相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日本海軍巡洋艦開発小史(その7) 条約型巡洋艦の建造

条約下の巡洋艦

本稿では、このシリーズの前回で触れたように、ワシントン・ロンドン体制で定められたカテゴリーA(=重巡洋艦)の保有枠を、日本海軍は「高雄級」4隻の建造で、使い切ってしまいました。このため、日本海軍が以後建造する巡洋艦は、全てカテゴリーB(=軽巡洋艦:主砲口径6.1インチ以下、排水量10000トン以下)として設計されることになります。

この時点で、日本海軍の持っていたカテゴリーBの保有枠は51000トン弱だったため、8500トンのカテゴリーB(軽巡)6隻の建造が計画されました。

具体的には、今回ご紹介する「最上級」「利根級」の2つの艦級は、15.5cm(6.1インチ)砲を機装式3連装砲塔に搭載し、一方で軽快に駆逐艦隊を率いるそれまでの軽巡洋艦とは異なり、8500トン級の大きな十分な防御力を有する船体をもち、攻撃力でも条約型の重巡洋艦と打ち負けない砲力を有する設計でした。

日本海軍の軽巡洋艦の常として、この両艦級は重巡洋艦に付けられた「山」の名前ではなく、いずれも軽巡洋艦の艦名である「川」の名前を艦名として与えられました。

  

条約の申し子

最上級巡洋艦 -Mogami class cruiser-(最上:1935-1944/三隈:1935-1942/鈴谷:1937-1944/熊野:1937-1944)    

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Mogami-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「最上級」の就役時の概観。163mm in 1:1250 by Konishi)

 

「最上級」軽巡洋艦は、上記のような背景で設計された、将に「条約の申し子」とでもいうべき巡洋艦です。

繰り返しになりますが、同級はそれまでの日本海軍の軽巡洋艦とは異なり、37ノットのずば抜けた抗争性に加え、十分な防御力を備えた大型の船体を持ち、これにそれまでの軽巡洋艦の倍以上の火力を搭載して敵を圧倒する、と言う設計思想で建造されました

 

採用された主砲は、3年式60口径15.5cm砲で、この砲をを3連装砲塔5基に搭載することが計画されました。

(直下の写真:竣工時に搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔郡の配置)

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この砲は27000mという長大な射程を持ち(「阿賀野級」に搭載された50口径四十一年式15センチ砲の最大射程の1.3倍)、また60口径の長砲身から打ち出される弾丸は散布界も小さく、弾丸重量も「阿賀野級」搭載砲の1.2倍と強力で、高い評価の砲でした。

75度までの仰角が与えられ、一応、対空戦闘にも適応できる、という設計ではありましたが、毎分5発程度の射撃速度では、対空砲としての実用性には限界がありました。

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 列強の条約型巡洋艦

同様の経緯で、米海軍、英海軍ともに同様の条約型巡洋艦を建造しています。

米海軍の条約型軽巡洋艦

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Brooklyn-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:「ブルックリン級」の概観。157mm in 1:1250 by Neptune )

ほぼ「最上級」と同じ設計思想で作られた米海軍の軽巡洋艦です。条約開け後も主砲は換装されることはありませんでした。

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(直上の写真は、速射性の高Mark 16 15.2cm(47口径)速射砲の3連装砲塔を5基搭載しています。対空砲として5インチ両用砲を8門搭載していますが、後期の2隻はこれを連装砲塔形式で搭載していました。このため後期型の2隻を分類して「セントルイス級」と呼ぶこともあります)

 

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Cleveland-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真:「クリーブランド級」の概観。157mm in 1:1250 by Neptune。主砲塔を1基減らし、対空兵装として、連装5インチ両用砲を6基に増やしし、対空戦闘能力を高めています )

上掲の「ブルックリン級」の対空兵装強化版。対空兵装を倍にする代わりに、主砲を1基減らしています。

 

英海軍の条約型軽巡洋艦

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Town-class cruiser (1936) - Wikipedia

