今回は予告の通り本業で週末に時間が取れません。そこで筆者が結構力を入れて整理した、第一次世界大戦後のドイツ帝国海軍の消滅に伴い、戦勝国の監視のもとで誕生したワイマール共和国、そのオリジナルの海軍艦艇群と、その更新にあたって建造された代艦のまとめを、編集版で再掲しておきます。
ご承知のようにワイマール共和国は第一次世界大戦の敗戦でドイツ帝国が解体した後のヴェルサイユ条約によって成立し、やがてナチスドイツの台頭と共に消えていったドイツの過渡的な政体です。(だいたい1918年から1933年ごろまで)
ドイツ海軍史的な視点で見ると、世界第2位の規模を誇ったドイツ帝国海軍が第一次世界大戦の敗北とスカパ・フローでの大自沈で文字通り「消滅」し、ヴェルサイユ条約下の厳しい軍備制限の下で小規模な沿岸防備海軍として再生、その後ナチスドイツによる再軍備に至る、その過程、ということになるかと考えています。
今回は、まずその「前編」として、前述の「小規模な沿岸防備海軍」としてスタートしたワイマール共和国海軍がどのような海軍だったのか、その辺りを見てみたいと考えています。
ワイマール共和国の成立とその海軍
繰り返しになることを恐れずに書くと、第一次世界大戦でドイツ帝国は敗北し、帝政ドイツ自体が崩壊します。海軍について見ると、大戦前に英国との激しい軍備拡大競争の下で主力艦の保有数では世界第2位の規模を誇っていた帝国海軍だったのですが、その主要艦艇群は講和成立後の抑留地スカパ・フローで「大自沈作戦」を実施し、文字通り姿を消してしまいました。
併せて、大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約下で厳しい軍備制限が課せられます。
海軍について見ると、兵員数は15000人以下(参考までにこれからご紹介する前弩級戦艦の乗員定数が700名から800名です)、潜水艦の保有が禁じられ、バルト海諸国への脅威軽減という名目で、自国沿岸部の要塞化、砲台設置などは認めない、現有のものは破壊する、というものでした。
保有艦艇についての制約
保有艦艇についてももちろん制約があり、装甲戦闘艦6隻(予備艦2隻)、巡洋艦6隻(予備艦2隻)、駆逐艦12隻(予備艦4隻)、沿岸用水雷艇12隻(予備艇4隻)その他若干の補助艦艇というものであり、規模的にはかつてのドイツ帝国海軍とは比べるべくもない小規模なものでした。併せて保有艦艇の質的な側面を見ても、実際に保有を許された艦艇は、上述の装甲戦闘艦として保有が認められたものは「前弩級戦艦」でしたし、巡洋艦も石炭専焼機関を搭載した防護巡洋艦であるなど、すべて第一次世界大戦期においてすら旧式艦、第一線戦力とは見做されないものばかりでした。
ということで、まずは保有を許された艦艇について整理を試みることにしましょう。
ワイマール共和国海軍の主要保有艦
主力艦(装甲戦闘艦)(保有枠6隻:予備艦2隻)
「ブラウンシュヴァイク級」5隻(2隻は予備艦)と「ドイッチュラント級」3隻
「ブラウンシュヴァイク級」戦艦(1904年から就役: 同型艦5隻)
(「ブラウンシュヴァイク級」戦艦の概観:102mm in 1:1250 by Navis: ようやく実用化がかなった11インチ速射砲を主砲として採用したため、大型の主砲塔を搭載しています。
同級は英海軍との戦闘、つまりバルト海だけではなく北海での運用を想定して設計された艦級です。最大の特徴は実用化された速射砲としては当時最大口径の新開発11インチ速射砲を主砲として採用したことでした。併せて同級では砲力の強化がさらに追求され、副砲の口径を前級の15センチから17センチに変更しています。加えて副砲の一部を砲塔形式で搭載し、射界を大きくしています。
第一次世界大戦期には、既に二線級戦力と見做され、主として沿岸防備任務につきました。同級の「ヘッセン」のみは英独の決戦であったユトランド沖海戦に、次にご紹介する「ドイッチュラント級」戦艦と戦隊を組んで参加しています。同級は大戦中の1917年に補助艦艇に艦種が変更となりましたが、敗戦後、ヴェルサイユ条約で同級の「ブラウンシュヴァイク」「エルザース」「ヘッセン」の3隻保有が認められ、ワイマール共和国海軍では主力艦とされました。
ワイマール海軍時代の「ブラウンシュヴァイク級」戦艦:
「ブラウンシュヴァイク」「エルザース」「ヘッセン」(「プロイセン」「ロートリンゲン」は予備艦として保有)
(上のモデルは1932年の「ヘッセン」(Navis新モデル(NM 11R) :1932年次にワイマール共和国海軍の主力艦であった当時を再現したモデルで、艦橋構造が変更されているのが分かります)
前述のようにヴェルサイユ条約で、同級は保有を認められましたが、既に第一次世界大戦期にあっても旧式艦であったので、いずれは沿岸警備艦として近代化改装される計画がありましたが、やがてナチスの台頭と再軍備宣言で新型主力艦の建造に注力されたため、大々的な改装は行われませんでした。
予備艦に指定されていた「プロイセン」「ロートリンゲン」は、ヴェルサイユ条約がドイツに課した北海に敷設された機雷原に航路を啓開する掃海任務に従事するため、掃海艇14隻を搭載する掃海艇母艦に改造されました(これは作ってみたくなって来た!資料がありますかね?探してみよう)。「プロイセン」はグースネッククレーンをそのまま残したために、この任務に対してはトップヘビーの傾向が強く、すぐに任務を外され、予備間に戻りました。一方で「ロートリンゲン」はグースネッククレーンをローディングブームに交換し、ほぼ二年間この業務に従事しました。この任務を完了した後、両艦は1931年にスクラップとして廃棄されました。同級のネームシップである「ブラウンシュヴァイク」は1932年に、「エルザース」は1936年にそれぞれ代艦として建造された「ドイッチュラント級」装甲艦の就役に伴い破棄されました。
「ヘッセン」のみは標的艦として残され、第二次世界大戦では砕氷船としても運用されました
(標的艦となった「ヘッセン」の概観:by Mercator)
「ドイッチュラント級」戦艦(1906年から就役:同型艦5隻)
(「ドイッチュラント級」戦艦の概観:106mm inn1:1250 by Navis: ようやく実用化がかなった11インチ速射砲を主砲として採用したため、大型の主砲塔を搭載しています)
