相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

新着モデルのご紹介 そして、この機会にオーストリア=ハンガリー帝国海軍の装甲艦系譜一覧

今回は久々の新着モデルのご紹介です。

新着は以下の2点(実は3点なのですが、もう1点はまた別の機会にご紹介します)。

「カイザー・マックス級」オーストリア帝国海軍装甲艦とオーストリア=ハンガリー帝国海軍装甲艦「カイザー」(戦列艦「カイザー」改造)です。

そして今回の投稿で、改めて「オーストリア帝国オーストリア=ハンガリー帝国」海軍の装甲艦の小史を振り返っておきたいと考えています。

今回はそういうとてもマニアックなお話。

 

では、新着モデルのご紹介から。

「カイザー・マックス級:Kaiser Max Class」オーストリア帝国海軍装甲艦(1863年就役:同型艦3隻)

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(「カイザー・マックス級」装甲艦の概観:57mm in 1:1250 by Sextant)

同級は普墺戦争中に発生したリッサ海戦当時の「オーストリア帝国海軍」(まだ「オーストリア=ハンガリー帝国」ではない!)の主力装甲艦の3艦級の一つで、筆者のコレクションから漏れていたものです。同級の詳細は後ほど小史の中でご紹介します。

 

もう一点は、その建造経緯が面白い。多分艦艇ファンのような方(多分、当ブログを読んでくださっているような方)なら大好きかも。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍装甲艦「カイザー」=スクリュー推進木造戦列艦「カイザー」改造(1859年就役:同型艦なし:1873年大改造の後、再就役)

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(中央砲郭型装甲艦「カイザー」の概観:67mm in 1:1250 by Sextant:モデルは元々木造蒸気推進の戦列艦であった同艦を、リッサ海戦での大損傷からの修復の際に装甲艦への大改造をおこなったのちの姿です)

同艦は「オーストリア帝国海軍」唯一かつ最大の蒸気推進木造戦列艦として1859年に就役しました。1866年のリッサ海戦には大型木造艦で編成された第二戦隊の旗艦を務めましたが、イタリア艦隊の装甲艦との戦闘で大損害を受けてしまいました。その修復にあたって大規模な近代化が計画され、装甲艦として生まれ変わることとなりました。しかしその後の帝国自体の財政難から改造はなかなか進まず、完成し艦隊に復帰したのは1873年でした。

今回入手したのは、この装甲艦として生まれ変わった「カイザー」のモデルです。こちらの詳細は後ほど。

 

そしてここからは、今回の2隻を組み入れた「オーストリア=ハンガリー帝国」の装甲艦の開発史のお話をしたいと考えています。

まずは蒸気機関と装甲艦の登場のお話を。

蒸気機関が開いた装甲艦への道とその諸型式

すでに本稿でも何度かご紹介したことですが、繰り返しを恐れずに蒸気機関の登場と装甲艦への発展、その型式の発達をまとめておきます。

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(ナポレオン期の軍用帆船:上段が砲戦を主要な任務とする戦列艦:舷側に複数層の砲甲板を装備しています。後にいわゆる「戦艦」に発展します。写真の戦列艦は58mm(バウスプリット:船体の先端から突き出している前方に傾斜し突き出している棒を除いた船体の寸法です・下段は軽快な機動性を持つフリゲートスクーナー(左):後に「巡洋艦」等に発展します。写真のフリゲート(右)は48mm(バウスプリットを除く))

 

蒸気機関の発展に伴い艦艇の機動力が飛躍的に向上します。

風力では不可能だった重砲という重量物を装備して自由に動ける艦艇、という概念が艦艇の発達を飛躍的に加速化する「筋立て」の門を開いた訳です。重砲の搭載で、艦艇の攻撃力が増大します。しかし一方で、原則として破壊力の大きな重い砲弾を飛ばすには、その発砲衝撃に耐えうる重い火砲が必要で、火砲の大型化も加速されてゆく訳です。

艦砲の大型化は艦艇への搭載数に対する制約という新たな課題を生み出します。少数の強大な破壊力を持つ艦砲をどのように搭載するか、という命題が新たに発生するわけです。そしてこれは、強力な火砲から放たれる砲弾をいかにして目標に命中させるのかという射撃法の発達を促し、やがてひとつの答えとして一連の「弩級戦艦」「超弩級戦艦」として結実を迎える訳ですが、その模索の期間が18世紀後半から始まったと考えていいと思います。

一方で、強力な砲弾の打撃力から如何に自艦を守るのか、という防御の思想が芽生え、こちらはこれも蒸気機関の発達により機動力との兼ね合いが可能となったもうひとつの重量物「装甲」を備えた装甲艦という概念となって登場します。

これからご覧いただくのは、破壊力の強大化=搭載砲の大型化、これを如何に有効な兵器として=命中が期待できる兵器として搭載するのか、そして自艦をいかに強大な敵の火力から、あるいは自艦が搭載する砲弾・弾薬の被弾時の誘爆から防御するのか、そのバランスの発達史として見ていただくと面白いのではないかと思うのです。

 