タウン級軽巡洋艦は、実は以下の3つのサブクラスを持っています。

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グロスター級」軽巡洋艦

 今回ご紹介するのは「マンチェスター」。第二グループの「グロスター級」の一隻です。

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(直上の写真:「グロースター級」軽巡洋艦の概観 144mm in 1:1250 by Neptune) 

グロスター級」はこの艦級の第一グループである「サウサンプトン級」の装甲強化型であり、この強化に伴い、機関も見直されています。

 

英海軍が軍縮条約の制限に準じて建造した軽巡洋艦です。設計の背景は日本海軍の「最上級」、米海軍の「ブルックリン級」とほぼ同じです。英海軍は、歴史的に海外植民地との間の長大な通商路の警備、保護を巡洋艦の主要任務としているため、長期間の航海に耐えられるよう、武装を若干押さえつつ居住性に配慮した設計になっています。

 

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Fiji-class cruiser - Wikipedia

前傾の「タウン級軽巡洋艦タイプシップとして、数を揃えるためにやや小型化した軽量版です。

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(直上の写真:「クラウン・コロニー級」の概観。145mm in 1:1250 by Neptune )

(直下の写真は、速射性の高いMk XXIII 15.2cm(50口径)速射砲の3連装砲塔を4基搭載しています。)

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主砲の換装、そして名実ともに重巡洋艦

ワシントン・ロンドン体制は、1936年に失効し、保有制限がなくなったこの機会に「最上級」各艦は主砲を50口径20.3cm連装砲に換装しました。こうして重巡洋艦を越えるべく建造された「最上級」は、名実共に重巡洋艦となりました。

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(直上の写真:主砲を20.3cm連装主砲塔に換装した「最上級」の外観:by Neptune)

 

 主砲換装の是非

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(直上の写真:竣工時に搭載していた3年式60口径15.5cm砲の3連装砲塔(上段)と20.3cm連装砲塔への換装後(下段)の比較。換装後の2番砲塔の砲身は、1番砲塔と干渉するため、正正面で繋止する際には一定の仰角をかける必要がありました(下段))

 

本来、「最上級」に搭載されていた3年式60口径15.5cm砲は、重巡洋艦との砲戦でも撃ち負けない様に設計されただけに、射程も重巡洋艦が搭載する20.3cm砲に遜色はなく、砲弾一発当たりの威力では劣るものの、「最上級」はこれを3連装砲塔5基、15門搭載し、その高い速射性も相まって、1分あたりの投射弾量の総量では、20.3cm連装砲塔5基を上回っていました。さらに60口径の長砲身を持ち散布界が小さい射撃精度の高い砲として、用兵側には高い評価を得ていました。

これを本当に換装する必要があったのかどうか、やや疑問です。

筆者の漁った限りの情報では、貫徹力でどうしても劣る、というのが主な換装理由ですが、その後のソロモン周辺での戦闘を見ると、あるいはこれまでの日本海軍の戦歴を見ると、速射性の高い砲での薙射で上部構造を破壊し戦闘不能に陥れる、という戦い方も十分にあり得たのではないかな、と。

あるいは、米海軍を仮想敵として想定した場合に、その艦艇の生存性の高さ、あるいは後方の修復能力の段違いの高さから、必殺性が求められた、ということでしょうか?(日本海軍の場合、損傷艦の自沈、あるいは海没処分、というのが目立つのですが、米海軍では、そのような例はあまり見かけません)

また、前述の様に米海軍も英海軍も同様の設計の巡洋艦を建造していますが、いずれも換装した例はありません。

 

主砲換装は計画されていたのか?

