相州の、1:1250スケール艦船模型ブログ 主力艦の変遷を追って

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第6回 日露開戦 旅順口を巡る戦い

日露間に戦端が開かれた。

同時に、日本海軍は、旅順にあるロシア太平洋艦隊に対し、攻撃を開始した。

当時の日本海軍は六六艦隊計画を完成させ、すなわち戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹に艦隊を構成していた。

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6隻の戦艦(三笠:左上、朝日:右上、敷島級の2隻:敷島、初瀬 左右中段、富士級の2隻:富士、八島 左右下段)

f:id:fw688i:20180924120229j:plain6隻の装甲巡洋艦(八雲:左上、吾妻:右上、出雲級の2隻:出雲、磐手 左右中段、浅間級の2隻:浅間、常磐 左右下段)

 

一方、ロシア海軍は、旅順、ウラジオストックという二大拠点に、戦艦7隻、装甲巡洋艦4隻を主力として展開し、これを「太平洋艦隊」と呼称した。このうち、戦艦7隻は全て旅順にあった。

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ロシア太平洋艦隊の7隻の戦艦(ツェザレヴィッチ:左上、レトヴィザン:左中、ペトロパブロフスク級:ペトロパブロフスク、セヴァストポリ、ポルタワ 左下、右3段目、右下、ペレスヴェート級:ぺレスヴェート、ポペーダ 右上、右2段目)

f:id:fw688i:20180924122141j:plainウラジオストック艦隊の3隻の装甲巡洋艦(グロモボイ:上段、ロシア:左下、リューリック:右下)

 

水雷夜襲と湾口閉塞

旅順は朝鮮半島の西隣、遼東半島の先端に位置している。日清戦争後の下関条約で、遼東半島は日本に割譲された。が、三国干渉により日本の領有権を放棄させたロシアは、露清密約により、満洲での鉄道敷設とその管理権、さらに遼東半島の租借権を得て、事実上、満洲をその勢力下に置くことに成功した。半島先端の旅順、大連はいずれも、ロシア念願の不凍港であり、ここに巨大な艦隊をおくとともに、それを守るべく近代的な要塞を築いた。

日露開戦に当たり、満州南部を予定戦場と想定する日本にとって、遼東半島への補給線の確保はその兵站上、必須であり、そこにほぼ日本海軍に匹敵する規模の主力艦を有する艦隊が基地を置いていることは、それだけで重大な脅威であった。ただでさえ貧しい兵站に、時間と労力のかかる迂回路を設けなどすれば、満洲に展開する陸軍主力はいずれ干上がってしまう。海軍も、その艦隊の出撃を警戒し、常に洋上にその主力を待機させねばならず、兵員も艦も疲労し、遂には肝心の決戦時に本来の力が発揮できない恐れがあった。

この為、旅順の艦隊への対応は急務であり、日本海軍は開戦劈頭、これに水雷夜襲と湾口閉塞、という二方向の作戦で挑んだ。

 

水雷夜襲は、駆逐艦水雷艇をこの実施に当てた。

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 写真は当時の駆逐艦「白雲 」である。(52mm in 1:1250) 

イギリス、ソニークロフト社製、322トン、7.6センチ砲✖️1、5.7センチ砲✖️5、魚雷発射管✖️2、31ノットという当時としては標準的な装備である。「白雲」は旅順口への第一次攻撃に、第一駆逐隊の司令艦として参加している。

白雲型駆逐艦 - Wikipedia(Shirakumo class: destroyer)

 

 

水雷夜襲には、多くの水雷艇も参加した。水雷艇は、駆逐艦よりも小さく50t-150t程度の艦体を持ち、砲1-3門と魚雷発射管1-3門を装備している。右下段に、戦艦三笠、駆逐艦白雲、水雷艇の大きさを比較した。写真は比較的大型の水雷艇で、多くはもう少し小さい。

この時期の魚雷は、決して信頼性の高い兵器ではなかった。その多くは圧搾空気でスクリューを回す構造で、射程距離は最長でも3000メートル程度だった。戦闘で軍艦を標的に用いるには、300-500メートル程度に接近する必要があった。

水雷夜襲は、駆逐艦水雷艇が、その高速を活かし、夜陰に紛れ、旅順港に飛び込み、停泊中の敵艦に肉迫し魚雷を放つ、というものだったが、初回こそ奇襲となった為、数発の命中を得たが、その後は当然ながら要塞側の警戒も強化され、目立った戦果を挙げる事ができなかった。