併せて軍艦への蒸気機関の浸透の過程を、簡単にまとめておきます。

世界初の実用蒸気船の誕生は1783年(フランス人:クロード・フランソワ・ドロテ・ジュフロワ・ダバンによる)であると言われています。

当初は推進方式の主流が外輪式であったため舷側に砲門を並べるそれまでの軍艦では大型の外輪が砲門設置を妨げるため馴染まず、蒸気機関の普及は商船から始まりスクリュー推進が実用化するまで軍艦への搭載は進みませんでした。運用側の海軍軍人側にも石炭切れによる推進力の喪失を嫌う傾向があり、蒸気船の普及に対する抵抗が根強くあったとか。

木造蒸気推進戦列艦の登場

とはいえ、風まかせではない自力での推進力を保有することの優越は明らかで、スクリュー推進の実用化に伴い、英海軍の帆走74門戦列艦「エイジャックス」が1846年に汽帆走戦列艦に改装されます。これを追う形でフランス海軍も初の蒸気機関搭載の90門戦列艦「ナポレオン」を1850年に就役させ、やがて英海軍も1852年に91門蒸気機関戦列艦アガメムノン」を就役させました。これを皮切りに英仏間を中心に汽帆走軍艦の建艦競走が始まりました。

(上の写真は英海軍が1852年に就役させた91門搭載蒸気機関戦列艦アガメムノン」の同型艦「ヒーロー」(上段)と、フランス海軍の90門搭載蒸気機関戦列艦「ナポレオン」(1850年就役)。いずれもTriton製モデル:構造的には従来の帆装戦列艦そのままの設計で、舷側に複数層の甲板にずらりと砲門を並べた構造です。従来の木造戦列艦蒸気機関を搭載した、というところですね。写真からはいずれも4層の甲板に砲門を並べていることがわかると思います:写真は例によってsammelhafen.deから拝借しています)

こうして英仏を中心に機帆併装軍艦の建艦競走が始まり、クリミア戦争後の時点で、英海軍24隻、フランス海軍20隻の木造蒸気戦列艦保有していました。

当時のオーストリア帝国海軍も、この潮流に追随し、1859年に今回投稿の新着モデルとして紹介した「カイザー」の原型艦を蒸気推進戦列艦(92門搭載)として就役させています。

(木造機帆併装戦列艦「カイザー」の概観(上段):モデルはHai製です。筆者は未保有:写真は。例によってsammelhafen.de,より拝借:3層の砲甲板を持つ典型的な蒸気推進戦列艦です)

装甲艦の登場

一方、当時のせいぜい1000メートル程度の射程(有効射程は300メートル程度?)を持つ前装式の砲を主要火器とする戦列艦を中心とした戦いでは、舷側に防御装甲を有することの優位性は明らかで、これも出力の高い蒸気機関の出現により、重い装甲を有しながら自立航行ができる軍艦が実現してゆきます。

さらに蒸気機関は艦上の重量物を、従来の人力による操作だけでなく機械力によって操作することを可能にし、これは軍艦への重砲の搭載、艦砲の大型化を可能にし、艦砲の射程拡大、長砲身砲による射撃精度の向上にもつながってゆくのでした。

このような流れの中で、フランス海軍は前出の機帆併装の90門戦列艦「ナポレオン級」(9隻)の建造と並行して、次に紹介する木造鉄皮の新造艦「グロアール」を建造していました。

「ラ・グロワール (La Gloire)級」装甲フリゲート艦 (1860年から就役:同型艦3隻)

ja.wikipedia.org

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(「グロワール級」装甲フリゲート艦の概観:64mm in 1:1250 by Helvetia:これは珍しいメーカーのモデルですね。今回まとめてみて、改めて大発見)

同級以前にも木造鉄皮構造の軍艦は建造されていましたが、舷側に11センチの厚みの本格的な装甲を装着した設計から、「装甲フリゲート艦」と自海軍では分類されながらも「戦艦」の始祖と一般には呼ばれています。

5600トン級の船体に36門の16センチ前装ライフル砲を装備し、2500馬力の機関を搭載し12.5ノットの速力を発揮できました。

こうして従来の戦列艦の砲配置に準じた「舷側砲門形式装甲艦」を皮切りに、装甲艦の諸型式の模索が始まるのです。

オーストリア帝国海軍でも同様の経緯から主力艦開発が試みられます。それは上記の搭載火砲の大型化と防御としての装甲の装着の兼ね合いから、概ね以下のような経緯を辿ります。

1850年代-60年代: 舷側砲門型装甲艦(この時期に「リッサ海戦」(1866年)が発生しています)

1870年代から80年代: 中央砲郭型装甲艦

1890年代: 中央砲塔型装甲艦

そして近代戦艦(前弩級戦艦)の登場(1900年前後から就役)へと続いてゆくわけです。

 

舷側砲門型装甲艦(1850年代-60年代)

各海軍ごとに時期の前後はあるのですが、今回、対象とするオーストリア帝國海軍を例にとると1850-60年代(ちょっと乱暴に区切ると)に、まず「舷側砲門艦」が建造されます。これは蒸気機関を搭載し(多くは帆装と機関を併用した機帆船でした)帆船と同様に舷側に主砲をずらりと並べた型式でした。

オーストリア帝國海軍はこの形式の装甲艦を3艦級7隻建造しています。

ドラッヘ級-2隻

カイザー・マックス級 - 3隻 

エルツヘルツォーク・フェルディナント・マックス級 - 2隻

 

