相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第10回 日本海軍の弩級戦艦整備状況(第一次世界大戦前)

初の弩級戦艦河内級の建造

繰り返しを恐れずに記すと、日露戦争で極東における重大な脅威であったロシア艦隊を完勝に近い形で退けた日本海軍は、1911年時点で、数の上では近代戦艦(前弩級戦艦)9隻、強化型近代戦艦(準弩級戦艦)4隻、戦艦に匹敵する砲力を備えた装甲巡洋艦(前弩級巡洋戦艦)4隻、計17隻の主力艦を揃えた大海軍であった。

かつ、日清、日露の戦争を通じ、世界でほぼ唯一の近代艦隊での実戦経験を持つ海軍と言えたであろう。

しかしながら、1906年の英戦艦ドレッドノートの登場によって、これら全ての海軍装備は「旧式」でしかなくなってしまっていた。実戦を経て流された多くの血と、国家財政を傾けるほど注ぎ込まれた財貨で、名実ともに世界の一流海軍の間に割り込んだはずが、たった一隻の軍艦の登場で少なくともその装備上は二流海軍に貶められたと知った時に、海軍首脳は頭を抱えたことだろう。

気がつくと、日本海軍は弩級戦艦の時代に、乗り遅れていた。

 

河内型戦艦 - Wikipedia(125mm in 1:1250)

ドレッドノートの登場から6年後(1912)、日本海軍はようやく最初の弩級戦艦を就役させた。

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前級の薩摩級よりも少し大きな船体に、薩摩級では12門装備していた中間砲を廃止し、全て30.5センチとし、連装砲塔6基を6角形に配置している。この配置により、首尾線方向に6門、両舷方向に8門の主砲を指向できた。機関は前級2番艦「安芸」が搭載し好成績を示したタービン式を採用し、20ノットの速力を発揮することができた。

日本海軍念願の弩級戦艦ではあったが、その主砲には課題があった。艦首尾砲塔の30.5センチ砲が50口径であったのに対し、舷側砲塔は45口径であり、二種類の砲身長、初速の異なる主砲を装備していた。厳密には弩級戦艦の「同一口径の主砲による統一した射撃管制指揮に適している」という要件を満たしていなかった。

実際に、その主砲の斉射にあたっては艦首尾砲塔は弱装火薬を用いることによってこれらの不都合を解消しなくてはならなかった。これでは、50口径の長砲身を持つ意味がなかった。

さらに、河内級が採用した50口径砲自体にも問題があった。この砲は英アームストロング社製で、イギリス海軍の戦艦でも採用されていた。しかし、同社の技術を持ってしても、砲身に大きなしなりが発生し命中精度が下がること、併せて砲身寿命が短いなど、高初速に起因する欠点があり、このことが、英海軍がオライオン級戦艦から34.3センチ砲を採用する動きの一因となった。

この50口径主砲の採用にあたっては、日露戦役の英雄、東郷提督の「首尾線方向への火力は強力にすべきである」という鶴の一声に従ったものである、との説もあるが、その真偽、あるいはもし本当だったとして、その真意、はさておき、これを「都市伝説の一種」とみるか、あるいは官僚の陥りがちな権威への盲目的な追従の始まりとみるべきか。

 

弩級巡洋戦艦の導入−「蓼科」「劔」

河内級戦艦の建造と並んで、「旧式艦ばかりの二流海軍」からの急遽脱却を図るべく、海軍は欧米列強の既成弩級戦艦の購入を模索し始めた。

あわせて、より深刻な要素として、当時、各国の海軍で導入されていた装甲巡洋艦の高速化への対応が、検討されねばならなかった。すなわち、当時の日本海軍が保有する主力艦の中で最も高速を有するのは装甲巡洋艦巡洋戦艦)「伊吹」であったが、その速力は22ノットで、例えば膠州湾青島を本拠とするドイツ東洋艦隊のシャルンホルスト級装甲巡洋艦(23.5ノット)が、日本近海で通商破壊戦を展開した場合、これを捕捉することはできなかった。

