相州の、ほぼ週刊、1:1250 Scale 艦船模型ブログ

1:1250スケールの艦船模型コレクションをご紹介。実在艦から未成艦、架空艦まで、系統的な紹介を目指します。

第11回 第一次世界大戦の勃発と日本海軍の活動

第一次世界大戦の勃発

1914年6月28日、当時オーストリア=ハンガリー帝国内の共和統治国ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪問中のオーストリア=ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナンド大公の車列を、6人のユーゴスラビア民族主義者たちが襲った。

この爆弾テロ自体は失敗に終わったが、この事件による負傷者を病院に見舞った帰路、皇太子夫妻は上記実行犯チーム6人の一人、ガヴリロ・プリンツィプによって射殺された。

世に言う「サラエボ事件」である。

この事件後、大セルビア主義を掲げユーゴスラビア民族主義の黒幕とされるセルビア王国オーストリア=ハンガリー帝国間の緊張が高まり、7月28日両国は開戦に至った。このセルビア王国を支持して、当時バルカン半島の主導権をめぐってオーストリア=ハンガリー帝国に対抗していたロシア帝国が総動員令を発令、次いでオーストリア=ハンガリー帝国と同盟関係(三国同盟)にあったドイツ帝国の参戦、ロシア帝国と協商関係(三国協商)にあったフランス・イギリスの参戦へと、それまでの数十年間で構築された各国間の同盟関係が一気に発動され、数週間で連鎖的に主要列強が参戦する大規模な戦争に発展してゆく。

その期間は、教科書的には1914年7月28日から1918年11月11日とされ、期間中に両陣営で7000万人が動員され、戦闘員900万人以上、非戦闘員700万人以上が死亡したとされている。

イギリス、フランス、ロシアの三国協商を基軸とする陣営を連合国、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国三国同盟(イタリアは連合国側で参戦)を根幹とする陣営を中央同盟国(枢軸国)と、一般的には呼称される。

 

日本の参戦

日本は結果的には日英同盟に従い連合国側に立って参戦したが、その経緯は実はそれほど単純ではない。

日英同盟には自動参戦条項が付随しておらず、加えてその適応範囲はインドを西端とするアジアに限定されていた。このことは8月1日にイギリス外相から駐英大使に対する覚書(「第一次世界大戦へ参戦する上では、日英同盟は適用されない」)で確認され、当初、日本は中立を宣言した(1914年8月4日)。

背景には、イギリス政府、並びにオーストラリア、ニュージーランドの、日本の中国における権益の一層の強化拡大と、マリアナ諸島カロリン諸島マーシャル諸島など、ドイツ南洋諸島の占領による太平洋への影響力の強化に対する懸念、警戒感があった。

一方、ドイツ東洋艦隊の通商破壊活動への対応など、軍事的な視点からは、特に日本海軍の戦力に対する期待は日増しに大きくなり、ついにイギリスは日本に対し、中国沿岸に活動を限定するなどの条件つき参戦の申し入れを行うに至った。(8月11日)

イギリスの提示した戦域限定について、日本はこれを拒否し、8月15日にドイツに対し最後通牒を行い、23日に宣戦布告を行い、正式に参戦した。

しかしながら主要戦場はもちろんヨーロッパであり、参戦は結果的に限定的なものになった。特に陸軍はヨーロッパへの派兵に消極的で、英、仏、露からの再三の派兵要請を拒否した。

 

日本海軍の活動

ドイツ東洋艦隊の追撃

参戦後、10月には、ドイツ南洋諸島に第一、第二南遣支隊を派遣してこれを占領。さらに11月にはイギリスとの連合軍で、ドイツ東洋艦隊の根拠地であった膠州湾青島の要塞を攻略した。

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(膠州湾青島を拠点とするドイツ東洋艦隊主力:装甲巡洋艦シャルンホルストグナイゼナウ(上段)、防護巡洋艦ライプツィヒニュルンベルクドレスデン:エムデンも同型(下段))

 

この攻略戦で、日清戦争当時の海軍主力艦であった巡洋艦「高千穂」が、ドイツ水雷艇の雷撃を受け失われた。

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(日清戦争当時の高千穂) 

開戦まで練習艦として就役していた高千穂は、青島攻略戦では封鎖艦隊の一角を担っていた。折から青島からの脱出を試みた独水雷艇S90と遭遇し、その放った魚雷二発が命中、高千穂の搭載していた駆逐艦への補給用の魚雷が誘爆して、轟沈した。生存者は3名のみだった。

高千穂は、日本海軍の軍艦の中で、敵との直接の交戦で撃沈された最初の艦となった。

 

 

ドイツ東洋艦隊は開戦前後、間近な日本海軍等による行動封鎖を嫌い、青島要塞を離れ、当時ドイツ領であったマリアナ諸島パガン島に各所に分散していた諸艦を集結し、本国へ南米経由で帰還することを決意し、出発していた。(1914年8月)

その後、エムデンをインド洋へ分派、あるいは東太平洋で活動中のドレスデンライプツィヒを吸収しながら太平洋で通商破壊戦を展開する。

日本海軍は、この艦隊の追撃のために開戦直前に艦隊に編入した巡洋戦艦「劔」と「蓼科」からなる第11戦隊を太平洋に派遣したが、シュペー艦隊を捕捉するには至らなかった。

f:id:fw688i:20181205124310j:plain高速巡洋戦艦戦隊(第11戦隊):「蓼科」(奥)、巡洋戦艦「劔」

 

ANZAC警備

日本海軍は、オーストラリア、ニュージーランド、インドなど英帝国諸国からの兵団とその補充兵たちがヨーロッパへ輸送されるインド洋横断航路の護衛を担当するため、第一、第三の特務艦隊を編成し派遣した。開戦当初こそドイツ東洋艦隊から分派されたエムデンなどの活動があったが、ドイツ海軍はインド洋に拠点を持たず、その通商破壊活動はきわめて限定的で、実質は名目上の護衛活動であった。

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(第一特務艦隊としてインド洋航路の護衛任務に派遣された巡洋戦艦「伊吹」)

 

第二特務艦隊の地中海派遣

1917年2月、巡洋艦「明石」を旗艦とし、駆逐艦8隻からなる第二特務艦隊が地中海マルタ島に派遣された。この艦隊は連合軍の地中海縦断航路の護衛を担当し、地中海に出没するドイツ海軍、オーストリアハンガリー海軍の潜水艦と対峙し、日本海軍としては不慣れな船団護衛任務を実施した。

船団護衛と言いながら、当初、日本の駆逐艦は対潜水艦戦用の装備を持たず、英海軍から教えられた、掃海具であるパラベーンを流してワイアにUボートを引っ掛け破壊するというような方法で、これを実施したと言う。

駆逐艦の数は最大時で18隻まで増加するが、何れにせよ小規模な艦隊ながら、およそ一年半の派遣期間の間に、70万人の兵員輸送に貢献し、7000人の救出に携わるなど、非常に高い評価を受けた。

期間中に35回、Uボートと戦闘し、駆逐艦一隻が大破され、78名の戦死者をだした。

 

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写真上段は第二特務艦隊として地中海に派遣された日本海駆逐艦に種、樺型と桃型。

第二特務艦隊には、当初、樺型8隻、増援として桃型4隻が投入された。

樺型駆逐艦:1915− :595トン、30ノット、66mm in 1:1250

樺型駆逐艦 - Wikipedia

桃型駆逐艦:1916–:755トン、31.5ノット、66mm in 1:1250

桃型駆逐艦 - Wikipedia

下段は、第一次世界大戦当時の代表的なドイツ海軍Uボート (U23クラス:水上670トン・水中870トン、水上16.5ノット・水中10ノット、50mm in 1250)

https://en.wikipedia.org/wiki/U-boat#World_War_I_(1914–1918)

 

上記の樺型駆逐艦タイプシップとして、フランスからの要請でアラブ級駆逐艦12隻が戦時に急増され、輸出された。

 

この他、英海軍より、当時、世界最強をうたわれた金剛級巡洋戦艦4隻からなる日本海軍第4戦隊の貸与要請などをうけるが、海軍はもちろんこれに応じることはなかった。結果的には、青島攻略作戦以降、上記の地中海における護衛任務が、日本海軍の、ほぼ唯一の戦闘活動になった。

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(英国から貸与要請のあった金剛級巡洋戦艦。第4戦隊は、金剛、比叡、霧島。榛名の同型艦4隻で編成され、大口径の主砲、高速力から、世界最強の戦隊といわれた)

 

本稿では主に海軍主力艦の発展をたどってきているが、第一次世界大戦を通じて、いわゆる主力艦の活動は非常に低調で、英独の二国の主力艦に限られる。

主力艦が関連する海戦は、以下の4回しかなく、しかも全てが大戦前半に行われている。

コロネル沖海戦(1914年11月1日)

フォークランド沖海戦(1914年12月8日)

ドッカー・バンク海戦(1915年1月24日)

ユトランド沖海戦(1916年5月31日ー6月1日)

このうち、最初の二つの海戦は、ドイツ東洋艦隊の本国帰航とその阻止をめぐる一連の戦いであり、あとの二つは英独両主力艦隊の激突であった。

これらの戦いについては、次回で見ていくことになるが、戦史全般の視点に経てば、これら主力艦よりも、より後世に大きな影響を与える潜水艦という兵器、これを用いた新しい形の通商破壊戦術が登場した重要な戦争であったということに気付くであろう。

日本海軍も例外ではなく、この大戦への数少ない具体的な関与が、地中海における対潜水艦戦であった。

 

対潜水艦戦:ドイツ帝国Uボートによる無制限潜水艦作戦の脅威

大戦の開戦当初、戦時国際法の制限から、潜水艦は中立国船舶への攻撃は禁じられ、戦時禁制品を運ぶ等の中立違反行為が確認された場合に拿捕などが許されるだけであった。また沿岸の小航海に用いる船舶や漁業船舶などへの攻撃も許されない建前であった。

すなわち、敵海軍艦艇への攻撃を除き、潜水艦は攻撃前に警告を発し、あるいは臨検を行う必要があり、つまり浮上して姿をあらわす必要があった。

また、当初の潜水艦は、魚雷の搭載数が少なく、かつ魚雷そのものが非常に高価であったため、特に単独航行をする船舶に対しては、砲撃による攻撃が選択された。これに対する対抗策が、有名なQシップである。Qシップはいわゆる偽装商船で、潜水艦の出没する海域を単独航行し、砲撃、あるいは拿捕のために一旦、潜水艦の浮上を誘い、浮上した潜水艦を突如攻撃して撃沈する戦術を取った。

1915年2月、ドイツ帝国は最初の無制限潜水艦作戦を実施する。これは英海軍により実施された北海の機雷封鎖による事実上の無制限攻撃への対抗措置で、イギリス周辺海域での無警告攻撃を宣言した。

さらに、戦争長期化が判明した1917年2月、ドイツ帝国イギリスとフランスの周辺、さらに地中海全域を対象にした、海域内を航行する全船舶を対象とした無警告攻撃の完全な無制限潜水艦作戦の実施を宣言した。

これにより、潜水艦は攻撃時に浮上する必要がなくなり、ドイツ潜水艦による戦果は同年前半、最高潮に達する。

こうした変遷を経て、一方で水中に潜む潜水艦相手の対潜水艦戦の本格的な取り組みが始まるのだが、第一次世界大戦中に実用化された対潜水艦戦兵器は、爆雷(降下機雷)とその投射器(1915年実用化)、水中聴音器(パッシブ・ソナー:1916年艦載型の登場)であった。アクティヴ・ソナーについてもその開発は始まってはいたが、実用化は大戦終了後の1920年代に入ってからであった。

第一次世界大戦において、ドイツ帝国Uボートは、無制限潜水艦作戦の実施とともに、多大な戦果を上げ、一時期は英国の存在自体を脅かすほどだったが、しかしながら、当時の海軍軍人たちの反応はきわめて淡白で、例えば最もその戦術に苦しめられた英国ですら、戦後、対潜水艦戦術に対する深い研究が組織的に行われた形跡は希薄である。

さらに、日本も、英国と同様の島国であることを考慮すれば、より多くの研究をこの分野に割くべきであった、と後世、太平洋戦争における米潜水艦の跳梁を知る我々ならば言えるのだが、それは後知恵、というべきものであろうか。

 

例えば、対潜水艦戦の担当艦艇には、各国が駆逐艦を当てたが、本来、駆逐艦は高速で主力艦に肉薄する水雷艇を「駆逐」する目的で開発された艦種で、水雷艇に劣らぬ高速が持ち味であった。

一方、水中に潜む潜水艦を探知するためには、当時は水中聴音に頼るしかなく、すなわち静音下(8~12ノット以下)での操艦が必須となるが、必ずしも高速での戦闘を想定して設計された駆逐艦の適性が高いとはいえなかった。

このため、やがて各国が対潜水艦戦のための専任艦艇を開発するに至るが、それは第二次世界大戦において再び潜水艦の脅威(ナチスドイツUボート、米潜水艦)に直面してからのことになる。

 

 

という次第で、第一次世界大戦日本海軍を追ううちに、今回は力が尽きた。次回こそは第一次世界大戦の主要海戦における主力艦の動向を追って行きたい。

 

模型についてのご質問はいつでもお気軽にどうぞ。

 

あるいは、前回も申し上げましたが、***と++++の大きさ比較をアップせよ、など「vs」モノのリクエストがあれば、こちらも大歓迎です。

 


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(補遺3)回航中の仏・伊艦が無事日本に到着

仏・伊回航艦隊の到着

前回の「補遺」に引き続き、日本へ向け回航途上であったフランス近代戦艦(前弩級戦艦シャルルマーニュ級が、フランス海軍が世界に先駆けて登場させた世界初の装甲巡洋艦デュピュイ・ド・ロームを伴い日本に無事到着した。

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併せて、イタリア海軍強化型近代戦艦(準弩級戦艦)レジナ・エレナ級が、同海軍サン・ジョルジョ級装甲巡洋艦を護衛に伴い、日本に到着した。

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それぞれのページ(号外 Vol.1)に、写真をアップしました。

 

 

それぞれの護衛艦について

フランス装甲巡洋艦デュピュイ・ド・ローム(1895: 6676トン 19.7ノット 同型艦なし 92mm in 1:1250)

デュピュイ・ド・ローム (装甲巡洋艦) - Wikipedia

French cruiser Dupuy de Lôme - Wikipedia

繰り返しになるが、世界初の装甲巡洋艦の栄誉を担う艦である。

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フランス海軍は、速射砲の性能向上に伴う戦闘艦の攻撃力の格段の強化に伴い、これに対抗し船団護衛、もしくは通商破壊をその主任務とする巡洋艦に、近接戦闘での戦闘能力を喪失し難い能力を与えるべく、舷側装甲を追加した。これが装甲巡洋艦である。

19.4センチ速射砲2基と16.3センチ速射砲8基を装備し、19.7ノットの速力を出すことができた。

性能もさることながら、そのデザインの何と優美な事か。

 

イタリア装甲巡洋艦サン・ジョルジョ級(1908-: 9832トン 23.2ノット 同型艦2隻 112mm in 1:1250)

サン・ジョルジョ級巡洋艦 - Wikipedia

San Giorgio-class cruiser - Wikipedia

イタリア海軍最後の装甲巡洋艦である。

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砲兵装は大変強力で、25.4センチ連装砲を主砲として2基装備し、19センチ連装速射砲4基を副砲として装備している。

サン・ジョルジョはレシプロ機関を搭載し23.4ノット、サン・マルコはイタリア初のタービン推進艦となり、23.7ノットを発揮した。

 

現在も数隻の艦船が日本に向け回航中である。到着次第、順次アップしていきます。

 

余談ながら

艦船模型の観点からのコメントを一つ。

本稿で紹介してきた1:1250スケールの艦船模型の多くは、初回にご案内したようにダイキャスト製の完成品である。ドイツを中心に多くのメーカーがあるが、細部の仕上げにかなり差があり、メーカーの選定はかなり重要である。

筆者のお薦めは、Neptune, Navis, HAI, Albatrosといったところであるが、いずれも新品はかなり高価で、かつ日本では入手ルートが限定されている。あるいは艦種、時代によっては、あまり選択肢がない場合が多い。

筆者は、おおむねEbayなどを通じ、中古品を入手し、これに場合によっては少し塗装を行ったり、あるいは若干の細部の修復、アレンジを行ったりしている。

今回の、仏・伊両回航艦隊のうち、イタリア艦隊は上記のダイキャスト製の完成品に少しマストなどに手を入れたものである。

一方、フランス艦隊は、昨今はやりの3Dプリンターによるもので、したがって未塗装の状態で送られてくる。素材はグレイ、もしくは透明な樹脂であることが多い。

こちらは3Dプリンターでの仕上げのため、比較的安価で入手ができる。(上記ダイキャスト製完成品新品の7分の1程度の価格、と言っておこう)筆者は前弩級艦に関してはWTJ storeを、未成艦についてはShapewaysで検索することが多い。

WTJ Store - WTJ Store

Shapeways - Create Your Product. Build Your Business

ただし、こちらは未だ品揃えに限界があるのでご注意を。また、3Dプリンターの場合、特に1:1250スケールに固執する必要はないかもしれない。

いずれも海外からの発送となるために、送料が発生し、かつ入手まで、少し時間がかかる。

 

次に、私事ながら、ご報告、あるいは予告。

本稿、「号外 Vol.1: カタログ: 近代戦艦(前弩級戦艦・準弩級戦艦)一覧」のフランス海軍の前弩級戦艦等をご紹介した際に、1891年から就役したシャルル・マルテル準級について、触れる機会があった。

そこでも触れたが、この耳慣れない「準級」とは「緩やかなグループ」というほどの意味で、すなわち、同一の設計規定に従った設計コンペのような準同型艦(と言っても外観は全く異なる)を意味していると解釈される。

現在、シャルル・マルテル準級5隻のうち、4隻の3Dプリンターモデルが、日本に向け回航中であり、いずれは特集を組むことになると考えている。もう一隻も1:1250スケールへの対応を交渉中である。

ついに、フランス海軍新生学派の迷宮の扉を開けてしまったかも知れない。

 

 

模型についてのご質問はいつでもお気軽にどうぞ。

 

あるいは、***と++++の大きさ比較をアップせよ、など「vs」モノのリクエストがあれば、こちらも大歓迎です。

 

次回は、第一次世界大戦における主力艦の戦いと、同大戦での日本海軍の動向を中心に。

 


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(補遺2)回航中の2隻が無事日本に到着

日本へ向け回航途上であったロシア準弩級戦艦インペラトール・パーヴェル1世級、英装甲巡洋艦マイノーター級、無事到着した。それぞれのページ(号外 Vol.1、号外 Vol.1.5)に、写真をアップしました。

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現在、さらに数隻が日本に向け回航中です。到着次第、順次アップしてゆきます

 


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号外 Vol.2: カタログ:第一次世界大戦時の弩級戦艦・超弩級戦艦/巡洋戦艦 一覧/List of Dreadnought, Super-dreadnought

列強の弩級戦艦超弩級戦艦

弩級戦艦の始祖ドレッドノートの登場が1906年、それから第一次世界大戦の開戦までに、主として英独間で弩級戦艦の大建艦競争が繰り広げられた。その途上で、超弩級戦艦が登場する。

本稿は、これから第一次大戦中の海戦に言及しながら、主力艦の発達を見ていこうとしているが、それに先立ち、英独以外の列強も含め、それらがどのように準備されたか、総覧的に見ておくことは、意味があるかと考える。

実は弩級戦艦超弩級戦艦については、ここで取り上げた列強以外にも数カ国、その保有、あるいは保有を計画した国があるが、そのほとんどがここで挙げる列強からの購入艦であり、ここでは取り上げないことにした。ご容赦願いたい。

あわせて、第一次大戦に関連するものとしたため、およそ1920年以前に建造、あるいは計画された船をまとめた。

 

イギリス海軍:Royal Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#HMS_Dreadnought

この時期、イギリス海軍は世界最大の海軍であり、その装備の他国に対する優位性は、長いイギリス海軍の歴史を通じ、おそらく頂点にあった。

ドレッドノートの母国だけに、列強中、群を抜いて、22隻の弩級戦艦超弩級戦艦を、さらに9隻の弩級超弩級巡洋戦艦を揃えて、第一次世界大戦に臨んだ。更に超弩級戦艦2隻、超弩級巡洋戦艦1隻が建造中であった。

 

弩級戦艦

ドレッドノート (戦艦) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Dreadnought_(1906)

f:id:fw688i:20181103145035j:plain(1906年:クラス一番艦の就役年、18,110トン: 30.5cm連装砲5基、21ノット)同型艦なし (126mm in 1:1250)

言わずと知れた、弩級戦艦の始祖。この艦の登場が、それまでの全ての戦艦を旧式にしてしまった。

 

ベレロフォン級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Bellerophon-class_battleship

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(1909年、18,800トン: 30.5cm連装砲5基、21ノット)同型艦3隻 (128mm in 1:1250)

実用量産型ドレッドノート。副砲の口径を強化した。

 

セント・ヴィンセント級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/St_Vincent-class_battleship

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(1910年、19,560トン: 30.5cm連装砲5基、21ノット)同型艦3隻 (130mm in 1:1250)

 主砲を50口径に強化し、副砲の数を増やした。既述のように、採用した50口径主砲に不調があり、やがて長砲身砲を諦め、口径を大きく強化する超弩級艦の検討がはじまる。

 

ネプチューン (戦艦) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Neptune_(1909)

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(1911年、19,680トン: 30.5cm連装砲5基、22.7ノット)同型艦なし (132mm in 1:1250)

 主砲塔の配置を変更し、全門両舷を指向できるように改善された。

 

コロッサス級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Colossus-class_battleship_(1910)

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(1911年、20,225トン: 30.5cm連装砲5基、21ノット)同型艦2隻 (133mm in 1:1250)

 ネプチューンと同一戦隊を構成することを予定して建造された、ネプチューンの準同型艦。始めて2万トンを超えた。

 

エジンコート (戦艦) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Agincourt_(1913)

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(1914年、27,500トン: 30.5cm連装砲7基、22ノット)同型艦なし (163mm in 1:1250)

ブラジル海軍の発注し、途中トルコ海軍が買い取った艦を、イギリスが押収した。主砲塔7基14門、副砲20門は、戦艦の搭載数としては最大である。

 

 超弩級戦艦

オライオン級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Orion-class_battleship

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(1912年、22,200トン: 34.3cm連装砲5基、21ノット)同型艦4隻 (141mm in 1:1250)

強力な主砲として期待された50口径30.5センチ砲であったが、命数、精度に課題があった。そのため本艦から34.3センチ砲を主砲として採用し、全ての砲塔を首尾線上に配置し両舷への射界を確保した。初の超弩級戦艦 である。

 

キング・ジョージ5世級戦艦 (初代) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/King_George_V-class_battleship_(1911)

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(1912年、23,000トン: 34.3cm連装砲5基、21ノット)同型艦4隻 (145mm in 1:1250)

基本的にはオライオン級の準同型艦である。 主砲が改善され弾量が上げられた。

 

アイアン・デューク級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Iron_Duke-class_battleship

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(1914年、25,000トン: 34.3cm連装砲5基、21.25ノット)同型艦4隻 (150mm in 1:1250)

キング・ジョージ5世級の改良型。副砲の口径を15.2センチ砲と強化した。

 

カナダ (戦艦) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#HMS_Canada

https://en.wikipedia.org/wiki/Chilean_battleship_Almirante_Latorre

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(1915年、イギリスで建造中のチリ戦艦アルミランテ・ラトーレを購入、28,600トン: 35.6cm(45口径)連装砲5基、22.5ノット)同型艦なし (158mm in 1:1250)

チリ海軍の発注艦を、第一次大戦の勃発とともにイギリスが買い取った。35.6センチ砲を主砲として搭載している。 

 

エリン (戦艦) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Erin

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(1914年、22,780トン: 34.3cm連装砲5基、21ノット)同型艦なし(126mm in 1:1250)

トルコ海軍が発注した艦を、イギリスが押収し、艦隊に編入した。 キング・ジョージ5世級を基本設計としている。

 

クイーン・エリザベス級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Elizabeth-class_battleship

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(1915年、29,150トン: 38.1cm連装砲4基、23ノット)同型艦5隻(154mm in 1:1250)

38.1センチ砲を主砲として採用し、砲力の格段の強化を図った。あわせて速力を24ノットとして、高速化を図った。高速戦艦の登場である。

 

 リヴェンジ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Revenge-class_battleship

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(1916年、28,000トン: 38.1cm連装砲4基、23ノット)同型艦5隻 (150mm in 1:1250)

アイアン・デューク級の船体に38.1センチ砲を搭載する方針で設計された。重油専焼ボイラーを搭載し、速力を23ノットとした。 

 

 

 

弩級巡洋戦艦

インヴィンシブル級巡洋戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Invincible-class_battlecruiser

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(1908年、17,373トン: 30.5cm連装砲4基、25.5ノット)同型艦3隻 (136mm in 1:1250)

 戦艦と同等の砲力と、巡洋艦の速力を兼ね備えた新しい大型装甲巡洋艦として設計され、巡洋戦艦の始祖となった。

 

インディファティガブル級巡洋戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Indefatigable-class_battlecruiser

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(1911年、18,500トン: 30.5cm連装砲4基、25ノット)同型艦3隻 (144mm in 1:1250)

 インヴィンシブル級の改良型で、主砲の反対舷への射界を改善した。副砲の搭載数を増やしている。

 

超弩級巡洋戦艦

ライオン級巡洋戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Lion-class_battlecruiser

f:id:fw688i:20181125112055j:image

(1912年、26,270トン: 34.3cm連装砲4基、27ノット、27.5ノット)同型艦3隻 (167mm in 1:1250)

主砲を34.3センチ砲とし、全て首尾線上の配置とした超弩級巡洋戦艦である。 

  

タイガー (巡洋戦艦) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/HMS_Tiger_(1913)

f:id:fw688i:20181125112237j:image

(1914年、28,430トン: 34.3cm連装砲4基、28ノット、28.7ノット)同型艦なし (170mm in 1:1250)

日本の金剛級の改良型として建造された。機関の配置等に工夫が見られ、射界が改善された。 

 

 

 

ドイツ海軍: German Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Germany

イギリスに対抗すべく、急速にその海軍を充実させ、開戦時には弩級戦艦14隻、弩級巡洋戦艦4隻を保有し、弩級戦艦3隻、弩級巡洋戦艦2隻が建造中であった。主砲口径は英艦に比べひと回り小さいが、長砲身砲の安定性では英国を上回り、その伝統的に強靭な防御力とあわせ、英国の超弩級戦艦・巡洋戦艦に匹敵する実力を備えていた

