相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

日本海軍 空母機動部隊小史 その8:日本海軍の特設空母

さて、今回は「オーストリア=ハンガリー帝国海軍の艦艇」と言う素晴らしい脇道散策から後ろ髪を惹かれつつ、展開中だったミニ・シリーズ「航空母艦小史」に戻り、日本海軍の特設航空母艦のお話を。

 

その前に、少しA=H帝国海軍について

A=H帝国海軍については、引き続きWW1以前に遡ることを目論んではいます。近代戦艦以前のいわゆる「装甲艦」のモデルのコレクションは始めています(既に手元にある古いジャンクモデルに手を入れている、と言う状況です)。そもそもA=H帝国海軍はWW1で解体されたため、主要艦艇はご紹介済みのためこれからコレクションを続けるには、時代を遡るか、小艦艇に踏み込むか、この領域しか残されていないのですが、いずれもモデルがどうしても簡単には揃わないので、系統的な紹介ではなく、モデル個別の紹介になるかと。そう言う事情でこちらはおいおいと。

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(例えば、今、手を入れつつある中央砲郭艦「テゲトフ」: かなり以前にマストなど全くないいわゆるジャンクモデルとして入手したものをリストア中)

この件、予告編的に少し面白い(だろう)打ち明け話をすると、Spithead Miniaturesと言うFacebookのグループがあり、ここで「リッサ海戦」(1866年の普墺戦争での海戦ですね。A=H帝国海軍の栄光の日々、とでも言うか。本稿の前々回でも少しご紹介しています。これでピンと来る人はきっとピンと来るはず)の参加艦艇を作ってしまおう、と言うProjectに出資者として参加しました。「商業的なProjectではない」と言う触れ込みで「10人の出資者が集まったら始めるね」と言うことなので、いつになるのか先行き不透明なのですが、これはこれで楽しみです。今参加者は8人、とか。1:1200スケール、と少しスケール違いではあるのですが、いつになるのかなあ。

 

日本海軍の特設航空母艦

さて、お話を本筋に戻して、日本海軍の特設航空母艦のご紹介です。

太平洋戦争期に、日本海軍は7隻の特設航空母艦保有して運用しています。この7隻は建艦の経緯から以下の2系統、用途による2系統に分類されます。

建艦経緯による2系統

「優秀船舶建造助成施設」精度による特設空母:5隻

日本海軍は有事に短期に空母への改造を条件として、民間の海運会社の新造商船の建造に補助金制度を運用していました(1937年)。1937年にサンフランシスコ航路向けに着工した日本郵船の「橿原丸」級客船の2隻(「橿原丸」「出雲丸」)と、同じく日本郵船が主として欧州航路向けに1938年に着工した「新田丸」級貨客船の3隻(「新田丸」「八幡丸」「春日丸」)がこの助成金の対象として建造され、その後の経緯で特設航空母艦に改造されました。建造経緯から、「新田丸」「八幡丸」は貨客船として完成しましたが、残る3隻は建造途上から航空母艦に改装され、商船としては完成しませんでした。

ミッドウェー海戦での主力空母喪失の補充のための特設空母:2隻

1942年6月のミッドウェー海戦で「赤城」「加賀」「飛龍」「蒼龍」の4主力空母を失った日本海軍は早急な空母補充に迫られ、建造途上の戦艦(「大和級」3番艦)、巡洋艦(伊吹級」、既製の戦艦(「伊勢級」「扶桑級」)、巡洋艦(「筑摩」「最上」)等の空母への改装の検討と併せて優良商船の空母への構造を計画、実行しました。

これが第二次世界大戦の勃発で本国への帰還が困難になったドイツ客船「シャルンホルスト」(1935年竣工)と日本海軍が大阪商船から徴用し特設運送船として運用していた「あるぜんちな丸」級貨客船2隻(「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」:いずれも1939年竣工)でした(注:「ぶらじる丸」は空母への改造決定後、本国への回航途上で米潜水艦により撃沈されたため改造されませんでした)

