前回、少し予告した通り、今週末は本業が立て込んでいます。
新着モデルが間に合うかな、などと考えていたのですが、そちらに手を入れる余裕もあまりなく、過去の投稿の再録、と言うことで少しお茶を濁させて頂きます。
本稿へのアクセスを状況を見てみると、過去に一度ご報告させていただいたことはあるのですが、かなり長い期間にわたり、2019年11月に投稿した「護衛艦「いそかぜ」その三形態(「亡国のイージス」から「空母いぶき」へ」と言う投稿へ多くのアクセスをいただいていました。
これは「いそかぜ」と言うかつて海上自衛隊に存在したことのない(しかし映画や小説ではしばしば見かける)架空護衛艦をめぐり、自作のセミ・スクラッチモデルを交えて海上自衛隊の「艦名」や「艦番号」にまつわるお話をご紹介させていただいた回でした。
現在でもこの回は、ありがたいことに常にアクセス上位にあるのですが、最近はこれに変わって2021年8月投稿の「レイテ沖海戦:西村艦隊:第二艦隊(第一遊撃部隊)第三部隊の話」が長らくアクセス数トップをいただいています。
この回は奇しくも「レイテ沖海戦」について一連の投稿を開始する一回目となった回です。そしてアクセス3位に「レイテ沖海戦:志摩艦隊:第五艦隊(第二遊撃部隊)の話」が入っていますので、この辺りに興味を持っていただけているのかなあ、と考えています。ありがたいことです。
今回は、この「レイテ沖海戦」ミニ・シリーズの開始のきっかけとなったその前回の投稿「扶桑級戦艦の改装:41センチ砲搭載案」を再録させて頂きます。
この回では、就役時に日本海軍待望の初の超弩級戦艦、世界で初めて3万トンを超えた巨艦で当時世界最大最強と謳われながら、実情は就役以来、何かと欠陥が目立ち、「海上にあるよりドックに入っている方が長い」と揶揄された不遇の「扶桑級」戦艦に、実は平賀造船中将による41センチ主砲への換装案があった、と言うお話を例によって自作モデル制作を絡めながらご紹介させていただいています。
本当にこんな船が実現できたんだろうか、とか、この船が実現していたら「長門級」の設計はどうなっていたんだろう(=その後の八八艦隊計画は?)とか、結構刺激の強い設計案のスケッチがきっかけになっています。
皆さんへの良い刺激になれば、と、再録しておきます。
(ここから、再録。です)
「扶桑級」戦艦:41センチ砲搭載案の製作
発端は本稿では実は「扶桑級」「伊勢級」の戦艦をまともに紹介していないという事にはたと気づいたこと。
背景には、本稿がそもそも「八八艦隊計画」の諸戦艦のモデルが揃った(その後、実は何度かアップグレードしたりしているので、全然揃ってなんかいなかったのですが)ことをきっかけに「まあ少しまとめておくか」くらいの気持ちでスタートしていて、「八八艦隊計画」を成立させる為に「ワシントン・ロンドン軍縮体制」が(筆者に都合よく、あるいは八八艦隊の模型を作成するのに都合よく、ですかね)改変されていること、その中で「扶桑級」「伊勢級」が比較的早期に一旦主力艦の座を退役してしまい(つまり、その代艦として、八八艦隊の「紀伊級」以降の艦が建造される、という設定なわけです)、その為に、史実を紹介する機会がなかったことが挙げられます。
一方で、筆者の模型原体験は、実は筆者の父がまだ小学生の低学年だった筆者に作ってくれた戦艦「長門」のプラモデル(今にして思うと、多分、ニチモの1:500スケールだったんじゃないかな)でした。
そしてこのモデルで艦船模型に目覚めた小学生(多分、3年生くらい)の筆者が、最初に「スケール」を意識してお小遣いで購入したプラモデルが、「山城」だったのです。もう、メーカーは忘れてしまいました(多分、大滝製作所、かな?)、確かモータライズの当時よく見かけた船体が上下に分割されたモデルだったのですが、なぜかハルを接着せず、今でいう「ウォータライン」モデル風に仕上げ(いわゆる「ウォーターラインシリーズ」が静岡の模型4社殻発売されたのが1971年ですので、実はそれよりも2-3年前のお話です)、遊んでいた記憶が残っています。もう50年以上前の話です。子供心に「なんてたくさん砲塔を積んでいるんだろう、凄いなあ」と、実は大好きな船なのです。