大戦中に、38センチ級の主砲を持つ超弩級戦艦を建造し、同様の超弩級巡洋戦艦の建造計画に着手していた。

 

弩級戦艦

ナッサウ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Nassau-class_battleship

f:id:fw688i:20181012223100j:plain

(1910年、18,000トン: 28.3cm連装砲6基、19ノット)同型艦4隻 (117mm in 1:1250)

ドイツ海軍初の単一口径主砲搭載の戦艦(弩級戦艦)である。速度は低めながら、ドイツ伝統の重厚な防御力を備えていた。

 

ヘルゴラント級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Helgoland-class_battleship

f:id:fw688i:20181012223143j:plain(1911年、22,000トン: 30.5cm連装砲6基、20.5ノット)同型艦4隻 (133mm in 1:1250)

強力な50口径30.5センチ砲を主砲として採用した。 艦型は大型化したが、基本的な配置等は前級の拡大版である。

 

カイザー級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Kaiser-class_battleship

f:id:fw688i:20181012223206j:plain(1912年、25,000トン: 30.5cm砲連装砲5基、21ノット)同型艦5隻 (137mm in 1:1250)

初のタービン搭載戦艦で、主砲等の配置が大幅に変更された。これによって主砲搭載数を減らしながらも 、片舷への斉射能力は改善し強化された。

 

ケーニヒ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/K%C3%B6nig-class_battleship

f:id:fw688i:20181012223225j:plain(1915年、25,000トン: 30.5cm連装砲5基、21ノット)同型艦4隻 (139mm in 1:1250)

基本設計は前級に準じたものだったが、主砲塔の配置を全て首尾線上においたため、外観上は大きく変化した。 

 

超弩級戦艦

バイエルン級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Bayern-class_battleship

f:id:fw688i:20181012223247j:plain

(1916年、28,000トン: 38.1cm連装砲4基、22ノット)同型艦2隻 2隻未 (143mm in 1:1250)

主砲に38センチ砲を採用した初の超弩級戦艦である。

 

L20e 級戦艦(計画のみ)

https://en.wikipedia.org/wiki/L_20e_α-class_battleship

f:id:fw688i:20181125103643j:image

(計画のみ 43,000ト:42cm連装砲4基、26ノット) (192mm in 1:1250)

主砲に42センチ砲の採用を計画していた。速力も格段に改善され、高速戦艦を目指す設計であった。 

 

弩級巡洋戦艦

フォン・デア・タン (巡洋戦艦) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Von_der_Tann

f:id:fw688i:20181012223309j:plain(1910年、19,000トン: 28.3cm連装砲4基) 同型艦なし (136mm in 1:1250)

巡洋戦艦インヴィンシブルに対抗して設計された。高速を得るためにタービン機関を採用しているが、当時、大型艦用タービンはドイツ国内ではブローム・ウント・フォス社だけしか生できず、同社を巡洋戦艦専用メーカーと定め、戦艦への供給をしばらく見送った。

 

モルトケ級巡洋戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Moltke-class_battlecruiser

f:id:fw688i:20181117132559j:plain(1910年、19,000トン: 28.3cm連装砲5基)同型艦2隻 (151mm in 1:1250)

実験的な性格の強かった前級フォン・デア・タンの改良型で、主砲を50口径に強化し、主砲塔も1基追加して砲力を強化した。 前部乾舷が低く、波をかぶりやすかった。

 

ザイドリッツ (巡洋戦艦) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/SMS_Seydlitz

f:id:fw688i:20181012223339j:plain(1913年、24,000トン: 28.3cm連装砲5基)同型艦なし (160mm in 1:1250)

モルトケ級の改良型。 前部乾舷を一段上げ凌波性を向上させた。艦型を縦長にし、速力を向上させた。

 

デアフリンガー級巡洋戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Derfflingerclass_battlecruiser

f:id:fw688i:20181012223419j:plain(1914年、26,000トン: 30.5cm連装砲4基)同型艦3隻 (167mm in 1:1250)

主砲を50口径30.5センチ砲とし、4基の砲塔を首尾線上に配置し両舷への射線を確保した。 

 

超弩級巡洋戦艦(未成艦のみ)

マッケンゼン級巡洋戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Mackensen-class_battlecruiser

f:id:fw688i:20181012223441j:plain(未成艦、31,000トン: 35cm連装砲4基、27ノット)同型艦4隻(予定)(178mm in 1:1250)

主砲を50口径35.6センチ砲と強化する予定であった。 

 

ヨルク代艦級巡洋戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Ersatz_Yorck-class_battlecruiser

f:id:fw688i:20181012223506j:plain(未成艦、33,500トン: 38.1cm連装砲4基、27.3ノット)同型艦3隻(予定)(182mm in 1:1250)

基本的にマッケンゼン級の設計を引き継ぎ、加えて主砲を 38.1センチとする予定であった。

 

帝政ロシア海軍/ソビエト連邦海軍:Russian Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Russia_and_the_Soviet_Union

日露戦争以前は世界三大海軍国の一角を占めていたロシア海軍であったが、日露戦争でほぼ壊滅に近い損害を受けた。開戦時には3隻の弩級戦艦保有し、2隻が建造中であった。

 

弩級戦艦

ガングート級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Gangut-class_battleship

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(1914年、23,360トン: 30.5cm3連装4基、23ノット)同型艦4隻

ロシア海軍初の弩級戦艦で、バルト海での運用を念頭に設計された。後述のイタリア海軍の弩級戦艦、ダンテ・アリギエリの設計をほぼ踏襲している。23ノットの優速を得るためにやや装甲が抑えられている。

 

インペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Imperatritsa_Mariya-class_battleship

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(1915年、22,600トン: 30.5cm3連装4基、21ノット)同型艦3隻

ロシア海軍黒海向けに建造した弩級戦艦。前述のガングート級の改良型である。改良点としては、速力をやや抑え、防御力を高めている。

 

 フランス海軍:French Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_France#Dreadnoughts_(1910%E2%80%931920)

かつてはイギリスと並ぶ世界の2大海軍国の名をほしいままにしていたフランスだったが、本稿でも号外vol1で既述のように、列強の近代戦艦の開発時期に「新生学派」と言われる大艦巨砲主義の対局をいく派閥が力を持ち、以降、建艦政策において長きにわたり迷走の時代を迎え、主力艦の建造競争からは脱落した。

開戦時は弩級戦艦3隻を保有し、 1隻が建造中であった。

 

弩級戦艦

クールベ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Courbet-class_battleship

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(1913年、23,000トン: 30.5cm連装砲6基、21ノット)同型艦4隻 (128mm in 1:1250)

フランス初の弩級戦艦。前後に背負い式の砲塔配置を行い、前後方向に8射線、片舷に対し10門の射線を確保している。 

 

超弩級戦艦

プロヴァンス級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Bretagne-class_battleship

(1915年、24,000トン: 34cm連装砲5基、20ノット)同型艦3隻 (134mm in 1:1250)

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34センチ主砲を連装砲塔5基に装備し、首尾線上の配置とした超弩級戦艦。上の写真は新造時の写真。

直下の写真は大改装後の外観を示している。

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直下の写真:3番艦ロレーヌのみ、3番主砲塔を水上機用のカタパルトと格納庫に換装した。***「通りすがり」さんからご指摘をいただきました。ありがとうございました。

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ノルマンディー級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Normandie-class_battleship

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(未成艦 25,230トン: 34cm4連装砲3基、21ノット)同型艦5隻(予定) (141mm in 1:1250)

主砲塔を4連装 とした先進的な設計である。以降、新造されたフランス戦艦はこの4連装砲塔を継承していくことになる。

 

リヨン級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Lyon-class_battleship 

f:id:fw688i:20181215175158j:image

(未成艦 29,600トン: 34cm4連装砲4基、23ノット)同型艦4隻(予定)(155mm in 1:1250)

 ノルマンディー級の拡大強化版として設計された。4連装砲塔を1基増やし、34センチ主砲を16門搭載した強力な艦になる予定であった。

 

アメリカ海軍:US Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy

米西戦争以降、海軍力の充実に力を入れたアメリカ海軍は、開戦時には弩級戦艦8隻、超弩級戦艦2隻を保有する、英独に次ぐ海軍に成長していた。特にその主砲配置には先進性があり、早い時期から背負い式砲塔の配置などを導入し、首尾線上に主砲塔を配置し、合理的な射線確保を追求していた。

一方、速力に関しては一貫して21ノットを貫いた。

開戦後も超弩級戦艦を次々に建造し、大戦終了時には、英海軍に次ぐ強大な戦力を保有していた。

 

弩級戦艦

サウスカロライナ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/South_Carolina-class_battleship

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(1910年 16,000t: 30.5cm砲連装4基 18.86ノット)同型艦2隻 (113mm in 1:1250)

米海軍初の弩級戦艦。主砲塔は全て首尾線上に配置され、世界に先駆けて背負い式配置を採用し、両舷への射界を確保している。やや低速であった。

 

デラウェア級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Delaware-class_battleship

f:id:fw688i:20181125112859j:image

(1910年 20,380t 30.5cm砲連装5基 21ノット)同型艦2隻 (127mm in 1:1250)

前級より主砲塔を1基増やして、主砲10門の搭載艦とした。速力は21ノットとし、以降、この速力が米戦艦の標準となる。 

 

フロリダ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Florida-class_battleship

f:id:fw688i:20181125113100j:image

(1911年 21,825t 30.5cm砲連装5基 20.8ノット)同型艦2隻 (125mm in 1:1250)

基本設計は前級に倣い、副砲を2問増やし強化した。後部篭マストと後部煙突の位置を逆転している。 

 

ワイオミング級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Wyoming-class_battleship

f:id:fw688i:20181125113307j:image

(1912年 27,243t: 30.5cm砲連装6基 20.5ノット)同型艦2隻 (137mm in 1:1250)

 連装主砲塔を1基追加し、主砲12門を搭載する艦となった。

 

超弩級戦艦

ニューヨーク級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/New_York-class_battleship

f:id:fw688i:20181210220537j:image

(1914年 27,000t: 35.6cm砲連装5基 21ノット)同型艦2隻

主砲を35.6センチ砲とした初の超弩級戦艦である。連装砲塔5基10門を搭載している。

 

ネバダ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Nevada-class_battleship

f:id:fw688i:20181125113451j:image

(1916年 27,500t: 35.6cm砲三連装2基 同連装2基 20.5ノット)同型艦2隻 (142mm in 1:1250)

前級に倣い35.6センチ主砲を、初めて採用した三連装砲塔2基、連装砲塔2基を、それぞれ艦の前後に 背負式に配置した。以降、この砲塔配置は、アメリカ戦艦の標準的な配置となる。

 

ペンシルベニア級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Pennsylvania-class_battleship

f:id:fw688i:20181125113737j:image

(1916年 31,400t: 35.6cm砲三連装4基 21ノット)同型艦2 隻(147mm in 1:1250)

主砲塔を全て三連装とし、12門の主砲をコンパクトに搭載した。この艦以降、機関はタービンとなった。

 

ニューメキシコ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/New_Mexico-class_battleship

f:id:fw688i:20181125113936j:image

(1918〜1919年 32,000t: 35.6cm砲三連装4基 21nノット)同型艦3隻 (152mm in 1:1250)

主砲を50口径に強化し、新設計の主砲塔を採用した。艦首の形状をクリッパー形式とした。ニューメキシコ のみ、電気推進式タービンを採用した。 

 

テネシー級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Tennessee-class_battleship

f:id:fw688i:20181125114120j:image 

(1919〜1920年 32,600t: 35.6cm砲三連装4基 21ノット)同型艦2隻 (152mm in 1:1250)

ニューメキシコ 級の改良型で、艦橋と射撃式装置を拡充した。機関には電気推進式タービンを採用した。 

  

 

日本海軍 :Imperial Japanese Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Japan

日露戦争後の艦隊整備に注力したため、弩級戦艦超弩級戦艦の整備に出遅れた。実戦経験では一級海軍でありながら、旧式装備での開戦に甘んじなければならなかった。

弩級戦艦2隻、ドイツより購入した弩級巡洋戦艦2隻超弩級巡洋戦艦2隻(2隻は建造中、大戦中に就役)で第一次大戦に臨んだが、これらの主力艦は、第一次大戦お主戦場がヨーロッパであったため、ほとんど出番がなかった。

(日本艦についてのコメントは本稿をご覧ください)

 

弩級戦艦

河内型戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Kawachi-class_battleship

f:id:fw688i:20181012223738j:plain1912年、20,800トン: 30.5cm連装砲6基、20ノット)同型艦2隻 (125mm in 1:1250)

 

弩級巡洋戦艦

弩級巡洋戦艦「蓼科」(独装甲巡洋艦ブリュッヒャー2番艦改造)

ブリュッヒャー (装甲巡洋艦) - Wikipedia

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(1912年、16,500トン:30.5cm連装砲3基、単装砲2基、25.4ノット)同型艦なし(127mm in 1:1250)

 

弩級巡洋戦艦「劔」(独弩級巡洋戦艦 フォン・デア・タン2番艦改造)

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(1912年、19,800 トン:50口径30.5cm連装砲塔4基、25.5ノット)同型艦なし (136mm in 1:1250)

 

超弩級戦艦

扶桑型戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Fus%C5%8D-class_battleship 

f:id:fw688i:20181125135251j:plain

(1915年、29,330トン: 35.6cm連装砲6基、22.5ノット) 同型艦2隻 (165mm in 1:1250)

 

 

伊勢型戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Ise-class_battleship

f:id:fw688i:20181125135513j:image

(1917年、29,900トン: 35.6cm連装砲6基、23ノット)同型艦2隻 (166mm in 1:1250)

 

 

超弩級巡洋戦艦

金剛型戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Kong%C5%8D-class_battlecruiser

f:id:fw688i:20181118183903j:plain(1913年、26,330トン: 35.6cm連装砲4基、27.5ノット)同型艦4隻 (173mm in 1:1250) 

 

イタリア海軍:Italian Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Italy 

開戦時には弩級戦艦3隻を保有し、3隻が建造中であった。大戦中に超弩級戦艦の保有を計画したが、未成に終わった。

 

弩級戦艦

ダンテ・アリギエーリ (戦艦) - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Italian_battleship_Dante_Alighieri

f:id:fw688i:20181125115228j:image 

(1913年、19,500トン: 30.5cm3連装砲4基、23ノット)同型艦なし (135mm in 1:1250)

イタリア海軍初の弩級戦艦。実験艦的な性格が強く、主砲を世界初の三連装砲塔に搭載、機関にタービンを採用し当時の最高速戦艦となるなど、 意欲的な設計であった。

 

コンテ・ディ・カブール級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Italy#Conte_di_Cavour_class

f:id:fw688i:20181125120218j:image

(1915年、23,100トン: 30.5cm3連装砲3基、同連装砲2基、21.5ノット)同型艦3隻 (140mm in 1:1250)

前級の主砲塔配置を見直し、首尾線方向の射線を強化した。三連装砲塔3基と連装砲塔2基、計13門という主砲数は、カトリックの本家ではやや物議を醸したとか・・・。

 

カイオ・ドゥイリオ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Italy#Andrea_Doria_class

f:id:fw688i:20181125120408j:image

(1915年、23,000トン: 30.5cm3連装砲3基、同連装砲2基、21ノット)同型艦2隻 (140mm in 1:1250)

前級の基本設計を引き継ぎ、副砲を15.2センチ砲に強化した。

 

超弩級戦艦(未成艦のみ)

フランチェスコ・カラッチョロ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Francesco_Caracciolo-class_battleship

f:id:fw688i:20181125114322j:image

(未成艦、34,000トン: 38.1cm(40口径)連装砲4基、28ノット)同型艦4隻(予定) (167mm in 1:1250)

イタリア初の超弩級戦艦として計画された。38センチ主砲をオーソドックスに連装砲塔4基に搭載し、34,000トンの巨体に強力なタービンを搭載し、28ノットを発揮する高速艦を目指した。

 

オーストリア=ハンガリー帝国海軍

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Austria-Hungary

オーストリア=ハンガリー帝国は、アドリア海に僅かに海を持つ、基本内陸国である。その海軍は、アドリア海の奥深くに配置されていた。開戦時には1クラス4隻の弩級戦艦保有していたが、背負い式の砲塔配置、3連装主砲塔の採用など、設計は大変先進的なものだった。大戦中に超弩級戦艦の保有を計画したが、未成に終わった。

 

弩級戦艦 

テゲトフ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Austria-Hungary#Tegetthoff_class

f:id:fw688i:20181012223616j:plain(1912年、21,730トン: 30.5cm3連装砲4基、20.3ノット)同型艦4隻 (126mm in 1:1250)

オーストリアハンガリー海軍初の弩級戦艦である。主砲を三連装砲塔に搭載し、かつ背負式配置を採用して首尾線上に配置している等、先進的な設計である。

 

超弩級戦艦(未成艦のみ)

エルザッツ・モナルヒ級戦艦 - Wikipedia

Ersatz Monarch-class battleship - Wikipedia (projected)

(projected、24,500t, 21knot, 14in *3*2 + 14in *2*2, 4 ships planned)

f:id:fw688i:20181224231125j:plain

オーストリアハンガリー海軍が計画した超弩級戦艦。上記のスペックはオリジナル案である。

前級のテゲトフ級は三連装砲塔の採用で艦型をコンパクトにまとめるなど、先進性が評価されていたが、その一方で、三連装砲塔には実は発砲時の強烈な爆風や、作動不良など、いくつかの課題があったとされている。

そのため、本級ではドイツ弩級戦艦の砲塔配置の採用が検討されていた、とも言われているのである。そうなれば連装砲塔5基を装備したデザインになったいたかもしれない。下の写真は、当時のドイツ戦艦ケーニヒ級の主砲塔配置案を採用した想定でのその別配置案。

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いずれにせよ、計画は第一次世界大戦の勃発によりキャンセルされた。

 

 

スペイン海軍: Spain Navy

弩級戦艦

エスパーニャ級戦艦 - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Espa%C3%B1a-class_battleship

f:id:fw688i:20181226150517j:image

(1913年、15,452トン: 30.5cm連装砲4基、19.5ノット、設計と重要部品は英国製)同型艦3隻

スペイン海軍初の弩級戦艦である。英海軍の弩級戦艦ネプチューンタイプシップとし、ややコンパクトにまとめた艦である。

 

次回は、第一次世界大戦の主要海戦における主力艦の動向を追って行きたい。

 

模型についてのご質問等は、どんなことでも遠慮なくどうぞ。

 

***注記:これまで同様、「緑色表記」で記載の艦は未成艦・計画艦、もしくは筆者の創作(妄想)艦ですので、ご注意ください。

 


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第10回 日本海軍の弩級戦艦整備状況(第一次世界大戦前)

初の弩級戦艦河内級の建造

繰り返しを恐れずに記すと、日露戦争で極東における重大な脅威であったロシア艦隊を完勝に近い形で退けた日本海軍は、1911年時点で、数の上では近代戦艦(前弩級戦艦)9隻、強化型近代戦艦(準弩級戦艦)4隻、戦艦に匹敵する砲力を備えた装甲巡洋艦(前弩級巡洋戦艦)4隻、計17隻の主力艦を揃えた大海軍であった。

かつ、日清、日露の戦争を通じ、世界でほぼ唯一の近代艦隊での実戦経験を持つ海軍と言えたであろう。

しかしながら、1906年の英戦艦ドレッドノートの登場によって、これら全ての海軍装備は「旧式」でしかなくなってしまっていた。実戦を経て流された多くの血と、国家財政を傾けるほど注ぎ込まれた財貨で、名実ともに世界の一流海軍の間に割り込んだはずが、たった一隻の軍艦の登場で少なくともその装備上は二流海軍に貶められたと知った時に、海軍首脳は頭を抱えたことだろう。

気がつくと、日本海軍は弩級戦艦の時代に、乗り遅れていた。

 

河内型戦艦 - Wikipedia(125mm in 1:1250)

ドレッドノートの登場から6年後(1912)、日本海軍はようやく最初の弩級戦艦を就役させた。

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前級の薩摩級よりも少し大きな船体に、薩摩級では12門装備していた中間砲を廃止し、全て30.5センチとし、連装砲塔6基を6角形に配置している。この配置により、首尾線方向に6門、両舷方向に8門の主砲を指向できた。機関は前級2番艦「安芸」が搭載し好成績を示したタービン式を採用し、20ノットの速力を発揮することができた。

日本海軍念願の弩級戦艦ではあったが、その主砲には課題があった。艦首尾砲塔の30.5センチ砲が50口径であったのに対し、舷側砲塔は45口径であり、二種類の砲身長、初速の異なる主砲を装備していた。厳密には弩級戦艦の「同一口径の主砲による統一した射撃管制指揮に適している」という要件を満たしていなかった。

実際に、その主砲の斉射にあたっては艦首尾砲塔は弱装火薬を用いることによってこれらの不都合を解消しなくてはならなかった。これでは、50口径の長砲身を持つ意味がなかった。

さらに、河内級が採用した50口径砲自体にも問題があった。この砲は英アームストロング社製で、イギリス海軍の戦艦でも採用されていた。しかし、同社の技術を持ってしても、砲身に大きなしなりが発生し命中精度が下がること、併せて砲身寿命が短いなど、高初速に起因する欠点があり、このことが、英海軍がオライオン級戦艦から34.3センチ砲を採用する動きの一因となった。

この50口径主砲の採用にあたっては、日露戦役の英雄、東郷提督の「首尾線方向への火力は強力にすべきである」という鶴の一声に従ったものである、との説もあるが、その真偽、あるいはもし本当だったとして、その真意、はさておき、これを「都市伝説の一種」とみるか、あるいは官僚の陥りがちな権威への盲目的な追従の始まりとみるべきか。

 

弩級巡洋戦艦の導入−「蓼科」「劔」

河内級戦艦の建造と並んで、「旧式艦ばかりの二流海軍」からの急遽脱却を図るべく、海軍は欧米列強の既成弩級戦艦の購入を模索し始めた。

あわせて、より深刻な要素として、当時、各国の海軍で導入されていた装甲巡洋艦の高速化への対応が、検討されねばならなかった。すなわち、当時の日本海軍が保有する主力艦の中で最も高速を有するのは装甲巡洋艦巡洋戦艦)「伊吹」であったが、その速力は22ノットで、例えば膠州湾青島を本拠とするドイツ東洋艦隊のシャルンホルスト級装甲巡洋艦(23.5ノット)が、日本近海で通商破壊戦を展開した場合、これを捕捉することはできなかった。

これらのことから、特に高速を発揮する弩級巡洋戦艦の導入が急務として検討され、その結果、弩級巡洋戦艦「蓼科」「劔」の購入が決定された。

 

弩級巡洋戦艦「蓼科」(127mm in 1:1250)

ドイツ海軍の装甲巡洋艦ブリュッヒャー」の2番艦を巡洋戦艦に改造、導入したものである。

ブリュッヒャー (装甲巡洋艦) - Wikipedia

ブリュッヒャーは、従来の装甲巡洋艦の概念を一掃するほどの強力艦として建造されたドイツ帝国海軍の装甲巡洋艦である。装甲巡洋艦におけるドレッドノートと言ってもいいかもしれない。主砲は44口径21センチ砲を採用し、戦艦並みの射程距離を有し、搭載数を連装砲塔6基として12門を有し、また速力は25ノットと、当時の近代戦艦(前弩級戦艦)、装甲巡洋艦に対し、圧倒的に優位に立ちうる艦となる予定であった。

しかしながら、同時期にイギリスが建造したインヴィンシブルは、戦艦と同じ、30.5センチ砲を主砲として連装砲塔4基に装備し、速力も25.5ノットと、いずれもブリュッヒャーを凌駕してしまったため、ドイツ海軍は急遽同等の弩級巡洋戦艦建造に着手しなければならず、ブリュッヒャー中途半端な位置づけとなり、後続艦の建造が宙に浮いてしまうこととなった。

日本海軍はこれに目をつけ、この2番艦の建造途中の船体を購入し、「蓼科」と命名、これを巡洋戦艦仕様で仕上げることにした。主な仕様変更としては、主砲をオリジナルの44口径21センチ砲12門から、日本海軍仕様の45口径30.5センチ連装砲塔3基および同単装砲塔2基、として計8門を搭載した。この配置により、首尾線方向には主砲4門、舷側方向には主砲7門の射線を確保した。機関等はブリュッヒャー級のものをそのまま搭載したところから、ドイツで建造した船体をイギリスで仕上げる、といった複雑な工程となった。が、狙い通り就役は「河内級」とほぼ同時期であった。

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速力は25ノットの、当時の日本海軍主力艦としては、最も高速を発揮したが、装甲は装甲巡洋艦ブリュッヒャーと同等の仕様であったため、やや課題が残る仕上がりとなった。

 

弩級巡洋戦艦「劔」(136mm in 1:1250)

弩級巡洋戦艦「蓼科」の保有に成功した日本海軍であったが、上記のように、本来は装甲巡洋艦であったために、その防御力にはやや課題が残った。併せて、河内級のイギリス製の50口径主砲がやはり前述のような課題があったため、日本海軍は当時50口径砲の導入に成功していたドイツを対象に、もう一隻、弩級巡洋戦艦の購入を模索することにした。

白羽の矢が立ったのは、ドイツ海軍初の弩級巡洋戦艦「フォン・デア・タン」の2番艦で、すでにドイツ海軍の上層部の関心が、より強力な次級、あるいはさらにその次のクラスに向いてしまったため、やはり宙に浮いていたものを計画段階で購入することにした。

フォン・デア・タン (巡洋戦艦) - Wikipedia

ブリュッヒャー級2番艦の場合と異なり、今回はその基本設計はそのままとし、主砲のみ、既に戦艦ヘルゴラント級で搭載実績のある1911年型50口径30.5センチ砲に変更し、船体強度などに若干の見直しを行った。同砲では河内級でイギリス製の50口径砲に見られたような問題は発生せず、ドイツの技術力の高さを改めて知ることになる。

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主砲の口径の拡大と、それに伴う構造の変更があったにも関わらず、速力はオリジナル艦と同等の25.5ノットを確保することが出来た。

同艦は1912年に就役し、弩級巡洋戦艦「劔」と命名された。

「劔」「蓼科」は、2 艦で巡洋戦艦戦隊を構成し、この戦隊の発足がシュペー提督のドイツ東洋艦隊の本国回航を決意させた遠因となったとも言われている。

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高速巡洋戦艦戦隊:「蓼科」(奥)、巡洋戦艦「劔」

 

