相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

新着モデルのご紹介:シュラウドの再現の更新と併せて:日本海軍の黎明期の艦船

今回は新着モデルのご紹介です。

明治海軍黎明期の唯一の装甲艦「扶桑艦」の就役時のHai製モデルと、同様に黎明期の砲艦「鳥海」(「摩耶級」砲艦)のやはりHai製モデルを入手したので、こちらをご紹介します。

併せて最近の本稿の流れ(というか筆者のモデル御アップグレードの関心事項)に沿って、例によってマスト周りのディテイルアップも含め、両艦の周辺の艦級もご紹介。

そんなお話でお付き合いください。

 

新着モデル:長らく探していたHai製就役時のモデル

装甲艦「扶桑艦」(1878年就役:同型艦なし)

ja.wikipedia.org

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(装甲コルベット「扶桑艦」の概観:55mm in 1:1250 by Hai:モデルは就役時を再現したものです。当時の軍艦のとしては標準的な帆装と蒸気機関の組み合わせで、航続距離と自前の機動性を兼ね備えた設計です:マスト周りは本稿で新たに標準的なディテイルアップを施しています)

同艦は1875年度予算で建造された日本海軍初の鉄製軍艦でした。

日本海軍は明治維新後の1875年の海軍省設立とともに成立したと考えるのが一般的ですが、当時の海軍艦艇は旧幕府海軍、旧諸藩海軍から供出された軍艦の寄せ集めで、数も10隻をようやく超える程度、そのほとんどが「練習艦任務には耐える」、と言う規模と実情でした。

内政的には1874年の佐賀の乱を皮切りに不平士族の反乱が相次ぎ、一方外政では台湾出兵などによって、有力な軍艦による本格的な海軍艦艇の整備の必要性が痛感される時期でもありました。

こうして前述のように1875年度予算で明治政府としては初めての新造艦となる3隻の軍艦が海外に発注されました。

そのうち2隻は木造船体に舷側装甲帯を装着した2300トン級の装甲コルベット金剛級」(モデルは以下でご紹介します)で、残る1隻が同艦「扶桑艦」でした。

就役時、同艦は3700トン級の船体を持つ、日本海軍初の全鉄製の軍艦で、装甲フリゲートに分類されていました。日本海軍では当時最大の艦船だったのみならず、清国が「定遠級」装甲艦2隻を導入するまでは、アジアでも唯一の近代的装甲艦でもありました。

三檣バーク型のマストを備えた本格的な帆装能力と、イギリス製の3500馬力の機関を搭載し、13ノットの速力を発揮できる設計でした。就役当初は通常航海は主に帆走で行っており、煙突は伸縮式でした。

主砲にはクルップ社製の20口径24センチ後装砲を4門搭載し、これを船体のほぼ中央に設置した装甲艦の形態でお馴染みの中央砲郭の4隅に据えて射界を広く与える工夫がされていました。この中央砲郭部の上には副砲としてクルップ社製25口径17センチ単装砲2門が単装砲架形式で設置されていました。

さらに近接戦闘用の火器として47ミリ機関砲6基が甲板状に装備されていました。

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(装甲コルベット「扶桑艦」の中央砲郭部の拡大:同艦は装甲艦としては中央砲郭形式の艦で、艦のほぼ中央に主砲とその弾薬(自艦にとっては最大の攻撃力であると同時に、被弾時に最も防御したい対象)を防御する重厚な装甲区画を設けています。ちなみに中央砲郭部の上部に見える煙突は伸縮式で、帆走時には船内に引き込むことができました。排煙は直後の中央マストの帆装を痛めたようで、後に中央マストは撤去されます:新方式でのマスト周りのディテイルアップを施しています)

 

WTJ製モデルとの比較+マスト周りのディテイルアップの比較

WJT製の就役時モデルをいえん本稿ではご紹介しています。モデルそのものの差異も併せて、以下でご紹介しておきます。

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(装甲コルベット「扶桑艦」のWTJ製モデル:55mm in 1:1250 by WTJ:ネット素材を用いたシュラウドの再現を行なっています:下の写真は、WTJ製モデル(上段)と新方式でマストのディテイルアップを行なったHai製モデルの比較)

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兵装の更新(1886−87)