 

用途による2系統

上記の7隻は、その性能から自ずと用途が異なり、以下の2系統に分類されます。

「艦隊空母」として運用された特設空母:2隻

この区分には「橿原級」客船を改造した「隼鷹級」の2隻が該当します。

この2隻は客船としては破格の高速大型船で、空母改造後は正規艦隊空母「飛龍級」に匹敵する搭載機数を有し、更に軍艦としてのある程度の防御設備を設計に組み込まれた設計となっていました。速力は最高速力こそ正規空母に及ばないものの、巡航速度では艦隊に追随でき、第一線級の艦上機運用が可能な風力を合成できる速力を有していました。就役直後(ミッドウェー海戦時)から機動部隊に組み込まれ、主力空母群の喪失以降は機動部隊の中核として活躍しました。

「航空機輸送・護衛空母」として運用された特設空母:5隻

上記の「隼鷹級」の2隻以外は、商船としては大型(=長い飛行甲板を設定可能)で優良なものでしたが、太平洋戦争期には助成金制度制定時に予定されていた正規空母と同等の運用を行うには、特に速力の点で正規空母には大きく劣り、急速に大型化・高性能化した当時の一線級の艦上機正規空母のように多数同時に運用することは困難でした(飛行甲板を目一杯使用し、少数の艦上機を発着艦させることは可能でした)。このため、就役当初は二線級の旧式艦上機を固有の搭載機として行う艦隊周辺の哨戒任務や、あるいは航空機の南方基地への輸送任務等に用いられることが多く、母艦戦力の逼迫した大戦後期には輸送船団を米潜水艦の攻撃から護衛する対潜哨戒を主任務とした護衛空母として運用されました。

 

「優秀船舶建造助成施設」制度による特設空母

「隼鷹級」特設空母(1942年5月から就役:同型艦2隻)

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「隼鷹級」空母は、海軍が戦時に空母に改造をすることを前提に民間の海運会社に支給された補助金で建造されたサンフランシスコ航路向けの大型高速客船「橿原丸」と「出雲丸」をベースとした航空母艦です。同船は助成金を活用した船ではありましたが、本来は幻となった「東京オリンピック」への海外客の来日に対応して設計された豪華客船で、完成していれば、それまでの商船を遥かに凌ぐ日本最大の客船となる予定でした。

対米関係の悪化で結局、建造途中から航空母艦として建造されることとなり、客船としては完成していません。

「太平洋の女王」と呼ばれた「浅間丸」との比較

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(「浅間丸級」の概観:144mm in 1:1250 by ???)

「浅間級」客船の三隻は「橿原丸」の計画以前に日本郵船保有した最大の客船でした。「太平洋の女王」という二つ名で呼ばれる豪華客船として知られていました。とはいえ17000トン級の船でしたので「橿原丸級」はこれを遥かに凌ぐ規模になるはずだったわけです(27700トン)。「橿原丸級」については客船としては未完ですので、市販のモデルが、筆者が調べた限りではありません。

(下のショットは、ちょっと興味深いので「隼鷹」と並べてみました)

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実は「浅間丸級」も空母への改造計画があったとか。

姉妹船の「龍田丸」は開戦時、開戦意図を偽装するためにロサンゼルスに向けて出港しています。日付変更線を超えたところで12月7日の開戦を迎え、日本に引き返しています。「浅間丸級」の3隻は結局、空母への改造に着手されることなく、外交官の交換船として活用されたり、輸送船として活用されましたが、いずれも米潜水艦の雷撃で撃沈されています。上の比較から推察すると、「橿原丸」は破格の豪華船だったようですね。

 

「橿原丸」は「隼鷹」、「出雲丸」は「飛鷹」と命名され、それぞれ1942年5月、1942年7月(ミッドウェー海戦後)に就役しています。

原設計の客船が24ノットの速力を有する商船としては高速を発揮する設計だったこともあり、特設艦船としては異例の26ノットの高速を発揮することができました。また27000トン級の大型の船体を持ち、「飛龍級」空母に匹敵する船体規模と搭載機数を有していました。

