相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

オーストリア=ハンガリー帝国海軍:巡洋艦総覧その他

あけましておめでとうございます。今年もどうかよろしくお付き合いください。

皆さん、良いお正月をお過ごしでしたか?筆者は2年ぶりに帰省して来ました。皆さんおそらくご同様だと思いますが、新幹線は大変混み合っていました。その中で「第六波か」と言う情報もちらほら出始めています。「年末・年始の大移動」のせいかどうかはさておき、なかなか「はい、これで収束です」というわけには行かないようですね。

いよいよWith Coronaを真剣に考えねばならないようです。

・・・と書いているうちに感染者数は1週間前の15倍だとか。東京も1000人を超える数字が出ています。

 

さて、ご挨拶はこのくらいにして、2022年の初回は、かなりマニアックにオーストリア=ハンガリー帝国海軍の艦艇群を巡洋艦駆逐艦河川砲艦を中心にご紹介します。

 

オーストリア=ハンガリー帝国海軍

オーストリア=ハンガリー帝国

19世紀、あるいは20世紀初頭の列強のうち、オーストリア=ハンガリー帝国(以降、A=H帝国と表記します)ほど、我々日本人との関わりが見出しにくい存在はないといって良いでしょう。(筆者はクラシックが好きなので、文化面では多くの恩恵をみなさんも得ていると思ってはいるのですが)

少し乱暴に整理すると、この帝国は、基本、ヨーロッパの内陸の大国で、その国の成り立ちが既にその名称が二重帝国であることからも明らかなように、多民族国家でした。歴史的には東方あるいは南方からのモンゴルやイスラム勢力の侵攻からヨーロッパ(キリスト教圏?)を守る一種の防波堤的な機能を果たすべく成立して来た巨大国家であったわけですが、両者の圧力が弱まるにつれ、対外的な存在意義が薄れ、今度は内部に抱えた齟齬が顕在化し、やがては第一次世界大戦の直接の引き金となっていった、という歴史が見えて来ます。産業革命以降のヨーロッパ諸国の海外進出に伴って役目を終えた、そういう国家だったのではないでしょうか。

帝国自体は第一次世界大戦終結後に解体されてしまいます。

そのような背景で成立し消えていった帝国ですので、「近代海軍」という視点で見ると、第一次世界大戦期のみを語る、ということになるわけです。

 

オーストリア=ハンガリー帝国海軍

海軍、という側面を見ると、国家そのものは内陸国家で、わずかにアドリア海に接続海面を持っていました。従ってその海軍はアドリア海、その延長として地中海での行動を想定して設計されていました。

仮想敵は主にイタリア海軍、あるいはトルコ海軍であり、この両大国との境界警備、あるいは境界域での紛争への対処がその主要な任務と想定していたといって良いと考えています。

1918年(のあたりで?)、A=H帝国が解体されると、その母体であったオーストリアハンガリーが共に内陸国家であったため、海軍は解体され艦艇は戦勝国への戦後賠償として分与され、あるいは一部は分裂独立した諸国に引き取られました。

 

オーストリア海軍といえば「リッサ海戦」

少し本題とはずれますが、同海軍を語る際に、というよりも近代海軍の成立過程を見る際にこの「リッサ海戦」はどこかで耳にされるのではないでしょうか?

ja.wikipedia.org

この海戦は普墺戦争の過程で、プロイセン側に立って参戦したイタリア王国海軍がリッサ島に侵攻した際に迎え撃ったオーストリア帝国海軍との間で発生したものです。

そもそも普墺戦争は、1966年6月~8月の間に、ドイツ語圏連邦の主導権を巡ってプロイセン王国オーストリア帝国(ハプスブルグ帝国)の間で戦われた戦争です。この戦争の結果、ドイツ統一は勝者のプロイセンによって行われることになりました。この戦争の敗北でオーストリアを中心としたドイツ圏での中央帝国樹立の構想が立ち行かなくなり、1867年、ドイツ語圏外でのハプスブルグ家の支配を確立すべくオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が発足しています。

海戦自体は、装甲艦9隻を主力に横陣を張るイタリア艦隊に対し、オーストリア海軍は装甲艦7隻を先頭に、非装甲艦14隻を後続させて三重列の陣形で戦いを挑み、イタリア海軍は旗艦を含む装甲艦2隻を失い、オーストリア海軍は装甲艦に衝角攻撃をかけた非装甲艦1隻が攻撃に成功しながらも逆に衝突の衝撃で大破した、と言うような戦いでした。