 

一方で、湾口の閉塞作戦も並行して進められた。旅順港は外港と内港の間に狭い通路がある。ロシア艦隊は主として内港に停泊した為、この通路を塞ぎ、ロシア艦隊を封じ込めて無力化しよう、というのがこの作戦の狙いであった。この閉塞に当たって、1898年の米西戦争でのサンチャゴ湾封鎖作戦が先例として取り上げられた。

 

閉塞作戦の先例:サンチャゴ湾閉塞作戦(米西戦争:1898)

米西戦争でのサンチャゴ湾封鎖作戦では、要塞に防護されたサンチャゴ湾に入港した装甲巡洋艦4隻を基幹とするスペイン大西洋艦隊を、アメリカ大西洋艦隊が、湾口に古い汽船を沈めて閉じ込めようとした。しかし、この閉塞船の侵入に気づいた要塞からの砲撃で、予定通りの位置には汽船を沈めることができず、結局、閉塞作戦は失敗した。

軍事技術、戦術は戦争の都度、大きく変化、発達する。そのため、どの戦争にも多くの観戦武官が派遣され、技術、戦術を研究した。米西戦争もその例外ではなく、各国は武官を競って戦場に送り込んだ。日本海軍は折からアメリカ留学中の秋山真之ら、数名を派遣した。

 

以降は、本稿からは全くの余談になるが、その後、脱出を試みたスペイン艦隊を、閉鎖警備中のアメリカ艦隊が捕捉し、装甲巡洋艦4隻は全て失われるという海戦が発生する。紹介できる模型もあるので、おそれず少し寄り道をしよう。

サンチャゴ・デ・キューバ海戦 - Wikipedia

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写真は、スペインの装甲巡洋艦「インファンタ・マリア・テレジア」(Armored Croiseur Infanta Maria Teresa class)である。スペイン初の国産装甲巡洋艦で、サンチャゴ湾に入港した大西洋艦隊主力の4隻の装甲巡洋艦のうち3隻が同級であった。28センチを前後に単装露砲塔に装備し、6890t、20ノットを発揮した。(「インファンタ・マリア・テレジア」「ビスカヤ」「アルミランテ・オケンドー」)(84mm in 1:1250)

インファンタ・マリア・テレサ級装甲巡洋艦 - Wikipedia(infanta Maria Teresia class :armored cruiser)

 

 

もう一隻は「クリストバール・コロン(Cristóbal Colón)である。イタリア製の装甲巡洋艦で、ジュゼッペ・ガリバルディ級の1隻を建造中に取得したものである。同じく日本海軍がアルゼンチンから購入した「日進」「春日」とは準同型艦にあたる。

**写真は日本海軍の装甲巡洋艦「春日」である。日本の装甲巡洋艦は20センチ連装砲を艦の前後にその主砲として装備する事を標準としたが、「春日」のみ、前部の主砲を25.4センチ単装砲とした。「クリストバール・コロン」は24センチ単装砲を、その主砲として前後に装備した。(春日:89mm in 1:1250)

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クリストーバル・コロン (装甲巡洋艦) - Wikipedia

 

これに対するアメリカ海軍は、以下の艦で構成されていた。

テキサス (1892) - Wikipedia

(No photo)

 

インディアナ級戦艦 - Wikipedia の2隻「インディアナ」「オレゴン」(83mm in 1:1250)

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アメリカ海軍初の近代戦艦。乾舷が低く、外洋での運用には少し難があった。(同型艦3)

アイオワ (BB-4) - Wikipedia (85mm in 1:1250)

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艦首側の乾舷を一段上げ、インディアナ級の外洋での凌波性を改善した。(同型艦はない)

ブルックリン (装甲巡洋艦) - Wikipedia (99mm in 1:1250)

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9000トン、20ノット。20センチ連装砲を4基装備し、片舷に6門の主砲を指向できた。(同型艦はない)

「テキサス」を除けば、比較的艦齢の若い船が多かった。

 

スペイン艦隊は戦力の劣勢は否めないとしながらも、アメリカ艦隊が戦艦中心で、先頭の旗艦「インファンタ・マリア・テレジア」が損害を引き受けている間に、他の艦は優速を利用すれば、追求できる艦は「ブルックリン」のみとなる為、逃げ切る可能性がある、として脱出に踏み切った。