同級はドイツ帝国海軍が建造した最後の前弩級戦艦です。前級「ブラウンシュヴァイツ級」と同一戦隊を組むという前提で建造されたため、基本設計は前級に準じた、拡大改良版です。前級が武装過多から安定性に欠けるという課題を指摘されたため、同級では艦橋の簡素化や副砲塔の廃止が行われました。副砲は全て舷側のケースメートに収められましたが、装薬の改良により射程が22000メートルまで延伸されています。(従来装薬では145000メートル)
1906年から1908年にかけて就役し、前弩級戦艦としては最新の艦級でしたが、就役時には既に弩級戦艦の時代が到来していて、就役時には旧世代艦と見做されていました。
第一次世界大戦の最大の海戦であったユトランド沖海戦には第二戦艦戦隊として同級の5隻と「ブラウンシュバイク級」の「ヘッセン」が序列され、英戦艦隊の追撃を受け苦戦していたヒッパー指揮のドイツ巡洋戦艦戦隊の救援に出撃しています。この救援戦闘で同級の「ポンメルン」が英艦隊の砲撃で損傷し、その後英駆逐艦の雷撃で撃沈されました。
前級と同様に1917年には戦艦籍から除かれました。ネームシップの「ドイッチュラント」は宿泊艦となり状態不良のまま1922年に解体されました。残る「ハノーファー」「シュレージエン」「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」が新生ドイツ海軍で保有を許され、その主力艦となったわけですが、1930年代に上部構造や煙突の改修などの近代化改装を受けて、艦容が一変しています。
ワイマール共和国海軍時代の「シュレージエン級」戦艦:
「ハノーファー」「シュレージエン」「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」
(手前から近代化改装後の「ハノーファー」「シュレージエン」「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」)
前述のように、同級はヴェルサイユ条約で保有を認められ、第一次大戦で戦没した「ポンメルン」と状態不良の「ドイッチュラント」を除く「ハノーファー」「シュレージエン」「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」の3隻がワイマール共和国海軍(新生ドイツ海軍)に編入されました。
ネームシップの「ドイッチュラント」が上述のように状態不良により既に除籍されていたため、この3隻を「シュレージエン級」と呼ぶことが多いようです。
その後ヒトラーが再軍備を宣言し(1935年)併せて英独海軍協定が締結され、事実上の海軍装備に関する制約が解除され新造艦艇が就役し始めると、同級は練習艦に艦種変更されました。
近代化改装後の「ハノーファー」(Neptun製モデル)
近代化改装後の「シュレージエン」(Neptun製モデル)
近代化改装後の「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」(Neptun製モデル)
「シュレージエン級:ドイッチュラント級」の三艦のうち「ハノーファー」は1931年に除籍され無線誘導式の標的艦への改造が計画されましたが実行はされず、爆弾の実験等に使用された後、1944年頃に解体されました。
残る2隻「シュレージエン」と「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」は、第二次世界大戦期には練習艦として就役していて、主としてバルト海方面で主砲を活かした艦砲射撃任務等に従事し、緒戦のドイツ軍のポーランド侵攻では「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」のポーランド軍のヴェステルブラッテ要塞への砲撃が第二次世界大戦開戦の第一撃となったとされています。その後も主砲力を活かした地上砲撃等の任務に運用され、東部戦線での退却戦の支援艦砲射撃等を行っています。大戦末期には「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」は空襲で、「シュレージエン」は触雷でそれぞれ損傷し、自沈処分とされました。
小型巡洋艦「ガツェレ級」6隻と「ブレーメン級」2隻(8隻のうち2隻は予備艦)
列強の巡洋艦開発史の過程で、巡洋艦本来の重要任務としての海外植民地との通商路警備(と破壊)に適応した戦闘力と高い機動性、長い航続力を兼ね備えた防護巡洋艦が一斉を風靡した時期があったことは、本稿では何度も触れてきています。その時期は19世紀終盤から20世紀の初頭にかけてで、海外植民地を多く持たないドイツ帝国海軍では、これに艦隊前衛の偵察任務にあたる通報艦の要素も兼ね備えて小型巡洋艦として具現化されました。
燃料が石炭から重油に転換される過程で、防護構造として船体の軽量化による高機動性の確保を目的として石炭庫を舷側装甲の代わりに用いる防護巡洋艦は構造的に成り立たなくなり、やがて第一次世界大戦期には舷側に軽装甲を貼った軽装甲巡洋艦(=軽巡洋艦)に航洋型巡洋艦設計の主流は移行していくのですが、ワイマール共和国海軍は、あくまで沿岸警備の補完戦力として一時代前の防護巡洋艦の保有が認められました。
(ワイマール艦隊の巡洋艦の中核となった「ガツェレ級』」(手前)と「ブレーメン級」:いずれも3000トン級の防護巡洋艦です:既に列強海軍は軽巡洋艦の整備に注力しており、石炭を主要燃料とする防護巡洋艦は時代遅れでした)
「ガツェレ級」小型巡洋艦(1898年から就役: 同型艦10隻)
(写真は「ガツェレ級」小型巡洋艦のネームシップ「ガツェレ」の就役時の姿:81mm in 1:1230 by Navis: 艦の中央部に指揮艦橋があるなど、旧式の印象があります)
同級は前述の「小型巡洋艦」の艦種名称がドイツ帝国海軍が1898年計画で初めて用いた艦級で、1900年から1904年にかけて10隻が就役しました。
3000トン級の船体に4インチ速射砲10基と18インチ水中魚雷発射管2基を主要兵装として搭載し、20ノットから22ノット程度の速力を発揮する事ができました。
(同級の最終艦「アルコナ」の概観:艦橋は艦首部に設置されていますが、マストの位置などが、やはりひと世代前の印象を与えます)
第一次世界大戦期には既に旧式艦と見做され第一線戦力からは外れ沿岸防備艦、母艦、係留施設などとして使用されていましたが、3隻の戦没艦と1隻の損傷艦を除く以下の6隻がワイマール共和国の新生海軍に再び巡洋艦として序列されることになりました。
「ニオべ」「ニンフェ」「テーティス」「アマツォーネ」「メドゥーサ」:予備艦1隻「アルコナ」(当初北海での掃海艦業務に従事、のち巡洋艦に復帰?)
