太平洋戦争の開戦
日米は1943年12月8日、開戦した。
開戦にあたり、日本海軍は米太平洋艦隊の根拠地真珠湾に対し、日本海軍が当時保有したすべての艦隊空母の集中運用による空からの打撃力という新戦術を具現化し、史上初の空母機動部隊を編成し、これによる奇襲攻撃を企図した、太平洋艦隊主力の戦艦部隊をほぼ壊滅状態に陥れ、ほぼこれに成功する。ただし、史実と同様、空母は不在で、その点に、後世の視点から見れば禍根を残す結果となった。
何れにせよ、この一戦で、それまで補助戦力とみなされてきた航空母艦がにわかに海戦の主力として注目されるようになった。
その後の数ヶ月に渡る日本軍の南方作戦においては、この空母機動部隊を中心とした日本海軍は向かうところ敵なしの戦果を挙げ、日本軍の第一段階戦略はほぼ成功した。
本来、長期戦には勝機を見出さない日本海軍は、再度、空母戦力を中心とした艦隊決戦を企図し、ミッドウェー、ハワイ間に機動部隊を集中展開し、戦機を誘うが、これをようやく主力戦艦部隊の壊滅で空母主戦力への思想転換を余儀なくされ、空母部隊の集中運用の体制を整え迎撃した米艦隊との間で、史上初の空母機動部隊同士の海空戦が発生する。(ハワイ沖海空戦)
日本海軍はこの海戦に投入した10隻の空母(天城級4隻、蒼龍級4隻、翔鶴級2隻)のうち4隻と、護衛に当たった4隻の高速戦艦(畝傍級2隻、信貴、白根)のうち2隻を失い、何よりもその艦載機720機の約4割300機を失った。一方迎え撃った米海軍も、投入した艦隊空母 11隻(ヨークタウン級3隻、ワスプ、レキシントン級2隻、エセックス級3隻、イントレピッド級2隻)のうち6隻を喪失し、艦載機約850機の半数以上450機を失った。この海戦により、日米両艦隊は、当面の間、空母機動部隊による大規模な作戦行動が企図し得ない状況に陥ってしまう。
米海軍は進行中のエセックス級、イントレピッド級の空母の量産計画に拍車をかけることになるが、日本海軍は空母の生存性をいかに高めるかに注力していく。
一方で、艦載機、特にその搭乗員の損耗率の高さから、今次大戦が、改めて総力戦の様相を一層濃厚にした形態をとることが予見され、両海軍の首脳の頭を悩ませた。特に日本海軍にあっては、緒戦のこの海戦での損害があまりにも大きく、その損耗回復に充てる時間と費用の検討から、これまでの艦隊決戦一辺倒と言ってよかった艦隊のあり方に対する疑義が生じていた。
(・・・と書き始めましたが、以降は真っ当な架空戦記に委ねることにして、当ブログではこの「太平洋戦争」の経緯については、あまり包括的には触れる予定は、今のところありません)
従来、日本海軍では、連合艦隊を以下のような機能別編成として、太平洋戦争に臨んだ。
第1艦隊:艦隊主力・決戦艦隊
第2艦隊:前衛部隊
第3艦隊:南方展開支援部隊
第4艦隊:内南洋警備艦隊(マリアナ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島の警備・作戦担当)
第6艦隊:潜水艦部隊
第1航空艦隊(空母航空戦力)
第11航空艦隊(基地航空戦力)
ハワイ沖海空戦の後、上記のように今次大戦が第一次世界大戦同様、あるいはそれ以上に総力戦の様相を色濃くするであろうことを改めて認識させられた海軍首脳は、上記のように艦隊決戦主義からやや離れた構想の必要性に気づき、その一環として通商路破壊戦を専任担当とする艦隊、第7艦隊を創設するに至った。
第七艦隊の基礎は、海防研究部としてすでに海軍部内には存在したが、改めて艦隊として具現化し、その担当範囲を「通商破壊戦の実施」と「通商路保護」の相対する両面であるとした。