また当初から空母への転用を念頭に置き、これも商船には異例の防御装甲が配慮された設計となっており、規模と合わせてほぼ「飛龍級」空母に匹敵する戦力となることが期待されていました。

煙突と一体化したアイランド形式の艦橋を日本海軍の空母として初めて採用した艦でもありました。同形式の艦橋は建造途中の「大鳳」、この後空母への転用が決定される「信濃」でも採用されています。

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(特設航空母艦「隼鷹」の概観:175mm in 1:1250 by Neptun: 下段右のカットは、「隼鷹」で導入された煙突と一体化されたアイランド形式の艦橋を持っていました。同級での知見は、後に建造される「大鳳」「信濃」に受け継がれてゆきます)

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(直上の写真は、「隼鷹」(奥)と「飛龍」の比較:「隼鷹」は速度を除けば、ほぼ「飛龍」に匹敵する性能を持っていました。商船を母体とするため、全般にゆったりと余裕のある設計だったとか。日本海軍は新鋭空母就役都度、既存空母の航空隊群から抽出した搭載機部隊で新たに新空母搭載機部隊を編成していました。搭載機数の定数割れには目をつぶり稼働空母数を増やすことを優先指定していたわけですね)

 

「隼鷹」

当初は日本郵船サンフランシスコ航路向けの大型豪華客船「橿原丸」として1939年に起工され、客船形態を経ず1942年5月に航空母艦「隼鷹」として就役しています。就役直後に「珊瑚海海戦」で戦没した「祥鳳」に代わり第四航空戦隊に組み入れられ、MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)と並行して行われたAL作戦(アリューシャン攻略作戦)の中核航空支援戦力として投入されています。

ミッドウェー海戦敗北後は同型艦「飛鷹」と共に第二航空戦隊を編成して、4主力空母の喪失に伴い低下した機動部隊の中核となり、ソロモン方面の作戦に参加しました。

1942年10月の南太平洋海戦では米空母「ホーネット」の撃沈、「エンタープライズ」の撃破に貢献しています。

一方でソロモン方面での航空作戦に陸上基地航空隊の増援に投入された搭載機部隊の損耗は激しく、母艦自体は輸送任務に従事しました。やがてある程度再建の目処が立った搭載機部隊と共にマリアナ沖海戦に「飛鷹」「龍鳳」と共に第二航空戦隊を編成して参加、海戦二日目の米機動部隊による空襲で被弾損傷しています。この攻撃で僚艦「飛鷹」は魚雷1発と爆弾1発を被弾し、炎上、沈没しています。この海戦で第二航空戦隊の搭載飛行隊である652航空隊は戦力を海戦前の135機から33機に低下させる甚大な損害を受けています。

海戦後は第二航空戦隊は解体され、「隼鷹」「龍鳳」は航空戦艦「伊勢」「日向」と共に第四航空戦隊(旗艦「日向」)を編成しました。母艦自体はマリアナ沖海戦での損傷を修復し対空火器等の増強を行いましたが、搭載機部隊の再編成が思うに任せず続くレイテ沖海戦には参加せず、その後も搭載機未了のまま、南方への陸兵や物資の輸送任務等に従事しますが、潜水艦ん攻撃を受け被雷、機関部損傷のまま終戦を迎えています。

終戦後は係留先の佐世保で1947年に解体されました。

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(「隼鷹級」の2隻:「隼鷹」と「飛鷹」)

 

「飛鷹」

日本郵船サンフランシスコ航路向けの大型豪華客船「出雲丸」として1939年に起工され、客船形態を経ずミッドウェー海戦直後の1942年7月に空母「飛鷹」として就役しました。就役直後に第二航空戦隊旗艦となり、トラック方面からソロモン方面にかけての作戦に従事しています。