「ブレーメン級」小型巡洋艦(1903年から就役:同型艦7隻)
(「ブレーメン級」小型巡洋艦の概観:88mm in 1:1230 by Navis: 機関の増強等により煙突が3本になっています)
同級は前述の「ガツェレ級」小型巡洋艦に続き1903年計画で建造された艦級で、7隻が建造されました。ドイツ帝国の巡洋艦として、初めて艦名に都市名が採用されました。
基本的な兵装等は前級「ガツェレ級」を踏襲しましたが、防護甲板の装甲厚強化、缶数の増加、石炭積載量の増加等により、船体は3500トン級に拡大されました。機関の増強により22ノットから23ノット程度の速力を発揮する事ができました。
第一次世界大戦で2隻が戦没し3隻が戦後解体されました。残る2隻が新生ワイマール艦隊に残ることとなりました。
(「ブレーメン級」の「ベルリン」(右)は艦首の衝角を撤去して艦首形状を改めています)
「V -1級」大型水雷艇12隻と「S -138級」大型水雷艇4隻(?)
ドイツ帝国海軍では「駆逐艦」と「水雷艇」の艦種定義が明確ではありませんでした。そもそも「駆逐艦」は19世紀後半に大型装甲艦への攻撃手段として性能の上がりつつあった魚雷を積んで高速で肉薄する「水雷艇」への対抗艦種として生みだされたものでした。当初、列強は「水雷砲艦」等、高速で接近する「水雷艇」を火力で撃攘する専任艦種を模索しますが、結局は高機動性に対抗するにはそれを上回る高機動性が必要という結論に至り、大型の水雷艇をこの用途に当てることが定着しましたので、明確な定義づけ自体が不要だった、ということだったのかもしれません。
ワイマール共和国海軍はドイツ帝国海軍の大型水雷艇の1911年型(V-1級)12隻を引き続き使用することを認められました。加えて「S-138級」水雷艇4隻も駆逐艦としての保有が認められました。(定数12隻と予備艦4隻)
「V -1級」(1911年型)大型水雷艇(1912年から就役:同型艦26隻)
(ワイマール共和国の発足時駆逐艦の主力を構成した「V 1級」大型水雷艇の概観:59mm in 1:1250 by Navis)
同級は1911年計画で建造された大型水雷艇の艦級です。600トン弱の船体に3.5インチ砲(88ミリ砲)を主砲として2基、20インチ魚雷発射管を4基装備しています。3基の石炭専焼缶と1基の重油専焼缶を搭載し、初めて蒸気タービンを装備した艦級で、32ノットを発揮する事ができました。1912年から1913年にかけて26隻が就役し、8隻が戦没しています。
ワイマール共和国海軍にはV1、V2、V3、V5、V6、G7、G8、G10、G11、S18、S19、S23の12隻が継承されました。
「S-138級」(1906年型)大型水雷艇(1907年から就役:同型艦65隻)
(「S-138級」大型水雷艇の概観:59mm in 1:1250 by Navis)
同級は1906年計画で建造された大型水雷艇の艦級です。1906年から1911年のかけて65隻が就役しています。建造期間が長く搭載機関は石炭専焼缶4基とレシプロエンジンの組み合わせ(S138-160 )、石炭専焼缶3基と重油専焼缶1基と蒸気タービンの組み合わせがあり、30ノットから32ノットの速力を発揮する事ができました。兵装にもヴァリエーションがあり3.5インチ砲1基と2インチ砲2基もしくは3基の組み合わせか、3.5インチ砲2基のいずれかの砲兵装に魚雷発射管3基を装備していました。これらのヴァリエーションにより船体は番号が進むにつれ大型化しています。
12隻が戦没し、第一次世界大戦後、多くが賠償艦として戦勝国に引き渡されています。日本もV181を受領しています。ワイマール共和国海軍には駆逐艦として4隻(G175、V185、V190、V196)が継承されました。
**記録を見る限り、上記の4隻を含め18隻がワイマール共和国海軍に引き継がれているようです。無線操縦の標的艦として使用されたものもあれば測距訓練艦、高速曳航船として使用されたものもあり、多岐に渡り使用されていたようです。
(上の写真はワイマール共和国海軍草創期の駆逐艦「V−1級」と「S-138級」の比較)
ヴェルサイユ体制では、沿岸水雷艇(coastal torpedo boat)に200トンという排水量制限を設け12隻の保有を認めていました。しかし筆者はこの艦種についてはあまり資料が見つけられていません。
ドイツ帝国海軍は「A級」という名称で100トンから350トン前後の同艦種を92隻を建造しています。おおむね3.5インチ砲(88ミリ砲)を1基乃至2基搭載し、18インチ魚雷発射管1基を装備していました。サイズの差は機関の際によるところが大きく、20ノットから28ノット程度の速力を発揮できたようです。
(当初沿岸水雷艇の候補と目していた「A級」水雷艇の概観:50mm in 1:1250 by Rhenania: 実際にはこの比較的艦齢の若い小型水雷艇群は戦後の周辺国への賠償に充てられ、新生ドイツ海軍=ワイマール共和国海軍には、残りませんでした。下の写真は、ワイマール共和国海軍の駆逐艦となった「V 1級」大型水雷艇との大きさの比較)
しかし資料をあたった限りではこのクラスの残存艇の多くは、第一次世界大戦後、賠償艦として供出されており、新生海軍に残留したという記録を見つけるに至っていません。このクラスを含めそれ以前も含め多くの同種の沿岸水雷艇をドイツ帝国海軍は運用していたのですが、どの艦級(あるいはどの艦)が継続して運用されたのか、今しばらく調べてみたいと考えています。条約の制約からくる兵員不足も深刻だったようですので、あまり積極的に運用されなかったのかもしれません。
番外:標的艦「ツェーリンゲン」
(上の写真:標的艦「ツェーリンゲン」の概観 bt Mercator:下の写真は標的艦「ツェーリンゲン」(奥)と「ヴィッテルスバッハ級」戦艦の比較)