「最上級」の主砲塔配置は、それまでの「妙高級」「高雄級」重巡洋艦の砲塔配置とは少し異なっています。「妙高級」「高雄級」では艦首部の3砲塔を中央が高い「ピラミッド型の配置としていました。これは砲塔間の間隔を短くし弾庫の防御装甲範囲を小さくし重量を削減するのに有効でしたが、一方で3番砲塔の射角が左右方向のみに大きく制限されました。

「最上級」の主砲塔配置は、砲身の短い15.5cm砲に合わせた設計になっており、20.3cm砲に換装した際に2番砲塔の砲身が1番砲塔に干渉してしまい、正正面で固定する場合、砲身に一定の仰角をかける必要がありました。このことから、従来定説であった条約失効後の換装計画が設計当初から決定されていたか、と少し疑問に思ってしまいます。

一方で、15.5cm3連装主砲塔の重量は、20.3cm連装主砲塔よりも重く、第4艦隊事件などで、重武装を目指すあまりに全般にトップヘビーの傾向が見られた艦船設計に対する改善策としては、理にかなった選択だった、とも言えるのではないでしょうか?

  

 その戦歴

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(直上の写真:第7戦隊の勢揃い。手前から、「最上」「熊野」「鈴谷」「三隈』)

 

「最上」:太平洋戦争海戦時には、同級の僚艦とともに、第7戦隊を編成し、南遣艦隊の基幹部隊として南方作戦に従事しました。マレー作戦、欄印作戦で活躍しました。バタビア沖海戦では、米重巡洋艦「ヒューストン」オーストラリア軽巡洋艦「パース」などの撃沈に参加しています。

ミッドウェー海戦には、ミッドウェー攻略部隊の第2艦隊の前衛支援部隊(第7戦隊基幹)として参加。機動部隊(空母機動部隊)の壊滅後も、機動部隊の残存兵力(水上戦闘艦艇)や、主隊による米艦隊との夜戦の機会を求めて、その支援のため、第7戦隊にはミッドウェー島の飛行場砲撃の任務が与えれました。このため第7戦隊は進撃を継続しましたが、結局、夜戦の戦機なしとの判断から、連合艦隊司令部からの撤収命令に従い反転しました。撤収中に、米潜水艦による接触を受け、回避行動中に僚艦「三隅」と衝突し艦首が圧壊し一時行動不能に陥りました。応急処置により、同じく損傷した「三隅」とともにトラック島へむけての退避航行を開始したものの、翌日、米軍の基地航空機、空母艦載機の空襲により、僚艦「三隅」は沈没、「最上」も5発の爆弾を被弾し、後部の4番・5番両砲塔に大損害を受けました。

なんとか第2艦隊に合流し、内地に帰還後、「最上」はその修復の際に、大損害を受けた艦後部の4・5番砲塔を撤去し、艦後部を全て航空甲板とするという大規模な改造を受け、11機の水上偵察機を搭載可能な航空巡洋艦として生まれ変わりました。

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(直上の写真:ミッドウェー海戦での損傷修復後、航空巡洋艦となった「最上」:by Konishi。艦後部に11機の水上偵察機の繋留ができる航空甲板を設置しました)

 

第7戦隊に復帰後、主として中部太平洋で行動しますが、ラバウルに進出した際に、ラバウル空襲に遭遇し、再び被弾してしまいます。

損傷回復後、マリアナ沖海戦への参加を経て、1944年10月レイテ沖海戦では、第一遊撃部隊の第3部隊(西村艦隊)の一員として戦闘に参加しました。西村艦隊はスリガオ海峡へ突入しますが、米艦隊の砲撃で「最上」は炎上、更に後続の第二遊撃艦隊(志摩艦隊)の旗艦「那智」と衝突し損傷を大きくしてしまいました。

翌朝、米軍機の空襲をうけ、味方駆逐艦の魚雷で処分されました。

 

「三隅」:前掲の「最上」同様、太平洋戦争緒戦では、第7戦隊の一員として、マレー作戦、欄印攻略戦で活躍しました。

その後参加したミッドウェー海戦では、これも前掲のように機動部隊壊滅後の夜戦支援のためのミッドウェー島砲撃任務からの反転中に僚艦「最上」と衝突しました。この時点では、損傷は「最上」が大きく、「三隅」は軽微でした。第7戦隊司令部は、両艦にトラック島に退避するように指示を出しましたが、翌日、相次ぐ空襲を受け一説には被弾20発と言う大損害を受け、最後には魚雷が誘爆し失われました。

同艦は太平洋戦争で失われた最初の重巡洋艦となりました。

 