南太平洋観戦直前に機関部の火災で戦線を離脱、内地で修復を受けました。回復後にトラックに進出し搭載機部隊のみソロモン方面の「い号」作戦に参加、母艦は米潜水艦の攻撃で損傷を受け再び内地に回航されています。

損傷回復後、輸送任務に従事したのち、1944年6月、「隼鷹」「龍鳳」と共に第二航空戦隊を編成してマリアナ沖海戦に参加。海戦二日目の米機動部隊搭載機部隊による空襲で魚雷1発と爆弾1発を受けて炎上、沈没しています。(空襲での損傷後、米潜水艦の雷撃をガソリンタンク付近に受け、これが爆発し沈没した、と言う記録もあるようです)

 

「大鷹級」特設空母(1941年から順次就役:同型艦3隻・準同型艦2隻)

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(直上の写真は、「大鷹級」護衛空母の勢揃い。左から「冲鷹」「雲鷹(竣工時)」「大鷹」「神鷹」「海鷹」の順。いずれもC.O.B. Constructs and Miniatures製の3D printing model)

「大鷹級」特設空母には建艦経緯の異なる2つのグループが含まれています。

一つ目のグループは、日本海軍が有事に短期間での空母への改造を条件として設けた新造商船への補助金制度、「優良船舶建造助成施設」により太平洋戦争以前から計画され建造されたもので、日本郵船の欧州航路向けに設計された「新田級」貨客船をベースとした3隻でした。「新田丸」「八幡丸」「春日丸」がこれで、のちにこれらは特設空母「冲鷹」「雲鷹」「大鷹」として完成しました。

もう一つのグループは、同様に「優良船舶建造助成施設」を受けて建造された大阪商船の「あるぜんちな丸」級貨客船2隻(「あるぜんちな丸」「ぶらじる丸」)で、当初特設運送船として海軍任務に従事していましたが、ミッドウェー海戦での主力空母4隻の喪失による早急な補充空母の必要に迫られて空母に改造されました。同様の理由で神戸に在泊中のドイツ客船「シャルンホルスト」も海軍に買収され空母に改造されています。

両グループとも、いずれも商船としては優良な性能でしたが、商船であるため防御装備を持たず、併せて速力が太平洋戦争時期の一線級艦上機を多数運用するには不足しており、空母機動部隊等での運用は不可能でした。

前述のように、これらの5隻はいずれも就役当初は二線級の旧式艦上機を固有の搭載機として行う艦隊周辺の哨戒任務や、あるいは航空機の南方基地への輸送任務等に用いられることが多く、母艦戦力の逼迫した大戦後期には輸送船団を米潜水艦の攻撃から護衛する対潜哨戒を主任務とした護衛空母として運用されました。

 

特設空母「大鷹」(1941年9月就役)

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(直上の写真は:空母「大鷹」の概観。147mm in 1:1250 by C.O.B. Constructs and Miniatures:大戦末期の船団護衛任務従事期の為、迷彩塗装を施しています。迷彩は筆者オリジナル。雰囲気が出れば、という程度の適当です。ご容赦を)

「大鷹」は日本郵船の18000トン級の貨客船「新田丸」級の1隻「春日丸」として設計され、1940年1月に起工されました。3隻の中では起工は一番最後でしたが、建造途中で航空母艦への改造が決定され商船の形態を経ずに航空母艦として完成したため、空母としての就役は最も早く、1941年9月に特設空母「春日丸」として就役しました。その後、1942年8月に「大鷹」と改名されています。就役が最も早かったため、このグループのネームシップとなりました。(当初「春日丸級」特設空母、のちに「大鷹級」特設空母

太平洋戦争開戦時、主として低速による合成風力不足から96式艦上戦闘機、96式艦上爆撃機を固有の搭載機としていましたが、緒戦の南方進出作戦では哨戒等に活躍しています。