「ドラッヘ級:Drache Class」装甲艦(1862年就役:同型艦2隻)

ja.wikipedia.org

Drache-class ironclad - Wikipedia

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(上の写真は「ドラッヘ級」装甲艦の概観:53mm in 1:1250 by Sextant)

同級は1862年から就役したオーストリア帝国海軍の最初の蒸気装甲艦の艦級です。

木造の船体に装甲をはった2750トンの船体を持ち、搭載した1800馬力の機関から11ノットの速力を発揮できました。18センチ前装式カノン砲10門と15センチ前装式ライフル砲18門を舷側にずらりと並べた、いわゆる舷側砲門形式の装甲艦です。f:id:fw688i:20241201095715j:image

(「ドラッヘ級」」装甲艦の主要兵装の拡大:舷側に装甲を貼り砲門を並べた舷側砲門形式の装甲艦の特徴がよくわかります)

リッサ海戦には2隻共(「ドラッヘ」「サラマンダー」)装甲艦戦列の一員として参加し、ていました。

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(「ドラッヘ級」」装甲艦の艦首部の変遷?)

上の写真上段はモデルの艦首形状で、衝角戦法を意識した(?)特異な形状をしています。下段はWikipediaでは1867年の改装後以降となっていますので、衝角戦法から航洋性へと、用兵側の要請が移行したことが想像できます。モデルが正しければ、ですが。この辺りあまり資料がありません)

リッサ海戦後、1870年代に近代化改装を受け、1885年前後に除籍されています。

 

「カイザー・マックス級:Kaiser Max Class」装甲艦(1863年就役:同型艦3隻)

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Kaiser Max-class ironclad (1862) - Wikipedia

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(「カイザー・マックス級」装甲艦の概観:57mm in 1:1250 by Sextant)

同級は後述の「ドラッヘ級」装甲艦の強化改良型として1863年から就役した装甲艦の艦級です。

3600トン級の船体を持ち11.4ノットの速力を有していました。前級同様の舷側砲門形式で18センチ前装式カノン砲16門と15センチ単装砲15門を舷側にずらりと並べていました。リッサ海戦には同型艦3隻全てが参加しオーストリア艦隊装甲艦戦列のの主力を構成していました。

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(上の写真は「カイザー・マックス級」装甲艦の拡大:舷側砲門艦の特徴がよくわかるかと)

後述しますが同級は備砲の更新など近代化改装を受けますが、オーストリア=ハンガリー帝国中央ヨーロッパ内陸国であり、全てに陸軍が優先され海軍予算には大きく制約されていました。このため艦艇の更新は思うに任せず、1870年代後半には、同級の近代化改装が承認されましたが、この近代化予算を用いて新たな艦艇を建造するという海軍ぐるみの詐術が行われました。新たに建造された艦艇にはもちろん艦名もそのまま継承されましたが、加えてその建造の際に同級の備砲、機関、装甲などが転用されたため、同級は全てスクラップとされました。

しかし、特にこの時期は装甲艦の模索期であり、新造艦艇に盛り込まれるべき技術は日進月歩でしたので、中途半端な予算流用、古い技術に基づいた部材転用などによって生まれた新たな艦艇は平凡なものにならざるを得ませんでした。このお話は後述の「カイザー・マックス級(1875)」の項でもまたご紹介します。

 

「エルツヘルツォーク・フェルディナンド・マックス級:Erzherzog Ferdinand Max Class」装甲艦(1866年就役:同型艦2隻)

ja.wikipedia.org

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(「エルツヘルツォーク・フェルディナンド・マックス級」」装甲艦の概観:64mm in 1:1250 by Sextant)」

同級はオーストリア帝国海軍が建造した最後の舷側砲門形式の装甲艦の艦級です。

「リッサ海戦」ではネームシップエルツヘルツォーク・フェルディナンド・マックス」がテゲトフの座乗艦となり旗艦を務めました。

5100トン級の当時のオーストリア艦隊では最大の装甲艦で、12.5ノットの速力を発揮できました。18センチ前装式カノン砲16門を主兵装として、その他中口径砲を装備していました。

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(「エルツヘルツォーク・フェルディナンド・マックス級」」装甲艦の主要兵装の拡大:舷側に装甲を貼り砲門を並べた舷側砲門形式の装甲艦の特徴がよくわかります)

海戦では旗艦自らイタリア艦隊の主力艦「レ・ティタリア」に衝角攻撃をかけ見事に撃沈しています。

リッサ海戦の後には、1880年代後半から90年代にかけて備砲を新型砲に換装するなど近代化改装を受けましたが、すでに旧式で二線級の戦力とみなされていました。その後補給艦や宿泊艦としての任務を経て1910年代に解体されました。

後述しますが1880年代後半に建造された「クローンプリンツェシン・エルツヘルツォーギン・シュテファニー」は同艦の近代化予算を流用して建造されました。内陸帝国であるオーストリア=ハンガリー帝国ではどうしても陸軍が優先され、海軍は「継子扱い」でしたのでやりくりが大変だったようです。

 

リッサ海戦とオーストリア=ハンガリー帝国の成立

本稿ではしばしばすでに触れていますが、再度、「リッサ海戦」について。

リッサ海戦は、1866年に勃発した普墺戦争の一環として戦われた海戦でした。

普墺戦争

普墺戦争は、統一ドイツの方向性を定める覇権争いで、産業革命推進の必須条件である一定規模の経済圏の確立範囲をめぐりプロイセン王国(小ドイツ主義=ドイツ民族経済圏)とオーストリア帝国(大ドイツ主義=中央ヨーロッパ経済圏)の間で争われた戦争でした。この戦争に、オーストリア帝国との間に領土問題を抱える統一間もないイタリア王国1861年成立)がプロイセン陣営側に立って参戦したわけです。

