相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第11回 第一次世界大戦の勃発と日本海軍の活動

第一次世界大戦の勃発

1914年6月28日、当時オーストリア=ハンガリー帝国内の共和統治国ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪問中のオーストリア=ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナンド大公の車列を、6人のユーゴスラビア民族主義者たちが襲った。

この爆弾テロ自体は失敗に終わったが、この事件による負傷者を病院に見舞った帰路、皇太子夫妻は上記実行犯チーム6人の一人、ガヴリロ・プリンツィプによって射殺された。

世に言う「サラエボ事件」である。

この事件後、大セルビア主義を掲げユーゴスラビア民族主義の黒幕とされるセルビア王国オーストリア=ハンガリー帝国間の緊張が高まり、7月28日両国は開戦に至った。このセルビア王国を支持して、当時バルカン半島の主導権をめぐってオーストリア=ハンガリー帝国に対抗していたロシア帝国が総動員令を発令、次いでオーストリア=ハンガリー帝国と同盟関係(三国同盟)にあったドイツ帝国の参戦、ロシア帝国と協商関係(三国協商)にあったフランス・イギリスの参戦へと、それまでの数十年間で構築された各国間の同盟関係が一気に発動され、数週間で連鎖的に主要列強が参戦する大規模な戦争に発展してゆく。

その期間は、教科書的には1914年7月28日から1918年11月11日とされ、期間中に両陣営で7000万人が動員され、戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上が死亡したとされている。

イギリス、フランス、ロシアの三国協商を基軸とする陣営を連合国、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国三国同盟(イタリアは連合国側で参戦)を根幹とする陣営を中央同盟国(枢軸国)と、一般的には呼称される。

 

日本の参戦

日本は結果的には日英同盟に従い連合国側に立って参戦したが、その経緯は実はそれほど単純ではない。

日英同盟には自動参戦条項が付随しておらず、加えてその適応範囲はインドを西端とするアジアに限定されていた。このことは8月1日にイギリス外相から駐英大使に対する覚書(「第一次世界大戦へ参戦する上では、日英同盟は適用されない」)で確認され、当初、日本は中立を宣言した(1914年8月4日)。

背景には、イギリス政府、並びにオーストラリア、ニュージーランドの、日本の中国における権益の一層の強化拡大と、マリアナ諸島カロリン諸島マーシャル諸島など、ドイツ南洋諸島の占領による太平洋への影響力の強化に対する懸念、警戒感があった。

一方、ドイツ東洋艦隊の通商破壊活動への対応など、軍事的な視点からは、特に日本海軍の戦力に対する期待は日増しに大きくなり、ついにイギリスは日本に対し、中国沿岸に活動を限定するなどの条件つき参戦の申し入れを行うに至った。(8月11日)

イギリスの提示した戦域限定について、日本はこれを拒否し、8月15日にドイツに対し最後通牒を行い、23日に宣戦布告を行い、正式に参戦した。

しかしながら主要戦場はもちろんヨーロッパであり、参戦は結果的に限定的なものになった。特に陸軍はヨーロッパへの派兵に消極的で、英、仏、露からの再三の派兵要請を拒否した。

 

日本海軍の活動

ドイツ東洋艦隊の追撃

参戦後、10月には、ドイツ南洋諸島に第一、第二南遣支隊を派遣してこれを占領。さらに11月にはイギリスとの連合軍で、ドイツ東洋艦隊の根拠地であった膠州湾青島の要塞を攻略した。

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(膠州湾青島を拠点とするドイツ東洋艦隊主力:装甲巡洋艦シャルンホルストグナイゼナウ(上段)、防護巡洋艦ライプツィヒニュルンベルクドレスデン:エムデンも同型(下段))

 

この攻略戦で、日清戦争当時の海軍主力艦であった巡洋艦「高千穂」が、ドイツ水雷艇の雷撃を受け失われた。

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(日清戦争当時の高千穂) 

開戦まで練習艦として就役していた高千穂は、青島攻略戦では封鎖艦隊の一角を担っていた。折から青島からの脱出を試みた独水雷艇S90と遭遇し、その放った魚雷二発が命中、高千穂の搭載していた駆逐艦への補給用の魚雷が誘爆して、轟沈した。生存者は3名のみだった。

高千穂は、日本海軍の軍艦の中で、敵との直接の交戦で撃沈された最初の艦となった。

 

 