その後1943年9月ごろまで、主に南方基地への航空機輸送に従事しています。その間、数度、米潜水艦の攻撃で損傷しています。その間、損傷回復時に飛行甲板の延長などを行っています。

1943年海上護衛総司令部が編成されるとこれに編入され、船団護衛任務についています。海上輸送専任の護衛航空隊として931航空隊が編成され、「大鷹」も対潜哨戒用として97式艦上攻撃機(この当時、機動部隊の一線攻撃機は既に「天山」に変更されていました)を12機搭載し、1944年2月以降、輸送船団の護衛任務に従事しています。

1944年8月、米潜水艦の雷撃により撃沈されました。

 

護衛空母との比較

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(日米の代表的な護衛空母の比較:米海軍の「カサブランカ級」は「大鷹級」に比べるとかなり小さいことが一目瞭然です。にも関わらず、カタパルトの実用化が、両者の戦力化=運用可能な艦上機、を大きく分けました)

米海軍も日本海軍同様、商船改造の護衛空母を大量に運用していました。大きく異なる点、は、日本海軍が既製の商船を空母に改造したのに対し、米海軍は商船をベースとした護衛空母を量産していた点。国力の違い、と言ってしまえばそれまでですが。

母艦自体の装備では、米海軍はカタパルトを装備していたため(日本海軍が開発できなかった、と言ったほうが正確は表現かもしれません)、米護衛空母日本海軍の護衛空母よりもかなり小型な艦型であるにも関わらず重いF6F艦上戦闘機やアヴェンジャー雷撃機などの一線級の艦上機の運用が可能で、日本海軍が護衛空母をせいぜい旧式な艦上攻撃機による対潜哨戒任務にしか使えなかったのに対し、十分な陸上戦闘への支援攻撃や艦船攻撃の能力を持つことができたなど、汎用的な用途に活躍させることができました。

カサブランカ級護衛空母

ja.wikipedia.org 

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 (「カサブランカ級」護衛航空母艦の概観。123mm in 1:1250 by Last Square) 

例えばレイテ沖海戦の一幕、サマール島沖海戦で、日本海軍の第一線級の水上戦闘部隊である第一遊撃部隊(栗田艦隊)に遭遇し一方的に駆り立てられた貧弱な護衛部豚しか持たない米護衛空母群が反撃で搭載機を発進させ、栗田艦隊の重巡洋艦数隻に重大な損害を与えています。

 

特設空母「雲鷹」(1942年5月就役)

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(直上の写真は:空母「雲鷹」の概観(就役時の飛行甲板延長前に姿を再現したモデルになっています):147mm in 1:1250 by C.O.B. Constructs and Miniatures)

同艦は前出の「大鷹」同様、海軍の「優良船舶建造助成施設」により建造された日本郵船の「新田丸級」大型貨客船「八幡丸」を海軍が徴用し空母に改造したものです。

1938年12月に「八幡丸」は起工され、1940年7月に「八幡丸」として就役、太平洋戦争直前の1941年11月に空母への改造に着手し、1942年5月に特設航空母艦「八幡丸」として就役、1942年8月に「雲鷹」に改名されています。

就役当初は同級の他艦同様、航空機の南方基地への輸送任務に従事していました。

1943年11月に海上護衛総司令部が設立されると、同部隊に編入され海上輸送路の護衛任務に当たることになりました。しかし発足当初、同部隊はまだ態勢不十分で、当面は従来の航空機輸送等の任務についていました。

1944年1月、「雲鷹」はトラック島への航空機輸送任務の帰途、米潜水艦の雷撃を受け3発を被雷。沈没は免れましたがサイパンへ退避し、その後、内地に回航され損傷を飼う復しています。

修復後、1944年8月第一海上護衛隊に編入され、磁気探知機装備機を含む97式艦上攻撃機10機、93式中間練習機6機を搭載し船団護衛任務に従事を開始します。

1944年9月、シンガポールから台湾に向け船団を護衛中に、米潜水艦の雷撃を受け、2発の魚雷が命中、沈没しています。

 