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(上の写真は、リッサ海戦当時の両軍の主力装甲艦。雰囲気だけ感じていただけたら、というカットです:左列がイタリア海軍:上から旗艦「Affodatore」「Re d'italia」「Maria Pia」(同型艦3隻「Ancona」「Castelfidardo」「S Martino」が艦隊に参加していました)。 右列がオーストリア艦隊:上から旗艦「Ferdinando Max」「Kaiser Max」「Drache」:筆者はSextant製の「Maria Pia」(65mm in 1:1250)と「Affordantore」を保有していますが、マストの破損が激しく「航行不能」なので今回はその他も含め本稿でも、模型探しのお話で何度か紹介している1:1250スケールモデルのデータベースsamelhaffen.comから写真を拝借しています。Sextantのモデルは近代海軍の黎明期のラインナップに特徴があり、いかにもマニアックなモデルが多いのですが、マストが華奢な樹脂製でそのあたり少し課題だなあ、と感じています)

https://sammelhafen.de/en/index.php

 

この戦いは蒸気装甲艦同士の初めての戦いで、列強各国海軍に大きな影響を与えました。改めて装甲艦の優位性が確認され、更に装甲艦への衝角攻撃が有効との戦訓が示され(イタリア艦隊の縦列先頭艦「レ・ディタリア」(旗艦は海戦直前に「アフォンダトーレ」に変更されていました)はオーストリア艦隊旗艦「フェルディナント・マックス」の衝角攻撃で艦腹を破られて数分で沈没し、先頭艦喪失により隊形の乱れたイタリア艦隊をオーストリア艦隊が包囲し砲撃を加え「パレストロ」を撃沈しています)、その後の一時期の主力艦設計に大きな影響を与えました。第一次世界大戦期まで、主要海軍の主力艦が艦首に衝角を備えていた事は、この戦いの戦訓が大いに働いていた証左です。

実は日清戦争黄海海戦において、清国北洋艦隊は、このリッサ海戦の再現を目指した編成の艦隊を揃え、小規模ながら再現を狙った戦い方をしていたと思われます。「鎮遠」「定遠」の二堅艦を中心に北洋艦隊は一列横隊で日本艦隊の横陣(実は単縦陣)の中央突破を狙いましたが、「リッサ海戦」以降の艦艇が機関の向上により機動性が著しく増した事と速射砲の発展で、既に黄海海戦当時には「リッサ海戦の再現」による勝利は覚束なくなっていました。

ちなみにこの戦いでオーストリア艦隊を率いた指揮官がヴィルヘルム・フォン・テゲトフ提督で、彼の名前はその後A=H帝国海軍初の弩級戦艦に冠されています。

 

近代海軍(第一次世界大戦期)としてのオーストリア=ハンガリー帝国海軍

その行動領域であるアドリア海には多くの島が連なり、狭水路の多くあるところから、比較的小振りな艦体と、紛争現場でいち早く主導権を取るべく機動性、すなわち速力が求めらていました。

 

上記のご紹介で、地中海の奥、アドリア海の小海軍的な印象を与えてしまったかもしれませんが、規模的には内陸国家としては決して海軍の規模は小さくなく、第一次世界大戦期(帝国の終末期、ですね)には以下のような艦艇群を揃えていました。

戦艦:海防戦艦(1クラス3隻)前弩級戦艦(2クラス6隻)準弩級戦艦(1クラス3隻)弩級戦艦(1クラス4隻)超弩級戦艦(計画のみ1クラス)

巡洋艦装甲巡洋艦(3クラス3隻)防護巡洋艦(4クラス8隻)偵察巡洋艦(2クラス4隻)

駆逐艦:27隻 水雷艇:79隻 潜水艦:27隻

更に内陸帝国ならでは、ドナウ河警備用の河川モニター(4クラス8隻)

その他補助艦艇多数。

実は、1:1250スケールのモデルシップはドイツ・オーストリアのメーカーが多く、それなりに充実したラインナップを見出すことができます。あとはどこまで熱心に追いかけるか、なのです。筆者は流石に小艦艇までは網羅できてはいないのですが、巡洋艦駆逐艦のレベルではある程度揃って来た、ということもあり、今回ご紹介します。

 