イタリア王国の参戦の狙いはイタリア北部に隣接するロンバルディアの支配権獲得と、併せてアドリア海での覇権確立、加えて、あわよくばアドリア海対岸であるダルマシアへの領土拡大でした。

そのアドリア海のほぼ中央にオーストリア帝国によって要塞化されたリッサ島(現クロアチア、ヴィス島)があり、この島の攻略がアドリア海制海権獲得に重要であることは明白であり、この攻略戦の一環として起こった海戦が「リッサ海戦」として後に呼称されるようになります。

オーストリア帝国イタリア王国との戦いでは、陸戦でも、この海戦でも勝利を挙げますが、これらの勝利は普墺戦争そのものへの寄与はほとんどなく、ケーニヒグレーツの戦いでプロイセン軍に大敗し、8月23日に休戦条約が結ばれます。結果統一ドイツからオーストリア帝国の影響力は排除され、以降、ドイツはプロイセン中心で統一へと向かうことになります。

こうして統一ドイツから弾き出されたオーストリア帝国は、領内に燻る非ドイツ系民族の不満を収拾する目的でドイツ系に次ぐ第二勢力であったハンガリー系民族との妥協点として、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国を成立させることとなるのです。

 

「リッサ海戦」海戦経緯

1866年7月16日夕刻、イタリア艦隊はリッサ島上陸部隊を伴いリッサ島に向かい出撃します。18日にはリッサ島に対する攻撃を開始しますが、断崖絶壁を利用して建設された要塞砲台への有効な砲撃が叶わず、また19日、リッサ湾からの上陸も悪天候などが原因で予定通りには進みませんでした。

19日オーストリア帝国側からはこれを阻止するために艦隊が出撃、20日には両艦隊がリッサ島沖で激突(文字通り=これは後で種明かし)するわけです。

艦隊の構成を見ておくと、イタリア艦隊が装甲艦(木造鉄皮)12隻、木造戦列艦11隻、木造フリゲート艦5隻で、オーストリア艦隊は装甲艦(木造鉄皮)7隻、木造戦列艦7隻、木造フリゲート艦12隻で、海戦での主力戦闘力となるであろう装甲艦・木造戦列艦の数ではイタリアが優勢で、併せて総砲門数でもイタリア艦隊の641門に対しオーストリア艦隊532門と、イタリア艦隊の優位は明らかでした。

しかしテゲトフ提督に率いられたオーストリア艦隊の士気は高く、イタリア人をダルマシアに対する侵略者と見做していたのに対し、イタリア艦隊は艦艇はともかく、乗員や指揮系統は統一間もない国家という背景から、各地方領主から提供された兵員の寄せ集めの感が残されていました。

イタリア艦隊は舷側砲門を有効に生かすべく装甲艦9隻(3隻は要塞攻撃に分派)のみによる単縦陣隊形を取り、3隻づつ3グループに分けてオーストリア艦隊の包囲を目指します。一方のオーストリア艦隊は7隻の装甲艦を第一列に、木造艦を第二列以降に並べた1000メートル間隔の3列からなる楔形陣形をとり、イタリア艦隊の横腹をつく隊形を取りました。

オーストリア艦隊の指揮官テゲトフ提督にはいくつか確信があったようで、前述のように自艦隊の士気の高さに加え、当時の砲撃が、静止目標に対してはともかく、移動目標に対し命中させることが著しく困難であること、併せて命中弾が与える損害がそれほど大きなものではないことなどから、楔形陣形による突撃という戦法を目指す決断をしたようです。

これに加え、以下でも再度記述することになると思いますが、戦闘直前の旗艦変更による隊形と指揮系統の混乱などがイタリア艦隊側に加わり、イタリア艦隊の第一グループと第二グループ以降に大きな間隔が生じてしまい、装甲艦の数の優位性がイタリア艦隊からは失われました。

戦闘は楔形体系で突撃をかけたオーストリア艦隊の装甲艦7隻によるイタリア艦隊の第二グループ3隻への攻撃、イタリア艦隊の装甲艦第三グループ以降(4隻)とオーストリア艦隊の非装甲艦14隻の戦闘という様相を呈し、結果、イタリア艦隊は主力装甲艦「レ・ディタリア」を集中砲火とオーストリア艦隊の旗艦「エルツヘルツォーク・フェルディナンド・マックス」の衝角攻撃で、装甲砲艦「パレストロ」を衝角攻撃による損傷とその後の集中砲火で失い、オーストリア艦隊には喪失艦はなく、オーストリア艦隊の勝利となりました。

 

「リッサ海戦」の意義

同海戦は史上初の蒸気推進装甲艦を中心に編成された艦隊同士の戦いでした。

海戦の戦訓として、まず、それまで列強が整備してきた木造戦闘艦(主として蒸気機関搭載の戦列艦)は、装甲戦闘艦(と言っても木造鉄皮=木造艦に装甲を貼り付けた戦闘艦)には歯がたたないということが明らかになりました。