超弩級巡洋戦艦金剛級の建造

日本海軍における弩級戦艦弩級巡洋戦艦の時期は短い。

これは既述のように、日露戦争以降の既存戦力の整備に多くの費用を費やし、新戦力の増強への展開が遅れたことに起因する。

弩級戦艦、準弩級戦艦の整備を終えた時には、既に弩級戦艦の時代を迎えていたし、弩級戦艦の整備に着手した時には、既に超弩級戦艦が登場していた。

あわせて、兵器の国産化は国家の安全保障上、常に非常に重要な目標であり、日本海軍も日露戦争以降、その方向を目指してきた。しかし一方で、弩級艦、超弩級艦等の導入に見るように非常に兵器(特に軍艦)の寿命は短く、搭載兵器も上記の50口径主砲の例に見るように、独自技術を国内に養成する上でも健全な技術導入も並行せねばならないことは明らかであった。

一方で、日清戦争降着手され日露戦争で成果を発揮した、同数の戦艦と装甲巡洋艦巡洋戦艦)で主力艦隊を構成するという根本方針から、河内級の弩級戦艦2隻、「蓼科」「劔」の弩級巡洋戦艦2隻を起点とする新たな六六艦隊構想が模索され始める。

さらに、日清、日露の戦訓から、欧米列強に対し基本的な国力が劣る状況が改善されることは想定しにくく、物量で凌駕できない条件の元でも、機動力において常に仮想敵を上回ることができれば、勝利を見いだせることが確信となった。

これらの背景から、超弩級巡洋戦艦「金剛」級は生まれたと言っていい。

金剛型戦艦 - Wikipedia(173mm in 1:1250) 

上記の海外技術の導入の必要性から、1番艦「金剛」は英ビッカース社で建造された。

2番艦以降は、「比叡」横須賀海軍工廠、「榛名」神戸川崎造船所、「霧島」三菱長崎造船所、と、国内で生産され、特に民間への技術扶植がおこなわれ、ひいては造船技術の底上げが図られた。4隻は1913年「金剛」、14年「比叡、」15年「榛名」「霧島」と相次いで就役する。

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ライオン級巡洋戦艦タイプシップとして、27.5ノットを発揮し、主砲口径は当初は50口径30.5センチ砲連装砲塔5基を予定していたが、前述のようにこの砲には命中精度、砲身寿命に課題があったため、当時としては他に例を見ない45口径35.6センチの巨砲を連装砲塔4基に装備することにした。

強力な砲兵装と機関により、排水量27,000トンを超える巨艦になった。 

第一次大戦当時、金剛級4隻は世界最強の戦隊、と歌われ、諸列強、垂涎の的であった。

 

優れた基本設計を有していたため、以後数度の大規模な改装に耐え、非常に長期間にわたり第一線の主力艦を務めることになるが、これはまた別の機会に紹介することになるであろう。

 

次回は、少し日本を離れ、第一次世界大戦における列強の主力艦事情と主要な海戦を記述する予定である。あるいは、先週、先々週のような「号外」的に弩級超弩級戦艦、巡洋戦艦等のカタログ展開を先に?(少し迷っています。ご意見があれば、是非お聞かせ下さい)

 

模型についてのご質問も、是非お気軽にどうぞ。もっと「どこで買うの?」とか、「どのメーカーがおすすめ?」とか、そのような質問でも結構です。

 

***注記:皆さんは大丈夫だと思うのですが、本文中「緑色表示」の部分は、史実ではなく、筆者の妄想です。ご注意ください。以降、未成艦、計画艦など、このような要素が増えて行く予定です。史実だけでいい、という方がいらっしゃたら、本当に申し訳ありませんが、ご容赦ください。あるいは斜体字箇所を飛ばしていただくとか・・・。

 


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号外 Vol.1.5: カタログ : 装甲巡洋艦抄録 英独の開発史を中心に そして、コロネル沖海戦/ Summary of Armored Cruisers and Battle of Coronel

装甲巡洋艦の終焉

前回の号外で、ドレッドノートという革命的な戦艦の登場により、ほぼその歴史上の役割を終えた近代戦艦(前弩級戦艦、準弩級戦艦)の総覧を行なったが、同様に、装甲巡洋艦という艦種も、その役割を終えようとしている。

これまで見てきたように、装甲巡洋艦の系譜には、大きく二種類の段階がある。

一つは、通常の巡洋艦本来の通商破壊や商船護衛、植民地警備といった任務を想定し、長期間の作戦航海への適性や快速性に重点をおき、さらにそれに砲力や防御力を付加した強化巡洋艦型の到達点としての段階であり、もう一つは、これを準主力艦、と位置付けて、同種艦数隻で戦列を構成して戦艦部隊とともに行動させる、いわゆる高速主力艦としての段階である。

日本海軍を中心に本稿は主力艦の発展を見てきているが、その好敵手であったロシア海軍装甲巡洋艦の多くは前者に属し、日本海軍のそれは全て後者に属すると言っていい。

これはロシア海軍がそもそも長い歴史を持ち、かつ多くの植民地を持つ英仏(特にフランス)の影響下で海軍を発達させたのに対し、日本海軍は、そもそもが植民地を持たず、自国防衛を第一義に、いわゆる「攘夷」(外敵の脅威を打ち払う)の思想から発展したがゆえに、常に艦隊決戦をその海軍の建艦思想に置き、かつその根底にある自存独立への危機感から、国家の体力など無視したように、一時期に集中的に艦艇を整備・保有したからに他ならない。

両者の対決は図らずも日露戦役中の「蔚山海戦」において実現し、当然のことながら、強力な武装を持つ後者の勝利に終わった。(本稿、第七回に記載)f:id:fw688i:20180924122141j:plain

ウラジオストック艦隊の3隻の装甲巡洋艦(グロモボイ:上段、ロシア:左下、リューリック:右下)

 

f:id:fw688i:20180924120229j:plain6隻の装甲巡洋艦(八雲:左上、吾妻:右上、出雲級の2隻:出雲、磐手 左右中段、浅間級の2隻:浅間、常磐 左右下段)***日露海戦直前に、さらにこれに「春日」「日進」が加わり、日本海軍は8隻の装甲巡洋艦を整備し、日露戦争に臨んだ

 

さらに、日本海軍がその後建造した「筑波級」「鞍馬級」の装甲巡洋艦では、その武装(主砲)は当時の戦艦と全く同等のものを装備し、ここに「高速主力艦」は装甲巡洋艦の時代を終え、高速戦艦巡洋戦艦)の段階へと発展する。f:id:fw688i:20190608215345j:image

装甲巡洋艦 筑波 生駒 のちに巡洋戦艦に艦種変更)

 

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装甲巡洋艦 鞍馬:手前、伊吹:奥 後に巡洋戦艦に艦種変更)

 

日露に限らず、その趨勢を見ると、英仏海軍の装甲巡洋艦はその海外植民地の多さ、それに伴い規定される海軍の役割に準じ前者に属し、一方、独海軍において、装甲巡洋艦は後者への展開を見ることができる。

今回は、装甲巡洋艦のある種の総括の意味も含め、以下に、英独両海軍の装甲巡洋艦の発達を見て行こう。

 

英独装甲巡洋艦

イギリス海軍装甲巡洋艦

以下の7クラス、36隻が建造された。

各級の変遷を追うと、大変興味深いことに、前述のように、巡洋艦本来の任務への適性に重点を置いた航洋巡洋艦の強化の系譜を辿りながら、次第にその新たな仮想敵となった独海軍の装甲巡洋艦群への対抗上の必要性から、次第に強大な砲力を指向していく傾向が見て取れる。

 

クレッシー級装甲巡洋艦 - Wikipedia

(1901年竣工、12,000トン、23.4cm(40口径)単装砲2基、21ノット)6隻

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いかにも伝統あるイギリス海軍巡洋艦、というシルエットである。その後のイギリス装甲巡洋艦の基本形と言える。

(114mm in 1:1250) 

 

ドレイク級装甲巡洋艦 - Wikipedia

(1902年竣工、14,150トン、23.4cm(45口径)単装砲2基、23ノット)4隻

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前級より艦型を大型化し、機関を強力にした。結果、23ノットの高速を得た。大型化により、副砲の搭載数を増やしている。

(128mm in 1:1250)

 

モンマス級装甲巡洋艦 - Wikipedia

1903年竣工、9,800トン、15.2cm(45口径)連装速射砲2基+同単装速射砲10基、23ノット)10隻

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大型化しすぎた感のあった前級から一転し、軽量化を目指した。備砲は主砲を廃止し前級では副砲であった15センチ砲で備砲を統一した。連装砲塔を前後の上甲板に装備し、舷側砲とあわせて14門を装備した。機関を簡素化しながら23ノットの速力は維持したものの、装甲も軽くしたために、やや不評であった。

(110mm in 1:1250)

 

デヴォンシャー級装甲巡洋艦 - Wikipedia

(1905年竣工、10,850トン、19.1cm(45口径)単装速射砲4基、22.25ノット)6隻

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前級の反省から、主砲口径を19センチ級にあげ、これを4門単装砲で装備し、火力を向上させた。防御力も改善され、速力も22ノットを発揮した。

(115mm in 1:1250)

 

デューク・オブ・エジンバラ級装甲巡洋艦 - Wikipedia

1906年竣工、13,550トン、23.4cm(45口径)単装砲6基、23.25ノット)2隻

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主砲を23センチ級単装砲6基とし、一層向上させた。速力は23ノットを回復している。

(124mm in 1:1250)

 

ウォーリア級装甲巡洋艦 - Wikipedia

1906年竣工、13,550トン、23.4cm(45口径)単装砲6基、19.1cm(45口径)単装砲4基、23ノット)4隻

(no photo)

副砲口径を19センチ級に上げている。

 

マイノーター級装甲巡洋艦 - Wikipedia

(1908年竣工、14,600トン、23.4cm(50口径)連装砲2基、19.1cm(50口径)単装砲10基、23ノット)2隻

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イギリス海軍最後の装甲巡洋艦。19センチ級副砲の搭載数を10門に強化している。

 

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 (艦型比較:上から、クレッシー級、ドレイク級、モンマス級、デボンシャー級、デューク・オブ・エジンバラ級

 

ドイツ海軍の装甲巡洋艦

以下の6クラス、9隻が建造された。

後者の系譜、すなわち当初から、準主力艦の位置付けに置かれていた。こちらは次第にその機動性に戦艦との差異を求め、その側面で特性を伸ばしていく。

 

フュルスト・ビスマルク (装甲巡洋艦) - Wikipedia

(1900年、10,700トン、24cm(40口径)連装砲2基、18.7ノット)f:id:fw688i:20181111120042j:image

 ドイツの装甲巡洋艦は、既にその最初の級である本艦から、当時のドイツ海軍の主力戦艦「カイザー・フリードリヒ3世級」「ヴィッテルスバッハ級」と同等の主砲を装備している。外洋巡行性に優れた艦型を有し、速力は戦艦に対し若干の優速であった。

 (100mm in 1:1250)

 

プリンツ・ハインリヒ (装甲巡洋艦) - Wikipedia

(1902年、8,890トン、24cm(40口径)単装速射砲2基、19.9ノット)f:id:fw688i:20181111120109j:image

前級と同様、当時の戦艦と同等の口径の主砲を装備しているが、連装を単装に改め、副砲数を減らし、一方で戦艦に対する優速性を高めている。(100mm in 1:1250)

 

プリンツ・アーダルベルト級装甲巡洋艦 - Wikipedia

1903年、9,090トン、21cm(40口径)連装速射砲2基、20.4ノット)2隻

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主砲口径を縮小し、一方で戦艦に対する優速性をさらに高めている。(100mm in 1:1250)

 

ローン級装甲巡洋艦 - Wikipedia

(1905年、9,550トン、21cm(40口径)連装速射砲2基、21.1ノット)2隻

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前級の特徴を継承し、戦艦への優速性を一層充実した、大変バランスの取れた艦となった。(101mm in 1:1250)

 

シャルンホルスト級装甲巡洋艦 - Wikipedia

(1907年、11,610トン、21cm(40口径)連装速射砲2基+同単装速射砲4基、23.5ノット)2隻

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艦型を大型化し、強力な機関を搭載し優速性を一層高めた。あわせて主砲を舷側にも配置し砲力を大幅に強化した。首尾方向に4門、側方へ主砲6門を指向できた。(114mm in 1:1250)

 

ブリュッヒャー (装甲巡洋艦) - Wikipedia

(1909年、15,840トン、21cm(44口径)連装速射砲6基、25.4ノット)

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主砲は前級と同口径(21センチ)であるがさらに長砲身(44口径)を採用し、戦艦並みの射程を得た。連装砲塔6基12門の主砲数は、従来の装甲巡洋艦の概念を一新するものであったが、既に英海軍にはインヴィンシブルを始めとする巡洋戦艦が建造されていた。

その長射程、高速を有するがゆえに、第一次大戦においては巡洋戦艦部隊に組み入れられ、苦戦することになる。 (128mm in 1:1250)

 

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 (艦型比較:上から、フュスト・ビスマルクプリンツ・ハインリヒ、プリンツ・アーダルベルト級、ローン級、シャルンホルスト級ブリュッヒャー

 

こうして、双方の系譜、段階での結論は、次代の巡洋戦艦へと引き継がれてゆくが、それは、再開する本編で見てゆくことになる。

 

コロネル沖海戦

時系列からいうと、少しフライングになってしまうのだが、両タイプの装甲巡洋艦の対決例、ということで、第一次大戦コロネル沖海戦に少し触れてみたい。

 

第一次大戦開戦当初、中国膠州湾、青島に、ドイツ東洋艦隊は本拠を置いていた。装甲巡洋艦シャルンホルストグナイゼナウ防護巡洋艦ニュルンベルク、エムデン等がこれに属し、これらをマクシミリアン・フォン・シュペー少将が率いていた。

開戦後、シュペーは当時ドイツ領であったマリアナ諸島パガン島に各所に分散していた諸艦を集結し、間近な日本海軍等による行動封鎖を嫌い、本国へ南米経由で帰還することを決意し、出発した。(1914年8月)

その後、エムデンをインド洋に分派し、一方、防護巡洋艦ドレスデンライプツィヒなどと合流しながら、10月にはイースター島を出発、南米沖を目指した。

一方、イギリス海軍はクラドック少将の指揮下に、装甲巡洋艦グッドホープ、モンマス、防護巡洋艦グラスゴー、前弩級戦艦カノーパスなどからなる捜索艦隊を編成し、シュペー艦隊の捜索に当てていた。クラドック自身、この戦力にやや不安を覚えたらしく、最新式のマイノーター級装甲巡洋艦「ディフェンス」の増援を求めていたが、実現しなかった。

ここまでの本稿の記述に添えば、ドイツ艦隊は準主力艦型の装甲巡洋艦2隻を主力とし、一方イギリス艦隊は強化巡洋艦型の装甲巡洋艦2隻をその主力としていたと言える。両艦隊を砲力で比較すると、ドイツ艦隊は2隻の装甲巡洋艦で、21センチ速射砲を片舷12門、15センチ速射砲片舷6門をそれぞれ指向できるのに対し、イギリス艦隊は同じく2隻の装甲巡洋艦で、23センチ砲2門、15センチ速射砲17門を片舷に指向できた。

速力は双方共に23ノットを発揮でき、遜色はなかった。

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イギリス海軍クラドック艦隊の装甲巡洋艦 グッドホープ(手前)、モンマス)

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 (クラドック艦隊の防護巡洋艦グラスゴー:本艦はコロネル沖海戦を生き抜き、後にフォークランド沖海戦にも参加 110mm in 1:1250)

グラスゴー (軽巡洋艦・初代) - Wikipedi

f:id:fw688i:20181111174535j:plain (クラドック艦隊の前弩級戦艦カノーパス:本艦はコロネル沖海戦には間に合わず、後にフォークランド沖海戦にもその前哨戦に参加 98mm in 1:1250)

カノーパス級戦艦 - Wikipedia

 

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(ドイツ海軍シュペー艦隊の装甲巡洋艦 シャルンホルスト(手前)、グナイゼナウ

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(シュペー艦隊の巡洋艦  左からライプツィヒブレーメン級 89mm in 1:1250)、ニュルンベルクケーニヒスベルク級 94mm in 1:1250)、ドレスデンドレスデン級 95mm in 1:1250):エムデンも同型)

ブレーメン級小型巡洋艦 - Wikipedia

ケーニヒスベルク級小型巡洋艦 (初代) - Wikipedia

ドレスデン級小型巡洋艦 - Wikipedia

 

11月1日、チリ・コロネル沖で、両艦隊は遭遇し、海戦が発生した。

英艦隊の前弩級戦艦カノーパスは低速から別働しており、海戦には間に合わなかった。

このため、海戦は圧倒的に火力に勝るドイツ艦隊の一方的な勝利に終わり、グッドホープ、モンマスは沈没、クラドック少将も戦死した。

シュペー提督の名は、栄光に包まれ、一方、英海軍にとって「コロネル沖」は屈辱の名となる。

 

そしてこの海戦の約1ヶ月後、12月に、シュペーの艦隊はフォークランド沖で、今度は巡洋戦艦2隻を主力とする英艦隊に遭遇し、全く逆の立場となって、火力、速力に圧倒され波間に姿を消すことになるのだが、それはまた別の機会にご紹介することになるであろう。

 

次回は本編に戻って、弩級戦艦から超弩級戦艦の発展と、第一次世界大戦へ。

 

模型についてのご質問は大歓迎です。

実は、この稿を始めて、フランス艦の魅力を再発見しています。実はあまりこのスケールでも既成のモデルが少ないのですが、今後のチャレンジ領域かと、再認識しています。昨今は3Dプリンターなどを用いた業者さんも現れており、比較的気軽に相談ができるようになってきているように思います。

 


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号外 Vol.1: カタログ: 近代戦艦(前弩級戦艦・準弩級戦艦)一覧/ List of Pre-dreadnought, Semi-dreadnought

近代戦艦の起点をどこに置くかは、大変難しい問題ではあるが、一般的には1892年に就役したイギリス海軍のロイヤル・ソブリン級がそれに当たるとされている。その要件は、1万2千トン〜5千トン級の船体を持っていること、12インチ級(30センチ級)主砲を旋回可能な形式で4門程度装備していること、航洋性を持ち、(高い乾舷を持ち)、18ノット程度の速力を持っていること、などである。

一方で、その終焉は1906年ドレッドノートの登場、これはあまり異論はないものと考える。

ここでは少し頑なに「近代戦艦」なる用語(多分、あまり耳慣れない)を用いているが、これらの戦艦は、一般的には「前弩級戦艦」「準弩級戦艦」と呼ばれることが多い。が、ドレッドノートの登場以前に「前弩級戦艦」などの呼称がある筈もなく、「近代戦艦」「強化型近代戦艦」の呼称を補助的に使って行きたい。

当ブログでは主として日本海軍の主力艦の発展を追いながら、艦艇の発達を見てきているが、今回は、列強の「近代戦艦」「強化型近代戦艦」を、総覧的に概観する。各級の詳細情報は、リンクに委ねたい。

1892年のロイヤル・ソブリンの就役から、1906年ドレッドノートの登場までのわずか14年間に、 どのような構想でそれぞれが建造されたか、見ていこうと考えている。

 

イギリス海軍:Royal Navy

List of pre-dreadnought battleships of the Royal Navy - Wikipedia

イギリス海軍では、この近代戦艦の時代から、特に戦艦においてはその砲戦距離の伸長に伴う射撃理論の構築等の観点から、戦隊での行動、艦隊運動などに注目が高まる。かつ二国標準といって、同時に二カ国の艦隊を相手取る能力を意識しはじめ、これらが相まって、同型艦をある程度の数そろえる傾向が見られるようになる。

 

近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

ロイヤル・サブリン級戦艦 - Wikipedia*(同型7隻:1892-最初の就役艦の就役年次を記載

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_pre-dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#Royal_Sovereign_class

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近代戦艦の嚆矢とされる記念すべき艦である。 まだ、主砲は露砲塔形式で搭載されている。速力も16.5ノットと、まだ低速に甘んじている。

実は八番艦のフッドでは、全周密閉型の砲塔が導入された。しかしその結果、重量増対策として砲塔甲板を下げざるを得ず、乾舷の低い、外観の異なる艦になってしまった。

 

マジェスティック級戦艦 - Wikipedia*(同型9隻:1895-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_pre-dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#Majestic_class

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主砲口径をロイヤルソブリン級の34センチから30センチに改め(ただし35口径の長砲身)、初めて砲塔形式で主砲を搭載した。後期の2隻では、どの向きを向いていても装填可能な形式を導入した。また、重油・石炭の混焼型機関が導入され、速力は17ノットに向上している。

二国標準の海軍力整備の思想から、9隻という多くの同型艦が建造された。

 

カノーパス級戦艦 - Wikipedia*(同型6隻:1899-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_pre-dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#Canopus_class

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マジェスティック級の高速軽量化型として建造され、初めて18ノットの速力を得た。新型機関の採用により煙突位置がそれまでの並立から前後設置に変わった。

 

フォーミダブル級戦艦 - Wikipedia*(同型8隻:1901-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_pre-dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#Formidable_class

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日本がイギリスに発注した敷島型の高性能に刺激され、マジェスティック級の強化型として建造された。主砲に40口径が採用され、新型鋼板の採用で防御力も向上している。高出力機関の採用により18ノットの速力を出す。前期3隻をフォーミダブル級、さらに防御力を向上させた後期5隻をロンドン級と呼称することもある。

近代戦艦のスタンダード、と呼べる艦級である。

 

ダンカン級戦艦 - Wikipedia *(同型6隻:1903-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_pre-dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#Duncan_class

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高速軽防御をうたい、19ノットの速力を発揮する。 フォーミダブル級の縮小・高速版である。

 

スウィフトシュア級戦艦 - Wikipedia*(同型2隻:1904-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_pre-dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#Swiftsure_class

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チリ海軍がアルゼンチン海軍の新型装甲巡洋艦対策として、イギリスに発注した。折から日露開戦の気配が濃厚で、日本海軍が戦争準備のために購入を交渉したが不調に終わり、ロシアの入手を防ぐために、当時日本と同盟関係にあったイギリスが購入した。

ロシア海軍のペレスヴェート級と同様、設計思想には装甲巡洋艦の拡大版の色合いが濃厚で、主砲は10インチとやや小さめの口径が採用され、軽防御、その代わり19.5ノットの高速を有している。

 

強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship

キング・エドワード7世級戦艦 - Wikipedia*(同型8隻:1905-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_pre-dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#King_Edward_VII_class

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砲力強化の為、従来の主砲(30.5 センチ砲 4門)に加え、強力な中間砲(23.4センチ砲 4門)を搭載する最初の中間砲搭載艦として設計された。単一巨砲搭載艦(ドレッドノート)への発展途上の設計である。

 

ロード・ネルソン級戦艦 - Wikipedia*(同型2隻:1908-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_pre-dreadnought_battleships_of_the_Royal_Navy#Lord_Nelson_class

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前級で試みられた中間砲を強化し、副砲を廃止した。中間砲には前級と同様、23.4センチ砲を採用し、連装砲塔4基と単装砲2基の形式で計10門、搭載した。

砲力は強大であったが、実際には異なる口径の砲の管制・運用は非常に困難で、加えて就役前には、既に単一巨砲搭載艦のドレッドノートが完成しており、完成時から旧式艦として扱われた。

 

ドイツ海軍: German Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Germany

近代戦艦:前弩級戦艦  pre Dreadnought battleship

ドイツ海軍の戦艦は、元々がバルト海向けの沿岸用海防戦艦から始まっていることと、キール運河の通行、港湾施設での運用等から、ライバル国のイギリス、フランスに比べひと回り小型であった。近代戦艦の時代に入り、以下の5クラス24隻を建造した。

 

近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

ブランデンブルク級戦艦 - Wikipedia*(同型4隻:1894-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Germany#Brandenburg_class

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28センチ主砲を、前中後部の3基の連装砲塔に搭載している。しかしこの艦の設計時期には未だ斉射法は導入されておらず、のちの弩級艦的発想からの配置ではなく、さらにその前時代の砲塔艦(ターレット艦)の名残であると言えるであろう。速力は16ノットと、やや遅い。

 

カイザー・フリードリヒ3世級戦艦 - Wikipedia*(同型5隻:1898-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Germany#Kaiser_Friedrich_III_class

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前級から、主砲口径を24センチに下げ、連装砲塔2基、4門に数を減少させ、その代わり主砲・副砲ともに速射砲とした。中距離で収束した弾道での射撃弾量を増やすことを念頭に開いた設計である。

 

ヴィッテルスバッハ級戦艦 - Wikipedia*(同型5隻:1902-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Germany#Wittelsbach_class

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前級と一個戦隊を構成し、行動を共にすることを念頭に設計されている。基本的には前級の設計を踏襲し、使用鋼材の改良等を行なった。

 

ブラウンシュヴァイク級戦艦 - Wikipedia*(同型5隻:1904-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Germany#Braunschweig_class

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本級から、これまでフランス艦隊としてきたその想定戦闘相手をイギリス艦隊とした。28センチ速射砲の完成により、本級から、主砲を前級の24センチから28センチ連装砲塔2基とし、あわせて副砲を17センチ速射砲とし、砲力を格段に強化した。

 

ドイッチュラント級戦艦 - Wikipedia*(同型5隻:1906-)

 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Germany#Deutschland_class

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前級と同一戦隊を組んで行動することを想定して建造された。基本的に前級の改良版である。大きな改良点としては、前級では副砲の一部を砲塔形式としていたがこれを全て砲郭形式とし、この軽量化によって浮いた重量を防御に回した。あわせて機関の強化に努め、速力を保持した。

 

帝政ロシア海軍:Russian Navy

帝政ロシア海軍の戦艦については、既に多くを本編で記述した。ここでは簡潔に)

 

ナヴァリン (戦艦) - Wikipedia同型艦なし1894-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_battleship_Navarin

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バルト海用の戦艦。極めて低乾舷で4本煙突が特徴的。航洋性を疑問視されながらも、バルティック艦隊に加わり、極東へ回航された。

 

シソイ・ヴェリキィー (海防戦艦) - Wikipedia*同型艦なし:1896-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_battleship_Sissoi_Veliky

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バルト海用に建造された戦艦。高い乾舷を持ち、航洋性を確保するなど、低速を除くと、海防戦艦ながら近代戦艦の要件をほぼ満たしている。

 

近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

ペトロパブロフスク級戦艦 - Wikipedia*(同型3隻:1899-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Petropavlovsk-class_battleship