A=H帝国海軍の戦艦群については、筆者のメモ的なまとめ方をしているので、あまりご覧いただく機会はないようなのですが、本稿の姉妹サイトで簡単にご紹介しています。こちらをご覧いただければ。(いずれ今回ご紹介する艦艇もこちらにも追加掲載する予定です)

fw688i.hatenadiary.jp

 

オーストリア=ハンガリー帝国海軍の巡洋艦

装甲巡洋艦

A=H帝国海軍は3隻の装甲巡洋艦を建造しました。いずれも単艦の建造で、同型艦を持ちませんでした。

カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア(1895年就役:同型艦なし)

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(「カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア」の概観:87mm in 1:1250 by Harman:ほぼ就役時の姿を再現しています)

同艦はA=H帝国海軍が初めて建造した装甲巡洋艦です。フランス海軍の装甲巡洋艦建造に触発されたもので、後述の防護巡洋艦「カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世」級を拡大した設計でした。間の前後に24センチ単装砲を一基づつ主砲としてフード付きの露砲塔とて搭載し、19ノットを発揮できました。

1906年の近代化改装で旧式化していた主砲は長砲身でより長射程、射撃速度の速いの19センチ砲に換装されています。やはり間の前後にフード付きの露砲塔形式で搭載されました。

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(「カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア」の近代化改装後の概観:下は就役時と改装後の比較。ますとが簡素化され、主砲が換装されています)

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第一次世界大戦時には既に旧式艦として扱われ、アドリア海に面したクロアチア港湾都市ゼニベコ(現在シニベク)の警備艦とされていました。後に武装を撤去して潜水艦乗員の宿泊艦とされ、戦争終結後は英国編賠償艦として1920年解体されました。

 

カイザー・カール6世(1900年就役:同型艦なし)

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(装甲巡洋艦「カイザー・カール6世」の概観:94mm in 1:1250 by Navis)

同艦はA=H帝国海軍が建造した2隻目の装甲巡洋艦です。主砲をドイツ・クルップ社製の24センチ砲とし、単装砲塔で艦の前後に搭載しています。速力は20.8ノットを発揮することができました。

第一次大戦初期、同艦はアドリア海の南部の要港カッタロ(現在コトル)の防衛戦ののち、同港に長く止まっていました。これはA=H帝国海軍のとった「現存艦隊主義」の一環で、これは艦隊を温存することで敵艦隊に対し潜在的な脅威を与え続け敵国の艦隊の活動を妨げることを狙ったものでした。

大戦後は英国への賠償艦とされ、1922年に解体されました。

 

ザンクト・ゲオルグ(1905年就役:同型艦なし)

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(装甲巡洋艦「ザンクト・ゲオルグ」の概観:99mm in 1:1250 by Navis)

A=H帝国海軍が最後に建造した装甲巡洋艦です。イタリア海軍の「ジュゼッペ・ガリバルディ」級装甲巡洋艦に対抗するために設計されました。

ジュゼッペ・ガリバルディ」級装甲巡洋艦は、準戦艦として機能しうるように攻守にバランスが取れ、併せて機動性も優れた準主力艦として設計された装甲巡洋艦で、日本海軍も日露戦争で主力艦隊に属して戦った「日進」「春日」がこの姉妹艦として建造されたものでした。

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(「ジュゼッペ・ガリバルディ」級の一隻である日本海軍が購入した装甲巡洋艦「日進」の概観:同型艦「春日」は前部主砲に40口径25.4センチ砲を採用しています。この砲は、日露戦争当時の連合艦隊の艦載砲の中で最も射程が長く、旅順要塞の要塞砲の射程外から港内に砲撃が可能でした。日本海軍は旅順沖で機雷により喪失した戦艦「初瀬」「八島」の代わりに、同級装甲巡洋艦2隻を第一艦隊、第一戦隊に編入し、設計通り準主力艦として使用しました)

 

同級を意識したため、それまでの装甲巡洋艦よりも一回り大きな7000トンを超える船体にクルップ社製の24センチ砲を連装砲塔で艦首に、更に艦尾に19センチ砲を単装砲塔で搭載していました。速力は22ノットを発揮することができました。舷側装甲も強化されていました。

第一次世界大戦期には、イタリアの沿岸部への砲撃作戦や、アドリア海最大の海戦とされるオトラント海峡海戦へも支援部隊として出撃するなどの戦績を残しています。

1920年に英国への賠償艦に指定され、イタリアのタラントで解体されました。

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(A=H帝国海軍の装甲巡洋艦:手前から「カイゼリン・ウント・ケーニギン・マリア・テレジア」「カイザー・カール6世」「ザンクト・ゲオルグ」の順)