1886年から87年にかけて、兵装の更新が行われました。

主砲・副砲はそのままでしたが、機関砲の搭載数が増強され、近接火力が格段に強化されました。さらに艦首部に単装魚雷発射管2基が追加されました。

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(装甲コルベット「扶桑艦」の艦首部の拡大:WTJ製モデルでは再現されています。Hai製モデルでは確認できないかも:兵装更新時に追加された魚雷発射管の射出口の扉が艦首部の楕円型の突起です)

1894年当時の形態:近代化改装:帆装の簡略化(おそらくこの形態で日清戦争に突入)

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(装甲コルベット「扶桑艦」の帆装簡略化後の概観:見張り所を設けた2本マスト形態になりました)

1894年ごろから近代化改装が逐次行われ、まずは帆装が簡略化されます。これにより外観的には排煙の影響を大きく受ける中央マストが撤去され、二本マスト形態となって見張り所が設置されました。

1896年ごろには副砲が40口径12センチ速射砲(アームストロング社製)に改められました。同砲は盾付きの単装砲架形式で、両舷側に各1基、艦首・艦尾に各1基、都合4基が搭載され、中距離での砲戦力が強化されました。

日清戦争には黄海海戦連合艦隊の主力艦隊の一隻として参加しています。

(装甲コルベット「扶桑艦」のHai製モデルのの概観:Hai製はメタルの完成品で4基の副砲以外の兵装もかなり再現されています(下の写真))

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1900年当時の形態:速射砲の強化:二等戦艦への類別と日露戦争への参戦

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(二等戦艦「扶桑艦」by WTJ(「扶桑艦」最終形態)の概観:副砲が15センチ速射砲2門と12センチ速射砲4門に強化されています(下の写真))

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速射砲が強化され、従来の12センチ速射砲4基は舷側装備となり、艦首・艦尾には40口径15.2センチ単装速射砲(アームストロング社製)が追加され、火力が強化されています。

1898年には二等戦艦に類別され(「扶桑」と日清戦争の戦利艦「鎮遠」の2隻)、日露戦争には第三艦隊に所属して旅順要塞攻撃、対馬海峡警備、さらには日本海海戦直前の索敵警戒時には第三艦隊旗艦の任務に就きました。

その後

1905年に二等海防艦に艦種変更され、1908年に軍艦籍から除籍、1910年に解体されました。

 

ついで新着モデルではないですが、前出の「扶桑艦」と同時期に購入され黎明期の日本海軍の主力艦となった「金剛級」も、同様のマスト周りのディテイルアップをしましたのでご紹介しておきます。

金剛級」装甲コルベット(「金剛」(1878-1908)  「比叡」(1878-1911))

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(「金剛級」装甲コルベットの概観:55mm in  1:1250 by Hai: 就役時の姿を再現しています:マスト周りのディテイルアップを実施)

「扶桑艦」と同時に、新生明治海軍の主力艦としてイギリスに発注された2隻の軍艦が、この金剛型コルベット(金剛、比叡)です。

装甲艦として設計された「扶桑艦」と異なり、鉄骨木皮の三檣バーク形式の船ですが、木皮ながら、舷側、水線部には装甲板を装着した設計となっています。帆走時代の航洋船の流れを汲む優美な艦影をしています。

クルップ社製の24.3口径17センチ単装砲を主砲として、船首楼に2基並列配置、艦尾に1基と、計3基を搭載し、さらに25.4口径15センチ単装砲6基を舷側に搭載していました。対艦攻撃用に魚雷発射管1基も装備していました。

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このHai製モデルは外観的なフォルムは端正で大変良いと感じているのですが、兵装配置にはいくつか考証に不備がある様に思っています。例えば主砲3基はこのモデルでは船体の中央線上に配置されている様にみめますが、実艦では船首楼内に2基、船尾に1基という配置でした。

少し模型的な話

マスト周りのディテイルアップの比較をしておきましょう。下の写真は上段が以前のネット素材でのシュラウド再現でのディテイルアップを行なったもので、下段写真は新たな方式でのディテイルアップを行なったもの。

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以前も本稿では書きましたが、今回の方式変更で特にシュラウド部分の横桁(横に張られたリグ)の再現を今後どう考えるか、が課題として残ってはいます。