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ロシア海軍初の近代戦艦。日本がイギリスに発注した富士級戦艦への対抗上から、最初から太平洋艦隊での就役を想定し設計された。ロシアの持つ、列強と遜色のない設計能力、建艦技術を証明した。唯一、航続距離が短いことが難点であり、のちにこれが大きく災いした。

 

ロスティスラブ (戦艦) - Wikipedia同型艦なし:1893-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_battleship_Rostislav

(no photo)

黒海艦隊用に建造された。シソイ・ヴェリキィーの準同型艦である。トルコとの取り決めで、ロシアの黒海艦隊は黒海を出ることができず、行動範囲が限定された。

 

ペレスヴェート級戦艦 - Wikipedia*(同型3隻:1901-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Peresvet-class_battleship

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ロシア級装甲巡洋艦の強化型の意味合いの強い艦である。その為、主砲口径が小さく、軽装甲であるが、高速を発揮する。

 

ポチョムキン=タヴリーチェスキー公 (戦艦) - Wikipedia同型艦なし:1903-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_battleship_Potemkin

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黒海艦隊の主力艦として建造された。ロシア革命の先駆的な反乱を起こした感として非常に有名である。

 

レトヴィザン (戦艦) - Wikipedia*同型艦なし:1901-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_battleship_Retvizan

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太平洋艦隊向けの戦艦として、アメリカに発注された。アメリカ戦艦メイン級をタイプシップとして設計され、その性能は良好であった。旅順要塞陥落時には旅順港に着底していたが、その後日本海軍に捕獲回収され、日本海軍の戦艦肥前となって就役した。

 

ツェサレーヴィチ (戦艦) - Wikipedia*同型艦なし:1903-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_battleship_Tsesarevich

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前出のレトヴィザン同様、太平洋艦隊向けの戦艦として、フランスに発注された。流麗なタンブルホームの外観を持つ。おそらく帝政ロシア海軍の戦艦としては最高の性能を持っていた。後のボロジノ級のタイプシップとなった。

 

ボロジノ級戦艦 - Wikipedia*(同型5隻:1904-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Borodino-class_battleship

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前出のツェザレヴィッチ をタイプシップとし種々の改良を追加された。ロシアでライセンス生産されたが、その過程で設計のバランスを失い、特に復元性に課題を抱える艦となってしまった。同型艦5隻のうち3隻は日本海海戦で喪失し、1隻は日本海軍に捕獲され、大改修ののち戦艦石見として日本海軍に所属した。大改修は課題の復元性の改善に主眼が置かれ、副砲塔の撤去、上甲板の廃止等が行われ、艦容は大きく変化した。

 

強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship

エフスターフィイ級戦艦 - Wikipedia*(同型2隻:1910-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Evstafi-class_battleship

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黒海艦隊用戦艦。中間砲として20.3センチ単装砲を4門、装備した帝政ロシア海軍初の強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。

 

インペラートル・パーヴェル1世級戦艦 - Wikipedia(同型2隻:1910-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Andrei_Pervozvanny-class_battleship#Ships

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いわゆる強化型近代戦艦(準弩級戦艦)で、中間砲として20.3センチ砲を連装砲塔4基、単装砲6基として計14門、装備していた。

 

フランス海軍:French Navy

List of battleships of France

近代戦艦:前弩級戦艦  pre Dreadnought battleship

フランス海軍は、実に多くの近代戦艦を建造している。その形式は13級を数えるが建造された戦艦数は24隻にすぎない。多くが同型艦を持たぬ、いわば競争試作であったと言ってもいいかもしれない。

加えて「新生学派」と呼ばれる、ある意味では、いかにも議論の国フランスらしい、「大艦巨砲主義」の対局をゆく海軍戦略の一派の台頭による戦艦建造への予算制約、建造条件の設定など、いわば戦艦にとって「暗黒時代」を経て、迷走の続く時期であったであろう。

確かにこの時期は、蒸気装甲艦の出現後、初めて日清、日露での実戦が行われ、多くの戦略的、戦術的データがあらわれた時期でもあり、その中で多くの仮説の具現化によってこのような現象が発生する必然があったと言えるかもしれない。

が、経緯はどうあれ、日本海軍が日清・日露で実証し、その後、ドイツやイギリス、日本などが目指した同一口径の戦隊による艦隊決戦の思想にはこの現象は不適合の度合いが濃厚で、次第に世界の海軍力の組織的整備の趨勢から、フランスは脱落する。

一方で、その設計は常にユニークで、例えば他国に先駆けた四連装砲塔の実現など、その技術的な発展には見るべきものが、こののちも多い。

 

ここでは、上記のような状況を踏まえ、あまり根拠はないのだが、主砲を連装砲塔複数に装備したものについて、紹介してみたい。

 

一転して、艦船模型的な視点で見ると、実にコレクター魂を揺さぶられる。

例えば、1891年から就役したシャルル・マルテル準級(準級:緩やかなグループ、ということだろうか)には5隻の戦艦が属しているとされるが、排水量・備砲・速力などは似ているものの、デザイナーが異なる、一種の競争試作のような様相を呈している。

シャルル・マルテル (戦艦) - Wikipedia

チャレンジしてみたい、という思いと、迷宮の入り口に立った次の一歩への逡巡の間に揺れている。

 

近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

シャルルマーニュ級戦艦 - Wikipedia(同型3隻:1899-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Charlemagne-class_battleship

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本級の建造直前まで、上記のシャルル・マルテル準級の迷走の中に、フランス海軍はあったが、そのような経緯を断ち切って本級は生まれた。背景には英独の建艦競争による装備充実があったと思われる。

いたって標準的な外観に、標準的な近代戦艦の要件をまとめ上げた、

 

イエナ (戦艦) - Wikipedia同型艦なし1:1902-)

https://en.wikipedia.org/wiki/French_battleship_I%C3%A9na

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前級シャルルマーニュの改良型として1隻建造された。改良点は副砲と装甲の強化であった。

 

シュフラン (戦艦) - Wikipedia同型艦なし:1904-)

https://en.wikipedia.org/wiki/French_battleship_Suffren

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 副砲を単装砲塔に収め、両舷に3基づつ配置している。のちのロシア戦艦ツェザレヴィッチの設計にも影響があったのではないかと思われる。

 

レピュブリク級戦艦 - Wikipedia*(同型2隻:1906-)

https://en.wikipedia.org/wiki/R%C3%A9publique-class_battleship

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これまでフランス戦艦には、排水量に制限がかけられていたが、本級ではそれが撤廃される。設計は日本でも「三景艦」で馴染みのある、エミール・ベルタンで、これまでの戦艦とは異なる外観をしている。連装砲塔に収められた主砲、一部の副砲も連装砲塔に収めるなど、フランス艦のいくつかの特徴が見られる。

が、就役時には、すでにドレッドノートが就役しており、いわゆる旧式新造艦のラベルを貼られることになった。

 

強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship

リベルテ級戦艦 - Wikipedia*(同型4隻:1907-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Libert%C3%A9-class_battleship

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副砲として19.4センチ単装砲を10基保有している、いわゆる強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。外観は、前級とほぼ変わらず副砲の口径、数、配置が変わった。

本級も前級同様、就役時には、すでにドレッドノートが就役しており、いわゆる旧式新造艦であった。

 

ダントン級戦艦 - Wikipedia*(同型6隻:1911-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Danton-class_battleship

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前級からさらに艦体を大型化し、副砲口径を前級の19.4センチから、24センチの強化した。この副砲を連装砲塔6基に収めている、いわゆる強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。

本級も就役時には、イギリスはもちろん、ドイツ、アメリカも弩級戦艦を次々に就役させており、旧式新造艦 として就役せざるを得なかった。

 

アメリカ海軍:US Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy

大西洋における英独の建艦競争、太平洋における日露の建艦競争、両方の刺激を受けて、アメリカ海軍は多くの戦艦を結果的に建造する。その結果、ドレッドノートの就役時には、世界第2位の海軍力に到達する。

武装と防御力に重点が置かれ、速力はやや抑えられる傾向があった。

 

インディアナ級戦艦 - Wikipedia*(同型3隻:1895-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy#Indiana-class

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アメリカ海軍が建造した初の本格的戦艦であった。

主砲として33センチ砲を連装砲塔2基に収め、副砲として20.3センチ砲をこちらも連装砲塔4基に配置した重武装艦である。一方、速力は15ノットに甘んじ、乾舷が低く、荒天時には主砲は使えない恐れがあった。

 

アイオワ (BB-4) - Wikipedia*同型艦なし1:1897-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy#USS_Iowa

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前級インディアナ級の改良型。主砲口径を30.3センチに抑え、配置位置を高くし、航洋性を向上させた。速力16ノット。

 

近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

キアサージ級戦艦 - Wikipedia*(同型2隻1:1900-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy#Kearsarge-class

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インディアナ級戦艦と同様、重武装を目指す。33センチ砲を主砲とし副砲をその上部に同様の砲塔形式で搭載すれば、副砲塔の数を減らしながらも両舷への砲力を減殺せずに済む、との発想から、設計された。親子砲塔という特異な形状を持っている。

発想は卓抜であったが、射撃時に主砲・副砲双方の爆風が干渉し、実用面では命中精度の低下など、不具合が生じた。

 

イリノイ級戦艦 - Wikipedia*(同型3隻:1900-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy#Illinois-class

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33センチ主砲を収めた主砲塔の前面形状に傾斜を持たせ、耐弾性を高めた。親子砲塔を廃止し、船首楼を復活し航洋性を高めた。

 

メイン級戦艦 - Wikipedia*(同型3隻:1902-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy#Maine-class

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ロシアから受注したレトヴィザンを参考とし、速力を列強と同等の18ノットとし、主砲も列強と同じく40口径30.5センチ砲を採用した。この砲は従来の35口径33センチ方よりも初速が速く、有効射程、命中精度共に高い。同様に副砲も50口径15.2センチ砲が採用され、総合的な砲力が強化された。

 

強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship

バージニア級戦艦 - Wikipedia*(同型5隻:1906-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy#Virginia-class

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20.3センチ連装砲4基を中間砲として装備した強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。中間砲の搭載形式として再び親子砲塔を採用した。機関が強化され、速力は19ノットを発揮した。

 

コネチカット級戦艦 - Wikipedia*(同型6隻:1906-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy#Connecticut-class

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前級ヴァージニア級の改良型で、主砲・中間砲の口径はそのままとし、副砲の口径が15.2センチから17.8センチに強化された。艦型は大型化したが、機関出力を抑え、速力を18ノットで我慢した。

 

ミシシッピ級戦艦 - Wikipedia*(同型2隻:1908-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_the_United_States_Navy#Mississippi-class

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 艦型を小型化し建造経費を抑える思想で建造された。速力も17ノットに甘んじざるを得ず、あまり評判は芳しくなかった。就役時には既にドレッドノートが就役しており、いわゆる旧式新造艦となってしまった。

 

日本海軍 :Imperial Japanese Navy

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Japan

日本海軍については本稿を参照されたい)

 

扶桑 (甲鉄艦) - Wikipedia同型艦なし:1879-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_ironclad_Fus%C5%8D

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近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

富士型戦艦 - Wikipedia(同型2隻:1897-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Japan#Fuji_class

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敷島型戦艦 - Wikipedia(同型2隻:1900-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Japan#Shikishima_class

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朝日 (戦艦) - Wikipedia(同型艦なし:1900)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Japan#Asahi

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三笠 (戦艦) - Wikipedia(同型艦なし:1902-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Japan#Mikasa

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筑波型巡洋戦艦 - Wikipedia(同型2隻:1907-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Tsukuba-class_cruiser

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強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship

香取型戦艦 - Wikipedia(同型2隻:1906-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Japan#Katori_class

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薩摩型戦艦 - Wikipedia (同型2隻:1910-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Japan#Satsuma_class

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鞍馬型巡洋戦艦 - Wikipedia(同型2隻:1908-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Ibuki-class_armored_cruiser

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イタリア海軍:Italian Navy

言うまでもなく、その主要な行動領域は地中海である。

地中海の中央を制する位置にある半島国家、と言う地政学的な意味合いからも、古来、海軍は非常に重要な役割を与えられてきた。惜しむらくは、長らく統一国家を持たず、組織化された軍隊、と言う概念が陸海問わず育ちにくかったことであろう。

上記は一方で、様々な試みが独自に行われる、と言うことでもあり、その視点に経てば、イタリアはフランスと並んで、試行、試作の宝庫とも言える。

艦船技術についても同様で、様々な試みが散見する。

が、上記の通り統一意志のもとに、と言う視点が希薄で、わかりやすく言うと個々の造船所レベル、親方レベルでの取り組みとなって、大きな動きになりにくいと言う恨みがあった。

 

近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

レ・ウンベルト級戦艦 - Wikipedia*(同型3隻:1893-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Re_Umberto-class_ironclad

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イタリア海軍初の近代戦艦である。34.3センチの主砲は、連装露砲塔にまとめられ、簡単なシールドで覆われていた。

イタリア艦の常で、18-20ノットという比較的高速を発揮する。

ボイラー配置に特色があり、3本煙突の外観を有している。

 

エマニュエレ・フィリベルト級戦艦 - Wikipedia(同型2隻:1901-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_ItalyAmmiraglio_di_Saint_Bon_classf:id:fw688i:20190630135723j:image 

10,000トンを少し下回るほどの小ぶりな船体を持った戦艦である。主砲に40口径25.4センチ砲を採用し、これを新設計の連装式砲塔2基に収め前後に配置している。速力は18ノットを発揮する。

各国海軍から、そのバランスの良さから相次いで購入の申し入れのあった装甲巡洋艦ジュゼッペ・カリバルデイ級は、本級を小型化した艦型を基本設計としている。

 

強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship

レジナ・マルゲリータ級戦艦 - Wikipedia* (同型2隻:1904-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Italy#Regina_Margherita_class

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13,000トン級のやや小ぶりな艦体に、主砲には標準的な40 口径30.5センチ砲を前後に連装砲塔形式で搭載し、 中間砲として、45口径20.3センチ速射砲を4基、単装砲で装備した強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。20ノットの速力を有している。

設計の当初段階では、主砲を単装砲2基とし、20.3センチ速射砲を12門搭載する、という設計であったが、設計者で当時の海軍大臣ベネデット・ブリンの死後、上記のような標準的な設計に改められた。ボイラーの配置から、3本煙突の外観を有している。

 

レジナ・エレナ級戦艦 - Wikipedia (同型4隻:1907-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Italy#Regina_Elena_class

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前級の設計途上で故人となったベネデット・ブリンの設計を具現化した強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。主砲は、30.5センチ砲を単装でそれぞれ艦の前後に配置し、中間砲として20.3センチ砲を連装砲塔 6基に収め、都合12門とした。 防御にも配慮改善が見られ、速力は22ノットの優速を発揮した。

 

オーストリア=ハンガリー帝国海軍

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Austria-Hungary

19世紀、あるいは20世紀初頭の列強のうち、オーストリア・ハンガリー帝国ほど、我々日本人との関わりが見出しにくい存在はないであろう。この帝国は、基本、内陸の大国であった。その海軍はアドリア海、その延長として地中海での行動を想定して設計されている。

仮想敵は主にイタリア海軍、あるいはトルコ海軍であり、この両大国との境界警備、あるいは境界域での紛争への対処がその主要な任務と考えていい。

その行動領域であるアドリア海には多くの島が連なり、狭水路の多くあるところから、比較的小振りな艦体と、紛争現場でいち早く主導権を取るべく機動性、すなわち速力が求められた。

 

近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

モナルヒ級戦艦 - Wikipedia*(同型3隻:1898-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Monarch-class_coastal_defense_ship

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5500トンクラスの海防戦艦である。24センチ砲4門を主砲とし、17.5ノットの快速を発揮する。

 

ハプスブルク級戦艦 - Wikipedia*(同型3隻:1902-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Austria-Hungary#Habsburg_class

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アドリア海は地中海の奥深く、基本的には静かな海ではあるが、多くの島が点在し、水路が狭い。従ってこの環境に適合した比較的小ぶりな艦型が求められた。本級は8,300トンの船体に、24センチ砲3門を搭載している。(前部連装砲塔、後部単装砲塔)

19,5ノットの当時としては高速を発揮した。

 

エルツヘルツォーク・カール級戦艦 -Wikipedia* (同型3隻:1905-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Austria-Hungary#Erzherzog_Karl_class

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前級を拡大し、11,000トン級の船体を持ち、主砲は前級と同じ口径の24センチ砲を踏襲し、一門を増やし連装砲塔2基4門とした。さらに副砲の口径を強化し、19センチとし、12門を単装で舷側に搭載した。速力は20ノットを発揮する高速艦である。

 

強化型近代戦艦:準弩級戦艦 semi-Dreadnought battleship

ラデツキー級戦艦 - Wikipedia*(同型3隻:1910-)

https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_battleships_of_Austria-Hungary#Radetzky_class

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アドリア海をその主要な行動範囲と想定するために、オーストリア・ハンガリー帝国海軍の戦艦は、高速を有する反面、他の列強の戦艦に比較して艦型が小さく、口径の小さな主砲を有しており、やや非力さを感じさせることは否めなかった。

本級は、それを一新し、諸列強の主力艦と遜色のない15,000トン級の船体に、30.5センチ砲を主砲とし、さらに副砲の口径を24センチに強化、これを連装砲塔4基に収めた強化型近代戦艦(準弩級戦艦)である。さらに速力は、従来の優速を保持する20.5ノットを発揮する実に有力な艦となっている。

 

スペイン海軍: Spanish Navy

近代戦艦:前弩級戦艦 pre-Dreadnought battleship

ペラヨ (戦艦) - Wikipedia*同型艦なし:1888-)

https://en.wikipedia.org/wiki/Spanish_battleship_Pelayo

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 スペイン海軍唯一の近代戦艦で、フランスに発注された。

フランスのマルソー級戦艦をタイプシップとし、タンブルホームなどフランス戦艦の特徴を受け継いでいる。主砲には32センチ砲を単装露砲塔形式で前後に搭載し、舷側にこれも単装露砲塔形式で28センチ砲を一門づつ搭載するという、これもフランス艦の影響を色濃く受け継いだ武装配置を採った。

姉妹艦を建造し戦隊を構成する予定であったが、海外植民地に派遣できる航続距離が長く航洋性に優れた装甲巡洋艦を建造することになったため、同型艦は現れなかった。

 

次回はいよいよ弩級戦艦の時代へ。

 

模型についてのご質問は、お気軽に。

 


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第9回 日露戦以降の日本の主力艦事情 或いは空前の危機

ポーツマス講和会議

1905年8月、ポーツマスでの講和会議で、日露間の戦争が終結した。

日本海軍はロシアの、いずれもほぼ連合艦隊に匹敵する戦力を持つ二つの主力艦隊を壊滅させ、ほぼ完勝に近い結果を得た。当時、世界の三大海軍の一角を占めていたロシア海軍は、消滅した。

陸軍も、旅順要塞を、投入した部隊が瞬時に消滅すると言うような惨禍の繰り返しの末、攻略し、あわせて満州南部から中部にかけての全ての会戦で、常に自軍を大きく上回る規模で展開するロシアの大軍を退けた。

日本国民の誰もが、勝利者は自分だと確信していた。講和会議開催が報じられると同時に、30億円、50億円という、戦後賠償金の金額だけが一人歩きし、勝利の果実をどのように享受するかに、世論は湧いた。

が、その実情はとてもそのような楽観的なものではなく、これ以上の継戦は不可能、という認識で、政府、軍上層部ともに一致していた。開戦以来わずか1年で、動員兵数は180万人に上り、すでに死傷者は20万人を超えていた。戦費は4年分の国家予算に相当する20億円に達していた。

陸軍において、その傾向は特に顕著であった。

これまでも陸軍は、日本が初めて経験する近代戦が、如何に日清戦争と異なるものかを文字通り身をもって知らされていた。会戦の都度、ほぼ日清戦役全体を通して消費されたに等しい量の弾薬が、数日、あるいは1日で消費された。砲弾の補給はもちろん、生産の間に合うはずもなく、常に弾薬箱の底板を見ながら、戦わねばならなかった。

あわせて、特に前線の先頭に立ち勇敢に部隊を率いる下級将校クラスの損耗が激しく、部隊運用に弾力が失われつつあった。その育成には当然のこと、時間を要する。奉天が北進の限界、これが陸軍上層部、特に満州総軍の結論だった

 

一方、ロシアは、表面上は「満州では局地戦の末、後退したが、いずれも戦略的後退で、現在でも更に充実した陸戦戦力が満州鉄山付近に蓄えられつつある」とし、継戦への意欲を示してはいた。が、実情は国内、および周辺の属国における政治情勢に不安定さが増し、戦争継続に困難が生じつつあった。

講和会議の主催国であるアメリカは、日露いずれかの中国に対する影響力が、これ以上強化されることを好まず、ドイツ・フランスなどのロシア友好国は、ロシアの政情不安が、自国に波及することを恐れた。

 

こうして講和条約が締結された。

ロシアは満州・朝鮮から撤兵し、樺太南部を日本に割譲した。これにより日本は、念願の朝鮮半島における指導権の確立、満州南部の租借権および鉄道に関連する権益を獲得し、ロシアに代わり実質的な中国東北部の支配権を得たが、世論が熱望した戦争賠償金は支払われなかった。このため戦費捻出のための増税による耐乏生活に疲弊した世論は暴発し、国内では日比谷焼打事件などを惹起した。

 

ともかくも、こうして日本の独立自存を目指す明治初年から、その自存確立のために日清、日露の両戦役を通じて確保しようとした朝鮮半島への支配的影響力を手に入れることができた。

が、この辺りから「満州は日本の生命線」に連なるような言葉が見え隠れし始める。或いは、日本的帝国主義の萌芽、ともいえる。

 

主力艦動向 –間に合わなかった主力艦 香取級戦艦・筑波級装甲巡洋艦巡洋戦艦)

 

香取級戦艦

1904年、日本は迫り来る日露間の戦争に備え、香取、鹿島の両戦艦をイギリスのビッカース社とアームストロング社に発注し、起工した。2艦はイギリス戦艦キング・エドワード7世級をタイプシップとし、それまでの日本の近代型戦艦の標準主砲であった45口径30.5センチ級主砲4門に加え、45口径25.4センチ中間砲4門を装備する強力な艦で、のちに準弩級戦艦に分類される艦であった。竣工までの時期を短縮する目的で、造船所を2社に分けたにも関わらず、就役は日露戦争終結後であった。

両艦には、煙突位置に小異がある。

香取:1906-1923 (15,950t 18.5knot)(110mm in 1:1250)

鹿島:1906-1923 (16,400t 18.5knot)(110mm in 1:1250)

香取型戦艦 - Wikipedia battleship Katori class

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 (香取:手前、鹿島:奥)

 

筑波級装甲巡洋艦(巡洋戦艦)

本稿でも、何度か触れたが、1904年5月15日は日本海軍にとって災厄の日であった。

この日、旅順沖を哨戒航行中の戦艦「初瀬」ならびに戦艦「八島」の2隻がほぼ同時に触雷、沈没してしまった。当時、日本には戦艦は6隻しかなく、一瞬で、海軍はその主戦力の3分の1を失った。

この喪失を補充するために1904年度臨時軍事費で、急造の下命が降ったのが、筑波級装甲巡洋艦であった。

その特徴は、何と言っても、装甲巡洋艦でありながら、当時の戦艦と同じ45口径30.5センチ砲4門を主砲として装備していたことである。後に巡洋戦艦に区分されるが、主砲は前述のように戦艦と同等、速力は当時の装甲巡洋艦と同じ20.5ノットを発揮し、装甲は戦艦と同等、という、いわゆる高速戦艦の奔り、とでもいうべき優れた艦であった。

日本海軍は、本級から、艦首の衝角を廃止している。

急造の命の下、起工から就役まで2年という短期間で建造が不休で行なわれたが、就役は日露戦争後の1907年であった。

筑波:1907-1917 (13.750t 20.5knot)(119mm in 1:1250) 

生駒:1908-1923 (13.750t 20.5knot)(119mm in 1:1250)

筑波型巡洋戦艦 - Wikipedia battle cruiser Tsukuba class

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戦利艦の修復と再就役 

これまでの稿でも都度触れてきたが、日露戦争の経緯で、日本海軍は以下のロシア戦艦を捕獲し、再就役させた。

戦艦丹後:旧名ポルタワ(ペトロパブロフスク級)(1905-1916:日本海軍在籍期間)

戦艦相模:旧名ペレスヴェート(ペレスヴェート級)(1905-1916:日本海軍在籍期間)修復完了1908

戦艦周防:旧名ポペーダ(ペレスヴェート級)(1905-1922:日本海軍在籍期間)修復完了1908

戦艦肥前:旧名レトヴィザン(1905-1923:日本海軍在籍期間)修復完了1908

戦艦石見:旧名オリョール(ボロジノ級)(1905-1922:日本海軍在籍期間) 修復完了1908

建造時から課題とされた復元性の改善のため、副砲塔の撤去、さらに上甲板を一層削減するなど、大規模な修復、改造が行われ、艦容が一変した。

二等戦艦壱岐:旧名ニコライ1世(1905-1915:日本海軍在籍期間)

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 (丹後:上段左、相模:中段左、周防:下段左、肥前:上段右、石見:中段右、壱岐:下段右)

 

日露戦後の新造艦 鞍馬型装甲巡洋艦、薩摩型戦艦

鞍馬型巡洋戦艦 -  Wikipedia battle cruiser Kurama class

鞍馬:1911-1923 (14,600t 21knot)(119mm in 1:1250)

伊吹:1908-1923 (14,600t 22knot)(119mm in 1:1250)

本級は、前述の筑波級装甲巡洋艦の改良型として、またこれも前述の香取級戦艦に匹敵する強力な砲力を有する高速主力艦として設計された。主砲は、筑波級と同じ日本海軍の戦艦の標準砲である45口径30.5センチ砲4門を装備し、副砲に45口径20.3センチ砲を起用し、これを連装砲塔4基に収めた。

鞍馬は従来型のレシプロ機関を搭載したが、伊吹は、後述の戦艦安芸に搭載予定のタービン搭載試験艦となり、このため建造が急がれ、就役がネームシップの鞍馬より先行した。

一方、就役に余裕があったため、鞍馬は当時最先端の三脚前後マストを採用している。

 

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(鞍馬:手前、伊吹:奥)

 

薩摩型戦艦 - Wikipedia battleship Satsuma class

薩摩:1910-1923 (19,400t 18.25knot)(122mm in 1:1250)

