相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第4回 連合艦隊結成と黄海海戦(その2)第一遊撃隊、その他

f:id:fw688i:20180917162826j:image引き続き、黄海海戦時の連合艦隊、である。

第一遊撃隊は坪井航三少将を司令官とし、吉野、高千穂、秋津洲、浪速の4隻の防護巡洋艦で編成されていた。いずれも建艦年次の新しい当時の新鋭高速艦で、軽快に機動し、中口径砲の連射、速射砲の薙射で敵艦の上部構造を破壊することが期待された。f:id:fw688i:20180917161354j:imageいずれの艦も、15センチ砲、12センチ速射砲を主要兵装とし、18ノットから23ノットの高速を誇った。(主隊の松島級は16ノット、清国主力艦定遠級は14.5ノット)

 

防護巡洋艦には「始祖」と呼ばれる艦がある。黄海海戦における連合艦隊を主題とする本稿からは少しそれるが、恐れずに寄り道をしよう。

 

最初の防護巡洋艦エスメラルダ」-Esmeralda :protected cruiser: Izumi - (1884-1912: 1894、日本海軍に売却、以降、巡洋艦「和泉」)

前稿でも述べたが、防護巡洋艦とは、舷側装甲を持たず機関等の主要部を艦内に貼られた防護甲板で防御する構造を持つ。そのために艦は軽快で、限られた出力の機関からでも高速力を得ることが出来た。通商破壊、あるいはその防止を主要任務とする各国巡洋艦に最適な構造として、この時期、各国がこぞって採用した。

その嚆矢はチリ海軍の「エスメラルダ」であるとされている。

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和泉 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 「エスメラルダ」はイギリス・アームストロング社製。前述の様にチリ海軍によって発注された。(68mm in 1;:1250)

建造時には、3000トン弱の船体に、主要兵装として25.4センチ単装砲2門を主砲、他に15センチ砲6門を装備し、18ノットの速力を出すことが出来た。日清戦争中の1895年に日本に売却され、艦名を「和泉」とした。日本海軍に移籍後、主砲を15センチ速射砲に、その他を12センチ速射砲に換装するなどして、日露戦には、第三艦隊の序列に加わった。

本艦がアームストロング社エルジック造船所で建造されたところから、以降、同様の設計で建造された防護巡洋艦は、造船所の場所に関わらずエルジック・クルーザーと呼ばれた。日本海軍の防護巡洋艦は、フランスで生まれた松島型・千代田を除いて、すべてこの形式である。

黄海海戦における第一遊撃隊の各艦は、全てこのエルジック・クルーザーの系譜に属している。

 

浪速級防護巡洋艦 -Naniwa class :protected cruiser-(浪速:1886-1912 /高千穂:1886-1914)

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浪速型防護巡洋艦 - Wikipedia

日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦の建造を決定した。

そのうち、イギリスに発注された2隻が、浪速級防護巡洋艦であり、「浪速」「高千穂」と命名された。

設計にあたっては、当時、世界の注目を浴びた優秀艦「エスメラルダ」(前述)をタイプシップとして、防御甲板の増強による防御力の向上、主砲口径の拡大など、若干の改良が盛り込まれた。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する、日本海軍最初の艦である。

上記の改良により船体は大型化し3,700トンとなり、26センチ主砲2門、15センチ砲6門を主要兵装として備え、速力は18ノットを発揮することが出来た。(77mm in 1:1250)

日清開戦時の「浪速」の艦長が東郷平八郎であり、彼と「浪速」は、開戦劈頭の「高陞号事件」で名を挙げた。

日清戦争後、兵装を15.2センチ速射砲に換装し、日露戦争に望んだ。日露戦争では第二艦隊に所属、主力の装甲巡洋艦を補佐した。

 

ちなみに、明治16年の拡張計画の残りの1隻は、フランスに発注され、「畝傍」と命名された。前回「千代田」の項でも触れたが、「畝傍」は日本への回航途上で消息を絶ち、日本にたどり着くことはなかった。

 

秋津洲 Akitsushima :protected cruiser- (1894-1927)

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秋津洲 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 「秋津洲」は、巡洋艦のような大型艦としては、設計から建造まで初めて日本国内で行われた、記念すべき軍艦である。