黄海海戦時の「比叡」

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黄海海戦時の装甲コルベット「比叡」の概観: Hai製モデルをベースにした小改造:マストを短縮、コンバットマスト化などの改造を施しています:マスト周りのディテイルアップを実施)

黄海海戦においては、同級の「比叡」が、すでに老艦ながら「扶桑」とともに、連合艦隊本隊に参加していました。参加艦艇の中では唯一、兵装の速射砲化を行っておらず、就役時のままの兵装でした。

(Hai製モデル(就役時)をベースに改造していますので、兵装配置の誤謬はそのままです)

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**実は日清戦争当時の「比叡」については、あまり画像資料を(既述系の資料も?)見出すことができていません。装甲艦「扶桑」の準じた改装が行われていたんだろうなあと推測をしたのですが、なかなか裏付け的なものが見つからず。勝手にきっと帆装への依存度が下がり、そうするとマスト構造が簡素化、短縮され、コンバットマスト的な要素が強化され・・・。と勝手に妄想が膨らみ、そういう想定のモデルを作ってみようと決断しました。

が、見つけた!素晴らしいモデルのご紹介が下記の投稿にはあるので是非ごらんください。比較すら失礼な気がします。とりあえずご紹介させてください。

onohama.blog130.fc2.com

こちらの投稿でもあまり背景についての資料は見出せないままなのですが、筆者の推測とほぼ同じなので少し心強い。モデルは筆者のコレクションなどとはレベルが異なります。スケールが違うのですが、とてもこの真似はできません。「シュラウドは一本一本」というような記述が出てきますが、今回はこれに一応トライしています。前述のように筆者の方式には「横桁」の課題があることは自覚した上で、いろいろな方の作例からヒントが得られれば良いなあ、と考えています。

 

日清戦争時には、同級は近代化改装をおこなっていたとは言え老朽化は否めず、前述の「扶桑」同様、主隊の速力に追随できず、清国北洋艦隊の横陣に飲み込まれる危機を迎えます。変針してこの難局を乗り切った「扶桑」と異なり、「比叡」は結局、この横陣に割って入るような敵中突破行動をとるのですが、集中砲火を浴び、被弾数は23発を数えたと言われています。一時戦闘不能に陥いる危い場面もありましたが、味方の救援が間に合い、危地を脱しました。

その後

「金剛」「比叡」ともに1898年の海軍艦艇類別等級の制定によって三等海防艦に区分され、日露戦争には、さすがに主力としての性能はなく、警備活動など、支援的な役割で参加しています。

「金剛」はその後も警備業務につき1909年に除籍、「比叡」は測量業務、警備業務等に就いたのち、1911年に除籍されました。

 

こちらは新着モデル

「摩耶級」砲艦  (1883年から就役:同型艦4隻:モデルは「鳥海」)

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(砲艦「鳥海」の概観:43mm in 1:1250 by Hai: Hai製のこのモデルはディテイルも作り込まれており良いモデルなのですが、実艦の水線長が47mであることを考慮すると、同モデルの理論値上の長さは37mmで、モデルは少し長すぎます

同級は1833年から就役の始まった砲艦の艦級で、650トン級の船体に700馬力程度の機関を搭載し10ノットの速力を出すことができました。

同型艦ながら船体素材が木製から鋼鉄製へと移行する時期であったため、「摩耶」「鳥海」は鉄製、「愛宕」は鋼骨木皮、「赤城」は鋼製の船体を持っていました。備砲も各艦異なり、「摩耶」はクルップ社製15センチ砲2門、「愛宕」「鳥海」はクルップ社製21センチ砲1門とクルップ社製12センチ砲1門、「赤城」はフランス・フィブリール社製12センチ速射砲4門でした。

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(上掲の写真は「鳥海」の兵装配置の拡大:艦首に21センチ砲(上段)、艦尾に12センチ砲(下段)、舷側に25mm4連装機砲を各1基搭載しているところが再現されています。上述のように同級は各艦で兵装が異なるため、同型艦4隻を揃えたいところです。「赤城」のモデルはカタログ上は上梓されている様ですあから、是非入手したいところです)、