 

防護巡洋艦水雷巡洋艦

A=H帝国海軍は4艦級8隻の防護巡洋艦を建造しました。

建艦の時系列で言うと、先に紹介した装甲巡洋艦よりもこちらの方が先でした(どの国でもそうなんですが)

同海軍の主要な任務が狭水道の多いアドリア海の哨戒・警備、紛争解決であったことからも、こうした取り回しがよく高速で機動性の高い艦船への要求は大きなものがありました。

第一次世界大戦期には、一般的に防護巡洋艦の概念が既に旧式化し、特に機関の目覚ましい発展により後の設計された巡洋艦との間に、機動性の点で大きな差が生じ行動を共にできませんでした。

 

パンター」級防護巡洋艦(1885年就役:同型艦2隻)

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(「パンター」級防護巡洋艦の概観:58mm in 1:1250 by Sextant:水雷巡洋艦として設計された小型の巡洋艦でした):

同級はA=H帝国海軍が建造した最初の防護巡洋艦でした。水雷巡洋艦として雷装に力が入れられた設計で英国に発注されました。1500トン級の船体を持ち、これに12センチ単装速射砲を2基、35センチ水中魚雷発射管を2基、装備していました。20ノットを超える速力を出すことができました。

就役後は様々な業務に従事しましたが、第一次世界大戦ではモンテネグロ軍への艦砲射撃のほか、目立った働きはありませんでした。

戦後、賠償艦として英国に引き渡され、1920年に解体されています。

 

防護巡洋艦ティーガー」(1888年就役:同型艦なし)

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防護巡洋艦ティーガー」の概観 :59mm in 1:1250 by Sextant :「パンター」級の拡大型で、初めての自国建造の防護巡洋艦でした):

同艦はA=H帝国海軍が建造した2番目の防護巡洋艦の艦級です。「パンター」級の拡大改良型として1隻のみ建造されました。「パンター」級は前述の通り英国製でしたが、同級から取得した技術を基盤として自国で建造されました。2000トン弱に拡大された船体に12センチ単装砲を4基装備、水長魚雷発射管を前級と同様に4基搭載していました。20ノット弱の速力を発揮することができました。

大戦前の1906年に同艦は12センチ主砲を撤去して将官用ヨットに艦首変更され、艦名も「ラクロマ」に改名されました。

大戦後はイタリアに賠償艦として提供され、1921年に解体されました。

 

「カイザー・フランツ・ヨーゼフ1世」級防護巡洋艦(1890年就役:同型艦2隻)

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(「カイザー・フランツ・ヨーゼフ」級防護巡洋艦の概観:81mm in 1;1250 by Harman :大型の防護巡洋艦で、砲力に重点を置いた設計でした):

それまでにA=H帝国海軍が建造した「パンター」級、その改良型である「ティーガー」がいずれも軽快な水雷巡洋艦であったのに対し、同級は最初の本格的防護巡洋艦として建造されました。4000トン級の船体に24センチ単装砲2基と15センチ単装砲6基と強力な砲力をもち、20ノットの速力を発揮することが出来ました。就役当初は石炭専焼窯を搭載していましたが、1914年に2隻とも石炭・重油混焼缶に換装して機動性を高めています。(余談ですが、日本海軍の「浪速」級によくにスペックですね)

第一次世界大戦期には、既に防護巡洋艦の設計思想そのものが旧式化していましたが、同艦級はA=H帝国海軍の重要な戦力として活用されました。

「カイザー・フランツ・ヨーザフ1世」は、第一次世界大戦期にはモンテネグロ軍編艦砲射撃等を行い、モンテネグロ軍を降伏させるなどに貢献しています。

戦後はフランスへの賠償艦として割り当てられ、フランスへの回航途上、悪天候座礁、沈没しました。その後浮揚され、1922年に解体されました。

「カイゼリン・エリザベート」は同盟国であったドイツ帝国の極東根拠地であった青島に派遣され、同地で日本海軍と戦っています。青島要塞陥落の直前に日本軍による鹵獲を防ぐため自沈しています。

 

「ツェンタ」級防護巡洋艦(1899年就役:同型艦3隻)

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(「ツェンタ」級防護巡洋艦の概観:77mm in 1:1250 by Navis : 列強の防護巡洋艦と比較するとやや小ぶりですが、アドリア海での運用には最適だったのではないでしょうか?)