これらのことから、特に高速を発揮する弩級巡洋戦艦の導入が急務として検討され、その結果、弩級巡洋戦艦「蓼科」「劔」の購入が決定された。

 

弩級巡洋戦艦「蓼科」(127mm in 1:1250)

ドイツ海軍の装甲巡洋艦ブリュッヒャー」の2番艦を巡洋戦艦に改造、導入したものである。

ブリュッヒャー (装甲巡洋艦) - Wikipedia

ブリュッヒャーは、従来の装甲巡洋艦の概念を一掃するほどの強力艦として建造されたドイツ帝国海軍の装甲巡洋艦である。装甲巡洋艦におけるドレッドノートと言ってもいいかもしれない。主砲は44口径21センチ砲を採用し、戦艦並みの射程距離を有し、搭載数を連装砲塔6基として12門を有し、また速力は25ノットと、当時の近代戦艦(前弩級戦艦)、装甲巡洋艦に対し、圧倒的に優位に立ちうる艦となる予定であった。

しかしながら、同時期にイギリスが建造したインヴィンシブルは、戦艦と同じ、30.5センチ砲を主砲として連装砲塔4基に装備し、速力も25.5ノットと、いずれもブリュッヒャーを凌駕してしまったため、ドイツ海軍は急遽同等の弩級巡洋戦艦建造に着手しなければならず、ブリュッヒャー中途半端な位置づけとなり、後続艦の建造が宙に浮いてしまうこととなった。

日本海軍はこれに目をつけ、この2番艦の建造途中の船体を購入し、「蓼科」と命名、これを巡洋戦艦仕様で仕上げることにした。主な仕様変更としては、主砲をオリジナルの44口径21センチ砲12門から、日本海軍仕様の45口径30.5センチ連装砲塔3基および同単装砲塔2基、として計8門を搭載した。この配置により、首尾線方向には主砲4門、舷側方向には主砲7門の射線を確保した。機関等はブリュッヒャー級のものをそのまま搭載したところから、ドイツで建造した船体をイギリスで仕上げる、といった複雑な工程となった。が、狙い通り就役は「河内級」とほぼ同時期であった。

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速力は25ノットの、当時の日本海軍主力艦としては、最も高速を発揮したが、装甲は装甲巡洋艦ブリュッヒャーと同等の仕様であったため、やや課題が残る仕上がりとなった。

 

弩級巡洋戦艦「劔」(136mm in 1:1250)

弩級巡洋戦艦「蓼科」の保有に成功した日本海軍であったが、上記のように、本来は装甲巡洋艦であったために、その防御力にはやや課題が残った。併せて、河内級のイギリス製の50口径主砲がやはり前述のような課題があったため、日本海軍は当時50口径砲の導入に成功していたドイツを対象に、もう一隻、弩級巡洋戦艦の購入を模索することにした。

白羽の矢が立ったのは、ドイツ海軍初の弩級巡洋戦艦「フォン・デア・タン」の2番艦で、すでにドイツ海軍の上層部の関心が、より強力な次級、あるいはさらにその次のクラスに向いてしまったため、やはり宙に浮いていたものを計画段階で購入することにした。

フォン・デア・タン (巡洋戦艦) - Wikipedia

ブリュッヒャー級2番艦の場合と異なり、今回はその基本設計はそのままとし、主砲のみ、既に戦艦ヘルゴラント級で搭載実績のある1911年型50口径30.5センチ砲に変更し、船体強度などに若干の見直しを行った。同砲では河内級でイギリス製の50口径砲に見られたような問題は発生せず、ドイツの技術力の高さを改めて知ることになる。

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主砲の口径の拡大と、それに伴う構造の変更があったにも関わらず、速力はオリジナル艦と同等の25.5ノットを確保することが出来た。