3,150トン、19ノットの快速を発揮し、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門を装備した。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する。設計当初から巨砲を主砲とせず、当初から速射砲を装備した。他の防護巡洋艦の多くが、就役時に装備した主砲を、その後速射砲に換装していること考えると、まさに慧眼である。本艦以降、日本海軍の防護巡洋艦は、速射砲中心でその兵装を整えて行く。(80mm in 1:1250)

前回に触れたが、「秋津洲」の艦名自体は、エミール・ベルタン設計になる32センチの巨砲搭載艦、松島級巡洋艦の四番艦に予定されていた。しかしながら、松島級の設計の無理に気づいた海軍によって、松島級は三番艦までで打ち切られ、全く新しい設計の防護巡洋艦である本艦に、改めて与えられた。「秋津洲」とは、本来、日本列島の本州の古い呼称であり、「四景艦」に加えられるよりも、初の国産防護巡洋艦の名として、よりふさわしい、と考えるがいかがだろうか。

 

吉野 -Yoshino :protected cruiser - (1893-1905:吉野級防護巡洋艦 同型艦:髙砂/1898-1904)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野型防護巡洋艦

明治24年度計画で、イギリス・アームストロング社に発注された。建造は同社エルジック造船所で行われ、まさに本家のエルジック・クルーザーである。

その特徴は何をおいても23ノットという高速にあり、就役当時は世界最速巡洋艦、と言われた。4,200トンの船体に、「秋津洲」同様に兵装は全て速射砲で揃えた(15.2センチ速射砲4門・12センチ速射砲8門)。 (91mm in 1:1250)

黄海海戦にあたっては、第一遊撃隊の旗艦として、坪井少将が座乗した。

同型艦高砂日清戦争後に発注され、主砲口径を20.3センチにするなど、いくつかの改良点が見られる。

その後、「吉野」は日露戦争には、第3戦隊の一隻として参加したが、「魔の1904年5月15日」、封鎖中の旅順沖を哨戒中に濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没した。同日、機雷で戦艦「初瀬」「八島」を喪失し、日本海軍にとって災厄の1日となった。

同型艦高砂も、同年12月13日にやはり旅順閉鎖作戦中に触雷して失われた。

 

別働隊のこと、あるいは砲艦「赤城」-Akagi :gunboat-

黄海海戦については、前述の連合艦隊の主隊、遊撃隊以外に別働隊があった。

後世からは信じがたいことながら、海軍の全作戦を総覧すべき軍令部長樺山資紀中将が「督戦」と称して、日本郵船所有の「西京丸」(2,900トン 14 ノット)に、速射砲等数門を搭載し、急造の仮装巡洋艦としてこれに自ら乗り込み、戦場に臨んだ。軍令部長を裸で出すわけにもいかず、砲艦「赤城」を護衛としてつけ、小艦隊を編成した。

明治のこの時期、時代はこのような空気の中にある。

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赤城 (砲艦) - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/西京丸

砲艦「赤城」は摩耶級砲艦の4番艦である。造船技術の国内における成長期に当たったため、4隻は同型艦ながら、鉄製、鉄骨木皮、鋼製と、構造は異なっている。「赤城」は鋼製の船体で、660トン、12センチ砲4門搭載し10ノットを発揮する。(1890-1953)

 

この小艦隊は、軍令部長の「戦況視察」と言いながら、戦場の外にはとどまりきれず、一時は敵前孤立状態となった。開戦後の調査で「西京丸」は被弾12発を数え、護衛の「赤城」では戦闘中に、艦長、航海長戦死、というほどの損害を受けた。

 

上掲の写真に写っている「赤城」は別のレジンキットをベースにしたセミクラッチである。(35mm in 1:1250)

汽船の方は「西京丸」ではない。資料の「西京丸」の写真を見る限り似てもいない。今のところ「西京丸」の1:1250スケールのモデルは見当たらず、手持ちに似ている船も見当たらない。現在、1:1500スケールでの3Dモデルを供給しているカリフォルニアのメーカーに、1:1250へのスケールアップ(ダウン?)をリクエスト中であるが、「もうすぐやるから」という、軽いが快い返事をいただいている。