併せて、それまでの木造艦の主兵装であったレベルの艦砲(前装滑空砲=いわゆる丸い砲弾を砲口から装填し発砲する形式の艦砲)では、まず機動している敵艦に当たらず(当たらないというのはその後もずっと続くのですが)、当たっても装甲艦には(木造艦にも?)致命傷が与えられないことも明らかになりました。装甲艦といえども当時の装甲艦が搭載していた砲兵装は木造艦と同じレベルで、そのために逆に見出されたのが衝角戦法の有効さでした。

この戦訓から、以降の艦砲については、より大きな破壊力を目指すということが最大の命題となり、具体的には、初速の速い大口径砲、つまり長砲身を持つ貫徹力の強い艦砲の搭載を目指すことになってゆきます。これは艦砲の大型化と砲の搭載重量の増大を伴い、舷側砲門形式のような多くの砲を舷側に並べる搭載法が敵わなくなってゆくことを意味します。すなわち少数の強力な砲に最大限の射界を与えるための搭載法が工夫されてゆくこととなるわけです。

さらに有効と実証された衝角戦法の実行においては、敵艦を自艦の正面に捉えおくことが求められ、従って艦砲も正面への射界確保が重要となってゆきます。

一方で、搭載砲の大型化は弾薬類の誘爆への防御の重要性をも顕在化させることとなります。こうした射界の確保、防御の強化という視点から、舷側砲門形式は主力艦の主砲搭載形式として終焉を迎え、やがて砲郭・砲塔という形式の艦砲の搭載法が生み出され、中央砲郭艦、中央砲塔艦、そしてやがては航洋型近代戦艦(いわゆる前弩級戦艦)へと発達してゆくのです。この間、およそ25年間(「リッサ海戦」(1866年)から英海軍の「ロイヤル・サブリン級」戦艦の就役(1892年))、その変化の始点となったという意味で、「リッサ海戦」は重要な転換点として位置付けられています。

艦砲は未だ発達が始まったばかりで、射程も威力も十分ではなく、何よりも照準が砲側で行うしかなく、つまり射撃術が成立する以前の当時の状況ではかなり近居距離からの射撃でなくては命中が見込めませんでした。このリッサ海戦で列強が得た戦訓は艦首の衝角による攻撃の有効性、というものでした。このためこの時期以降、第一次世界大戦期まで、列強の主力艦は船首に衝角を持つことが標準となります。

 

中央砲郭型装甲艦(1870年代から80年代)

上記のような次第で現れたのが「中央砲郭型装甲艦」という形式でした。

艦載砲が大型化し強力になるにつれてその弾薬庫をいかに防護するかも大きな課題になってきます。つまり自艦が搭載する強力な砲弾を被弾時の誘爆から防御する装甲をどのように配置するかとういう課題に対して向き合う必要が出てきた訳です。重厚な装甲で覆えばいい、のですが限られた機関出力との兼ね合いで装甲をどのように貼れば効率良く機動性を確保できるのか、これに対する一つの解答が「中央砲郭」という考え方でした。A=H帝国海軍はこの型式の装甲艦を8隻建造しています。試行錯誤的で決定版の設計を模索したのでしょうか、同型艦を持たない艦級が5つあります。

7,200トン級装甲艦:リッサ(Lissa) - 1隻

7,800トン級装甲艦:クストーザ(Custoza) - 1隻

6,000トン級装甲艦:エルツェルツォーク・アルプレヒト(Erzherzog Albrecht) - 1隻

5,200トン級装甲艦:カイザー(Kaiser) - 1隻:木造戦列艦からの改造

7,500トン級装甲艦:テゲトフ(Tegetthof) - 1隻

カイザー・マックス級 - 3隻

 

装甲艦「リッサ:Lissa」(1871年就役:同型艦なし)

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(中央砲郭型装甲艦「リッサ」の概観:75mm in 1:1250 by Sextant(バウスプリットを除く寸法): 下の写真は装甲艦「リッサ」の中央砲郭の拡大:中央砲郭は上下二層に別れ、下層は舷側方向への限定された射界をもち、上層のみ広い射界がありました)

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同艦は7000トン級の船体に9インチ後装砲を12門、片舷6門ずつ搭載し、12.8ノットの速力を出すことができました。片舷6門の9インチ砲は艦中央の喫水のすぐ上の装甲帯部分に5門が配置されていました。この5門の砲は基本的には舷側方向へ向けての射撃のみが可能でした。残る1門は上甲板部分の張り出しに配置され、各舷3箇所の砲門からの射撃が可能で大きな射界を有していました。しかし砲の射撃方向の変更は人力での砲の移動を伴う作業が必要で、特に戦闘中の射撃方向の変更等は大変な労力を伴う作業だったことでしょう。

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(装甲艦「リッサ」の主要兵装の拡大:舷側に装甲を貼り砲門を並べた舷側砲門形式と中央砲郭形式の混在、過渡的な装甲艦の特徴がよくわかります)

この辺りの配置から、舷側砲門形式からの移行期、模索期の試作艦的な要素が見て取れるかと。艦名は言うまでもなくオーストリア帝国海軍栄光の「リッサ海戦」に由来しています。

数度の改造を受け備砲も速射砲への更新など受けましたが、1888年に予備艦隊に配置され、1892の除籍。1893年から95年にかけて解体されました。

 