「鈴谷」:太平洋戦争開戦からミッドウェー海戦まで、第7戦隊の一員として、寮艦とほど同様の戦歴を辿りました。

ミッドウェー後は、僚艦「熊野」とともに インド洋での通商破壊戦に従事した後に、ソロモン諸島方面での作戦に投入されます。

第7戦隊は第3艦隊(新編空母機動部隊)に編入され、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に機動部隊として参加した後、ソロモン方面での作戦を担当する第8艦隊に編入されてガダルカナル方面への輸送作戦、支援作戦(ヘンダーソン飛行場砲撃)などに従事します。

ラバウル空襲で大損害を受けた新編第2艦隊のトラック後退し、中部太平洋での活動を行った後、マリアナ沖海戦に参加。

そして1944年10月、レイテ沖海戦に第1遊撃部隊(栗田艦隊)の一員として参加しました。サマール島沖海戦で、米護衛空母部隊と交戦し、どう空母部隊艦載機の爆撃を受け至近弾により魚雷が誘爆し航行不能となってしまいます。その後も火災が収まらず、さらに魚雷と高角砲弾の湯爆も始まり、やがて沈没してしまいました。

 

「熊野」:太平洋戦争緒戦から、「最上級」4隻で構成される第7戦隊の旗艦を務めました。前掲の通りマレー作戦、蘭印作戦、ミッドウェー海戦、インド洋での通商破壊戦等を転戦した後、第3艦隊に編入されますが、当時、機関の故障が続出し、第7戦隊旗艦を「鈴谷」に譲り、第7戦隊の序列を外れました。第2次ソロモン海戦への参加を経て、南太平洋海戦では機動部隊本隊の直衛を務めましたが、米艦載機の爆撃で至近弾を被弾し損傷。内地で損傷を復旧した後、再びソロモン方面での戦闘に従事しました。

ガダルカナルからの撤退以降、戦場は中部ソロモンに移っていましたが、「熊野」は再び第7戦隊の旗艦を務めます。当時の主戦場であったニュージョージアコロンバンガラ方面での夜戦で、夜間空襲を試みた米海軍機の雷撃で避雷し、再び内地で修理を受けました。

復帰後、第2艦隊に編入されマリアナ沖海戦への参加を経て、1944年10月レイテ沖海戦に参加します。

レイテ沖海戦では第1遊撃部隊(栗田艦隊)の第7戦隊の旗艦を務めました。

シブヤン海では米機動部隊の艦載機の空襲を受け、艦隊は戦艦「武蔵」を失うほどの損害を受けました。「熊野」も被弾しますが、幸いにも不発弾で、その後も作戦参加を続行しました。その後の米護衛空母部隊と交戦したサマール島沖海戦では、空母部隊直衛の駆逐艦から雷撃を艦首に受け、艦首を喪失して戦列から脱落しています。

マニラ帰着後、11月に損傷の修復のため本土帰還を目指したが、度重なる空爆で失われた。

 

こうして「最上級」重巡洋艦は1944年11月までにすべて失われました。

  

最優秀巡洋艦の呼び声 

利根級重巡洋艦 -Tone class heavy cruiser-(利根:1938-終戦時残存/筑摩:1939-1944)    

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Tone-class cruiser - Wikipedia

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(直上の写真は、「利根級」の概観。162mm in 1:1250 by Konishi)

 

日本海軍は早くから航空機による索敵に注目していました。すでに5500トン級軽巡洋艦から、航空索敵の能力付与についての模索は始まっていました。

しかし、具現化については米海軍が常に一歩先をゆき、例えば5500トン級と同時代の「オマハ級」軽巡洋艦はすでにカタパルトを2基搭載し、水上偵察機も2機搭載していました。その後も米海軍お優位は続き、米海軍の条約型重巡洋艦は4機の水上偵察機搭載を標準としていたのに対し、日本海軍の重巡洋艦は2機乃至3機の搭載に甘んじていました。