同級は偵察と主力艦隊の護衛を主任務として設計された艦級です。2500トン級の船体に12センチ速射砲8基を搭載し、21ノットを発揮することができました。

第一次世界大戦期にネームシップである「ツェンタ」はモンテネグロ封鎖任務についていましたが、これを阻止するために出撃した戦艦を中心とした強力なフランス艦隊と単艦で交戦し撃沈されました。

同級の残りの2艦は大戦後英国への賠償艦となり、1920年にイタリアに売却され解体されました。

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(A=H帝国海軍の防護巡洋艦:手前から「パンター」級、「ティーガー」、「カイザー・フランツ・ヨーゼフ」級、「ツェンタ」級)

 

軽巡洋艦偵察巡洋艦

前述のように第一次世界大戦期には列強海軍は機関の著しい発展、燃料の石油化を進め、従来の装甲巡洋艦防護巡洋艦とはレベルの異なる新たな機動性もった巡洋艦の建造に着手していました。A=H帝国海軍も同様の艦種の建造に着手し、2艦級4隻が建造されました。

 

軽巡洋艦「アドミラル・シュパウン」(1910年就役:同型艦なし)

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軽巡洋艦「アドミラル・シュパウン」の概観:103mm in 1:1250 by Navis: A=H帝国海軍もようやく近代的な巡洋艦を建造できました) 

同艦はA=H 海軍が建造した最初のタービン機関搭載巡洋艦です。3500トンの船体に10センチ単装砲7基を主兵装として搭載し、27ノットの高速を発揮することができました。次級の「ヘルゴラント」級と並び、機動性を買われ同海軍の最良の巡洋艦と言われました。

第一次世界大戦ではアドリア海、イタリア沿岸での作戦の多くに従事しました。

大戦後は英国への賠償艦とされ、イタリアで解体されました。

 

「ヘルゴラント」級軽巡洋艦(1914年就役:同型艦3隻)

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(「ヘルゴラント」級軽巡洋艦の概観:104mm in 1;1250 by Navis: 前出の「アドミラル・シュパウン」と合わせて、A=H帝国海軍の最良j巡洋艦と言われました)

前級「アドミラル・シュパウン」の改良型として3隻が建造されました。前級とほぼ同じ3500トン級の船体に10センチ単装砲を9基に強化していました。雷装も前級の45センチ魚雷単装発射管4基から53.3センチ魚雷連装発射管2基(就役時には45センチ連装発射管3基)に強化され、高角砲も第一次大戦時に追加されました。速力は前級と同様、27ノットを発揮することができました。前級で記述した通りA=H帝国海軍の「最良の巡洋艦」としてアドリア海での多くの作戦に参加しました。

3隻ともに大戦を生き抜き、「ヘルゴラント」と「サイダ」はイタリアに賠償艦として引き渡されそれぞれ「ブリンディシ」「ヴェネツィア」と改名されて再就役し、1930年ゴロに解体されました。「ノヴァラ」はフランスへの賠償艦となり、「ティオンヴィル」に改名し再就役。1932年に解体されました。

 

オーストリア=ハンガリー帝国海軍の駆逐艦

本稿、今回の冒頭でご紹介したようにA=H 帝国海軍は第一次世界大戦に27隻の駆逐艦保有して臨みました。

 

水雷砲艦7隻

そのうち7隻は水雷砲艦と呼ばれる、ある種水雷艇を排除する艦種の開発の試行過程に生まれた艦級群で、6艦級7隻がこれに該当します。

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(試行錯誤期のA=H帝国海軍の駆逐艦:「ブリッツ」級駆逐艦水雷砲艦と言ったほうがいいのかな)の概観:48mm in 1:1250 by Hai? : A=H帝国海軍はこうした駆逐艦を7隻保有していました)

 

「フサール」級駆逐艦(1905年より就役:同型艦13隻(前期型・後期型を含む))

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(「フサール」級駆逐艦の概観:55mm in 1:1250 by Navis

同級はA=H 帝国海軍が最初に建造した航洋型駆逐艦の艦級で、英国で建造された最初の1隻を除いて、全て帝国の造船所で建造されました。

当時の駆逐艦の標準的なタートルバック構造の艦首を持ち、400トン級の船体に66mm砲1門、47mm砲7門、43センチ単装魚雷発射管2基を搭載し、28ノットの速力を出すことができました。後期型は武装を強化し、47mm砲は66m砲5基に変更されました。