装甲艦「クストーザ:Csutoza」(1875年就役:同型艦なし)

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(中央砲郭型装甲艦「クストーザ」の概観:78mm in 1:1250 by Sextant(バウスプリットを除く寸法): 下の写真は装甲艦「クストーザ」の中央砲郭の拡大:中央砲郭は上下二層に別れ、両層とも片舷2門ずつの10インチ砲を配置していました。ちょっとわかりにくいですが、下層の後部砲のみ射界が舷側方向に限定されています)

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同艦は前級、装甲艦「リッサ」よりは少し大きな7600トン級の船体を持ち、より強力な22口径後装式の26センチ砲(10インチ砲)8門を主砲として搭載していました。主砲は全て中央の厚い装甲で覆われた砲郭部分に上下二段配置で片舷4門づつ配置され、砲郭部分の前後に船体に切り込みなどを入れることにより、各砲には大きな射界が与えられていました。

しかし前出の「リッサ」での記述したように、砲の射撃方向の変更は人力での砲の移動を伴う作業が必要で、特に戦闘中の射撃方向の変更等は大変な労力を伴う作業だったことでしょう。

同艦の就役時には装甲艦設計の主流が砲塔艦に移行しており、新造艦ながらやや古い設計となってしまいました。

同艦は第一次世界大戦期まで練習艦として使用され、その後宿泊船となりました。第一次世界大戦後はイタリアへの賠償艦として譲渡され解体されました。

 

装甲艦「エルツェルツォーク・アルプレヒト:Erzherzog Albrecht」(1874年就役:同型艦なし)

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(中央砲郭型装甲艦「エルツェルツォーク・アルブレヒト」の概観: by Sextant:モデルは未保有です:写真は例によってsammelhafen.de,より拝借)

同艦は前出の「クストーザ」と同時に発注されましたが、予算の制約から、縮小版的な設計となりました。

主砲は「クストーザ」よりも小さい9.4インチ後装砲として、これを中央砲郭に8門装備しました。中央砲郭の装甲もやや薄いものとされましたが、予算上の問題から建造が遅れ、完成時にはすでにやや時代遅れの設計となっていました。

完成後もあまり活発な活動はなく、1880年代に反乱鎮圧任務等についています。1908年に改名され砲術学校の補給艦となり、ついで1915年には潜水艦乗組員の宿泊艦となりました。第一次世界大戦後は戦利艦としてイタリアに譲渡され、1950年代まで貯蔵艦として活用されました。

 

装甲艦「カイザー」=スクリュー推進木造戦列艦「カイザー」改造(1859年就役:同型艦なし:1873年大改造の後、再就役)

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(中央砲郭型装甲艦「カイザー」の概観:67mm in 1:1250 by Sextant:モデルは元々木造蒸気推進の戦列艦であった同艦を、リッサ海戦での大損傷からの修復の際に装甲艦への大改造をおこなったのちの姿です:下の写真は改造後の装甲艦「カイザー」の中央砲郭部分の拡大:前出の「リッサ」の配置の影響が色濃く見えるかと

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同艦は「オーストリア帝国海軍」唯一かつ最大の蒸気推進木造戦列艦として1859年に就役しました。92門の備砲を3層の砲甲板に並べた典型的な戦列艦で、その備砲は90門の前装式滑空砲と2門の後装式砲で構成されていました。

(木造機帆併装戦列艦「カイザー」の概観(上段):モデルはHai製です。筆者は未保有:写真は。例によってsammelhafen.de,より拝借:下段写真は後述のリッサ海戦で大損傷を負った「カイザー」の姿:Wikipediaより)

1866年のリッサ海戦には大型木造艦で編成された第二戦隊の旗艦を務めましたが、イタリア艦隊の装甲艦との戦闘で大損害を受けてしまいました。その修復にあたって大規模な近代化が計画され、装甲艦として生まれ変わることとなりました。しかしその後の帝国自体の財政難から改造はなかなか進まず、完成し艦隊に復帰したのは1873年でした。

水線部分には装甲が装備され、機関と砲郭は特に暑い走行で保護される設計でした。備砲も一新されましたが、他艦が後装砲装備であったのに対し、9インチの前装砲10門を2層の中央砲郭に収め、他に8インチ前装ライフル砲6門を副砲として搭載しました。

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(装甲艦「カイザー」の主要兵装の拡大:前述のように装甲艦「リッサ」の影響が色濃く伺える配置です)

しかしこの時期には装甲艦設計の主流は砲塔艦へと移行してしまっており、1875年には同艦は予備艦となりました。しかしその後もスクリューの交換やボイラーの更新などが行われ、性能が向上しています。

老朽化の進んだ1901年からボイラーなどを撤去する工事を受け、兵舎艦に改造され第一次世界大戦まで使用されました。その後、戦利艦としてイタリアに接収されました。

 

装甲艦「テゲトフ:Tegetthof」(1882年就役:同型艦なし)

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(中央砲郭型装甲艦「テゲトフ」の概観:71mm in 1:1250 by Sextant(バウスプリットを除いた寸法): マスト等を失った船体のみのジャンクモデルとして入手したものを、少し修復しています:下の写真は「テゲトフ」の中央砲郭の拡大:11インチ主砲を船体中央の装甲で防護された砲郭に片舷3門、装備しています。それぞれの砲には大きな射角が与えられる配置になっています。主砲装備甲板は1層となり、弾庫がその下層甲板に配備されました)