緒戦での活動:通商路破壊戦、米豪遮断
上記のハワイ沖海空戦ではその目的である決定的な米艦隊主力の捕捉と撃滅には失敗したものの、米海軍の空母部隊にも大打撃を与えることができ、米艦隊の当面の機動活動を封じることができた。かつ、これも上述の通り、この海戦以前に日本軍の他の方面での作戦はほぼ計画通りに進行することができ、南方資源の確保に成功した。
当面、第7艦隊はその活動目標を米豪間の通商路遮断に置いて、活動を開始した。
作戦は水上艦艇によるもの(その搭載機によるもの)と、潜水艦によるものの二本立てとし、艦隊司令部は陸上指揮所から、作戦指揮をとった。陸上指揮所は、当初、マリアナ諸島サイパンに置かれたが、その後、マーシャル諸島ルオット島、さらには英領ギルバート諸島の占領後は、タラワ環礁に進出した。
配属艦艇は都度変化したが、基幹部隊は軽巡洋艦数隻から構成され、通常はそれぞれが単艦行動を行った。
タラワ環礁進出後は、高い通信能力と母艦施設の能力を買われて軽巡洋艦大淀が陸上指揮所を補完する旗艦となった時期もあった。
同遮断作戦は、1944年10月に頂点を迎え、サモア・フィジーの陸上施設破壊作戦では、大和級戦艦も含めた連合艦隊主力艦艇も、第7艦隊の指揮下に入った。
(直上の写真:第7艦隊の基幹水上艦艇:奥から水上機母艦能登呂、軽巡洋艦天龍・龍田、軽巡洋艦大淀(旗艦)、敷設巡洋艦津軽)
(直上の写真:第7艦隊の潜水艦部隊:奥から軽巡洋艦香取(潜水艦部隊指揮艦・母艦)、伊~9、伊~16型2隻、伊~11、呂~60型6隻)
大戦後半の活動 :通商路保護活動
上記のサモア・フィジーをめぐる一連の戦いの後、特に水上艦艇による通商破壊戦が航空機の索敵能力の向上から困難となり、第七艦隊はその任務の軸を通商路保護に移すこととなる。
日本海軍では、前大戦の戦訓から、米潜水艦による南方通商路への浸透脅威を大いに懸念し、通商路護衛任務部隊を組織し、これを第7艦隊の指揮下に置いた。こうして第7艦隊は海上護衛の専任性を高めてゆくこととなる。
新海防艦
日本海軍がシーレーン護衛、あるいは船団護衛の専任艦として開発した艦種で、通常1000トン以下の船体をもち、速力は概ね20ノット以下で、対潜水艦装備、対空装備を保有している。後期に向かうに従い戦時下での量産性が考慮され、対潜水艦装備が充実し艦型が小型化、直線的になる。
大戦前から大戦中にかけて、約250隻が建造された。
(直下の写真は海防艦の隊列:丙型海防艦一隊(左三隻)と丁型海防艦一隊(右4隻)。 基本的に3隻から4隻で一隊を形成し、一船団の護衛任務に当たった)
伊勢級・扶桑級の戦艦群は、ワシントン海軍軍縮条約の結果、代替新型戦艦の就役に伴い順次第一線戦艦としての任務を解かれ、長く練習戦艦の任にあった。練習戦艦の任に当たるに伴い、舷側の装甲が撤去され、あるいは主砲数を減じるなど、第一線戦力への容易な復帰に対する障害が設けられた。
日本海軍は第一次大戦のヨーロッパにおけるUボートでの無制限潜水艦作戦の戦訓から、来るべき日米戦での米潜水艦の浸透をいかに防止するかを、第七艦隊の前身である海防研究部を中心として検討にあたってきたが、潜水艦の発見に当たっては従来の水中聴音技術の開発、改良に加えて、航空機での索敵・捜索の利用が有効である、との見解を得た。