同艦はヴェルサイユ条約で廃艦されることとなった「ヴィッテルスバッハ級」前弩級戦艦の1隻ですが、1920年にハルクとして使用するために武装解除されたのち、1926年に無線誘導式の標的艦として運用される事が決まりました。この誘導艦が「ブリッツ」と改名された前出の「S-138級」水雷艇の一隻「S141」でした。
代艦建造の開始とその制約
ここまで、ヴェルサイユ条約体制下で当初保有が認めらた艦艇をみてきたわけですが、同条約はこれらの艦艇について、一定の艦齢に達したものについて代艦の建造を認める、艦艇の更新条項も含んでいました。その条項では保有装甲戦闘艦・巡洋艦については艦齢20年を超えた場合、駆逐艦・水雷艇については艦齢15年を超えた場合についてを建造する事ができましたが、代艦の建造については設計に制限が課されていました。
装甲戦闘艦の代艦は一万トン以下の排水量、巡洋艦は6000トン以下、駆逐艦は800トン以下、水雷艇は200トン以下という制約があり、上掲の保有数の制限と併せて、沿岸防備海軍以上の規模の海軍をドイツが保有することを認めないものでした。
そしてこの制約の元、駆逐艦は1925年から、巡洋艦については1920年から、そして装甲艦は1924年から、順次、代艦への更新が進められることになります。
最初の代艦建造
(軽巡洋艦「エムデン」の概観:125mm in 1:1230 by Neptun)
同艦は巡洋艦「ニオべ」(1900年就役)の代艦として新生ドイツ海軍(ワイマール海軍)が初めて建造した大型軍艦でした。折から、敗戦の戦後賠償が国民に大インフレとして現れる真っ只中でした。ヴェルサイユ条約での巡洋艦代艦の制限枠に忠実に6000トンの船体に6インチ単装速射砲8基、50センチ連装魚雷発射管2基を搭載した、更新巡洋艦として兵装には特に目立った特徴のある艦ではなく、手堅い設計でした。
当初設計では主砲は連装砲塔4基の形式で搭載される予定でしたが、連合国の監視委員会が承認しなかったという経緯があったようです。
(「エムデン」の主要兵装の拡大:主砲は盾付きの単装砲架式で首尾線上に4基、両舷に2基づつ配置されていました。原案では連装砲塔4基で搭載する予定だったようですが、連合国の監視委員会から承認が受けられず、オーソドックスな配置に落ち着いたとか))
その一方で、従来のリベット留めに対し電気溶接を多用して船体の軽量化を図り、機関は石炭・重油の混焼ながら初めてギアード・タービンを採用し速力は30ノット弱に甘んじましたが航続距離を稼ぐなど、幾つかの新基軸を取り込んだ設計で、その後のドイツ艦艇の設計の基盤の発端となった艦でした。
駆逐艦の更新
1923年型駆逐艦(同型艦6隻)・1924年型駆逐艦(同型艦6隻):1926年から就役
(「1923年型」駆逐艦の概観:71mm in 1:1230 by Neptun)
「エムデン」に続いて更新されたのは駆逐艦でした。前述のように代替駆逐艦には800トン以下という排水量の制限があり、同時期に列強が1200トン級の駆逐艦整備を競っていたことを考えると、設計された「1923年型」は小型駆逐艦の分類の相当しやや非力と言わざるを得ませんでした。主要兵装は4インチ単装砲3基、50センチ三連装魚雷発射管2基で、33ノットの速力を発揮することができました。
1924年型はやや艦型を大型化し速力も1ノット向上しました。当初、列強駆逐艦並みの5インチ砲を主砲として搭載する予定でしたが、列強の反対にあい、前級同様の4インチ砲にとどめた経緯があったようです。
(「1924年型」駆逐艦の概観:75mm in 1:1230 by Neptun:下の写真は「1923年型(手前)と「1924年型」の比較)
1923年型・1924年型合わせ12隻が建造され、旧式駆逐艦は第一線から姿を消しました。
軽巡洋艦の更新
「ケーニヒスベルク級」軽巡洋艦(1924年度計画):「ケーニヒスベルク」「カールスルーエ」(1929年就役)「ケルン」(1930年就役)
(「ケーニヒスベルク級」軽巡洋艦の概観:140mm in 1:1230 by Neptun)
前述の駆逐艦の更新と同時期に、軽巡洋艦の代艦建造計画が進められました。(巡洋艦「テーティス」「メドゥーサ」「アルコナ」の代艦)
新生ドイツ海軍が建造した最初の軽巡洋艦「エムデン」がどちらかというと保守的な設計であったのに対し、これに続いて設計された同級は大変意欲的な設計でした。船体は条約制限いっぱいの6000トン級を遵守したものでしたが、機関は重油専焼とした上で、ギアード・タービンと巡航用のディーゼルの組み合わせとして高速航行と長い航続距離の確保を両立しています。速力は32ノットを発揮することができました。船体は広範囲に電気溶接を使用して軽量化が図られました。
兵装には25000メートルという大射程を誇る新型60口径6インチ砲をこちらも新設計の三連装砲塔形式で3基、9門を搭載していました。三連装主砲塔は艦首に1基、艦尾部に2基が搭載されましたが、艦尾部の主砲塔は艦首方向への射線を確保するためにややオフセットされた位置に搭載位置が工夫されていました。
(「ケーニヒスベルク級」軽巡洋艦の主砲塔・その他兵装の拡大。軽巡洋艦で3連装砲塔形式で主砲を搭載したのは、世界初ではなかったかと:艦尾部の主砲塔がオフセット配置されています(右縦写真)。狙いは右舷前方方向への艦尾砲塔の射角拡大だったとか)
88ミリ連装高角砲2基と50センチ三連装魚雷発射管4基を搭載しています(後に魚雷口径を53.3センチに強化)。さらに機雷敷設能力も有し、万能巡洋艦として就役しました。
(「ケーニヒスベルク級」の3隻:手前から「ケーニヒスベルク」「カールスルーエ」「ケルン」の順)
「ライプツィヒ級」軽巡洋艦(1927年度計画):「ライプツィヒ」(1931年就役)「ニュルンベルク」(1935年就役)
(軽巡洋艦「ライプツィヒ」の概観:141mm in 1:1230 by Neptun)
上掲の「ケーニヒスベルク級」軽巡洋艦3隻に続いて、巡洋艦「アマツォーネ」「ニンフェ」の代艦として同級は建造されました。