今回は、仕方なく「全長がほぼ同じであること、と、なんとなく、明治期の汽船の雰囲気がありそう」な船を代役として起用した。(残念ながら、Chios という船名のドイツ船、あるいはギリシア船籍の貨物船、という以上の情報が見当たらない。が、何と言っても姿がいいので、ご容赦願いたい)(80mm in 1:1250)

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おまけ:幻の防護巡洋艦「畝傍」-Unebi :protected cruiser-

もう一つ、代役つながりで、明治16年度計画の幻の防護巡洋艦「畝傍」について。

「畝傍」は、前述の様に「浪速」と同時期にフランスに発注された。「浪速」同様、最新式の防護巡洋艦、であるはずなのだが、その外観は、やや古めかしい三檣バーク形式の汽帆併用船である様に見える。

畝傍 (防護巡洋艦) - Wikipedia

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮する艦として、設計されている。ほぼ「浪速」に同等なスペックを持っている。

「畝傍」については、1:1250スケールでモデルが出ているが、残念ながら筆者は入手に至っていない。

http://www.klueser.eu/kit.php?index=3740&language=en

そこで、今回はロシア巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」(1882-1932)に代役を務めていただく。もちろん「畝傍」とは、煙突の数等、いくつかの相違点があるが、艦型等、雰囲気が伝われば幸いである。

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パーミャチ・メルクーリヤ (巡洋艦) - Wikipedia

(80mm in 1:1250)

 

さて、次回からは、いよいよ六六艦隊について話を進めて行こう。

 

***模型についての質問、はお気軽のどうぞ。

合わせて上記のChiosについての情報をお持ちの方は、是非、ご教示いただきたい。

 


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第3回 連合艦隊結成と黄海海戦(その1)

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明治維新は、そもそもアヘン戦争に敗れた清国が列強の蚕食を受けることを間近にした危機感から始まったと言っていい。

当時の清国は確かに国家としての晩年期を迎えていた。体制は弾力を失い、民心を繫ぎ止めるには宮廷も官僚も、その腐敗が過ぎた。列強はこの支配階級の肥大した我欲に付け入り、「眠れる獅子」などと煽て、あるいは半ば本当に恐れながら、眠りを覚まさぬよう注意深く利益を貪り続けた。

維新により、ともかくも自存を保ち得たと自負する日本は、同様の危機感を持って隣の朝鮮をみた。朝鮮は大陸から日本に向けて南に垂れ下がった半島国家であり、その地続きの大陸は今や列強の草刈り場となろうとしている。そのまま列強の南下が進み、この半島に列強のいずれかが拠点を持てば、即、日本の自存が脅かされる。その、ひりつくような危機感に煽られ、日本は朝鮮に、半ば強引に派兵することによって、保護の手をさしのべた。

その、手前勝手で一方的な「好意」を、永く清国を宗主国と仰ぐ朝鮮王国は、当然のことながら好意としては受け取らず、清国に泣きついた。あるいは、儒教国家として成熟した朝鮮には、同じ文化圏にありながら、その東洋的には洗練された習俗を全てをかなぐりすてる様にしてまで、いち早く欧化を遂げた日本に対して、当然その危機感を理解できず、一種の侮蔑感もあったであろう。

この要請に清国は応え、こうして日清両国は、戦端を開くに至った。

 

日清開戦を迎え、日本海軍はそれまでの「常備艦隊」と「警備艦隊」の建制を改め、水上兵力を一元の指揮の下におく「連合艦隊」を編成した。初代連合艦隊司令長官には、常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将が就任した。

 

黄海海戦時の連合艦隊

日清両海軍の決戦場となった黄海海戦にあたり、前回に少し触れたが、当時アジア最大、最強を誇る「定遠」「鎮遠」の二大堅艦を中央に横陣をはった清国北洋艦隊に対し、日本海軍は「主隊」「遊撃隊」の二つに艦隊を単縦陣にわけて臨んだ。

「主隊」は、連合艦隊司令長官伊東祐亨中将が直卒し、旗艦松島以下、千代田、厳島、橋立、比叡、扶桑の六隻で編成された。

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このうち比叡と扶桑については、前稿で触れた通り明治海軍初期の主力艦であり、この海戦の時点では既に旧式艦であった。

 

千代田 -Chiyoda :protected cruiser-  (1891-1927)