ドイツ東洋艦隊は開戦前後、間近な日本海軍等による行動封鎖を嫌い、青島要塞を離れ、当時ドイツ領であったマリアナ諸島パガン島に各所に分散していた諸艦を集結し、本国へ南米経由で帰還することを決意し、出発していた。(1914年8月)

その後、エムデンをインド洋へ分派、あるいは東太平洋で活動中のドレスデンライプツィヒを吸収しながら太平洋で通商破壊戦を展開する。

日本海軍は、この艦隊の追撃のために開戦直前に艦隊に編入した巡洋戦艦「劔」と「蓼科」からなる第11戦隊を太平洋に派遣したが、シュペー艦隊を捕捉するには至らなかった。

f:id:fw688i:20181205124310j:plain高速巡洋戦艦戦隊(第11戦隊):「蓼科」(奥)、巡洋戦艦「劔」

 

ANZAC警備

日本海軍は、オーストラリア、ニュージーランド、インドなど英帝国諸国からの兵団とその補充兵たちがヨーロッパへ輸送されるインド洋横断航路の護衛を担当するため、第一、第三の特務艦隊を編成し派遣した。開戦当初こそドイツ東洋艦隊から分派されたエムデンなどの活動があったが、ドイツ海軍はインド洋に拠点を持たず、その通商破壊活動はきわめて限定的で、実質は名目上の護衛活動であった。

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(第一特務艦隊としてインド洋航路の護衛任務に派遣された巡洋戦艦「伊吹」)

 

第二特務艦隊の地中海派遣

1917年2月、巡洋艦「明石」を旗艦とし、駆逐艦8隻からなる第二特務艦隊が地中海マルタ島に派遣された。この艦隊は連合軍の地中海縦断航路の護衛を担当し、地中海に出没するドイツ海軍、オーストリアハンガリー海軍の潜水艦と対峙し、日本海軍としては不慣れな船団護衛任務を実施した。

船団護衛と言いながら、当初、日本の駆逐艦は対潜水艦戦用の装備を持たず、英海軍から教えられた、掃海具であるパラベーンを流してワイアにUボートを引っ掛け破壊するというような方法で、これを実施したと言う。

駆逐艦の数は最大時で18隻まで増加するが、何れにせよ小規模な艦隊ながら、およそ一年半の派遣期間の間に、70万人の兵員輸送に貢献し、7000人の救出に携わるなど、非常に高い評価を受けた。

期間中に35回、Uボートと戦闘し、駆逐艦一隻が大破され、78名の戦死者をだした。

 

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写真上段は第二特務艦隊として地中海に派遣された日本海駆逐艦に種、樺型と桃型。

第二特務艦隊には、当初、樺型8隻、増援として桃型4隻が投入された。

樺型駆逐艦:1915− :595トン、30ノット、66mm in 1:1250

樺型駆逐艦 - Wikipedia

桃型駆逐艦:1916–:755トン、31.5ノット、66mm in 1:1250

桃型駆逐艦 - Wikipedia

下段は、第一次世界大戦当時の代表的なドイツ海軍Uボート (U23クラス:水上670トン・水中870トン、水上16.5ノット・水中10ノット、50mm in 1250)

https://en.wikipedia.org/wiki/U-boat#World_War_I_(1914–1918)

 

上記の樺型駆逐艦タイプシップとして、フランスからの要請でアラブ級駆逐艦12隻が戦時に急増され、輸出された。

 

この他、英海軍より、当時、世界最強をうたわれた金剛級巡洋戦艦4隻からなる日本海軍第4戦隊の貸与要請などをうけるが、海軍はもちろんこれに応じることはなかった。結果的には、青島攻略作戦以降、上記の地中海における護衛任務が、日本海軍の、ほぼ唯一の戦闘活動になった。

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(英国から貸与要請のあった金剛級巡洋戦艦。第4戦隊は、金剛、比叡、霧島。榛名の同型艦4隻で編成され、大口径の主砲、高速力から、世界最強の戦隊といわれた)

 

本稿では主に海軍主力艦の発展をたどってきているが、第一次世界大戦を通じて、いわゆる主力艦の活動は非常に低調で、英独の二国の主力艦に限られる。

主力艦が関連する海戦は、以下の4回しかなく、しかも全てが大戦前半に行われている。

コロネル沖海戦(1914年11月1日)

フォークランド沖海戦(1914年12月8日)

ドッカー・バンク海戦(1915年1月24日)

ユトランド沖海戦(1916年5月31日ー6月1日)