1908年のネームシップ座礁で失われ、第一次世界大戦で2隻が失われました。

大戦後は賠償艦として1隻がギリシア海軍に編入され、8隻がイタリア海軍に、2隻がフランス海軍に引き渡され、全て解体されました。

 

駆逐艦「ワラスディナー」(1914年就役:同型艦なし・中国向けに建造された駆逐艦を接収)

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(モデルはありません:Trident社から出てはいるのですが、少し眠たいモデルのように写真を見た限りでは感じます。「フサール級」の準同型艦なので・・・)

同艦は中国向けに建造された駆逐艦で「フサール」級駆逐艦タイプシップとしていました。1913年に進水し、第一次世界大戦が勃発した時点でほぼ完成していた同艦はA=H 帝国海軍に接収され、艦隊に編入されました。45口径66mm 砲2基と30口径66mm砲4基、45センチ魚雷発射管4基を搭載していました。

大戦中はイタリア沿岸部の砲撃、フランス潜水艦の撃沈などに戦果を上げています。

戦後は賠償艦としてイタリアに引き渡され、解体されています。

 

「タトラ」級駆逐艦(1913年より就役:同型艦6隻)

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(「タトラ」級駆逐艦の概観:67mm in 1:1250 by Navis: A=H帝国海軍初の(そして最後の)本格的な航洋型駆逐艦です)

同級はA=H 帝国海軍が建造した最初の航洋型駆逐艦の艦級で、結果的に最後の艦級となりました。英国の「トライバル」級駆逐艦を範として前級のタートルバック構造の艦首から、船首楼形式の船首構造へ移行して凌波性を高めています。f:id:fw688i:20220109160912p:image

(前級「フサール」級との艦首形状の比較:上が「フサール」級のタートルバック形状の艦首、下が「タトラ」級の船首楼式艦首形状)

850トン級の大型化した船体を持ち、タービン機関を搭載して32ノットの高速を得ることができました。武装としては10センチ単装砲2基、7センチ単装砲6基を搭載し、45センチ単装魚雷発射管を2基装備していました。

第一次世界大戦期には高速を生かしてアドリア海での機動作戦の多くに参加、2隻が戦没しています。

大戦後は残る4隻が全てイタリアに賠償艦として引き渡され、同国海軍に編入されました。f:id:fw688i:20220109161103p:image

(A=H帝国海軍の駆逐艦:手前から「ブリッツ」級、「フサール」級、「タトラ」級の順)

 

河川砲艦(河川モニター)

A=H 帝国海軍の大きな特徴として、内陸帝国ならではの艦種があります。河川砲艦、もしくは河川モニターと呼ばれる艦種で、ドナウ川流域の権益確保のための哨戒、警備、沿岸部での戦闘を担当していました。

A=H 海軍は第一次世界大戦期にこれからご紹介する4艦級8隻の河川モニターを保有しており、第一次世界大戦期にはドナウ川を下り黒海に達する広い流域で、A=H 帝国陸軍の作戦を支援しました。その一部は帝国の解体後も流域諸国で継承、使用されました。各艦級2隻が建造され、いずれの艦級も、二重帝国の母体であるオーストリアハンガリーの河川の名前をペアで与えられたようです。(と書きましたが、河川砲艦、というとモーターボートに大型の機関砲を搭載したものまでの含んで、流域警備の多くの艦級を含んでしまうので、河川モニターという呼称に拘ったほうがいいかもしれません。実のところあまり資料が収集できておらず、モデルのコレクションが先行している、そんな状況です。ちょっと打ち明け話)

 

Maros級:「マロス」級(1871年就役:同型艦2隻)

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(「マロス」級河川モニターの概観:41mm in 1:1250 by Trident: 浅い河川での運用を想定した船体形状がよくわかります)

A=H 帝国海軍が建造した最初の河川モニターの艦級です。

河川用ですので、浅い喫水(1.3m)を持った平らなフォルムの艦型をし、9.6ノットの速度を出すことができました。

第一次世界大戦期には12センチ砲1門、66mm砲2基、37mm砲2基を主兵装として搭載していました。既にかなり旧式で現役解除も検討されていたようですが、大戦勃発で現役にとどまり、ベオグラード方面での作戦等に参加しています。