残りの四隻のうち、「千代田」は、フランスに発注されながら、日本への回航途上で消息を絶った巡洋艦「畝傍」の保険金により調達されたといういわく付きの巡洋艦である。イギリスで建造され、舷側水線部に貼られた装甲帯を持つところから「日本海軍初の装甲巡洋艦」ともいわれることもあるが、2,500トン、主砲は持たず12センチ速射砲を舷側に10門装備した、正確には装甲帯巡洋艦、一般的には防護巡洋艦に分類されるであろう。(75mm in 1:1250)

19ノットの当時としては快速でありながら、重厚な連合艦隊主隊に組み込まれたため(おそらく、その装甲帯のため?)、その快速を発揮する機会は、黄海海戦においてはなかった。

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千代田 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 

三景艦:松島級防護巡洋艦 -Matsushima class :protected cruiser- 

(厳島:1891-1925/ 松島:1892-1908/ 橋立:1894-1925 

艦名が日本三景(松島、厳島、橋立)に寄るところから「三景艦」として名高い三艦である。

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フランスの造船家エミール・ベルタンの設計であることはつとに知られている。

清国の当時アジア最強を謳われた定遠級戦艦(砲塔装甲艦)「定遠」、「鎮遠」に対抗する艦として設計された。

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松島型防護巡洋艦 - Wikipedia

 

これらの艦の最大の特徴は、4,000トン強の小さな船体に巨大な38口径32センチ砲を主砲として一門搭載していることで、主砲自体の性能は、射程、口径、弾丸重量ともに、「定遠級」の主砲(20口径30センチ砲)を凌駕することができた。「厳島」と「橋立」はこの主砲を前向きの露砲塔に搭載し、「松島」は後ろ向きに搭載している。「アジア最強の戦艦を上回る強力艦を手に入れた」と国民の少年のような高ぶりが伝わってくるような気がして、ある種微笑ましい。

早速、連合艦隊も「松島」をその旗艦に据えた。(75mm in 1:1250)

 

防護巡洋艦である、と言うこと。あるいはその主砲

三景艦はいずれも舷側装甲を持たない、いわゆる防護巡洋艦である。

防護巡洋艦は、艦内に貼られた防護甲板により、艦の生命線である機関を防御する構造を持ち、舷側装甲を持たないが故に軽快で、限られた出力の機関から高速を得ることができる。また、日本海軍をおそらくほぼ唯一の例外として(日本海軍は、全ての艦種において、常に艦隊決戦をその主任務として意識した)、世界の列強海軍においては、巡洋艦に想定される最も重要な任務は通商破壊、あるいはその防止であり、長い航続距離、商船に対する優速性等を備えていることが期待された。そうした任務に向けては、防護巡洋艦は最適な艦種であったと言え、世界の海軍でこの時期、もてはやされた。

一方、松島級は、舷側装甲こそ持たないが、清国主力艦との決戦を想定し艦型の大きさに対し不相応と言っていい巨砲を搭載する、という宿命を背負って生まれた。そのため速力は16ノットに甘んじた。

それぞれ艦首尾方向に向けて搭載された32センチ主砲は、いずれも左右140度の旋回が可能である。主砲以外には舷側に12センチ速射砲を11-12(松島)門装備している。

この時代、中央で制御された砲撃術は未成立で、砲側照準の独立撃ち方が基本であり、したがって有効射程距離は2000−3000mであった。しかも前稿でも示したように巨砲の発射速度は1時間に2−3発で、従って余程のことがない限り当たらない。松島級の主砲では、発射速度は5分に1発程度と改善されているが、砲撃術が未成立である以上、長距離での命中は期待できないことに変わりはない。

例えば、これも前稿に記載したことの繰り返しになるが、清国主力艦の定遠級の設計思想は、基本全主砲を艦首方向に向け、敵艦に向けて突進し、艦首の衝角での打突と併せてほぼゼロ距離で発射し敵艦の腹部をえぐる、という巨砲によるアウトレンジを意識しない、ある種ボクシングのような戦法であった。

松島級が搭載した32センチ砲は、砲の性能上の射程距離が8,500メートルといわれているが、その距離での命中は、上記の射撃法の未発達の状況では偶然以外にはあり得なかった。松島級の本領は、本来の防護巡洋艦らしく優速を生かした機動性と、舷側の速射砲による敵艦上部構造物と乗組員の破壊にあったと言え、実際にそのように戦い、勝利した。