一方で、常に劣勢に置かれる主力艦事情を覆すべく構想された空母の集中運用、いわゆる空母機動部隊の構想においては、航空索敵の必要性はさらに高まり、「利根級巡洋艦は、それを具現すべく設計された、と言って良いと思います。

利根級巡洋艦は今回の冒頭でも触れた様に、設計時点では、ワシントン・ロンドン体制の制限下で、すでにカテゴリーA(重巡洋艦)の保有枠を使い切っており、8500トンの船体をもち、15.5cm砲を主砲として搭載したカテゴリーB(軽巡洋艦)として計画され、艦名も「川」の名前を与えられていました。

その艦型は大変ユニークで、「最上級」と同じ3年式60口径15.5cm砲を主砲としてその3連装砲塔を「最上級」よりも1基減らして4基、12門をすべて艦首部に搭載し、艦尾部は水上偵察機の発艦・整備甲板として開放されていました。水上偵察機を6機搭載する能力を持ち、日本海軍は念願の空母機動部隊の目として運用することになります。

(直下の写真は、「利根級」の特徴のクローズアップ。前部主砲塔群(上段)と艦後部の水上偵察機の発艦・整備甲板)) 

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着工後の1936年に軍縮条約が失効したことを受けて、建造途中から主砲を重巡洋艦の標準主砲であった50口径3年式20.3cm砲に変更、完成時には重巡洋艦として就役しました。

主砲塔をすべて艦首部に集中したことで、集中防御の範囲を狭め十分な装甲を施すことができ、また航続力も巡洋艦の中で最長で、高い航空索敵能力も併せて、最優秀巡洋艦の評価も聞かれたようです。

 

もっとも、速度の遅い水上偵察機による敵機動部隊索敵は、比較的早い時期に効果に疑問がもたれ、米海軍などは一部の艦上爆撃機を索敵機として部署し運用し始めていました。

 

その戦歴

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(直上の写真は、第8戦隊の「利根」(手前)「筑摩」:by Neptune

「利根」:太平洋戦争開戦時、「利根」は僚艦「筑摩」と共に、第8戦隊を編成し、空母部隊である第1航空艦隊の直衛として第1特別講堂部隊(南雲機動部隊)に編入され、真珠湾奇襲に参加します。「利根」搭載の索敵機はいわゆる「真珠湾奇襲」の1時間前に真珠湾を偵察、気象状況や湾内の様子などを伝えたと言われています。

続いてウェーク島攻略戦、ラバウル攻略戦、ポート・ダーウィン空襲、インド洋作戦に南雲機動部隊に帯同して参加した後、内地に帰還しました。

ミッドウェー海戦でも南雲機動部隊に参加、「利根」の搭載機はここでも機動部隊の目として航空索敵を担いますが、有名な「利根4号機」の不調が、米空母部隊の発見を遅らせ、敗北の一因となったと言われています。(一方で、発進の遅れが、「米機動部隊の発見」に繋がった、とする見方もあるようです)

ミッドウェーの敗北後、いったん内地で修理、整備を行なった後、第8戦隊は新編成の空母機動部隊である第3艦隊に編入され、第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦などに参加、常に前衛にあって索敵、対空戦闘等に従事しました。

その後も概ね空母機動部隊の側にあってその行動を支援しました。

1944年に入ると、第8戦隊は解体され「利根」は僚艦「筑摩」と共に第7戦隊に編入されました。一時期はインド洋で通商破壊戦に従事しました。この際に、この作戦指揮を執っていた南西方面艦隊から穂陵の処刑指示が発令され、「利根」では通商破壊戦によって得た捕虜約80名に対する処刑が行われました。

この後、マリアナ沖海戦への参加を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に第一遊撃部隊(栗田艦隊)の一員として参加。サマール沖海戦では米護衛空母を追撃し、砲撃で一隻を撃沈しています。一方で、米護衛空母の艦載機の反撃で艦後部に被弾し損傷しました。

作戦終了後、ブルネイに一旦退避後、輸送任務と修理のために内地に帰還。海軍兵学校練習艦として呉に停泊中に空襲により被弾損傷。さらに数次にわたる空襲で被弾が相次ぎ、大破着底状態で終戦を迎えました。

