既にどなたかの文章で目にした記憶もあるが、重複を恐れずに記すと、1:1250スケールは日本でこそ傍流であるが、特に欧州においては多くのメーカのひしめく国際スケールとして認知されている。
その多くは、ダイキャスト製の完成品として販売されている。そのラインナップは実に多岐に渡る。商船、軍艦を問わず、多くの未成艦、計画艦、架空艦までも含み、時代はギリシア・ローマ期まで遡ることができる。
ここでは、その魅力の一端を、主力艦の変遷を、主として日本海軍を軸にして追いながらご紹介できれば、と考えている。
その中には八八艦隊計画や大和級の発展型なども、含まれている。筆者なりの解釈(妄想)を経て、という条件付きの具現化ではあるが。(ご期待に添えるかどうか、そこはどうか寛容な御心で見ていただきたい)
この話の流れに添えば、まずはこのブログのタイトルの背景に掲げた見慣れぬ(あるいは、どこか見慣れた)軍艦の写真について説明しなくてはならない。
なぜなら、これは大和級戦艦の究極形であり、ここへたどり着く主力艦の変遷をたどることが、このブログの当面の目標になると考えているからである。
海上自衛隊 イージス艦 やまと -Aegis BB Yamato-
これは、戦艦大和が大戦を生き残り海自のイージス艦として再生されたなら、という設定で、筆者がセミ・スクラッチしたものである。
FaceBookの”Cancelled, Never Were & What If Ships - Plastic Model Ships”というグループに”Aegis BB Yamato”というタイトルで投稿したところ、かなりの反響をいただいた。皆さん、本当に「大和」は好きだと感じた。
このグループは本来、その表題にもあるように未成艦、計画艦、If艦をプラスティックモデルで製作する人達のグループである。私の投稿は、船体がダイキャスト製、上部構造・砲塔はプラスティック(f-toys製・Atlas製)ということで、ギリギリ、レギュレーションをクリアできていると認識し投稿させていただいた。
もしご興味のある方は、こちらへどうぞ。
https://www.facebook.com/groups/208708329671558/
海自のイージスシステム搭載の大和といえば、故佐藤大輔氏の「征途」が著名だが、私もこの作品から製作の発想をいただいた。
「イージス やまと」の制作にあたっては、そのデザインの段階で、自艦の46センチ主砲の斉射にイージスシステムが耐えられるか、主砲砲口の直下にあるVLSは大丈夫なのか、など、いくつかの疑問を積み残している。また、おそらくVLSの位置は、「大和」原型のバイタルパートの外になってしまっているのだが、大量のミサイルを収納する場所として、本当にそこでいいのか、とも考えた。
ならばいっそ、三番主砲塔を撤去しそこにVLSを集中装備するか、とも考えたが、その末のフォルムを私自身が受け付けなかった。やはりそれでは「大和」ではなくなってしまう。
上記のFaceBookのグループでも「そんなことを考えるなんて、君はなんてやつだ。絶対に主砲は外しちゃダメだ」と、不思議な激励を受けた。
If艦は、If艦で、いい。そういうことなのだろう。
一つストーリーがあるとすれば、イージスシステムが健常に機能している間は、おそらくイージスシステムは主砲を選択しない。全てのミサイルを撃ちつくし、さらにその後に大きな脅威が現れた時にのみ、主砲は選択される。ましてや運用しているのは海上自衛隊である。沿岸部に艦砲射撃、などという場面はまず発生しない。・・・ということに、しておこう。
さて、こうしてイージス艦「やまと」への道程を辿り始めるわけだが、始まりはどこに置こうか、と実は数日の逡巡があった。その時に司馬遼太郎の関ヶ原の冒頭の一文が頭をよぎった。
”ヘンリー・ミラーは、「いま君はなにか思っている。その思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ。そういう具合に話をすすめよう”
では、そのようにはじめよう。
「東艦」-Azuma /ex-Stone Wall-(1864−1888)
やはり最初は「東艦」がふさわしい。
フランス生まれ。アメリカでの南北戦争を経て、ご承知のように幕府によって購入されながら、新政府軍の手に渡り戊辰戦争に参加。中古艦ながら、設計時から種々の新機軸を満載し、問題のあった兵装も日本に回航される前に一新され、函館政府の榎本海軍に対し劣勢にあった新政府の主力艦、期待の星となった。
1:1250スケールの世界では、5センチに満たない小さな艦である。
戊辰後も、佐賀の乱、台湾出兵そして西南戦争と、新生明治海軍の主戦場には必ず彼女の姿があった。
明治初年の、再び司馬遼太郎の言葉によれば「まことに小さな国」の小さな海軍の黎明期の主力艦である
イージスやまとに至る「主力艦」の始まりとしてはいかがなものか、とのご意見もあろうかとは承知するが、なにせ気に入っているのだからご容赦いただきたい。
「東韓」モデルのアップデート(2024.8.4投稿から:文体が違う!)