いま少し、主砲の話を続ける。

上記の通り、防護巡洋艦本来の戦い方として舷側速射砲を有効に機能させるには、同航戦か反航戦、あるいはT字戦を行わねばならない。いずれにせよ舷側を敵に向けねばならならない。その際に、主砲もまた射撃を行うとすれば砲身を舷側方向に向けねばならないが、実は松島級は、予算及び当時の日本の港湾施設の大型艦運用能力の不足からベルタンの提唱よりもさらに小型艦にせざるを得ず、側方射撃の場合、そのこともあり設計時では想定されなかった、主砲の重量と射撃時の反動により、設計以上に艦の傾斜、進行方向、速度等に影響が出るなどの不都合が生じたとされている。

黄海海戦での約5時間の戦闘中、主砲発射数は三艦合計してわずか13発にすぎなかった。

 

筆者は、常々疑問に思っている。「厳島」「橋立」の前向きの主砲は、会敵時のアウトレンジでの発射など、命中は期待せねまでも、敵を牽制し行動を乱させるなど、一定の利用法があると考える。が、「松島」の後ろ向きの主砲はどうだろう、と。反航戦でのすれ違い後の追い撃ち、あるいは強力な敵からの「離脱時」だろうか?その「松島」を旗艦とし、主隊単縦陣の先頭に据えた日本海軍の戦い方とは、どのようなものであったのだろうか、と。

 

四景艦

実は松島級は、ベルタンの構想では4隻で1セットだったという。本来は「四景艦」だった。「松島」と同一設計の主砲を後ろ向きに搭載した艦がもう一隻計画されており、艦名は「秋津洲」が予定されてた、という。

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この計画は、主砲運用の課題に気づいた海軍により、三隻で打ち切りになり、これを告げられた際に、国内での3番艦、4番艦の建造に立ち会うために来日していたベルタンが、激怒して帰国してしまう、というおまけがついた。

四景艦として置いてみる。艦首向き主砲艦、艦尾向き主砲艦の組み合わせで、1セットだと言われている。やはり艦尾向きの主砲はどの様に用いるのだろうか。

 

 

それにしても、「三景艦」とは、なんと雅な命名であろうか。

その実効性はさておき、その「主砲」にこめられた無邪気とも言うべき国民の誇り、憧れ、期待もあわせて、その名と共にシルエットは美しい。

そして、この「一点豪華」に対する憧れは、日本の主力艦の系譜に脈々と受け継がれて行くように思われる。

 

次回は、黄海海戦の「遊撃隊」とその他。

 


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第2回 初の戦艦 初代「扶桑艦」と「鎮遠」、その周辺

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扶桑艦と鎮遠。この二隻は日清戦争においては敵として相見え、日露戦では同じ艦隊で、味方として戦った。それぞれ1878年、1885年の就役であるが、わずか10年足らずの間に、建艦思想、戦術ともに大きく変化した。今回はそれぞれの年代をある種代表する両主力艦のデザインを通して、その辺りをたどることが本稿の目的の一つとなる。

 

初代 扶桑艦 -Fuso :ironclad-(1878−1910)

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扶桑 (甲鉄艦) - Wikipedia

明治初年、海軍は、旧幕府、諸藩の寄せ集めによって設立されたと言っていい。軍艦も同様である。

そこで、戊辰戦争佐賀の乱台湾出兵西南戦争を経て、近代的な軍艦の整備が急務とされた。

明治政府は1875年、イギリスに3隻の軍艦を発注した。その一隻が「扶桑艦」である。

「扶桑艦」は竣工当初は三本のバーク型マストを持つ汽帆走併用艦であった。明治海軍として初の装甲艦で、中央の砲郭にクルップ式20口径24センチ後装式主砲四門を収納し、4000トン足らずの小艦であることを除けは、当時の列強主力艦の形式を踏襲していた。後述の「鎮遠定遠級)」の登場までは、アジア唯一の装甲艦であった。

1:1250の世界では、55mmほどの大きさである。(55mm in 1;1250)