同艦は1912年に就役し、弩級巡洋戦艦「劔」と命名された。

「劔」「蓼科」は、2 艦で巡洋戦艦戦隊を構成し、この戦隊の発足がシュペー提督のドイツ東洋艦隊の本国回航を決意させた遠因となったとも言われている。

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高速巡洋戦艦戦隊:「蓼科」(奥)、巡洋戦艦「劔」

 

超弩級巡洋戦艦金剛級の建造

日本海軍における弩級戦艦弩級巡洋戦艦の時期は短い。

これは既述のように、日露戦争以降の既存戦力の整備に多くの費用を費やし、新戦力の増強への展開が遅れたことに起因する。

弩級戦艦、準弩級戦艦の整備を終えた時には、既に弩級戦艦の時代を迎えていたし、弩級戦艦の整備に着手した時には、既に超弩級戦艦が登場していた。

あわせて、兵器の国産化は国家の安全保障上、常に非常に重要な目標であり、日本海軍も日露戦争以降、その方向を目指してきた。しかし一方で、弩級艦、超弩級艦等の導入に見るように非常に兵器(特に軍艦)の寿命は短く、搭載兵器も上記の50口径主砲の例に見るように、独自技術を国内に養成する上でも健全な技術導入も並行せねばならないことは明らかであった。

一方で、日清戦争降着手され日露戦争で成果を発揮した、同数の戦艦と装甲巡洋艦巡洋戦艦)で主力艦隊を構成するという根本方針から、河内級の弩級戦艦2隻、「蓼科」「劔」の弩級巡洋戦艦2隻を起点とする新たな六六艦隊構想が模索され始める。

さらに、日清、日露の戦訓から、欧米列強に対し基本的な国力が劣る状況が改善されることは想定しにくく、物量で凌駕できない条件の元でも、機動力において常に仮想敵を上回ることができれば、勝利を見いだせることが確信となった。

これらの背景から、超弩級巡洋戦艦「金剛」級は生まれたと言っていい。

金剛型戦艦 - Wikipedia(173mm in 1:1250) 

上記の海外技術の導入の必要性から、1番艦「金剛」は英ビッカース社で建造された。

2番艦以降は、「比叡」横須賀海軍工廠、「榛名」神戸川崎造船所、「霧島」三菱長崎造船所、と、国内で生産され、特に民間への技術扶植がおこなわれ、ひいては造船技術の底上げが図られた。4隻は1913年「金剛」、14年「比叡、」15年「榛名」「霧島」と相次いで就役する。

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ライオン級巡洋戦艦タイプシップとして、27.5ノットを発揮し、主砲口径は当初は50口径30.5センチ砲連装砲塔5基を予定していたが、前述のようにこの砲には命中精度、砲身寿命に課題があったため、当時としては他に例を見ない45口径35.6センチの巨砲を連装砲塔4基に装備することにした。

強力な砲兵装と機関により、排水量27,000トンを超える巨艦になった。 

第一次大戦当時、金剛級4隻は世界最強の戦隊、と歌われ、諸列強、垂涎の的であった。

 

優れた基本設計を有していたため、以後数度の大規模な改装に耐え、非常に長期間にわたり第一線の主力艦を務めることになるが、これはまた別の機会に紹介することになるであろう。

 

次回は、少し日本を離れ、第一次世界大戦における列強の主力艦事情と主要な海戦を記述する予定である。あるいは、先週、先々週のような「号外」的に弩級超弩級戦艦、巡洋戦艦等のカタログ展開を先に?(少し迷っています。ご意見があれば、是非お聞かせ下さい)

 

模型についてのご質問も、是非お気軽にどうぞ。もっと「どこで買うの?」とか、「どのメーカーがおすすめ?」とか、そのような質問でも結構です。

 

***注記:皆さんは大丈夫だと思うのですが、本文中「緑色表示」の部分は、史実ではなく、筆者の妄想です。ご注意ください。以降、未成艦、計画艦など、このような要素が増えて行く予定です。史実だけでいい、という方がいらっしゃたら、本当に申し訳ありませんが、ご容赦ください。あるいは斜体字箇所を飛ばしていただくとか・・・。

 


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