基本設計は「ケーニヒスベルク級」を継承しましたが、いくつかの改良が行われました。
(軽巡洋艦「ライプツィヒ」の主砲塔・その他兵装の拡大。前級「ケーニヒスベルク級」では艦種方向への主砲射角の確保のために艦尾主砲等のオフセット配置が試みられましたが、船体構造への負担が大きく、行動に制限が生じるほどの欠陥となったため、配置は首尾線上への配置に改められました(右縦写真))
前級のケーニヒスベルク級」は強力な万能偵察巡洋艦を目指し多くの新基軸が設計に盛り込まれました。その一つが軽量化のための電気溶接であり、もう一つが艦首方向への火力確保のための艦尾部砲塔のオフセット配置だったのですが、実はこの組み合わせが艦体強度不足として現れていました。艦尾部主砲塔のオフセット配置による重量不均衡と軽量化構造により荒天時に船体に亀裂が発生するという事故が発生していましt。このため「ケーニヒスベルク級」はバルト海と北海に行動を制限され、同級の重要な任務と想定される通商破壊戦に参加できないという問題が発生していました。
「ライプツィヒ級」ではこれを解消するため、主砲塔のオフセット配置を廃止し、首尾線上の配置とし、船体構造が強化されたため、条約制限の6000トンと公称されましたが、実際にはやや制限をオーバーして完成しました。
(「ケーニヒスベルク級」(左列)と「ライプツィヒ」の艦主要部に比較。煙突が集合煙突に。上述のように艦尾部の主砲等のオフセット配置が廃止され、艦尾の形状も改められました。構造強化もあって結果的に6000トンの制限をやや超過することに)
機関は前級同様、ギアード・タービン(蒸気)と巡航用のディーゼルの組み合わせとして高速航行と長い航続距離の確保を目指しましたが、前級の二軸推進から三軸推進とし32ノットの速力を発揮することができました。
二番艦「ニュルンベルク」
二番艦「ニュルンベルク」では艦橋構造が大型化され、さらに対空兵装を倍増するなど、さらに船体が大型化しています。同艦の建造中にナチス政権が成立し、再軍備、ヴェルサイユ条約の破棄をある程度見据えた設計変更が行われたと考えています。
(軽巡洋艦「ニュルンベルク」の概観:146mm in 1:1230 by Neptun:下の写真は「ライプツィヒ」(左列)と「ニュルンベルク」の比較。同型艦と言いながら、かなり差異があるのがわかります。上段写真では艦橋がかなり大型化しています)
(下の写真は「ライプツィヒ」(手前)と「ニュルンベルク」の概観比較)
(下の写真はワイマール共和国海軍が建造した軽巡洋艦群:手前から「エムデン」「ケーニヒスベルク級3隻」「ライプツィヒ」「ニュルンベルク」の順)
そして、ついに主力艦の更新時期が訪れた:「ポケット戦艦」の誕生
1924年、ワイマール共和国艦隊の主力艦「ブラウンシュヴァイク級」3隻の艦齢が代艦建造可能な20年に達します。これを見越して海軍首脳部は1920年頃から装甲戦闘艦の代替艦の設計の研究を始めます。代艦の建造にあたっては「10000トン以下であること」という制限がありました。これは明らかに前弩級戦艦的な設計を想定したもので、新生ドイツ海軍がバルト海沿岸の警備海軍に徹するという狙いにたてば強力な海防戦艦を建造できることを意味していましたが、これが同時にドイツ海軍をバルト海沿岸の警備海軍に留めておくという戦勝国の狙いでもあったと考えられます。
設計案は実に多岐に渡ったようで、本稿でご前々回、ご紹介した書籍「海防戦艦」に記載されているものだけで、実艦も含め20案に及びます。
(上の写真は本稿で前々回の投稿でご紹介した橋本若路氏の著作「海防戦艦」に掲載された「ポケット戦艦」開発に至る数々の設計案の資料です。併せて下の写真は代表的な思案の図面スケッチ:こちらも同書に掲載されています)
上図を少し、「海防戦艦」での記述に従って整理しておきましょう。
背景として理解しておくべきことは、計画当初はワイマール共和国海軍の仮想敵がフランスとポーランドであったことと、一方で1921年に締結されたワシントン軍縮条約で、「10000トン以下の排水量で、5インチ以上、8インチ以下の口径の主砲を持つ」という巡洋艦の定義が生まれたこと、この二つだと考えています。
II/10(左上): 1923年提出:38センチ連装砲塔2基を主砲として搭載し、速力を22ノットとしたバルト海向けの前弩級戦艦的な海防戦艦案。兵装は強力ですが機動力が不足している、という評価だったようです。
I/10(左中段):1923年提出:上記とほぼ同時期に提出された巡洋艦案で、21センチ連装砲塔4基を主砲として搭載し、速力を32ノットとしていました。いわゆる条約型巡洋艦を意識した設計だと思われますが、主力艦の代替としては装甲が不十分、という評価でした。
II/30(左下):1925年提出:30.5センチ連装砲塔3基を主砲として搭載し、速力を21ノットとした弩級戦艦的な海防戦艦案でした。この辺りから航続力を重視して、主機はディーゼルとされました。
I /35(右上):1925年提出:35センチ三連装砲塔1基を主砲として、副砲に15センチ連装砲塔2基を完備に搭載。速力を19ノットとしたモニター案で、重装甲でした。ヴァリエーションとして装甲を減じて速力を上げた案もあったようです。
V II/30(右中段):1925年提出:30.5センチ連装砲塔2基を主砲とし、15センチ連装砲塔3基を副砲として搭載。24ノットの速力とした高速海防戦艦案でしたが、戦艦としては装甲が不十分、巡洋艦としては速力が不足していました。
これらの諸案に対する検討も含め、1926年の演習の結果、目指すべきが「外洋航行に適した装甲巡洋艦型の艦船」か、「沿岸水域を防御する海防戦艦的性格の艦船」か、が議論され、前者を目指す、という結論が出されました。
そして1926年に提出された試案が次のI/M26案でした。