しかし、射撃法も含めた砲力の差は埋めがたく、装甲巡洋艦全艦が失われた。

 

さらに余談を続けると、秋山のこのアメリカ留学の成果として兵棋演習の導入があると言われている。

兵棋演習とは、例えば海軍の場合は、大きな予定戦場を模した海図の上に、それぞれの艦隊、保有艦を並べ、起こるべき戦闘を想定するもので、そこでは実際の軍艦の持つ速力、砲の威力が再現され、演習に参加するものは、それぞれの艦の運動、戦闘を指揮する。

ここで用いられた駒が、今、紹介している艦船模型の原点と言えるであろう。

 

再び、旅順口の攻防

旅順口での戦闘に話を戻す。

旅順口でも、日本海軍はサンチャゴ閉塞作戦に習い、古い汽船を水路に沈めることを目論んだ。これも夜陰に乗じるとはいえ、要塞砲台のいわば真下での作戦であり、数次にわたる試みにも関わらず、結果的には成功しなかった。

1度目の閉塞作戦(1904/2/18)ののち、太平洋艦隊司令長官にマカロフ提督が着任する。(1904/3/6) 

マカロフはその当時、世界的な名将として知られており、彼の着任はロシア艦隊の士気を高めた。以降、旅順口への日本艦隊の攻撃に対し、ロシア艦隊は積極的な反撃運動を行うようになる。時にマカロフ自身が艦隊を率いて、旅順港沖合の日本艦隊を追い払う事もあり、その積極性は、水兵たちに人気があった。

3月27日に実施された第二回閉塞作戦の失敗ののち(広瀬武夫中佐はこの作戦で戦死した)、日本海軍は、この積極的に反応するロシア艦隊の変化を利用する作戦を旅順口作戦に盛り込んだ。秘密裡に湾外に機雷を敷設するとともに、湾外を行動する小艦隊による挑発を実施し、積極反応するようになったロシア艦隊の主力を港外に誘導し、それを日本艦隊主力が捕捉する、という作戦である。

 

そして、ロシア艦隊にとっては運命の4月13日、4隻の防護巡洋艦を基幹に編成された日本の第3戦隊の挑発に、マカロフ自らが旗艦ペトロパブロフスク以下、戦艦2、巡洋艦3を率いて出撃した。出撃後、待ち受ける日本主力艦隊を認めたマカロフは、追撃を中止し、旅順へ戻るコースを取った。

その帰途、数日前から並行して敷設されていた機雷に旗艦「ペトロパブロフスク」、および戦艦「ポペーダ」が触雷、旗艦は轟沈しマカロフも艦と運命を共にした。

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ペトロパブロフスク級戦艦 - Wikipedia

写真はペトロパブロフスク級戦艦。日本海軍が30センチ砲装備の富士級戦艦を建造中との情報に刺激され、3隻がサンクトペテルブルクで建造された。3隻、すべて旅順の太平洋艦隊に配備された。ロシア海軍初のいわゆる近代戦艦で、列強の水準を満たし、ロシアの造船技術の高さを示した。(97mm in 1:1250)

 

マカロフの戦死後、ロシア艦隊は積極的な反撃を行わなくなる。

一方で、マカロフの後任であるウィトゲフト少将も機雷作戦の展開を指示、旅順口の日本の監視艦隊の航路に機雷を敷設する。

 

そして今度は日本海軍にとって、災厄の5 月15日、哨戒任務中の戦艦「初瀬」「八島」の2隻がほぼ同時に触雷、瞬時に日本艦隊はその主力艦の三分の一を失った。

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初瀬 (戦艦) - Wikipedia (Hatsuse: battle ship 1901-1905)

敷島級戦艦の3番艦。イギリス、アームストロング社エルジック造船所で建造された。前級の富士級に比べ、艦型は一回り大きくなり、就役当時は「世界最大の戦艦」と言われた。。敷島級4隻の中でも、本艦と「敷島」のみ、3本煙突である。富士級では、主砲装填には前後それぞれ中心線に砲塔を戻す必要があったが、本級からは、どの位置でも装填が可能な機構が採用され、射撃速度、照準に著しい改善を得た。(100mm in 1:1250)

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八島 (戦艦) - Wikipedia(Yashima: battle ship 1897-1904) (97mm in 1:1250)