就役当時の姿は下の写真をご参考に。

***但し、「扶桑艦」自体の写真ではないのでご注意を。一般的に巡行時には帆走を用い、出港、入港などの際には機関を用いるという運用である。そのため中央の煙突は帆走時には収納できる伸縮式だった。

主砲は船体中央の四角の砲郭:写真ではボートの下辺り:のほぼ四隅に配置されている。この、堅牢に装甲された中央砲郭は、少し船体外部に張り出している場合が多い。下記のモデルでは、張出でなく、船体自体に、前後方向に向けて斜めに切れ込みがあり、射界をを与える工夫がある。この砲郭への主砲配置により、自艦にとっても脅威となりうる巨砲の弾薬に対しては充分な防御を与えつつ、主砲にできる限り広い射角を与え、反航戦・同航戦、あるいは突撃戦においても、最大限主砲を活用しよう、というのが、この設計の基本思想であるように思われる。

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さて、「扶桑艦」に話を戻すと、就役から約20年後に機関を換装、帆走装備をほぼ廃し、二本のコンバットマストを持つ冒頭の写真の近代的な姿となり、日清戦争に臨んだ。

日清戦争当時も、日本海軍としては唯一の装甲艦で、艦隊行動においては、すでに低速に苦しむ旧式艦となりながらも、連合艦隊本隊に所属し、黄海海戦等で「鎮遠」と対決した。

大きさ、艦形、いずれをとっても所謂「戦艦」の要件は満たしていないが、のちに二等戦艦に艦種が変更されたため、日本海軍「初」の戦艦とされている。

 

鎮遠定遠級甲鉄砲塔艦)-Ting Yuen class - (1885-1911)

清国北洋艦隊ー戦利艦として日本海軍に編入

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鎮遠 (戦艦) - Wikipedia

ドイツ生まれ。就役当時、東洋一の堅艦と言われた。(75mm in 1:1250)

ドイツで建造されたが、こちらも当時流行のイタリア砲艦と言われる型式である。トップヘビーを避けるために、低い両舷にオフセット配置された砲塔に20口径30センチ砲を連装型式で収めている。砲はクルップ社製の後装砲であった。

写真の外観を見る限り、主砲と若干の副砲、小さな司令塔を除き、ほぼ余分な構造物がなく、ドイツ的な理論美(?)を醸し、いかにも堅艦と呼ぶにふさわしい。

乾舷はやや低すぎるような気がするが、北洋艦隊の受け持つ主戦場が黄海周辺であることを考慮すると、いらぬ危惧、と言えるのかもしれない。

しかしながら、この主砲、30センチの当時として群を抜く巨砲ながら、20 口径の短砲身で、有効射程は2000メートルほど、毎時三発程度の射撃速度、だったという。(「毎分」ではない、毎時、である)また、堅牢に見える砲塔だが、装甲砲塔ではなく、露砲塔にフードをかぶせたでものであり、破片防御程度の厚さしかなく、実際に黄海開戦時には、内部にこもる発射煙により兵員の活動が妨げられるため、フードは外されていたそうだ。

それでも日本艦隊の旗艦「松島」に命中した一発は、たった一発で100名近い兵員を死傷させ、しばらく旗艦を戦闘不能にするほどの威力があったし、小口径砲弾の乱打を浴びながらも、機関等の主要部には損害が及ばなかった。

そもそも、「鎮遠」の設計思想では、その威力が艦前面に集中されている。砲塔は両舷共に艦首方向を指向し、艦首方向に射界を確保している4門の巨砲と、艦首の水面下の衝角により、敵艦の腹部を破る、という戦闘を想定している。これは普墺戦争中のリッサ海戦(1866)でのオーストリア海軍の勝利に範をとったものと思われ、そう考えると、黄海開戦時の北洋艦隊が横陣(その後の海戦史を知る目から見ると、いかにも旧弊に見える)を押し出してきた丁汝昌の戦術は頷ける。(そういう目で見ると、北洋艦隊の多くは、主要な兵装を前部に集中している)

但し、悲しいかな小口径速射砲の射撃速度の向上と、軍艦そのものの速度の向上などが、この戦闘思想を時代遅れにしてしまった。

 

鎮遠」は日清戦争後、戦利艦として日本海軍に編入され、艦名を変更せずに前述の「扶桑艦」と同様、二等戦艦に分類された。

日露戦争時には、「扶桑艦」と同じ第三艦隊に所属し、主として索敵、護衛等の任務に当たった。

 