黄海海戦に出撃した4番艦「赤城」

上記のように同級の4番艦「赤城」は、建造年次も兵装も最も新しく、鋼製の船体を持ち、フランス製の速射砲4門を装備していました。

「赤城」は黄海海戦では軍令部長の座乗する「西京丸」の護衛にあたり、一時は敵前孤立状態となり、集中砲火を浴びる事になります。沈没にこそ至りませんでしたが、被弾数は30発を数え、戦闘中に、艦長戦死、航海長負傷というほどの損害を受けました。

日露戦争にも旅順攻略作戦等に参加し、1911年に除籍。その後民間に払い下げられ、貨物船「赤城丸」に転身を遂げています。台風・触雷と2度の沈没を経ながらも都度浮揚され、驚くほど長命な船となりました。そして最後は老朽化のため1953年に解体されました。

(Hai製のモデルがカタログ城はある様なのですが、筆者は見たことがありません。また写真も見つかりません)

「摩耶級」砲艦その後 

「摩耶級」砲艦の他の3隻は、まず「愛宕」が日露戦争中(1904年)に座礁で失われました。「鳥海」は日露戦争への参戦を経て1908年に除籍され、その後機関練習船として佐世保海兵団所属となりました。1911年に廃船されています。「摩耶」は「鳥海」同様、1908年に除籍され横須賀海兵団所属の練習船となりました。1911年に廃船とされましたが、内務省に移管され、兵庫県港湾部検疫番艦としての任務を経たのち1918年に民間に払い下げられ「摩耶丸」と改名しています。1935年頃に解体されました。

 

そしてここからは、以前ご紹介済みの鑑ですが、マスト周りをディテイルアップしたので、そちらをご紹介しておきます。

黎明期の明治海軍の艦艇

手持ちのモデルから、黎明期(「扶桑鑑」以前)の日本海軍の艦艇を順次ディテイルアップしましたので、そちらをご紹介。

 

装甲ブリッグ「東艦」(1864年竣工:1869年新政府(官軍)が購入:同型艦なし)

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(装甲ブリッグ「東艦」の概観:40mm in 1:1250 by Brown Water Navy in Shapeways: 3D printingの繊細なモデルです:新方式でのマスト周りをディテイルアップを実施

ご承知のように同艦の取得経緯には複雑な経緯がありました。

やや乱暴にまとめてしまうと、元々はアメリ南北戦争時に南軍がフランスの造船所に発注した軍艦でした。しかし北軍からの抗議で引き渡しが不調となり、続いてシュレスウィヒ・ホルスタイン戦争下にあったデンマークへの売却話がまとまりますが、デンマークの敗戦でこの話も頓挫してしまいます。再び南軍が買取を成立させ米国への回航中に南北戦争が集結し、最終的には合衆国の所有となりました。しかし米国は海軍には編入せず宙に浮いていたところを徳川幕府の渡米使節が購入したわけです(「させられた」という表現の方がいいかも)。

しかしこの話も、回航時に徳川幕府大政奉還に続く維新の騒乱に遭遇して、結局、購入者の幕府側には引き渡されず、新政府軍(官軍)に引き渡されました。

当時は「甲鉄」と命名され、唯一の装甲艦(もっとも装甲と言っても鋼鉄ではなく鋳造された鉄板を木造船体に貼り付けた構造でしたが)として、もともと海軍勢力では旧幕府に対し劣勢にあった新政府海軍の中核艦と位置付けられました。

1300トン級の船体は、本稿でもご紹介した「リッサ海戦(1866年)」でオーストリア艦隊の勝利の決め手となった「衝角攻撃」に特化した設計がほどこされており、艦首に巨大な衝角を備えた特異な形状をしていました。この艦首の衝角での攻撃をさらに有効にするために艦首楼自体を装甲された砲郭として、内部にはアームストロング社製の25.4センチ前装式ライフル砲(300ポンド砲)が装備されていました。

前装式砲は砲口から装填するため、作業効率から滑空砲(施条=ライフリングのない砲)が一般的なのですが(施条に合わせてある種の捻りを加えながら砲弾を押し込む必要があります)、同砲は砲身内に施条が施されており、砲弾も丸い円弾ではなく先端の尖った尖頭弾を用いたため貫徹性と弾道性に優れ、装填の効率性はさておき(尖頭弾を砲口からねじ込むわけですよね)、先進的な砲でした。(そもそもは前装式滑空砲だったという説もあるようですが)