 

「筑摩」:太平洋戦争緒戦、「筑摩」は僚艦「利根」と共に第8戦隊を編成し、その戦歴はほぼ「利根」に準じています。

ミッドウェー海戦にも、「利根」と同じく南雲機動部隊の一員として参加。米機動部隊の索敵に「筑摩」からは2基の水上偵察機が参加しますが、このうち「筑摩1号機」は米機動部隊の上空を通過しながらも雲に阻まれて発見できず、また、米艦載機と接触したにも関わらず報告をせず、海戦敗北の一因となった、と言われています。

米機動部隊の一部は前出の「利根4号機」によって発見されますが、「筑摩5号機」が「利根4号機」を引き継いで米機動部隊との接触を継続し、南雲機動部隊の主力空母被弾後、一隻だけ残った「飛龍」が放ったの攻撃隊を米機動部隊に誘導した後、未帰還となっています。

海戦後、内地で修理・整備の後、「筑摩」は第8戦隊の一員として、新編成の空母機動部隊(第3艦隊)の編入されました。第2次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加し、南太平洋海戦では米艦載機による攻撃で艦橋付近に命中弾、至近弾による浸水、さらには魚雷発射管付近への命中弾を受けるなどして、一時は戦闘不能状態となりました。

 内地で損傷箇所の修理後、中部ソロモンでの作戦活動に復帰、機関の不調を内地で修理するため戦列を離れた「利根」に代わり第8戦隊旗艦となり第2艦隊を期間に編成された水上打撃部隊(遊撃艦隊:第2艦隊司令長官栗田中将指揮)に編入され、ラバウルに進出した直後、米機動部隊のラバウル空襲により損傷。比較的損傷の軽かった「筑摩」はトラック泊地に退避後、内南洋(トラック諸島周辺)に留まり周辺での作戦行動を続けました。

その後、いったん内地で損傷修理、整備を行った後、「筑摩」は僚艦「利根」と共に南西方面艦隊に編入され、インド洋での通商破壊作戦に従事しました。

マリアナ沖海戦参加を経て、1944年10月、レイテ沖海戦に、第一遊撃部隊(栗田艦隊)第7戦隊(旗艦「熊野」)の一員として参加します。

サマール島沖海戦では米護衛空部部隊を追撃し砲撃を加えますが、護衛空母艦載機の雷撃攻撃で艦尾に避雷し、舵故障と速度低下で部隊から落伍してしまいました。その後、再度米軍機の空襲を受け、艦中央部に複数の命中弾を受け、味方駆逐艦「野分」により雷撃処分されました。

「筑摩」乗組員は雷撃処分に当たった駆逐艦「野分」に収容されましたが、「野分」も後に米艦隊に撃沈され、生存者は海戦時には索敵発進し、そのまま地上基地に向かった水上偵察機の搭乗員を除くと、「野分」に救助されず、米艦隊に救助された1名と撃沈された「野分」から救助された「野分」「筑摩」の生き残り1名、計2名と言われています。

 

 

こうして、軍縮条約の制約から、本来は軽巡洋艦として生まれながら(あるいは「生まれる予定」ながら )条約終了後、重巡洋艦として就役した「条約の落し子」巡洋艦を今回は紹介してきたわけですが、彼女等は、航空機の発達に伴う海戦様式の変更から、なかなか本来の重巡洋艦としての打撃力を生かした活躍の場を見出せなかった、と言っても良いのではないでしょうか?しかし「利根級」はその設計の先見性から、その砲装備以外のところで、空母時代に適応した一定の活躍をした、と言えるでしょう。

重巡洋艦にならず、つまり主砲を換装せず、軽巡洋艦として圧倒的な火力を保持した新時代の水雷戦隊の中核としてソロモン諸島での夜戦に活躍する「最上級」や「利根級」の姿も見てみたかったなあ、と思ってしまいます。

 

というわけで、今回はここまで。

このシリーズの次回は、・・・・もう少し残っている巡洋艦群をご紹介する予定です。

 

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