で、チラチラと調べ始めて、以下の投稿に巡り合いました。
へえ、そんな計画があったんだなあ、というわけです。
早速、ご紹介記載に従い「月刊 丸」2013年8月号を入手しようとしますが、これが見当たりません(入手不能?どなたか情報をお持ちでしょうか)。
その過程で下記の投稿に遭遇。なんと図面の画像があるではないですか。さらにここではご自身で1:700スケールの模型まで作っていらっしゃいます。
既に2013年にやっていらっしゃったとは・・・。
制作編を拝見すると、かなり41センチ砲の3連装砲塔で苦戦していらっしゃるようですが、以前、実はドイツ海軍の架空艦を製作する際に11インチ砲の連装砲塔が欲しくて、ドイツ海軍色を出すためにタミヤ のシャルンホルストの三連装砲塔の真中を切除して、作ったことがあった、というのを思い出しました。同様に今回の連装砲塔の三連装砲塔かの場合には、連装砲塔と連装砲塔の中央切除の貼り合わせでなんとかなるかも、とか、筆者の場合には1:1250スケールの「金剛代艦級」の砲塔構成がこの3連装砲塔と連装砲塔の混載で、そこから砲塔を引っ張ってこれるので・・・、などと考えながら、楽しく拝見させていただきました。
(掲載された改装案の図面がこちら。月刊「丸」が入手できないので、まずはお借りします)
(上図を参考に、3D printing modelをベースに、上部構造物をほとんど撤去し、新たにレイアウトするほどのかなり大掛かりな改装に、モデルでもなっています。こういう時にはメタルのモデルより、樹脂製の3D printing modelの方がいいかも。ベースとなったのは下記のモデル)
記載によると、この改装案はワシントン条約交渉中に平賀中将から提出された「扶桑級」改装案の一つでした。
(扶桑級改装案:41センチ砲搭載案の概観:165mm in 1:1250 by semi-scratchied besed on C. O. B. Constracts and Miniatures)
(扶桑級改装案:41センチ砲搭載案の特徴細部:特徴的な混載されている連装砲塔と三連装砲塔はSuperior製の金剛代艦級から拝借しています。前檣は基部だけを残し周りと上部はストック部品とプラロッドで。煙突は少し高かったかも。後檣と煙突の間隔はこんな感じかな?もう少し詰めても良かったのか?)
この案が提出された時期は、世界初の16インチ砲搭載戦艦「長門級」を巡り、戦艦の建造に制限をいかにかけるかが議論されていた時期であり、その後に続く「八八艦隊計画」と併せて考えると、既存戦艦の改装でおそらく制限の対象となるであろう「八八艦隊計画」を補完する構想があったのかな、などと想像してしまいます。
改装案の背景:課題満載の扶桑級戦艦
改装案を提出された「扶桑級」戦艦は、日露戦争の莫大な戦費消費(結局、日本は日露戦争では領土と中国・朝鮮半島での利権・発言権強化は手にしたものの、賠償金は獲得できませんでした)、その後の鹵獲艦整備等で、弩級戦艦時代に出遅れた感のあった日本海軍が建造した初の超弩級戦艦で、初期計画では4隻が建造され、先行し就役していた「金剛級」巡洋戦艦と一対で艦隊の根幹戦力を形成する予定でした。
(扶桑級就役時の概観:163mm in 1:1250 by Navis)