装甲ブリッグ「東艦」(1864年竣工:1869年新政府(官軍)が購入:同型艦なし)
(装甲ブリッグ「東艦」の概観:40mm in 1:1250 by Brown Water Navy in Shapeways: 3D printingの繊細なモデルです)
ご承知のように同艦の取得経緯には複雑な経緯がありました。
やや乱暴にまとめてしまうと、元々はアメリカ南北戦争時に南軍がフランスの造船所に発注した軍艦でした。しかし北軍からの抗議で引き渡しが不調となり、続いてシュレスウィヒ・ホルスタイン戦争下にあったデンマークへの売却話がまとまりますが、デンマークの敗戦でこの話も頓挫してしまいます。再び南軍が買取を成立させ米国への回航中に南北戦争が集結し、最終的には合衆国の所有となりました。しかし米国は海軍には編入せず宙に浮いていたところを徳川幕府の渡米使節が購入したわけです(「させられた」という表現の方がいいかも)。
しかしこの話も、回航時に徳川幕府の大政奉還に続く維新の騒乱に遭遇して、結局、購入者の幕府側には引き渡されず、新政府軍(官軍)に引き渡されました。
当時は「甲鉄」と命名され、唯一の装甲艦(もっとも装甲と言っても鋼鉄ではなく鋳造された鉄板を木造船体に貼り付けた構造でしたが)として、もともと海軍勢力では旧幕府に対し劣勢にあった新政府海軍の中核艦と位置付けられました。
1300トン級の船体は、本稿でもご紹介した「リッサ海戦(1866年)」でオーストリア艦隊の勝利の決め手となった「衝角攻撃」に特化した設計がほどこされており、艦首に巨大な衝角を備えた特異な形状をしていました。この艦首の衝角での攻撃をさらに有効にするために艦首楼自体を装甲された砲郭として、内部にはアームストロング社製の25.4センチ前装式ライフル砲(300ポンド砲)が装備されていました。
前装式砲は砲口から装填するため、作業効率から滑空砲(施条=ライフリングのない砲)が一般的なのですが(施条に合わせてある種の捻りを加えながら砲弾を押し込む必要があります)、同砲は砲身内に施条が施されており、砲弾も丸い円弾ではなく先端の尖った尖頭弾を用いたため貫徹性と弾道性に優れ、装填の効率性はさておき(尖頭弾を砲口からねじ込むわけですよね)、先進的な砲でした。(そもそもは前装式滑空砲だったという説もあるようですが)
同砲は「東艦」の艦首楼の正正面向きの砲門を定位置として据えられていましたが、この他に左右にも砲門が切られ、艦首の装甲砲郭から広い射界を得る設計でした。しかし実用的には12トンの砲の向きを人力で(戦闘中に)変えるのは相当困難な作業だったと思われます。
(「東艦」の艦首楼の拡大と艦首楼構造の図(左)=石橋孝夫氏の著作「日本海軍の大口径艦載砲」から拝借しています:300ポンド砲は上述のように先進的な砲でしたが、実戦での運用は「衝角戦術」がはまった際のみ?きっと運用が難しい砲だったんじゃないかと)
このように同艦は「衝角攻撃」と言う一点に絞って設計された軍艦だったのですが、補助的な火力として、艦のやや後ろ寄りに円形の砲郭が設けられ、ここに12.7センチ前装式ライフル砲(70ポンド砲)2門が収められていました。この砲郭には4箇所の砲門が切られており、砲郭内のレール上に搭載された砲の位置を移動して砲撃を行う設計でした。しかしわずか2門の砲での砲撃が有効だったかどうか。
(「東艦」の艦中央後後部の砲郭の拡大と砲郭の構造と砲配置の図(右)=石橋孝夫氏の著作「日本海軍の大口径艦載砲」から拝借しています:砲郭内にはレールがあり、砲口を変えることで広い射界を与えられていました。この砲が活躍する状況は「衝角戦術」が不調、あるいはその突進を防ごうと周辺に敵艦が迫ってきた際で、それらの艦の舷側砲からの射撃に1門(なんとか頑張って2門)の砲の反撃が有効だったかどうか)
1300馬力を発揮する機関を搭載し10.5ノットの速力を発揮できました。「衝角攻撃」の確度を高める試みは推進器にも現れており、この時期としては珍しく2軸推進で、直進性に配慮が払われていました。しかし元々が南北戦争当時の米大陸周辺の浅海面での活動を想定した浅喫水の艦でしたので、戊辰戦争当時の戦闘はまだしも、日本海軍編入後の日本近海での活動には、課題があったと思われます。
購入した幕府海軍、あるいはそれを引き継いだ新政府海軍に、同艦の設計目的が理解されていたかどうかは不明ですが、いずれにせよ「衝角攻撃」を実践する場面は一度もなく、戊辰戦争では榎本政権下の陸上砲台と砲火を交えたりしていますが、その後は明治海軍の艦隊に在籍したものの実戦場面に遭遇することなどはなく、1888年に除籍されました。
(文体が2018年と2024年では大きく異なりますが、そこはご容赦を)
さて、最後に、スタートとなった東艦とゴールを予定しているイージス艦「やまと」の比較写真をおまけに。
この二隻の間に、およそ150年の時が横たわっている。あるいは、オリジナルの戦艦「大和」就役までの時間軸でとらえれば、「わずか70年余り」という表現の方が、よりふさわしいかもしれない。
さて、主力艦の変遷をたどる旅、多分、寄り道満載での長丁場になると思われるが、お付き合いいただければ幸いである。
次回は、初代「扶桑艦」とライバル(?)「鎮遠」、その周辺