安芸:1911-1923 (20,100t 20knot)(122mm in 1:1250)

初の国産戦艦である。

前級の香取級に対し、砲力を格段に強化し、従来の主砲 45口径30.5センチ砲4門に加え、香取級で初めて導入した中間砲(45口径25.4センチ砲)を連装砲塔6基12門とした。

あわせて安芸には、前述の装甲巡洋艦「伊吹」でテストされたタービンを搭載しており、20ノットの優速を発揮した。機関の差、ボイラー配置の差から、外観に差異が生じ、薩摩が2本煙突であるのに対し、安芸は3本煙突である。

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 (安芸:手前、薩摩:奥)

 

 1911年の主力艦構成

こうして、日本海海戦当時にはわずか戦艦4隻に過ぎなかった日本海軍の主力艦は、1911年時点では、戦艦13隻(日露参戦艦4隻、新造戦艦4隻、戦利艦5隻)、戦艦にほぼ匹敵する高速装甲巡洋艦筑波級、鞍馬級)4隻という強力なものになっていた。

が、実はここに「空前の危機」が潜んでいた。

本稿でも以前少し紹介したが、日露間の黄海海戦(1904年8月)を戦訓として、1906年、 イギリスで一隻の革命的な戦艦が就役した。戦艦ドレッドノートである。

ドレッドノートは、多数の同一口径砲での『斉射』の有効性の確信の下に、第一海軍卿に就任したジョン・アーバスノット・フィッシャー提督により、『長距離砲戦に圧倒的に優位な』戦艦として設計、導入された。この艦の就役が、それまでの近代戦艦全てを一日のうちに全て前時代の旧式兵器としてしまった。

上記の日本海軍が多額の費用を掛けた新造艦、あるいは修復した戦利艦などは、全て「旧式艦」として一括りにされてしまった。その中には就役したての、当時「世界最大の戦艦」と謳われた戦艦「安芸」、装甲巡洋艦「鞍馬」なども含まれてしまう。

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ドレッドノート (戦艦) - Wikipedia  battleship Dreadnought (1906-1919)

(18,110t  21knot) (126mm in 1:1250)

 

いわゆる、弩級戦艦の時代がすでに始まっていた。

弩級戦艦の要件は、概ね以下のようにまとめられるだろう。主砲斉射能力が、片舷8門以上あること。速力が21ノット以上であること。(弩級巡洋戦艦では、速力は24ノット以上)つまり、弩級戦艦は、砲力において、近代戦艦(前弩級戦艦)の2倍以上あり、速力においては3ノット以上の優速を発揮しうる、ということになる。

すでに弩級戦艦の家元であるイギリス海軍では、実験艦的な性格が強いドレッドノートに続き、インヴィンシブル級巡洋戦艦(3隻:主砲8門、24.5ノット)、べレロフォン級(3隻)、セント・ヴィンセント級(3隻)、ネプチューン、コロッサス級(2隻)、インディファティカブル級巡洋戦艦(3隻)が就役、あるいは就役間近であった。

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 (ドレッドノート (戦艦) - Wikipedia  Dreadnought上段左:126mm  **右端の数字は1:1250スケールでの寸法を示す

ベレロフォン級戦艦 - Wikipedia  Bellerophone class 上段右:128mm、

セント・ヴィンセント級戦艦 - Wikipedia   St. Vincent class中段左:130mm、

ネプチューン (戦艦) - Wikipedia  Neptune 右2段目:132mm、

コロッサス級戦艦 - Wikipedia Colossus class battleship右3段目:133mm

インヴィンシブル級巡洋戦艦 - Wikipedia Invincible class下段左:136mm、

インディファティガブル級巡洋戦艦 - Wikipedia Indefatigable class 下段右:144mm)

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(イギリス海軍弩級戦艦の配置比較 右からドレッドノート、べレロフォン級、セント・ヴィンセント級、ネプチューン、コロッサス級)

 

これに刺激されて、俄かに弩級艦建艦競争が惹起した。

ドイツ海軍では、ナッソウ級(4隻)、巡洋戦艦フォン・デア・タン、ヘルゴランド級(4隻)、モルトケ巡洋戦艦(2隻)が、アメリカ海軍でもサウスカロライナ級(2隻)、デラウエア級(2隻)、フロリダ級(2隻)が就役済み、もしくは就役間近で船台に乗っていた。

(ドイツ海軍 弩級艦)

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(ナッサウ級戦艦 - Wikipedia  Nassau class左上段:117mm、

ヘルゴラント級戦艦 - Wikipedia   Helgoland class左下段:133mm、

フォン・デア・タン (巡洋戦艦) - Wikipedia   Von der Tann右上段:137mm、

モルトケ級巡洋戦艦 - Wikipedia  Moltke class右下段:151mm)

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(ドイツ海軍の弩級戦艦弩級巡洋戦艦の配置比較:左から、ナッサウ級、ヘルゴランド級、フォン・デア・タン、モルトケ級) 

 

アメリカ海軍 弩級戦艦

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(サウスカロライナ級戦艦 - Wikipedia  South Carolina class上段:113mm、

デラウェア級戦艦 - Wikipedia  Delaware class下段左:124mm、

フロリダ級戦艦 - Wikipedia  Florida class下段右:124mm)

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アメリ弩級戦艦の配置比較:左から、サウスカロライナ級、デラウエア級、フロリダ級)

 

さらに、イギリス海軍では、コロッサス級をもって一連の弩級艦の建造を終え、主砲口径を大きくしたオリオン級、ライオン級巡洋戦艦を起工しており、このクラスの就役が、次の超弩級艦の時代の幕開けとなるであろう。

 

日本海軍も、次期主力艦である摂津級の設計に弩級艦の性格を盛り込んでいたし、イギリスに超弩級巡洋戦艦「金剛」を発注してもいたが、その出遅れ感は、否めなかった。

 

次回は、号外編として、ついに今回(1911年)で終わりを告げた近代戦艦の時代を振り返り、列強各国の前弩級戦艦、準弩級戦艦のカタログをご覧いただくことを予定している。

 

さらにその次からは、迫り来る欧州大戦(第一次世界大戦)に向けて、弩級艦・超弩級艦の発展をもう少し丁寧に。あわせて、この辺りから日本海軍を中心に「if艦」なども交えながら。

 

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第8回 バルティック艦隊回航と海戦

バルティック艦隊の極東回航

「壮図」、という言葉にふさわしい。

バルティック艦隊の本拠リバウ軍港から、旅順、あるいはウラジオストックまでの距離、約18,000浬、30,000キロ。計画の当初40隻を超える艦艇がこの遠征に参加する予定で、最終的には50隻を超えた。最短でも4ヶ月はかかる見込みで、実際には7ヶ月余りの航海になった。距離的にはマゼランの航海には及ばぬものの、その艦隊の規模、兵員数、戦闘力、さらには、石炭の補給をはじめとする計画的な兵站の確保を考慮すると、まぎれもない「空前の壮挙」であった。

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(第二太平洋艦隊主力の第一戦艦戦隊:最新鋭のボロジノ級戦艦4隻 スヴィーロフ・アレクサンドル3世・ボロジノ・オリョール)

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(第二戦艦戦隊:オスリャービャ(上段)、シソイ・ウォーリキー(下段左)、ナヴァリン(下段右))

 

回航により彼らが得ようとしたもの、その企図は雄大そのものと言わねばならない。

当時、極東には、ほぼ日本海軍に匹敵する規模の太平洋艦隊(第一)が旅順とウラジオストックを基地として展開していた。これに、ほぼ同規模の艦隊(第二)を本国から派遣し、二つの艦隊を合わせて、すなわち日本海軍の二倍の規模で圧倒してしまおう、というものであった。その海軍を撃滅し、制海権を握り補給を断つならば、満州に展開する日本陸軍など、ただ待っているだけでも消滅してしまう。

必勝の図式に裏打ちされた、見事な戦略と言えるであろう。

瑕疵があるとすれば、回航作戦の決定時期そのものの遅さ、およびその後、決定から発動まで、5ヶ月の時間がかかっていることであろう。(決定:5月20日 出港:10月15日)

前稿でも何度か触れたが、これらはこの戦争全般に見られる準備努力の不足、および「開戦時期の決定権はロシアにある」という大国ならではの思い上がりに似た見通しに起因しているように思われる。

 

一方、5月のロシア本国艦隊回航決定の報に触れ、日本は陸海軍をあげて、8月に当初その戦争計画になかった旅順要塞の攻略戦を開始した。両艦隊の合流は、日本の死命を制することは明らかであるために、日本にとって、一転して「旅順」は国運をかけた戦場となった。

この結果、「旅順」は、本国艦隊回航までの間、太平洋艦隊を温存するには安全な地ではなくなり、旅順艦隊はウラジオストックへの移動を企図する。その移動を巡って、同月には、旅順艦隊と日本艦隊の間に黄海海戦が行われた。膠州湾に逃げ込み武装解除された一隻をのぞいて、旅順に戻った5隻の戦艦であったが、海戦で受けた損傷を修復することが旅順ではできず、海上戦力としての旅順艦隊は消滅した。

冷静に考えれば、巨大な陸軍を陸路満州に送り込む能力を持つロシアにしてみれば、この時点、すなわち既に両艦隊の合流という海軍力による戦争の勝利の見通しの失われた今、本国艦隊の回航を中止する判断があってもよかった。

 

が、その判断は下されず、艦隊は、1904年10月15日に、リバウ軍港を出発した。

出発にあたり、バルティック艦隊は第二太平洋艦隊と名を改めた。司令長官には軍令部長のロジェストヴェンスキィが就任し、中将に昇進した。

彼はその将旗をボロジノ級戦艦、スヴォーロフに掲げた。

 

ボロジノ級戦艦 - WikipediaBorodino-class battleships

ボロジノ(1904-1905)

アレクサンドル3世(1903-1905)

オリョール(1904-1922 :1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「石見」)

スヴォーロフ(1904-1905)

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旅順艦隊所属にして、おそらく最良の戦艦「ツェザレヴィッチ」をタイプシップとして、ロシア国内で設計変更されライセンス生産された。タンブルホーム、連装砲塔式の副砲など、いくつかの特徴を受け継ぎながら、やや大型化している。

最良艦をベースにしているにも関わらず、ロシアでの改設計、併せて建造技術などの問題から、最終的には復元性に課題のある艦となってしまった。

欠陥があるにせよ、旅順艦隊が動けない状況で、ボロジノ級の4隻は、ロシア艦隊最強の戦艦であることに変わりはなく、その主力として、この4隻で最強の第一戦艦戦隊を編成し、ロジェストウェンスキーが直卒した。

(13,500t 17.8knot) (95mm in 1:1250)

 

オスリャービャ (戦艦) - Wikipedia(1901-1905)

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ペレスヴェート級の二番艦。元々は、太平洋艦隊に配属される予定であったが、旅順への回航途中に日露開戦となり、本国に戻った。今回の本国艦隊の極東回航にあたり、第二戦艦戦隊の旗艦を務めた。(フェルケルザム少将座乗)

ロシア級装甲巡洋艦の拡大的要素が強く、航洋性能と速度を重視し、武装と装甲を少し抑えた、後の巡洋戦艦的な性格を持つ。その為、主砲は少し小さめの口径の25.4センチ連装砲を、前後の砲塔に収めている。

(12,674t 18knot) (104mm in 1:1250)

 

今回の極東回航にあたっては、フェルケルザムの率いる第二戦艦戦隊主力は、オスリャービャと以下の紹介する一世代前のバルト海向けに建造された戦艦2隻、加えてやや旧式の装甲巡洋艦で構成された。旗艦オスリャービャは、前述のように言わば強化型の装甲巡洋艦的な性格でその主砲口径が小さく、その他の2戦艦はそもそもがバルト海用の海防戦艦であり、特に航続距離、速度が最新戦艦に劣った。一方で、バルト海向けの海防戦艦であるために喫水が浅く、地中海、スエズ運河経由の航路を選択することができ、オスリャービャを除いて短縮ルートに別働した。

 

シソイ・ヴェリキィー (海防戦艦) - Wikipedia (1896-1905)

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バルト海向けに建造された海防戦艦である。乾舷をやや高くし航洋性を向上させるなど、形式はほぼ近代戦艦の要件を満たしているが、速力が15.6ノットと遅かった。また石炭の積載量も1000tと少なく、一回の給炭での航続距離が短い。(10,499t 15.6knot) (81mm in 1:1259)

 

ナヴァリン (戦艦) - Wikipedia(1895-1905)

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四角に配置された4本の煙突を持つ、極めて特徴的な外観をしている。近代戦艦以前のバルト艦隊向けに開発された装甲砲塔艦的な設計の艦で、極めて低い乾舷を有していた。前掲のシソイ・ヴェリキー同様、航続距離が短い。10.200t 15.8knot) (83mm in 1:1250)

 

航海は難渋を極めた。

それは、給炭と補給地を求める航海であったと言っていい。

元々、航路上の大半は、日英同盟を結ぶイギリス領であり、この港湾に立ち寄ることはもとより計画に入れることはできなかった。もし寄港などすれば、たちまち拘束されてしまうであろう。従って、当初から寄港地は、長年の同盟国であったフランス領に設定された。アフリカの西岸、東岸ともにフランス領は多く、その港湾を飛び石伝いに辿っていけば、十分な補給と休養がえられる筈であった。

ところが、イギリスの老練な外交手腕により、本来は長年の同盟国であったはずのフランスの態度が時を追うにつれ、冷たくなった。

フランスにも事情がある。前述のようにフランスは長年にわたりロシアを同盟国としてきている。この同盟により、フランスはイギリス、加えて殊に長年の潜在的仮想敵国であるドイツとの外交における自国の地位を保ってきている。ところが日露戦争により、ロシアはその強力な陸軍の主力を極東に割かねばならなくなった。ドイツ東方国境にかかっていた重圧が減衰した。相対的に、同盟国であるフランスのヨーロッパにおける地位が弱まった。

さらに、今回の艦隊回航により、ロシアの海上勢力はヨーロッパを空にするように、極東に向けられてしまう。潜在的にドイツを仮想敵国とするフランスとしては、この崩れたバランスを補うために、イギリスに冷淡な態度をとることが難しくなった。

フランスの態度の変化の背景にはそういう事情が働いている。

同盟国の態度の変化はともかく、遠征を行う艦隊にとって、フランス領への寄港、そこでの補給は不可欠で、艦隊は不慣れな外交交渉に苦しみながらも、半ば強引に居座るようにフランス領の港湾を使用せねばならなかった。

 

その本隊の航路を辿ると、リバウ出発後、11月6日前後に、地中海ルートをとるフェルケルザム戦隊を分離、11月16日、アフリカ西岸のダカールに寄港。その約1ヶ月後の12月16日、ドイツ領アンゴラに寄港後、19日に喜望峰沖を通過している。

当時の通信事情で、艦隊は知る由もなかったが、実はこの間、12月5日に旅順要塞外郭の203高地日本陸軍の手に落ち、その高地を観測点にした有名な28センチ榴弾砲の砲撃で、翌12月6日には、旅順艦隊の残存する5隻の戦艦のうち、レトヴィザン、ペレスヴェート、ポペーダ、ポルタワが大破、着底してしまっていた。さらに、1月1日には要塞そのものが日本軍に降伏し、戦艦のうち1隻だけ残っていたセヴァストポリも港外で自沈してしまっていた。

 

航海を続ける艦隊は、12月29日にはマダガスカル周辺に到着し、マダガスカル西岸のノシベに、1月9日に入港。ここでスエズルートを取ったフェルケルザムの別働戦隊と合流した。艦隊はこのノシべで上記の旅順艦隊の消滅を知らされた。

後世のこの遠征の結果を知る我々からみれば、この遠征の目的、遠征の末の勝利の図式が失われた時点で、艦隊の回航中止は、ほぼ唯一の理性的な、あるいは十分に検討価値のある選択肢として映るかもしれない。

しかし、戦争当事者にとっては、戦争がそもそも国家の威信そのものを賭けた政治行為であるとすれば、この段階での遠征中止はありえなかったであろう。この時点で、皇帝個人への敬意はさておき、少なくとも帝国政府・中枢の官僚、ひいては体制への疑問が無視できぬほどくすぶりつつある国内事情をみれば、政権の中心にいる者たちにとっては、この遠征を竜頭蛇尾に終えることは、それが今後の国家維持のためにどれほど賢明な選択であったとしても、出来ない相談であった。それは例えば10年後の政権のためにはなっても、今日の政権の権威にとってはなんら利するところはない。これは皇帝ニコライ2世周辺において、最も濃厚であった。

一方、艦隊を率いるロジェストヴェンスキィ提督にしても、同様に、あるいは全く異なる理由から、中止は考慮もしなかったであろう。

栄光あるロシア海軍の軍人として(或いは、国籍を問はず軍人の常として)、彼は勝つことのみを考える。そして彼にとって、この状況下で勝利の確率を最も高める最良の方法は、すぐに極東に向けて出発することであったし、実際にそのようにモスクワに上申している。

日本艦隊はようやく旅順警備の重圧から解放されたとはいえ、長期間の洋上待機状態で艦も兵も疲弊しきっているはずである。多くの艦は、多少なりとも戦闘での損傷箇所があり、あるいは不調箇所があるはずであった。おそらく、強力な旅順艦隊に対峙してきた日本艦隊においては、主力艦において、その必要の度合いは高いであろう。これを急いで修理、休養させねばならないが、当時の日本の修理施設には限界があり、短時間での回復は望めない。ロシア艦隊としては、この状況を自軍に有利な材料として利用するには、その整備の整わぬうちに、少しでも早い極東への到着を目指すべきであった。

が、ロジェストヴェンスキィの焦慮をよそに、この後、艦隊はこのノシベに約2ヶ月滞在することになる。すなわち、モスクワは、彼の上申を承認しなかった。

モスクワの懸念は別のところにあった。元々、開戦当初、太平洋艦隊(旅順・ウラジオストック艦隊)には、ロシア海軍における当時の最新最良の艦船、兵員が優先的に配置されていた。これをロシア海軍始まって以来の名将マカロフに指揮させて日本に勝つ、というのがモスクワの描いた構想だった。

今回の遠征艦隊は、開戦以降就役した最新鋭の戦艦を5隻揃えているとは言え、その兵員は旅順の部隊に比べれば未熟であり、このまま戦場に赴かせるのは不安であった。このため、新たに二つの小艦隊を増援として、送り出すので、これを合流して極東を目指せ、と指令した。

一つは快速巡洋艦数隻からなる部隊であり、もう一つは二世代前の旧式戦艦と旧式の装甲巡洋艦バルト海の沿岸警備用の装甲海防艦(小戦艦)3隻を中心とした艦隊で、物々しく、第三太平洋艦隊の名を冠し、これをネボガトフ少将に預けた。

ロジェストヴェンスキィにすれば、これらの艦は全て、今回の遠征艦隊を編成するにあたって、戦力としては期待できないとして、外した艦ばかりであったから、すぐに反対意見を上申し、一刻も早いノシべ出発を許可するよう懇願した。が、モスクワは聞き届けなかった。

このモスクワの対応に強い苛立ちを覚えつつも、一方で、彼は皇帝ニコライ2世侍従長軍令部長であり、誰よりも皇帝の意思には忠実な自分でなくてはならなかった。

彼が行なった精一杯の反抗は、ネボガトフとは、ノシべではなく、回航途上の仏領カムラン湾で合流する、とモスクワに告げたことだった。こうした経緯の後、ようやく3月16日、艦隊はノシべを出港した。

 

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 (第三太平洋艦隊:戦艦ニコライ1世(上段左)装甲海防艦セニャーウィン(上段右) 同ウシャコフ(下段左) 同アプラクシン(下段右))  

 

 第三太平洋艦隊はネボガトフ少将を指揮官とし、旧式戦艦1、装甲海防艦3、旧式装甲巡洋艦1、これに工作船、補給船、病院船など7隻が付随した。2月16日リバウ軍港を出港、地中海・スエズ航路を経て、仏領カムラン湾での第二太平洋艦隊との合流を目指した。

インペラートル・ニコライ1世 (戦艦・初代) - Wikipedia(1891-1915:1905年以降、日本海軍に在籍 二等戦艦「壱岐」)

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バルト海での運用を想定して設計され、 ロシア海軍として初めて主砲に連装砲塔構造を採用した。その主砲は前部に一基のみ搭載され、やや小型の海防戦艦的な性格の艦である。(9,500t 15.3knot)(84mm in 1:1250)

 

アドミラル・ウシャコフ級海防戦艦 - Wikipedia

ウシャコフ(1895-1905)

セニャーウィン(1896-1935:1905年以降、日本海軍に在籍 二等海防艦「見島」)

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バルト海沿岸防御用に建造された小型海防戦艦である。小さな船体ながら、25.4センチ砲を連装砲塔2基に収納している。沿岸防御を主任務と想定しているため、浅吃水が条件づけられ、大洋での行動には不向きとされていた。

 

アプラクシン(1899-1922:1905年以降、日本海軍に在籍 二等海防艦沖島」) 

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アプラクシンのみ、後部に単装砲塔を装備し、主砲は3門である。

(4,971t 16knot)(69mm in 1:1250)

 

ノシべを発した第二太平洋艦隊の次の寄港地は、インドシナ半島カムラン湾であった。この間、全てイギリス領であり、洋上給炭などに苦しみながら、艦隊は、航海を続けなくてはならなかった。ロジェストヴェンスキーはシンガポール沖で、ネボガトフの艦隊がジプチに到着したことを通報された。おそらく数週間後には、仏領カムラン湾で会同するであろう。

そして艦隊は、4月上旬、その会同地点、仏領カムラン湾沖に到着する。

到着後、ロジェストヴェンスキィは、全艦隊に給炭の指示を出した。実はこの時点で、彼には、ネボガトフを待たず、カムラン湾を素通りする意思があった。

東郷は、当然、ネボガトフの艦隊の発進を知っている。従ってその現在位置の情報を集め、ロシア艦隊の合流日時、さらには日本近郊到着の日時を予測しているであろう。カムラン湾を素通りし、そのままウラジオストックを目指せば、この予測の裏をかくことが出来、その混乱に乗じて、ウラジオストックへ到着する確率を高めることができる。これがロジェストヴェンスキィの目論見だった。

後発の老朽艦隊の回航情報を囮に使った、見事な作戦と言えるであろう。

が、この目論見は、簡単に崩れてしまう。艦隊主力、ボロジノ級2番艦、これまで艦隊最優秀艦と目されていたアレクサンドル3世が、これまでの給炭量をごまかして報告しており、現在の積載石炭では、ウラジオストックに到達できないことが判明したためであった。給炭量のごまかしの動機は、給炭時間を短く見せることにより最優秀艦の評価を維持するため、という呆れるようなものだった。

積載量を満たすためには、、新たに給炭船を呼び戻さねばならず、これにより彼の計画は実施できなくなった。

 

5月9日、第二、第三、両太平洋艦隊は仏領カムラン湾で合流し、5月14日、ウラジオストックに向けて出発した。

 

海戦、敵前大回頭の意味

いよいよ日本海海戦に至るわけだが、海戦の経緯については非常に多くの資料、優れた書籍に任せるとして、本稿では、有名な敵前大回頭(東郷ターン)について少し触れてみたい。

 

旅順艦隊の消滅によって、日本海軍の背負う主題はかなり軽くなったと言えるのだが、しかしながら、制海権を守るためには必ず勝利を収めねばならないことには変わりはなく、可能な限り特にロシア艦隊の主力艦(戦艦)をこの海戦で沈めてしまいたかった。

一方、ロシア艦隊はその主力艦、特に戦艦に区分される艦種において、数で日本艦隊を依然圧倒していた。主力艦の数、すなわち射程の長い巨砲の数、といってもいい。この巨砲群を持って、日本艦隊を撃ち払い、ウラジオストックに逃げ込めれば、その後の戦局に大きな影響力を維持し得ることは間違いない。

或いは、出撃せずともウラジオストックの港内で、その機関のあげる煤煙を高くするだけでも、日本の補給路に緊張を与えることが可能であろう。

 

来攻するロシア艦隊の戦艦は、数だけでいえば8隻に及ぶ。もちろんこれまでに何度か触れたように、その建造年代は多岐に渡り、すなわち旧式に分類される艦も含まれてはいる。これもこれまでに見てきたように、この時期の(あるいは軍事技術というのはいつもそうであるのかも知れないが)数年の差は、実に大きな意味を持つ。そうした意味で言えば、ロシア艦隊の主力を務めるボロジノ級戦艦は、日本艦隊の主力艦である三笠、朝日、敷島の3隻の戦艦よりも新しい。オスリャービャは、ほぼ三笠以下3隻と同年代の戦艦であり、日本の「富士」とロシアの残りの3隻の戦艦は三笠よりも前の世代に属していた。

30センチ級の主砲の数で言えば、日本艦隊が16門であるのに対し、ロシア艦隊は26門、一回り小さな25センチ級の砲は、日本艦隊は1門(春日)であるのに対し、ロシア艦隊は15門(3隻の装甲海防艦を含む)であった。

一方、装甲巡洋艦の数では日本艦隊はロシア艦隊を圧倒していた。日本艦隊8隻に対し、ロシア艦隊3隻、装甲巡洋艦の主砲である20センチ級の砲数は、30対16 であった。また、日本の装甲巡洋艦は全て同年代に艦隊決戦用に作られたいわばミニ戦艦で、全ての砲を砲塔に装備しているのに対し、ロシア艦隊の装甲巡洋艦は全て旧式で、うち2隻は主砲を舷側装備していた。

すなわち、日本艦隊が勝利を収めるためには砲戦の距離を詰める必要があり、一方、ロシア艦隊は長距離での砲戦を維持すればするほど、ウラジオストック到着というその目的を達成する可能性を高めることができた。

 

 

両艦隊が激突する。

ロシア艦隊は本稿の冒頭に示したように、ボロジノ級を中心とした第一戦艦戦隊、オスリャービャを先頭に旧式戦艦2隻、装甲巡洋艦を従えた第二戦艦戦隊、そしてニコライ1世を旗艦とするネボガトフの第三太平洋艦隊の3郡が緩やかな縦陣を組んで北東方向へ進路を取っている。

一方、日本艦隊は三笠以下第一戦隊の戦艦4、装甲巡洋艦2、出雲以下第二戦隊の装甲巡洋艦6隻の順でこちらも単縦陣で南下してきている。

 

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 (第一戦隊:三笠(上段左)、朝日(上段右)、敷島(中段左)、富士(中段右)、装甲巡洋艦春日(下段左)、装甲巡洋艦日進(下段右))

 