主砲は金剛級と同じ14インチ砲で、これを連装砲塔6基12門搭載。艦首部と艦尾部は背負い式配置として、残り2基を罐室を挟んで前後に振り分けていました。世界の軍艦史上初めて30,000トンを超える大鑑で、日本海軍の念願の超弩級戦艦は、一番艦の扶桑完成の時点では、世界最大、最強装備の艦と言われた、まさに日本海軍嘱望の艦級として完成されたわけです。
しかし、完成後、多くの課題が現れてきます。
例えば、一見バランス良く艦全体に配置されているように見える6基の砲塔は、同時に艦の弱点ともなる弾庫の配置が広範囲にわたることを意味しています。これを防御するには広範囲に防御装甲を巡らせねばなりません。また、斉射時に爆風の影響が艦上部構造全体に及び、重大な弊害を生じることがわかりました。さらに罐室を挟んで砲塔が配置されたため、出力向上のための余地を生み出しにくいことも、機関・機器類の進歩への対応力の低さとして現れました。
加えて第一次世界大戦のユトランド海戦で行われた長距離砲戦(砲戦距離が長くなればなるほど、主砲の仰角が上がり、結果垂直に砲弾が落下する弾道が描かれ、垂直防御の重要性がクローズアップされます)への対策としては、艦全体に配置された装甲の重量の割には水平防御が不足していることが判明するなど、一時は世界最大最強を歌われながら、一方では生まれながらの欠陥戦艦と言わざるを得ない状況でした。
こうした結果、「扶桑級」戦艦の建造は2隻で打ち切られ、3番艦、4番艦となる予定であった「伊勢」「日向」は新たな設計により生まれることとなりました。
以降、「扶桑級」の2隻は、就役直後、短期間連合艦隊旗艦の任務に就いたのち「艦隊に配置されているよりも、ドックに入っている期間の方が長い」と揶揄されるほど、改装に明け暮れる事になるのですが、その果てに現わされた改装案の一つが、主砲の改装案だったのでしょう(月刊「丸」自体を読んでいないので、先の紹介した投稿からの又聞きの上の推測ですので、本当のところはどうも)。
図面を見ると主砲の換装に伴い、課題の諸源と言ってもいいであろう主砲の配置が変更されています。さらにそれに伴って機関の配置にも変更があるようです。この機会に「扶桑級」の抱えている課題を全部一気に解決してしまおうじゃないか、と平賀造船中将の腕まくりが目に見えるようです。
(扶桑級就役時と改装案の比較:やはり砲塔の大きさの差異が目立ちますが、Navis製のモデルのフォルムは少し大柄なのかな?Navisのモデルは精度が高いのですが)
(扶桑級就役時(上段)と改装案(下段)の比較その2:前檣の構造と、砲塔と機関配置の差異に注目、ですかね?)
一方で、「長門級」よりもかなり小さな船体に、「長門級」を上回る16インチ砲10門を装備するわけで、主砲斉射の反動等、今度は射撃精度に課題が発生しそうな気もしますが、水中に大きな バルジを装着することで安定性と重量増に対する浮力の確保には手が打たれる、そういう理屈のようですね。
(41センチ砲搭載案(手前)と長門級(奥)の比較:模型での比較なので、あまり当てにはならないですが、艦幅に大きな差異はないですね。しかし小さな船体に「長門級」より2門多い主砲を搭載して、大丈夫でしょうかね)
この案は、ワシントン条約の制限対象が新造艦に対するもので、既存艦については制限がないということを前提に提出されたものでした。さらにこの後、ワシントン条約で代艦を建造できる艦齢の上限を迎える「金剛級」に対して、平賀は有名な「金剛代艦級」の建造試案を提出するのですが、それに先駆けてこの改装案を足がかりに日本海軍には製造経験のない大口径砲の3連装砲塔の製造技術、駆動系の技術に対して、なんらか試行を行っておこうという思いがあったのかも(というのは、ちょっと意地悪に考えすぎでしょうかね)。
しかしもしこの技術が導入されれば「長門級」も16インチ砲10門搭載艦として(つまり、三連装砲塔と連装砲塔の混載艦として、)生まれ変わっていたのでしょうか?