以下は今回のおまけ。

その周辺(1) 巡洋艦「筑紫」-Tsukushi :protected cruiser/ gunboat- (1882-1908)

下の写真は、日清戦争当時、若き尉官として秋山真之が乗り込んだことで知られる巡洋艦「筑紫」である。この艦上で、秋山は部下を失い、自身の海軍士官としての適性に疑問を持ったというエピソードは有名である。(55mm in 1;1250)

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筑紫 (巡洋艦) - Wikipedia

巡洋艦、と呼称されているが、実際には1,350トン程度の小さな艦で、砲艦と防護巡洋艦の過渡にあると言っていい。前後の天蓋下に25センチ砲を一門づつ納めている。チリ海軍がイギリスに発注した3隻のうちの1隻を建造途中から日本海軍が買い取ったもので、残り2隻は清国海軍が買い取って、日清戦争当時には同型艦が敵味方にそれぞれ所属していた。(この清国所属の両艦は、黄海海戦でいずれも戦没している)

「筑紫」は日清戦争には、所謂主力艦隊には属さず、警備活動、要塞攻略支援などに当たった。続いて日露戦争にも参加。「扶桑艦」「鎮遠」と同じ、第三艦隊に所属している。

 

その周辺(2) 金剛型コルベット -Kongo class :corvette-

金剛(1878-1908)  比叡(1878-1911)

「扶桑艦」と同時に、新生明治海軍の主力艦としてイギリスに発注された2隻の軍艦が、この金剛型コルベット(金剛、比叡)である。(55mm in 1:1250)

装甲艦として設計された「扶桑艦」と異なり、鉄骨木皮の三檣バーク形式の船である。木皮ながら、舷側、水線部には装甲板を装着している。帆走時代の航洋船の流れを汲む優美な艦影である。

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金剛型コルベット - Wikipedia

黄海海戦においては、同級の「比叡」が、すでに老艦ながら「扶桑艦」同様、連合艦隊本隊に参加している。おそらくその劣速のせいで、主隊に追随できず、清国北洋艦隊の横陣に割って入るような敵中突破行動をとり集中砲火を浴び、一時戦闘不能に陥いる危い場面もあった。

日露戦争には、さすがに主力としての性能はなく、警備活動など、支援的な役割で参加している。

 

初回の投稿から、ほぼ一週間が過ぎた。

素材の準備等から、もう少し頻度の高い更新を、と計画したのだが、この辺りのペースが適当であるような気がしている。もしも楽しみにしていてくださる方がいるとして、何れにせよ、気まぐれな頻度での更新となることはご容赦願いたい。

また、本来の1:1250模型について、もしご質問等があれば、どうか気軽にご質問いただきたい。

 

次回は、もう少し、日清戦争時の連合艦隊について触れてみようと考えている。

そして、いよいよ六六艦隊のお話へ・・・。

 


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第1回 究極! イージス艦「やまと」と、小さな海軍の星 「東艦」(旧ストーンウォール、旧甲鉄)

既にどなたかの文章で目にした記憶もあるが、重複を恐れずに記すと、1:1250スケールは日本でこそ傍流であるが、特に欧州においては多くのメーカのひしめく国際スケールとして認知されている。

その多くは、ダイキャスト製の完成品として販売されている。そのラインナップは商船から軍艦、多くの未成艦、計画艦、架空艦を含み実に多岐にわたり、時代はギリシア・ローマ期まで遡ることができる。

ここでは、その魅力の一端を、主力艦の変遷を、主として日本海軍を軸にして追いながらご紹介できれば、と考えている。

その中には八八艦隊計画大和級の発展型なども、含まれている。筆者なりの解釈(妄想)を経て、という条件付きの具現化ではあるが。(ご期待に添えるかどうか、そこはどうか寛容な御心で見ていただきたい)

 

この話の流れに添えば、まずはこのブログのタイトルの背景に掲げた見慣れぬ(あるいは、どこか見慣れた)軍艦の写真について説明しなくてはならない。

なぜなら、これは大和級の究極形であり、ここへたどり着く主力艦の変遷をたどることが、このブログの当面の目標になると考えている。

 

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海上自衛隊 イージス艦 やまと -Aegis BB Yamato-