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第二戦隊の装甲巡洋艦(八雲(上段左)、吾妻(上段右)、出雲(中段左)、磐手(中段右)、浅間(下段左)、常磐(下段右))

 

遠くロシア艦隊を視認した日本艦隊は、一旦進路を北西にとりロシア艦隊の予定進路を横断し自らの左舷方向に敵艦隊をみる位置どりに移行したのち、再び進路を南西に戻し、反航進路を進んでいく。距離12,000メートルで旗艦三笠には、有名なZ旗が掲げられた。Z旗は「皇国の興廃、この一戦にあり。各員、一層奮励努力せよ」の文字が割り当てられていることで有名であるが、Zはアルファベットの最終文字であることから「もう後がない」を意味してもいた。

 

日本艦隊が勝利を目指すには、以下のいくつかの条件を検討し、艦隊を運動させねばならない。

北上してくるロシア艦隊と待ち受ける日本艦隊の位置どりを考えると、おそらく最初の会合は反航航路の形態を取るであろう。

一方、黄海海戦の苦戦の教訓から、反航戦を継続して行った場合、一度後落するとその距離を詰めるには多くの時間を要する。今回の海戦では、ロシア艦隊主力(特に高速を出しうるボロジノ級を始めとるする数隻)の遁走が最も恐れなくてはならない結果であり、それを防ぐためには、早い時期に同航戦に移行する必要があった。

備砲の差。長距離射程を有する大口径砲においては、ロシア艦隊に圧倒的な優位がある。日本艦隊としては、数的に優位な中口径砲を活用せねばならない。そのためには距離を詰める必要がある。

整備、速度における優位。長距離を回航してくるロシア艦隊は整備が十分ではなく、かつ建造年代にばらつきがあり、艦隊運動を高速で行うことは望めない。一方、日本艦隊は整備が完了しており、かつその主力艦はほぼ同世代であり、これらを考慮すると、海戦は味方の優速で行うことが期待できる。

 

実際には、日本艦隊は距離10,000メートルで17ノットに増速し、まず敵艦隊に対する優速を確保した。ロシア艦隊はこの辺りで発砲を開始する。ロシア艦隊も、自軍の優位性(大口径砲の数)を理解し、その論理に忠実な長距離での戦闘を行おうとした節がある。さらに両艦隊の距離8,000メートルのあたりで、三笠は150度の敵前大回頭(東郷ターン)を行い、ロシア艦隊との距離を一気に詰めるコースに乗った。

一般に大回頭の危うさを問う記述は多い。確かに、回頭地点に砲弾を集中されれば、高い被弾率を覚悟せねばならない。が、それは回頭点とその後の進路が特定された後の、後続艦におけるリスクであり、先頭艦は、回頭後の進路予測が難しく、この時点での被弾はそれほど気にする必要はなかった。併せて、両艦隊ともにかなりの速度で運動中であり、加えて、秋山の出撃時の軍令部宛の電文にあるように「波高し」の気象条件である。実際には、日本海海戦当時には、特定地点に大口径砲弾を正確に送り込み続ける、というのは大きな困難を伴ったであろう。

三笠への砲弾の集中は、先頭艦としての宿命であり、かつ新進路で敵との距離を詰めるコースに乗ったことにより生じたものので、回頭のいかんに関わらず、先頭の旗艦としては、甘んじて受け入れざるを得ない危険であった。

後続艦も逐次、回頭しこの新進路に乗る。この回頭により日本艦隊はロシア艦隊に対し「T字」を切ることが出来た、という表現があるが、どちらかというと「イ」の字に近い進路をとり、その砲戦距離を自軍に有利な中口径砲向きに詰めた同航戦を行った、と解釈する方が実際に近いような気がしている。

加えて、17ノットの優速をもってすれば、常に距離を開く方向へ運動しようとするロシア艦隊の鼻先を抑えるような機動が可能であり得たであろう。

 

こうして海戦は始まり、翌日までに、東郷の艦隊は歴史的な勝利を収めた。艦隊の目的地ウラジオストックにたどり着いたのは、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻にすぎず、戦艦8隻のうち6隻が撃沈され、2隻が日本海軍に捕獲された。

 

一方で、結末は悲惨なものであったが、やはり冒頭に述べたように30,000キロに及ぶこの規模の大艦隊による航海は、やはりそれだけで讃えられるべきものであると考える。種々の悪条件、さらに悪化する極東の戦況の中、大きな事故なく航海を成し遂げ、しかも戦う意欲を持続させた事実は、偉大であり、ロジェストヴェンスキィの統率力は眼を見張るものがある。あるいは、劣勢を知りながらこれに付き従い戦ったロシアの兵士たちの忠良さを、なんと賞賛すべきであろうか。

 

ともあれ、海上の覇権をめぐる争いとしての日露戦争は終わった。

 

次回は、日露戦争以降の日本海軍に訪れた空前の危機、について。

 

模型についての質問はお気軽にどうぞ。あるいは質問をするにせよ、情報が十分でない、「こういう情報が欲しい」などのご意見も、ぜひ、お願いします。

 


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第4回(補遺1) 畝傍 ついに日本に回航

幻の防護巡洋艦「畝傍」-Unebi :protected cruiser-

ついに「畝傍」が、本日(2018.10.13)、水雷艇2隻と日本に回航されてきた。

今回は少し息抜き。

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水雷艇「小鷹」「白鷹」とともに、ようやく日本へ到着。

畝傍 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 

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f:id:fw688i:20181013214745j:plainすでに記載したように、日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦を英仏2国に発注した。イギリスに発注された2隻が、浪速級防護巡洋艦「浪速」「高千穂」、一方、フランスに発注された1隻が「畝傍」であった。

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮する艦である。

同時期に発注されたにも関わらず、「浪速」級とは、上の写真のように、全く異なる艦容を示している。「浪速」に同等なスペックを持ち最新式の防護巡洋艦であるはずなのだが、その外観は、流麗でやや古めかしい三檣バーク形式である。その喪失については、未だに謎のままである。

浪速級と比較すると、やや低めの乾舷と、舷側の4箇所の砲座に搭載された24センチの主砲が、ややバランスの悪さを感じさせる。フランス艦には時に復元性能に問題がある場合があり、回航途上に暴風雨などに遭遇しその弱点が瞬時の転覆など、もたらしたかもしれない。

しかしその流麗な艦容で高速を発揮し敵に肉薄する姿など、期待を持たせる外観である。

 

西京丸 に似た船(その2)

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西京丸ではないので、ご注意を。しかし艦首部がもう少し垂直であれば、ほぼ、西京丸。

 

次回は、いよいよ日本海海戦、つまり近代戦艦・装甲巡洋艦の終焉。

模型についてのご質問をお待ちしています。

 


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第7回 黄海海戦と蔚山沖海戦;近代戦艦・装甲巡洋艦の時代

黄海海戦 −ロシア旅順艦隊

ウィトゲフトが出撃する。

旗艦ツェザレヴィッチ以下、旅順にいた6隻の戦艦全てを率いている。他には3隻の防護巡洋艦を含み、損傷で動けない艦を除くと、ほぼ旅順の艦隊全てを率いての出撃、と言っていい。

こと戦艦の数だけで言えば、5月に「初瀬」「八島」を触雷で失い4隻しか戦艦を持たない日本艦隊を、圧倒していた。

日本艦隊としては、6隻と、これも数だけで言えば旅順艦隊を圧倒している装甲巡洋艦に期待を寄せたいところだったが、そのうち4隻は、日本海で通商破壊戦に戦果を挙げ、その神出鬼没な行動で日本を悩ませ続けていたロシア・ウラジオストック艦隊(装甲巡洋艦3隻から編成)の対応に奔走させられ、この千載一遇の決戦場には参加できなかった。

が、旅順艦隊の早期の無力化を喫緊の主題とする日本艦隊にすれば、この出撃を看過するわけには行かず、戦艦4隻にウラジオストック艦隊対応に当たらない装甲巡洋艦2隻、これに開戦直前アルゼンチン海軍から購入し、ようやく日本に回航されたばかりの装甲巡洋艦2隻を加えた戦力で、これを迎えた。

一方、ウィトゲフトの主題は、あくまで決戦ではなく、ウラジオストックへの移動であった。

既に前回触れたことだが、本国から強力な新鋭戦艦で構成されたバルティック艦隊が極東に送られてくる。現在の時点ですら、ウィトゲフトの艦隊は戦艦の数で日本艦隊を上回っている。ウィトゲフトとしては、その本国艦隊の到着まで現在の彼の艦隊を保持し、回航される新艦隊に合流する事が課せられた任務であり、それを達成することで、ロシアは勝利を確実にできるはずであった。

しかしながら、これも前稿に触れたように、旅順要塞にはそれに拠って艦隊を維持するには、いくつかの不具合があった。その主なものは、修理施設の不足と、要塞域の不備である。その為、ウィトゲフトが艦隊保持の目的を達成するためには、ウラジオストックへの移動を実施することが必須となった。

この為、1904年8月10日、ウィトゲフトはその艦隊を率いて旅順を発した。

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旗艦はツェザレヴィッチ、これにレトヴィザン、ポペーダ、ペレスウェート、セヴァストポリ、ポルタワの順で6隻の戦艦が出港し、これに太平洋艦隊の3隻の防護巡洋艦が続いた。堂々たる威容である。

 

ツェサレーヴィチ (戦艦) - Wikipedia   battleshipTsesarevich   (1903-1918)

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フランス ラ・セーヌ造船所製。日本の30センチ砲装備戦艦に対抗する目的で、仏・米二国に発注された2隻のうちの1隻。同型艦はない。フランス艦らしく、流麗なタンブルホーム型船体が特徴である。おそらく、ロシアの近代戦艦(前弩級戦艦)の最高峰であろう。続くバルティック艦隊の主力となるボロジノ級の原型となったが、ボロジノ級は種々の装備を付加した為、重量が増加し、かえって復原性などが本艦よりも劣る結果となった。

副砲を連装砲塔6基にまとめるなど、兵装にも新機軸が見られた。

13,100t  18.7ノット (92mm in 1:1250)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/レトヴィザン_(戦艦)  battleship_Retvizan

(1902-1923: 1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「肥前」)

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アメリカ、クランプ造船所製。日本の30センチ砲装備戦艦に対抗する目的で、仏・米二国に発注された2隻のうちの1隻。同型艦はない。アメリカ艦らしい堅牢な設計で、機関部の電化など、新機軸が取り入れられていた。

12,700t 17ノット (92mm in 1:1250)

 

ペレスヴェート級戦艦 - WikipediPeresvet-class_battleshipp 

ペレスヴェート(1901-1916 :1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「相模」)

ポペーダ(1902-1922 :1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「周防」)

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タンブルホーム型の船体など、フランス艦的な要素が色濃く窺えるが、ロシア国産の戦艦である。装甲巡洋艦の拡大的要素が強く、航洋性能と速度を重視し、武装と装甲を少し抑えた、後の巡洋戦艦の性格を持つ。その為、主砲は少し小さめの口径の25.4センチ連装砲を、前後の砲塔に収めている。二番艦オスリャービャは、太平洋艦隊に編入すべく旅順回航中に日露開戦となったため、本国に引き返し、後にバルティック艦隊の一員として、日本を目指すことになる。(12,674t 18ノット)(104mm in 1:1250)

 

ペトロパブロフスク級戦艦 - Wikipedia Petropavlovsk-class_battleship 

ポルタワ(1900-1916 1905年以降、日本海軍に在籍 戦艦「丹後」)

セヴァストポリ(1900-1905)

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 日本海軍の「富士級」建造に刺激され、本国の造船所で建造され、旅順へ回航された。30センチ砲を連装砲塔に装備する、あるいは副砲を4基の連装砲塔とケースメイトに収めるなど、意欲的な設計であり、ロシアの造船技術の列強各国並みの成熟度を周囲に示した。

10,960t 16ノット (88mm in 1:1250)

3隻の同型艦のうち、ペトロパブロフスクは、名将マカロフの旗艦を務めたが、旅順口をめぐる一連の戦いの中で、触雷してマカロフとともに喪失された。

 

黄海海戦 –日本艦隊

「旅順艦隊動く」の報に接し、日本艦隊も出撃した。

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「初瀬」「八島」の2隻を失ったばかりの第一戦隊「三笠」「朝日」「敷島」「富士」、喪失した2戦艦に変わり編入された装甲巡洋艦「春日」「日進」、加えてウラジオストック艦隊の対応に当たっている第二戦隊から装甲巡洋艦「浅間」「八雲」の計8隻を主力として編成された艦隊を、連合艦隊司令長官東郷が自ら率いていた。ロシア艦隊同様、こちらも現地で展開できる戦力の全てを展開した。

 

三笠 (戦艦) - Wikipedia  battleships_Mikasa (1902-1923)

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イギリス ビッカース社製。敷島級戦艦の四番艦であり、いわゆる六六艦隊計画の最終艦である。日本海軍は六六艦隊計画の実行に当たり、世界に先駆けて搭載砲口径の統一を行った。そのため六六艦隊の戦艦は全て40口径30.5センチ砲、副砲は40口径15.2センチ速射砲で統一されている。「三笠」は、日露戦争を通じ、連合艦隊の旗艦を務めた。(15,140t 18ノット)(99mm in 1:1250)

 

朝日 (戦艦) - Wikipedia battleship Asahi(1900-1942)

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イギリス ジョン・ブラウン社製。敷島級戦艦の二番艦。(15,200t 18ノット)(99mm in 1:1250)

 

敷島 (戦艦) - Wikipedia  battleship Shikishima(1900-1945)

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イギリス テムズ鉄工造船所製。日本海軍で二番目の近代戦艦敷島級のネームシップである。本艦と3番艦の「初瀬」のみ、3本煙突である。日露戦争を通じて、日本主力艦隊の中軸を形成した。竣工当時は、世界最大、と言われた。(敷島級については、本稿の第六回にて既述)(14,850t 18ノット)(99mm in 1:1250)

 

富士 (戦艦) - Wikipedia  battleship Fuji(1897-1945)

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イギリス テムズ鉄工所製。日本最初の近代戦艦、富士級のネームシップである。日本海軍としては、初めて装甲砲塔に主砲を搭載するなど、当時の最新式の装備を満載していた。(富士級については、本稿の第五回にて既述)

(12,533t 18ノット)(96mm in 1:1250)

 

春日 (装甲巡洋艦) - Wikipedia   armored cruiser Kasuga(1904-1945)

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春日級装甲巡洋艦は、六六艦隊計画完成後に、既述のように、開戦直前にアルゼンチンから購入したイタリア製のジュゼッペ・ガリバルディ級装甲巡洋艦のうちの2隻である。六六艦隊計画では、搭載砲の口径統一が行われたが、六六艦隊計画に属さない「春日」のみは、前部主砲に40口径25.4センチ砲を採用している。この砲は、連合艦隊の艦載砲の中で最も射程が長く、旅順要塞の要塞砲の射程外から港内に砲撃が可能であった。日本海軍は旅順沖で機雷により喪失した戦艦「初瀬」「八島」の代わりに、この春日級装甲巡洋艦を第一艦隊、第一戦隊に編入した。(7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250)

 

日進 (装甲巡洋艦) - Wikipediaarmored cruiser Nisshin(1904-1935)

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「春日」同様、開戦直前にアルゼンチンから購入されたイタリア製装甲巡洋艦である。「春日」と異なり、「日進」の主砲は、前・後部共に、45口径20.3センチ連装砲である。「春日」の項に記載した通り、本艦も「春日」と共に、第一戦隊(戦艦戦隊)に編入された。このため、主要な海戦においては敵艦隊の主軸艦からの砲撃を引き受けることになり、第一戦隊の他艦以上の苦労があった。(7,700t 20ノット)(87mm in 1:1250)

 

浅間 (装甲巡洋艦) - Wikipediaarmored cruiser Asama(1899-1945)

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イギリス アームストロング社製。浅間級装甲巡洋艦ネームシップである。他の設計段階からの発注形式の艦と異なり、既製艦を購入したため、購入時は六六艦隊計画最終期でありながら、就役は最も早い艦となった。

武装は六六艦隊計画の基本通り、統一口径を採用しており、45口径20.3センチ連装砲を前後に、副砲として15.2センチ速射砲を装備している。 (9,700t 21.5ノット)(98mm in 1:1250)

 

八雲 (装甲巡洋艦) - Wikipedia   armored cruiser Jakumo(1900-1945)

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 六六艦隊計画の中で、唯一、ドイツに発注された。砲装備などは、六六艦隊計画に添い、45口径20.3センチ主砲、15.2センチ副砲で統一されているが、同じ3本煙突ながら、イギリス製の出雲級と比べ、やや重厚な艦容であるように思える。

(9,695t 20.5ノット)(99mm in 1:1250)

 

海戦経緯:史上初の近代戦艦同士の海戦

ほぼ同一規模のいずれも近代戦艦を主戦力とした艦隊が、史上初の海戦を行おうとしている。

が、両艦隊の目的は、全くと言っていいほど異なっていた。

繰り返しになるが、ロシア艦隊の旅順出港の目的は、艦隊温存のためのウラジオストックへの移動・脱出であった。

一方、日本艦隊のこの一戦での目的は艦隊決戦しかない。

旅順要塞という厚い甲羅の中で生き続けるだけで、旅順艦隊は日本を敗北させる可能性を、濃厚に持っている。これを封じ込め無力化、あるいは撃滅すべく、水雷夜襲、閉塞作戦、挑発と港外の誘導、と色々と手を繰り出してきたが、いずれも不調であった。一方で、要塞内に艦隊が存在する限り、海軍は満州への兵站確保への責任から警備の艦艇を出さねばならず、兵も艦もやがて疲弊し、来るべき艦隊決戦の際にその力を発揮できないかもしれない。現にウラジオストックのロシア装甲巡洋艦艦隊の出没に、兵站線の一部は脅かされ、第二艦隊はその対応に右往左往の状態であった。

そのような状況の打開に苦慮していた時に、旅順艦隊が自らようやく出てきた。この待ち望んだ機会を大切にし、この一戦で旅順艦隊を撃滅しなければ、戦争全体の敗北が決定するかもしれない、という危機感に基づいて、連合艦隊は行動した。

さらに、自らを上回る強力な戦力を持つロシア艦隊が、自軍同様に決戦を意図しない出撃をするとは、おそらく想像していなかったかもしれない。そのために実は逃走を意図する敵を前に、その旅順への帰途を絶とうと、ロシア艦隊の背後に回り込む艦隊運動を行なった。

当然、ロシア艦隊はこれを僥倖として、日本艦隊をかわしウラジオストックへの逃走運動を継続する。

戦場では、強力な戦力を有する艦隊が、劣勢な艦隊から逃げる、という、不思議な現象が生じている。退路を断とうとする艦隊運動のために、日本艦隊は大きく後落し、両艦隊の距離が、一旦、開いてゆく。

日本艦隊にすれば、ようやくロシア艦隊の出撃の真意が、ウラジオストックへの逃走にあることに気付いた時に、本当に苦しい戦いが始まったであろう。ウラジオストックにこの艦隊が逃げ込んだ瞬間、おそらく日本の敗北が決定するのである。

 

一方、逃走を目論むウィトゲフトにも事情がある。

6隻の彼の戦艦のうち、ペトロパブロフスク級の2隻、セヴァストポリとポルタワの石炭搭載量が少なく、すなわち航続距離が短いのである。旅順からウラジオストックまでの距離は約1000浬であった。実はロシアは、開戦前からこの二つの海軍拠点の距離を気にしていた節がある。開戦直前の日露間の交渉で、ロシアは朝鮮の北半分の中立化を提案し、ここにもう一つ中継地を作ろうと企図している。一方、上記のぺトロパブロフスク級の両戦艦の航続距離は10ノットの速度で3500浬で、これを14ノットの戦闘速力とした場合には、ウラジオストックに辿り着くのがやっと、という計算になる。そのため複雑な艦隊行動などは取れなかった。

この両艦は、既述のように本国、サンクトペテルブルクの造船所で建造された。航続距離への要求事項と、バルト海の奥に位置する造船所には関係があるように思われる。上記の航続距離は、バルト海をその行動領域と考える場合には、十分なものであろう。

さらに折悪しく、数日前の海軍陸戦重砲隊の砲撃で、二番艦のレトヴィザンの舷側に命中弾があり、応急処置を施した箇所周辺から12ノット以上の速力を出すと浸水が発生した。この事が旅順艦隊の逃走速度を決めた。

逃げる側も、機動と速力の選択の自由が狭められていた。

あるいは、ウィトゲフトは彼が率いる艦隊から上記の3隻を除くべきだったかもしれない。そうすれば、ウラジオストックでの戦力保持は部分的に実現出来た可能性が濃厚である。が、一方で、その場合には、本国艦隊と合流して圧倒的な戦力で決戦を行う、という目的に対し、齟齬を生じるリスクがあり、その事に彼は責任を負わねばならない。ウィトゲフトもまた、苦しい決断を迫られた上での出撃であった。

 

正午ごろに始まった追跡戦は、ようやく日没直前に終わりを告げる。日本艦隊はようやく追いつき、両艦隊は並走し、約6000メートルの距離で砲戦を開始した。いずれも常識として縦列先頭の艦、それぞれの旗艦、ツェザレヴィッチと三笠がねらわれた。

その砲戦で、ツェザレヴィッチの艦橋に2発の砲弾が命中し、ウィトゲフトの命を奪い、かつ旗艦の操舵能力を一時的に奪った。このため旗艦は左へ急回頭し、縦列がそれに続こうとして混乱した。旗艦の異変に気づき、ペレスヴェートに座乗する副将が隊列を立て直そうとしたが、日没が訪れ、ロシア艦隊はウラジオストックへの移動の意図を諦め、旅順へ帰投した。

 

東郷は、自ら率いる主力艦部隊も、多くが敵の砲撃で損傷し、かつ以降は夜戦となるため、不測の事態で主力艦艇にこれ以上の喪失が出ることを恐れた。このため、この帰投阻止を指揮下の水雷艇部隊に委ねたが、帰投を阻むことはできなかった。

結局、6隻の戦艦のうち5隻が旅順に帰投し、旗艦のみ、ドイツ領の膠州湾へ逃げ込み、そこで拘留、武装解除された。

 

結局、一隻の敵艦も撃沈できず、また要塞の修理施設の不備を知るよしもない連合艦隊は、これまで通りの消耗のつづく旅順警備活動を、陸軍による旅順要塞攻略まで、継続せねばならなかった。

 

その後の旅順艦隊

ツェザレヴィッチを除いて5隻の戦艦は、旅順に戻ったものの、その損傷を修復する能力は旅順にはなく、砲と兵員を陸揚げするなどして、要塞攻防戦を戦った。いずれの艦も、再び出撃する機会は訪れなかった。結果、旅順艦隊はこの一戦で、洋上兵力としての存在を失うことになった。

海戦後の、各主力艦のその後は以下の通りである。

ツェザレヴィッチ:黄海海戦後は、損傷のため戦艦の中で唯一旅順に戻れず、ドイツの租借地であった膠州湾に逃げ込み、戦争終結までドイツに拘留され、武装解除された。戦争終結後、ロシアに返還され、バルト艦隊所属となった。

レトヴィザン:海戦後旅順に戻り、陸上からの28センチ榴弾砲により大破着底。要塞降伏後、日本海軍によって引き上げられ、日本海軍に「肥前」として編入された。

ペレスヴェート、ポペーダ:両艦共、レトヴィザンと同様、旅順に戻ったのち日本軍の砲撃で大破着底。要塞陥落後、引き上げられ「相模」「周防」として日本海軍に編入されている。ペレスヴェートのみ、第一次大戦開戦後(1916)、ロシア海軍に買い戻され艦隊に編入された。

ポルタワ:海戦後損傷し旅順に戻った。その後、ポルタワはレトヴィザン等と同様、日本軍の砲撃で大破着底。要塞陥落後、引き上げられ日本海軍に戦艦「丹後」として編入されている。

セヴァストポリセヴァストポリのみは、28センチ榴弾砲の死角にあったため、射撃による損害は免れたものの、遂には水雷攻撃で損傷する。損傷はありながらも旅順艦隊の戦艦の中で最後まで健在で、旅順開城の日に日本軍による接収を避けるために、湾外まで移動して自沈した。

 

黄海海戦の残したもの

期せずして、この戦いは近代戦艦を中心とした艦隊同士の、史上初の海戦となった。

海戦の戦訓は、イギリスで、ある革命的な戦艦を誕生させる基礎となる。

黄海海戦では、距離約 6000メートルでの本格的な砲戦になる前に、すでに10000メートル以上の距離から砲戦が始まっていた。また射撃法の視点でも、日本海軍では六六艦隊計画による同一口径砲の導入と、それまでの独立打ち方から、艦橋から一元的に距離と方位を指示するという「斉射」に近い射撃方法に変更していた。

イギリスでは、砲戦距離のさらなる伸長を予測した場合、多数の同一口径砲が同一のデータを元にした照準で同時に弾丸を発射し、着弾の水柱を見ながら照準を修正してゆく『斉射』の有効性が認識され、この思想が、第一海軍卿に就任したジョン・アーバスノット・フィッシャー提督により、『長距離砲戦に圧倒的に優位な』戦艦「ドレッドノート」として具現化されてゆくことになる。ちなみに黄海海戦は1904年8月10日に起こり、ドレッドノートの起工は1905年10月2日である。

ドレッドノート (戦艦) - Wikipedia  battleship Dreadnought (1906-1919)

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(18,110t  21knot) (126mm in 1:1250)

ドレッドノートについては、また詳述する機会もあるかと思うが、あまりに著名な戦艦であるため、ここでも軽く紹介しておく。(下の写真は、「三笠」との比較/ 三笠:15,140t 18 knot)(99mm in 1:1250)

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 上掲の「ドレッドノート 」と「三笠」の対比を、簡単にまとめると、「ドレッドノート 」は「三笠」に対しわずかに約2割ほど大きな船体を持ち、これにに3ノットの優速を発揮する機関を搭載していた。正正面・正後方に向けては3倍の火力を、舷側方向に対しては2倍の砲力を指向することができた。

 

蔚山沖海戦

既述の通り、ウラジオストックを拠点とするロシア太平洋艦隊の3隻の装甲巡洋艦は、日本海で通商破壊戦を展開し、大きな成果を収めていた。

この阻止に当たったのが、日本海軍第二艦隊、第二戦隊の六六艦隊計画で揃えられた装甲巡洋艦群であった。しかしながら、第二戦隊は、神出鬼没のウラジオストック艦隊を捕捉できず、翻弄され続け、その損害に、世論は第二戦隊とそれを率いる司令官上村中将を責めた。