同砲は「東艦」の艦首楼の正正面向きの砲門を定位置として据えられていましたが、この他に左右にも砲門が切られ、艦首の装甲砲郭から広い射界を得る設計でした。しかし実用的には12トンの砲の向きを人力で(戦闘中に)変えるのは相当困難な作業だったと思われます。

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(「東艦」の艦首楼の拡大と艦首楼構造の図(左)=石橋孝夫氏の著作「日本海軍の大口径艦載砲」から拝借しています:300ポンド砲は上述のように先進的な砲でしたが、実戦での運用は「衝角戦術」がはまった場合のみ?きっと運用が難しい砲だったんじゃないかと)

このように同艦は「衝角攻撃」と言う一点に絞って設計された軍艦だったのですが、補助的な火力として、艦のやや後ろ寄りに円形の砲郭が設けられ、ここに12.7センチ前装式ライフル砲(70ポンド砲)2門が収められていました。この砲郭には4箇所の砲門が切られており、砲郭内のレール上に搭載された砲の位置を移動して砲撃を行う設計でした。しかしわずか2門の砲での砲撃が有効だったかどうか。

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(「東艦」の艦中央後後部の砲郭の拡大と砲郭の構造と砲配置の図(右)=石橋孝夫氏の著作「日本海軍の大口径艦載砲」から拝借しています:砲郭内にはレールがあり、砲口を変えることで広い射界を与えられていました。この砲が活躍する状況は「衝角戦術」が不調、あるいはその突進を防ごうと周辺に敵艦が迫ってきた際で、それらの艦の舷側砲からの射撃に1門(なんとか頑張って2門)の砲の反撃が有効だったかどうか)

1300馬力を発揮する機関を搭載し10.5ノットの速力を発揮できました。「衝角攻撃」の確度を高める試みは推進器にも現れており、この時期としては珍しく2軸推進で、直進性に配慮が払われていました。しかし元々が南北戦争当時の米大陸周辺の浅海面での活動を想定した浅喫水の艦でしたので、戊辰戦争当時の戦闘はまだしも、日本海編入後の日本近海での活動には、課題があったと思われます。

購入した幕府海軍、あるいはそれを引き継いだ新政府海軍に、同艦の設計目的が理解されていたかどうかは不明ですが、いずれにせよ「衝角攻撃」を実践する場面は一度もなく、戊辰戦争では榎本政権下の陸上砲台と砲火を交えたりしていますが、その後は明治海軍の艦隊に在籍したものの実戦場面に遭遇することなどはなく、1888年に除籍されました。

 

徳川幕府初の国産蒸気船

砲艦「千代田形」(1866年竣工:1869年新政府海軍に編入同型艦なし)

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(砲艦「千代田形」の概観:26mm in 1:1250 by Hai: メタル製の小さなモデルです:マスト周りのディテイルアップを実施

同艦は1866年に徳川幕府が建造した「幕府初」の国産蒸気砲艦でした。

折からの開国・開港を背景として、東京湾(当時は江戸湾)・大阪湾(当時は大坂湾)の警備を目的として作られた小艦で、名称が「千代田形」となっているのは、量産化計画があったため、とされています。実際には2番艦以降は建造されませんでした。

150トンの小さな船体を持つ2檣のトップスル・スクーナー形式の機帆併装艦で、15センチ砲1門と小型榴弾砲2門を搭載していました。60馬力の機関を据え、5ノットの速力を出す設計でしたが、興味深いことに、機関の製造は先行して実用蒸気船「凌風丸」を完成させていた佐賀藩に委託されたようです。

戊辰戦争では旧幕府艦隊(榎本艦隊)に属し品川沖から脱走して北上し、庄内藩の対新政府戦闘を支援した後、蝦夷箱館に到着。ここで新政府艦隊と交戦しますが、座礁して放棄され、後に新政府に拿捕されました。

1869年に新政府艦隊に編入され、東京湾近辺の警備艦練習艦としての任務を経て、1888年に除籍され民間(日本水産)に貸与され1911年に解体されました。

 