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同艦は1882年に就役しています。

7400トンの船体を持ち、その中央砲郭には「クストーザ」よりも更に強力な後装式の11インチ(28センチ)砲を主砲として6門搭載し、13ノットの速力を発揮することができました。主砲は全てマウントに搭載されており、射撃方向の変更等は、砲の移動を人力で行わねばならない前級よりは格段に楽でした。従来の砲郭艦が砲を上下二段の甲板に配置していたのに対し、同艦では砲甲板は一層にまとめられており、弾庫が各砲の下に配置され、砲郭の装甲で保護されていました。就役当時はオーストリア=ハンガリー帝国海軍最大級、最強の艦船でしたが、アドリア海での運用が主目的であったため、同時期の他の列強の同種の装甲艦に比較すると小振でした。ちなみに艦名は1866年のオーストリア=ハンガリー帝国海軍の栄光の戦いである「リッサ海戦」で艦隊を率いた提督の名に由来しています。

 

就役以降、機関の不具合に悩まされ続けて、活動は十分ではなかったようです。ようやく1893年に機関が信頼性の高いものに換装され、同時に兵装も一新され、同艦は主力艦としての活動が可能になったようです。

その後、1897年には艦種が警備艦に改められ、一線を退いています。さらに1912年に艦名が「マーズ」に改められ、「テゲトフ」の名は同帝国海軍最新の弩級戦艦ネームシップに引き継がれました。「マーズ」は港湾警備艦練習船として第一次世界大戦中も使用され、戦後、イタリアへの賠償艦として引き渡され1920年に解体されました。

 

「カイザー・マックス級(1875):Kaiser Max Class」装甲艦(1876年から就役:同型艦3隻)

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(「カイザー・マックス級(1875)」中央砲郭型装甲艦の概観: by Hai:モデルは未保有です:写真は例によってsammelhafen.de,より拝借:モデルはマストの形状等から、おそらく近代化改装後の姿を再現したものだと思われます。主砲を搭載した中央砲郭では最前部の砲のみ前方斜めへ広い射界が与えらt¥れていたことがわかります(写真下段右))

同級の建造には大変興味深いエピソードがあります。

そもそもオーストリア=ハンガリー帝国内陸国であり、アドリア海に接続海面を持つのみであるため、全般に海軍に対する関心は高くありませんでした。特に普墺戦争での敗北から陸軍の再建が優先されていたため、近代化を急ぐ海軍が予算を獲得することは容易ではありませんでした。

しかし近代化装備の獲得は海軍にとって喫緊の課題でもあり、同海軍は旧式艦(前出の「カイザー・マックス級」)の近代化の名目で議会から予算を獲得し、実態は全く新しい装甲艦3隻を全くの同名で建造するという一種の偽装を行うことを決断します。こうして生まれたのが同級です。このため、この新たな「カイザー・マックス級」3隻には、旧「カイザー・マックス級」(前出の舷側砲門装甲艦の項でご紹介したリッサ海戦時の主力艦です)から、名前をそのまま継承しています。また建造には、経費節減のために、実際に機関、装甲。その他装備の転用が行われました。この欺瞞を成立させるためにオーストリア=ハンガリー帝国海軍の公式記録には、この一連の工事は単なる改造であり、新造艦の建造ではない、という記録が残っているそうです。

こうして生まれた同級は、3500トン級の小さな船体に8.3インチ後装砲8門を主砲として搭載していました。主砲は装甲を施された中央砲郭に収められていましたが、広い射界を与えられたのは両舷の一番前方の砲だけで、他は舷側方向へ射界が限定されていました。

同級3隻の建造は経済的には大きな効果を上げることができましたが、設計に対する制約は大きく、平凡な設計にとどまったと言わざるを得ないと考えています。

同級は20世紀に入ると軍艦籍から除かれ、2隻は浮き兵舎となり、1隻は改名して修理船となりました。第一次世界大戦後は全てイタリアに接収されましたが1隻は引き渡し前に沈没し、残る2隻はその後の経緯で新生のユーゴスラビア海軍に移管されました。第二次世界大戦中にユーゴスラビアが敗北し再度イタリアに接収されたようですが、その後の経緯ははっきりしていません。

 

中央砲郭のヴァリエーション

下の写真では中央砲郭の在り方自体が模索された様子が伺えます。上段の「リッサ」では舷側砲門型から中央砲郭への移行期(1871年就役)にあることがわかりますし、中段の「クストーザ」では中央砲郭への主砲の集中搭載が試みられています(1875年就役)。そして下段の「テゲトフ」では主砲配置と弾庫の配置についての工夫が行われています(1882年就役)。

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中央砲郭のヴァリエーションに見られる創意・発展はやがて艦砲の更なる巨大化(長砲身化)に対応して、この後、砲塔形式で主砲を搭載する「中央砲塔艦」の形式(1890年代)を経て「前弩級戦艦」(1900年以降)へと発展してゆきます。

 

中央砲塔型装甲艦(1890年代)

上述のように中央砲郭形式での主砲搭載が洗練されるにつれ、より巨大な砲の運用についての技術も洗練されてゆきます。たとえば重量の大きな砲の方向転換を人力から動力を伴うターンテーブルで行うといった運用法や、各方の弾庫を砲の直下に置くなど、上述の「テゲトフ」ですでに実現されていました。