蔚山沖海戦は、黄海海戦の旅順戦艦部隊のウラジオストック移動を支援することを目的として出撃したウラジオストック艦隊と、この第二戦隊の間で行われた。

いずれも、装甲巡洋艦を中心とした艦隊であったが、装甲巡洋艦の名称こそ同じながら、その設計目的が異なる系譜に属する 艦隊同士の戦いであった。

上記のように黄海海戦が史上初のほぼ同等の近代戦艦同士の砲戦であったのに対し、ここではやや設計世代と設計思想の異なる装甲巡洋艦同士の戦いが発生した。

 

ロシア・ウラジオストック艦隊

グロモボーイ (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Gromoboi(1900-1922)

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 (12,359t 20ノット)(118mm in 1:1250)

Russian cruiser Rossia - Wikipedia(1896-1922)

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 (12,195t 19ノット)(118mm in 1:1250)

リューリク (装甲巡洋艦・初代) - Wikipedia  armored cruiser Rurik(1895-1904)

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 (11,960t 18ノット)(105mm in 1:1250)

この3隻の登場は、航洋性と重武装・重装甲は両立しないとされてきた常識を覆した、という意味で非常に重要な系譜に属する艦である。前述の繰り返しになるが、巡洋艦の重要な任務に通商破壊がある。このためには航洋性能と、航続距離、速力が必要となるが、この目的には、防護巡洋艦が最適とされ量産された。

防護巡洋艦は艦内に貼られた防護甲板で機関部等重要設備を防護する構造で、舷側装甲を持たない。この防護巡洋艦の系譜に、十分な舷側装甲を持たせるという命題に挑戦した一つの解、がこの系譜であると言って良いであろう。

このシリーズの登場により、特に仏・英では、巡洋艦設計の見直しが行われた。

いずれも、11,000tから12,000tを超える巨体に強力な機関を有し(あるいは、強力な機関を搭載するが故に巨体になった、というべきか)、18から20ノットの速力を出した。20センチ級の主砲4門と、多数の15センチ級の砲を、舷側に装備した。航続距離は10ノットの速力で6500から8000浬に及んだ。

 

日露開戦にあたっては、いずれも太平洋艦隊に所属し、旅順の戦艦部隊とは別に、ウラジオストックを拠点として、緒戦から主として日本海における通商破壊戦を展開し、大きな成果をあげた。

 

1904年8月10日、上記の黄海海戦にあたり、旅順の戦艦部隊のウラジオストックへの移動を支援する任務が、ウラジオストック艦隊に下命され、11日、イェッセン少将指揮のもと3隻の装甲巡洋艦は出撃した。黄海海戦は、すでに10日中には決着がついており、実はこの出撃は本来の目的から見れば既に無意味と言えるのだが、当時の通報事情では、これを知ることはできなかった。

 

日本艦隊との遭遇

 旅順戦艦部隊との会合を求めて、ウラジオストック艦隊は南下を続けた。これに黄海海戦後に旅順に戻らなかったとみられる巡洋艦の捜索を行っていた、上村中将の率いる第二戦隊が遭遇した。

出雲型装甲巡洋艦 - Wikipedia  armored cruiser Izumo class

出雲(1900-1945)

磐手(1901-1945)

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(9,750t 20.3knot)(100mm in 1:1250)

いずれもイギリス アームストロング社製。六六艦隊計画に沿って建造された艦で、この6隻は、全て45口径20.3センチ連装砲を2基を主砲とし、40口径15.2センチ速射砲を副砲としていた。

 

常磐 (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Tokiwa(1899-1945)

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(9,700t 21.5knot)(98mm in 1:1250)

六六艦隊計画に沿って建造された浅間級装甲巡洋艦の二番艦。イギリス アームストロング社製である。兵装等の装備は他艦と同様である。

 

吾妻 (装甲巡洋艦) - Wikipedia  armored cruiser Azuma(1900-1945)

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 (9,326t 20knot)(106mm in 1:1250)

六六艦隊の中で唯一フランスで生まれた艦である。兵装等は他の装甲巡洋艦と統一されていた。

 

日本艦隊を構成する4隻の装甲巡洋艦は、全て同一の兵装とほぼ同じ速度を持ち、一単位として行動することを前提として設計されていた。いわば、主力戦艦部隊を支援する「ミニ戦艦」として艦隊決戦に参加する事を前提に建造された「戦闘艦艇」であったと言っていい。同一口径で兵装を統一できたが故に、射撃法も遠距離での命中率を高めるような、後の「斉射」に近いような方法が工夫されていた。

以前にも「防護巡洋艦」の説明の際に触れたことがあるが、日本海軍は、列強海軍と異なり、「通商破壊」についての理解が浅い。これはおそらく遠隔地に植民地を持たない、つまり守るべき長大な通商路を持たないことと、そもそもその国家、海軍の成立過程で、外圧の排除に重心が大きく偏っていたことによると思われるが、このことは特に巡洋艦の設計には色濃く影響を与えている。列強が巡洋艦の主要任務として通商破壊、もしくは通商路の確保を大きく取り上げ、したがって、航続力、長期の居住性を含んだ航洋性能を重視するのに対し、日本海軍は、常に艦隊決戦を意識する。

時代が下って、条約型重巡洋艦の時代、日本は「足柄級」を就役させるが、英海軍の同時代の「ケント級」と比較され「飢えた狼」と表現された。日本人はこれを戦闘力への高い評価と受け取ったが、同時に居住性の欠如への揶揄を含んでいたという。これもまた、巡洋艦の設計思想の違いを示す好例であると考える。

 

この海戦は、そのように通商破壊任務を主目的とする航洋型軍艦の発展形として、重防御と重兵装を持たせた「装甲巡洋艦」と、戦艦と同様の艦隊決戦を目的とし、航洋性を兼ね備えた「ミニ戦艦・補助戦艦」としての「装甲巡洋艦」の対決であった。

 

両者は8月14日、ほぼ同時に相手を発見する。

ロシア巡洋艦隊は、通商破壊艦の習いとして、有力な敵からの離脱を一旦試みるが、これまで、この捕捉のために苦杯を舐め続けてきた上村の巡洋艦隊がこの機会に食らいついた。

砲戦は主砲を砲塔に装備した日本艦隊が全主砲を敵に指向できるのに対し、主砲を舷側装備するロシア巡洋艦隊は、その半分しか主砲を日本艦隊に指向できなかった。射撃法の差異もその命中率に現れ、砲戦の結果、リューリクが失われ、ロシアとグロモボイが主にその上部構造を破壊され戦闘に支障をきたし、海戦二日後にウラジオストックに帰還した。

その後、両艦は損傷を修復したが、以後、活発な出撃は行わなかった。

 

以降、いわゆる上記の「ロシア型」の装甲巡洋艦は影を潜めるが、その潜在ニーズがなくなったわけではなく、やがて重巡洋艦軽巡洋艦として、再び姿を表してくる。一方「日本型」の装甲巡洋艦は、戦闘力、すなわち主砲口径の拡大の方向へ 発展を遂げる。そしてこの方向は、ドレッドノートの時代における巡洋戦艦へと結実し、いずれにせよまもなく装甲巡洋艦の時代は終わりを告げる。

 

 黄海海戦蔚山沖海戦を見てきたが、こうして改めて整理すると、特に黄海海戦は、その一見地味な、おそらく作戦当事者としては不本意な戦果とは裏腹に、日露戦争の帰趨を決定した重要な海戦だったと言える。日本海軍は誠に残念ながら気がつくことはなかったが、この海戦の結果、ロシア太平洋艦隊は戦力としては消えてしまった。

この艦隊と合流することを前提に大回航されるバルティック艦隊は、その目的と勝利への論理を失ってしまった。冷静に考えれば、極東への回航そのものを中止すべきであった。

が、彼らはやってくる。

 

併せて、主力艦開発が次の段階に移行したことも、本稿で明確になった。

1894年日清戦争、1904年日露戦争、そして1914年第一次世界大戦開戦。近代戦艦、装甲巡洋艦の時代が終わり、弩級艦、弩級巡洋戦艦の時代が始まろうとしている。

 

次回は日本海海戦を簡単に。

 

模型についての質問はお気軽にどうぞ。あるいは質問をするにせよ、情報が十分でない、「こういう情報が欲しい」などのご意見も、ぜひ、お願いします

 


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第6回 日露開戦 旅順口を巡る戦い

日露間に戦端が開かれた。

同時に、日本海軍は、旅順にあるロシア太平洋艦隊に対し、攻撃を開始した。

当時の日本海軍は六六艦隊計画を完成させ、すなわち戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻を基幹に艦隊を構成していた。

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6隻の戦艦(三笠:左上、朝日:右上、敷島級の2隻:敷島、初瀬 左右中段、富士級の2隻:富士、八島 左右下段)

f:id:fw688i:20180924120229j:plain6隻の装甲巡洋艦(八雲:左上、吾妻:右上、出雲級の2隻:出雲、磐手 左右中段、浅間級の2隻:浅間、常磐 左右下段)

 

一方、ロシア海軍は、旅順、ウラジオストックという二大拠点に、戦艦7隻、装甲巡洋艦4隻を主力として展開し、これを「太平洋艦隊」と呼称した。このうち、戦艦7隻は全て旅順にあった。

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ロシア太平洋艦隊の7隻の戦艦(ツェザレヴィッチ:左上、レトヴィザン:左中、ペトロパブロフスク級:ペトロパブロフスク、セヴァストポリ、ポルタワ 左下、右3段目、右下、ペレスヴェート級:ぺレスヴェート、ポペーダ 右上、右2段目)

f:id:fw688i:20180924122141j:plainウラジオストック艦隊の3隻の装甲巡洋艦(グロモボイ:上段、ロシア:左下、リューリック:右下)

 

水雷夜襲と湾口閉塞

旅順は朝鮮半島の西隣、遼東半島の先端に位置している。日清戦争後の下関条約で、遼東半島は日本に割譲された。が、三国干渉により日本の領有権を放棄させたロシアは、露清密約により、満洲での鉄道敷設とその管理権、さらに遼東半島の租借権を得て、事実上、満洲をその勢力下に置くことに成功した。半島先端の旅順、大連はいずれも、ロシア念願の不凍港であり、ここに巨大な艦隊をおくとともに、それを守るべく近代的な要塞を築いた。

日露開戦に当たり、満州南部を予定戦場と想定する日本にとって、遼東半島への補給線の確保はその兵站上、必須であり、そこにほぼ日本海軍に匹敵する規模の主力艦を有する艦隊が基地を置いていることは、それだけで重大な脅威であった。ただでさえ貧しい兵站に、時間と労力のかかる迂回路を設けなどすれば、満洲に展開する陸軍主力はいずれ干上がってしまう。海軍も、その艦隊の出撃を警戒し、常に洋上にその主力を待機させねばならず、兵員も艦も疲労し、遂には肝心の決戦時に本来の力が発揮できない恐れがあった。

この為、旅順の艦隊への対応は急務であり、日本海軍は開戦劈頭、これに水雷夜襲と湾口閉塞、という二方向の作戦で挑んだ。

 

水雷夜襲は、駆逐艦水雷艇をこの実施に当てた。

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 写真は当時の駆逐艦「白雲 」である。(52mm in 1:1250) 

イギリス、ソニークロフト社製、322トン、7.6センチ砲✖️1、5.7センチ砲✖️5、魚雷発射管✖️2、31ノットという当時としては標準的な装備である。「白雲」は旅順口への第一次攻撃に、第一駆逐隊の司令艦として参加している。

白雲型駆逐艦 - Wikipedia(Shirakumo class: destroyer)

 

 

水雷夜襲には、多くの水雷艇も参加した。水雷艇は、駆逐艦よりも小さく50t-150t程度の艦体を持ち、砲1-3門と魚雷発射管1-3門を装備している。直上写真の右下段に、戦艦三笠、駆逐艦白雲、水雷艇の大きさを比較した。写真は比較的大型の水雷艇で、多くはもう少し小さい。

この時期の魚雷は、決して信頼性の高い兵器ではなかった。その多くは圧搾空気でスクリューを回す構造で、射程距離は最長でも3000メートル程度だった。戦闘で軍艦を標的に用いるには、300-500メートル程度に接近する必要があった。

水雷夜襲は、駆逐艦水雷艇が、その高速を活かし、夜陰に紛れ、旅順港に飛び込み、停泊中の敵艦に肉迫し魚雷を放つ、というものだったが、初回こそ奇襲となった為、数発の命中を得たが、その後は当然ながら要塞側の警戒も強化され、目立った戦果を挙げる事ができなかった。

 

一方で、湾口の閉塞作戦も並行して進められた。旅順港は外港と内港の間に狭い通路がある。ロシア艦隊は主として内港に停泊した為、この通路を塞ぎ、ロシア艦隊を封じ込めて無力化しよう、というのがこの作戦の狙いであった。この閉塞に当たって、1898年の米西戦争でのサンチャゴ湾封鎖作戦が先例として取り上げられた。

 

閉塞作戦の先例:サンチャゴ湾閉塞作戦(米西戦争:1898)

米西戦争でのサンチャゴ湾封鎖作戦では、要塞に防護されたサンチャゴ湾に入港した装甲巡洋艦4隻を基幹とするスペイン大西洋艦隊を、アメリカ大西洋艦隊が、湾口に古い汽船を沈めて閉じ込めようとした。しかし、この閉塞船の侵入に気づいた要塞からの砲撃で、予定通りの位置には汽船を沈めることができず、結局、閉塞作戦は失敗した。

軍事技術、戦術は戦争の都度、大きく変化、発達する。そのため、どの戦争にも多くの観戦武官が派遣され、技術、戦術を研究した。米西戦争もその例外ではなく、各国は武官を競って戦場に送り込んだ。日本海軍は折からアメリカ留学中の秋山真之ら、数名を派遣した。

 

以降は、本稿からは全くの余談になるが、その後、脱出を試みたスペイン艦隊を、閉鎖警備中のアメリカ艦隊が捕捉し、装甲巡洋艦4隻は全て失われるという海戦が発生する。紹介できる模型もあるので、おそれず少し寄り道をしよう。

サンチャゴ・デ・キューバ海戦 - Wikipedia

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写真は、スペインの装甲巡洋艦「インファンタ・マリア・テレジア」(Armored Croiseur Infanta Maria Teresa class)である。スペイン初の国産装甲巡洋艦で、サンチャゴ湾に入港した大西洋艦隊主力の4隻の装甲巡洋艦のうち3隻が同級であった。28センチを前後に単装露砲塔に装備し、6890t、20ノットを発揮した。(「インファンタ・マリア・テレジア」「ビスカヤ」「アルミランテ・オケンドー」)(84mm in 1:1250)

インファンタ・マリア・テレサ級装甲巡洋艦 - Wikipedia(infanta Maria Teresia class :armored cruiser)

 

 

もう一隻は「クリストバール・コロン(Cristóbal Colón)である。イタリア製の装甲巡洋艦で、ジュゼッペ・ガリバルディ級の1隻を建造中に取得したものである。同じく日本海軍がアルゼンチンから購入した「日進」「春日」とは準同型艦にあたる。

**写真は日本海軍の装甲巡洋艦「春日」である。日本の装甲巡洋艦は20センチ連装砲を艦の前後にその主砲として装備する事を標準としたが、「春日」のみ、前部の主砲を25.4センチ単装砲とした。「クリストバール・コロン」は24センチ単装砲を、その主砲として前後に装備した。(春日:89mm in 1:1250)

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クリストーバル・コロン (装甲巡洋艦) - Wikipedia

 

これに対するアメリカ海軍は、以下の艦で構成されていた。

テキサス (1892) - Wikipedia

(No photo)

 

インディアナ級戦艦 - Wikipedia の2隻「インディアナ」「オレゴン」(83mm in 1:1250)

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アメリカ海軍初の近代戦艦。乾舷が低く、外洋での運用には少し難があった。(同型艦3)

アイオワ (BB-4) - Wikipedia (85mm in 1:1250)

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艦首側の乾舷を一段上げ、インディアナ級の外洋での凌波性を改善した。(同型艦はない)

ブルックリン (装甲巡洋艦) - Wikipedia (99mm in 1:1250)

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9000トン、20ノット。20センチ連装砲を4基装備し、片舷に6門の主砲を指向できた。(同型艦はない)

「テキサス」を除けば、比較的艦齢の若い船が多かった。

 

スペイン艦隊は戦力の劣勢は否めないとしながらも、アメリカ艦隊が戦艦中心で、先頭の旗艦「インファンタ・マリア・テレジア」が損害を引き受けている間に、他の艦は優速を利用すれば、追求できる艦は「ブルックリン」のみとなる為、逃げ切る可能性がある、として脱出に踏み切った。

しかし、射撃法も含めた砲力の差は埋めがたく、装甲巡洋艦全艦が失われた。

 

さらに余談を続けると、秋山のこのアメリカ留学の成果として兵棋演習の導入があると言われている。

兵棋演習とは、例えば海軍の場合は、大きな予定戦場を模した海図の上に、それぞれの艦隊、保有艦を並べ、起こるべき戦闘を想定するもので、そこでは実際の軍艦の持つ速力、砲の威力が再現され、演習に参加するものは、それぞれの艦の運動、戦闘を指揮する。

ここで用いられた駒が、今、紹介している艦船模型の原点と言えるであろう。

 

再び、旅順口の攻防

旅順口での戦闘に話を戻す。

旅順口でも、日本海軍はサンチャゴ閉塞作戦に習い、古い汽船を水路に沈めることを目論んだ。これも夜陰に乗じるとはいえ、要塞砲台のいわば真下での作戦であり、数次にわたる試みにも関わらず、結果的には成功しなかった。

1度目の閉塞作戦(1904/2/18)ののち、太平洋艦隊司令長官にマカロフ提督が着任する。(1904/3/6) 

マカロフはその当時、世界的な名将として知られており、彼の着任はロシア艦隊の士気を高めた。以降、旅順口への日本艦隊の攻撃に対し、ロシア艦隊は積極的な反撃運動を行うようになる。時にマカロフ自身が艦隊を率いて、旅順港沖合の日本艦隊を追い払う事もあり、その積極性は、水兵たちに人気があった。

3月27日に実施された第二回閉塞作戦の失敗ののち(広瀬武夫中佐はこの作戦で戦死した)、日本海軍は、この積極的に反応するようになったロシア艦隊の変化を利用する作戦を旅順口作戦に盛り込んだ。秘密裡に湾外に機雷を敷設するとともに、湾外を行動する小艦隊による挑発を実施し、積極反応するようになったロシア艦隊の主力を港外に誘導し、それを日本艦隊主力が捕捉する、という作戦である。

 

そして、ロシア艦隊にとっては運命の4月13日、4隻の防護巡洋艦を基幹に編成された日本の第3戦隊の挑発に、マカロフ自らが旗艦ペトロパブロフスク以下、戦艦2、巡洋艦3を率いて出撃した。出撃後、待ち受ける日本主力艦隊を認めたマカロフは、追撃を中止し、旅順へ戻るコースを取った。

その帰途、数日前から並行して敷設されていた機雷に旗艦「ペトロパブロフスク」、および戦艦「ポペーダ」が触雷、旗艦は轟沈しマカロフも艦と運命を共にした。

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ペトロパブロフスク級戦艦 - Wikipedia

写真はペトロパブロフスク級戦艦。日本海軍が30センチ砲装備の富士級戦艦を建造中との情報に刺激され、3隻がサンクトペテルブルクで建造された。3隻、すべて旅順の太平洋艦隊に配備された。ロシア海軍初のいわゆる近代戦艦で、列強の水準を満たし、ロシアの造船技術の高さを示した。(97mm in 1:1250)

 

マカロフの戦死後、ロシア艦隊は積極的な反撃を行わなくなる。

一方で、マカロフの後任であるウィトゲフト少将も機雷作戦の展開を指示、旅順口の日本の監視艦隊の航路に機雷を敷設する。

 

そして今度は日本海軍にとって、災厄の5 月15日、哨戒任務中の戦艦「初瀬」「八島」の2隻がほぼ同時に触雷、瞬時に日本艦隊はその主力艦の三分の一を失った。

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初瀬 (戦艦) - Wikipedia (Hatsuse: battle ship 1901-1905)

敷島級戦艦の3番艦。イギリス、アームストロング社エルジック造船所で建造された。前級の富士級に比べ、艦型は一回り大きくなり、就役当時は「世界最大の戦艦」と言われた。。敷島級4隻の中でも、本艦と「敷島」のみ、3本煙突である。富士級では、主砲装填には前後それぞれ中心線に砲塔を戻す必要があったが、本級からは、どの位置でも装填が可能な機構が採用され、射撃速度、照準に著しい改善を得た。(100mm in 1:1250)

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八島 (戦艦) - Wikipedia(Yashima: battle ship 1897-1904) (97mm in 1:1250)

富士級戦艦の2番艦。(富士級については第五回を参照されたい)

「初瀬」「八島」喪失の同日、同じく旅順沖を哨戒中の巡洋艦「吉野」が濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没した。まさに「魔の5月15日」であった。

 

開戦以来3ヶ月、日本海軍は旅順艦隊を旅順港外において撃滅する、あるいは旅順港に封じ込め事実上無力化する、という方針の下、作戦行動を行ってきたが、成果が上がらぬまま、日本がその国運を賭けて整備した六六艦隊の一角が崩れ、保有する戦艦は4隻となった。一方、ロシア太平洋艦隊は名将マカロフを失いながら、依然、6隻の戦艦を旅順に保有している。

併せて、陸軍は、当初その作戦構想には旅順要塞の攻略はなく、せいぜい封じ込めの兵力を配置する、という程度の対応が考慮されていた。海軍もその方針に異論はなく、艦隊さえ撃滅できれば、必ずしも要塞攻略は必須ではない、としていた。その背景には、日清戦争時の旅順要塞の攻略がわずか一日で完了した経験があり、もし必要になれば「多少手こずる」程度で攻略が完了する、という認識があったと思われる。が、開戦後、満洲に展開していたロシア陸軍の三分の一に当たる、約45,000の兵が要塞に立て籠もるという状況に、その認識を改めざるを得なくなった。

陸軍主力は、4月以降、満州に展開していたロシア軍と本格的な戦闘に入り、緒戦には予定通りの勝利を収めた。今後、満州を北上し次の会戦に臨むことになるが、その背後に想定以上の大きな兵力が不気味に残置されているのである。

一方、5月20日には、ロシアの本国艦隊(バルチック艦隊)を第二太平洋艦隊として、極東に回航することがほぼ決定された。この艦隊は、少なくとも新式の戦艦を5隻含み、これが旅順艦隊に合流した場合、日本海軍の勝利はおぼつかなくなる。陸軍は補給を脅かされ、満州で立ち枯れざるを得ないであろう。

ここにきて、旅順要塞攻略の必要性が浮上し、これを主任務とする第三軍を編成し、背後の脅威を取り除くことになった。第三軍は乃木希典を軍司令官とし、6月末までには、旅順要塞外縁に展開した。

これに伴い、8月には海軍陸戦重砲隊も旅順港内に向けて砲撃を開始し、停泊中の艦船に損害を与えた。

以降、旅順要塞は日本陸軍第三軍に対し、それまで日本人が全く経験したことのないような凄惨な出血を強いるのだが、それは本稿の主題ではない。

 

一方、ロシア側にもいくつかの事情があった。実は、旅順要塞は、いくつかの重大な課題を抱えていた。その多くは戦争への準備不足に起因するが、その背景には、「自分が望まない限り戦争にはならない」という皇帝ニコライ二世の言葉に代表されるような、「開戦への主導権はロシアが握っている」という認識があったと思われる。

その課題とは、まず、海軍基地でありながら、艦船修理施設が十分でなく、戦闘で重大な損傷を受けた場合には、旅順では対応できなかった。

また、上記の海軍重砲隊による射撃で艦船が損傷する、というようなことは、要塞に十分な領域が確保されていないことを意味していると考えざるを得ない。

これらが、要塞構築が未だ途上にあったことによるものか、或いは、兵器の発達への対応の遅れによるものか、定かではないが、いずれも、艦隊を常に完璧な状態で維持する海軍基地、およびそれを防御する硬い殻であるべき要塞としては、致命的な基本要件における欠陥のように思える。さらに、この状況を認識しつつ、ここに最新式の艦隊をおいたとすれば、ロシアは、本当に戦争になるとは考えていなかったのではないかと思えてくる。平時、ここに強力な艦隊を置き周囲に陸軍を配置し示威すれば、周囲は萎縮しおおかたの要求を通すことができるであろう。足りないものを整備する機会はいくらでもある、そのような見通しの元に、旅順という地は扱われたのではなかろうか。

 

が、戦端は開かれてしまった。本国から強力な艦隊が、もうワンセット送られてくる。これを迎え入れ日本海軍を圧倒するためには、現有艦隊を本国艦隊到着まで温存することが得策であるが、現在の根拠地には、本来備えているべきそれを保証する能力がない。

 

いよいよロシア艦隊は、旅順を出ねばならない。

黄海海戦の戦機が熟そうとしている。

 

次回は黄海海戦

 

模型についての質問はお気軽に、どうぞ。

 


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第5回 近代戦艦の導入「富士級」建造と六六艦隊計画、その周辺

初の近代的戦艦  富士級:Fuji class :battle ship (富士:1897-1945/八島:1897-1905)

少し時間をさかのぼることになるが、日清開戦が濃厚に予感される時期、当面の仮想敵である清国北洋艦隊は、ドイツ製の定遠級戦艦(甲鉄砲塔艦)2隻をその主力として就役させた。日本海軍は三景艦(松島・厳島・橋立)を建造し、これに対抗しようとしたが、いずれも装甲を持たない防護巡洋艦であり、劣勢は明らかであった。

この為、当時、イギリスで登場した本格的な航洋性を備えた近代戦艦の導入が計画された。しかしこの計画は、その急務であることは理解されながらも、数年の間、予算の問題から実現に至らなかった。ようやく1894年、勅命による宮廷費の削減、公務員の給与一部返納などの非常手段により、建造にこぎつけた。富士級の二隻は、そのようにして建造された。その無理にも関わらず、就役は、日清戦争後の1897年であった。f:id:fw688i:20180924001102j:plain

富士型戦艦 - Wikipedia

 