このうち、最初の二つの海戦は、ドイツ東洋艦隊の本国帰航とその阻止をめぐる一連の戦いであり、あとの二つは英独両主力艦隊の激突であった。

これらの戦いについては、次回で見ていくことになるが、戦史全般の視点に経てば、これら主力艦よりも、より後世に大きな影響を与える潜水艦という兵器、これを用いた新しい形の通商破壊戦術が登場した重要な戦争であったということに気付くであろう。

日本海軍も例外ではなく、この大戦への数少ない具体的な関与が、地中海における対潜水艦戦であった。

 

対潜水艦戦:ドイツ帝国Uボートによる無制限潜水艦作戦の脅威

大戦の開戦当初、戦時国際法の制限から、潜水艦は中立国船舶への攻撃は禁じられ、戦時禁制品を運ぶ等の中立違反行為が確認された場合に拿捕などが許されるだけであった。また沿岸の小航海に用いる船舶や漁業船舶などへの攻撃も許されない建前であった。

すなわち、敵海軍艦艇への攻撃を除き、潜水艦は攻撃前に警告を発し、あるいは臨検を行う必要があり、つまり浮上して姿をあらわす必要があった。

また、当初の潜水艦は、魚雷の搭載数が少なく、かつ魚雷そのものが非常に高価であったため、特に単独航行をする船舶に対しては、砲撃による攻撃が選択された。これに対する対抗策が、有名なQシップである。Qシップはいわゆる偽装商船で、潜水艦の出没する海域を単独航行し、砲撃、あるいは拿捕のために一旦、潜水艦の浮上を誘い、浮上した潜水艦を突如攻撃して撃沈する戦術を取った。

1915年2月、ドイツ帝国は最初の無制限潜水艦作戦を実施する。これは英海軍により実施された北海の機雷封鎖による事実上の無制限攻撃への対抗措置で、イギリス周辺海域での無警告攻撃を宣言した。

さらに、戦争長期化が判明した1917年2月、ドイツ帝国イギリスとフランスの周辺、さらに地中海全域を対象にした、海域内を航行する全船舶を対象とした無警告攻撃の完全な無制限潜水艦作戦の実施を宣言した。

これにより、潜水艦は攻撃時に浮上する必要がなくなり、ドイツ潜水艦による戦果は同年前半、最高潮に達する。

こうした変遷を経て、一方で水中に潜む潜水艦相手の対潜水艦戦の本格的な取り組みが始まるのだが、第一次世界大戦中に実用化された対潜水艦戦兵器は、爆雷(降下機雷)とその投射器(1915年実用化)、水中聴音器(パッシブ・ソナー:1916年艦載型の登場)であった。アクティヴ・ソナーについてもその開発は始まってはいたが、実用化は大戦終了後の1920年代に入ってからであった。

第一次世界大戦において、ドイツ帝国Uボートは、無制限潜水艦作戦の実施とともに、多大な戦果を上げ、一時期は英国の存在自体を脅かすほどだったが、しかしながら、当時の海軍軍人たちの反応はきわめて淡白で、例えば最もその戦術に苦しめられた英国ですら、戦後、対潜水艦戦術に対する深い研究が組織的に行われた形跡は希薄である。

さらに、日本も、英国と同様の島国であることを考慮すれば、より多くの研究をこの分野に割くべきであった、と後世、太平洋戦争における米潜水艦の跳梁を知る我々ならば言えるのだが、それは後知恵、というべきものであろうか。

 

例えば、対潜水艦戦の担当艦艇には、各国が駆逐艦を当てたが、本来、駆逐艦は高速で主力艦に肉薄する水雷艇を「駆逐」する目的で開発された艦種で、水雷艇に劣らぬ高速が持ち味であった。

一方、水中に潜む潜水艦を探知するためには、当時は水中聴音に頼るしかなく、すなわち静音下(8~12ノット以下)での操艦が必須となるが、必ずしも高速での戦闘を想定して設計された駆逐艦の適性が高いとはいえなかった。

このため、やがて各国が対潜水艦戦のための専任艦艇を開発するに至るが、それは第二次世界大戦において再び潜水艦の脅威(ナチスドイツUボート、米潜水艦)に直面してからのことになる。

 

 

という次第で、第一次世界大戦日本海軍を追ううちに、今回は力が尽きた。次回こそは第一次世界大戦の主要海戦における主力艦の動向を追って行きたい。

 

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