同時に同研究部では、対潜水艦戦の装備についても研究を重ねていたが、その一つに小型の爆雷の開発とその前方投射の実施方法があった。折から、日本海軍では戦艦・巡洋艦の主砲向けに対空・あるいは対陸上砲撃向けの、焼夷榴散弾の一種である三式弾の開発が成功しており、海防研究部では、これを対潜弾にも活用できないか、という模索が始まった。即ち、三式弾の焼夷弾に変えて、小型の爆雷を親砲弾に充填し、これを目標上空で散布して、散布域に目標潜水艦を包み込む、という構想であった。
本来、戦艦の主砲はその射撃管制システムと併せて、高い射撃精度と長距離の射程を有しており、航空機による索敵と観測をあわせれば、敵潜水艦に対し圧倒的なアウトレンジでの排除が可能になる。
この構想は紆余曲折を経て1942年に六式弾として実現し、この完成が練習戦艦の海防戦艦化への具体的な道を開くこととなった。
こうして、伊勢級・扶桑級練習戦艦の海防戦艦への改装が1943年に着手され、1944年3月に海防戦艦伊勢が改装完成、就役し、1945年6月までに4隻すべての改装が完了した。
いずれの海防戦艦も艦後部に航空機用の格納庫と射出甲板を備えているが、着艦用の装備はなく、一般の艦載機は運用できなかった。
また、伊勢級海防戦艦・扶桑級海防戦艦の六式弾の射程は、20,000メートルが有効射界とされ、実際には水上哨戒機との組合せで、米潜水艦に対して大きな脅威となった。
(直下の写真は伊勢級海防戦艦:35,350t, 22 knot, 14 in *2*4, 2 ships, 搭載機15機:水上戦闘機3機、水上偵察機・水上哨戒機12機, 172mm in 1:1250 by Delphin)
(直下の写真は扶桑級海防戦艦:33,200t, 21 knot, 14 in *2*3, 2 ships, 搭載機15機:水上戦闘機3機、水上偵察機・水上哨戒機12機, 170mm in 1:1250 by semi-scratched with Superior model)
海防戦隊の編成
第7艦隊では、海防戦艦を起点として、洋上に、潜水艦阻止線(ピケットライン)を形成し、、敵潜水艦の浸透を防止する構想を持ち、これを実行した。
このために、海防戦艦1隻と、2海防隊(海防艦、6−8隻)の海防艦で構成される海防戦隊が編成され、阻止線上を遊弋した。
阻止ラインは戦隊旗艦である海防戦艦を中心に、5キロ間隔で配置された海防艦が水中警戒を担当、異常があれば海防戦艦搭載の航空機がさらに詳細に索敵を行い、潜水艦の所在を探知、これを海防戦艦の六式弾斉射、もしくは海防艦の対潜装備で撃沈する、という戦術がとられることが多かったと言われている。
第7艦隊による潜水艦阻止線は、トラック諸島を起点に南北に伸び、戦隊設立当初の44年からの1年で、約26隻の米潜水艦を撃沈、あるいは損傷を与えたと記録されている。
しかし、1946年8月のトラック大空襲により、トラックが海軍基地機能を失い、日本海軍が周辺の制空権を失ってからは、鈍足の水上機による空中哨戒自体が機能しなくなる。その結果、海防戦艦にも敵潜水艦からの雷撃による損害が生じた(山城喪失、扶桑大破により戦線離脱)。
以降は有効な阻止ラインを形成することができず米潜水艦の浸透を許し、残った海防戦艦もまた船団直衛の役目に就くこととなった。
次回は、話を本筋に戻して、一応、本稿の最終回(?)。海上自衛隊イージス艦「ヤマト」とその周辺を。
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これまで本稿に登場した各艦の情報を下記に国別にまとめました。
内容は当ブログの内容と同様ですが、詳しい情報をご覧になりたい時などに、辞書がわりに使っていただければ幸いです。