装甲コルベット龍驤」(1869年竣工:1870年熊本藩から新政府に献上:同型艦なし)

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(装甲コルベット龍驤」の概観:57mm in 1:1250 by Brown Water Navy in Shapeways: 3D printingの繊細なモデルです:旧式で性能も平凡でしたが、重厚な外観と当時の海軍の最大艦ということもあって要人の移動や旗艦任務につく機会が多くありました:マスト周りのディテイルアプを実施

 

同艦は、維新前の1865年熊本藩が英国に発注した軍艦で、1869年の竣工後に熊本に回航されましたが、すでに新政府が発足しており、回航とほぼ同時に熊本藩から新政府に献上されました。

2500トンの船体を持つ三檣シップ型コルベットで、木造船体の舷側に装甲帯を持つ木造鉄帯構造の軍艦でした。800馬力の機関を搭載し、6.5ノットの速力を出す設計でした。

100ポンド砲2門、64ポンド砲8門を主兵装として装備していました。

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(「龍驤」の主要兵装の拡大:主砲である100ポンド砲は艦前方と後方の回転台に吸えられ、左右両舷に発砲が可能でした。射撃時には舷側の扉が開けられる構造でした(写真上段・下段:写真では100ポンド砲両側の舷側の扉は解放された状態になっています。その他の砲は舷側に切られた砲門から射撃可能でした(写真中段))

草創期の日本海軍では前掲の「扶桑艦」の登場まで最大の軍艦で、やや旧式かつ速力に課題はありながらも常に艦隊の中核にあり、旗艦を務める機会が多くありました。佐賀の乱台湾出兵に当たっては征討都督や交渉代表の乗艦となりました。明治天皇の京都・大和行幸では先導供奉艦を務めました。

1880年に航海練習艦に指定され、以降、遠洋練習航海に3回従事します。その2回目では大量の脚気患者が発生し、そのうち25名の死亡という悲劇が生まれました。この事件はその後の海軍の糧食事情の改善につながっています。

1887年の3回目の遠洋練習航海の後、1888年には予備艦とされ、機関を撤去したのち1889年には砲術練習艦となりました。

1893年に除籍され、1908年に売却されました。

 

さらに日本海軍の草創期の主力艦として、防護巡洋艦「浪速級」2隻と共に発注されながら、日本への回航途上で行方不明になった防護巡洋艦「畝傍」もマスト周りをディテイルアップしたので、こと等ご紹介しておきます。

幻の防護巡洋艦「畝傍」(1886年就役・同年遭難して喪失:同型艦なし)

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防護巡洋艦「畝傍」の概観:81 mm in 1:1250 by Hai:マスト周りのディテイルアップを実施)

日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦を英仏両国に発注しましたが、このうちフランスに発注された1隻が「畝傍」でした。

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮する設計でした。

同時期に発注された当時の最新式の防護巡洋艦であるにも関わらず、「浪速」級(次の投稿でご紹介する予定)とは異なり、直上の写真のように、流麗でやや古めかしい感じさえする三檣バーク形式の船でした。フランスから日本への回航途上で行方不明となったことはつとに有名です。

浪速級と比較すると、やや低めの乾舷と、舷側の4箇所の砲座に搭載された24センチの主砲が、ややバランスの悪さを感じさせます。

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防護巡洋艦「畝傍」の主要兵装等の拡大:舷側の4箇所に主砲用の張り出し部分があります。低い乾舷と細い船型で高速性を感じさせる概観ですが、重い主砲4基を上甲板樹に設置していますので、復元性は気になるデザインではあります。その後の遭難(?)行方不明を考えると・・・)

フランス艦には時に復元性能に問題がある場合があり、回航途上に暴風雨などに遭遇しその弱点が瞬時の転覆をもたらしたのかもしれません。

しかしその流麗な艦容で高速を発揮し敵に肉薄する姿など、見てみたかったなあ、と思いませんか?

 

 

ということで今回はこの辺で。

次回は、今回同様、ディテイルアップ作業の進捗次第でリッサ海戦時のオーストリア帝国艦隊の木造砲艦の艦級のご紹介、あるいはスウェーデン海軍が20世紀初頭に計画していた軽巡洋艦のモデルが手に入ったので、こちらのご紹介など考えています。

もちろん、もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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