I/M26(右下):28センチ三連装砲塔2基を主砲とし、速力を28ノットとした、速力で列強の戦艦に勝り、火力で条約型巡洋艦を圧倒できる、というのちの「ポケット戦艦」のコンセプトが具現化された設計でした。
これで方針がすんなり決まったかというと、どうもそうではなく、1927年にも海防戦艦案、モニター案等も提出されています(ちょっと文字が小さいですが、上掲の表をご覧下さい。あるいは、もちろん同書をお求めいただければ。特に宣伝費等をいただいているわけではないですが、本当に凄い書籍です。そりゃもう、嬉しくて、嬉しくて・・・)。
「ドイッチュラント級」装甲艦(192?年度計画:「ドイッチュラント」(1933年就役)「アドミラル・シェーア」(1934年就役)「アドミラル・グラーフ・シュペー」(1936年就役)
(「ドイッチュラント級」装甲艦の一番艦「ドイッチュラント」の概観:150mm in 1:1230 by Neptun)
上記のような試行錯誤を経て、同級はヴェルサイユ条約での規定の艦齢を迎えた「ブラウンシュバイク級」前弩級戦艦の代替艦として建造されました。
10000トン級のいわゆる条約型重巡洋艦並みの船体に、重巡洋艦を上回る砲撃力を搭載し、併せてディーゼル機関の搭載により、当時の列強の標準的な戦艦を上回る速力と長大な航続距離を有する戦闘艦が生み出されました。
10000トンの制約の課せられた船体の条件から、実態としては、戦艦というには装甲は不十分なものでしたが、小さな船体と強力な砲力から、「ポケット戦艦」の愛称が生まれました。
(「ドイッチュラント級」装甲艦の一番艦「ドイッチュラント」主要部分の拡大:大きな主砲塔がやはり特徴でしょうか。艦尾部に置かれている魚雷発射管も)
同級の持ち味は、なんと言ってもディーゼル機関の採用による長大な航続距離と、28ノットの高速を発揮できることで、明らかに長い航海を想定した外洋航行型の装甲戦闘艦でした。この艦が通商破壊活動に出た場合、条約の制限内で指定された11インチ主砲は、その迎撃の任に当たる当時の列強の巡洋艦に対しては、アウトレンジでの撃破が可能でしたし、27−28ノットの速力は、列強、特に英海軍。米海軍の戦艦を上回わるものでした。これを捕捉できる戦艦は、当時は英海軍の「フッド」と「リナウン級」の巡洋戦艦、あるいは日本海軍の「金剛級」高速戦艦くらいしか、当時は存在しませんでした。
沿岸警備海軍の装甲海防艦にとどめておくはずの制約が逆手に取られ、列強の軍縮条約下で生まれた「条約型巡洋艦」という定義に潜むエアポケットのような隙間をつき列強の通商路を脅かす戦闘艦が生まれたのでした。
二番艦「アドミラル・シェーア」
(写真は大改装後の概観:艦首形状、艦橋が装甲艦橋から「ドイッチュラント」のような塔形状に改められています。煙突にファネル・キャップも)
三番艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」
(同艦は大戦劈頭の通商破壊戦に出撃したのち、戦果を上げながらもラプラタ沖海戦で英海軍の巡洋艦部隊と交戦。損傷を受け自沈し戻りませんでした。写真は就役時の姿(?)おそらく最期までこの姿から大きな変更はなかったはず。装甲艦橋が勇壮ですね)
ポケット戦艦(装甲艦)3隻
ある意味、ヴェルサイユ条約の制限下で生まれたワイマール共和国海軍を代表するような艦級だと考えています。ポケット戦艦の俗称が有名ですが、ドイツ海軍の正式艦種名は「装甲艦」です。この名称も連合国の監視委員会を刺激しないよう、あえて「戦艦」と呼称しなかったとか。
(3隻の「ドイッチュラント級」装甲艦:手前から「ドイッチュラント」「アドミラル。シェーア」「アドミラル・グラーフ・シュペー」:下の写真は3隻の最も相違点が表れている艦橋周りから煙突周辺を拡大)
こうして、ワイマール共和国海軍の主要艦艇の更新は「シュレージエン級」前弩級戦艦3隻を残し、全て完了します。
(「ドイッチュラント級」装甲艦の就役後も艦隊に止まった「シュレージエン級」戦艦:手前から「ハノーファー」「シュレージエン」「シュレスヴィヒ・ホルスタイン」)
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の台頭とワイマール共和国の終焉
これらの代艦建造は、実は第一次世界大戦の戦後処理、ドイツにとっては重度の戦後賠償の実行とそれに伴う極度のインフレ、さらには世界的に発生した恐慌という厳しい経済事情下で行われたのです。同時期に、ドイツ国内ではこれらの混乱状況の中で、ヒトラーが率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権を掌握し、1934年にヒトラーは首相に就任、さらに1935年には大統領の権限も吸収し国家元首に就任します。こうしてワイマール共和国体制は終焉を迎えたのでした。
ヒトラーは1935年3月にヴェルサイユ条約の破棄と再軍備宣言を行い、6月には英独海軍協定を締結し、事実上、海軍に関する軍備制限は撤廃されたのでした。
再軍備宣言と英独海軍協定の締結に伴い、ドイツ海軍は潜水艦の保有も認められ、制約のない大型軍艦の建造へと進んでゆくことになります。
今回登場した艦艇群について言うと、代艦駆逐艦として建造された「1923年型」駆逐艦、「1924年」型駆逐艦は、ナチス政権の成立ともに制限廃止を見込んだ「1934年型」大型艦隊駆逐艦の建造着手と共に艦種が「水雷艇」に変更されました。
強化型装甲艦の建造計画:「D級」装甲艦計画
主力艦について見ると、その登場が列強海軍に衝撃を与えた前出の「ドイッチュラント級」装甲艦(ポケット戦艦)に続き、上記の軍備制約の破棄の交渉中に、更新艦齢を迎えた「シュレージエン級」前弩級戦艦の代艦の設計が動き始めます。これが「D級」装甲艦でした。
この2隻の設計にあたっては、それに先立ち「ドイッチュラント級」装甲艦の登場に対抗して、フランス海軍が高速戦艦「ダンケルク級」の建造に着手したとの情報を入手し、これに対抗すべく軍備制約の撤廃を見越した「ドイッチュラント級」の拡大改良型を建造することとして「ドイッチュラント級」の設計を見直しました。