富士級戦艦の2番艦。(富士級については第五回を参照されたい)

「初瀬」「八島」喪失の同日、同じく旅順沖を哨戒中の巡洋艦「吉野」が濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没した。まさに「魔の5月15日」であった。

 

開戦以来3ヶ月、日本海軍は旅順艦隊を旅順港外において撃滅する、あるいは旅順港に封じ込め事実上無力化する、という方針の下、作戦行動を行ってきたが、成果が上がらぬまま、日本がその国運を賭けて整備した六六艦隊の一角が崩れ、保有する戦艦は4隻となった。一方、ロシア太平洋艦隊は名将マカロフを失いながら、依然、6隻の戦艦を旅順に保有している。

併せて、陸軍は、当初その作戦構想には旅順要塞の攻略はなく、せいぜい封じ込めの兵力を配置する、という程度の対応が考慮されていた。海軍もその方針に異論はなく、艦隊さえ撃滅できれば、必ずしも要塞攻略は必須ではない、としていた。その背景には、日清戦争時の旅順要塞の攻略がわずか一日で完了した経験があり、もし必要になれば「多少手こずる」程度で攻略が完了する、という認識があったと思われる。が、開戦後、満洲に展開していたロシア陸軍の三分の一に当たる、約45,000の兵が要塞に立て籠もるという状況に、その認識を改めざるを得なくなった。

陸軍主力は、4月以降、満州に展開していたロシア軍と本格的な戦闘に入り、緒戦には予定通りの勝利を収めた。今後、満州を北上し次の会戦に臨むことになるが、その背後に想定以上の大きな兵力が不気味に残置されているのである。

一方、5月20日には、ロシアの本国艦隊(バルチック艦隊)を第二太平洋艦隊として、極東に回航することがほぼ決定された。この艦隊は、少なくとも新式の戦艦を5隻含み、これが旅順艦隊に合流した場合、日本海軍の勝利はおぼつかなくなる。陸軍は補給を脅かされ、満州で立ち枯れざるを得ないであろう。

ここにきて、旅順要塞攻略の必要性が浮上し、これを主任務とする第三軍を編成し、背後の脅威を取り除くことになった。第三軍は乃木希典を軍司令官とし、6月末までには、旅順要塞外縁に展開した。

これに伴い、8月には海軍陸戦重砲隊も旅順港内に向けて砲撃を開始し、停泊中の艦戦に損害を与えた。

以降、旅順要塞は第三軍に対し、それまで日本人が全く経験したことのないような出血を強いるのだが、それは本稿の主題ではない。

 

一方、ロシア側にもいくつかの事情があった。実は、旅順要塞は、いくつかの重大な課題を抱えていた。その多くは戦争への準備不足に起因するが、その背景には、「自分が望まない限り戦争にはならない」という皇帝ニコライ二世の言葉に代表されるような、「開戦への主導権はロシアが握っている」という認識があったと思われる。

その課題とは、まず、海軍基地でありながら、艦船修理施設が十分でなく、戦闘で重大な損傷を受けた場合には、旅順では対応できなかった。

また、上記の海軍重砲隊による射撃で艦船が損傷する、というようなことは、要塞に十分な領域が確保されていないことを意味していると考えざるを得ない。

これらが、要塞構築が未だ途上にあったことによるものか、或いは、兵器の発達への対応の遅れによるものか、定かではないが、いずれも、艦隊を常に完璧な状態で維持する海軍基地、およびそれを防御する硬い殻であるべき要塞としては、致命的な欠陥のように思える。さらに、この状況を認識しつつ、ここに最新式の艦隊をおいたとすれば、ロシアは、本当に戦争になるとは考えていなかったのではないかと思えてくる。平時、ここに強力な艦隊を置き周囲に陸軍を配置し示威すれば、周囲は萎縮しおおかたの要求を通すことができるであろう。足りないものを整備する機会はいくらでもある、そのような見通しの元に、旅順という地は扱われたのではなかろうか。

 

が、戦端は開かれてしまった。本国から強力な艦隊が、もうワンセット送られてくる。これを迎え入れ日本海軍を圧倒するためには、現有艦隊を本国艦隊到着まで温存することが得策であるが、現在の根拠地には、本来備えているべきそれを保証する能力がない。

 

いよいよロシア艦隊は、旅順を出ねばならない。

黄海海戦の戦機が熟そうとしている。

 

次回は黄海海戦

 

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