これは、大和が大戦を生き残り海自のイージス艦として再生されたなら、という設定で、筆者がセミ・スクラッチしたものである。

FaceBookの”Cancelled, Never Were & What If Ships - Plastic Model Ships”というグループに”Aegis BB Yamato”というタイトルで投稿したところ、かなりの反響をいただいた。皆さん、本当に、大和は好きだと感じた。

このグループは本来、その表題にもあるように未成艦、計画艦、If艦をプラスティックモデルで製作する人達のグループである。私の投稿は、船体がダイキャスト製、上部構造・砲塔はプラスティック(f-toys製・Atlas製)ということで、ギリギリ、レギュレーションをクリアできていると認識し投稿させていただいた。

もしご興味のある方は、こちらへどうぞ。 

https://www.facebook.com/groups/208708329671558/

www.facebook.com

海自のイージスシステム搭載の大和といえば、故佐藤大輔氏の「征途」が著名だが、私もこの作品から製作の発想をいただいた。

「イージス やまと」の制作にあたっては、そのデザインの段階で、46センチ主砲の斉射にイージスシステムが耐えられるか、主砲砲口の直下にあるVLSは大丈夫なのか、など、いくつかの疑問を積み残している。また、おそらくVLSの位置は、大和のバイタルパートの外になってしまっているのだが、大量のミサイルを収納する場所として、本当にそこでいいのか、とも考えた。

ならばいっそ、三番主砲塔を撤去しそこにVLSを集中装備するか、とも考えたが、その末のフォルムを私自身が受け付けなかった。やはりそれでは「大和」ではなくなってしまう。

上記のFaceBookのグループでも「そんなことを考えるなんて、君はなんてやつだ。絶対に主砲は外しちゃダメだ」と、不思議な激励を受けた。

If艦は、If艦で、いい。そういうことなのだろう。

一つストーリーがあるとすれば、イージスシステムが健常に機能している間は、おそらくイージスシステムは主砲を選択しない。全てのミサイルを撃ちつくし、さらにその後に大きな脅威が現れた時にのみ、主砲は選択される。ましてや運用しているのは海上自衛隊である。沿岸部に艦砲射撃、などという場面はまず発生しない。・・・ということに、しておこう。


さて、こうしてイージス艦「やまと」への道程を辿り始めるわけだが、始まりはどこに置こうか、と実は数日の逡巡があった。その時に司馬遼太郎関ヶ原の冒頭の一文が頭をよぎった。

ヘンリー・ミラーは、「いま君はなにか思っている。その思いついたところから書き出すとよい」といったそうだ。そういう具合に話をすすめよう”

では、そのようにはじめよう。

 

「東艦」-Azuma /ex-Stone Wall-(1864−1888)

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東艦 - Wikipedia

やはり最初は「東艦」がふさわしい。

フランス生まれ。アメリカでの南北戦争を経て、ご承知のように幕府によって購入されながら、新政府軍の手に渡り戊辰戦争に参加。中古艦ながら、設計時から種々の新機軸を満載し、問題のあった兵装も日本に回航される前に一新され、函館政府の榎本海軍に対し劣勢にあった新政府の主力艦、期待の星となった。

1:1250スケールの世界では、5センチに満たない小さな艦である。

戊辰後も、佐賀の乱台湾出兵そして西南戦争と、新生明治海軍の主戦場には必ず彼女の姿があった。

明治初年の、再び司馬遼太郎の言葉によれば「まことに小さな国」の小さな海軍の黎明期の主力艦である

イージスやまとに至る「主力艦」の始まりとしてはいかがなものか、とのご意見もあろうかとは承知するが、なにせ気に入っているのだからご容赦いただきたい。

 

さて、最後に、スタートとなった東艦とゴールを予定しているイージス艦「やまと」の比較写真をおまけに。

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この二隻の間に、およそ150年の時が横たわっている。あるいは、オリジナルの「大和」就役までの時間軸でとらえれば、「わずか70年余り」という表現の方が、よりふさわしいかもしれない。

 

さて、主力艦の変遷をたどる旅、多分、寄り道満載での長丁場になると思われるが、お付き合いいただければ幸いである。

 

次回は、初代扶桑艦とライバル(?)鎮遠、その周辺

 


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