特設空母「冲鷹」(1942年11月就役)

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(直上の写真は:空母「冲鷹」の概観。147mm in 1:1250 by C.O.B. Constructs and Miniatures: 「大鷹級」空母は、商船改造空母のため速力が遅く、かつ飛行甲板の長さも十分でないため、艦隊空母としての運用には難がありました。そのため大戦の中期までは、主として航空機の輸送に使用されていました)

同艦は日本郵船のシアトル航路・豪州航路向け「新田丸級」貨客船のネームシップ「新田丸」を空母に改造したものです。他の2隻同様、海軍の「優良船舶建造助成施設」の対象でした。

「新田丸級」貨客船

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(「新田丸級」の概観:メーカー不明ですが、ややオーバースケールです。1:1200かも。下の写真は一応両者の比較ショット。ご参考に)
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17000級の船体を持ち、日本郵船としては前出の「浅間丸級」に次ぐ規模を誇る大型船で、東京オリンピック(1940年開催が決定されていましたが、情勢の悪化で中止になった幻の大会です)の観客輸送も視野に入れて建造されました。

 

「新田丸」は1938年に起工され、1940年に完成しています。貨客船としての就役後は第二次世界大戦の勃発で情勢が不安定な欧州航路に投入されることはなく、サンフランシスコ航路に就航していました。

1941年9月に海軍に徴用され運送艦として運用され、日本軍の第一期作戦ではウェーク島への海軍陸戦隊の輸送や、同島からの捕虜の搬送などに従事していました。

1942年6月、空母への改造が決定され、11月に改造を完了しています。改造工事途中で「冲鷹」に改名しています。

空母として就役後は、他の同型艦と同様、航空機の輸送任務についていました。「春日丸」「八幡丸」の建造経験から、「冲鷹」は最初から飛行甲板を延長して就役していたようです。対空砲は他の艦が単装高角砲であったのに対し連装高角砲を装備、他にも機関砲などが強化されていたようです。(モデルはそこまでは反映されていません。あしからず)

「冲鷹」は就役直後から1943年にかけて横須賀とトラック島・ラバウル間の輸送任務にほぼ専従していました。

1943年12月、内地帰港途中、八丈島沖合で米潜水艦により撃沈されています。

 

特設空母「神鷹」(1943年12月就役)

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(直上の写真は:空母「神鷹」の概観。149mm in 1:1250 by C.O.B. Constructs and Miniatures: 本艦は「大鷹級」空母、ということで一括りになっていますが、実は同型艦ではありません。前身はドイツ商船「シャルンホルスト」で、これを海軍が購入し空母に改造したものでした。「大鷹」と同じく、船団護衛任務時の迷彩塗装を施しています

同艦は日本海軍が太平洋戦争開戦後にドイツに帰国できず神戸港に係留されていたドイツ客船「シャルンホルスト」を買収し空母に改造したものです。

ドイツ客船「シャルンホルスト

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(ドイツ客船「シャルンホルスト」の概観:筆者が精度が高いと評価しているMercator製のモデルのなのですが、「新田丸級」同様、1:1250モデルとしては、かなりオーバースケールです。比較のショットは誤解を招きそうなので、ちょっとやめておきます。艦首の形状は面影残っていますね)

シャルンホルスト」はドイツの海運会社北ドイツ・ロイド汽船が太平洋航路に投入した3隻の大型客船(「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」「ポツダム」)の一隻で、18000トン級の船体を持ち21ノットの速力を発揮できる船で、1934年にドイツで起工され、1935年に就役しています。3隻はいずれもブレーメン=横浜間の定期航路に就航していました。

1939年の第二次世界大戦勃発時に横浜からブレーメンへの帰港途上、シンガポールに向かっていた「シャルンホルスト」は開戦の通報を受け、日本に引き返しました。乗員・乗客はソ連経由(当時はまだドイツと同盟状態)で帰国しましたが、同船は神戸港でその後約3年間放置されることになります。

