叡」(1878-1911))

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(「金剛級」装甲コルベットの概観:55mm in  1:1250 by Hai: 就役時の姿を再現しています)

「扶桑艦」と同時に、新生明治海軍の主力艦としてイギリスに発注された2隻の軍艦が、この金剛型コルベット(金剛、比叡)です。

装甲艦として設計された「扶桑艦」と異なり、鉄骨木皮の三檣バーク形式の船ですが、木皮ながら、舷側、水線部には装甲板を装着した設計となっています。帆走時代の航洋船の流れを汲む優美な艦影をしています。

黄海海戦時の「比叡」

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黄海海戦時の装甲コルベット「比叡」の概観: Hai製モデルをベースにした小改造:マストを短縮、コンバットマスト化などの改造を施しています)

黄海海戦においては、同級の「比叡」が、すでに老艦ながら「扶桑」とともに、連合艦隊本隊に参加していました。参加艦艇の中では唯一、兵装の速射砲化を行っておらず、就役時のままの兵装でした。

**実は日清戦争当時の「比叡」については、あまり画像資料を(既述系の資料も?)見出すことができていません。装甲艦「扶桑」の準じた改装が行われていたんだろうなあと推測をしたのですが、なかなか裏付け的なものが見つからず。勝手にきっと帆装への依存度が下がり、そうするとマスト構造が簡素化、短縮され、コンバットマスト的な要素が強化され・・・。と勝手に妄想が膨らみ、そういう想定のモデルを作ってみようと決断しました。

が、見つけた!素晴らしいモデルのご紹介が下記の投稿にはあるので是非ごらんください。比較すら失礼な気がします。とりあえずご紹介させてください。

onohama.blog130.fc2.com

こちらの投稿でもあまり背景についての資料は見出せないままなのですが、筆者の推測とほぼ同じなので少し心強い。モデルは筆者のコレクションなどとはレベルが異なります。スケールが違うのですが、とてもこの真似はできません。「シュラウドは一本一本」というような記述が出てきますが、いずれはトライしてみたいとは思うのですが、今はこのレベルでお茶を濁させてください。

 

同級は近代化改装をおこなっていたとは言え老朽化は否めず、前述の「扶桑」同様、主隊の速力に追随できず、清国北洋艦隊の横陣に飲み込まれる危機を迎えます。変針してこの難局を乗り切った「扶桑」と異なり、「比叡」は結局、この横陣に割って入るような敵中突破行動をとるのですが、集中砲火を浴び、被弾数は23発を数えたと言われています。一時戦闘不能に陥いる危い場面もありましたが、味方の救援が間に合い、危地を脱しました。

その後

「金剛」「比叡」ともに1898年の海軍艦艇類別等級の制定によって三等海防艦に区分され、日露戦争には、さすがに主力としての性能はなく、警備活動など、支援的な役割で参加しています。

「金剛」はその後も警備業務につき1909年に除籍、「比叡」は測量業務、警備業務等に就いたのち、1911年に除籍されました。

 

というわけで、ようやく黄海海戦時の日本艦隊の艦艇ご紹介、まずは連合艦隊主体の所管艇のお話でした。

この流れで、次回投稿では連合艦隊の第一梯団、遊撃隊のお話をしたいと考えています。

・・・と書きつつ、本業の業務が週末にかかるため、投稿はおそらく一回スキップします。あるいはまた何かの再投稿をさせていただくかも。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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