設計案の図面各種
上掲はWikipedia「シャルンホルスト級」の項に記載されている装甲艦D,Eの完成構想図です。おそらく史実ではこの案が1934年に起工された「D級」装甲艦であろうと思います。
もう一案、下図は「ドイッチュラント級」装甲艦の拡大案ともいうべきもの。World of Warshipに掲載されていたものをお借りしています: Deutscher Baum, Panzerschiffe - Vom Einbaum zum Supertanker: Schiffe - World of Warships official forum
掲載仕様を見ると21000トン、32ノット、主砲と背負い式に配置された三連装副砲塔と中央部に集中された高角砲が特徴かも。上図にも書き込みがあるように、防御装甲が施されているようです。
以下にご紹介しているモデルは、両者の折衷案を意識して作成しています。
「D級」装甲艦(同型艦2隻:1934年起工・同年工事中止:計画時の仮艦名:D,E)
(「D級」装甲艦の概観:186mm in 1:1230 by D's Ships & Bunkers)
同級は強化型装甲艦、つまり「ドイッチュラント級」装甲艦の強化型という主旨で設計案が検討され、1034年に一旦起工されましたが、この間にヴェルサイユ体制が破棄されたため、より強力な「シャルンホルスト級」の建造に移行した結果、工事は中止、建造には至りませんでした。つまり未成艦、というわけです。
「D級」装甲艦は前述のように強化型装甲艦の名の通り、前級である「ドイッチュラント級」装甲艦(10000トン級)の強化拡大型として設計されたため、20000トン級の船体が想定されました。設計当時、ドイツ・ワイマール共和国はまだヴェルサイユ体制下の軍備制限を受けていましたが、ナチスの台頭等による軍備制限破棄を想定した設計でした。「ドイッチュラント級」装甲艦同様、巡航性に優れた巡洋艦的な船型を持ち、大型のディーゼル機関から長大な航続距離と30ノットの高速を発揮できる性能を兼ね備えていました。
前級「ドイチュラント級」が「ポケット戦艦」の異名を持ちながらも、その実態は10000トンの制約の課せられた船体の条件から戦闘艦としての防御装甲は全く不十分で、その点を「D級」では格段に強化されていました。
武装は「通商破壊艦」という主旨から敵性巡洋艦の撃破、あるいは回避戦闘を想定すればよく、大口径砲は控えめに「ドイッチュラント級」と同様に11インチ3連装砲塔2基を搭載していました。しかし搭載された11インチ砲は長砲身の新設計55口径(ドイッチュラント級」には52口径)で、長射程と高初速を有しており、最長射程は40000メートル、15000メートルの距離であれば英海軍の当時の主力戦艦であった「クイーン・エリザベス級」「リベンジ級」の装甲を打ち抜く事ができるとされていました。
一方で通商破壊戦での商船の制圧、撃破を想定し、副砲として6インチ3連装砲塔2基を搭載し両舷に対し6射線を確保、さらに4インチ連装高角砲8基(片舷8射線)を装備し、中口径砲での戦闘にも重点を置いた砲兵装が想定されていました。さらに4連装魚雷発射管2基と、水上偵察機2機を搭載していました。
(「D級」装甲艦の主要部分の拡大:艦種部に3連装11インチ主砲塔と同じく3連装6インチ副砲塔(写真上段)、艦中央部に対空兵装と魚雷発射管、航空艤装(写真中段)、艦尾に3連装副砲塔と同じく3連装主砲塔(写真下段)、と並走配置は大変オーソドックスです。3連装副砲塔は軽巡洋艦で既に実績があった物を採用し、両舷に対し6射線を確保しています)
「D級」装甲艦の計画は上述のように「シャルンホルスト級」戦艦へと発展してゆきますが、Z計画には有力な二つの柱がありました。一つは強力な決戦艦隊の整備による英海軍主力艦の撃滅であり、それらは本稿前回でご紹介した「H級」戦艦として整備される予定でした。
もう一つは、上記の艦隊決戦により英艦隊による海上の封鎖線を解き、そこから広範囲に向けて浸透した潜水艦・通商破壊艦を用いた通商破壊戦の展開であり、英国を屈服させるには、こちらの有効な展開にこそ、戦争そのものへの勝機を見出すことができるはずでした。
モデル的な視点で
少し模型的なお話をしておくと、今回のモデルは下の写真の3D prinnting modelをベースとしています。
このモデルはebayで入手したもので、D's Ships & Bunkersという出品者が出品されているものです。1:1200スケールですが、3D printing modelの柔軟さで、発注の際に但し書きで「1:1250スケールで欲しい」と但し書きすれば、対応してもらえます。実際にebayでもこの出品者は1:700スケールなどでも艦船モデルを出品されており、サイズ対応には慣れていらっしゃるような印象です。
モデルは標準的な3D printing modelクオリティですので、武装等はややシャープさにかけます。ですので今回のモデル作成では、主要な武装(主砲・副砲・高角砲・魚雷発射管)は全て筆者のストックパーツに置き換え、さらに装甲艦的な重厚さを与えたモデルにしたかったので、「装甲艦グラーフ・シュペー」式の装甲前檣を持たせるなど、結構大掛かりに手を入れることになりました。
(今回のモデルで筆者が手を入れた部分の拡大:主砲塔・副砲塔はストックパーツからNeptun製のものを流用しています。前檣・魚雷発射管はいずれおHansa製のモデルから、特に前檣は「グラーフ・シュペー」の装甲前檣を移植しています。クレーンや対空砲はAtlas製のモデルから拝借しています。下の写真では参考までにモデルのオリジナルの状態を)
史実は、装甲艦から中型戦艦へ
「シャルンホルスト級」戦艦(1938年から就役:同型艦2隻:計画時の仮艦名:D,E)