こうして更に巨大な火砲を砲塔形式で搭載するという試みが行われます。これが「中央砲塔型装甲艦」で、オーストリアハンガリー帝國海軍は2隻の同形式の装甲艦を建造しました。

6,800トン級装甲艦:クローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフKronprinz Erzherzog Rudolf) - 1隻

5,100トン級装甲艦:クローンプリンツェシン・エルツヘルツォーギン・シュテファニー(Kronprinzessin Erzherzogin Stefanie) - 1隻

 

装甲艦「クローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ」(1889年就役:同型艦なし)

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(中央砲塔型装甲艦「クローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ」の概観:75mm in 1:1250 by Sextant: 同艦に至り、かなりすっきりとした外観になってきています:下の写真はクローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ」の砲塔の拡大:12インチ主砲を船体中央の両舷に砲塔形式(といっても装甲で覆われた装甲砲塔ではなく弾片防御カバー付きの露砲塔ですが)で2基、艦尾部に1基の合計3基を装備しています。それぞれの砲には大きな射角が与えられる配置になっています。思い砲塔を艦の上部構造物に搭載したため、重心の低減に配慮された設計となっているようです)

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同艦は「ドラッヘ級」装甲艦の2番艦「サラマンダー」の代艦として建造されました。6800トンの船体に35口径の12インチ砲を単装砲形式で3基搭載し、新開発の機関から15.5ノットの速力を発揮することができました。12インチの主砲は、中央砲郭内での砲の方向転換のターンテーブルからの発展型(?)であるバーベットに搭載され、艦の上甲板部に設置されることにより、より大きな射界が与えられました(艦中央のバーベットでは180度、艦尾のバーベットでは270度)。バーベットはそのまま砲の下部にある弾庫の装甲を兼ねていました。各砲はカバーで覆われていましたが、おそらく装甲砲塔には至っておらず、弾片防御程度の所謂露砲塔だったと思われます。

第一次世界大戦期にはカタロ湾の警備等に従事しましたが、1918年に発生した反乱事件等に巻き込まれました。戦後は帝國解体後の新興国の海軍に移籍し改名され沿岸防備艦として就役しましたが、翌年解体されました。

 

艦名は和訳すると「皇太子ルドルフ大公」そんな感じでしょうか?オーストリアも含めドイツ語圏の爵位、称号等は度々艦名に用いられますが、これが大変長く難しい。泣かされます。

 

装甲艦「クローンプリンツェシン・エルツヘルツォーギン・シュテファニー:Kronprinzessin Erzherzogin Stefanie 」(1889年就役:同型艦なし)

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(中央砲塔型装甲艦「クローンプリンツェシン・エルツヘルツォーギン・シュテファニー」の概観: by Sextant 筆者は未保有です。写真は例によってsammelhafen.de,より拝借)

同艦は5000トン級の船体に35口径12インチ単装砲2基を主砲として搭載し、35口径6インチ砲を副砲として6基装備していました。主砲は開放単装砲座に乗せて装備され広い射界が与えられていましたが、速射砲の発展によりむき出しの砲員は弱点となりました。

8000馬力の機関から17ノットの速力を発揮することができました。

同艦の建造にあたっては、再び資金捻出に関連して偽装が行われ、リッサ海戦時の装甲艦「エルツヘルツォーク・フェルディナンド・マックス」の近代化改装に向けて確保された資金が流用されました。そのためこの船は公式には「フェルディナンド・マックス」と呼ばれていたようですが、その当時、本物の「フェルディナンド・マックス」は訓練艦としてポーラに停泊していました。

就役後、「クローンプリンツ。エルツヘルツォーク・ルドルフ」とともに海軍の顔として諸国の記念式典等に参加しましたが、1905年に退役し、以降、機雷戦学校の兵舎船として第一次世界大戦を迎えています。

大戦後はイタリアに戦利艦として接収され、1926年に解体されました。

 

そして前弩級戦艦の時代へ

この後、砲塔形式で主砲を搭載する「モナルヒ級」海防戦艦(1898年から就役:5800トン、9インチ連装砲塔2基)を経て「ハプスブルグ級」前弩級戦艦(1902年から就役:8200トン、9.4インチ連装砲塔1基、同単装砲塔1基)へと発展してゆきます。

(下の写真はA=H帝国海軍の中央砲塔型装甲艦と近代戦艦の比較:手前から中央砲塔型装甲艦「クローンプリンツ・エルツヘルツォーク・ルドルフ」、「モナルヒ級」海防戦艦、「ハプスブルグ級」戦艦の順)

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以降の発展は、本稿の下記の回で。興味のある方は是非。

fw688i.hatenablog.com

 

ということで、今回はオーストリアハンガリー帝國海軍の主力艦を例に引いて、近代戦艦(前弩級戦艦)の成立以前の主力艦形式の模索について、少しまとめてみました。

実はこの模索期は様々な試行錯誤が行われており、艦船模型的な視点に立つと、大変な宝箱なのです。しかし、そのモデル数の多さと、その希少性からなかなかコレクションに加えるのはハードルが高い、という事実もあったりします。

 

ということで、今回はこの辺で。

 

次回はようやく懸案の黄海海戦日清戦争)時のの本海軍の主要艦艇のお話ができそうかな?

 

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

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特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

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