 

Kores級:「ケレス」級(1892年就役:同型艦2隻)

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(「ケレス」級河川モニターの概観:45mm in 1:1250 by Trident)

同級は448トンの船体を持ち10ノットの速力を出すことができました。

12センチ単装砲塔2基を艦の前後に装備し、66mm対空砲2基を主兵装として装備していました。

第一次世界大戦期には他の河川モニターと同様にドナウ川を降り黒海に至る種々の作戦に従事しています。

同級のネームシップ「ケロス」はA=H 帝国解体後、流域諸国で所有権が点々としたのちユーゴスラビア軍に編入され「Morava:モラバ」と改名され、第二次世界大戦ではドイツの侵攻軍と戦っています。更に占領後に成立した枢軸側政府軍に組み入れられ、1944年頃まで運用されていました。

 

Temes級:「テメシュ」級(1914年就役:同型艦2隻)

ja.wikipedia.org

Temes-class monitor - Wikipedia

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(「テメッシュ」級河川モニターの概観:48mm in 1:1250 by Trident: 搭載された2基の12センチ主砲塔は艦首部に並列配置されていました):

442トンの船体を持ち13ノットの速力を出すことができました。第一次世界大戦期には12センチ単装砲塔2基、9センチ速射砲1基、47mm単装速射砲2基などを備えていました。

 大戦期には他の河川モニターと同様にドナウ川流域での作戦に従事していました。

大戦後、「テメシュ」はルーマニア海軍に譲渡され「アルデアル」と改名して第二次世界大戦でも活動しています。1946年に解体されました。

同型間の「ボドログ」はユーゴスラビアに譲渡され「サヴァ」と改名され、1941年第二次世界大戦のドイツ軍のユーゴスラニア侵攻戦で自沈、その後浮揚して枢軸側で参戦したクロアチア軍で運用され1944年再度自沈、1962年に解体されました

 

Sava級:「サヴァ」級(1915年就役:同型艦2隻)

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(「サヴァ」級河川モニターの概観:50mm in 1:1250 by Trident:同級はA=H 帝国海軍の最後の河川モニターとなりました。下の写真は艦の前後に踏査された連装砲塔の拡大)

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同級は結果的にはA=H 帝国海軍が建造した最後の河川モニターとなりました。

船体は580トンまで拡大し、13.5ノットまで速力を出すことができました。艦首に15キロの最大射程を持つ12センチ連装砲塔を1基、艦尾に12センチ榴弾砲の連装砲塔を1基搭載し、加えて66mm対空砲1門、47ミリ砲2基を搭載する重武装艦でした。

第一次世界大戦では他の河川モニター同様、ドナウ川沿岸での作戦に参加しました。

戦後はルーマニアユーゴスラビアに譲渡されています。ルーマニアに譲渡された「サヴァ」は「Bucovina:ブコヴィナ」と改名され、長い航続距離を生かして黒海での対戦作戦に従事するべく、機銃の一部を爆雷投射機に換装しました。

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(A=H帝国海軍の河川モニター:手前から「マロス」級、「ケレス」級、「テメッシュ」級、「サヴァ」級の順)

 

少し駆け足でオーストリア=ハンガリー帝国海軍の主力艦以外の艦艇を見てきましたが、実はA=H 帝国海軍を語る際に外してはいけない重要な艦種が手付かずなのです。それは、そうです、潜水艦です。潜水艦という艦種は1:1250スケールではなかなか満足のいくディテイルに至らず、これまで本稿でも潜水艦はできるだけもう少し大きなスケールのもの(例えば1:350や1:700)のモデルで補足しつつご紹介してきているのですが、A=H 海軍ではそうもいかず、悩ましいところです。しかし、水上艦艇の多くが現存艦隊主義で温存されたのに対し、潜水艦はかなり活発に活動しています。今、実のところ1:1250スケールのA=H海軍潜水艦は保有していませんが、今後少し目配りして行こうかと考えています。

 

というわけで今回はここまで。振り返ると少し肝心の主力艦のご紹介が手薄だったような気がしてきました。こちらは折を見て。(気になると放っておけないからなあ。近々に手を入れちゃうかも。しかし、実はあまり資料が手元にないのです)

一応、次回は「機動部隊小史」に戻る予定です、が・・・。

 

ともあれ本年もよろしくお願いいたします。くれぐれもお体に気をつけて・・。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

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