「D級」装甲艦の起工直後に、再軍備宣言を踏まえたヒトラーがさらに大型化した設計案を承認したために建造は取り消され、結局、同級は26000トン、30ノットの中型戦艦として建造計画が見直されることとなりました。
こうして生まれたのが「D級戦艦」=「シャルンホルスト級」戦艦です。
(上の写真は「シャルンホルスト級」の竣工時の姿:186mm in 1:1250 by Neptun:就役時には垂直型の艦首でした)
同級は第一次世界大戦期の未成巡洋戦艦「マッケンゼン級」をタイプシップとして設計されました。
(タイプシップとされた未成巡洋戦艦「マッケンゼン級」の概観:178mm in 1;1250 by Navis)
設計当初は通商破壊を大目的として長い航続力を保有する「ドイッチュラント級」装甲艦の拡大型として26000トン級の船体と30ノットの速力を有するディーセル機関搭載艦として設計されましたが、当時の大型のディーゼル機関については高速性、安定性に信頼性が低いとして最終的には蒸気タービン艦として建造されました。設計が数度変更され、最終的には32000トンまで船体が拡大され、31ノットの速力を発揮する事ができました。
(就役時の「シャルンホルスト級」の細部拡大:垂直型の艦首と55口径28センチ三連装主砲塔(上段):副砲は連装砲塔と単装砲の組み合わせで片舷6門づつ搭載されています(中段):当初はカタパルト2基を搭載して居ました(下段))
当初、主砲にはフランス海軍の「ダンケルク級」戦艦を凌駕することを意識して38センチ連装砲が予定されていましたが、38センチ砲の開発に時間がかかることから、元々、前出の強化型装甲艦である「D級」装甲艦に搭載する予定の長砲身の新設計55口径28センチ砲が搭載されました。
艦首形状をアトランティック・バウに改修
同級は当初、垂直型の船首形状をしていましたが、凌波性に課題があり、かつ高速航行時に艦首からの飛沫が艦橋部にまで及び漏水等の障害が発生したため、アトランティック・バウに改修されました。
(上の写真:アトランティック・バウに艦首形状を回収した後の「シャルンホルスト級」戦艦の概観:写真は二番艦「グナイゼナウ」:188mm in 1:1250 by Neptun)
(上の写真は一番艦「シャルンホルスト」の垂直型艦首(手前)とアトランティック・バウへの改修後の比較:やや全長が伸びています/下の写真は「シャルンホルスト」の垂直型艦首(左列)とアトランティック・バウへの改修後の細部比較:「シャルンホルスト」では艦首形状はもちろん(上段)、マスト位置やカタパルト設置数などに変更が見られました(中段・下段))
主砲換装計画(計画のみ:いわゆる未成艦に分類されるかと:模型ならではのご紹介)
同級は上述のように当初38センチ主砲搭載予定を、建造時間の短縮から28センチ砲に変更して完成されました。後に38センチ砲搭載の「ビスマルク級」戦艦が登場すると、「ビズマルク級」と同じ47口径38センチ主砲への換装計画が検討されましたが、最後まで実施されませんでした。
(上の写真は「シャルンホルスト級」38センチ主砲搭載案の概観:198mm in 1:1250 by Neptun:このモデルを見る限り、艦首部が延長されています)
(上下の写真は「シャルンホルスト級」38センチ主砲搭載案(奥)と実際の28センチ主砲塔装備の対比概:まず艦の全長に大きな差異が見られます(上の写真)。下の写真は38センチ主砲搭載案(右列)と実際の28センチ主砲塔装備の細部比較:当然のことながら主砲塔の大きさ、主砲砲身の長さにも差異があり(上段・下段)、これらが艦首延長にも繋がるのかと)
こうした場合「イフ」は禁忌であるということは重々承知の上で、もし当初の設計通り38センチ砲が主砲として採用されていたら、あるいは上述の計画のように38センチ砲への主砲換装が行われていたら、「シャルンホルスト」の最後の出撃となった「北岬沖海戦」で、奇しくも「ビスマルク」が撃破した「プリンス・オブ・ウェールズ」の姉妹艦「デューク・オブ・ヨーク」と、38センチ主砲を装備した「シャルンホルスト」がどのような様相の戦いを行ったのか、とついつい想像してしまいます。
しかし「シャルンホルスト級」は通商破壊艦である装甲艦の発展形という出自もあり、あわせて上述のように当初搭載予定の38センチ主砲の開発が間に合わないという事情もあり、諸列強の新造戦艦の設計に対しては見劣りがし、より強力な本格的な戦艦の建造が渇望されました。
こうした背景から建造されたのが、再生ドイツ海軍最初の本格戦艦である「ビスマルク級」でした。
・・・が、ここからはまさに新生ナチス・ドイツ海軍の話になるので、また別の機会に。
ということで、第一次世界大戦敗戦の結果、ヴェルサイユ条約の厳しい制約のもとで誕生したワイマール共和国海軍の主要艦艇とその更新の目的で建造された新造艦を一覧してみました。
次回は前回投稿でご紹介した日清戦争黄海海戦時の日本海軍連合艦隊の第一梯団、いわゆる遊撃隊と言われた坪井船体の巡洋艦のご紹介を予定しています。
もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。「以前に少し話が出ていた、アレはどうなったの?」というようなリマインダーもいただければ。
模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。
特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。
もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。
お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。
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