 富士級戦艦は、前述の通り、イギリスの「近代戦艦の始祖」と言われるロイヤル・ソブリン級戦艦を原型としている

ロイヤル・サブリン級戦艦 - Wikipedia

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ここで言う「近代戦艦」は、以下のような特徴を備えている。高い乾舷による凌波性により、大洋での航海に耐える船体に、30センチ級の主砲を連装砲塔2基に収めている(ロイヤル・ソブリン級では、主砲は30口径34.3センチ、それを連装にして露砲塔に収めていた)。船体は1万トン強、舷側に副砲を並べ、17−18ノットの速力を発揮する。これらを初めて実現したのが、原型となったイギリス戦艦「ロイヤル・ソブリン」(1892年就役)であった。以降、これらの要件はこの時期の「近代戦艦」のスタンダードとなった。1906年ドレッドノートの登場までのこの時期、世界の戦艦はほとんどがこの「近代戦艦」の系譜に属していたと言っていい。

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写真は、富士級とほぼ同時期の、ロイヤル・ソブリン級の改良型、イギリス戦艦マジェスティック級(1895-:15,900トン 17ノット)である。本級から、主砲は富士級と同じ40口径30.5センチ砲を、初めて採用した装甲砲塔に収めていた。(100mm in 1:1250)

マジェスティック級戦艦 - Wikipedia

 

富士級は、このマジェスティック級同様、そのファミリーの初期の一族、といえるだろう。

12,500トン、40口径30.5センチ砲の連装を2基の装甲砲塔に装備し、15.2センチ速射砲10門を副砲として舷側に配置、18ノット強を出すことができた。

但し、その連装砲塔には、装填時に首尾線正位置に戻す必要がある、という装填機構上の課題があった。(97mm in 1:1250)

f:id:fw688i:20180924120007j:image(富士と八島)

富士級2隻のうち、「八島」は、帝国海軍「魔の1904年5月15日」、旅順沖を哨戒中に僚艦戦艦「初瀬」と共に触雷して喪失されたが、「富士」は長命で、海防艦練習艦等を経て、最後は洋上校舎として太平洋戦争終戦の年、空襲で大破するまで現役にあり、戦後解体された。

 

下関講和条約、三国干渉、そして六六艦隊計画へ

日清戦争後の下関講和条約により、日本は遼東半島を得た。

繰り返しになるが、明治政府は、アヘン戦争以降の、清国での列強蚕食の惨状への危機感から発する維新を経て成立した。その「惰弱」な清国を依然、宗主国として「無邪気」にその影響下にあり続ける朝鮮国に、隣の半島を委ねることに、明治政府は身をよじる程の危うさを覚えた。

日清戦争は、そのように、日本の影響下での朝鮮の独立確保が主命題であったから、遼東半島の領有は、大躍進であると言えた。

にも関わらず、直後の独・仏・露による三国干渉(1895)で、この割譲は反故にされ、あろうことかその遼東半島はロシアの租借地となった。

言うまでもなくロシアは欧州列強の中で唯一、国境を極東に接している。つまり列強の中で即座に極東に陸兵を展開できる、唯一の国、ということである。日本の危機感からすれば、最もその進出を警戒すべき相手であるロシアが、そうした事態の出現を防ぐことが目的だったはずの日清戦争の結果、念願の不凍港と、南下の拠点を、朝鮮のすぐ隣に得ることになった。

当時の日本人は、自分たちの努力の結果現れたこの皮肉な事態に、呆れるばかりであったであろう。

 

上述のようにロシアの租借地遼東半島であったが、たちまち満洲を貫く鉄道を引き、鉄道警備の名目で大量の陸兵を駐屯させ、満洲全土をその影響下においた。同時にその先端の旅順港にヨーロッパ式の本格的な要塞を築きはじめ、ここをロシア太平洋艦隊の拠点とした。

折から、日本海軍は上記の経緯で、初の本格的近代戦艦「富士」「八島」を建造中であり、このことが ロシア太平洋艦隊編成を大いに刺激した。

期せずして、俄かに建艦競争が始まった。その意図はどうあれ、負の連鎖が始まる時というのは、往々にしてこういう事かもしれない。

ロシアは、手始めに3隻のいわゆる「近代戦艦」をサンクトペテルブルクの造船所で就役させ、その全てを太平洋艦隊所属とし旅順に回航した。さらにフランス、アメリカに各1隻の「近代戦艦」を発注し、これを旅順艦隊に編入、さらに艦隊装甲艦と称する一種の「快速戦艦」3隻を本国で建造し、この3隻も太平洋艦隊に配置する予定であった。(「快速戦艦」のうち二番艦「オスリャービャ」は、旅順への回航途中に日露開戦となったため、途中で本国へ引き返している。後にバルティック艦隊の一隻として、極東を目指すことになる)

これら7隻の新式戦艦は、1899年から1903年の間に、旅順で就役することになる。

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ロシア太平洋艦隊の7隻の戦艦(ツェザレヴィッチ:左上、レトヴィザン:左中、ペトロパブロフスク級:ペトロパブロフスク、セヴァストポリ、ポルタワ 左下、右3段目、右下、ペレスヴェート級:ぺレスヴェート、ポペーダ 右上、右2段目)

 

さらにウラジオストックには、3隻の装甲巡洋艦を基幹とする 艦隊がある。

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ウラジオストック艦隊の3隻の装甲巡洋艦(グロモボイ:上段、ロシア:左下、リューリック:右下)

 

このロシアの大建艦計画に対応すべく日本海軍が立案した建艦計画が、「六六艦隊計画」である。

この計画は、それまで扶桑艦など数隻の旧式艦を除き、舷側装甲を持たない防護巡洋艦以下の軍艦により編成されてきた海軍が、建造中の「富士」「八島」の2隻を含み、一気に6隻の「近代戦艦」と、それを補助するやはり6隻の「近代装甲巡洋艦」を持とうとするものだった。予算の観点から見れば、これらの艦艇の建造費だけで、1896年からの10年間の歳入の実に10%強を貪ってしまうという、当時の国力からすれば全く無謀と言ってもいい計画だった。

外圧への危機感から成立した明治という時代であるために、元来、軍事費の財政に占める比率は高い(日清開戦以前の10年間の軍事費率は24%)。とはいえ、さらに加えて、この計画も含め、ロシアの南下への備えとして、この時期、日清戦争終結後の1895年から日露開戦前年の1903年までの、歳入に占める軍事費は、実に44%にのぼった。

その是非はさておき、ともかくも、この時代の政府、海軍と国民は、この計画を日露開戦までに成し遂げた。

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6隻の戦艦(三笠:左上、朝日:右上、敷島級の2隻:敷島、初瀬 左右中段、富士級の2隻:富士、八島 左右下段)

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6隻の装甲巡洋艦(八雲:左上、吾妻:右上、出雲級の2隻:出雲、磐手 左右中段、浅間級の2隻:浅間、常磐 左右下段)

 

不幸なことに、いよいよ日露両国間に戦雲が満ちつつある。

ロシアは6個師団という兵力を満洲に展開し、艦隊はその南端の旅順に集結している。

 

次回は、日露開戦。

 

上記で示した歳入と軍事費、あるいは六六艦隊計画の予算に関わる数字は、以下を資料として、手元で概算したものです。あくまでご参考程度に。

明治から平成の歳入、歳出の年間推移

国|書院 統計資料 歴史統計 軍事費(第1期〜昭和20年)

六六艦隊計画 - Wikipedia

 


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第4回 連合艦隊結成と黄海海戦(その2)第一遊撃隊、その他

f:id:fw688i:20180917162826j:image引き続き、黄海海戦時の連合艦隊、である。

第一遊撃隊は坪井航三少将を司令官とし、吉野、高千穂、秋津洲、浪速の4隻の防護巡洋艦で編成されていた。いずれも建艦年次の新しい当時の新鋭高速艦で、軽快に機動し、中口径砲の連射、速射砲の薙射で敵艦の上部構造を破壊することが期待された。f:id:fw688i:20180917161354j:imageいずれの艦も、15センチ砲、12センチ速射砲を主要兵装とし、18ノットから23ノットの高速を誇った。(主隊の松島級は16ノット、清国主力艦定遠級は14.5ノット)

 

防護巡洋艦には「始祖」と呼ばれる艦がある。黄海海戦における連合艦隊を主題とする本稿からは少しそれるが、恐れずに寄り道をしよう。

 

最初の防護巡洋艦エスメラルダ」-Esmeralda :protected cruiser: Izumi - (1884-1912: 1894、日本海軍に売却、以降、巡洋艦「和泉」)

前稿でも述べたが、防護巡洋艦とは、舷側装甲を持たず機関等の主要部を艦内に貼られた防護甲板で防御する構造を持つ。そのために艦は軽快で、限られた出力の機関からでも高速力を得ることが出来た。通商破壊、あるいはその防止を主要任務とする各国巡洋艦に最適な構造として、この時期、各国がこぞって採用した。

その嚆矢はチリ海軍の「エスメラルダ」であるとされている。

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和泉 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 「エスメラルダ」はイギリス・アームストロング社製。前述の様にチリ海軍によって発注された。(68mm in 1;:1250)

建造時には、3000トン弱の船体に、主要兵装として25.4センチ単装砲2門を主砲、他に15センチ砲6門を装備し、18ノットの速力を出すことが出来た。日清戦争中の1895年に日本に売却され、艦名を「和泉」とした。日本海軍に移籍後、主砲を15センチ速射砲に、その他を12センチ速射砲に換装するなどして、日露戦には、第三艦隊の序列に加わった。

本艦がアームストロング社エルジック造船所で建造されたところから、以降、同様の設計で建造された防護巡洋艦は、造船所の場所に関わらずエルジック・クルーザーと呼ばれた。日本海軍の防護巡洋艦は、フランスで生まれた松島型・千代田を除いて、すべてこの形式である。

黄海海戦における第一遊撃隊の各艦は、全てこのエルジック・クルーザーの系譜に属している。

 

浪速級防護巡洋艦 -Naniwa class :protected cruiser-(浪速:1886-1912 /高千穂:1886-1914)

f:id:fw688i:20180917161422j:image

浪速型防護巡洋艦 - Wikipedia

日本海軍は明治16年度の艦艇拡張計画で3隻の防護巡洋艦の建造を決定した。

そのうち、イギリスに発注された2隻が、浪速級防護巡洋艦であり、「浪速」「高千穂」と命名された。

設計にあたっては、当時、世界の注目を浴びた優秀艦「エスメラルダ」(前述)をタイプシップとして、防御甲板の増強による防御力の向上、主砲口径の拡大など、若干の改良が盛り込まれた。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する、日本海軍最初の艦である。

上記の改良により船体は大型化し3,700トンとなり、26センチ主砲2門、15センチ砲6門を主要兵装として備え、速力は18ノットを発揮することが出来た。(77mm in 1:1250)

日清開戦時の「浪速」の艦長が東郷平八郎であり、彼と「浪速」は、開戦劈頭の「高陞号事件」で名を挙げた。

日清戦争後、兵装を15.2センチ速射砲に換装し、日露戦争に望んだ。日露戦争では第二艦隊に所属、主力の装甲巡洋艦を補佐した。

 

ちなみに、明治16年の拡張計画の残りの1隻は、フランスに発注され、「畝傍」と命名された。前回「千代田」の項でも触れたが、「畝傍」は日本への回航途上で消息を絶ち、日本にたどり着くことはなかった。

 

秋津洲 Akitsushima :protected cruiser- (1894-1927)

f:id:fw688i:20180917142146j:image

秋津洲 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 「秋津洲」は、巡洋艦のような大型艦としては、設計から建造まで初めて日本国内で行われた、記念すべき軍艦である。

3,150トン、19ノットの快速を発揮し、15.2センチ速射砲4門と12センチ速射砲6門を装備した。いわゆるエルジック・クルーザーの系譜に属する。設計当初から巨砲を主砲とせず、当初から速射砲を装備した。他の防護巡洋艦の多くが、就役時に装備した主砲を、その後速射砲に換装していること考えると、まさに慧眼である。本艦以降、日本海軍の防護巡洋艦は、速射砲中心でその兵装を整えて行く。(80mm in 1:1250)

前回に触れたが、「秋津洲」の艦名自体は、エミール・ベルタン設計になる32センチの巨砲搭載艦、松島級巡洋艦の四番艦に予定されていた。しかしながら、松島級の設計の無理に気づいた海軍によって、松島級は三番艦までで打ち切られ、全く新しい設計の防護巡洋艦である本艦に、改めて与えられた。「秋津洲」とは、本来、日本列島の本州の古い呼称であり、「四景艦」に加えられるよりも、初の国産防護巡洋艦の名として、よりふさわしい、と考えるがいかがだろうか。

 

吉野 -Yoshino :protected cruiser - (1893-1905:吉野級防護巡洋艦 同型艦:髙砂/1898-1904)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/吉野型防護巡洋艦

明治24年度計画で、イギリス・アームストロング社に発注された。建造は同社エルジック造船所で行われ、まさに本家のエルジック・クルーザーである。

その特徴は何をおいても23ノットという高速にあり、就役当時は世界最速巡洋艦、と言われた。4,200トンの船体に、「秋津洲」同様に兵装は全て速射砲で揃えた(15.2センチ速射砲4門・12センチ速射砲8門)。 (91mm in 1:1250)

黄海海戦にあたっては、第一遊撃隊の旗艦として、坪井少将が座乗した。

同型艦高砂日清戦争後に発注され、主砲口径を20.3センチにするなど、いくつかの改良点が見られる。

その後、「吉野」は日露戦争には、第3戦隊の一隻として参加したが、「魔の1904年5月15日」、封鎖中の旅順沖を哨戒中に濃霧に遭遇、同行の装甲巡洋艦「春日」と衝突して沈没した。同日、機雷で戦艦「初瀬」「八島」を喪失し、日本海軍にとって災厄の1日となった。

同型艦高砂も、同年12月13日にやはり旅順閉鎖作戦中に触雷して失われた。

 

別働隊のこと、あるいは砲艦「赤城」-Akagi :gunboat-

黄海海戦については、前述の連合艦隊の主隊、遊撃隊以外に別働隊があった。

後世からは信じがたいことながら、海軍の全作戦を総覧すべき軍令部長樺山資紀中将が「督戦」と称して、日本郵船所有の「西京丸」(2,900トン 14 ノット)に、速射砲等数門を搭載し、急造の仮装巡洋艦としてこれに自ら乗り込み、戦場に臨んだ。軍令部長を裸で出すわけにもいかず、砲艦「赤城」を護衛としてつけ、小艦隊を編成した。

明治のこの時期、時代はこのような空気の中にある。

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赤城 (砲艦) - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/西京丸

砲艦「赤城」は摩耶級砲艦の4番艦である。造船技術の国内における成長期に当たったため、4隻は同型艦ながら、鉄製、鉄骨木皮、鋼製と、構造は異なっている。「赤城」は鋼製の船体で、660トン、12センチ砲4門搭載し10ノットを発揮する。(1890-1953)

 

この小艦隊は、軍令部長の「戦況視察」と言いながら、戦場の外にはとどまりきれず、一時は敵前孤立状態となった。開戦後の調査で「西京丸」は被弾12発を数え、護衛の「赤城」では戦闘中に、艦長、航海長戦死、というほどの損害を受けた。

 

上掲の写真に写っている「赤城」は別のレジンキットをベースにしたセミクラッチである。(35mm in 1:1250)

汽船の方は「西京丸」ではない。資料の「西京丸」の写真を見る限り似てもいない。今のところ「西京丸」の1:1250スケールのモデルは見当たらず、手持ちに似ている船も見当たらない。現在、1:1500スケールでの3Dモデルを供給しているカリフォルニアのメーカーに、1:1250へのスケールアップ(ダウン?)をリクエスト中であるが、「もうすぐやるから」という、軽いが快い返事をいただいている。

今回は、仕方なく「全長がほぼ同じであること、と、なんとなく、明治期の汽船の雰囲気がありそう」な船を代役として起用した。(残念ながら、Chios という船名のドイツ船、あるいはギリシア船籍の貨物船、という以上の情報が見当たらない。が、何と言っても姿がいいので、ご容赦願いたい)(80mm in 1:1250)

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おまけ:幻の防護巡洋艦「畝傍」-Unebi :protected cruiser-

もう一つ、代役つながりで、明治16年度計画の幻の防護巡洋艦「畝傍」について。

「畝傍」は、前述の様に「浪速」と同時期にフランスに発注された。「浪速」同様、最新式の防護巡洋艦、であるはずなのだが、その外観は、やや古めかしい三檣バーク形式の汽帆併用船である様に見える。

畝傍 (防護巡洋艦) - Wikipedia

3,600トンの船体に、舷側4箇所の張り出し砲座に設置された24センチ砲、15センチ砲7門などを搭載し、18.5 ノットの速力を発揮する艦として、設計されている。ほぼ「浪速」に同等なスペックを持っている。

「畝傍」については、1:1250スケールでモデルが出ているが、残念ながら筆者は入手に至っていない。

http://www.klueser.eu/kit.php?index=3740&language=en

そこで、今回はロシア巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」(1882-1932)に代役を務めていただく。もちろん「畝傍」とは、煙突の数等、いくつかの相違点があるが、艦型等、雰囲気が伝われば幸いである。

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パーミャチ・メルクーリヤ (巡洋艦) - Wikipedia

(80mm in 1:1250)

 

さて、次回からは、いよいよ六六艦隊について話を進めて行こう。

 

***模型についての質問、はお気軽のどうぞ。

合わせて上記のChiosについての情報をお持ちの方は、是非、ご教示いただきたい。

 


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第3回 連合艦隊結成と黄海海戦(その1)

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明治維新は、そもそもアヘン戦争に敗れた清国が列強の蚕食を受けることを間近にした危機感から始まったと言っていい。

当時の清国は確かに国家としての晩年期を迎えていた。体制は弾力を失い、民心を繫ぎ止めるには宮廷も官僚も、その腐敗が過ぎた。列強はこの支配階級の肥大した我欲に付け入り、「眠れる獅子」などと煽て、あるいは半ば本当に恐れながら、眠りを覚まさぬよう注意深く利益を貪り続けた。

維新により、ともかくも自存を保ち得たと自負する日本は、同様の危機感を持って隣の朝鮮をみた。朝鮮は大陸から日本に向けて南に垂れ下がった半島国家であり、その地続きの大陸は今や列強の草刈り場となろうとしている。そのまま列強の南下が進み、この半島に列強のいずれかが拠点を持てば、即、日本の自存が脅かされる。その、ひりつくような危機感に煽られ、日本は朝鮮に、半ば強引に派兵することによって、保護の手をさしのべた。

その、手前勝手で一方的な「好意」を、永く清国を宗主国と仰ぐ朝鮮王国は、当然のことながら好意としては受け取らず、清国に泣きついた。あるいは、儒教国家として成熟した朝鮮には、同じ文化圏にありながら、その東洋的には洗練された習俗を全てをかなぐりすてる様にしてまで、いち早く欧化を遂げた日本に対して、当然その危機感を理解できず、一種の侮蔑感もあったであろう。

この要請に清国は応え、こうして日清両国は、戦端を開くに至った。

 

日清開戦を迎え、日本海軍はそれまでの「常備艦隊」と「警備艦隊」の建制を改め、水上兵力を一元の指揮の下におく「連合艦隊」を編成した。初代連合艦隊司令長官には、常備艦隊司令長官の伊東祐亨中将が就任した。

 

黄海海戦時の連合艦隊

日清両海軍の決戦場となった黄海海戦にあたり、前回に少し触れたが、当時アジア最大、最強を誇る「定遠」「鎮遠」の二大堅艦を中央に横陣をはった清国北洋艦隊に対し、日本海軍は「主隊」「遊撃隊」の二つに艦隊を単縦陣にわけて臨んだ。

「主隊」は、連合艦隊司令長官伊東祐亨中将が直卒し、旗艦松島以下、千代田、厳島、橋立、比叡、扶桑の六隻で編成された。

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このうち比叡と扶桑については、前稿で触れた通り明治海軍初期の主力艦であり、この海戦の時点では既に旧式艦であった。

 

千代田 -Chiyoda :protected cruiser-  (1891-1927)

残りの四隻のうち、「千代田」は、フランスに発注されながら、日本への回航途上で消息を絶った巡洋艦「畝傍」の保険金により調達されたといういわく付きの巡洋艦である。イギリスで建造され、舷側水線部に貼られた装甲帯を持つところから「日本海軍初の装甲巡洋艦」ともいわれることもあるが、2,500トン、主砲は持たず12センチ速射砲を舷側に10門装備した、正確には装甲帯巡洋艦、一般的には防護巡洋艦に分類されるであろう。(75mm in 1:1250)

19ノットの当時としては快速でありながら、重厚な連合艦隊主隊に組み込まれたため(おそらく、その装甲帯のため?)、その快速を発揮する機会は、黄海海戦においてはなかった。

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千代田 (防護巡洋艦) - Wikipedia

 

三景艦:松島級防護巡洋艦 -Matsushima class :protected cruiser- 

(厳島:1891-1925/ 松島:1892-1908/ 橋立:1894-1925 

艦名が日本三景(松島、厳島、橋立)に寄るところから「三景艦」として名高い三艦である。

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フランスの造船家エミール・ベルタンの設計であることはつとに知られている。

清国の当時アジア最強を謳われた定遠級戦艦(砲塔装甲艦)「定遠」、「鎮遠」に対抗する艦として設計された。

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松島型防護巡洋艦 - Wikipedia

 

これらの艦の最大の特徴は、4,000トン強の小さな船体に巨大な38口径32センチ砲を主砲として一門搭載していることで、主砲自体の性能は、射程、口径、弾丸重量ともに、「定遠級」の主砲(20口径30センチ砲)を凌駕することができた。「厳島」と「橋立」はこの主砲を前向きの露砲塔に搭載し、「松島」は後ろ向きに搭載している。「アジア最強の戦艦を上回る強力艦を手に入れた」と国民の少年のような高ぶりが伝わってくるような気がして、ある種微笑ましい。

早速、連合艦隊も「松島」をその旗艦に据えた。(75mm in 1:1250)

 

防護巡洋艦である、と言うこと。あるいはその主砲

三景艦はいずれも舷側装甲を持たない、いわゆる防護巡洋艦である。

防護巡洋艦は、艦内に貼られた防護甲板により、艦の生命線である機関を防御する構造を持ち、舷側装甲を持たないが故に軽快で、限られた出力の機関から高速を得ることができる。また、日本海軍をおそらくほぼ唯一の例外として(日本海軍は、全ての艦種において、常に艦隊決戦をその主任務として意識した)、世界の列強海軍においては、巡洋艦に想定される最も重要な任務は通商破壊、あるいはその防止であり、長い航続距離、商船に対する優速性等を備えていることが期待された。そうした任務に向けては、防護巡洋艦は最適な艦種であったと言え、世界の海軍でこの時期、もてはやされた。

一方、松島級は、舷側装甲こそ持たないが、清国主力艦との決戦を想定し艦型の大きさに対し不相応と言っていい巨砲を搭載する、という宿命を背負って生まれた。そのため速力は16ノットに甘んじた。

それぞれ艦首尾方向に向けて搭載された32センチ主砲は、いずれも左右140度の旋回が可能である。主砲以外には舷側に12センチ速射砲を11-12(松島)門装備している。

この時代、中央で制御された砲撃術は未成立で、砲側照準の独立撃ち方が基本であり、したがって有効射程距離は2000−3000mであった。しかも前稿でも示したように巨砲の発射速度は1時間に2−3発で、従って余程のことがない限り当たらない。松島級の主砲では、発射速度は5分に1発程度と改善されているが、砲撃術が未成立である以上、長距離での命中は期待できないことに変わりはない。

例えば、これも前稿に記載したことの繰り返しになるが、清国主力艦の定遠級の設計思想は、基本全主砲を艦首方向に向け、敵艦に向けて突進し、艦首の衝角での打突と併せてほぼゼロ距離で発射し敵艦の腹部をえぐる、という巨砲によるアウトレンジを意識しない、ある種ボクシングのような戦法であった。

松島級が搭載した32センチ砲は、砲の性能上の射程距離が8,500メートルといわれているが、その距離での命中は、上記の射撃法の未発達の状況では偶然以外にはあり得なかった。松島級の本領は、本来の防護巡洋艦らしく優速を生かした機動性と、舷側の速射砲による敵艦上部構造物と乗組員の破壊にあったと言え、実際にそのように戦い、勝利した。

いま少し、主砲の話を続ける。

上記の通り、防護巡洋艦本来の戦い方として舷側速射砲を有効に機能させるには、同航戦か反航戦、あるいはT字戦を行わねばならない。いずれにせよ舷側を敵に向けねばならならない。その際に、主砲もまた射撃を行うとすれば砲身を舷側方向に向けねばならないが、実は松島級は、予算及び当時の日本の港湾施設の大型艦運用能力の不足からベルタンの提唱よりもさらに小型艦にせざるを得ず、側方射撃の場合、そのこともあり設計時では想定されなかった、主砲の重量と射撃時の反動により、設計以上に艦の傾斜、進行方向、速度等に影響が出るなどの不都合が生じたとされている。

黄海海戦での約5時間の戦闘中、主砲発射数は三艦合計してわずか13発にすぎなかった。

 

筆者は、常々疑問に思っている。「厳島」「橋立」の前向きの主砲は、会敵時のアウトレンジでの発射など、命中は期待せねまでも、敵を牽制し行動を乱させるなど、一定の利用法があると考える。が、「松島」の後ろ向きの主砲はどうだろう、と。反航戦でのすれ違い後の追い撃ち、あるいは強力な敵からの「離脱時」だろうか?その「松島」を旗艦とし、主隊単縦陣の先頭に据えた日本海軍の戦い方とは、どのようなものであったのだろうか、と。

 

四景艦

実は松島級は、ベルタンの構想では4隻で1セットだったという。本来は「四景艦」だった。「松島」と同一設計の主砲を後ろ向きに搭載した艦がもう一隻計画されており、艦名は「秋津洲」が予定されてた、という。

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この計画は、主砲運用の課題に気づいた海軍により、三隻で打ち切りになり、これを告げられた際に、国内での3番艦、4番艦の建造に立ち会うために来日していたベルタンが、激怒して帰国してしまう、というおまけがついた。

四景艦として置いてみる。艦首向き主砲艦、艦尾向き主砲艦の組み合わせで、1セットだと言われている。やはり艦尾向きの主砲はどの様に用いるのだろうか。

 

 

それにしても、「三景艦」とは、なんと雅な命名であろうか。

その実効性はさておき、その「主砲」にこめられた無邪気とも言うべき国民の誇り、憧れ、期待もあわせて、その名と共にシルエットは美しい。

そして、この「一点豪華」に対する憧れは、日本の主力艦の系譜に脈々と受け継がれて行くように思われる。

 

次回は、黄海海戦の「遊撃隊」とその他。

 


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