・・・・などど、いろいろな想像がかき立てられます。
扶桑級戦艦の大改装(史実は・・・)
先述のように度重なる改装を受けた「扶桑級」戦艦でしたが、太平洋戦争開戦前に受けた第二次改装時で対空兵装の強化、機関の重油専焼缶への換装などを行い、速力も24ノット代まで向上させていました。この改装の際に、「扶桑」は3番砲塔を前向き装備に改めています(「扶桑」ファン一押しの特異な艦橋の形態は、この時に生まれました)。
(二次大改装後の「扶桑」の概観:168mm in 1:1250 by Superior? 「扶桑」の最大の魅力は変則的な前檣構造。3番砲塔の向きにも注目)
(二次大改装後の「山城」の概観:168mm in 1:1250 by Superior? 2番砲塔と前檣基部、前檣上部、3番砲塔、艦尾の航空艤装を、上掲の「扶桑」をベースに手を入れています。直下の写真は「扶桑」と「山城」の比較)
(41センチ砲搭載案と二次大改装後の「山城」との比較:少しわかりにくいですが、第二次改装で、「山城」の艦尾部は延長されています)
太平洋戦争時にはほとんどの期間を内地で過ごし、一時期は練習戦艦としての業務についていました。
しかし、いよいよ戦局が押し迫る中、同級も現戦力として再浮上し、サイパン攻防戦では、サイパンへの殴り込み作戦の実施部隊として計画に挙げられました(「無謀」として実現しませんでした)。
その後、両艦は第二戦隊として第二艦隊(第一遊撃部隊)に編入され、レイテ海戦には第一遊撃部隊(栗田艦隊)別働隊(第三部隊:西村艦隊)として、第一遊撃部隊主力とは別行動を取り、幸運にも空からの攻撃をほとんど受けることなく、主力に先行してレイテ湾に突入し、米第七艦隊オルデンドルフ部隊と交戦し、相次いで撃沈されました。
第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)は、単独でレイテ湾に突入し、部隊指揮官の西村中将初め司令部以下、ほとんど全滅していますので、その最後がよくわかっていません。
もう一つ、航空戦艦改装案
前述の通り、同ブログでは、「八八艦隊計画」が一部実現しますので、「扶桑級」は「伊勢級」と並んで早期に現役を退いてしまっています。しかし、太平洋戦争開戦にあたり、両級は海防戦艦(通商路確保のための対潜・対空哨戒を専任とする海防艦の拠点となる母艦)として復活しています。一応、そちらもご紹介しておきます。
(直下の写真は扶桑級海防戦艦:33,200t, 21 knot, 14 in *2*3, 2 ships, 搭載機15機:水上戦闘機3機、水上偵察機・水上哨戒機12機, 170mm in 1:1250 by semi-scratched with Superior model)
史実の「伊勢級」航空戦艦を参考にしつつ、ミッドウェーでの空母機動部隊の喪失を補完する意味で改造された「伊勢級」「扶桑級」ではなく、日本の通商路周辺で跳梁が予測される米潜水艦対策として設立された「海防戦隊」の中核戦力として、旧式戦艦が活用されたとしたら、というようなお話になっています(一種の「架空戦記」ですね)。
もしよろしければ、下記の回をご覧ください。
史実でも、前述のようにミッドウェー海戦敗北の後(1942年)、失われた空母戦力の補完のために巡洋艦(最上級、利根級、妙高級、高雄級)、戦艦(金剛級、扶桑級、伊勢級、長門級)の全通飛行甲板空母への改造が実際に検討されたようです、結局、工期がかかりすぎる(巡洋艦9ヶ月、戦艦1.5年)、という点でこれらは実現しませんでしたが、ご存知のように「伊勢級」のみは「航空戦艦」に改造されています。そして同級の改装完了後、「扶桑級」も同様の改装工事を受ける予定であり、6ヶ月の工程表が組まれていたという記録があるようです。
というわけで、今回はここまで。
個人的に幼少期から思い入れがありながら、置き去りにしてきた感の強かった「扶桑級」でしたが、ようやくスッキリした感じがします。
(再録、ここまで)
いかがでしたか?
次回は本業が少し落ち着いていれば「空母機動部隊小史」も戻り、いよいよソロモン方面での激戦についてご紹介できれば、と。
もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。
模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。
特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。
もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。
お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。
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