1942年春にドイツ大使館から譲渡の申し入れがあり、1943年6月から日本海軍に買い取られた「シャルンホルスト」の空母改造が始められています。実は先行して空母に改造された「新田級」貨客船は「シャルンホルスト」を参考にして設計されており、空母化の工程には「新田級」改造の経験が生かされたと言われています。

1943年12月、「シャルンホルスト」は「神鷹」と命名されて、空母として就役しました。同月「神鷹」は海上護衛総司令部編入され、1944年6月、97式艦上攻撃機14機を搭載して、主にシンガポール航路の船団護衛任務についています。

1944年11月、マニラに向かう陸軍輸送船とシンガポールに向かう油槽船で構成された輸送船団を護衛中に米潜水艦の雷撃を受け、沈没しています。

 

特設空母「海鷹」(1943年11月就役)

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(直上の写真は:空母「海鷹」の概観。135mm in 1:1250 by C.O.B. Constructs and Miniatures: 本艦も前出の「神鷹」同様、同型艦ではなく、「大鷹級」空母の中では最も艦型が小さいものでした。こちらも船団護衛任務時の迷彩塗装を施しています

同艦は1938年に起工された13000トン級の大阪商船の南米航路向け貨客船「あるぜんちな丸」を航空母艦に改造したものです。

母体となった「あるぜんちな丸」は海軍の「優良船舶建造助成施設」を受けて建造されたもので設計時には有事の際のの空母への改造要目を盛り込んだ設計となっていました。当初は航空母艦ではなく特設運送船として海軍に徴用されましたが、ミッドウェー海戦での主力空母喪失を受けて空母へ改造されました。

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(「あるぜんちな丸」のモデルは未入手です。写真は先日e-bayに出品されていた「あるぜんちな丸」の1:1250スケールのモデル:木製のようでした。実に705ユーロ(=90000円?)の落札価格がついていました)

ちなみに「あるぜんちな丸」は同型の「ぶらじる丸」と共にミッドウェー海戦には兵員輸送船として参加しています。

同型の「ぶらじる丸」も空母への改造が決定されましたが、1942年8月、改造に向けて回航中に、米潜水艦の雷撃で撃沈されてしまい、「あるぜんちな丸」のみが空母へ改造されました。

同船は1942年12月に空母改造に着手していますが、この際に機関をディーゼルからタービンに換装するなど、大掛かりな改造を行っています。

空母として就役直前に海上護衛総司令部が設立され「海鷹」はこれに編入されましたが、どう司令部の発足当初は海上輸送路の護衛任務に就く態勢ができておらず、当初は同艦は航空機輸送任務に従事していました。

1944年3月「海鷹」は第一海上護衛隊編入され、97式艦上攻撃機12機を搭載して輸送船団の対戦哨戒護衛任務につきました。数次の護衛任務ののち1945年1月、燃料枯渇のため既に船団運用自体に目処が立たなくなっており、「海鷹」は標的艦して活動中に触雷し座礁、そのまま終戦を迎え、戦後、座礁現地で解体されました。

 

ということで、今回は日本海軍が保有した特設空母のお話でした。

次回は、ミッドウェー敗戦後の日本海軍空母機動部隊の立て直し策のお話など。あるいは・・・。

ということで、今回はこの辺りでおしまい。

 

もし、「こんな企画できるか?」のようなアイディアがあれば、是非、お知らせください。

 

模型に関するご質問等は、いつでも大歓迎です。

特に「if艦」のアイディアなど、大歓迎です。作れるかどうかは保証しませんが。併せて「if艦」については、皆さんのストーリー案などお聞かせいただくと、もしかすると関連する艦船模型なども交えてご紹介できるかも。

もちろん本稿でとりあげた艦船模型以外のことでも、大歓迎です。

お気軽にお問い合わせ、修正情報、追加情報などお知らせください。

 

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